第百十六話 ここが職場です
##第百十六話 ここが職場です
壁の時計の長針が、十二の上へ重なった。
午前十時。
宮崎めぐみは、時計から病室の扉へ目を移した。
昨日使った記録板が、ベッド脇の台に残っている。
白い板の端には、
――明日 午前十時
と書かれたままだった。
秒針が一つ進んだ。
扉が開いた。
真柴直樹が立っていた。
右手には薄い固定具が巻かれている。
病衣の上から羽織った上着は、左の肩だけが少し引きつれていた。片手で袖を通したのだと分かった。
めぐみは時計を見た。
もう一度、直樹を見る。
唇が動いた。
「来た」
細い声だった。
けれど、扉のところまで届いた。
直樹は頷いた。
「ああ」
昨日までなら、そこで理由を足したかもしれない。
何時に目を覚ましたか。
右手がどれだけ動かなかったか。
廊下で何度休んだか。
今日は何も足さなかった。
来ると言った。
来た。
それだけを、二人の間へ置いた。
直樹はベッド脇の椅子へ座った。
めぐみが記録板を引き寄せる。
昨日の日付の下へ、小さな丸をつけた。
約束の文字は消さなかった。
守られた印だけを残した。
*
十時七分。
末安えりが、紙コップを二つ持って入ってきた。
片方を直樹の前へ置く。
もう片方は自分で持った。
めぐみのベッド脇には、嚥下訓練用の小さな水差しがある。
「来るぞ」
えりが言った。
「誰が」
直樹が訊く。
「紙を持ってくる奴」
二度、扉が鳴った。
黒瀬了が入ってきた。
左手には、昨日と同じ黒い鞄がある。
黒瀬はめぐみに頭を下げた。
次に、直樹を見る。
「失礼します」
直樹は上着の内側から折り畳んだ紙を出した。
左手で机へ置く。
昨日、黒瀬から渡された復帰確認書だった。
署名欄は空白のまま。
その上に、直樹の字で二行だけ書かれている。
> 復帰判断、保留。
> 一人では決めない。
黒瀬は紙を持ち上げた。
驚いた様子はなかった。
二行を読み、元の封筒へ戻す。
「承知しました」
直樹が黒瀬を見る。
「最初から、署名しないと思っていましたか」
黒瀬は鞄を開いた。
「はい」
「それでも渡した」
「選ばなかったことと、選ぶ機会を与えられなかったことは違います」
黒瀬は最初の封筒を鞄へしまった。
直樹は、その動きを見ていた。
「原型要員とは何ですか」
黒瀬の手が止まった。
えりが紙コップを机へ置く。
「そこからだな」
黒瀬は鞄から薄い資料を取り出した。
表紙には、部隊章も写真もなかった。
文字だけが印刷されている。
> 特殊任務教導団
> 原型要員運用概要
黒瀬は資料を直樹の前へ置いた。
「特殊任務教導団は、戦技の検証、新装備の運用試験、教範の作成、後続要員の教育を行う部隊です」
「教導団」
「はい」
「富士にあったような」
「機能だけを説明すれば、同じです」
えりが資料を取った。
最初の頁を開く。
「ただの教導団か」
「表向きには」
えりの目が紙から上がった。
「表向きには?」
黒瀬は言葉を変えなかった。
「通常の教導部隊は、人が技術を教えます。特殊任務教導団は、人間そのものから教範を作ります」
病室の時計が、一度だけ小さく鳴った。
直樹は資料を見た。
「原型というのは」
「後続要員を作るための基準個体です」
「個体」
「運用上の呼称です」
「人間の呼び方ではない」
「人間を運用する側の呼び方です」
黒瀬は直樹から目を逸らさなかった。
「通常の教育課程では再現できない技能、判断、身体運用、任務経験を持つ者を原型要員として登録します」
「何を取る」
「戦技だけではありません」
黒瀬は頁をめくった。
細かな項目が並んでいる。
視線移動。
情報選択。
危険認知。
負傷時の代替動作。
命令受領後の判断時間。
退路設定。
救助対象の優先順位。
装備の非標準運用。
「任務中に何を見るか。何を捨てるか。誰を先に逃がすか。命令と現場が食い違った時、どちらを選ぶか」
直樹の左手が、膝の上で閉じた。
黒瀬は続けた。
「それらを分解し、教育課程、選抜基準、装備設計へ反映します」
えりが言った。
「人間を設計図にするのか」
「運用側の言葉なら、そうなります」
「設計図の次は?」
「後続要員です」
直樹が訊いた。
「養殖か」
黒瀬の目がわずかに動いた。
「現場では、そう呼ばれることがあります」
「その先は既製品」
「教育工程が安定すれば、量産課程へ移ります」
えりが乾いた声で言った。
「人間の工場だな」
黒瀬は否定しなかった。
直樹は資料の一頁を見ていた。
そこには、原型と後続要員を比較するための空欄が並んでいる。
「久世一尉も原型要員ですか」
「はい」
「久世の後続は、もういる」
黒瀬は一拍置いた。
「います」
直樹が顔を上げる。
「真壁」
「はい」
めぐみの視線が、直樹と黒瀬の間を動いた。
黒瀬は淡々と続ける。
「真壁は久世一尉を基準とした後続要員です。量産課程へ移行する前の初期ロットに該当します」
「久世の養殖か」
「現場の呼び方では」
直樹は資料を閉じた。
「俺が昨日署名していたら」
「特殊任務教導団へ復帰し、原型要員として再登録されていました」
「任務に戻るだけではない」
「はい」
「俺の判断も、身体も、失敗も、次を作る材料になる」
「はい」
黒瀬はそこで言葉を濁さなかった。
「最終的には、真柴さんがいなくても、真柴さんと同じ結果を出せる要員と運用体系を作ることが目的です」
「同じ結果」
直樹の声が少し低くなった。
「同じ人間ではありません」
黒瀬は答えた。
「同じ人間は作れません」
「だから結果だけ取る」
「はい」
直樹は、自分が書いた二行を見た。
> 復帰判断、保留。
> 一人では決めない。
紙の上では短かった。
けれど、その保留の向こうには、自分一人の軍籍だけではないものがあった。
自分が誰を助けたか。
誰を助けられなかったか。
どこで戻らず、どこで命令を捨てたか。
そのすべてを分解し、次の人間へ埋め込む組織。
黒瀬は最初の封筒を完全に鞄の中へしまった。
「原型要員への復帰は保留で構いません」
直樹が見る。
黒瀬は別の封筒を取り出した。
最初のものより薄い。
「こちらは別件です」
えりが眉を寄せた。
「いつから用意していた」
直樹が訊いた。
「あなたが最初の書類へ署名しないと判断した時からです」
「いつだ」
黒瀬は薄い封筒を机へ置いた。
「渡す前です」
*
黒瀬は、すぐには封筒を開かなかった。
鞄の中から小さな音響端末を取り出した。
「この書類が必要になった事案から説明します」
端末を机へ置く。
再生ボタンを押した。
低い駆動音。
短い振動。
こつ。
少し遅れて、もう一度。
こつ。
音が途切れた。
空白があった。
呼吸一回分より長く、二回分より短い。
その後で、
こつ。
三度目の音が鳴った。
直樹の右手の指が、固定具の中でわずかに動いた。
黒瀬は再生を止めた。
「旧川端公民館の地下通信管から採取された音です」
「誰が見つけた」
「旧南第三側が建物周辺を確認した際、新しい南京錠と複数の足跡を発見しました」
黒瀬は古い建築図面を机へ広げた。
「河川側の搬出口付近へ集音器を残し、この音を記録しています」
直樹が図面を見る。
地下には、防災倉庫と通信管しか描かれていない。
「現在の図面ですか」
「いいえ」
黒瀬は答えた。
「建築当初の図面です。現在地図ではありません」
黒瀬の指が、地下の一角へ移った。
「現地では、この位置に図面にない隔壁が確認されています」
「中には」
「入っていません」
「なぜ」
「現在の構造が分からないためです」
黒瀬は正面入口を指す。
「南京錠は新しい。地下の管理者、人数、監視装置、罠の有無は不明です」
「人がいるかも分からない」
「分かりません」
「最初の二つは」
「床下主線と端末側の作動音である可能性が高い」
「三つ目は」
「判断できていません」
黒瀬は断定しなかった。
「機械の遅延かもしれません。落下物かもしれない。内部にいる人間の応答かもしれません」
「人がいる可能性は」
「あります」
窓の外で、救急車のサイレンが遠ざかっていった。
「人間を先に入れれば」
直樹が訊く。
「内部確認ではなく、突入になります」
黒瀬は図面の細い通信管を指した。
「富士川に、狭所用の生物模倣型無人偵察機があります」
「配管を通れる」
「機種によっては」
「中で止まれる」
「壁、梁、配管へ着地できます」
「熱源と音」
「確認できます」
直樹は、三度目の音が消えた端末を見る。
「誰が動かす」
黒瀬は薄い封筒を開いた。
一枚目を出す。
> 旧川端公民館事案
> 限定任務任用・官品使用承認書
「真柴さんです」
「原型要員へ戻らなければ、使えないんじゃないのか」
「通常は使えません」
「だから、別の書類を作った」
「はい」
黒瀬は書類を直樹の前へ置いた。
「特殊任務教導団へは復帰しません。原型要員としての継続登録も行いません」
「何を戻す」
「旧川端公民館事案に必要な官品使用資格と、任務別暗号鍵だけです」
「期間は」
「七十二時間。または作戦終了まで」
「なぜ七十二時間」
「機体の移送、回線接続、内部偵察、必要であれば救助班への情報提供までを含めた上限です」
「過ぎたら」
「鍵が切れます」
「延長は」
「新しい説明と、再署名が必要です」
直樹は左手で書類を引き寄せた。
「指揮権は」
「ありません」
「現地へ入る人間に命令できるか」
「できません」
「俺が動かせるのは」
「無人機だけです」
「救助をするか決めるのは」
「現地側です」
「旧南第三へ軍が入る根拠には」
「なりません」
「この任務の記録を使って、俺の養殖を作ることは」
黒瀬はすぐには答えなかった。
えりが書類を取った。
「そこだな」
頁をめくる。
「機体の映像、位置、通信、操作ログは保存される」
黒瀬が答える。
「事故検証と作戦記録のために必要です」
「聞いてるのは機体じゃない」
えりの赤いペンが、書類の上で止まる。
「こいつが、なぜ右を選んだか。なぜ待ったか。誰を先に見たか。それを教範へ回すのかと聞いてる」
「現行の文面では、完全には除外されていません」
直樹が黒瀬を見る。
黒瀬は目を逸らさなかった。
「限定任用で得た記録も、原型教導団の解析対象に含めることはできます」
「別件と言ったな」
えりの声が低くなった。
「任用は別です」
「記録は持って帰る」
「現行制度では」
えりは赤いペンで一文を囲んだ。
「なら、制度を直せ」
黒瀬は書類を見る。
えりは余白へ書いた。
> 本任務で取得した真柴直樹の判断・操作記録を、本人の追加同意なく、教範作成、要員選抜、教育課程、行動モデル及び後続要員開発へ転用しない。
「機体がどこを飛んだかは残せ」
えりが言う。
「だが、こいつがなぜそこを選んだかを、次の人間を作る材料にするな」
黒瀬は文章を読んだ。
「事故検証に必要な範囲は除外します」
「事故が起きた時だけだ」
「はい」
「事故検証の名目で、全任務を教材にするな」
「対象事故との直接関係がある範囲に限定します」
「紙に書け」
黒瀬は自分のペンを出した。
えりの文章の下へ、例外範囲を追記する。
訂正印を押した。
えりは最初から読み直した。
「今の文面なら、旧川端だけだ」
直樹が訊く。
「原型要員への復帰には使えない」
「使えない」
えりは黒瀬を見る。
「あとから、復帰実績と呼ばせるな」
黒瀬が答えた。
「限定任務への参加実績は残ります」
「原型要員としての復帰実績には」
「転用しません」
「そこも書け」
黒瀬は追記した。
一行増えるたびに、紙が少しずつ厚くなった。
*
黒瀬は、別の書類を机へ置いた。
表紙には、めぐみの名前がある。
> 宮崎めぐみ
> 事案関連特別救護対象者指定
直樹が紙を見る。
「これは何ですか」
「宮崎さんの治療費に関する指定です」
「必要ない」
直樹はすぐに言った。
黒瀬が見る。
「俺が払う」
「なにで支払いますか」
直樹の口が止まった。
嘲りはなかった。
だからこそ、答えだけがなくなった。
分裂後、日本円の口座が残っていても、地域を越えて照合できるとは限らない。
現金があっても、受け取る側で価値を保証できない。
配給券も燃料券も、発行地域を離れれば紙になる。
限定任用の給与が出たとしても、長期の神経治療と発声訓練を支えられる額ではない。
直樹は書類を見た。
めぐみは、直樹を見ていた。
黒瀬が言う。
「この救護指定は、真柴さんの任務同意とは分離します」
えりが紙を取った。
「こいつが署名しなくても出すのか」
「出します」
「なぜ今だ」
「宮崎さんの生存記録と、国家側に残っていた誤死亡処理を、同一人物の記録として照合できたのが昨日だからです」
「根拠は」
「外海事案の被害当事者。国家記録上で誤って死亡処理された人物。国家事案に関連する治療継続の必要性です」
直樹が訊く。
「俺の任務とは関係ない」
「制度上、分離します」
えりは一頁ずつ読む。
「現在までの入院費」
「対象です」
「発声、嚥下、呼吸の訓練」
「対象です」
「神経治療」
「対象です」
「音声支援機器、車椅子、補助具」
「対象です」
「退院後」
「外来治療まで含みます」
「今回の任務が終わったら」
「継続します」
「真柴が次を断ったら」
「継続します」
「返還請求」
「行いません」
「実家へ回すな」
「親族への費用請求は行いません」
「親族照会は」
「宮崎さんの同意なしには行いません」
えりは赤いペンで二か所を囲んだ。
「“必要に応じて関係機関へ共有”」
「はい」
「広すぎる。消せ」
黒瀬は該当箇所へ線を引いた。
「病院と担当自治体に限定します」
「軍へ医療記録を渡すな」
「任務の中止判断に必要な情報以外は渡しません」
「診断名も過去の治療歴もいらない」
「はい」
「こっちも書き直せ」
黒瀬は修正した。
めぐみは、えりが赤い線を引くたびに紙を見ていた。
治療費という言葉が、自分を直樹へ結びつける鎖にならないように。
一枚ずつ、切り離されていった。
*
黒瀬は、さらに一枚の指定書を置いた。
> 療養併設・臨時遠隔運用室指定
えりが表紙を見る。
「病室を基地にするのか」
「病室のまま使用します」
「軍の部屋に変えるなら断る」
「恒久的な軍施設にはしません」
黒瀬は病室を見回した。
「真柴さんは、現地へ移動できる身体状態ではありません。無人機を使用する場合、操作場所を病院内に設ける必要があります」
直樹が訊く。
「ここで動かすのか」
「宮崎さんと病院側が同意すれば」
「何を入れる」
「大型の通信設備は屋上と通信室へ置きます」
黒瀬は別紙の配置図を広げた。
「室内に入れるのは、折り畳み式の表示装置、任務専用暗号端末、没入型の遠隔操作装置、骨伝導通信機です」
「右手は使えない」
「左手、視線、足元の入力を主に使用します。右手には感圧補助パッドを置きますが、使用を強制しません」
「身体状態は」
「病院側が確認します」
えりが訊く。
「軍が数値を見るのか」
「見ません。医療側から、継続可能、中断、終了の判断だけを受け取ります」
「室内の映像は」
「撮りません」
「音は」
「任務回線へ接続している間だけです。私的会話時には切断できます」
「保存するのは」
「無人機が取得した映像、音響、位置情報です。病室内の映像と私的会話は保存しません」
黒瀬はめぐみへ向いた。
「宮崎さんの手元には、通信を物理的に切断するスイッチを置きます」
めぐみが記録板を引き寄せた。
今度は、何が部屋へ入るのかを聞いた後だった。
一行目を書く。
> 私の治療記録を軍へ送らない。
黒瀬が読む。
「承認します」
> 私的な会話を録音しない。
「承認します」
> 室内に監視カメラを置かない。
「設置しません」
> 無人機の記録以外を保存しない。
「承認します」
> なおの身体の数字は病院だけが見る。
「承認します。軍側へ伝えるのは、継続か中断かだけです」
> なおが止めてと言ったら止める。
「承認します」
めぐみは続けた。
> 私が止めてと言った時も、一度止める。
黒瀬が頷く。
「再開には、真柴さん本人と医療側、双方の確認を必要とします」
> 任務が終わったら、全部外す。
「撤去します」
> ここを、ずっと軍の部屋にしない。
「恒久施設には指定しません」
めぐみはペンを止めた。
直樹を見る。
唇を開く。
「なお」
直樹が顔を向けた。
めぐみは声を続けなかった。
記録板へ書く。
> 私を、なおの安全装置にしないで。
黒瀬が文字を読む。
「宮崎さん一人に、中止の責任を負わせるつもりはありません」
めぐみの目が黒瀬へ向く。
> でも、私にスイッチを渡す。
「はい」
黒瀬は否定しなかった。
「中止権限を分けます。真柴さん本人、医療側、運用側、宮崎さん。そのうち一人でも中断を求めれば、一度止めます」
> だから私を置くの?
「はい」
直樹の左手が、机の下で閉じた。
黒瀬は続ける。
「真柴さんが無理をしないからではありません」
めぐみの眉がわずかに動く。
「無理を隠した時に、気づく人が必要だからです」
えりが言った。
「人質よりは、聞こえがいいな」
黒瀬はえりを見る。
「宮崎さんの治療は、任務と分離しました」
「紙ではな」
「紙で分離しなければ、制度は人質と区別できません」
えりは何も返さなかった。
めぐみが、次の条件を書く。
> スイッチは私の手元に置く。
> 軍から解除できない物にする。
「物理遮断式にします」
黒瀬が答える。
「遠隔解除はできません」
直樹が口を開いた。
「めぐみが押したら、俺の判断だけでは戻さない」
黒瀬を見る。
「医療側が確認するまで、切ったままにしてください」
「承認します」
めぐみは直樹を見た。
直樹は、その視線から逃げなかった。
*
黒瀬は最後の書類をえりの前へ置いた。
> 臨時遠隔運用室
> 保全行政調整担当任用書
「末安さんにも仕事があります」
えりが表紙を見る。
「断ったら?」
「別の調整員を置きます」
「それは困る」
返事は速かった。
「では」
「待て」
えりは任用書を開いた。
「医療判断はしない」
「医師と看護師が行います」
「軍の命令は受けない」
「運用上の連絡は受けていただきます。指揮権はありません」
「出入りは私が止める」
「身元確認と入室記録は、末安さんの担当です」
「私的な会話中は」
「回線を停止できます」
「医療記録と軍事記録を混ぜない」
「分離します」
「旧南第三の子どもの名前は」
「任務記録に入れません」
「中に人がいて、救出することになった場合は」
「救出者の身分記録と、作戦記録を分離します」
「軍が勝手に持っていくな」
「救出直後の自動編入、軍籍復帰は行いません」
「事情聴取は」
「医療状態と本人の同意を確認した後です」
「報酬」
「別紙です」
えりは別紙を見る。
金額より先に勤務時間を確認した。
「休憩がない」
「法定休憩は記載されています」
「煙草休憩を勤務表に入れろ」
黒瀬が少しだけ目を伏せた。
「院内規定の範囲で認めます」
「曖昧だな」
「喫煙可能区域までの移動時間を含め、午前と午後に各一回」
えりは赤いペンを取った。
「書け」
黒瀬が余白へ追記し、署名した。
えりは一字ずつ確認する。
「風呂と飯と睡眠も、勤務外だな」
「勤務外です」
「呼び出し待機に変えるなよ」
「緊急時を除きません」
「その緊急時を誰が決める」
「末安さんを含む三者協議です」
「それも書け」
また一行が増えた。
えりはようやく椅子の背へもたれた。
「これで飯が食える」
めぐみがえりを見る。
えりは紙コップを持ち上げた。
「お前が消えないって分かってる時間にな」
めぐみは何も書かなかった。
毛布の上から、えりの袖を一度だけつまんだ。
えりはその手を見る。
振り払わなかった。
*
「もう一点あります」
黒瀬が言った。
えりが顔をしかめる。
「まだあるのか」
黒瀬は病室指定書を直樹の前へ戻した。
「この部屋が臨時遠隔運用室に指定された場合、ここが真柴さんの勤務場所になります」
直樹は黙った。
「宮崎さんの処置時間と、双方の就寝時間を除けば、同室制限はありません」
黒瀬は二人を見比べなかった。
ただ、書類に記された運用条件を読み上げた。
「つまり、お二人は一日の大半を、同じ部屋で過ごせます」
直樹の視線が、書類からめぐみへ動いた。
めぐみは記録板を引き寄せた。
迷わず書く。
> 私は、ここにいてほしい。
一度、直樹を見る。
その下へ続けた。
> 仕事がなくても。
直樹は長く黙った。
右手の固定具を見る。
机に並ぶ軍の書類を見る。
最後に、めぐみの文字を見る。
「仕事がなくても、来る」
低い声だった。
「来る時間を言ってから来る」
めぐみが小さく頷いた。
直樹は黒瀬へ向き直る。
「任務が終わったら」
「はい」
「装備を外しても、ここへ戻る」
黒瀬は答えなかった。
その約束の相手は、自分ではなかった。
*
三人は、それぞれ別の書類へ署名した。
直樹の前には、
> 旧川端公民館事案
> 限定任務任用・官品使用承認書
原型要員への復帰ではない。
後続要員開発への転用を禁じた追記がある。
有効期間は七十二時間、または作戦終了まで。
めぐみの前には、
> 事案関連特別救護対象者指定同意書
そして、
> 療養併設・臨時遠隔運用室使用条件書
治療費は任務と分離されている。
病室の使用条件は、めぐみ自身の言葉で加えられた。
えりの前には、
> 保全行政調整担当任用書
休憩も権限も、曖昧な部分は赤い線で塞がれている。
えりがすべての頁を読み終えるまで、誰もペンを持たなかった。
最後の別紙を伏せ、えりが言う。
「今の文面なら、今回だけだ」
直樹が確認する。
「俺を設計図には戻せない」
「戻せない」
「この操作だけで、養殖を作れない」
「追加同意がなければ作れない」
えりは黒瀬を見る。
「治療費は別だ」
「別です」
「病室は終わったら戻す」
「撤去期限を記載しています」
えりは赤いペンを机へ置いた。
直樹はペンを右手で持った。
固定具を外さず、指先だけを出す。
一画目で、ペン先が紙に引っかかった。
線が震えた。
直樹は左手で右の手首を支えようとした。
途中でやめる。
めぐみの手が、机の上へ置かれていた。
触れてはいない。
奪いもしない。
代わりにも書かない。
ただ、そこにあった。
直樹は息を吐いた。
もう一度、ペンを動かす。
> 真柴直樹
整ってはいない。
それでも、自分の名前だった。
国家の設計図としてではない。
旧川端公民館の地下へ、目と耳を送るためだけの名前。
けれど軍用回線の向こうには、
真柴直樹。
生存。
官品使用可能。
作戦判断可能。
という記録が戻る。
直樹はペンを置いた。
めぐみが二枚の書類へ署名する。
> 宮崎めぐみ
えりは任用書へ、迷いのない字で書いた。
> 末安えり
三人の署名が、別々の紙へ置かれた。
誰も、同じ理由では署名していなかった。
*
午後。
病室の外を、何人もの作業員が通った。
大型の通信設備は室内へ入れられなかった。
屋上へ運ばれた。
通信室へ太い線が引かれた。
病室へ置かれたのは、説明された機器だけだった。
折り畳み式の表示装置。
任務専用暗号端末。
黒い遠隔操作用ヘッドセット。
視線追跡装置。
左手用の操作グリップ。
右手を載せる感圧パッド。
足元のペダル。
骨伝導通信機。
そして、めぐみの手元に置かれた、赤い蓋のついた遮断スイッチ。
えりは作業員全員の身分証を確認した。
入室時刻を書かせた。
機器を入れる前に、室内撮影装置がないことを確かめた。
医療用の線と軍用の線が、同じ保護材へ入れられそうになると作業を止めた。
「分けろ」
「規格上は問題ありません」
「規格の話はしてない」
二本の線は、別々の保護材へ入れ直された。
夕方。
最後の作業員が退室した。
えりが入室名簿へ終了時刻を書く。
病室には、めぐみ、直樹、えり、黒瀬だけが残った。
暗号端末の画面は黒い。
遠く離れた富士川で、旧川端公民館事案専用の任務鍵が発行される。
細い確認音が一度鳴った。
画面の中央に文字が浮かぶ。
> 使用者照合
> 真柴直樹
次の行。
> 原型要員復帰
> 該当なし
さらに、その下へ表示される。
> 適用事案
> 旧川端公民館地下内部確認
> 有効期限
> 七十二時間または作戦終了まで
右下の表示が変わった。
> 接続待機
黒瀬が端末の横にある認証板へ手を置く。
「富士川側の認証が通りました」
黒い画面の下で、小さな灯がついた。
赤い灯だった。
強い光ではない。
病室を軍の部屋へ変えるほどの明るさもない。
ただ、消えていた回線が、どこか遠くとつながったことだけを示していた。
黒瀬は灯を確認した。
「今日から、ここがあなたの職場です」
めぐみが記録板を持ち上げた。
朝の約束の下に、新しい文字がある。
> おかえり。
直樹は赤い灯を見た。
机の上の署名を見た。
それから、めぐみを見る。
「ただいま」
遠く離れた富士川の保管庫で、封印された輸送ケースの認証灯が点いた。
ケースの側面には、
> 旧川端公民館事案
> 七十二時間限定
と記されていた。
その下にある、
> 原型教導団試験運用
という古い表示だけが、黒いテープで覆われていた。




