第123話 成果欄
##第123話 成果欄
直樹が病室へ戻ったのは、午前六時三十六分だった。
約束より三分早い。
扉を開けると、めぐみは起きていた。
背を少し起こし、記録板を膝に置いている。
直樹の顔を見たあと、壁の時計へ目を向けた。
直樹も時計を確認した。
「場所の変更なし。遅延なし」
めぐみの眉が寄った。
記録板にペンを走らせる。
> それは見れば分かる。
直樹は口を閉じた。
めぐみは次の行を書いた。
> 何て言われたの。
松隈先生の言葉が、そのまま浮かんだ。
お前は、めぐみさんの恋人になろうとしているんじゃない。
雇い人になろうとしている。
その言葉だけを返せば、今度はめぐみに答えを求めることになる。
まだ、何を聞けばいいのかも分かっていなかった。
「答えは出なかった」
めぐみは直樹を見た。
その視線が、迷彩服へ下がる。
胸の下には、まだ皺が残っていた。
めぐみが記録板へ書く。
> 先生と喧嘩した?
「していない」
> なおが負けた顔をしてる。
「勝ち負けの話ではない」
めぐみは、少しだけ目を細めた。
笑ったのかどうか、直樹には分からなかった。
記録板の文字を掌で消す。
新しく一行を書く。
> じゃあ、考えてきて。
直樹は頷いた。
それ以上は聞かれなかった。
*
午前の処置が終わると、めぐみは呼吸と発声の確認へ向かった。
看護師が記録板を持とうと手を伸ばす。
めぐみは首を横に振った。
記録板を自分の胸へ抱え、ベッドからゆっくり立ち上がる。
直樹は手を出しかけた。
めぐみが見る。
直樹は手を下ろした。
立ち上がった直後、めぐみは一度だけ呼吸を整えた。
看護師が歩調を合わせる。
めぐみは自分の足で病室を出ていった。
直樹は、扉が閉じるまで見送った。
手伝わなかった。
それが正しいのかは分からない。
めぐみが自分で持つと決めた。
自分で歩くと決めた。
その事実だけを優先した。
病室に一人になる。
直樹は窓際の折り畳み机を出した。
引き出しから、白い記録用紙を二枚取る。
病院の備品だった。
上部には、氏名、日付、担当者を書く欄が印刷されている。
直樹は氏名欄を見た。
空白だった。
用紙を裏返す。
罫線のない白い面を上にした。
リハビリで使っている太い鉛筆を取り出す。
軸には、黒いゴム製のグリップが巻かれている。
右手で握った。
親指の位置がずれた。
左手で直す。
鉛筆を紙へ下ろした。
最初に書いた。
> そこにいてよい条件
文字の高さが揃わない。
「条」の右払いが途中で止まった。
「件」の最後の縦線が、わずかに左へ流れた。
読める。
それでよかった。
一行空ける。
横線を四本引いた。
一本目の途中で、鉛筆の先が震えた。
四本とも真っすぐではない。
それでも、上から五つの欄ができた。
順に書いた。
> 家
> 施設
> 自衛隊
> 外人部隊
> 今
鉛筆を置こうとした。
中指が軸から離れない。
左手で外そうとして、止める。
右手へ力を入れ直した。
一度握る。
それから開く。
親指。
人差し指。
薬指。
中指。
小指。
鉛筆が机へ転がった。
痛みは三。
痺れも変わらない。
直樹は鉛筆を拾い、最初の欄へ戻った。
家。
何をすれば、そこにいてよかったのか。
顔を上げずに済むこと。
呼ばれるまで動かないこと。
咳をしても、音を立てないこと。
欲しいと言わないこと。
迷惑を増やさないこと。
紙へ書いた。
> 泣かない
> 病気にならない
「病気にならない」の上に線を引いた。
病気にはなった。
喘息も、肺の弱さも、自分では止められなかった。
正しくは違う。
下へ書き直す。
> 苦しいと言わない
> 迷惑を掛けない
鉛筆の先が止まった。
それ以上は書かなかった。
次の欄へ移る。
施設。
> 時間を守る
> 指示に従う
> 問題を起こさない
> 自分のことは自分でする
「自分」という文字が続いた。
直樹は、その二文字を見た。
消さずに次へ進む。
自衛隊。
> 命令を守る
> 走れる
> 撃てる
> 運べる
> 戻れる
「戻れる」の最後で、鉛筆が止まった。
戻ることも任務だった。
人数を減らさず帰る。
装備を持ち帰る。
報告できる状態で帰投する。
帰ることは、結果の一つだった。
次の欄へ移る。
外人部隊。
> 歩ける
> 撃てる
> 夜を越えられる
> 仲間を残さない
> 任務を終える
書き終えた時、右の前腕が張っていた。
長時間の保持には向かない。
直樹は左手で右手の指を鉛筆から外した。
最後の欄へ進む。
今。
書く前から、言葉は決まっていた。
> 子どもを帰す
> 道を作る
> 情報を持ち帰る
> 危険を引き受ける
> めぐみを守る
紙の一番下まで埋まった。
すべて動詞だった。
泣かない。
従う。
走る。
撃つ。
運ぶ。
戻る。
終える。
帰す。
作る。
守る。
一つも、ただそこにいるだけで成立する条件はなかった。
直樹は、松隈先生の言葉を思い出した。
帰る場所にも成果を持っていく。
紙を見直す。
間違っているとは思わなかった。
家で迷惑を掛ければ、空気が変わった。
施設で問題を起こせば、居場所が狭くなった。
命令を誤れば、人が死んだ。
歩けなければ、隊列が止まった。
情報を持ち帰れなければ、次の人間が危険へ入った。
どれも事実だった。
直樹は紙の上部へ戻った。
題名の下に、一行追加した。
> 現実の規則
松隈先生へ反論するための文字だった。
書いても、胸の奥に残ったものは消えなかった。
めぐみが同じ条件を出した事実はあるか。
直樹は二枚目の紙を取った。
中央に縦線を一本引く。
左側の上へ書いた。
> 俺がめぐみを必要とする理由
右側へ書く。
> めぐみが俺を必要とする理由
左の文字は、欄の半分に収まらなかった。
「理由」の最後が中央線へ重なる。
直樹は気にせず、下へ進んだ。
左側。
> 生きていてほしい
書いた。
次の行。
> 声を聞きたい
鉛筆を止めた。
声が戻らなくても、変わらない。
それでも聞きたいと思うことは事実だった。
消さなかった。
> 怒っていても、そばにいたい
> 同じ場所へ帰りたい
> 何もできなくても変わらない
最後の一行を書いた時、鉛筆の先が紙を破りかけた。
力が入りすぎていた。
直樹は握りを緩めた。
左側には、まだ書けることがあった。
昔の帰り道を歩いたこと。
苦しい時、大騒ぎせず隣にいてくれたこと。
別々の学校へ進んだあとも、手紙が続いたこと。
遠くへ行くほど、返事を書く時間だけは手放さなかったこと。
しかし、理由として並べると、どれも違うように見えた。
過去があるから必要なのではない。
声があるからでもない。
助けてもらったからでもない。
直樹は左側の余白を残した。
右側へ移る。
> 守れる
その下へ書く。
> 戦える
> 運べる
> 道を作れる
四行が並んだ。
見慣れた答えだった。
直樹が差し出せるものだった。
一つずつ確認する。
守れる。
外海で、めぐみは撃たれた。
直樹は止められなかった。
線を引く。
戦える。
めぐみは、直樹が戦うために待っていたのか。
本人から聞いた事実はない。
線を引く。
運べる。
今朝、めぐみは自分の足で訓練室へ向かった。
直樹に運ばれることを、待つ理由にした事実はない。
線を引く。
道を作れる。
その道を作るために、直樹は何度も戻る時間を遅らせた。
昨夜も、先にすべてを終わらせようとした。
線を引く。
右側が空になった。
黒い線だけが四本残った。
直樹は次の答えを探した。
約束を守れる。
昨日、破った。
話を聞ける。
再会の日、めぐみが口にするまで、何を怒っていたのか分からなかった。
逃げない。
昨夜も、怖かった理由を聞く前に、手順を並べた。
どの言葉にも、反証が出た。
直樹は右手を握り直した。
鉛筆の先を紙へ置く。
> 俺だから
最初の「俺」を書いた。
「だ」の一画目で止まった。
証明できない。
能力ではない。
実績でもない。
過去の結果でもない。
証明できないものを、事実の欄へ書くことはできなかった。
直樹は「俺」の上から線を引いた。
消しゴムは使わなかった。
書いた跡を消しても、書こうとした事実までは消えない。
鉛筆を握ったまま、窓の外を見る。
病院の中庭では、清掃員が落ち葉を集めていた。
竹箒が地面を擦る。
集められた葉は、風が吹くたびに一枚ずつ外へ逃げた。
清掃員は追わなかった。
中央に残った山だけを、袋へ入れていく。
直樹は紙へ目を戻した。
分からない欄を、空白のままにしておくことは苦手だった。
空白は、確認不足だった。
不足は危険だった。
危険は、誰かが埋めなければならない。
誰も埋めないなら、自分が埋める。
それが、いつもの手順だった。
右側へ、もう一度鉛筆を置く。
守れる。
戦える。
運べる。
同じ答えを書き直せば、欄は埋まる。
しかし、それは確認した事実ではない。
直樹が使える能力を、めぐみの答えとして置くだけになる。
松隈先生の声が残っていた。
めぐみさんが同じ条件を出した事実はあるか。
なかった。
直樹は鉛筆を紙から離した。
親指と人差し指が、一緒に開いた。
中指が続く。
薬指と小指も、いつものようには残らなかった。
鉛筆は転がらず、紙の上へ落ちた。
直樹は右手を見た。
痛みは三。
痺れもある。
治ったわけではない。
それでも、指はさっきより開いていた。
直樹は確かめ直さなかった。
再現性を調べるより先に、書くことがあった。
鉛筆を持ち直す。
右側の一番上へ、ゆっくり書いた。
> 不明。
句点まで書く。
一度、手を止めた。
その下へ続ける。
> 本人に確認する。
最後の「る」は、右上へ少し跳ねた。
今日書いた文字の中で、一番真っすぐだった。
直樹は二枚の紙を並べた。
一枚目は埋まっている。
家。
施設。
自衛隊。
外人部隊。
今。
どの欄にも、そこにいるための成果がある。
二枚目の右側だけが、ほとんど空いていた。
書かれているのは、消した能力と、答えではない一文だった。
> 不明。本人に確認する。
報告書なら、不備だった。
情報が足りない。
判断できない。
再提出が必要になる。
それでも直樹は、その欄を埋めなかった。
二枚を重ねる。
右手で端を押さえ、左手で二つ折りにした。
右手は長く保持できない。
途中で人差し指が浮いた。
直樹は押さえ直さなかった。
少しずれたまま、折り終える。
紙を左手に持った。
立ち上がる。
病室の扉へ向かった。
右手で取っ手をつかむ。
下げる。
扉を引く。
開いた指は、今度は取っ手に残らなかった。
直樹は右手を見なかった。
廊下へ出る。
めぐみの訓練が終わるまで、まだ時間がある。
直樹は、末安えりを探しに向かった。
答えをもらうためではない。
本人へ確認する場所を、借りるためだった。




