第百二十七話 残された方
## 第百二十七話 残された方
写真は、午後四時十二分に富士川へ届いた。
昼過ぎに止んだ雨が、基地の窓をまだ細く濡らしていた。
久世真央は、運用端末に表示された一枚目を開いた。
旧川端公民館の裏口だった。
錆びた鉄扉。
黒ずんだ取っ手。
閉じたラッチの隙間に、細い針金が巻かれている。
「撮影者は」
『俺』
大庭航平の声が、骨伝導回線から返った。
『十二分前。触ってない。近づいたのも俺だけ』
「周囲は」
『救出班は撤収済み。外周に二人残してる。現状保存を優先した』
「雨のあとに入った人間は」
『確認できた範囲じゃ、俺だけ』
久世は二枚目を開いた。
裏口から河川側へ、草が一人分だけ倒れている。
通った跡ではなかった。
人が抜けられる幅に、草だけが押し開かれている。
その先には、車両が一台入れる空き地があった。
「退路か」
『救出班用のな』
「使用痕は」
『ない』
「救出班も使っていないのか」
『表から入って、表から出た』
大庭の外套が、風を受けて鳴った。
『作った奴も使ってない』
久世は写真を拡大した。
草の先に足跡はない。
雨で消えたのではなかった。
倒れた葉の上に、泥が落ちていない。
誰かが通るために作った道を、誰も通っていなかった。
「次を」
三枚目が表示された。
泥の上に、二本の浅い線がある。
片側だけが開いていた。
「共通信号か」
『違う』
「意味は」
『俺より、本人に聞いた方が早い』
画面の端に、接続表示が一つ増えた。
久留米側医療施設。
真柴直樹。
映像はない。
音声だけだった。
「真柴」
『聞いています』
機器音が一定の間隔で回線に入っていた。
久世は三枚目を共有した。
「見えるか」
『見えます』
「この印を知っているか」
返答までに、短い間があった。
『知っています』
「正式なものか」
『違います』
「何の印だ」
『退路です』
「片側が開いている意味は」
『戻る人間の側を空けておく』
「誰が戻る」
『救出された人です』
「作った本人は」
また、間があった。
『含まれていません』
大庭が息を吐いた。
『そこなんだよ』
四枚目が届いた。
公民館から少し離れた斜面だった。
雨を吸った土に、片膝をついた跡が残っている。
正面には二階の窓が三つ並んでいた。
中央の窓だけ、内側の埃が薄い。
「観測位置」
『一人分』
「何が見える」
『二枚目の窓だけ』
「救出班は」
『撃とうと思えば撃てた』
大庭の声から、軽さが消えた。
『担架を持った奴も、最後に扉を押さえた奴も見えてた』
「発砲は」
『なし』
「何を見ていた」
『中から出てきた人間』
久世は中央の窓を拡大した。
地下から救出された元空挺隊員が、一度だけ顔を上げた場所だった。
『人数を数えてたんだと思う』
大庭が言った。
『最後尾が残ってないか、見てた』
回線が静かになった。
久世は一枚目へ戻した。
ラッチに巻かれた針金。
外から見れば施錠されている。
中から押せば開く。
誰かが、救出班のために残した出口だった。
「真柴」
『はい』
「お前が教えたのか」
『似た方法は』
「誰に」
『複数です』
「この印もか」
『はい』
「窓を一つに絞る見方も」
『はい』
「自分で使わない退路も」
返事はすぐには来なかった。
『教えました』
大庭が低く言った。
『マッシー本人じゃない』
写真の向こうで、雨水が軒先から一滴落ちた。
『でも、マッシーの教室を通った奴だ』
久世は四枚の写真を並べた。
扉。
退路。
片側の開いた印。
二枚目の窓を見ていた膝跡。
「心当たりは」
『あります』
「一人か」
『はい』
「誰だ」
直樹は名前を言わなかった。
回線の向こうで、病室の機器音が一度鳴った。
『確認できていません』
「分かっている」
『なら、まだ名前は出せません』
久世は端末から手を離した。
名前を先に置けば、すべての痕跡がその男のものに見える。
違う人間の足まで、一人へ集めることになる。
「年齢は」
『俺の三つ下です』
大庭が黙った。
その差だけで、久世にも十分だった。
「四年前」
直樹の返事はなかった。
「そいつが、富士川へ来た」
『いつです』
「白い光のあとだ」
『何をしに』
「お前の死亡確認だ」
機器音だけが続いた。
「遺体があるのか」
「識別できる物が戻っているのか」
「誰が死亡推定を出したのか」
久世はそこまで言い、口を閉じた。
詳しいことは、今ここで話すべきではなかった。
大庭が尋ねる。
『本人だったのか』
「間違いない」
『それで、何て言った』
久世は答えなかった。
端末の端に、四年前の日付が浮かんだ気がした。
記録を開いたわけではない。
あの日の言葉は、正式な記録には残していなかった。
「久世一尉」
直樹が呼んだ。
『最後に何を言いましたか』
「今、聞くのか」
『はい』
「聞いたあと、何をする」
『分かりません』
以前の直樹なら、先に行動を決めていた。
移動手段。
必要装備。
現地到着時刻。
自分が何を止めるか。
何を持ち帰るか。
今は、分からないと言った。
『まず、話を聞きます』
「誰の」
『残された人間の』
久世は椅子の背に触れた。
座らなかった。
「そいつは言った」
大庭の回線から、風の音が消えた。
「『あの人は俺を置いていった』」
直樹は返事をしなかった。
久世は待った。
謝罪も弁明もなかった。
事故だったとは言わない。
記憶を失っていたとも言わない。
帰れなかった理由を並べない。
やがて、直樹が言った。
『違いません』
大庭がすぐに返した。
『違うだろ』
声が硬かった。
『お前は帰らなかったんじゃない。帰れなかった』
『はい』
『記憶もなかった』
『はい』
『だったら、置いていったのとは違う』
回線の向こうで、直樹が一度息を吸った。
『残された側には、同じです』
「同じにするな」
久世は言った。
直樹が黙った。
「お前が帰れなかったことと、あいつが残されたことは、別の事実だ」
『結果は同じです』
「結果だけで全部を引き取るな」
久世は窓の外を見た。
雲の切れ間から、濁った夕方の光が富士川へ落ちている。
四年前も、空は白かった。
目の前の男に役割を渡せば、元の場所へ戻れると思った。
所属が残っている。
仕事がある。
必要とされている。
それで人は帰れると思った。
帰る場所を失った人間へ、帰る道ではなく、次の仕事を渡した。
『久世一尉』
「何だ」
『あなたは、何をしたんですか』
久世は画面を見た。
扉は閉じている。
だが、針金が一本だけ、完全に閉じることを妨げていた。
残した人間は、その出口を使っていない。
「真柴」
『はい』
「お前が置いた」
病室の機器音が、一度鳴った。
「俺は、残ったあいつをまた外へ出した」




