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第124話 不明のまま

## 第124話 不明のまま


末安えりは、職員用搬入口の脇にいた。


白い壁から張り出した金属屋根の下に、灰皿が一つ置かれている。


その周囲だけ、床の色が黒ずんでいた。


えりは煙草を右手に挟み、左手で入室記録をめくっていた。


一本目の灰が落ちる前に、直樹が来た。


足音で顔を上げる。


「宮崎さんは訓練中」


「承知しています」


「じゃあ、私?」


「はい」


えりは煙草を口へ運んだ。


深く吸う。


煙を吐いてから、記録用紙を閉じた。


「今から一本吸う。要件は、その間に」


直樹は、左手に持っていた紙を右手へ移した。


二つ折りにした二枚の記録用紙だった。


「助力を頼みたい」


えりの煙草が、唇の手前で止まった。


「内容は」


「宮崎さんと話す時間が必要です」


「何分」


直樹は答えられなかった。


話すべき内容は一つだった。


しかし、どれほど時間がかかるかは分からない。


めぐみが答えるかも分からない。


自分が最後まで言葉にできるかも、分からなかった。


「時間は、確定できません」


えりは時計を見なかった。


「場所の条件」


「録音なし。第三者の入室なし。医療上の緊急時を除き、中断されないこと」


「他は」


「机は、ない方がいいです」


えりの目が、直樹の手元へ下がった。


「取調べにしたくない?」


「はい」


「相手の同意は」


「まだです」


「それを飛ばしたら、部屋は取らない」


「分かっています」


えりは煙草を灰皿の縁へ当てた。


灰だけを落とす。


「それで、私に何を答えさせたいの」


「答えは求めていません」


「じゃあ、その紙は何」


直樹は二つ折りの紙を差し出した。


右手で持っていた。


えりが受け取る。


直樹の親指と人差し指が、紙から同時に離れた。


中指も遅れなかった。


薬指だけが、折り目の端を一度擦った。


紙はえりの手へ移った。


直樹は右手を見なかった。


えりも紙を開かなかった。


「中で読む」


煙草を灰皿へ押しつける。


半分近く残っていた。


火が消えるまで、先端を二度捻った。


紙を折ったまま、金属屋根の外へ出る。


「行くよ」


「どこへ」


「私の部屋」


えりは振り返らなかった。


「人に読ませる気なら、場所くらい選びなさい」


直樹は、その後ろを歩いた。


     *


えりは、搬入口から院内へ戻ると、最初の角を右へ曲がった。


保全行政調整担当の札が下がった小部屋へ入る。


直樹が入ったあと、扉を閉めた。


机の上には、三種類の記録が積まれていた。


病院。


自治体。


臨時遠隔運用室。


表紙の色が違う。


混ぜないためだった。


えりは直樹から受け取った紙を、どの束の上にも置かなかった。


机の中央に、単独で置く。


椅子へ座り、初めて紙を開いた。


一枚目。


> そこにいてよい条件


家。


施設。


自衛隊。


外人部隊。


今。


五つの欄が、上から並んでいる。


線は曲がっていた。


文字にも濃淡がある。


それでも、欄の中は埋まっていた。


泣かない。


苦しいと言わない。


指示に従う。


走れる。


撃てる。


運べる。


任務を終える。


子どもを帰す。


道を作る。


めぐみを守る。


えりは二枚目へ移った。


中央の線を挟み、左右に題がある。


左側。


> 俺がめぐみを必要とする理由


下には、五つの言葉が残されていた。


> 生きていてほしい


> 声を聞きたい


> 怒っていても、そばにいたい


> 同じ場所へ帰りたい


> 何もできなくても変わらない


右側。


> めぐみが俺を必要とする理由


守れる。


戦える。


運べる。


道を作れる。


そのすべてに線が引かれている。


少し下には、強く消された「俺」の文字があった。


右側の一番上に、新しい文字が残っている。


> 不明。


その下。


> 本人に確認する。


えりは、紙から顔を上げた。


「やっと相談の形になった」


直樹は眉を動かした。


「以前は、相談になっていませんでしたか」


「なってない」


えりは即答した。


「今までは、やることを決めてから許可を取りに来てた」


「必要な手順を提示していました」


「だから相談じゃない」


えりは紙を一度持ち上げた。


「これは、分からないから手を貸せって書いてある」


「手を貸してほしいのは、場所の確保です」


「分かってる。そこが進歩」


直樹は答えなかった。


えりは右側の空白へ目を戻した。


「私がここを埋めると思った?」


「いいえ」


「嘘」


「求めないと決めました」


「思いつきはしたわけね」


直樹の右手が、わずかに閉じた。


「末安さんは、めぐみから俺の話を聞いていますか」


「四年分ね」


「俺が知らないことも知っている」


「知ってる」


「ですが、末安さんの答えは、めぐみの答えではありません」


えりは紙を机へ戻した。


「ちゃんと分かってるじゃない」


電話を取る。


「末安です。旧面談室、今日空いてる?」


相手の返事を聞く。


「家族面談用じゃない。北側の古い方」


短い沈黙。


「そう。記録設備が付いてない部屋」


えりは壁の予定表を見た。


「十五時から二時間押さえて。使用目的は私的面談。録音なし。面談内容の記録なし」


直樹が口を開いた。


「二時間も必要とは」


えりが人差し指を立てた。


黙れという合図だった。


「部屋の使用記録と責任者名は残す。次。出入りを止める。医療緊急時だけ。清掃、配膳、事務連絡は前後へずらす」


電話の向こうで、何かを聞かれる。


「責任者は私。入室管理も私がやる」


電話を切った。


次の番号を押す。


「宮崎さんの担当へつないで」


待つ間、えりは直樹を見た。


「医療判断は私がしない」


「承知しています」


「今日の発声訓練後に、私的な面談を入れていいか。時間と発声負荷は担当に決めてもらう」


「筆談を中心にします」


「それも本人が決める」


直樹は口を閉じた。


電話がつながる。


えりの声から、先ほどまでの乾いた調子が消えた。


「末安です。宮崎さんの今日の状態を確認したいです」


机の端にあった鉛筆を取り、メモを始める。


「十五時以降に面談を予定しています。時間は未定。筆談用の記録板あり。発声は本人の判断に任せたい」


相手の返答を聞く。


「はい。追加の発声負荷は避ける。呼吸が乱れたら終了。途中休憩を入れる」


えりはメモの最後に線を引いた。


「面談前に三十分休ませる。分かりました」


電話を切る。


「医療側は条件付きで可。十四時半まで休息。声を出させようとしない。呼吸が乱れたら終わり」


「はい」


「『はい』じゃなくて、守る」


「守ります」


えりは次の内線番号を押した。


今度は施設管理だった。


「旧面談室の机、出して。椅子は二脚だけ残す」


直樹がまた口を開きかけた。


えりは電話を肩へ挟み、手で制した。


「録音端末がないか確認。持込み端末もなし。壁の回線口には封印。扉の外に入室停止札」


相手が所要時間を告げる。


「三十分以内。終わったら私が見る」


電話を置いた。


直樹は机の中央の紙を見ていた。


「まだ宮崎さんの同意がありません」


「先に空きを押さえた。同意がなければ解除する」


「俺にも、準備を手伝わせてください」


「嫌」


「机の搬出程度なら、右手を使わずにできます」


「そういう話じゃない」


えりは予定表へ十五時から十七時まで線を引いた。


「あなたは頼んだ。ここからは私の仕事」


「俺にもできることがあります」


「あるよ」


えりは紙を指した。


「それ以上、右側を埋めない」


直樹の視線が、消された四つの能力へ落ちた。


「質問の整理は必要です」


「一つあるんでしょ」


「あります」


「じゃあ増やさない」


直樹はしばらく黙った。


「終了条件は」


「ない」


「呼吸状態の悪化以外に、区切る基準が必要です」


「必要なのは区切りであって、完了じゃない」


えりは椅子の背から上着を取った。


「一回で人生を解決しない」


直樹は顔を上げた。


「途中で終わった場合は」


「次を取る」


「答えが出なければ」


「不明のまま帰る」


「同じ問題が残ります」


「残していい問題もある」


直樹の眉間に皺が寄った。


えりは上着へ腕を通した。


「今日やるのは、質問一つ」


机の紙を二本の指で叩く。


「返事が途中なら、続きは次。宮崎さんが答えたくないなら、それも答え。あなたが言えなくなったら、そこまで」


「言います」


「今、決めるな」


えりは扉を開けた。


「まず本人に聞く」


     *


発声訓練を終えためぐみは、病室の椅子に座っていた。


記録板を膝に置き、細い管のついた水筒から一口飲む。


喉を動かしたあと、ゆっくり息を吐いた。


えりは扉の外で看護師から状態を聞いた。


呼吸は安定。


追加訓練はなし。


午後は休息優先。


えりは入室名簿に自分の名前を書き、病室へ入った。


直樹は廊下に残した。


同意を取る場へ、依頼者を連れて入る必要はない。


めぐみが顔を上げた。


えりはベッド脇の椅子へ座らなかった。


立ったまま、結論から言った。


「真柴さんが、話す時間を欲しがってる」


めぐみの指が、記録板の縁で止まった。


「今日、十五時。旧面談室。録音なし。二人だけ」


めぐみはペンを取った。


> 何の話。


「本人に聞いて」


めぐみの眉が寄る。


> 知ってる?


「少し」


> 教えないの。


「私の答えじゃ意味がない」


めぐみは、えりの顔を見た。


記録板へ目を戻す。


> なおは逃げない?


「それも私には保証できない」


えりは言った。


「ただ、逃げるための仕事は置いてきた」


めぐみのペン先が止まった。


えりは続けなかった。


直樹が書いた紙の内容も言わない。


松隈先生との会話も知らない。


知っているのは、直樹が空欄を空欄のまま持ってきたことだけだった。


めぐみが新しい行を書く。


> 話す。


「十五時でいい?」


めぐみが頷く。


> 長くなっても?


「十七時まで部屋は空けた。その先も必要なら取り直す」


めぐみは少し考えた。


> 一回で終わらなくても?


えりは、めぐみを見た。


「終わらせる必要があるの?」


めぐみの肩が、わずかに下がった。


記録板の文字を消す。


最後に一行だけ書いた。


> 分かった。


えりは入室名簿へ終了時刻を書くため、扉へ向かった。


背後で、ペンがもう一度動いた。


振り返る。


めぐみが記録板を立てている。


> えり。


「何」


> ありがとう。


えりは記録板から目を外した。


「まだ部屋を取っただけ」


扉を開ける。


「礼は、話してから考えて」


     *


旧面談室は、病棟の北端にあった。


以前は家族への説明や、退院後の生活確認に使われていた部屋だった。


現在は別棟に新しい面談区画ができ、使用回数が減っている。


えりは施設管理の職員と一緒に中へ入った。


机はすでに廊下へ出されていた。


部屋に残っているのは、椅子が二脚。


白い壁。


小さな窓。


緊急呼出用のボタン。


壁の回線口には、赤い封印票が貼られている。


天井を見上げる。


カメラはない。


録音機もない。


えりは一度、扉を閉めた。


廊下の話し声が遠くなる。


完全な防音ではない。


言葉までは判別できなかった。


これで足りる。


えりは二脚の椅子を、浅い角度で並べた。


どちらからも扉が見える。


正面から向き合わなくても、顔を上げれば相手が見える距離だった。


逃げ道を塞がない。


視線も強制しない。


椅子の位置を動かした時、脚が床を擦った。


その音で、えりは四年前の奈良を思い出した。


日本が割れたあとの混乱が、まだ街に残っていた頃だった。


奈良で爆発が起きた。


後にえりが記録とめぐみの証言を重ねて知った経緯では、直樹は爆発の直前、めぐみを地下へ押し込んだ。


自分は地上へ戻った。


負傷者を救助するためだった。


そのまま、帰ってこなかった。


遺体は確認されなかった。


生存者の名簿にも、搬送者の名簿にも名前がなかった。


掲示板に残ったのは、硬い文字だけだった。


真柴直樹。


MIA。


行方不明。


めぐみは臨時の照会所を回った。


直樹の名前。


出身地。


所属。


身長。


身体の特徴。


最後に会った場所。


知っていることを、何度も説明した。


担当が替わるたび、最初から話した。


泣いていても、情報を一つも手放さなかった。


当時のえりは、奈良県警の組織犯罪対策部担当だった。


行方不明者の照会は本来の担当ではない。


それでも、同じ説明を繰り返すめぐみを見て、他の担当者へ言った。


「この人は私が聞く」


その後、爆発現場と周辺で回収された遺留品が、臨時の照会所へ運ばれた。


持ち主の分からない時計。


焼けた財布。


変形した認識票。


片方だけの靴。


番号の付いた透明な袋が、机の上へ並べられた。


指輪を持ってきたのは、えりではなかった。


別の担当者が、焦げた小箱と、その中から回収された指輪をめぐみへ見せた。


「確認してください」


めぐみは、最初は分からなかった。


見覚えのある指輪ではなかった。


直樹から、指輪を受け取ったこともない。


めぐみは袋越しに輪を持ち上げた。


金属の内側を、蛍光灯へ向ける。


刻まれていた文字が見えた。


NAO MEGUMI。


めぐみは何も言わなかった。


泣き声も上げなかった。


直樹の名前と、自分の名前が、指輪の内側に並んでいた。


それを確かめる本人は、どこにもいなかった。


めぐみの膝が折れた。


床へうずくまり、袋を持ったまま動かなくなった。


周囲には、署名を待つ書類があった。


確認を急ぐ担当者がいた。


次の照会者も、廊下で待っていた。


えりは空いていた部屋の鍵を取った。


他の聴取を別室へ移した。


机の書類を伏せた。


扉の札を裏返した。


誰も入れるなと伝えた。


署名は後でいいと言った。


時間も決めなかった。


慰める言葉は、何一つ出てこなかった。


必要だったのは言葉ではなかった。


直樹の代わりに指輪だけが戻った現実を、人前で耐えなくていい場所だった。


えりは現在の面談室で、二脚の椅子を見た。


四年前、直樹の代わりに戻ったのは、指輪だけだった。


今度は本人がいる。


廊下には、真柴直樹が立っていた。


えりは扉を開けた。


「入って」


直樹が室内を確認する。


窓。


扉。


緊急呼出ボタン。


封印された回線口。


二脚の椅子。


「録音設備はありません」


「確認済み」


「入室者は」


「私が止める。医療緊急時だけ入る」


「宮崎さんは」


「了承した」


直樹の肩が、わずかに下がった。


えりは見なかったことにした。


机があった場所に、四角い跡だけが床へ残っている。


えりは持っていた紙を差し出した。


「返す」


直樹は右手を出した。


親指と人差し指で、折り目の端をつかむ。


中指が下から支えた。


紙を引き寄せる。


えりが指を離しても、紙は落ちなかった。


直樹は左手へ持ち替えようとした。


途中で止める。


右手のまま持った。


「修正すべき点はありますか」


「ない」


「質問を増やす必要は」


「ない」


「なら、何を準備すれば」


えりは空になった部屋を見回した。


机はない。


端末もない。


記録用の書類もない。


直樹が報告を始められる物は、何も置かれていなかった。


「その紙だけ」


「読むためですか」


「読んでもいい。読まなくてもいい」


えりは扉の外へ出た。


「ただし、右側は不明のまま持ってきて」


直樹は紙を見た。


消された四本の線。


未完成の「俺」。


その上にある一文。


> 不明。本人に確認する。


「十五時に、宮崎さんを連れてくる」


えりは扉の取っ手へ手を掛けた。


「真柴さん」


「はい」


「一回で終わらせない」


「努力します」


「努力で終わらせようとするなって言ってる」


直樹は答えなかった。


右手に持った紙が、わずかに揺れた。


指は開かなかった。


強く握り潰すこともなかった。


えりは扉を閉めた。


入室停止の札を、外側の取っ手へ掛ける。


赤い文字が廊下へ向いた。


> 使用中

> 医療緊急時以外 入室禁止


四年前も、同じように扉を閉めた。


あの時、直樹の代わりに戻ったのは、指輪だけだった。


今度は、本人が入る。


めぐみと二人で。


えりは札の傾きを直した。


そのまま、十五時まで誰も入らないよう、廊下の先へ歩き出した。


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