第百十四話 なんで一緒にいてくれなかったの 改正版
## 第百十四話 なんで一緒にいてくれなかったの
取っ手が下がった。
扉が、内側へゆっくり開く。
最初に見えたのは、二脚の椅子だった。
間に机はない。
壁に時計もない。
録音機も、記録端末もない。
窓際から少し離れた椅子に、直樹が座っていた。
濃紺のシャツ。
床へ揃えた両足。
膝の脇へ下ろされた右手。
袖口から、傷の一部だけが見えている。
黒い手袋はしていなかった。
めぐみが入ると、直樹は立ち上がった。
一歩、前へ出かける。
すぐに止まる。
京都で、めぐみが触れずに待ったことを覚えているようだった。
めぐみは扉の内側へ入った。
後ろで、えりが手を離す。
「外にいる」
それだけ言った。
扉が閉まる。
鍵の音はしなかった。
めぐみは自分の足で、空いている椅子まで歩いた。
四歩。
最後の一歩で膝が揺れた。
直樹の身体が動きかける。
めぐみは左手を上げた。
来ないで。
声にはしなかった。
直樹は止まった。
めぐみは椅子へ座る。
記録板。
ペン。
水のボトル。
裏返した二枚のカード。
それだけを膝の上へ置いた。
直樹も椅子へ戻る。
背中は預けない。
右手が、袖の影へ少し入る。
めぐみは記録板の最初の紙を、直樹へ向けた。
最後まで聞いて。
その下。
謝らないで。
直樹の目が文字を追う。
「分かりました」
めぐみは首を横へ振った。
「……敬語」
掠れた声だった。
直樹の顔が上がる。
「やめて」
短い沈黙。
「分かった」
めぐみは記録板を膝へ戻した。
直樹の顔を見る。
外海では、雨が流れていた。
口元には血があった。
肩と脇腹を撃たれ、それでも黒崎へ向かっていた。
そのあと、水へ消えた。
今は、乾いた床の上にいる。
頬の傷も見える。
目も開いている。
生きている。
めぐみは息を吸った。
喉へ力を集めすぎない。
細く吐く。
「なんで」
直樹の肩がわずかに動く。
「なんで、一緒にいてくれなかったの」
声は大きくなかった。
けれど、途中で切れなかった。
直樹の口が開く。
めぐみは首を横へ振った。
「まだ」
直樹は口を閉じた。
めぐみは記録板へ書く。
高校が別になった。
少年工科学校へ行った。
直樹は文字を見る。
めぐみは声へ戻る。
「私」
息を継ぐ。
「同じ高校に、行きたかった」
直樹の目が揺れる。
「同じ制服で」
声が掠れる。
「同じ教室に、いたかった」
言葉が細くなった。
めぐみは記録板へ続きを書く。
なおは、強くなるって書いた。
隣に立てるようになるって。
十五歳の手紙。
めぐみは覚えている。
少年工科学校の便箋。
整えられた字。
訓練は順調です。
元気です。
心配しないでください。
最後に、小さく書かれていた。
強くなって、いつか先輩の隣に立ちます。
めぐみは記録板を直樹へ向けた。
私は、同い年になりたかった。
直樹の喉が動いた。
「知ってる」
めぐみは首を横へ振る。
「知らなかった」
声が少し強くなる。
「今、知っただけ」
直樹は何も言わない。
めぐみは続ける。
「自衛隊に行って」
呼吸。
「海外に行って」
記録板へ書く。
イラク。
アマゾン。
知らない国。
知らない任務。
帰る日が分からない電話。
「十年」
めぐみの声が震えた。
「十年、何も言わなかった」
直樹の右手が、袖の中で縮む。
めぐみはそれを見た。
今はまだ、触れない。
「生きてるか」
一度、息が切れる。
めぐみは胸へ手を当てる。
細く吐く。
「死んでるかも、分からなかった」
直樹は目を逸らさない。
「名前だけ」
声が薄くなる。
めぐみは記録板へ書く。
真柴直樹。
MIA。
掲示板の紙に名前だけあった。
名前だけじゃ、抱きしめられなかった。
ただいまも、おかえりも言えなかった。
直樹の顔が崩れかける。
それでも、謝らなかった。
めぐみは紙をめくる。
「京都で」
直樹の肩が固くなる。
「なおは、私が誰か、分からなかった」
敵か。
触るな。
来るな。
直樹が選んだ言葉ではない。
名前も場所も、自分の身体も分からなかった。
めぐみはそれを知っている。
「あの時のなおを」
息を継ぐ。
「責めてるんじゃない」
直樹がめぐみを見る。
「でも」
声が細くなる。
「痛くなかったわけじゃない」
めぐみは記録板へ書く。
目の前にいたのに、なおの中に私はいなかった。
名前を呼ばなかったのは、私が決めた。
触れなかったのも、私が決めた。
なおが選べるように待った。
直樹の視線が、最後の一行で止まる。
めぐみは声へ戻した。
「あの時は」
喉が擦れる。
「なおは、選べなかった」
直樹の唇が動く。
「ああ」
「今は」
めぐみは直樹を見る。
「私が誰か、知ってる?」
「知ってる」
「自分が誰かも?」
「知ってる」
「私が生きてることも?」
「知ってる」
「話せることも?」
「知ってる」
めぐみは記録板へ書いた。
それなのに、また一人で決めた。
直樹は長く、その文字を見ていた。
「黒瀬から」
直樹が言った。
めぐみはペンを止める。
「国へ戻るための書類が来ている」
直樹の声は低かった。
「俺が署名すれば、情報と人員を使える」
めぐみは黙って聞く。
「旧南第三を調べられる。健二たちへ支援を入れられる。子どもたちを守る手段も増える」
直樹の右手が、わずかに震える。
「その代わりに」
めぐみが声で尋ねる。
「なおが、行くの?」
「ああ」
「どこへ」
「まだ分からない」
「帰ってくる?」
直樹は答えなかった。
それが答えだった。
めぐみは記録板へ書く。
私に会う紙には、名前を書いた。
国へ戻る紙にも、一人で書くつもりだった?
「そのつもりだった」
直樹は言った。
言い訳をしなかった。
めぐみのペンを持つ指に力が入る。
「なんで」
「俺が戻れば、守れるものが増える」
「違う」
声が割れた。
直樹は口を閉じる。
めぐみは記録板へ書いた。
守れるかを聞いてるんじゃない。
どうして私に言わなかったの。
「言えば、止めると思った」
めぐみは首を横へ振る。
「行くなって」
息を継ぐ。
「言うかどうかも」
声が薄くなる。
「私に、決めさせなかった」
直樹の視線が落ちる。
「危険だ」
めぐみはペンを走らせる。
知ってる。
「次は助からないかもしれない」
それも知ってる。
「俺が近くにいれば、また危険が来る」
それを決めるのは誰?
直樹は文字を読む。
「俺が判断する」
めぐみは記録板を強く押さえた。
「それが」
息を押し出す。
「嫌なの」
直樹は何も言わない。
「高台で」
めぐみは言った。
黒い傘。
雨。
階段の途中で膝をつく直樹。
血を吐いている。
肩を踏まれている。
それでも、立とうとしている。
「私」
喉が震える。
「黒崎についていった」
直樹の目が上がる。
「連れていかれたんじゃない」
めぐみは続けた。
「私が、行った」
直樹の右手が縮む。
「なおを、止めるために」
あのまま残れば、直樹は死ぬまで動く。
黒崎は知っていた。
めぐみも、分かってしまった。
自分が傘の下へ入れば、少なくともその場では止める。
約束ではなかった。
救助でもなかった。
それでも、めぐみにはほかの選び方がなかった。
「私が、決めた」
めぐみは言う。
それから記録板へ書く。
でも、私が行かなかったら、なおは死んでた。
そんな選び方しか、私に残さなかった。
直樹は文字から目を離さない。
「ごめ――」
めぐみが首を横へ振った。
「謝らないで」
直樹の口が閉じる。
「今は、聞いて」
「ああ」
「最後まで」
「ああ」
めぐみは紙をめくる。
外海。
雨。
黒崎の銃。
直樹の腕。
血。
「なおを止めたら」
めぐみの声が擦れる。
「撃たれた」
直樹の右手が、膝の脇で動く。
「声が」
喉へ触れる。
「出なくなった」
直樹が何か言おうとする。
めぐみは待たない。
「なおは」
息を継ぐ。
「私が死んだと思った」
記録板へ書く。
それで、自分の手を壊した。
直樹の右手が袖の中へ入る。
めぐみは見た。
指の付け根。
硬く引きつれた皮膚。
隠れた掌。
「なんで」
声が震える。
「私の声がなくなったら」
呼吸が乱れる。
「なおの手まで、なくすの」
直樹の喉が動く。
「守れなかった」
「まだ」
めぐみは止めた。
直樹は黙る。
「私」
息を整える。
「なおに、強くなってほしかったんじゃない」
直樹の目が止まる。
「守ってくれるなおだけが」
声が切れかける。
めぐみは記録板へ続きを書いた。
欲しかったんじゃない。
弱くても。
怖くても。
できないことがあっても。
隣にいるなおが欲しかった。
涙が紙へ落ちた。
めぐみは拭かなかった。
「強くならなくて」
声が掠れる。
「よかった」
直樹の顔が歪む。
「私が」
息を吸う。
「弱いなおを、嫌だったんじゃない」
めぐみは直樹を見る。
「弱い自分を」
声が細くなる。
「なおが、嫌だったんでしょう」
直樹は否定しなかった。
沈黙が、二人の間へ落ちる。
めぐみは続ける。
「私を」
喉が痛む。
それでも声を出す。
「理由にしないで」
直樹の右手の指が、袖の中で動く。
「強くなったのも」
めぐみは記録板へ書く。
遠くへ行ったのも。
何も言わなかったのも。
戻らなかったのも。
全部、私のためにしないで。
直樹は一行ずつ読んだ。
「俺が」
声が低くなる。
「弱いままでは、めぐみの隣に立てないと思った」
「私に聞いた?」
「聞いてない」
「強くなってって、言った?」
「言ってない」
「遠くへ行ってって」
「言ってない」
「苦しいことを、隠してって」
「言ってない」
「一人で死んでって」
直樹の目が揺れる。
「言ってない」
めぐみの涙が、もう一滴落ちた。
「じゃあ」
声が途切れる。
記録板へ書く。
私に聞かずに、私の答えを作らないで。
直樹は長く、その文字を見た。
「分かった」
めぐみが顔を上げる。
「何が」
直樹の口が止まる。
答えが出ない。
「分かってない」
めぐみが言った。
直樹は目を逸らさなかった。
「……ああ」
認めた。
めぐみは、その返事をしばらく聞いていた。
*
部屋の外から、音はしなかった。
時計もない。
どれだけ時間が過ぎたのか分からない。
めぐみは水のボトルを取った。
自分で蓋を開ける。
一口だけ飲む。
直樹は手を出さなかった。
呼吸を数えなかった。
大丈夫かとも聞かなかった。
ただ、待っている。
めぐみはボトルを足元へ置いた。
記録板へ書く。
右手を見せて。
直樹の肩が固くなる。
「見えてる」
めぐみは首を横へ振る。
全部。
直樹は動かない。
右手は袖の影に入っている。
「めぐみ」
「隠さないで」
声が出た。
直樹の指が動く。
「右手を」
息を継ぐ。
「隠さないで」
直樹はゆっくり、右手を膝の上へ戻した。
袖口が上がる。
手の甲。
親指の付け根。
指の内側。
硬く盛り上がった傷。
完全には伸びない指。
掌を下へ向けたまま、止まる。
めぐみは待った。
直樹は右手を返した。
掌が上を向く。
傷の深い部分が見えた。
めぐみは記録板へ書く。
触りたい。
嫌なら、離す。
直樹は何も言わない。
手も引かない。
めぐみは自分の手を伸ばした。
傷へ直接触れない。
親指の横。
まだ柔らかい皮膚。
脈がある場所へ、指を置く。
温かかった。
生きている手だった。
直樹の肩が震える。
めぐみは左手でペンを持つ。
奈良で、私を押した手。
直樹の掌が固くなる。
外海で、私を抱いた手。
私の名前を呼びながら、握った手。
めぐみは指を離さない。
名前を書いた手。
戻ってきた手。
最後に書く。
この手を嫌わないで。
「守れなかった」
直樹が言った。
めぐみは首を横へ振る。
「撃たれた」
めぐみは喉へ触れる。
「生きてる」
「声を失った」
「戻ってる」
短い声だった。
「めぐみを死なせたと思った」
「死んでない」
直樹の目から、涙が落ちた。
「また、死なせるかもしれない」
めぐみは記録板へ書く。
それを一人で決めないで。
「俺がいなければ」
めぐみの指に力が入る。
「そうやって」
声が掠れる。
「私が必要かどうかまで、決めないで」
直樹はめぐみを見る。
「俺は」
言葉が止まる。
「会えば、そばにいたいと思う」
めぐみの視界が滲む。
「だから、会う前に行こうとした」
直樹の右手が、めぐみの指の下で震えている。
「そばにいたら、また失う」
めぐみは首を横へ振る。
「失うかも、しれない」
息を継ぐ。
「私も、怖い」
直樹の目が上がる。
「でも」
声が細くなる。
「怖いからって」
記録板へ書く。
先にいなくならないで。
後で話すと言って、消えないで。
一緒に帰ると言って、一人で行かないで。
なおの手を、私の届かない所へ持っていかないで。
直樹は最後の一行を見た。
右手の人差し指が、わずかに曲がる。
めぐみの指先へ触れた。
完全には握れない。
それでも、返ってきた。
*
扉が、二度叩かれた。
小さな音だった。
終了まで、あと二分。
誰も入ってこない。
扉も開かない。
めぐみは記録板を見る。
まだ言っていないことがある。
高校。
手紙。
奈良。
京都。
高台。
外海。
黒瀬の紙。
右手。
十五分では終わらない。
終わらなくていい。
めぐみはペンを置いた。
直樹の右手を持ったまま、口を開く。
「い……か」
息が揺れる。
直樹は動かない。
「……ないで」
五音が、最後までつながった。
細い。
掠れている。
それでも届いた。
直樹の人差し指が、めぐみの指へもう一度触れる。
めぐみは息を吸う。
「もう」
喉が痛む。
「どこにも、行かないで」
直樹の唇が震えた。
めぐみは首を横へ振る。
「二度と任務に行くなって」
呼吸。
「今、決めてって言ってるんじゃない」
記録板へ書く。
私に何も言わずに。
私の答えも聞かずに。
一人で自分を捨てに行かないで。
直樹は文字を読んだ。
目を閉じなかった。
「聞いた」
声が震えている。
「めぐみが怒ってることも」
直樹は右手を引かなかった。
「俺が、めぐみの答えを勝手に作ってたことも」
息を吸う。
「俺が弱い自分を消すために、強くなろうとしてたことも」
めぐみは直樹を見る。
「全部分かったとは言わない」
直樹の声が低くなる。
「でも、聞いた」
右手の指が、もう一度動く。
「もう、めぐみの分まで決めない」
直樹は言った。
「何も言わずに消えない」
呼吸が崩れかける。
それでも続ける。
「逃げない」
めぐみの涙が落ちる。
「弱いままでも」
直樹の右手が、めぐみの手の中にある。
「ここにいる」
めぐみは直樹の顔を見た。
中学の時より痩せている。
少年工科学校の制服を着ていた頃より、傷が多い。
海外から帰ってきた時より、弱っている。
京都で会った時より、人間の目をしている。
めぐみが欲しかったのは、強くなった証明ではなかった。
今、目の前から逃げない人だった。
喉へ、残った息を集める。
「なお」
「ああ」
「抱きしめて」
直樹の身体が止まった。
すぐには動かない。
「触れていい?」
めぐみはうなずく。
直樹は椅子から立った。
一歩。
めぐみの前で膝をつく。
急に近づかない。
めぐみが手を伸ばせる距離で待つ。
めぐみは左腕を、直樹の肩へ回した。
右手は、傷ついた手を握ったまま。
直樹の左腕が、めぐみの背へ回る。
強く抱けば壊れそうで。
弱く触れれば、また離れてしまいそうで。
直樹は一度、力を止めた。
めぐみが肩へ顔を寄せる。
腕に力を入れる。
それを受けて、直樹も抱いた。
外海の雨はない。
銃声もない。
誰かを助けるために、途中で離れる必要もない。
めぐみは直樹の胸に耳を当てた。
心臓の音がした。
速い。
乱れている。
それでも、そこにある。
直樹の右手が、めぐみの背へゆっくり触れた。
完全には開かない指で。
隠されていない手で。
めぐみのカーディガンを、わずかにつかんだ。




