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第百二十一話 帰る時間

## 第百二十一話 帰る時間


救急車の扉が閉まったあと、真柴直樹は前方救護所へ戻された。


右手の装具を外す。


バンテージを切る。


掌には、握り込んだ指の跡が残っていた。


中指と薬指は、開かれたあとも内側へ戻ろうとする。


医療員が手首の周囲を測った。


「痛み」


「七」


「痺れ」


「七」


「作戦前は」


「痛み三。痺れ四」


医療員が記録へ書く。


> 行動後増悪

> 冷却継続

> 巧緻動作禁止

> 帰投後再評価


「再損傷の所見はありません」


直樹が右手を見る。


「回復は」


「後退していません」


医療員は指を一本ずつ開いた。


「使いすぎて、反応が落ちています」


「次の行動は」


「数日は止めます」


「数日」


「永久とは言っていません」


新しいバンテージを巻く。


冷却材を布で固定した。


医療員が小さな薬包を出す。


表には赤い文字が印刷されていた。


> 服用後の飲酒禁止


「頓服です」


「はい」


「眠気が出ることがあります」


「分かりました」


「飲酒は禁止」


「分かりました」


直樹は薬を水で飲んだ。


医療員が空の薬包へ服用時刻を書き、胸ポケットへ入れた。


その時、扉が開いた。


末安えりが入ってくる。


三枚の書類を持っていた。


一枚目を医療員へ渡す。


二枚目を直樹の前へ置く。


三枚目は、最初の二行だけ見て折り畳んだ。


「数字が違う」


医療員が顔を上げる。


「どこですか」


「三段目」


「まだそこまで読んでませんよね」


「目次で分かる」


えりは直樹の右手を見る。


「切断は」


「していません」


「なら帰れる」


医療員が言う。


「そういう判断ではありません」


「帰投可能?」


「条件付きで」


「条件だけください」


えりはペンを構えた。


「右手を使わない。冷却継続。異常時は停車。到着後、再診」


四項目を書き終える。


「終了」


直樹が訊く。


「移送は」


「北側の連絡車両」


「医療車では」


「救出した男性を優先する」


えりは二枚目の書類を指で叩く。


移送先。


到着予定時刻。


帰投確認時刻。


引受担当者。


引受欄には、すでに名前がある。


大庭航平。


直樹が名前を見る。


「信用できますか」


「あなたの知り合いでしょう」


「知っています」


「質問に答えてない」


「射撃と運転はできます」


「人格の話」


直樹は答えなかった。


えりは書類を回収する。


「もう不安」


     *


回収地点の脇に、武器取扱員が待っていた。


直樹は八九を渡す。


弾倉。


薬室。


安全位置。


順に確認される。


折曲銃床が畳まれた。


八九は専用ケースへ収められる。


名前のない迷彩服から、銃が離れた。


大庭も長い観測銃を下ろす。


記録媒体だけを抜き、北側の武器輸送担当へ渡した。


「再会した日に二人とも丸腰か」


大庭が言う。


「帰投だ」


直樹が答える。


「お前、帰る時も戦う顔してるけどな」


北側の連絡車両が待っていた。


灰色の小型車。


軍用車両ではない。


荷室には個人装備と観測記録だけが積まれている。


運転席には北側の連絡員。


助手席にいた大庭が、後部座席へ移った。


「患者様は窓側でよろしいですか」


「患者じゃない」


「右手を開いてから言え」


直樹は窓側へ座る。


えりが小型端末を差し出した。


作戦用の閉鎖回線は終了している。


帰投確認モード。


端末は胸元の小型センサーとつながっていた。


脈拍。


呼吸数。


装着状態。


通信圏内では短い間隔で同期される。


切断時には、最後の同期時刻だけが残る。


送信先は一か所。


聖マリア病院の臨時遠隔運用室。


送れるものも限られていた。


短い映像。


文字。


位置情報。


えりは大庭の認証札を端末へ当てる。


引受担当者として登録した。


「本人が操作できない時だけ使う」


「了解」


「生存、現在地、到着予定」


「了解」


「芸を披露する機能じゃない」


大庭が端末を見る。


「俺が何かするとでも?」


「する顔」


「顔で行政処分しないでくださいよ」


「したくなったら法令を探す」


えりは到着予定時刻を指す。


「十八時四十分」


「はい」


「変わったら即時連絡」


「はい」


「酒」


「仕事中です」


「仕事が終わったと勝手に判断しない」


「信用が薄いなあ」


「今、底を探ってる」


大庭が笑った。


えりは笑わない。


車の扉を閉める。


窓を二度叩いた。


「帰して」


短く言った。


     *


車両が富士東麓の道を下った。


木立。


崩れた斜面。


使われなくなった検問所。


路面には、境界線を示した塗料を削った跡が残っている。


直樹は窓側へ座っていた。


右手には新しいバンテージ。


冷却材が布で固定されている。


大庭が横顔を見る。


「マッシー」


「何だ」


「本当に帰る場所ができたんだな」


直樹は窓の外を見る。


「前からある」


「十年いなかったくせに」


「なくなってはいない」


大庭の口元が少し動いた。


「妖精さん、何者だ」


「宮崎めぐみ」


「名前は知ってる」


「なら訊くな」


「どういう人か訊いてる」


直樹は答えない。


大庭が続ける。


「お前を送り出して、病院で待ってる女だろ」


「そうだ」


「それだけ?」


「それ以上、何が要る」


大庭が笑う。


「マッシーらしい説明だな」


車体が大きく揺れた。


右手首へ振動が入る。


直樹の眉が少し動く。


「痛みは」


「七」


「薬は」


「飲んだ」


「寝ろ」


「航空拠点までは起きています」


「そこまで信用ない?」


「お前にはある」


大庭が胸へ手を当てた。


「うれしいねえ」


「だから起きている」


「逆の意味かよ」


     *


山道を抜ける前に、車載端末が鳴った。


運転手が通信を開く。


『東部夜間便、運航延期』


大庭が顔を上げる。


『東部上空の飛行回廊閉鎖。次回の運航判断は、明朝〇五〇〇』


運転手が復唱した。


「夜間便、延期。次回判断、明朝五時」


通信が切れる。


大庭が直樹を見る。


「今夜は飛ばない」


直樹は帰投端末を取ろうとした。


左手の動きが遅れる。


「連絡する」


「俺が送る」


「内容は」


「便の延期。現在地。生存」


「今、送れ」


「道路を出てからな。揺れてる」


直樹は大庭を見る。


大庭が端末を持ち上げる。


「引受担当者」


「送れ」


「分かってる」


直樹はそれ以上言わなかった。


     *


日が傾いた。


右手の痺れ。


地下の湿った空気。


射撃の反動。


救出した男の白い番号札。


身体の輪郭が少しずつ遠くなる。


大庭が内ポケットから、平たい金属ボトルを出した。


「復帰祝い。前払い」


「いらない」


「水くらい飲め」


直樹はボトルを受け取る。


蓋を開ける。


匂いを確かめず、一口飲んだ。


喉が焼ける。


直樹が大庭を見る。


「水じゃない」


大庭が反対側のポケットを探る。


透明な水筒が出てきた。


「あ」


「今のは何だ」


大庭は金属ボトルを取り返した。


「おっと。悪いな。仕事用のだった」


「何の仕事だ」


「人に聞かせられない方」


直樹は水筒を受け取った。


水を飲む。


「捨てろ」


「高いんだぞ」


「捨てろ」


「航空拠点でな」


数分が過ぎた。


大庭が何かを話す。


直樹の返事は、少し遅れた。


もう一度、車体が揺れる。


水筒が左手から滑った。


頭が窓から外れる。


大庭の肩へ落ちた。


「真柴」


返事がない。


大庭が頬を軽く叩く。


眉が動く。


呼吸は続いている。


顔色も大きくは変わっていない。


首へ指を当てる。


脈は触れる。


瞼を持ち上げる。


瞳が夕方の光へ反応した。


「寝るなら言えよ」


直樹は目を開けなかった。


運転席の連絡員が、鏡越しに後ろを見る。


「止めますか」


大庭は呼吸をもう一度確認する。


「疲れて寝ただけだ」


「救護所へ寄りますか」


「呼吸も脈もある」


大庭は直樹の身体を横へずらした。


頭が窓へ当たらない位置へ置く。


毛布を肩へ掛ける。


「酔っ払いの介護は、本職より慣れてる」


直樹の胸ポケットには、空になった薬包が入っていた。


大庭は気づかなかった。


     *


夜間便は飛ばない。


次の運航判断まで、十時間以上ある。


運転手が訊く。


「航空拠点の待機所へ向かいますか」


大庭は眠る直樹を見る。


座ったまま休ませるより、横にできる場所がいい。


前方の古い商業区画に、大庭の知る店があった。


境界が引かれる前から残っている飲み屋。


裏口から車をつけられる。


店主は北側の連絡員とも顔見知りだった。


連絡員や避難者を休ませたこともある。


「店で横にする」


大庭が言う。


「運航判断まで休ませる」


「帰投連絡は」


大庭は端末を見る。


「店へ着いたら送る」


判断自体は、無茶ではなかった。


眠る人間を暖かい場所で横にする。


運航再開まで待つ。


問題は、その先だった。


車両が予定経路を外れる。


山間の中継圏から外れ、位置情報が途切れた。


     *


古い飲み屋の裏口。


看板灯は消されていた。


大庭が店主へ事情を話す。


「朝まで、奥を借りる」


「また死体みたいな人を持ってきたの?」


「生きてる」


「毎回それ言う」


直樹は店の奥のソファへ運ばれた。


横向きに寝かせる。


右手へ氷嚢を当てる。


靴は脱がせない。


上着の前だけを緩める。


店の女が呼吸を見る。


「ずいぶん疲れてるね」


「久しぶりに働いたからな」


「この手は?」


「仕事で壊した」


「病院の人?」


「だいたいそんな感じ」


女が額へ濡れた布を置いた。


「熱はない」


別の女が水を用意する。


「目が覚めたら飲ませる」


「助かる」


大庭はソファの前へ座った。


金属ボトルをテーブルへ置く。


帰投端末も並べる。


まず、予定変更を送るべきだった。


大庭は眠っている直樹を見た。


呼吸は続いている。


航空便は飛ばない。


暖かい場所で休ませている。


待っている側に、時刻がどんな意味を持つかまでは考えなかった。


     *


聖マリア病院。


めぐみは、直樹の帰投予定を表示した画面を見ていた。


十八時四十分。


航空輸送拠点到着。


十九時十分。


搭乗手続き。


二十時三十分。


東部側離陸。


翌朝。


聖マリア病院へ帰着。


十八時四十分。


通知は来ない。


五分。


十分。


十五分。


めぐみは記録板へ書く。


> 予定は変わった?


送信する。


応答はない。


十九時を過ぎる。


> 痛みが強い?


応答はない。


使わなかったバンテージが、机の上に残っている。


丸く巻かれたまま。


時計の針が進む。


> 眠ってる?


まだ返らない。


二十時。


搭乗時刻を過ぎた。


めぐみは喉へ手を置いた。


「なお」


小さな声だった。


返事はない。


記録板へ書く。


> なおは生きてる?


前方医療区画にいるえりへ文字が届く。


えりは別の報告書を処理していた。


最初の行だけ読み、赤い印を押す。


次の紙を取る前に、めぐみの文字が見えた。


手が止まる。


直樹の生体記録を開く。


脈拍。


呼吸。


装着状態。


画面の下に時刻が表示されていた。


> 最終同期 十八時十二分


現在の数値ではない。


えりはすぐに返信する。


> 最後の同期時点では生体情報あり。現在位置を確認する。


めぐみから返る。


> 今も?


えりの指が止まった。


答えられない言葉は書かない。


> 現在情報なし。今から取る。


その下へ、めぐみが書く。


> 帰る時間、変わったの?


えりは大庭の移送引受書を開いた。


到着予定。


連絡時刻。


どちらも過ぎている。


「夜間便」


通信員が振り向く。


「東部回廊閉鎖で延期です。次回判断は明朝五時」


「延期通知は」


「十八時前」


「帰投端末からの連絡」


「なし」


えりは引受書の名前を見る。


「大庭航平」


北側連絡車両を呼び出す。


一度目。


応答なし。


二度目。


応答なし。


三度目は掛けなかった。


「位置」


「最後の記録は正規経路。その後、中継圏外」


「引受担当者の緊急連絡先」


通信員が画面を開く。


えりは煙草を一本取り出した。


火はつけない。


指の間で一度回す。


「三十秒で出して」


     *


店の中。


大庭は一杯目のグラスを持っていた。


直樹はまだ眠っている。


女が氷嚢を交換する。


「この人、起きないね」


「疲れてるんだよ」


「病院へ連絡した?」


大庭は帰投端末を見る。


画面には大きなカメラの印が出ている。


本人か、登録された引受担当者だけが使える。


大庭の認証は通っていた。


「これで送ればいいんだろ」


端末を持ち上げる。


画面に自分の顔が映る。


送信先は表示されない。


選択肢もない。


大きな送信ボタンだけがある。


大庭は隣の女へ腕を回した。


「オキニの姉ちゃんです」


女が笑う。


「誰に送るの?」


「マッシーの妖精さん」


「本当にいるの?」


「俺も確認中」


「私の顔、送っていい?」


「嫌ならやめる」


女はカメラを見る。


「いいよ」


大庭がキスをする。


女も応じた。


二人で笑う。


大庭が端末を、眠っている直樹へ向ける。


ソファの左右には別の女が座っていた。


一人が氷嚢を持つ。


もう一人が水のグラスを持っている。


「マッシーは復帰祝いの途中で寝ました」


女の一人が、小さな化粧道具を見せる。


写真用の唇形スタンプ。


「この人にはキスしないからね」


眠っている直樹の頬へ、赤い形を押す。


実際には、誰も直樹へキスをしていない。


写真では、そうは見えなかった。


大庭が送信ボタンを押した。


予定変更。


現在地。


直樹の状態。


本来送るべき三つは、どれも言わなかった。


接続圏へ戻った端末から、映像だけが送られる。


送信先は一か所。


聖マリア病院の臨時遠隔運用室。


     *


通知音が鳴った。


めぐみが画面を見る。


薄暗い店。


女性に挟まれ、目を閉じている直樹。


右手には氷嚢。


頬には赤い唇の形。


知らない男が女性の腰へ手を回している。


二人が笑う。


カメラの前でキスをする。


最後に、眠る直樹の顔が映った。


『オキニの姉ちゃんです』


男が笑う。


『マッシーは復帰祝いの途中で寝ました』


めぐみは女性を見なかった。


最初に見るのは、直樹の胸だった。


上下しているか。


頬の色。


右手の氷嚢。


口が開いていないか。


苦しそうではないか。


そのあとで、赤い唇の跡を見る。


めぐみの指が止まった。


記録板へ書く。


> なおは、自分で行ったの?


えりは答えられない。


映像の直樹は眠っている。


自分で店へ入ったのか。


運ばれたのか。


何も分からない。


めぐみが次の行を書く。


> 帰るって言った。


文字が少し震えた。


> 私が待ってること、忘れた?


めぐみは泣かなかった。


声も出さなかった。


記録板を膝へ置く。


残ったバンテージを両手で握る。


直樹の手首へ巻いた時と、同じ強さで。


えりは映像を一度だけ見た。


大庭の顔。


店の壁。


カウンター奥の照明。


窓に映る看板の一部。


停止する。


送信記録を開く。


外部回線。


商業区画。


登録名は飲食店。


引受書の緊急連絡先と番号が一致した。


「見つけた」


通信員が顔を上げる。


「早いですね」


「遅い」


えりは道路状況を開く。


夜間の境界橋は封鎖中。


緊急通行には、前方医療責任者と境界管理側の承認が必要だった。


えりは二つの回線を同時に開く。


「患者回収」


『申請書を——』


「後で出す」


『先に必要です』


「今から人が死ぬ可能性と、紙が遅れる可能性。どっちを取る?」


返事を待たない。


もう一つの回線へ切り替える。


「境界橋、医療緊急」


『責任者確認を』


「私」


『資格番号を』


えりは番号を一息で言う。


通信員へ指を向ける。


「車」


「橋の許可は」


「走ってる間に取る」


煙草をくわえる。


火はつけない。


「患者の回収」


     *


夜間通行許可が下りたのは、午前四時を過ぎてからだった。


境界橋の遮断機が上がる。


えりの車両が通過する。


大きなカーブ。


濡れた路面。


商業区画へ入った。


空が白み始めている。


     *


直樹は、薄暗い店のソファで目を開けた。


右側には一人の女。


氷嚢を右手首へ当てている。


左側の女は、水の入ったグラスを持っていた。


「起きた」


「水、飲めます?」


直樹は身体を起こす。


頭が重い。


喉が乾いている。


右手の感覚が薄い。


窓の外が明るい。


「今、何時だ」


正面の席で、大庭が顔を上げた。


グラスは一つだけ空になっている。


「朝」


「帰投は」


「夜の便は飛ばなかった」


直樹の目が止まる。


「連絡は」


「おいおい」


大庭が笑う。


「俺たち、もう営内者じゃないんだぜ」


直樹の端末を指した。


「とりあえず、お前のよく分からん端末で、オキニの姉ちゃんとのキスシーンを送っておいたよ」


直樹は大庭を見る。


「誰に送った」


「つながってた先」


「大庭」


「合意済みだぞ。そこは安心しろ」


隣に座る女が手を上げる。


「私のは合意済み」


直樹は左手で頬へ触れた。


指へ赤い口紅がつく。


「これは」


反対側の女が、唇形の化粧スタンプを見せる。


「店の写真用」


「寝てる人にキスはしてないよ」


直樹は端末を取る。


送信履歴。


聖マリア病院。


臨時遠隔運用室。


宮崎めぐみ。


既読。


その下に、未読の文字が並んでいる。


直樹の呼吸が止まった。


「帰る」


大庭がグラスを置く。


「起きて三秒で帰るなよ、マッシー」


直樹が立ち上がる。


「お前を連れて帰る」


大庭の笑顔が少し固まった。


店の外から声がした。


「前方医療。開けて」


大庭が入口を見る。


「誰だ?」


鍵は掛かったまま。


音楽が小さく流れている。


店主は奥で眠っていた。


二度目の警告はなかった。


甲高いタイヤの音。


急制動。


店内のグラスが震える。


車の扉が開く。


二歩分の足音。


次の瞬間。


重い破砕音が鳴った。


古い扉が、錠前ごと内側へ倒れる。


埃。


タイヤの煙。


朝の光。


その中から、えりが入ってきた。


右手には救助用破砕器具。


口元には、火のついた煙草。


笑っている。


目だけは、少しも笑っていない。


「末安です」


店内を見回す。


直樹。


頬の口紅。


右手の氷嚢。


女性たち。


グラス。


大庭。


「保全・行政調整担当」


大庭が小さく言う。


「マッシー」


「何だ」


「妖精じゃない方が来たぞ」


えりは直樹の前へ来る。


瞳を見る。


呼吸を見る。


右手を見る。


「気分」


「頭が重い」


「吐き気」


「ない」


「立てる?」


「立っています」


「質問に答えて」


直樹は一度、腰を落とす。


立ち直る。


「立てます」


「採用」


えりは直樹の胸ポケットへ手を入れた。


折られた薬包が出てくる。


赤い警告表示。


> 服用後の飲酒禁止


次に、テーブルの金属ボトルを見る。


「これを飲んだ後に、酒を渡した?」


大庭の笑顔が止まった。


「一口だけだ」


「量は訊いてない」


「寝てただけだ」


えりは薬包をテーブルへ置く。


「寝てるのと、薬で反応が落ちてるのは別」


「呼吸も脈も見た」


「帰る時間は?」


大庭が黙る。


えりは直樹の端末を取る。


未読の文字が並んでいた。


> 予定は変わった?

> 痛みが強い?

> 眠ってる?

> なおは生きてる?

> 帰る時間、変わったの?


最後の一文。


> 私が待ってること、忘れた?


直樹の左手が止まった。


大庭が画面を見る。


笑いは戻らない。


えりは煙草を指で挟む。


灰が、倒れた扉の上へ落ちた。


「宮崎さんが」


静かに言う。


「一晩、待ってる」


店の中から音が消えた。


えりはすぐに背を向ける。


「出る」


大庭が言う。


「今?」


えりは振り返らない。


「今以外ある?」


     *


前方医療区画へ戻る車内。


直樹は後部座席へ座っていた。


えりが隣。


大庭は反対側。


女性たちは店に残った。


壊した扉の修理費は、大庭の名義で記録された。


えりがその場で登録した。


「早いな」


大庭が言う。


「忘れる前に取る」


直樹の右手には、新しい氷嚢。


頬の口紅は濡れた布で拭かれている。


薄い赤だけが残っていた。


「痛み」


えりが訊く。


「七」


「痺れ」


「七」


「連絡」


「直接話す」


「生存だけ先」


直樹は端末を見る。


「今、送る」


左手で文字を打つ。


> 生きてる。

> 予定を破った。

> 今日、戻る。


送信する。


返事は来ない。


直樹は画面を見続ける。


大庭が前を向いたまま言う。


「真柴」


「何だ」


「悪かった」


直樹は大庭を見ない。


「俺に言うな」


大庭の口が閉じた。


えりは窓の外を見た。


指の間の煙草を折る。


「本人に言うまで、謝罪に数えない」


     *


次の定期連絡輸送便へ、三人分の座席が確保された。


直樹。


えり。


大庭。


大庭は本来、北側へ戻る予定だった。


えりは北側窓口と久世へ同時に連絡を入れた。


事情を三十秒で説明する。


返答を待つ。


『同行させろ』


久世の声。


北側窓口も承認する。


えりが端末を閉じた。


「九州まで来てもらう」


「電話じゃ駄目?」


「駄目」


「行政って怖いな」


えりは煙草を一本取り出した。


火はつけない。


指の間で回す。


「まだ行政の話しかしてない」


大庭は黙った。


固定翼輸送機が西へ飛ぶ。


直樹は窓側へ座っている。


右手は膝の上。


めぐみからの返信はない。


大庭は通路側。


何度か口を開く。


一度も声を出さなかった。


     *


聖マリア病院へ戻ったのは、その日の夕方だった。


予定より、一晩遅い。


前方医療区画で、汚れた迷彩服は回収された。


直樹が着ているのは、別の借り物だった。


氏名章はない。


階級章もない。


部隊ワッペンも外されている。


縫い跡だけが、布へ残っていた。


直樹は病室の前に立つ。


えりが横から扉を開ける。


「入って」


直樹が一度止まる。


「早く」


「準備が」


「一晩あった」


直樹は病室へ入った。


めぐみはベッドの端へ座っている。


膝には記録板。


机の上には、送り出す時に残ったバンテージ。


直樹を見る。


顔。


胸。


右手。


頬。


一つずつ確認する。


直樹が言う。


「戻った」


めぐみは返事をしない。


記録板へ書く。


> 帰るって、いつ?


「昨日の予定だった」


> 帰る時間、言ったよね。


「言った」


> 変わったら連絡するって。


「言った」


めぐみの筆が止まる。


> 私が待ってること、忘れた?


「忘れていない」


めぐみが顔を上げる。


直樹は続けた。


「連絡しなかった」


「便が延期になった」


「大庭に送らせなかった」


「車が経路を変えた」


「止めなかった」


「眠った」


「約束を破った」


めぐみは記録板へ書く。


> 女の人は?


「何もしていない」


> 頬は?


「眠っている間につけられた」


> あの人は?


「大庭航平」


> 友達?


直樹は一拍置いた。


「同期です」


めぐみは文字を消さない。


次の行へ書く。


> なおが楽しそうだったから怒ってるんじゃない。


筆圧が少し強くなる。


> 私の知らないところで、また帰ってこなかったのが怖かった。


直樹は、すぐには答えなかった。


残ったバンテージを握る手を見る。


一晩、端末を見続けた手。


「次から」


直樹が言う。


「帰投時刻が変わった時点で連絡する」


「自分でできなければ、同行者に送らせる」


「端末を目的以外に使わせない」


「眠る前に、現在地と帰る時刻を残す」


めぐみは聞いている。


「同じことをしない」


めぐみが書く。


> できる?


「できる」


> 絶対?


直樹は、その文字を見る。


「絶対とは言わない」


めぐみの目が揺れる。


直樹は続ける。


「できなかった時、隠さない」


「戻る手順を消さない」


めぐみはしばらく動かなかった。


それから書く。


> まだ怒ってる。


「分かってる」


> すぐ許さない。


「分かってる」


> でも、帰ってきた。


直樹は小さく頷く。


「帰った」


めぐみは直樹の右手を見る。


触れない。


代わりに椅子を一つ引いた。


自分の隣へ置く。


直樹はそこへ座る。


二人の間には、まだ少し距離があった。


めぐみは、その距離を消さない。


直樹も、勝手には近づかなかった。


     *


病室の外。


大庭は壁へ背を預けていた。


えりは立ったまま、三件の連絡を処理している。


一件目。


扉の修理費。


二件目。


直樹の再診。


三件目。


大庭の北側帰投延期。


すべて終える。


端末を閉じた。


「入って」


「今?」


「今」


「明日でも」


「一晩待った人に、また待たせるの?」


大庭は扉を見る。


軽口を探す。


見つからない。


えりが扉を開ける。


「五分」


大庭が病室へ入った。


直樹を見る。


めぐみを見る。


初めて、正面から顔を合わせる。


めぐみは大庭を見上げた。


大庭の口元が一度だけ動く。


いつもの笑いにはならなかった。


「宮崎さん」


めぐみは記録板へ書く。


> 写真を送った人ですか。


「はい」


> なおは何もしてない?


「何もしてません」


「頬の跡も、店の化粧道具でつけただけです」


めぐみは首を横へ振る。


次の行を書く。


> なおのことじゃありません。


大庭の言葉が止まる。


> 待っている人に、あの写真を送ったあなたのことです。


大庭は記録板を見る。


冗談を言わない。


金の話もしない。


「悪かった」


めぐみは、すぐには返事を書かなかった。


大庭は逃げずに待つ。


しばらくして、めぐみが書く。


> 次は、帰す側にいてください。


大庭が文字を読む。


直樹を見る。


右手。


名前のない迷彩服。


病室の椅子。


もう一度、めぐみを見る。


「了解しました」


直樹の方へ向き直る。


「次は帰す」


直樹が答える。


「最初からそうしろ」


大庭は少しだけ笑った。


今度の笑いには、逃げるための軽さがなかった。


えりが腕時計を見る。


「四分二十秒」


大庭が振り返る。


「五分じゃ」


「余った」


扉を開ける。


「出る」


大庭が病室を出る。


えりも続く。


扉が閉じた。


     *


廊下を歩きながら、大庭が訊いた。


「満足ですか」


えりは足を止めない。


「何が」


「うまくいった顔してる」


「してない」


「してますよ」


えりは大庭を見る。


「扉代、払って」


「ほら、照れてる」


「追加するよ」


大庭は口を閉じた。


角を曲がったところで、えりは一度だけ病室の扉を見る。


すぐ前を向いた。


歩く速度は変えなかった。


     *


病室に残ったのは、空調の音だけだった。


直樹は椅子に座っている。


めぐみは記録板を膝へ置いたまま、閉じた扉を見ていた。


二人の間には、まだ椅子一つ分の距離がある。


直樹が言う。


「休んだ方がいい」


めぐみは動かない。


「一晩、寝てないだろ」


記録板へ書く。


> なおのせい。


「分かってる」


> まだ怒ってる。


「分かってる」


> 許してない。


「分かってる」


直樹は、それ以上言わなかった。


めぐみは記録板を置く。


椅子から立ち上がった。


直樹の前へ来る。


借り物の迷彩服。


氏名章を剥がした跡。


階級章のない胸。


新しいバンテージ。


頬へわずかに残った赤。


めぐみは左手を上げる。


直樹の頬へ触れた。


親指で赤い跡を擦る。


一度。


まだ残る。


もう一度、強く擦る。


直樹の顔が少し横へ動いた。


「痛い」


めぐみは、もう一度擦った。


「めぐみ」


ようやく止める。


直樹の頬から、赤い色はほとんど消えていた。


めぐみの指先にだけ残っている。


それを見る。


唇を結ぶ。


直樹の迷彩服を、左手でつかんだ。


胸の縫い跡へ指が掛かる。


直樹は動かなかった。


めぐみが額を、その胸へ当てる。


送り出す前と同じ場所。


今度は呼吸だけではなかった。


耳を押し当てる。


鼓動を聞く。


生きている。


ここにいる。


また消えてはいない。


めぐみの指が、迷彩服を強く握った。


直樹が訊く。


「触っていいか」


めぐみは額を当てたまま頷く。


直樹の左腕が上がった。


めぐみの背中へ回る。


右手は膝の上。


左腕だけで抱く。


めぐみの身体から、少しずつ力が抜けた。


声が漏れる。


「なお」


「いる」


「なお」


「ここにいる」


めぐみは首を横へ振った。


記録板は椅子の上にある。


もう書けない。


直樹の胸へ額を押しつけたまま、息を吸う。


「今だけじゃ、ない」


掠れた声だった。


直樹の左手が、背中で止まる。


「帰る時間を残す」


めぐみは、また首を振った。


直樹は言い直す。


「帰る」


迷彩服をつかむ指が、少し強くなる。


「待ってる」


「分かってる」


「忘れないで」


「忘れない」


「一人に、しないで」


直樹はすぐに答えなかった。


できない約束ではなく、守れる言葉を探すように息を置く。


「遅れる時も、消えない」


「必ず知らせる」


「帰る道を残す」


めぐみは、それ以上言わなかった。


怒りは消えていない。


許したわけでもない。


それでも、直樹の胸から耳を離さなかった。


直樹も動かない。


めぐみの指が作った迷彩服の皺を見た。


直そうとはしなかった。


左腕の中にある体温を、どう扱えばいいのかはまだ分からない。


ただ、離してはいけないことだけは分かった。


廊下の向こうで、えりの速い足音が遠ざかっていった。


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