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第百十九話 折れた翼

##第百十九話 折れた翼


三度目の音を確認してから、五日が過ぎた。


聖マリア病院のリハビリ室に、小さな金属音が響いた。


真柴直樹の右手から、ドライバーが落ちた音だった。


工具は床を転がり、椅子の脚へ当たった。


理学療法士は拾わない。


作業台の上には、太さの違う道具が並んでいた。


細いドライバー。


六角棒。


木製の円柱。


ゴムで覆われた太い金属棒。


直樹は右手を開いた。


指が、時間をずらして動く。


左手でドライバーを拾った。


右の手のひらへ置く。


親指と人差し指で柄を挟んだ。


先端を、板へ固定されたネジの溝へ合わせる。


滑った。


指の位置を変える。


柄だけが手の中で回った。


「止めましょう」


理学療法士が言う。


「もう一度」


「同じ結果になります」


直樹は左手で、右の薬指を動かした。


柄の下へ入り込んだ指を戻す。


先端をネジへ当てる。


手首を回そうとした。


ドライバーが横へ外れた。


床へ落ちる。


理学療法士は、今度は工具を拾った。


「指を別々に動かせていません」


「握れます」


「握ることと、回すことは別です」


太い金属棒が差し出された。


直樹は右手を開く。


指が遅れて広がる。


棒を手のひらへ入れた。


握る。


太さのある柄には、五本の指がまとめて巻きついた。


「保持」


理学療法士が計時を始める。


五秒。


十秒。


十五秒。


右腕が震える。


直樹は離さない。


理学療法士が棒の端を引いた。


直樹の右肘が曲がる。


肩が後ろへ引かれた。


棒を胸郭へ寄せる。


指先ではなく、肘と背中で力を受けた。


理学療法士が引く方向を変える。


直樹は足を床へ踏み込み、棒を身体へ固定した。


「終了」


理学療法士が力を抜く。


直樹は右手を開こうとした。


指が動かない。


棒が手の中に残る。


「離してください」


「やっています」


左手で右の親指を押した。


棒が作業台へ落ちた。


直樹の右手は、何もない空間を握ったまま止まっていた。


理学療法士が手首を支える。


指を一本ずつ開いた。


「保持はできます」


記録板へ書く。


> 太径円柱保持 十五秒

> 牽引抵抗 可

> 体幹固定 可

> 随意解放 遅延

> 指分離運動 不良

> 回旋操作 不可


「押す。引く。身体へ固定する。そこまではできます」


直樹は開かれた指を見る。


「衝撃は」


「まだ試していません」


「次にお願いします」


理学療法士の筆が止まった。


「戦うための試験ではありません」


「戻るために必要です」


「どこへ戻るかは、医師が決めます」


床に、小さなネジが一つ落ちていた。


直樹は右手を伸ばした。


親指と人差し指を閉じる。


ネジは指の間から逃げた。


もう一度つまもうとする。


宮崎めぐみが先に拾った。


ネジを作業台の皿へ戻す。


直樹の前へ立つ。


記録板へ書いた。


> 細いものは持てない。


直樹は太い金属棒を見る。


「今は」


めぐみは続きを書く。


> 太いものは、離せない。


直樹は右手を見る。


理学療法士は器材箱を持ち、部屋を出ていった。


めぐみは記録板を椅子へ置く。


直樹の右手を、両手で包んだ。


まだ完全には開かない指を、無理に伸ばさない。


直樹の手の形に、自分の指を合わせる。


掌の中へ手を入れるのではなく、外側から支えた。


「痛くない」


直樹が言う。


めぐみは首を振った。


直樹の痛みのことを言っていた。


記録板を引き寄せる。


片手で書いた。


> 無理に使わないで。


「使える動きは増えています」


めぐみは、次の二文字を大きく書いた。


> なおも。


直樹は、その文字を見る。


めぐみが喉元へ手を置いた。


「無理に話すな」


めぐみは眉を寄せる。


直樹の右手を包んだまま、もう一度、二文字を指した。


> なおも。


直樹は返事をしなかった。


右腕の力だけを抜いた。


めぐみも、すぐには手を離さなかった。


     *


二度目の偵察は、その日の午後に始まった。


旧南第三から運び出された二機の無人機が、河川側の発進地点へ並べられている。


前回使った鳥型機。


FJ―七一九―甲。


一回り小さい狭所用機。


FJ―七一九―乙。


甲は、通信管の分岐まで入る。


そこで中継と音響監視を行う。


乙は、壁の隙間から奥へ入る。


乙の後部には、細い光通信線が巻かれていた。


無線が落ちても、甲までの映像だけは線で戻せる。


発進地点から通信管の分岐までは、乙を追従モードにする。


直樹が直接操作するのは甲だけ。


甲が通過した経路を、乙が一定距離を保って自動でなぞる。


分岐へ着いた後に甲を固定し、主操作を乙へ切り替える。


富士川混成大隊の通信区画では、久世真央一等陸尉が二機分の状態を見ていた。


甲。


乙。


中継器三基。


河川側発進車両。


健軍地下中枢。


聖マリア病院。


すべての接続灯が白く点いている。


『真柴』


「はい」


『右手』


「主操作には使いません」


『聞いていない』


直樹はゴーグルの位置を直した。


「痛み、四。痺れ、五」


『終了時も申告しろ』


「了解」


『今日は姿を取る』


「はい」


『救出はしない』


直樹の左手が操作グリップを握る。


「確認だけです」


久世は返事をしなかった。


同じ言葉を、任務の終わりまで守れるかを見ていた。


病室の折り畳み式表示装置は黒い。


めぐみはベッドの端へ座っている。


赤い蓋の遮断スイッチは、右手の届く位置にあった。


末安えりは接続記録を確認する。


「人物映像が取れた場合」


直樹はゴーグルを下ろしたまま答えた。


「俺が選んだ範囲だけ共有します」


「顔照合は」


「行いません」


「文字認識は」


「機体内だけです」


えりは端末の設定を見る。


顔照合。


外部人員照合。


施設管理記録への接続。


すべて遮断されている。


「外へは出さない」


直樹が言う。


「久世一尉側でも切っています」


えりは保存先を確認した。


「こっちでも切ってる」


「二重ですか」


「一人が信用できないという意味じゃない」


えりは遮断証明を紙へ出す。


「一つが壊れても、勝手に名前を拾わないようにする」


めぐみが記録板へ書いた。


> 名前は、本人に聞く。


えりは読む。


「それも記録条件に入れる」


直樹のゴーグル内で、現地映像が開いた。


     *


河川側で、甲が離床した。


乙は二秒遅れて浮く。


追従モードの表示が点いた。


甲が木立の陰へ入る。


乙は、甲が通過した線をそのままなぞった。


監視塔。


倒れた電柱。


濡れた堤防。


前回と同じ経路。


甲が公民館の外壁へ着地した。


翼を閉じる。


格子の隙間へ入る。


乙が続いた。


管の内側には、前回ついた小さな傷が残っている。


甲の鉤が擦った跡。


中継子機を置いた跡。


奥へ進む。


水滴。


泥。


小動物の骨。


鉄板のある分岐。


直樹は右側の下りへ甲を入れた。


『速度』


久世が言う。


直樹は入力を一段落とした。


「前回の経路です」


『今日は後ろに一機いる』


甲が配管の段差へ腹を打った。


映像が一度揺れる。


後ろの乙も速度を落とした。


『慣れた場所で二機落とすな』


直樹は答えない。


前回、三度目の音を拾った場所へ着く。


甲を配管の継ぎ目へ固定する。


翼を閉じる。


音響収集を開始。


『甲、固定』


追従モードが解除された。


直樹の主操作表示が、甲から乙へ切り替わる。


「乙を出します」


乙が甲の横を通った。


壁の奥から、まだ音はしない。


直樹は地図を重ねる。


K系統第四支線。


末端受領子。


正式図面には存在しない空白。


前回の打音位置。


乙の暗所カメラが、壁面をなぞった。


コンクリート。


錆。


切られた配線。


塗り重ねられた補修材。


『右上』


久世が言う。


直樹は視線を上げる。


古い通信線の束が、補修材の内側へ入っていた。


線の周囲だけ、完全には埋められていない。


狭い隙間。


開口は三十二ミリ。


乙が通れる幅だった。


「侵入口、確認」


『線を先に出せ』


乙の後部から、細い光通信線を伸ばす。


甲の端子へ接続した。


無線経路。


有線経路。


二つの帰路が表示される。


「接続」


『入れ』


乙は翼を完全に畳んだ。


六本の細い脚を壁へつける。


通信線を引きながら、隙間へ入った。


暗い。


カメラの左右が補修材へ触れる。


粉が落ちる。


一センチ。


三センチ。


七センチ。


内部で隙間が少し広がった。


乙が身体の向きを変える。


下へ進む。


古い配線に沿い、壁の裏側へ降りていった。


二酸化炭素濃度が上がり始める。


『換気が弱い』


久世が言う。


「人が長時間いられる数値ですか」


『決めるな』


直樹は答えを待つ。


『すぐに意識を失う値ではない』


「継続します」


『五分で出ろ』


「了解」


     *


壁の裏側には、細い保守通路があった。


人が横向きで通れる程度の幅。


床には古いケーブル。


錆びた工具。


空になった水容器。


灰色の布。


乙は壁へ張りつき、進む。


熱源表示が一度揺れた。


直樹が止める。


画面の左下。


暗い床の近く。


弱い熱がある。


『距離、四・二』


久世の声が低くなった。


直樹は暗所補正を上げない。


急に光量を変えれば、内部にいる人間を刺激する。


乙を壁の上へ登らせる。


低い位置から熱源の方を見る。


最初に映ったのは、靴だった。


黒い作業靴。


右足は床へ伸びている。


左足には、木片と配線を使った添え木。


足首の周囲が腫れていた。


機体を少し上げる。


灰色の作業服。


細くなった腕。


膝の上に置かれた工具。


男が、壁へ背を預けて座っていた。


頭は前へ落ちている。


動いていない。


直樹の左手が止まった。


『呼吸を取れ』


乙を横へ移す。


男の胸が見える角度へ変える。


作業服が、ゆっくり上下していた。


間隔は長い。


だが、止まってはいない。


「胸郭運動、確認」


『記録』


直樹は共有画面へ、男の胸元から下だけを出した。


顔は映さない。


めぐみが身を乗り出す。


細くなった身体。


添え木。


工具。


床に置かれた空の水容器。


記録板へ書く。


> 生きてる。


えりが横から見る。


「記録には、生存反応ありまで」


めぐみはえりを見る。


「生きてるを消すとは言ってない」


えりは画面へ視線を戻す。


「確かめた範囲だけ残す」


直樹は、二人のやり取りを見ていない。


ゴーグルの中で、男の右手を見ていた。


短い金属棒が握られている。


通信管を叩くために使った物だった。


男の指が、わずかに動いた。


乙の駆動音へ反応している。


「気づきます」


『下がれ』


直樹は機体を止めた。


『逃げ道を空けろ』


乙を男の正面から外す。


壁際へ寄せた。


男の頭が少し上がる。


顔は伸びた髪と髭に隠れていた。


ゆっくり周囲を見る。


乙を見つける。


男の身体が固くなった。


工具を握った右手が上がる。


振るだけの力は残っていない。


それでも、機体へ向けた。


直樹は乙を動かさなかった。


『距離を取れ』


「攻撃しません」


『相手が決める』


直樹は機体を二十センチ後退させた。


男は工具を構えたまま、乙を見る。


二つの光学センサー。


閉じた翼。


脚から伸びる細い通信線。


工具が少し下がった。


代わりに、男の左手が胸元へ動く。


灰色の作業服には、白い布札が縫いつけられていた。


> 保守要員

> 17


男は、自分の顔ではなく、その布札をカメラへ向けた。


救助機を見つけた人間の動きというより、点検を受ける時の身元確認に近かった。


乙の文字認識機能が反応する。


> 読取候補

> 保守要員17


えりの端末には、遮断状態が表示された。


> 外部照合 遮断済み

> 自動保存 禁止


「そのまま」


えりは設定が生きていることだけを確認した。


男は、まだ番号札をカメラへ向けている。


直樹は乙を少し横へ動かした。


番号ではなく、男の手と顔が画角へ入る位置へ移す。


「番号では呼ばない」


言葉は閉鎖回線の中にしか届かない。


男には聞こえない。


それでも直樹は言った。


男は機体を追う。


番号札をもう一度見せようとした。


途中で腕から力が抜ける。


左手が胸元から落ちた。


その拍子に、作業服の襟が少し開いた。


内側に、灰色とは違う布が見えた。


褪せた緑色。


小さな落下傘。


左右へ伸びる翼。


右側の翼だけが、途中から切り取られている。


布が擦れて欠けた跡ではない。


刃物を入れた直線が残っていた。


久世の声が低くなる。


『停止』


乙の映像が固定された。


『胸の内側だ』


直樹は拡大する。


『旧式の空挺徽章』


直樹は男の周囲へ視線を移した。


壁際の通信設備。


色の違う配線。


結束位置。


端子番号。


破損した回線を、一つずつ迂回させている。


正式手順を、その場にある材料へ置き換えた配線だった。


「通信職種の手です」


『可能性までだ』


工具箱の蓋に、薄い文字が残っている。


> 本部中隊

> 通信


名前の部分だけが削られていた。


「工具箱は本部中隊、通信」


『本人の物とは限らない』


「空挺徽章。配線技術。工具箱」


『三つあっても、本人に聞くまでは可能性だ』


「はい」


男は襟を閉じた。


切れた翼が、再び作業服の内側へ隠れる。


白い番号札だけが表へ残った。


     *


直樹は男の足元へ視線を向けた。


左足の踵が、小さな踏み板を押している。


男が身体をずらした。


踵が板から外れる。


天井の換気扇が止まった。


男はすぐに足を戻す。


換気扇が再び回り始める。


自動制御は死んでいた。


踏み板を押している間だけ、空気が動く。


「あれを離せません」


『理由は決めるな』


「少なくとも、離せば換気が止まります」


直樹は保守通路の奥を見る。


もう一枚の鉄扉があった。


扉の向こうの熱源は取れない。


厚い金属と壁が、センサーを遮っている。


乙が確認できる範囲に、別の熱源はない。


だが、鉄扉の向こうは見えていなかった。


換気が誰のために必要なのかも分からない。


めぐみが共有画面を見ながら書いた。


> 何を守ってるの?


直樹はゴーグルの中で、通信設備を追う。


古い受領子。


中継盤。


蓄圧機構。


床下へ続く二本の線。


久世が旧設備台帳を開いた。


『第四支線の先は三つ』


河川警報。


地下防災倉庫。


緊急換気。


現在、機械的に動いているのは換気だけだった。


「交代はいません」


『見えている範囲ではな』


直樹は男を見る。


左足で踏み板を押す。


右手の金属棒。


白い番号札。


服の内側に隠した翼。


男はまた、頭を壁へ預けた。


     *


通信盤の上で、小さな赤い灯が点いた。


男が顔を上げる。


赤い灯を確認した瞬間、姿勢が変わった。


工具を床へ置く。


配線へ手を伸ばす。


『照会信号』


久世が言う。


「どこからですか」


『施設管理側』


久世は信号の経路を追った。


『設備が動いているか、定時確認している』


赤い灯が二度点滅する。


男は二本の線をつなぎ替えた。


古い盤面に、一瞬だけ緑の灯がつく。


赤い灯が消えた。


『正常応答だけ返した』


「間隔は」


『二十分』


設備台帳の備考欄が開く。


> 二回連続未応答時

> 現地確認


「管理要員が来る」


『可能性がある』


「男は、それを知っています」


『動作からはそう見える』


直樹は外部映像を開いた。


甲は地下。


河川側の固定カメラが、公民館周辺を映す。


西側道路。


壊れた店舗。


裏手の狭い通路。


動く物はない。


赤い灯が消えた後も、男は配線を見続けていた。


次の照会までの時間を数えているようにも見える。


直樹は断定しなかった。


男が乙へ近づいた。


工具は持っていない。


床へ片手をつき、身体を少し引きずる。


左足は踏み板から離さない。


届く範囲まで来る。


乙の前へ、指を一本立てた。


一人。


一度。


一番。


何を示したのかは分からない。


男は指を下ろす。


今度は鉄扉を指した。


次に赤い灯。


最後に、自分の足元の踏み板。


扉。


照会。


換気。


直樹は順番だけを記録する。


男は乙の細い通信線を見る。


線へ手を伸ばした。


久世が言う。


『下げろ』


直樹は動かさなかった。


男の指が通信線へ触れる。


引き抜こうとはしない。


線を床へ押さえる。


古い配線の陰へ隠した。


外から保守通路へ人が入っても、すぐには見えない位置だった。


「こちらを隠した」


『可能性だ』


「はい」


男は元の位置へ戻る。


左足で踏み板を押す。


換気扇が回る。


胸元の番号札を前へ戻した。


     *


直樹は鉄扉を調べた。


外側に電磁錠の配線。


その横に警報線。


扉の下には、乾いた泥が残っている。


靴跡もあった。


男の靴より幅が広い。


新しい。


保守通路へ、外から入る者がいる。


久世が言う。


『電磁錠は機体では外せない』


「警報線は」


『切れば照会より先に分かる』


直樹は壁の厚さを音響測定する。


コンクリート。


鉄筋。


空洞。


「河川側最薄部、二百八十」


『人力では遅い』


「破砕機材が要ります」


『音も出る』


乙を通路の奥へ向ける。


床近くに古い点検口があった。


その先は途中で崩れている。


小型機なら通れる。


人間は通れない。


男の左足。


換気踏み板。


電磁錠。


警報線。


外部照会。


鉄扉の向こうの未確認区画。


久世が言う。


『無人機ではここまでだ』


直樹は答えなかった。


男が乙へ顔を向ける。


視線の先は、機体ではない。


細い光通信線だった。


外とつながっている線だけを見ている。


『乙を戻せ』


久世が言う。


「監視を残します」


『甲の音響だけ残す』


「姿勢変化が取れません」


『次の照会が来る』


「まだ十八分あります」


『救出班は十八分で入れない』


直樹は黙った。


『ここで見つかれば、入口を閉じられる』


乙を後退させる。


通信線が巻き戻る。


壁の隙間へ入る直前、直樹は一度だけ男を見た。


男は機体を追わない。


通信盤を見ている。


赤い灯が次に点く時刻を待っている。


作業服の内側。


切れた翼は、もう見えなかった。


乙が壁の中へ戻る。


男の姿が消える。


光通信線。


古い配線。


補修材。


甲のいる通信管。


乙が隙間から出た。


甲の横へ着地する。


『線、回収』


「回収」


『乙、追従へ戻せ』


追従表示が点いた。


甲が先に動く。


乙が同じ経路をなぞる。


甲は音響監視用の小型子機だけを残した。


無線は常時送らない。


一定間隔の打音。


換気扇の振動。


外部照会時の作動音。


それだけを内部へ蓄積する。


作戦終了後に回収する。


二機が排水管を戻った。


外壁へ出る。


翼を開く。


曇った空へ飛び出した。


     *


二機が河川側へ帰投した時、直樹の右手の痺れは六まで上がっていた。


主操作には使っていない。


それでも固定具の中で、何度も握り込んでいた。


『終了時申告』


久世が言う。


「痛み、五。痺れ、六」


『解放』


直樹は右手を開こうとした。


中指と薬指が遅れる。


左手で一本ずつ開いた。


「遅延あり」


『記録』


えりが医療記録へ入れる。


作戦記録とは別の端末だった。


人物映像の保存項目が表示される。


> 成人男性 一名

> 生存反応あり

> 身元未確認


その下に、救助判断に必要な項目だけが並ぶ。


> 左下肢負傷の可能性

> 換気設備から離脱困難

> 電磁錠・警報線あり

> 定時照会あり

> 鉄扉奥 未確認


えりは別紙を出した。


> 元第1空挺団関係者の可能性

> 本部中隊・通信職種の可能性


氏名欄は空白。


階級欄も空白。


番号札の数字は残さなかった。


直樹がゴーグルを外す。


「番号は」


「保存していない」


「徽章は」


「救助に必要な範囲で別保全」


「顔は」


「共有していない」


えりは記録を閉じる。


「名前は本人に聞く」


めぐみは、共有画面に残った男の手を見る。


配線をつなぐ手。


通信線を隠した手。


番号札を持ち上げた手。


顔は映っていない。


記録板へ書く。


> 外へ出たいのかな。


直樹はすぐには答えなかった。


「分かりません」


画面の踏み板を見る。


「ただ、あそこを離れれば換気が止まる」


えりが言う。


「誰のための換気かも未確認」


「はい」


富士川の久世が、救助条件を画面へ並べる。


『現場班が要る』


「はい」


『扉。警報。換気。搬送』


「分かっています」


『管理側が来る可能性もある』


直樹は右手を見る。


ネジは回せない。


細い線も切り替えられない。


電磁錠も外せない。


だが、太い柄は握れる。


押せる。


引ける。


身体へ固定できる。


自分で離すことだけが遅い。


「現地行動要員として、適性確認を申請します」


久世の返事が止まった。


『真柴』


「出動申請ではありません」


『医療判断が先だ』


「はい」


『戦闘復帰とも違う』


「分かっています」


『申請だけ出せ』


久世の声が低くなる。


『出動と混ぜるな』


「了解」


『自分しかいないとも決めるな』


直樹は一拍置いた。


「はい」


回線が切れた。


     *


病室に、外の音が戻った。


空調。


廊下の車輪。


紙をめくる音。


直樹はゴーグルを机へ置いた。


めぐみが正面へ回る。


記録板へ書いた。


> 行くと決めたの?


「決めていない」


> 申請したら、断れなくなる?


「断れます」


めぐみは次の行を書く。


> 本当に?


直樹は、すぐには答えなかった。


えりが端末を閉じる。


「そこを黙るな」


直樹はめぐみを見る。


「断りにくくはなる」


めぐみは目を伏せない。


> 私に止めてほしいの?


「違う」


> 行っていいと言ってほしい?


直樹の右手が膝の上で閉じる。


自分では開けない。


「それも違う」


めぐみは待った。


直樹は左手で、右の指を一本ずつ開いた。


「一人で決めたくない」


めぐみの筆が止まる。


直樹は続けた。


「見つけた」


「無人機では出せない」


「現地に、人が要る」


めぐみは記録板へ書く。


> なおじゃないと駄目?


直樹は、男の胸元にあった番号札を思い出す。


その裏へ隠された、切れた翼。


「今は、まだ分からない」


めぐみの肩から、少しだけ力が抜けた。


直樹は、自分にしかできない理由を並べなかった。


できる人間を探す前に、自分を差し出さなかった。


めぐみはもう一行書く。


> 分かったら、先に言って。


「言う」


> 出る時間。


「言う」


> 戻る時間。


「決める」


> 変わった時も。


「言う」


めぐみは記録板を置いた。


直樹の右手を、両手で包む。


閉じかけた指を、無理に開かない。


直樹の手の形に、自分の手を合わせた。


直樹は、右手では触れ方を選べない。


めぐみが、自分で力を決めていた。


「戻る」


直樹が言う。


めぐみは目を閉じた。


短く声を出す。


「うん」


声のあと、息が少し乱れた。


直樹は右手を動かせない。


左手を上げる。


めぐみの肩へ置く。


押さえない。


引き寄せない。


ただ、そこに置いた。


     *


富士川の地下では、久世が救助条件を並べていた。


鉄扉。


警報線。


換気踏み板。


左下肢負傷。


外部照会、二十分間隔。


二回連続未応答で現地確認。


鉄扉の向こうは未確認。


その横に、人物情報が表示されている。


> 氏名 未確認

> 所属 未確認

> 元第1空挺団関係者の可能性

> 本部中隊・通信職種の可能性


番号欄はなかった。


画像欄には、顔ではなく一枚の手だけが残されている。


細い通信線を、古い配線の陰へ隠す手。


久世は画像を閉じなかった。


壁の奥では、換気扇が回り続けている。


その下で、一人の男が踏み板を押している。


灰色の作業服の表には、白い番号札。


内側には、片方を切られた翼が隠されていた。


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