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第126話 中身が非常口

##第126話 中身が非常口


午前十時十二分。


直樹は右手の検査へ呼ばれていた。


病室には、めぐみと末安えりだけが残っている。


えりは窓際の椅子に座り、銀紙からミントガムを出した。


口へ入れる。


二度噛んでから、めぐみを見た。


「で、どうだった?」


めぐみは記録板を膝へ置いていた。


ペンを取る。


> 終わってない。


「それは聞いた」


えりは片足を組んだ。


「男として、どうだったの」


めぐみのペンが止まった。


えりは待つ。


記録板に、一行だけ書かれた。


> 面倒だった。


「知ってる」


> すごく面倒だった。


「それも知ってる」


めぐみが、えりを見る。


えりはガムを奥歯へ送った。


「私が聞いてるのは、四年間待って、やっと二人きりで話した男が、ちゃんと真柴直樹だったかってこと」


めぐみは記録板を一度消した。


新しく書く。


> なおだった。


えりは少しだけ頷いた。


「それならいい」


めぐみのペンが続けて動く。


> 愛してるって言った。


えりの眉が上がった。


「真柴さんが?」


めぐみが頷く。


「自分から?」


もう一度、頷く。


「具合悪かったんじゃない?」


めぐみの目が細くなった。


> 本気だった。


「顔は?」


めぐみは思い出すように視線を下げた。


> 死にそうだった。


えりは吹き出しかけた。


口を閉じる。


ガムを噛み直した。


「愛の告白で死にそうになる男、初めて見た」


> 私も。


「それで?」


めぐみはペンを持ったまま、少し考えた。


> 私が何もできなくなっても愛してるって。


その下へ書く。


> でも、自分が何もできなくなったら、私がそばにいる理由が分からないって。


えりの顔から笑いが消えた。


記録板の文字を読む。


「そこまで言ったんだ」


めぐみが頷く。


> 捨てられて当然だと思ってるって。


「自分だけね」


めぐみは、すぐに返事を書かなかった。


やがて、


> うん。


と書く。


えりは椅子の背へ身体を預けた。


「それで、めぐは何て答えたの」


めぐみのペン先が止まった。


えりが眉を寄せる。


「何」


> めぐって呼んだ。


「二人しかいないから」


> 久しぶり。


「嫌なら戻す」


めぐみは首を横に振った。


記録板へ書く。


> 嫌じゃない。


えりは何も言わなかった。


ガムを一度、強く噛んだ。


めぐみが続きを書く。


> ずっと捨てないとは約束できないって言った。


「うん」


> 今の私は、なおを選んでるって。


えりは、ゆっくり息を吐いた。


「それでいい」


めぐみが顔を上げる。


「絶対に捨てないなんて言ったら、あの男はそれを任務にする」


めぐみの眉が寄った。


「絶対に捨てられないように、働き続ける」


えりは記録板を指した。


「今選ぶ。明日も、明日のあなたが決める。それでいい」


めぐみは一行書く。


> 右手が開いた。


「見た。廊下で」


> うれしいって言った。


えりが少し驚いた。


「使える、じゃなくて?」


めぐみが頷く。


> うれしいって。


えりは窓の外を見た。


中庭を、検査着の患者が一人歩いている。


「それは、かなり重症ね」


めぐみの口元が少し上がった。


> よくなってるのに?


「真柴直樹としては重症」


えりもわずかに笑った。


扉が二度、短く叩かれた。


返事をする前に、外から声がした。


「末安さん、いる?」


えりの顔が戻る。


「何」


扉が少し開いた。


大庭航平が顔だけを入れる。


左腕には薄い書類袋を抱えていた。


「報告書」


「今、女子会」


大庭は病室の中を見た。


めぐみ。


えり。


空いている椅子。


「俺、女子側でいいぞ」


「一番遠い」


「差別だろ」


「区別」


大庭が扉をもう少し開こうとする。


えりは内側から押さえた。


めぐみを見る。


「入れていい?」


めぐみは大庭を見た。


少し考える。


それから、頷いた。


えりが扉から手を離す。


「許可が出た」


「じゃあ女子側で」


「調子に乗るな」


大庭は入室名簿へ名前を書いた。


時刻も記入する。


それから病室へ入り、空いている椅子へ座った。


書類袋を机へ置く。


「何の話?」


えりが即答する。


「真柴さんの悪口」


「それなら専門家を呼べよ」


大庭は自分の胸を指した。


「呼ばれた」


めぐみが記録板へ書く。


> 昔のなおを知ってる?


「知ってるも何も、毎日見てた」


> 女性関係は?


大庭は一度も迷わなかった。


「ない」


めぐみの肩がわずかに下がった。


大庭は続ける。


「俺が何度も作ろうとしたけど」


めぐみの肩が戻った。


えりが大庭を見る。


「作るって何」


「店へ連れていった」


病室が静かになった。


大庭は気にせず続ける。


「何回もアテンドしたぞ。あいつ、放っとくと走るか撃つか手紙を書くかしかしなかったからな」


めぐみのペンが、記録板へ強く当たった。


> どんな店。


「女がいる店」


えりが額を押さえる。


「説明になってない」


「最初は飲むだけの店。次は、もっと分かりやすい店」


> なおは?


「飲み物を注文した」


> それだけ?


「女の子に、何時まで勤務か聞いてた」


えりが目を閉じる。


「仕事の聞き取りを始めたの?」


「たぶんな」


大庭は笑った。


「あいつ、女の子が隣へ座ったら、まず出口を見た」


めぐみが記録板へ書く。


> 何回連れていったの。


「数えてない」


> 数えて。


「三回か四回」


えりが口を挟む。


「何でそんなに諦めが悪いの」


「一回目は店が悪い。二回目は女の相性が悪い。三回目で、マッシーが悪いと分かった」


> 四回目は?


「再確認」


えりが大庭を見た。


「最低」


「検証は必要だろ」


めぐみは、次の文字を書くまで少し時間がかかった。


> 触ったの。


「女の子に?」


頷く。


「触ってない」


めぐみの肩から力が抜ける。


大庭が付け加える。


「俺は触ったけど」


えりが机を指で叩いた。


「お前の報告はいらない」


「比較対象は必要だろ」


めぐみが記録板へ書く。


> 宮崎めぐみがいるって、知ってた?


大庭はめぐみを見た。


「知ってた」


ペンが止まる。


「名前も、手紙を待ってることも知ってた」


大庭は椅子の背へ身体を預けた。


「マッシーは彼女じゃないって、ずっと言い張ってたけどな」


> それでも連れていったの。


「待ってる女がいても、商売の女は別だろ」


大庭は本気で分からない顔をした。


「恋人は恋人。商売は商売。金を払って、相手も仕事として了承してる。一般の女を騙してるわけじゃない」


えりの目が冷たくなる。


「恋人の了承は」


「取らない」


「どうして」


「恋人の仕事じゃないから」


えりがガムを噛む音が大きくなった。


大庭は構わず続ける。


「俺なら彼女がいても抱く。商売の女は浮気に入らん」


めぐみが記録板へ大きく書いた。


> 私は嫌。


大庭は文字を読んだ。


「ならマッシーは行かない」


即答だった。


めぐみのペンが止まる。


「あいつは俺の理屈じゃなくて、宮崎さんが嫌がるかで決める」


えりが大庭を見た。


「そこだけは分かってるのね」


「俺は行くけどな」


めぐみの記録板に、


> 最低。


と書かれた。


えりが隣から指を差す。


「同意」


大庭は二人を見比べた。


「女子会に入れた途端、二対一かよ」


「自分で女子側って言った」


「撤回する」


めぐみには、まだ聞きたいことが残っていた。


> 店だけ?


大庭の口元が上がった。


えりが、その顔を見て嫌な予感を覚えた。


「少年工科学校を出て、別府にいた頃な」


めぐみの目が細くなる。


「二人とも成人してから。休暇先のホテルへ、一回送った」


えりが低い声で聞く。


「何を」


「デリヘル」


めぐみのペンが止まった。


瞬きもしない。


えりは椅子から少し身を起こした。


「本人の許可は」


「取ってない」


「相手の女性には」


「仕事として正規に依頼した。料金も払った。そこは問題ない」


「一番必要な人間の同意だけない」


「マッシー、疲れてたからな」


「疲れてる人間の部屋へ、知らない女性を送り込むな」


「眠れないって言ってたから、寝かせようと思った」


「意味が違う」


「俺の中では近い」


めぐみが記録板へ書く。


> なおは、部屋に入れたの。


大庭が頷く。


> 何をしたの。


「茶を出した」


えりが顔を上げる。


「茶?」


「ホテルの電気ポットで湯を沸かしてた」


> それから。


「女性に、無理に来させられてないか確認した」


えりが額を押さえた。


「事情聴取に変わってる」


「職業病だろ」


> それから。


「料金はもう払われてるから、帰っていいって言った」


> 触ってない?


「湯呑みにしか触ってない」


めぐみは記録板を胸へ引き寄せた。


大庭は当時を思い出して笑う。


「女の方が困ってたぞ。仕事だから何かしないとって言ったら、マッシーが『不要です。拘束時間分の料金は支払われています』って」


えりが言う。


「言いそう」


「最後にタクシー代まで渡してた」


> 大庭さんは?


「同じホテルの廊下の端で待ってた」


「なぜ」


「成果確認」


えりとめぐみが同時に大庭を見た。


大庭は肩をすくめた。


「二十分後に女性だけ出てきた」


「それで?」


「『いい人でしたけど、次から本人の許可を取ってください』って怒られた」


えりが言う。


「当然」


「俺は店にも謝った。追加料金も払った」


> 反省した?


「送り方はな」


> 送り込んだことは?


「してない」


めぐみが、さらに大きく書く。


> 最低。


「二回目だぞ」


えりが答える。


「足りないくらい」


大庭は背もたれへ身体を預けた。


「でも、マッシーも大概だろ。健康な男が、女を部屋に入れて茶だけ出して帰すんだぞ」


> なおらしい。


「一途っていうより故障だ」


> 一途。


「故障」


> 一途。


「融通が利かない」


めぐみは少し考えた。


新しい行へ書く。


> 顔は?


大庭は即答した。


「顔はいい」


えりが見る。


「そこは認めるんだ」


「客観的にな」


大庭は机の書類袋を指で叩いた。


「ただし、中身が非常口」


めぐみの眉が上がる。


「部屋へ入ったら出口を見る。飯屋でも出口を見る。女が横へ来ても出口を見る。寝る前に出口を増やす」


えりが言う。


「褒めてる?」


「欠陥の説明」


> 大庭さんは?


「俺は入口を見る」


「何の」


「女が入ってくる方」


えりが書類袋を取り上げた。


「もう黙って」


「報告に来たんだけど」


「最初からそうしろ」


大庭が手を伸ばす。


えりは渡さない。


書類袋の封を確認し、机の上へ置いた。


表には、


> 旧川端公民館周辺

> 外周痕跡確認


と印字されている。


めぐみが文字を見る。


大庭の笑いが少しだけ薄くなった。


「救出後の追加整理だ。現地で撮った写真を、靴底と時刻で分け直した」


えりが袋を開ける。


中には、簡易図面と写真が十一枚入っていた。


上空から撮った建物。


土に残った靴跡。


折れた金具。


閉じた裏口。


壁際に残った短い針金。


えりは一枚ずつ机へ並べた。


「救出班の痕跡とは分離できてる?」


「時刻と靴底は分けた。こっちは、俺たちが入る前」


大庭が写真を指す。


「敵の巡回路が一度だけずれてる」


「偶然は」


「ある」


「第三者は」


「いた可能性が高い」


大庭はまだ軽い口調を残していた。


「敵か、避難者か、単なる泥棒かは分からん」


めぐみが机の写真を見ている。


大庭がさっき言った言葉が、頭に残っていた。


中身が非常口。


写真の隅に、扉ではない場所を指すような形がある。


めぐみの指が、一枚の写真で止まった。


裏口の脇。


壁際の低い位置。


二本の短い擦れ跡が、片側だけ開いている。


非常口の印に似ていた。


めぐみが写真を持ち上げる。


裏面には、撮影地点が書かれている。


外周北東。


大庭が話を止めた。


めぐみは写真の端を指した。


「それ、貸して」


めぐみが写真を渡す。


大庭は受け取ると、窓の光へ向けた。


先ほどまで笑っていた目が変わった。


写真を九十度回す。


次に、机の図面を引き寄せる。


撮影地点と廊下の向きを重ねた。


えりが聞く。


「何」


大庭は答えなかった。


別の写真を取る。


閉じて見える裏口。


ラッチの根元へ巻かれた細い針金。


外側に残る浅い靴跡。


三枚を横に並べる。


大庭の指が順に動く。


扉。


壁際の印。


外周の足跡。


「この扉、救出班が押した時には鍵が掛かってなかった」


えりが写真を見る。


「開けておいた?」


「違う」


大庭は、ラッチの拡大写真を指した。


「閉じて見えるように戻してある」


細い針金が、金具の根元へ巻かれていた。


ラッチが最後まで入らない位置で止められている。


外から軽く押せば開く。


取っ手を確かめなければ、閉まった扉にしか見えない。


「壊したんじゃない」


大庭が言った。


「掛からないようにして、閉じて見せた」


えりが写真を一枚取る。


「救出班がした可能性は」


「救出班は、この扉の細工を知らなかった」


「敵側は」


「巡回記録では施錠済み扱いになってる」


大庭は壁際の印へ戻る。


「こっちは、出口の方向」


次に、外周の足跡。


「その出口を使わず、別方向へ消えてる」


えりが言う。


「救出班のために残した?」


「まだ分からない」


大庭は最後の写真を取った。


窓の外。


一枚目の窓からは見えず、二枚目の窓だけを観測できる位置に、片膝をついた跡が残っている。


病室の時計が、十時四十七分を示していた。


廊下では、配膳車の車輪が通り過ぎる。


大庭は写真をまとめなかった。


「これ、久世さんは見た?」


「まだ。今日、私が受領してから回す予定だった」


「真柴は」


「検査中」


大庭は写真から目を離さない。


えりが聞く。


「知ってる痕跡?」


「知ってる」


めぐみが記録板へ書く。


> なお?


大庭は首を横に振った。


返事が早かった。


「マッシー本人じゃない」


えりが眉を寄せる。


「なぜ分かるの」


大庭は、ラッチの写真を指した。


「マッシーなら、ここを開けたあと、もう一本太い退路を残す」


次に壁際の印。


「この印も、本人は使わない」


「では誰」


大庭は写真を見つめた。


「分からない」


声から、笑いが完全に消えていた。


「でも、この扉の残し方」


施錠されたように見える出口。


救出班が通る前にずらされた巡回路。


自分では使わなかった退路。


大庭は、窓の写真を机へ置いた。


「窓の見方も」


えりが言う。


「真柴さんに似ている?」


「似てるんじゃない」


大庭は首を振った。


「本人の動きを見て真似しただけなら、もっと形が同じになる」


めぐみが、大庭を見る。


大庭は低い声で言った。


「これは、マッシーが他人に教える時の残し方だ」


大庭は壁際の小さな印を、机の中央へ置いた。


片側だけが開いている。


開いた側は、出口の方向を向いていた。


「マッシー本人じゃない」


大庭は、もう一度言った。


「でも、マッシーの教室を通った奴だ」


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