↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
122/294

第122話 雇い人

##第122話 雇い人


朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。


白い床に落ちた光は、まだ窓の幅ほどもない。


直樹は、ベッド脇の椅子に座っていた。


右手の痺れは、昨夜より下がっている。


痛みは三。


指を閉じることはできる。


開く時だけ、少し遅れる。


膝の上に置いた右手を、一度握った。


指が順番に掌から離れていく。


小指が最後まで残った。


許容範囲だった。


ベッドでは、めぐみが眠っていた。


呼吸は浅くない。


胸が一定の間隔で上下している。


直樹はそこまで確認してから、自分の迷彩服へ目を落とした。


胸の下で、布が深く寄っていた。


めぐみの左手が、迷彩服をつかんでいる。


四本の指が布を巻き込み、親指がその上から押さえていた。


眠ったあとも、離さなかった。


昨夜、直樹は帰りが遅れた理由を話した。


連絡が途切れた原因。


帰投時刻が変わった場合の連絡手段。


本人が送信できない時の代理者。


通信が使えない場合の伝達経路。


再発を防ぐための手順を、一つずつ説明した。


めぐみは記録板を膝に置き、最後まで聞いていた。


許したとは書かなかった。


怒っていないとも書かなかった。


直樹が椅子から立とうとした時、迷彩服をつかんだ。


それから、離さなかった。


直樹は右手を上げた。


寄った布を伸ばそうとした。


親指と人差し指が、皺の端をうまくつまめない。


左手を使えば早い。


それでも右手でもう一度試した。


指先が布へ触れたところで、止めた。


皺を伸ばせば、昨夜の形は消える。


消したところで、待たせた一晩は戻らない。


昨夜決めた手順も、まだ一度も使われていない。


それでも、めぐみの手はここにあった。


理由が分からなかった。


直樹がわずかに姿勢を変えると、布が引かれた。


めぐみの眉が動いた。


瞼がゆっくりと開く。


焦点の合わない目が、天井を見た。


次に、迷彩服をつかんでいる自分の手を見る。


最後に、直樹を見上げた。


「なお」


眠りから抜け切らない、短い声だった。


「いる」


めぐみの指から力が抜けた。


それでも、すぐには離れなかった。


直樹は壁の時計を見た。


午前六時九分。


朝の処置までは時間がある。


「松隈先生のところへ行ってくる」


めぐみの目が、直樹の顔へ戻った。


「礼拝室。三十分以内に戻る。場所が変わったら連絡する」


昨日決めた手順だった。


直樹は時刻まで伝えた。


「六時三十九分までには戻る」


めぐみは枕元の記録板へ手を伸ばした。


迷彩服から指が離れる。


布には、指の形が残った。


めぐみはペンを取り、一行だけ書いた。


> 何を聞くの。


直樹は答えようとした。


昨夜の対応が十分だったか。


約束を再設定する必要があるか。


今後の行動範囲を、どこまで制限すべきか。


頭に浮かんだのは、どれも手順だった。


「分からない」


めぐみは直樹を見た。


直樹は視線を外さなかった。


やがて、めぐみは記録板を伏せた。


小さく頷いた。


直樹は立ち上がった。


迷彩服の皺には触れなかった。


     *


礼拝室の前で、直樹は足を止めた。


扉の向こうから、低い風切り音が聞こえた。


一度。


間を置いて、もう一度。


木刀が空気を裂く音だった。


直樹が扉を二度叩くと、中から声が返った。


「開いとる」


扉を開ける。


朝の光が、細長い窓から祭壇へ落ちていた。


松隈先生は、中央の通路にいた。


車椅子のブレーキが掛かっている。


黒いシャツの袖は、肘まで折られていた。


木刀を正中へ構えている。


肩は上がっていない。


両肘にも余計な力がなかった。


松隈先生が木刀を振り上げた。


車椅子に座ったまま、上体の軸が動かない。


振り下ろされた切っ先が、床の手前で止まる。


木刀だけが震えた。


体幹は揺れなかった。


座っていても、肩の位置が高い。


長い腕と厚い背中が、車椅子を小さく見せていた。


中学生の頃、直樹は一度だけ、松隈先生の歩行訓練を支えたことがある。


装具をつけた脚を一歩前へ出すたび、額から汗が落ちていた。


松隈先生は直樹の肩へ腕を回した。


それでも、体重のすべてを預けようとはしなかった。


今も同じだった。


残っている力を、誰かへ渡さない背中だった。


松隈先生は木刀を左手へ移した。


右手で車輪を引き、直樹の方へ向きを変える。


大きな眼鏡の奥から、直樹を見た。


「朝から迷彩か」


「着替える時間を取りませんでした」


「そういう報告を求めた覚えはない」


松隈先生は祭壇脇へ車椅子を進めた。


低い木刀立てに、木刀を戻す。


「座れ」


直樹は一番後ろの長椅子を見た。


松隈先生から三列離れている。


「そこまで逃げる話なら、またにしろ」


直樹は前列へ移った。


端へ座る。


松隈先生は通路に車椅子を止めた。


ブレーキが二度鳴った。


直樹と正面から向き合う位置だった。


「それで」


直樹は両手を膝に置いた。


右手の指が、すぐには揃わない。


左手で直そうとして、やめた。


「確認したいことがあります」


「誰に」


「先生にです」


「確認か。相談か」


直樹は答えなかった。


松隈先生も急かさなかった。


礼拝室の外を、配膳用の台車が通った。


小さな車輪の音が、扉の前を横切っていく。


音が遠ざかってから、直樹は口を開いた。


「人は、何ができれば、そばにいていいのでしょうか」


松隈先生の眉が、わずかに上がった。


「ずいぶん大きく出たな」


「一般的な基準を知りたいわけではありません」


「では、最初から一般論で聞くな」


直樹は口を閉じた。


松隈先生は膝の上で両手を組んだ。


親指の付け根には、古い胼胝が盛り上がっている。


「誰のそばにいたい」


直樹は答える前に息を吸った。


迷う必要はなかった。


「宮崎めぐみです」


「めぐみさんが、何もできなくなったら」


直樹は松隈先生を見た。


「何も、とは」


「声が戻らん」


松隈先生は指を一本立てた。


「お前を助けられん」


二本目。


「生活を支えることもできん」


手を膝へ戻す。


「それでも、お前はそばにいたいのか」


「関係ありません」


答えはすぐに出た。


声を失っても、めぐみはめぐみだった。


直樹を助けられなくても変わらない。


食事を作れなくても。


歩けなくても。


名前を呼べなくても。


そこにいる理由は消えない。


「返してもらうためにいるわけではありません」


松隈先生は頷かなかった。


否定もしなかった。


「怒ったままでもか」


「はい」


「お前を許さなくても」


直樹の右手が、わずかに閉じた。


「それは、めぐみが決めることです」


「離れろと言われたら」


「離れます」


答えたあと、胸の奥が狭くなった。


直樹は姿勢を崩さなかった。


「ただし、本人が拒否しない範囲で、必要な支援は残します」


松隈先生は眼鏡の位置を直した。


「もう仕事の話へ戻ったな」


「必要な話です」


「お前にとってはな」


松隈先生が、車椅子を半輪分だけ前へ動かした。


車輪を押す腕に、筋が浮いた。


「では、今度はお前だ」


直樹は黙った。


「右手が戻らんかったら」


右手の痺れが、意識に上がった。


「戦えなくなったら」


松隈先生の声は変わらない。


「人を運べん。道も作れん。何も返せん。そうなったら、お前はめぐみさんのそばにいていいのか」


礼拝室の窓から入った光が、直樹の右手まで届いていた。


小指が、他の指より内側へ残っている。


直樹は左手で隠さなかった。


「それは、同じ条件ではありません」


「どこが違う」


「俺には役割があります」


「めぐみさんにはないのか」


「そういう意味ではありません」


「質問に答えなさい」


教師の声だった。


大きくはない。


逃げる方向だけを塞ぐ声だった。


直樹は息を吐いた。


「俺は、守る側です」


「誰が決めた」


「俺です」


「めぐみさんは」


直樹は答えられなかった。


松隈先生が待った。


窓枠に落ちた朝の光が、少しずつ幅を増していく。


「めぐみは、守られるだけの人間ではありません」


「なら、今の答えは違うな」


「俺が引き受けるべき危険があります」


「それができなくなったら」


「代わりを探します」


「お前が隣にいる話をしとる」


直樹の声が硬くなった。


「役割を果たせない状態で残れば、負担になります」


「増えたら」


「離れられても仕方ありません」


言葉は、抵抗なく出た。


松隈先生は動かなかった。


直樹も、自分が何を答えたのか分かっていた。


「仕方ないのか」


「はい」


「めぐみさんが声を失っても、お前は離れん」


「はい」


「お前が右手を失えば、めぐみさんが離れるのは仕方ない」


「はい」


「なぜ、自分だけ条件が違う」


「違いません」


「違う」


「現実的な負担の話です」


「めぐみさんにも負担はある」


「俺は、それを理由に離れません」


「お前はな」


松隈先生は、そこで言葉を切った。


直樹は次の問いを予測した。


それでも、止められなかった。


「では、めぐみさんも同じかもしれんとは考えんのか」


「根拠がありません」


「お前が離れる根拠はあるのか」


「能力を失えば、負担になります」


「めぐみさんが、負担になったお前はいらんと言ったか」


「言っていません」


「戦えなくなったら出ていけと」


「言っていません」


「役に立つ間だけ、そばにいろと」


直樹は答えなかった。


松隈先生の大きな手が、車椅子の車輪に置かれた。


指先が、銀色のリムを一度だけ叩く。


「直樹。放蕩息子の話は知っとるな」


「はい」


「家を出た息子が、財産を使い果たして帰ってくる」


直樹は黙って聞いた。


「息子は、もう息子と呼ばれる資格はないと考えた。だから父親に、雇い人の一人として置いてくれと言うつもりだった」


「働いて返すためです」


「そうだ」


松隈先生は否定しなかった。


「食わせてもらう代わりに働く。置いてもらう理由を、自分で持って帰ろうとした」


直樹には、その考えのどこが間違っているのか分からなかった。


食べるなら働く。


場所を使うなら、相応のものを返す。


守られるなら、その分を別の場所で返す。


当然のことだった。


松隈先生が、直樹の迷彩服を見た。


胸の下に、めぐみの指の跡が残っている。


「お前は、めぐみさんの恋人になろうとしているんじゃない」


直樹の右手が閉じた。


開こうとしても、小指が遅れた。


「雇い人になろうとしている」


直樹は松隈先生を見た。


「違います」


「何が」


「俺は、めぐみに雇われるつもりはありません」


松隈先生の口元が、わずかに動いた。


「そこまで言葉どおりに受け取るとは思わんかった」


「俺は、自分の責任を話しています」


「そうやって、働ける理由を並べとる」


「必要なことです」


「働けなくなれば解雇されて当然だと思っとる人間は、帰る場所にも成果を持っていく」


直樹は立ち上がりかけた。


松隈先生は止めなかった。


代わりに、短く言った。


「座れ」


直樹は座り直した。


膝の上で、左手が右手首をつかんでいた。


「先生は、俺の生きてきた場所を否定するんですか」


「しない」


即答だった。


「役に立たん者から置いていかれる場所はある」


直樹の指から、少し力が抜けた。


「泣けば迷惑になる家もある。命令を守れん者が仲間を死なせる場所もある」


松隈先生の手が、車椅子の肘掛けへ戻った。


「誰かを背負えば全員が死ぬ道があったことも、わしは否定せん」


直樹は黙った。


「お前は、その規則で生き残った」


否定されなかったことに、安堵はしなかった。


「だが」


松隈先生の声が低くなった。


「めぐみさんの隣も、同じ場所なのか」


「安全を保つには、同じ基準が必要です」


「安全の話はしとらん」


「切り離せません」


「お前が切り離せんだけだ」


直樹の呼吸が止まった。


松隈先生は、それ以上踏み込まなかった。


「めぐみさんが同じ条件を出した事実はあるか」


「ありません」


「なら、今あるのは誰の規則だ」


直樹は答えなかった。


答えれば、自分の中にしかないと認めることになる。


しかし、それは思い込みではない。


生きてきた場所で、何度も確認した事実だった。


役に立たない者は、後ろへ回される。


命令を守れない者は外される。


歩けない者は残される。


任務を終えられない者に、次の席はない。


「現実の規則です」


直樹は言った。


松隈先生は、ゆっくり眼鏡を外した。


胸ポケットから布を出し、片方のレンズを拭く。


「そうか」


それだけだった。


直樹は顔を上げた。


反論が来ると思っていた。


松隈先生はレンズを光へかざした。


曇りが残っていないか確かめる。


「先生」


「何だ」


「違うと言わないんですか」


「お前は、今そう考えとる」


眼鏡が元の位置へ戻った。


「わしが違うと言って、変わる話でもない」


「では、何のために」


「お前が、自分とめぐみさんに別の規則を使っとると分かった」


「別ではありません」


「そう思うなら、考えればいい」


松隈先生が車椅子のブレーキを外した。


金属音が二度鳴った。


「もう戻れ。時刻を約束した顔をしとる」


直樹は壁の時計を見た。


午前六時三十二分。


七分ある。


「先生」


松隈先生は祭壇へ向き直りかけていた。


「俺は、雇い人ではありません」


車輪に掛けた手が止まった。


「そうか」


「めぐみを守りたいだけです」


「それも本当だろう」


松隈先生は、直樹を振り返らなかった。


「だから、厄介なんだ」


直樹は立ち上がった。


礼拝室の扉へ向かう。


右手で取っ手をつかんだ。


握ることはできる。


下げることもできる。


手を離す時だけ、指が遅れた。


左手を添えずに待つ。


一秒。


二秒。


小指が離れた。


扉を開ける。


廊下の白い光が、迷彩服の胸へ落ちた。


めぐみが握った皺が、はっきりと浮かんだ。


直樹は左手を上げた。


指先を皺へ近づける。


伸ばすことはできた。


病室へ戻る前に、形を整えることもできた。


直樹は手を下ろした。


松隈先生の言葉は正しくない。


役割は必要だった。


責任も、成果も必要だった。


何も差し出さずに残れる場所など、直樹は知らない。


廊下を歩き始めたあとも、一つの問いだけが離れなかった。


めぐみが、同じ条件を出した事実はあるか。


なかった。


直樹は反論を探した。


礼拝室の扉が、背後で静かに閉じた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。