第125話 手ぶらで帰る
## 第125話 手ぶらで帰る
午後二時五十七分。
旧面談室の前には、赤い入室停止札が掛かっていた。
直樹は扉の横に立っていた。
右手には、二つ折りにした紙を持っている。
親指と人差し指で折り目を挟み、中指を下へ添えていた。
痛みは三。
痺れも残っている。
それでも、紙は落ちなかった。
直樹は壁の時計を見た。
あと三分。
質問は一つに決めている。
それ以外は聞かない。
答えを誘導しない。
返答を急がせない。
呼吸が乱れた場合は中断する。
言葉に詰まった場合は――
そこまで考えて、直樹は止めた。
また手順を増やしている。
紙の右側には、同じ文字が残っていた。
> 不明。本人に確認する。
廊下の角から、末安えりが来た。
隣を、めぐみが歩いている。
記録板を胸へ抱え、水筒を左手に持っていた。
歩調は速くない。
直樹の姿を見ても、止まらなかった。
えりが直樹の前で足を止める。
「体調は確認済み。追加の発声訓練は禁止。声を使うかは本人が決める」
「承知しています」
「二時間取ってある。でも、二時間使えって意味じゃない」
「はい」
「終わらなくても終わる。終わっても、次が必要なら取る」
「分かっています」
えりは、めぐみを見た。
「入る?」
めぐみが頷いた。
次に直樹を見る。
「真柴さんは」
「入ります」
えりが腕時計を確認した。
秒針が十二を越える。
「十五時」
直樹は扉を開けた。
先にめぐみを通す。
めぐみは室内へ入る前に、直樹の右手を見た。
折り畳まれた紙。
その紙をつかむ指。
何も書かなかった。
そのまま室内へ入る。
直樹も続いた。
えりは廊下に残った。
「緊急時はボタン。呼ばれない限り、私は入らない」
扉が閉じた。
外側で、入室停止札が小さく揺れる音がした。
*
旧面談室には、椅子が二脚だけあった。
机はない。
端末もない。
壁の回線口には、赤い封印票が貼られている。
午後の光が、小さな窓から斜めに入っていた。
二脚の椅子は、浅い角度で並んでいる。
顔を上げれば相手が見える。
視線を外しても、扉が見える。
めぐみが窓に近い椅子へ座った。
記録板を膝へ置く。
水筒は足元に置いた。
直樹は、もう一脚の前で止まった。
座る前に、出口を見た。
扉まで三歩。
緊急呼出ボタンまで二歩。
窓は開かない。
逃げ道を確認していることに、自分で気づいた。
直樹は椅子へ座った。
紙を右膝の上に置く。
右手は紙の上へ残した。
めぐみがペンを取った。
> その紙?
「俺が書いた」
> 見ていい?
「見せるために持ってきた」
めぐみが手を伸ばしかけた。
直樹は、まだ紙を離さなかった。
「その前に、俺から話す」
めぐみの手が止まる。
直樹は紙から右手を離そうとした。
親指が開く。
人差し指が続く。
薬指が折り目へ残った。
一度だけ息を吐く。
握っている力を緩める。
薬指が離れた。
紙は膝の上に残った。
めぐみは急かさなかった。
直樹は、松隈先生の前で言えなかった言葉を探した。
責任。
負担。
役割。
能力。
どの言葉も、先に出ようとした。
直樹は、それを使わなかった。
「俺は、めぐみが何もできなくなっても愛している」
めぐみの目が動いた。
ペン先が記録板から浮く。
「声が戻らなくても」
めぐみの喉が、わずかに動いた。
「俺を助けられなくても。何も返せなくても」
言うたびに、胸の奥が狭くなった。
それでも言葉を止めなかった。
「それで、めぐみでなくなるとは思わない」
めぐみは直樹を見ていた。
直樹も視線を外さなかった。
「でも」
その先は、すぐには声にならなかった。
紙に書いた方が正確だった。
読み上げれば、途中で変えずに済む。
直樹は紙へ手を伸ばしかけた。
止めた。
これは報告ではない。
「俺が何もできなくなった時に、めぐみがそばにいる理由が分からない」
右手の指が、膝の布をつかんだ。
「戦えない。守れない。運べない。道も作れない」
一つずつ、自分の中から外す。
「そうなった俺を、めぐみが必要とする理由が分からない」
めぐみの眉が寄った。
怒った時の形に近かった。
直樹は続けた。
「俺は、自分の役を証明できなければ、捨てられて当然だと思っている」
めぐみのペンが、記録板へ触れた。
すぐには動かなかった。
直樹は言葉を足さなかった。
家。
施設。
自衛隊。
外人部隊。
そう考えるようになった理由は、一枚目の紙に並んでいる。
それでも、ここへ来たのは過去を裁いてもらうためではない。
めぐみが書いた。
> だから、私が捨てる前に、なおがいなくなるの?
直樹の喉が止まった。
「捨てる前に、ではない」
めぐみが次の行を書く。
> 私が決める前に。
直樹は答えられなかった。
ペンが続けて動く。
> 高校も。
> 海外も。
> 昨日の夜も。
直樹は三つの行を見た。
同じ高校へ進まず、強くなる道を選んだ。
海外へ行き、苦しさを手紙に書かなかった。
昨夜も、めぐみが何を怖がったのか聞く前に、すべてを終わらせようとした。
「そうだ」
直樹は言った。
言い訳はしなかった。
「俺が先に決めた」
めぐみは、すぐには次を書かなかった。
右手を胸へ当て、一度呼吸を整える。
直樹は緊急ボタンを見なかった。
めぐみ自身が続けるかを待った。
呼吸が戻る。
めぐみが書いた。
> 私が、なおをいらないと思ってる?
「分からない」
直樹は答えた。
以前なら、そんなはずはないと否定した。
あるいは、負担になる可能性を説明した。
今は、分からないとしか言えなかった。
「だから、聞きに来た」
紙を持ち上げる。
右側をめぐみへ向けた。
消された四つの能力。
線を引かれた「俺」。
その上に、
> 不明。本人に確認する。
と書かれている。
めぐみは紙を見た。
長く見た。
直樹は右手で紙を差し出した。
めぐみが受け取る。
親指と人差し指が離れる。
中指が続く。
薬指が、折り目を一度擦った。
それでも紙は、めぐみの手へ渡った。
めぐみは一枚目を開いた。
家。
施設。
自衛隊。
外人部隊。
今。
埋められた成果欄を読む。
直樹の顔は見なかった。
泣かない。
苦しいと言わない。
命令を守る。
走れる。
撃てる。
戻れる。
任務を終える。
道を作る。
めぐみを守る。
めぐみの指が、最後の一行で止まった。
二枚目を開く。
左側。
直樹がめぐみを必要とする理由。
右側。
直樹が、自分について書けなかった理由。
めぐみは紙を膝へ置いた。
記録板へ向き直る。
直樹は待った。
ペンが動いた。
> なお。
直樹は、その二文字を見た。
「それでは、まだ分からない」
めぐみの顔が上がった。
「俺だから、という意味なら、俺には証明できない」
めぐみの眉が寄る。
強く一行を書く。
> 証明しないと、なおじゃないの?
「証明しなければ、区別できない」
めぐみはペンを止めた。
直樹は続けた。
「俺でなくてもできることは多い」
守る。
運ぶ。
戦う。
道を作る。
条件を満たせば、他の人間でもできる。
「めぐみは、俺の何を待ってた」
めぐみは目を閉じた。
声にしようとしたのではない。
怒りを抑えたように見えた。
やがて目を開き、記録板を一度消した。
最初に書く。
> 待っていたのは。
その下へ続ける。
> 一緒に帰り道を歩いたなお。
中学時代。
先輩と後輩ではなくなった帰り道。
遠くへ行く前に、二人で歩いた時間。
次の行。
> 強くなろうとして、間違えたなお。
直樹は文字から目を外せなかった。
間違いも含まれていた。
正しくなった自分だけではない。
次の行。
> 遠くへ行っても、手紙を返したなお。
少年工科学校。
自衛隊。
海外。
苦しいとは書かなかった。
順調ですと書いた。
心配いりませんと書いた。
それでも、返事を書く時間だけは手放さなかった。
めぐみは一度ペンを止めた。
新しい場所へ書く。
> 今、選んでいるのは。
その下。
> 私の名前を忘れても、もう一度呼んだなお。
奈良のあと、直樹は自分の名前を失った。
めぐみの名前も忘れた。
京都で再会した時も、最初は敵か味方かしか分からなかった。
それでも、もう一度呼んだ。
めぐみ。
次の行。
> 私が怒っても、逃げずに聞いたなお。
再会した日。
めぐみが、なぜ一緒にいてくれなかったのかと叫んだ。
直樹は謝罪で終わらせず、聞いた。
次の行。
> 今は、間違いを話せるなお。
めぐみはペンを置いた。
六つの行を、直樹へ向ける。
直樹は一つずつ読んだ。
能力ではない。
正しさでもない。
失敗が消されていない。
過去に待っていた直樹。
今、選び直されている直樹。
どちらにも、間違えた自分が含まれていた。
「それが、俺である理由なのか」
めぐみが頷いた。
「失敗したことも」
もう一度、頷く。
「めぐみを待たせたことも」
めぐみの手が止まった。
頷かなかった。
否定もしなかった。
新しく書く。
> 待たされたことは、許したことにしない。
直樹は文字を見た。
「分かっている」
> でも、待たせたなおが消えたら、私が怒る相手もいなくなる。
直樹は何も言えなかった。
めぐみは、正しくなった直樹だけを求めているのではない。
間違えた直樹へ怒っている。
怒れるのは、そこにいると認めているからだった。
直樹の右手は、膝の布をつかんだままだった。
いつから握っていたのか分からない。
「それがなくなったら」
めぐみが顔を上げる。
「名前を呼べなくなったら。話を聞けなくなったら。また間違いを言えなくなったら」
直樹は自分を追い込むように続けた。
「今、めぐみが書いたものが全部なくなったら」
めぐみは、すぐには答えを書かなかった。
水筒を取り、一口飲む。
飲み込む。
呼吸を整える。
それから、記録板へ書いた。
> その時のなおと、また話す。
直樹は文字を見た。
めぐみは次の行を書く。
> 今の私が、未来のなおを捨てると決めない。
次の行へ進む。
一度、ペンが止まった。
めぐみは記録板を下ろした。
唇を開く。
息を細く吐く。
「なおも」
声はまだ弱い。
掠れていた。
それでも、直樹の名前ではなく、直樹への言葉として出た。
めぐみは一度息を継いだ。
「私が、捨てるって」
喉が震える。
直樹は動かなかった。
声を出せとは言わない。
止めろとも言わない。
めぐみは最後まで言った。
「先に、決めないで」
声が途切れた。
めぐみは胸へ手を当て、ゆっくり息をした。
直樹は緊急ボタンを見た。
呼吸は乱れていない。
めぐみ自身が、まだ終わらせていない。
記録板を上げる。
> ずっと捨てない、とは約束できない。
その下へ書く。
> なおも、ずっと間違わないとは約束できない。
さらに続ける。
> でも、今の私は、なおを選んでる。
直樹は、その一行を見た。
保証ではなかった。
未来の契約でもない。
条件付きの任用でもない。
今のめぐみが、今の直樹を選んでいる。
明日のめぐみの選択まで、直樹が決めることはできない。
明日の自分を、今の恐怖だけで処分することもできない。
それで十分だとは、まだ思えなかった。
十分でなければならない理由も、見つからなかった。
ただ、胸の奥に詰まっていたものが、少し下へ落ちた。
息が入った。
直樹は、握っていた右手から力を抜いた。
親指が開く。
人差し指が続く。
中指。
いつもなら、そこで薬指と小指が残る。
その日は、残らなかった。
薬指が開いた。
小指も続いた。
五本の指が、以前とは比べものにならないほど深く開いた。
痛みは三。
痺れも残っている。
治ったわけではない。
治療で戻りつつあった動きが、握り込む力に遮られず、初めて最後まで出たのかもしれなかった。
直樹は握り直さなかった。
再現できるかも確かめなかった。
開いた右手を、そのまま膝へ置いた。
めぐみが見ていた。
記録板へ書く。
> 動いた。
「動いた」
直樹は答えた。
> うれしい?
直樹は右手を見た。
これまでは、使えるかどうかを先に考えた。
戦闘に戻せるか。
武器を保持できるか。
人を運べるか。
今は、違う答えが出た。
「うれしい」
めぐみの口元が、少し上がった。
直樹も、笑おうとはしなかった。
それでも、呼吸が先ほどより楽だった。
*
旧面談室を出る前に、めぐみが記録板へ書いた。
> 今日は、何を持って帰るの?
直樹は室内を見た。
机はない。
報告書もない。
成果物もない。
右手は開いている。
左手にも何も持っていない。
二枚の紙だけが、めぐみの膝にあった。
「何もない」
めぐみは二枚を重ね、元の折り目に沿って二つに折った。
自分の記録板へ挟む。
> じゃあ、今日は手ぶらで帰って。
直樹は紙を見た。
「それは俺が書いたものだ」
> 私の答えも書いた。
「保管方法を決める必要がある」
めぐみの目が細くなる。
直樹は口を閉じた。
また手順へ戻りかけた。
めぐみが立ち上がる。
記録板を胸へ抱える。
水筒へ手を伸ばした。
直樹も手を出した。
「持つ」
めぐみは首を横に振った。
自分で水筒を取る。
直樹の右手だけが、空中に残った。
何もすることがない。
直樹は手を下ろした。
めぐみが扉へ向かう。
直樹は先に開けようとした。
めぐみの手が、取っ手へ届いた。
直樹を見る。
直樹は動かなかった。
めぐみが扉を開けた。
廊下には、えりが壁へ寄りかかっていた。
手には未開封のガムがある。
煙草は持っていない。
えりは二人の顔を見た。
「終わった?」
めぐみが記録板を立てる。
> 終わってない。
えりは頷いた。
「正解」
直樹は言った。
「次の面談が必要です」
「それは明日決める」
「予約だけでも」
「一回で人生を解決しない」
直樹は反論しなかった。
えりの目が、直樹の右手へ下がる。
五本の指が開いている。
えりは何も言わなかった。
入室停止札を外す。
「病室まで戻って。宮崎さんは休息」
「付き添います」
「それは私に言うことじゃない」
直樹は、めぐみを見た。
「一緒に戻っていいか」
めぐみが頷いた。
二人は廊下を歩き始めた。
午後の光が、北側の窓から長く伸びていた。
学校帰りに似た色だった。
どこかの任務へ向かう道ではない。
誰かを救出する道でもない。
情報を持ち帰る道でもなかった。
待っている人の場所へ、二人で戻るだけの道だった。
めぐみは、記録板と水筒を自分で持っている。
直樹には、運ぶ物がない。
前へ出て安全を確認する必要もない。
後ろへ回って警戒する必要もない。
隣を歩く。
それだけだった。
病室の前で、めぐみが扉を開けた。
直樹は先に入らなかった。
めぐみが入る。
直樹も続く。
窓から入る光が、朝より低い位置へ落ちていた。
ベッド脇の椅子。
折り畳み机。
壁の時計。
いつもの病室だった。
めぐみは記録板を机へ置いた。
水筒も自分で置く。
直樹には、まだすることがない。
それでも、扉の近くへ戻らなかった。
めぐみの隣の椅子へ座る。
右手を膝へ置いた。
五本の指は、少し震えながら、開いた形を保っていた。
何も握っていない。
めぐみが、その手を見た。
触れなかった。
直樹も握ろうとしなかった。
開いた手のまま、隣に置いた。
めぐみが、小さく息を吸った。
「なお」
「いる」
ここにいてよいと、信じられたわけではない。
ただ、その時だけは、立つ理由を探さなかった。
返事をしたあとも、直樹は立たなかった。




