第百十五話 水が二杯 改正版
## 第百十五話 水が二杯
扉が、三度短く鳴った。
直樹の左腕は、まだめぐみの背にあった。
傷ついた右手の指も、紺色のカーディガンをわずかにつかんでいる。
二人は、すぐには離れなかった。
「入るよ」
末安えりの声がした。
直樹が腕の力を緩める。
めぐみも、直樹の肩から左腕を下ろした。
右手だけは離れなかった。
扉が開く。
えりは部屋へ入り、まずめぐみの顔を見た。
唇の色。
胸の上下。
喉。
呼吸。
それから、床に膝をついている直樹を見る。
「時間です」
めぐみの眉が寄る。
「今日は、ここまで」
えりは言い直した。
「話を止める。気持ちを終わらせるんじゃない」
めぐみは口を開きかけた。
「声は使わない」
えりが人差し指を立てる。
めぐみは口を閉じた。
直樹が立とうとする。
「そのまま、ゆっくり」
えりの声が少し低くなる。
「急に立たない」
直樹は一度、呼吸を整えた。
左膝へ体重を移す。
椅子へ座る。
めぐみの手は、まだ直樹の右手へ触れていた。
えりは二人の手を見た。
「右は今、借りられなさそうだから」
めぐみの左手首へ指を当てる。
「こっちを貸して」
十五秒。
えりは脈を数える。
次に、めぐみの胸へ聴診器を当てた。
「深く吸わなくていい。普通で」
めぐみが呼吸する。
喉の奥で、細い空気が擦れた。
「速いけど、戻ってきてる」
えりは直樹を見る。
「あなたは」
「問題ありません」
答えてから、直樹は止まった。
めぐみが直樹を見る。
直樹は言い直す。
「緊張は、七です」
「痛みは」
「四」
「立ちくらみ」
「少し」
「問題あるね」
「あります」
えりはうなずいた。
「今からは休む時間。話は増やさない」
廊下へ顔を出す。
待機していた看護師から、小さな移動式トレーを受け取った。
水のボトル。
紙コップが二つ。
清拭用の布。
えりはトレーを、二脚の椅子の横へ置いた。
二人の間には置かなかった。
「水を飲む。呼吸を戻す。それだけ」
めぐみが記録板へ手を伸ばす。
「一行なら許す」
えりが言った。
「交渉はしない」
めぐみは書いた。
もう会えない?
「今日は、話す時間が終わっただけ」
えりはめぐみと直樹を順に見る。
「次については、体調を確認して調整する」
直樹が尋ねる。
「明日も申請できますか」
「申請はできる」
「お願いします」
えりは少しだけ目を細めた。
「必要だから?」
直樹は黙る。
めぐみが直樹を見る。
「会いたいからです」
直樹が答えた。
えりはうなずいた。
「それなら、医師へ伝える」
扉へ向かう。
「五分後に戻る。それまでは水だけ」
扉が閉じる。
鍵の音はしなかった。
*
部屋に残ったのは、空調の音だけだった。
時計はない。
直樹は、自分の右手を見る。
完全には握り返せない。
人差し指だけが、めぐみの指先へ触れている。
痛みはある。
痺れもある。
それでも、温度は分かった。
「水」
直樹が言った。
めぐみがうなずく。
直樹は手を引かなかった。
左手でボトルを取り、一つ目の紙コップへ注ぐ。
七分目。
めぐみの椅子の横へ置く。
めぐみはコップを取らなかった。
もう一つの空のコップを指した。
「俺はいい」
めぐみの眉が寄る。
記録板へ書く。
喉、乾いてる?
「問題ない」
めぐみはその下へ線を引いた。
答えになってない。
直樹は口を閉じた。
唇の内側は乾いている。
面談が始まってから、何度も唾を飲み込んでいた。
身体は水を求めている。
けれど、水はめぐみのために用意された物だと思っていた。
声を失っためぐみ。
喉を治しているめぐみ。
自分は後でいい。
いつもの順番だった。
「乾いてる」
直樹は言った。
めぐみの肩から、少しだけ力が抜ける。
直樹は二つ目のコップへ水を注いだ。
左手でボトルを持つ。
右手は使わなかった。
できることを証明する必要はなかった。
紙コップを、自分の椅子の横へ置く。
めぐみは一つ目のコップを両手で持った。
一口だけ飲む。
すぐには飲み込まず、口の中へ水を留める。
喉を動かす。
コップを戻す。
直樹も、自分のコップを取った。
左手で底を支え、右手を側面へ添える。
紙が少しだけへこんだ。
一口飲む。
冷たい水が、舌から喉へ落ちた。
身体が水を欲しがっていたことが分かる。
もう一口飲んだ。
めぐみが記録板へ書く。
おいしい?
「水だ」
めぐみの目が細くなる。
直樹は紙コップを見る。
「おいしい」
めぐみの肩が小さく揺れた。
声を使わない笑いだった。
直樹の口元も、わずかに動く。
笑ったというほどではない。
けれど、消さなかった。
二つの紙コップから、同じくらい水が減った。
*
五分後。
えりが扉を開けた。
腕時計を見る。
めぐみの呼吸を確認する。
「戻ったね」
めぐみがうなずく。
「立てる?」
もう一度うなずく。
「車椅子は廊下にある」
えりはめぐみの前へ立つ。
めぐみは直樹の手を離した。
指先から温度がなくなる。
直樹は右手を引きかけた。
袖の中へ隠す前に止める。
膝の上へ置いた。
めぐみが椅子から立つ。
えりの腕をつかむ。
直樹も立ち上がった。
一歩、近づきかける。
止まる。
「病室まで、行ってもいいか」
めぐみへ尋ねた。
めぐみはうなずく。
えりが廊下の車椅子を、扉の前まで寄せる。
めぐみは自分で二歩歩き、座った。
えりが取っ手を握る。
「押すのは私」
「分かった」
「直樹さんは」
えりは廊下を見る。
「隣を歩いて」
直樹は車椅子の右側へ立った。
三人で廊下を進む。
直樹は周囲を見る。
出口。
非常階段。
窓。
廊下の先。
人の手。
いつもの順番で確認する。
そのあと、めぐみを見る。
めぐみも直樹を見ていた。
直樹は目を逸らさなかった。
半歩前へ出ない。
半歩後ろへ下がらない。
大きな車輪の中心と同じ位置を歩いた。
*
めぐみの病室へ着くと、担当看護師が待っていた。
ベッドの背が少し起こされている。
窓は閉じたまま。
七月の光が、カーテン越しに床へ落ちていた。
「宮崎さんは休みます」
看護師が言う。
「会話は筆談も含めて短くしてください」
直樹は扉の外で止まった。
「ここで戻ります」
めぐみが記録板へ書く。
入って。
直樹は文字を見る。
「いいのか」
めぐみがうなずく。
えりは制服の内ポケットへ手を入れた。
生成りの布袋を取り出す。
「預かってた物」
めぐみの掌へ載せた。
小さな袋。
紐は結ばれたまま。
直樹の視線が止まる。
形だけで分かった。
奈良で渡せなかった指輪。
白い光のあと、焦げた小箱から戻ってきた物。
めぐみは袋を握った。
えりは直樹を見る。
「五分」
「分かりました」
「声は使わせないで」
めぐみがえりを睨む。
「本人にも言ってる」
えりは看護師と一緒に病室を出た。
扉は少しだけ開けたままになった。
*
直樹はベッド脇の椅子へ座った。
めぐみは布袋を膝へ置いている。
紐をほどかない。
直樹は指輪を見ている。
「それは」
言葉が続かない。
めぐみは記録板へ書いた。
なおが渡すはずだった指輪。
「ああ」
なくしたと思ってた?
「ああ」
めぐみは布袋を見る。
直樹は言った。
「返してくれなくていい」
めぐみのペンが止まる。
「遺品として持っていても」
記録板が強く叩かれた。
硬い音が病室へ落ちる。
直樹は口を閉じた。
めぐみは書く。
勝手に決めないで。
直樹の目が文字へ落ちる。
「……ああ」
めぐみは次の一行を書く。
思い出として持ってるんじゃない。
直樹は読み終えても顔を上げなかった。
自分に都合よく受け取ってはいけない。
期待してもいけない。
めぐみを縛ってはいけない。
その三つが、同時に胸へ浮かぶ。
めぐみは直樹の顔を見る。
声を使うなと言われている。
それでも、これだけは紙だけにしたくなかった。
息を吸う。
「今も」
直樹の顔が上がる。
めぐみは喉へ力を集めすぎない。
「なおが、好き」
短い声だった。
掠れている。
けれど、聞き間違える余地はなかった。
直樹は動かなかった。
めぐみは記録板へ続きを書く。
昔好きだったという意味じゃない。
かわいそうだからでもない。
今のなおが好き。
傷があっても。
弱くても。
直樹の視線が、一行ずつ動く。
それでも、すぐには言葉を返さない。
めぐみの声を、自分に都合のよい希望へ変えてはいけない。
そう考えている顔だった。
めぐみは布袋を持ち上げる。
記録板へ書く。
この指輪を、いつかつけたい。
直樹の呼吸が止まる。
めぐみは、さらに書く。
なおが隣にいる場所で。
直樹の右手が、膝の上で動いた。
「場所を作ればいいのか」
めぐみの眉が寄る。
直樹は続ける。
「安全な場所を。家を。めぐみが暮らせる――」
めぐみが首を横へ振った。
強く。
記録板へ書く。
場所だけ用意して、私を置いていかないで。
なおも、そこにいて。
直樹は文字を読む。
めぐみは最後の紙をめくった。
ゆっくり書く。
この指輪を、いつかもう一度、なおから渡して。
今すぐじゃない。
今のなおが、自分で渡したいと思った時に。
その時、私も自分で答える。
だから。
ペン先が止まる。
めぐみは直樹を見る。
最後の一行を書く。
勝手に諦めないで。
直樹の目が、その文字から動かなくなった。
「俺が諦めれば」
声が低い。
「めぐみは自由になれると思ってた」
めぐみは首を横へ振る。
「待たせるのも、縛るのも」
直樹は右手を見る。
「よくないと思ってた」
めぐみは記録板へ書いた。
私の自由を、なおが決めないで。
好きでいるか。
待つか。
指輪をつけるか。
それは私が決める。
なおが決めるのは、なおがどうしたいか。
直樹は長く読んだ。
逃げるために相手へ判断を渡すこともできない。
守るためだと言って、自分だけ消えることもできない。
自分が何を望むかを言わなければならない。
直樹は息を吸った。
「俺も」
声が止まる。
一度、口を閉じる。
もう一度、めぐみを見る。
「今も、めぐみが好きだ」
めぐみの指が、布袋の上で動かなくなる。
「一緒にいたい」
直樹の右手がわずかに震える。
「でも、何をすれば一緒にいられるのか、まだ分からない」
めぐみは黙って聞く。
「国の書類もある」
直樹は続ける。
「旧南第三もある。健二たちもいる。俺の身体も、まだ戻ってない」
めぐみの目は逸れない。
「それでも」
直樹は布袋を見る。
「諦めない」
呼吸を整える。
「場所だけ作って、めぐみを置いていかない」
右手の人差し指が、膝の上で少し曲がる。
「もう一度渡せるところまで、話す」
めぐみの目から涙が落ちた。
「一人では決めない」
めぐみは記録板へ書く。
私も。
直樹はうなずいた。
「ああ」
めぐみは布袋を開かなかった。
指輪も出さなかった。
直樹へ渡しもしない。
膝の上に置いたまま、両手で包んだ。
*
扉が二度、軽く叩かれた。
「終わり」
えりの声。
めぐみは記録板へ急いで書く。
明日。
直樹が読む。
「会いたい」
めぐみのペンが止まる。
直樹は続けた。
「午前のリハビリが九時四十分に終わる」
めぐみは書く。
十時。
「病院が許せば」
許さなかったら?
「俺が伝える」
理由も?
「理由も」
分からなかったら?
「分からないと伝える」
めぐみはもう一行書く。
黙っていなくならない?
「ならない」
直樹は一度、息を継いだ。
「今、約束できるのは、そこまでだ」
めぐみはうなずいた。
記録板の一番下へ書く。
うん。
扉が開く。
えりが入る。
二人の顔を見る。
指輪の袋を見る。
内容は聞かなかった。
「明日、十時を希望?」
めぐみが、書いた部分だけをえりへ見せる。
「医師と調整する」
えりは直樹を見る。
「無理なら」
「俺が理由を伝えます」
「また敬語」
直樹は止まる。
「俺が伝える」
「よし」
えりはめぐみの掛け布団を整える。
「今日は終わり」
直樹が立ち上がる。
めぐみは布袋を握ったまま、直樹を見る。
口が動く。
声は出さない。
なお。
「ああ」
直樹は答えた。
「明日」
めぐみがうなずく。
直樹は病室を出た。
*
自分の病室へ戻ると、机の上には四つの物が残っていた。
黒い手袋。
退院申請書。
書きかけの謝罪文。
黒瀬了から届いた復帰確認書。
復帰意思。
未確認。
署名欄は空白だった。
直樹は椅子へ座る。
復帰確認書を手に取る。
黒瀬が必要としているのは、福岡仁ではない。
真柴直樹。
日本人。
元自衛官。
めぐみを知り。
健二の兄であり。
旧南第三へ帰ろうとする人間。
そのすべてが戻った状態で、国家へ来ることを待っている。
直樹はペンを取った。
署名欄へは置かない。
別紙を一枚出す。
左手で書く。
復帰判断、保留。
そこで止まる。
組織名。
医師。
関係者。
どの言葉も違った。
直樹は次の行へ書いた。
一人では決めない。
紙を復帰確認書の上へ重ねる。
その横へ、新しい予定票を置いた。
明日。
午前十時。
二つの紙は、同じ机の上に並んだ。
復帰意思の署名欄は空いている。
明日の予定だけが、先に埋まっていた。




