第百十七話 名前の帳面
## 第百十七話 名前の帳面
夜明け前。
国境第三駐屯地の遮断棒の向こうで、一台の小型トラックが止まった。
荷台には空の燃料缶が三つ。
泥の乾いた防水布。
交換された後輪。
車体の側面には、北側の管理標識を剥がした四角い跡が残っていた。
誘導員が赤い灯を振る。
車両が検査区画へ入った。
運転手はエンジンを切り、両手をハンドルの上へ置く。
左右から検問員が近づいた。
車体下部。
荷台。
燃料口。
助手席。
人を隠せる場所が、順番に確認される。
「所属」
運転席の男は、窓を少しだけ開けた。
「西方暫定連隊本部、情報小隊」
胸元から通行証を出す。
検問員は、印字された顔写真と男の顔を見比べた。
役職欄には、
> 情報小隊・連絡陸曹
上官欄には、
> 情報小隊長
> 大庭航平
と記されていた。
「帰還者は一名か」
「はい」
「大庭小隊長は」
男は、遮断棒の向こうを見た。
まだ朝の来ていない北側が続いている。
「残りました」
「なぜだ」
「最後に接触した世帯が、移動するか決めていません」
「決めるまで待つのか」
「大庭小隊長は、調査終了の条件を満たしていないと言っています」
検問員は返事をしなかった。
自分が残る理由を、任務の条件へ書き換える人間の言い方だった。
荷台から、一つの布製鞄が下ろされた。
弾薬が入っている重さではない。
男は鞄の紐を、手首へ二重に巻いていた。
「中身を確認する」
検問員が手を出す。
男は渡さなかった。
「相原さんへ直接渡すよう命令されています」
「ここで開けられない理由は」
「開けば、知る人間が増えます」
「何が入っている」
男は少し迷った。
「名前です」
「人員名簿か」
「違います」
「では何だ」
男は鞄を身体へ寄せた。
「家族の名前です」
*
相原は、地下の燃料割当室にいた。
壁一面に、地域ごとの供給表が貼られている。
旧南第三。
橋梁保守。
炊き出し。
川島宅周辺。
診療所。
通信中継車。
同じ軽油でも、届ける場所ではなく、使う目的ごとに欄が分けられていた。
相原は三枚の申請書へ印を押した。
そのあとで、扉の前に立つ連絡陸曹を見る。
「座れ」
「先に、これを」
男は鞄を机の横へ置いた。
相原は手を出さなかった。
「大庭は」
「北側です」
「戻れと言ったか」
「言いました」
「聞かなかったか」
「まだ任務が終わっていないと」
相原は鼻から息を吐いた。
「便利な言葉だな」
連絡陸曹は答えなかった。
鞄の中から、油紙に包まれた物を取り出す。
黒い帳面だった。
表紙に題名はない。
部隊名もない。
管理番号も振られていなかった。
「元自衛官の記録か」
相原が訊く。
「本人と家族です」
「軍歴。技能。年齢」
「それだけではありません」
連絡陸曹は、黒い表紙へ手を置いた。
「名前。家族構成。必要な薬。歩ける距離。連絡可能な時刻。動けない理由。本人が残した伝言」
「電子化は」
「していません」
「複写は」
「ありません」
「大庭は、ここで開けと言ったか」
「いいえ」
男は濡れた命令書を差し出した。
受領指定欄には、
> 富士川混成大隊
> 久世真央一等陸尉 親展
と書かれている。
相原は帳面に触れなかった。
机上端末を引き寄せる。
受領項目へ、
> 北側情報源保護資料 一点
とだけ入力した。
氏名欄は空白。
世帯数も入れない。
連絡陸曹が訊く。
「中身を登録しないんですか」
「ここへ入れた瞬間、別の記録とつながる」
相原は端末を閉じた。
「越境記録。配給記録。元自衛官名簿。医療支援。燃料使用。受入れ先」
黒い帳面を見る。
「一つずつなら、ただの記録だ」
紙の受領書を出す。
「全部つながれば、逃がす道になる」
「道が見える」
「追う側にもな」
電子署名は使わなかった。
相原は自分の手で署名する。
帳面を開かないまま、封筒へ入れた。
封の上には、
> 情報源保護資料
> 通常人員登録禁止
> 久世真央一等陸尉 親展
と記した。
「富士川へ行け」
「今からですか」
「医務室へ寄った後だ」
「異常はありません」
「それを決めるのはお前じゃない」
相原は別の申請書を引き寄せた。
燃料用途欄へ、
> 救難通信装備受領
> 情報源保護資料移送
と書く。
「休めとは言わないんですね」
「寝られるなら、移動中に寝ろ」
「大庭小隊長も似たことを言います」
「大庭は自分では寝ない」
相原は申請書へ印を押した。
「だから部下まで壊れる」
*
午前八時十三分。
国境第三から、三台の車列が出た。
先頭車には相原の部下が二人。
中央車に、北側から戻った連絡陸曹と黒い帳面。
後続車には、富士川へ返却する医療用容器と交換部品が積まれている。
大きな部隊標識はつけていない。
武装車両にも見えない。
だが三台は、互いの位置を崩さずに走った。
途中、富士川混成大隊の衛生輸送班と合流した。
衛生車両から、一人の女性自衛官が降りる。
楠本カレン一曹は、挨拶より先に連絡陸曹の顎を指した。
「口、開けて」
男が戸惑う。
「医務室では問題ないと」
「それは出発した時の話」
「まだ一時間も」
「いいから開けろ」
男が口を開く。
楠本は舌と唇の色を見る。
次に瞳孔。
指先。
首筋の汗。
水筒を胸へ押しつけた。
「飲め」
「喉は渇いていません」
「渇いてから飲むな」
男は水筒を受け取った。
楠本は中央車の書類箱を見る。
「それが北から持ってきた物?」
「情報源保護資料です」
「中身は」
「久世一尉へ直接渡します」
「なら開けなくていい」
箱を固定している帯を引く。
一本が緩んでいた。
楠本は黙って締め直した。
相原の部下が訊く。
「確認しないんですか」
「私が見るのは中身じゃない」
固定具をもう一度引いた。
「途中で落ちるかどうか」
後続車には、外海救助で使われた保温器材と循環装置が積まれていた。
今は空になっている。
容器の側面には、消えかけた搬送記号が残っていた。
> 二名収容
> 意識障害一
> 発声不能一
楠本は、その文字を一度見た。
外海で二人を直接受け取ったのは、楠本ではない。
だが、戻った衛生隊員から話は聞いていた。
冷え切った男が、自分の傷より先に隣の女を確認したこと。
意識が落ちかけても、女から手を離そうとしなかったこと。
女は声が出ないまま、その男の衣服を掴み続けたこと。
搬送記録に残された名前。
真柴直樹。
相原の部下が、別の輸送書類を確認する。
「旧川端公民館用の機体も、富士川で受領します」
楠本が訊いた。
「操縦者は」
「登録上は、真柴直樹」
楠本の手が止まった。
「福岡仁だろ」
「現在の登録名は真柴直樹です」
「名前の話はしてない」
楠本は衛生車両の扉を閉めた。
富士川で見た男は、救助患者ではなかった。
黒瀬と合流したばかりだった。
敵から渡された銃を持ち、外国人戦闘員と二人で敵の指揮系統を切る斬首戦術を完遂した。
真壁三曹が戦死した後には、そのMINIMIを拾った。
空いた火線へ入り、自分が穴を塞いだ。
福岡仁。
外人部隊の突撃兵。
富士川の隊員が覚えているのは、その姿だった。
「遠隔操作だそうです」
相原の部下が言った。
楠本は即座に返した。
「距離の話はしてない」
連絡陸曹の肩へ、小さな通信端末を押しつける。
「これ持て」
「自分がですか」
「富士川まで線を切るな」
「移動中に寝てもいいと言われました」
楠本は、男の目を見る。
「今の顔で寝たら、端末ごと落とす」
「では」
「富士川までは起きてろ。着いたら寝かせる」
男が通信端末を握った。
楠本は指を見る。
まだ震えている。
「怖いなら怖いでいい」
固定された帳面の箱を指した。
「手は離すな」
「はい」
「返事が小さい」
「はい」
「よし。生きてる」
楠本は運転席へ戻った。
車列が動き始める。
衛生車両の通信機を取る。
「久世、聞こえる?」
乾いた声が返った。
『聞こえてる』
「目は生きてる?」
『用件を言え』
「北の帳面と人間を運んでる。両方落とさない」
『分かった』
「それと、福岡仁をまた機械につなぐんだって?」
短い間があった。
『真柴直樹名義だ』
「どっちでもいい」
楠本は前方車両との距離を測った。
「真壁の穴へ入った時と同じ足をしたら、止めろ」
『そのために見る』
「画面だけ見すぎるなよ」
『楠本』
「分かってる。あんたが嫌な役をやるのは」
車体が小さく揺れた。
楠本はハンドルを戻す。
「でも、機体より先に人を戻せ」
『分かってる』
「分かってるなら、やれ」
通信を切る。
楠本は背後を見なかった。
「端末、落とすなよ」
「はい」
「帳面も、線も」
「はい」
「富士川に着いたら寝ろ」
「分かりました」
「それでいい」
*
富士川混成大隊の無人システム中隊は、古い整備格納庫を三棟つないで使っていた。
一棟目には小型偵察機。
二棟目には、物資と負傷者を運ぶ地上無人車両。
三棟目には、交換翼、光学機器、通信中継器が並んでいる。
天井から吊られた鳥型機の翼が、作業員の通過する風で揺れた。
久世真央一等陸尉は、地下の通信区画にいた。
椅子から立ち上がる時、机へ左手をつく。
左足が半拍遅れた。
指は、以前のようには開かない。
それでも、画面へ向ける目だけは鈍っていなかった。
机の上には三つの端末がある。
暫定政府の基幹回線。
無人機運用端末。
通常の軍籍・人員システムから切り離された秘匿端末。
扉が開く。
連絡陸曹が、封筒を両手で差し出した。
「大庭情報小隊長より、直接受領の指定です」
久世は宛名を確認した。
「大庭は」
「北側です」
「何を理由にした」
「調査終了条件を満たしていないと」
「またか」
久世は封を切らない。
「部下を先に帰して、自分が残る」
連絡陸曹は何も言わなかった。
久世は封筒を机へ置いた。
「口頭報告は」
「一件あります」
「言え」
「北側と西側、双方の武装輸送を止めている所属不明者がいます」
久世の視線が上がる。
「規模」
「不明」
「目的」
「不明」
「民間被害」
「確認範囲では、ありません」
「略奪」
「ほぼありません」
「大庭の所見は」
連絡陸曹が、防水紙を一枚出す。
久世は受け取った。
> 通信、燃料、車軸を優先して破壊。
> 民間人は退避させる。
> 捕虜を同行させない。
> 退避路を複数残す。
>
> 殺し方は冷たい。
> 逃がし方は丁寧。
久世の指が、最後の二行で止まった。
「大庭は名前をつけたか」
「いいえ」
「それでいい」
防水紙を別の保全箱へ入れる。
「見つけた癖と、見つけたい人間を混ぜるな」
久世は封筒を開いた。
黒い帳面を取り出す。
最初の頁を開く。
> 佐原拓郎
> 旧補給隊・車両整備
>
> 妻 美和
> 長男 悠斗
> 母 久子
>
> 第三類生活登録
> 心臓薬、残り九日
>
> 伝言
> 悠斗は自転車に乗れるようになった。
久世の目が、最後の行で止まる。
次の頁。
必要な薬。
歩ける距離。
夜に泣く子ども。
置いていけない親。
自分だけが残る理由。
兵士を動かすための記録ではなかった。
家族が、家族のまま移動するための記録だった。
久世は帳面を閉じた。
「人員端末へ入れるな」
通信担当者が訊く。
「元自衛官の情報もあります」
「だから入れるな」
「匿名化は」
「必要項目だけ抜け」
久世は短く指示する。
「世帯数。子ども。要介護者。薬。移動可能時期。必要輸送量」
「氏名は」
「紙に残す」
「複写は」
「作るな」
秘匿保管庫が開いた。
中には、手書きの地図。
失踪者の写真。
連絡符号。
電子化すれば、別の記録と結びついてしまう資料だけが入っていた。
黒い帳面が、一番奥へ置かれる。
封印票には、
> 情報源保護資料
> 通常人員・動員登録への転用禁止
と記された。
楠本が扉のそばから言った。
「紙にするなら、名前を落とすなよ」
久世は振り返らない。
「落とさない」
「真壁みたいに数字にしたら怒るよ」
「分かってる」
「分かってるならいい」
楠本は連絡陸曹へ向き直った。
「水を飲んだら寝ろ」
「輸送機の受領確認が」
「封印番号だけ見ろ」
「正式受領は」
「相原の輸送班がやる」
「大庭小隊長から、機体も確認するようにと」
「確認したら寝ろ」
男は何か言おうとした。
楠本は寝台区画を指した。
「生き残ったやつには、休む仕事もある」
*
格納庫の床へ、黒い輸送ケースが二つ並べられた。
大庭の連絡陸曹が、命令書の封印番号とケース側面の番号を照合する。
一つ目。
一致。
二つ目。
一致。
交換翼。
中継器。
臨時有線。
整備端末。
内容物の一覧を確認すると、連絡陸曹は相原の輸送責任者へ紙を返した。
「確認しました」
相原の部下が正式受領欄へ署名する。
「輸送責任は国境第三が持つ」
連絡陸曹は頷いた。
久世が格納庫の入口から言う。
「大庭から、ほかに何か言われたか」
「機体を壊すな、と」
久世はケースを見る。
「訂正しておけ」
「何をですか」
「人を見つける前に壊すな。見つけた後なら、機体は捨てろ」
連絡陸曹は一度だけ目を瞬いた。
「伝えます」
「本人が戻ったらな」
久世は相原の部下へ視線を移す。
「旧南第三まで止めるな」
「途中で一度、燃料確認を」
「人員は降ろすな。ケースも開けるな」
「了解」
車列の後部扉が閉じられた。
相原の部下二名。
富士川の整備員一名。
通信保全要員一名。
四人が実機とともに旧南第三へ向かう。
大庭の連絡陸曹は、その車列を見送った。
楠本が男の肩へ毛布を掛ける。
「仕事は終わった」
「まだ大庭小隊長が」
「お前の仕事の話」
男の足が、そこで初めて少し揺れた。
楠本は腕を掴まない。
代わりに、寝台を指した。
「倒れる前に横になれ」
「はい」
「返事は一回でいい」
*
久留米の聖マリア病院。
午前の処置が終わっていた。
宮崎めぐみは、ベッドへ背を預けている。
喉元には薄い保護布。
末安えりは、臨時遠隔運用室の入室記録を確認していた。
真柴直樹は椅子に座っている。
机の上には、黒いVRゴーグル。
左手用の操作グリップ。
足元のペダル。
右手用の感圧パッド。
折り畳み式表示装置は、すでに展開されていた。
画面だけが黒い。
直樹が共有を選ばない限り、何も映らない。
えりが訊く。
「痛み」
「四」
「痺れ」
「五」
「昨日より」
「変わりません」
「問題ありません、は」
「言っていません」
「学習してるな」
直樹は答えなかった。
めぐみが記録板へ書く。
> 無理なら止めて。
直樹は読む。
「ああ」
骨伝導機を頬へ固定する。
喉元へ、接触型送話器を置いた。
ゴーグルを下ろす。
暗い視界の中へ、文字が浮かんだ。
> 接続経路
> 聖マリア病院
> 健軍駐屯地地下・西日本暫定政府基幹中枢
> 富士川混成大隊
> 通信状態
> 安定
現在の西日本暫定政府の中枢は、熊本の健軍駐屯地地下に置かれている。
行政。
防衛。
電力。
通信。
分裂後に残った国家中枢機能は、九州へ集約されていた。
久留米から健軍。
健軍から富士川。
暫定政府側の基幹回線は切れていない。
表示が切り替わる。
> 訓練区分
> 生物模倣型狭所偵察機
> 遠隔習熟
> 通信統制
> 久世真央 一等陸尉
接続灯が白へ変わった。
富士川側で、久世は骨伝導受信器を固定した。
喉元の接触型送話器へ指を当てる。
二人の声は、閉鎖回線の外へ漏れない。
直樹の頭蓋へ、乾いた声が届いた。
『真柴』
久世は挨拶をしなかった。
『帰隊報告が来ていないが』
直樹の左手が、操作グリップの上で止まる。
以前、富士川へ入った時。
直樹は福岡仁だった。
任務中の福岡仁を名前で止めないため、久世は必要な時以外、真柴とは呼ばなかった。
今、ゴーグルの内側に表示されている名義は違う。
> 使用者
> 真柴直樹
直樹は息を吐いた。
「今、戻ったばかりです」
一度、言葉を切る。
「班長」
富士川側で、久世の指が止まった。
開ききらない左手が、端末の縁へ触れる。
『遅い』
「すみません」
『謝罪報告も来ていない』
「必要ですか」
『いらん』
それだけだった。
久世は画面へ目を戻す。
『習熟を始める』
「了解しました、班長」
『始めるぞ』
久世の背後では、楠本が病院側との医療中止連絡を受けるため、衛生連絡席に残っていた。
閉鎖回線の内容は、楠本には聞こえない。
通信画面に見えるのは、
> 使用者
> 真柴直樹
という名前だけだった。
久世の指が一度止まった。
肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。
何を言われたのかは分からない。
それでも楠本は、その変化を見た。
福岡仁として富士川を出た男が、外海から真柴直樹として拾われた。
今、その名前で久世とつながっている。
楠本は訊かなかった。
久世の端末の横へ、水筒を置く。
「終わったら飲め」
久世は画面から目を離さない。
楠本も返事を求めなかった。
次の医療箱へ手を伸ばす。
その口元から、わずかに力が抜けていた。
*
富士川の訓練区画で、同型の鳥型機が起動した。
旧南第三へ輸送されている実機ではない。
操作応答とセンサー構成をそろえた訓練機だった。
翼が開く。
直樹のゴーグルへ、機体の視界が入った。
低い天井。
錆びた配管。
木製の梁。
床に引かれた白い線。
狭所侵入を想定した模擬区画だった。
『離床』
直樹は左手の親指を動かした。
機体が浮く。
わずかに右へ流れる。
『視線、右』
直樹が補正値を開こうとした。
『触るな』
指が止まる。
「機体が流れています」
『お前の目だ』
直樹は視線を戻す。
傾きが減った。
『数値で隠すな』
「隠していません」
『なら合わせろ』
機体が配管の間へ入る。
羽先と壁の間は数センチ。
右へ曲がる。
上昇。
梁へ着地。
直樹が翼を閉じた。
『停止』
「確認」
『共有』
左手の人差し指で操作する。
病室の表示装置に光が入った。
直樹が選んだ映像だけが映る。
梁。
配管。
機体の停止位置。
久世の声は出ない。
直樹の返答も表示されない。
めぐみは画面を見る。
次に、直樹の呼吸を見る。
えりは共有開始時刻だけを記録した。
『解除』
画面が暗くなる。
映像はゴーグルの中へ戻った。
『再離床』
機体が飛ぶ。
細い模擬通信管へ入った。
円筒の壁が、視界の両側へ迫る。
直樹の右肩が上がった。
病室では、めぐみとえりがその動きを見る。
同時に、視線入力が右へ跳ねた。
右手用感圧パッドにも、不要な力が入る。
富士川の久世が数値を見る。
『右を固めるな』
「操作には影響ありません」
『入力に出てる』
直樹は息を吐いた。
肩が下がる。
感圧値も落ちた。
視界の揺れが減る。
『進め』
三つの分岐が現れた。
左は広い。
中央は暗い。
右には熱源反応。
『選べ』
直樹は動かさない。
左の床。
中央の壁。
右の天井。
順番に見る。
右奥に、小さな反射面があった。
「右は監視装置」
『根拠』
「熱源が低い。天井に反射があります」
『では』
「中央」
機体が暗い管へ入る。
『左を残した理由』
「帰路です」
短い間。
『進め』
映像が暗くなる。
暗所補正が働いた。
直樹は機体を飛ばし続けなかった。
配管の継ぎ目へ着地させる。
『なぜ止めた』
「風があります」
『数値には出ていない』
「音が変わりました」
富士川側で、久世が音響波形を見る。
目を細めた。
『確認した』
機体が再び進む。
互いに、それ以上は説明しなかった。
*
三十七分の訓練で、久世は三度停止をかけた。
一度目は、右手の補助入力が混ざった時。
二度目は、直樹が死角を記憶で埋めようとした時。
三度目は、機体を失ってでも先へ進もうとした時だった。
『停止』
鳥型機が梁へ着地する。
「電池は残っています」
『聞いていない』
「経路もあります」
『それも聞いていない』
久世の声は平らだった。
『戻せ』
「機体なら失えます」
『機体の話をしていない』
「救助対象を確認できます」
『確認した後、お前はどう戻す』
直樹は答えない。
機体を進めようとした。
久世の左手が、強制停止の位置へ動く。
指が開かない。
一度、机の角へ当たった。
それでも押す。
『真柴』
直樹の入力が止まった。
病室で、めぐみが顔を上げる。
直樹の呼吸が止まっている。
赤い蓋のついた遮断スイッチへ手を近づけた。
久世の声が続く。
『今のは死んでる』
「止まっていません」
『止まった』
短い間。
『名前を聞いた』
直樹の左手が、グリップから少し離れる。
久世は画面を見続ける。
『真壁の真似をするな』
直樹の顎が動く。
「していません」
『穴を見つけるたびに、自分で塞ぐな』
「今回は機体です」
『距離の話はしていない』
富士川側で、楠本には声は聞こえない。
ただ、久世の指が強制停止から離れないことだけが見えた。
久世は続ける。
『真壁が作った道を使え』
声は低い。
『死に道へ変えるな』
直樹は息を吐いた。
めぐみの手が、遮断スイッチから離れる。
「了解」
『返事はいい』
久世は強制停止を解除しなかった。
『帰路を言え』
直樹は機体の視界を戻す。
通過した分岐。
着地点。
広い左管。
「中央を後退。第二分岐で左。広管へ出ます」
『中継を失った場合』
「その場へ着地。映像を切る。音響だけ残す」
『通信も落ちた場合』
「自律帰投は使わない。停止させます」
『理由』
「救助対象の位置を、追跡側へ渡さないためです」
久世は停止を解除した。
『戻せ』
鳥型機が後退を始める。
*
『最終課目』
模擬区画の奥に、閉じた扉が表示された。
機体が通れる隙間は、床近くに一つ。
『内部不明。熱源なし。音なし』
直樹は扉の前へ機体を止める。
埃。
蝶番。
床の傷。
向こうから流れる空気。
「入れます」
『入れ』
直樹は動かさない。
『どうした』
「戻る場所がありません」
『入れると言った』
「入れます。戻せない」
久世は答えなかった。
直樹は隙間を見続ける。
機体を押し込めば、内部は確認できる。
だが、通信が切れれば、帰る方向を失う。
「中継機を一機、手前に置きます」
久世が課目を終了させた。
扉が消える。
映像が暗転する。
> 習熟訓練 完了
『終了』
直樹は左手をグリップから離した。
「評価は」
『帰路を残した』
「それだけですか」
『それができれば、今日はいい』
直樹は返さなかった。
その直後。
富士川側の技術担当者の画面に、新しい表示が出た。
> 完了済み習熟訓練記録
> 自動転送待機
転送先には、
> 特殊任務教導団
> 内部分類・原型要員運用解析
と表示されている。
久世の目が止まった。
「切れ」
技術担当者が振り返る。
「旧様式の初期設定です」
「切れ」
「事故検証記録も外れます」
「事故は起きていない」
「操作評価は」
「今回の任務に必要な分だけ残せ」
担当者が設定を開く。
「原型要員の操作比較からも外しますか」
久世の声が低くなる。
「真柴は限定任用だ」
「教導団側では、過去の原型登録が」
「今の話をしている」
担当者の手が止まる。
久世は画面を指した。
「設計図に戻すな」
自動転送が解除された。
> 特殊任務教導団への転用
> 無効
> 原型要員運用解析への転用
> 無効
> 承認
> 久世真央一等陸尉
無効化証明が、聖マリア病院の保全端末へ送られる。
えりが通知を確認した。
紙へ印刷する。
直樹が署名した限定任用の書類と、同じ保全箱へ入れた。
病室では、原型教導団について誰も説明しなかった。
ただ、訓練の終わりに、
直樹をもう一度、後続要員を作るための設計図へ戻そうとした線が切られた。
*
久世が言う。
『大庭の帳面は預かった』
「本人は」
『北側だ』
「そうですか」
それだけだった。
『名前は渡さない』
「健二にも?」
『匿名化した条件だけ送る』
「理由は」
『知れば、弟は名前を待つ』
久世は画面から目を離さない。
『待つ場所が割れる』
直樹の左手が、膝の上で閉じた。
「分かりました」
『分からなくていい』
「受け入れるのは民間です」
『だから、お前には渡さない』
久世は、黒い帳面が入った保管庫を見る。
『知らないことで守れる線もある』
直樹は反論しなかった。
病室の端末へ、別系統の通知が入る。
黄色い灯が点滅した。
えりが表示を確認する。
> 国境第三輸送班
> 旧南第三・受領地点到着
久世にも同じ報告が届いた。
『ちょうど着いた』
「実機ですか」
『実機二。交換翼。中継器。臨時有線。整備端末』
「子どもから離してありますか」
『裏門側の旧資材庫だ』
「相原の判断」
『そうだ』
直樹は息を吐いた。
久世が言う。
『次は実機だ』
「了解」
『真柴』
直樹が待つ。
『帰隊報告、受領した』
直樹の目が動いた。
「はい」
その言葉は、二人の閉鎖回線の中だけに残った。
任用記録にも、軍籍にも、帰隊手続きにも載らない。
昔の班長が、昔の部下から受け取っただけだった。
久世が続ける。
『原型へ戻ったつもりで動くな』
「戻っていません」
『なら、そのままでいろ』
回線が切れた。
ゴーグルの内側から、久世の声が消える。
表示が一つずつ落ちていった。
> 習熟訓練 完了
> 教導転用 禁止
> 実機受領 確認
最後に残ったのは、
> 使用者
> 真柴直樹
という文字だった。
直樹はゴーグルを外す。
病室の光が戻った。
めぐみが記録板を見せる。
> 戻ってきた?
直樹は、ゴーグルを机へ置いた。
「ああ」
一度、久世の声が消えた暗い画面を見る。
「今、戻った」
めぐみは小さく頷いた。
記録板へ、もう一行書く。
> おつかれさま。
それから、ベッドの端へ身体を寄せた。
固定具に包まれた右手には触れない。
直樹の左腕の外側へ、額をそっと預ける。
直樹の肩が、一度だけ固くなった。
けれど、離れなかった。
めぐみも動かなかった。
えりは二人を見ずに、訓練終了時刻を書いた。
接続記録を閉じる音だけが、病室に残った。
*
旧南第三の裏門側。
旧資材庫の前へ、三台の輸送車が並んでいた。
相原の部下が封印番号を読み上げる。
健二は受領書を確認した。
積荷の詳しい所属も、北側から運ばれた帳面の内容も知らされていない。
渡されたのは、匿名化された一枚の紙だけだった。
> 退避支援候補
> 四十世帯以上
>
> 子どもあり
> 要介護者あり
> 継続投薬必要者あり
>
> 一括受入れ不可
> 分散退避計画を要する
名前はなかった。
健二は紙を折る。
「兄ちゃんは知っていますか」
相原の部下が答える。
「人数と条件だけです」
「名前は」
「富士川で保全されています」
「誰が」
「久世真央一等陸尉」
健二は、それ以上訊かなかった。
資材庫の扉が開く。
黒い輸送ケースが運び込まれる。
一つ目。
二つ目。
交換翼。
中継器。
臨時有線。
整備端末。
相原の通信要員二名が、そのまま資材庫に残った。
扉には二重の封印が施される。
入室記録簿が壁へ掛けられた。
子どもの立入りを禁じる札が、内側ではなく外側へ貼られる。
最後に、認証板が接続された。
黄色い灯がつく。
> 官品受領
> 実機接続待機
その下に、一人の名前が表示された。
> 真柴直樹
遠く離れた富士川の地下では、黒い帳面が保全庫の中に置かれている。
封印票には、
> 通常人員登録禁止
と書かれていた。
旧南第三の資材庫では、黒い機体がケースの中で眠っている。
認証窓には、
> 使用者 真柴直樹
と表示されている。
一方の名前は、軍の数字へ変わらないように閉じられた。
もう一方の名前は、人を見つける機体を開くための鍵になっていた。




