第百二十八話 四年前の客
## 第百二十八話 四年前の客
「俺は、残ったあいつをまた外へ出した」
久世が言い終えても、回線は切れなかった。
旧川端公民館で撮影された四枚の写真が、端末に並んでいる。
ラッチに巻かれた針金。
使われなかった退路。
片側だけ開いた二本線。
二枚目の窓だけを見ていた膝跡。
『全部、話してください』
真柴直樹の声がした。
映像はない。
久世に見えるのは、接続名と音声波形だけだった。
久世は椅子を引いた。
今度は座った。
「長くなる」
『聞きます』
「本人かどうかは、まだ確認できていない」
『分かっています』
「途中で、推測と事実を分ける」
『お願いします』
久世は四枚の写真を閉じた。
黒くなった画面に、自分の顔が薄く映った。
あの日も、雨が降っていた。
*
富士川の臨時運用所には、正面玄関がなかった。
物流会社が使っていた集積所を転用していた。
色の抜けた社名板の下に、灰色の鉄扉が一枚ある。
受付は、荷受け用の作業台を横向きに置いただけだった。
男が来たのは、白い光が上がった三日後だった。
午前六時四十分。
夜勤と日勤の交代前だった。
迷彩服は乾いていた。
戦闘靴だけが濡れている。
靴底の泥は新しかった。
車両を降りてから、ぬかるんだ場所を通ったらしい。
「氏名」
受付の隊員が聞いた。
男は答えた。
久世はその名前を知っていた。
直樹の班に近かった隊員。
直樹より三歳下。
射線より先に、相手の足を見る男だった。
記録上の階級も所属も残っている。
「用件は」
「死亡確認」
「誰の」
「真柴直樹」
受付の隊員が手を止めた。
視線だけが、奥にいた久世へ向いた。
久世は席を立った。
「俺が聞く」
男は敬礼しなかった。
反抗しているようには見えなかった。
どこへ向けて敬礼すればよいのか、決められない立ち方だった。
「中へ入れ」
「ここでいいです」
「記録がある」
「質問は四つです」
「中で聞く」
「ここでいい」
久世は受付の隊員へ顎を引いた。
「交代まで外してくれ」
隊員が奥へ消えた。
荷受け台の前に、二人だけが残った。
濡れた靴から落ちた泥が、床に二つ並んでいる。
「質問は」
「遺体はありますか」
「ない」
男の表情は変わらなかった。
「識別票は戻りましたか」
「戻っていない」
「誰が死亡推定を出しましたか」
「複数の報告を合わせた暫定判断だ」
「誰ですか」
久世は担当部署を答えた。
男は胸ポケットから小さな紙を取り出した。
部署名だけを書いた。
「帰還予定は、どこまで確定していましたか」
「現地を離れたという連絡まではある」
「輸送機には」
「乗っていない」
「合流地点には」
「来ていない」
「通信は」
「途中で途絶した」
「最後に確認された場所は」
久世は男を見た。
「質問は四つだったはずだ」
「増えました」
「座れ」
「必要ありません」
男は立ったまま、紙へ線を引いた。
遺体。
なし。
識別票。
なし。
死亡推定。
暫定。
帰還。
未確認。
四つの項目を、一本の四角で囲んだ。
「死亡は確認されていません」
「死亡推定だ」
「同じではありません」
「記録上、判断が必要だった」
「誰に必要だったんですか」
「部隊に」
「本人がいないからですか」
「そうだ」
「待っている人間がいるからではなく」
久世は答えなかった。
男は紙を二つに折った。
「確認したかっただけです」
鉄扉へ向かう。
「待て」
男が止まった。
「お前の所属は残っている」
「はい」
「再編先も決まっている」
「聞いています」
「なら、戻れ」
男は振り返らなかった。
「任務へ戻れ」
「任務」
「お前には役割がある」
そこで初めて、男が久世を見た。
怒っているようには見えなかった。
疲労も表へ出ていない。
何も置かれていない目だった。
「どの役割ですか」
「現在の技能を維持しろ」
「誰の代わりですか」
「代わりではない」
「近接戦闘の教導」
男は一つ挙げた。
「室内侵入」
もう一つ。
「退路設計」
「必要な技能だ」
「俺の技能ですか」
「お前が身につけた」
「誰から」
久世は答えられなかった。
男は胸ポケットへ紙を戻した。
「成功した時は、真柴の教え方がよかったと言われました」
平らな声だった。
「失敗した時は、真柴ならできたと言われました」
「比較される人間はいる」
「俺がやったことを、俺の名前で評価されたことがない」
「記録にはある」
「記録の話じゃありません」
久世は記憶を探した。
訓練報告。
射撃記録。
警備計画。
教育評価。
男の名前は、どの用紙にも書かれていた。
だが、会話の中では違った。
真柴の後輩。
真柴が教えた方。
真柴なら任せた役目。
真柴の代わりに入れる人間。
久世は男の名を知っていた。
その男が何をした人間なのかを、男自身の名前で語った記憶はなかった。
「帰れ」
久世は言った。
「所属は残っている」
「どこへ」
「部隊へ」
「そこに俺はいますか」
「名簿にある」
「名前の話ではありません」
「では、何の話だ」
男の喉が一度動いた。
それまで一定だった呼吸が崩れた。
「あの人は俺を置いていった」
久世は口を挟まなかった。
「兄貴みたいな顔で教えた」
男の右手が、腿の横で握られた。
「一人でも帰れるようにしろって言った」
爪が掌へ沈んでいる。
「だから覚えた」
室内へ入る方法。
敵を止める方法。
出口を作る方法。
読む者へ、違う道を読ませる方法。
最後尾にいる人間を、外へ出す方法。
「でも、あの人がいなくなったら」
男は言葉を切った。
一度、息を飲み込む。
「どこへ帰ればいいか、誰も教えなかった」
久世の背後で通信機が鳴った。
一度。
二度。
三度目で切れた。
誰も取らなかった。
「真柴は、お前を捨てたわけではない」
「分かっています」
返事が早かった。
「では」
「分かっていても、残りました」
男が鉄扉へ向かった。
「待て」
「質問は終わりました」
「今のお前を一人にはできない」
「もう一人です」
「所属へ戻れ」
「それしかないんですか」
久世は、ほかの答えを持っていなかった。
「今は、それしかない」
男は数秒、動かなかった。
雨が鉄扉を叩いていた。
久世は、その沈黙を了承だと受け取った。
「宿舎を用意する」
「必要ありません」
「今日は休め」
「命令ですか」
「そうだ」
「了解」
その言葉を聞いて、久世は息を吐いた。
命令が通じた。
役割を渡した。
所属へ戻せる。
まだ切れていないと思った。
男は臨時宿舎の鍵を受け取った。
水と保存食も持っていった。
翌朝。
鍵は、受付脇の返却箱に入っていた。
臨時宿舎の水は開けられていない。
保存食も残っている。
寝具には、身体を横たえた跡がなかった。
窓の留め具に、細い金属片が挟まれていた。
外から見れば閉じている。
軽く押せば開く。
追跡班を出すか。
当直士官が聞いた。
久世は命令書を開いた。
対象者氏名。
所属。
離脱時刻。
理由。
拘束要否。
五つの欄が並んでいた。
氏名は書けた。
所属も書けた。
理由は書けなかった。
脱走として処理すれば、男は拘束対象になる。
連れ戻せば、再編部隊は男を使う。
近接戦闘。
追跡。
侵入。
退路設計。
名前ではなく、真柴が残した機能として。
久世は命令書を閉じた。
「追跡は出さない」
当直士官が聞き返した。
「よろしいんですか」
「所在確認だけでいい」
「見つけた場合は」
「接触するな」
「理由は」
久世は返却箱に入っていた鍵を見た。
「一人にした方がいい」
その朝を境に、富士川の監視網は男の足を見失った。
*
「それから四年だ」
久世は現在の端末を見た。
旧川端公民館の写真を、もう一度開く。
閉じ切らない扉。
救出班へ残された退路。
戻る側だけを空けた印。
最後尾を見ていた膝跡。
『所在確認は』
直樹が聞いた。
「半年で切れた」
『そのあとは』
「無所属の噂だけだ」
『民間人は襲わない』
「報告ではな」
『人は逃がす』
「自分は一緒に行かない」
直樹が黙った。
「本人ならな」
『はい』
「まだ決めるな」
『分かっています』
久世は四年前の命令書を思い出した。
書かなかった理由欄。
出さなかった追跡命令。
男のために空けたつもりの道は、帰る道ではなかった。
「俺は、あいつを自由にしたんじゃない」
『はい』
「見ないことにした」
『はい』
「戻せば使われると思った」
『間違っていません』
「正しかったとも言うな」
『言いません』
回線の向こうで、病室の扉が開く音がした。
誰かが直樹へ短く声をかけた。
直樹が返事をする。
扉が閉まる音を待ってから、再び話した。
『久世一尉』
「何だ」
『富士川へ行きます』
「まだ本人と決まっていない」
『確認します』
「右手の評価も終わっていない」
『終わってから行きます』
「一人では出さない」
『分かっています』
「命令で止めることもある」
『その時は、理由を聞きます』
以前の直樹なら、止められる前に動いていた。
必要だと判断すれば、説明は後へ回した。
今は回線を切らない。
返事を待っている。
「宮崎さんには」
久世が聞いた。
『話します』
直樹は即答した。
「止められたら」
短い沈黙があった。
『話を聞きます』
「それでも必要だと判断したら」
『黙ってはいなくなりません』
久世は椅子の背へ体重を預けた。
四年前、男へ帰る場所を聞かなかった。
代わりに、任務を渡した。
同じことはできなかった。
「明日、医療評価を出す」
『はい』
「移動の判断は、そのあとだ」
『分かりました』
「真柴」
『はい』
「今度は、あいつの役割を確認しに行くんじゃない」
直樹は何も挟まなかった。
「本人が、どこへ帰ろうとしているのか聞け」
回線の向こうで、一度だけ深い呼吸が聞こえた。
『話を聞きます』
久世は写真を閉じなかった。
四年前に消えた男が残した出口は、今も完全には閉じていなかった。




