第百十三話 扉の手前 改正版
## 第百十三話 扉の手前
転院当日の朝、宮崎めぐみは東佐賀病院の窓を開けなかった。
七月の湿った空気が、ガラスの向こうで木の葉を揺らしている。
ベッドの上には、昨夜まとめた鞄が一つあった。
記録板。
黒いペンを二本。
水。
小さな鏡。
発声カード。
なお。
行かないで。
二枚は重ねず、文字を下にして入れてある。
その下には、直樹から届いた古い手紙。
さらに奥に、小さな生成りの布袋があった。
なおが渡そうとして、渡せなかった指輪。
奈良の白い光のあと、焦げた小箱から戻ってきたものだった。
めぐみは布袋を取り出さなかった。
指にもつけない。
直樹が何を言うつもりだったのか。
指輪の先に、どんな暮らしを置いていたのか。
まだ、本人の口から聞いていない。
末安えりが洗面所から戻ってきた。
制服のポケットには、煙草の代わりのミントガムが入っている。
「忘れ物、ない?」
めぐみは鞄を見る。
うなずきかけて、首を横へ振った。
記録板を取る。
声。
「向こうでも訓練するよ」
まだ全部出ない。
「途中でいい」
めぐみはもう一行書いた。
なおに間に合わない。
えりはベッド脇の椅子へ座った。
「一回だけやる?」
めぐみがうなずく。
背中をベッドから離す。
肩を下げる。
鼻から息を吸う。
細く、長く吐く。
「……い」
喉の奥で、音が揺れた。
「……か……な……」
昨日より、「な」が少し長く続いた。
その先は息だけになった。
唇が動く。
い。
で。
音にはならない。
めぐみは目を閉じた。
えりは、出なかった二音を口にしなかった。
「昨日より伸びた」
めぐみは首を横へ振る。
まだ止められない。
「止まるかは、なおが決める」
めぐみのペンが止まる。
「でも、止まってほしいって言うのは、めぐみが決めていい」
会いたくないと言われたら。
それは聞く。
けれど。
何も言わずにいなくなるのは、もう嫌だった。
めぐみは記録板へ書いた。
逃げないで。
書いた文字を見てから、その下を空けた。
どこへ行かないでほしいのか。
戦場へ。
病室から。
自分の前から。
四年前の白い光の向こうへ。
めぐみにも、まだ一つには決められなかった。
病室の扉が二度叩かれた。
移送担当の看護師が顔を出す。
「宮崎さん、準備できていますか」
めぐみは鞄へ手を置いた。
今度は、はっきりとうなずいた。
*
同じ朝。
聖マリア病院の病室では、直樹の鞄が床に置かれていた。
口は半分開いたままだった。
一番上に、黒い手袋が見えている。
机には四つの紙が並んでいた。
退院申請書。
書きかけの謝罪文。
黒瀬了から届いた三枚の国家書類。
そして、すでに署名した面談同意書。
面談同意書には、
真柴直樹。
と、左手の字で書かれている。
黒瀬から届いた復帰確認書にも、同じ名前を記す欄があった。
そこは空白だった。
復帰意思。
未確認。
直樹は窓際に立ち、正面玄関へ続く車路を見ていた。
白い救急車。
物資搬入車。
職員の小型車。
車が入るたび、視線が動く。
東佐賀病院からの移送車ではない。
直樹は窓から離れた。
机へ戻る。
書きかけの謝罪文には、短い文が並んでいた。
置いていって、すみません。
帰らなくて、すみません。
忘れていて、すみません。
守れなくて、すみません。
右手を傷つけて、すみません。
最後の行は、途中で止まっている。
これからも危険な任務へ――
その先は書いていなかった。
許してください。
と続ければ、謝罪の形になる。
けれど、それは謝る言葉ではなかった。
直樹が決めた出発を、めぐみに承認させる言葉だった。
許さないと言わせれば、めぐみに責任を渡す。
許すと言わせれば、直樹は安心して消えられる。
どちらも、めぐみへ聞く前に答えを作ることになる。
直樹は謝罪文を裏返した。
黒瀬の復帰確認書を見る。
四年前。
直樹は、奈良の旅行のあと、新しい国家部隊へ移る予定だった。
日本にはいる。
海外へ消える回数は減る。
そう思っていた。
けれど、家へ帰れるとは限らなかった。
真柴直樹として。
日本人として。
自衛官として。
国家は、もう一度その名前を呼んでいる。
黒瀬は、福岡仁を戻したいのではない。
めぐみを知り。
健二の兄であり。
旧南第三の子どもたちを名前で覚え。
それでも危険へ入れる真柴直樹を戻したい。
直樹は復帰確認書を持ち上げた。
折り目のない紙。
内ポケットへ入る大きさだった。
面談室へ持っていくこともできる。
話したあと、すぐ署名するつもりなら。
自分が何を選ぶか決めたまま、めぐみの前へ座るなら。
直樹は紙を机へ戻した。
破らない。
断らない。
ただ、持っていかない。
書きかけの謝罪文も、その横へ置いた。
黒い手袋だけを手に取る。
右手へ近づける。
指を入れる前に止めた。
手袋も、机の端へ置いた。
右手を見せると決めたわけではない。
隠すための物を、部屋へ持ち込まないだけだった。
*
移送車の中には、消毒液と布製シートの匂いが残っていた。
めぐみは進行方向へ背を向けて座っている。
安全ベルトが胸と腰を固定していた。
えりは隣。
看護師は向かい側。
鞄は、めぐみの膝の上にある。
道路の継ぎ目を越えるたび、車体が細かく揺れた。
めぐみは記録板へ書く。
午後二時。
十五分。
その下へ、
足りない。
と書いた。
えりが読む。
「足りなくていい」
めぐみが見る。
「全部終わらせる日じゃないから」
次が来る保証はない。
めぐみはそう書こうとして、止めた。
保証がないから、一度ですべてを終わらせようとしてきた。
奈良でも。
外海でも。
次がなかった。
けれど、十五分ですべてを言えば、終わるわけではない。
言えなかったことが残るだけだった。
めぐみは予備の紙を鞄から取り出した。
一枚。
二枚。
三枚。
記録板の後ろへ挟む。
えりは何も言わなかった。
窓の外に、大きな白い建物が見え始めた。
聖マリア病院。
なおがいる。
同じ建物へ入る。
めぐみは鞄の上から、指輪の布袋がある位置へ触れた。
すぐに手を離した。
*
午前十一時二十三分。
聖マリア病院の正面車路へ、東佐賀病院の移送車が入った。
直樹は作業療法室にいた。
窓から、正面玄関の屋根が見える。
親指と人差し指で、直径二センチの木製円板を持ち上げる訓練をしていた。
円板を一枚取り、右側の箱へ移す。
一枚。
二枚。
三枚。
四枚目へ指を伸ばした時、外でブレーキ音がした。
直樹の指が止まる。
移送車の側面。
東佐賀病院の印。
後部扉が開く。
職員が車椅子を下ろす。
玄関の屋根が邪魔をし、患者の姿は見えない。
職員の肩。
紺色の鞄。
車椅子の金属枠。
それだけが見えた。
直樹の指から円板が落ちる。
木の床へ当たり、薄い音を立てた。
「真柴さん」
作業療法士が呼ぶ。
直樹は床の円板を見る。
「今の状態を教えてください」
「問題ありません」
言ってから、口を閉じた。
以前と同じ答えだった。
問題がなくなるまで黙る。
限界が来てから、身体の方に言わせる。
作業療法士は待っている。
直樹は息を吐いた。
「緊張しています」
「数値にすると?」
「五です」
「訓練を続けますか」
直樹は窓を見ない。
「二分、休みます」
「分かりました」
作業療法士は時計を確認した。
直樹は椅子の背へ身体を預けた。
同じ建物へ来た。
顔は見ていない。
声も聞いていない。
それでも、胸の中には五がある。
直樹はそれを、ゼロだとは言わなかった。
*
めぐみは聖マリア病院の正面玄関を通った。
長い廊下。
白い壁。
車椅子の小さな振動。
看護師が後ろから押している。
えりは鞄を持ち、右側を歩いた。
「直樹さんとは別の病棟です」
受入担当者が説明する。
「今日は検査と機器調整を行います。対話は明日、午後二時の予定です」
めぐみはうなずいた。
廊下の床には、歩行訓練用の白い線が引かれている。
五メートルごとに数字。
五。
十。
十五。
その脇に、長い手すり。
握られた部分だけ、塗装が薄くなっていた。
めぐみの目が、その跡を追う。
「気になる?」
えりが聞く。
めぐみは記録板へ書いた。
なおも歩いた?
「分からない」
えりは答えた。
「でも、この病院では歩いてる」
めぐみは手すりを見る。
どこを握ったのかは分からない。
この線を歩いたのかも分からない。
それでも、直樹はこの建物の中で、
立ち。
歩き。
右手を動かし。
自分の名前を書いた。
十年間、どこにいるかも分からなかった人が、今は同じ建物のどこかにいる。
それだけで、床の白線が帰り道のように見えた。
めぐみは、そう書かなかった。
*
直樹は作業療法室から病室へ戻る途中、車輪の音を聞いた。
反対側の廊下。
規則的な音。
職員の声。
移送患者が通る。
直樹は足を止めた。
廊下の角を曲がれば、見えるかもしれない。
顔を。
車椅子に座る姿を。
生きているめぐみを。
見れば、予定が壊れるわけではない。
面談が中止になるわけでもない。
それでも足が動かなかった。
直樹は角へ背を向ける。
病室へ歩き始める。
逃げている。
自分で分かっていた。
同じ建物へ来ることには同意した。
同じ廊下で、予定より早く顔を見ることには耐えられなかった。
数歩進んでから、直樹は止まった。
右手が左手の中へ隠れている。
ゆっくり離した。
見せるためではない。
握り潰さないためだった。
*
午後の検査では、めぐみの喉へ小型のセンサーがつけられた。
音声支援機器の出力。
声帯周辺の振動。
呼気量。
再生神経の反応。
一つずつ測る。
「短い音を出します」
担当者が言った。
「無理に言葉へつなげる必要はありません」
めぐみは鏡を見る。
鼻から息を吸う。
細く吐く。
「……な」
機器が微かな振動を拾った。
「いいです。次は母音を」
「……お」
二つの音は、まだ一つの名前にはならなかった。
それでよかった。
明日、直樹の前で何が出るかは、今ここで決めなくていい。
めぐみは喉へ手を当てた。
担当者が尋ねる。
「痛みは」
めぐみは指を二本立てた。
「二ですね。今日はここで止めます」
めぐみは首を横へ振りかける。
明日の声を残す。
そう書いた。
担当者がうなずく。
「その判断でいいです」
*
夜。
めぐみの新しい病室からは、中庭の一部が見えた。
向かい側の病棟に、いくつも窓が並んでいる。
灯りのついた窓。
消えた窓。
カーテンだけ閉じた窓。
どの部屋に直樹がいるのかは分からない。
えりがカーテンへ手をかける。
「閉める?」
めぐみは首を横へ振った。
記録板へ書く。
同じ建物。
「うん」
逃げるかな。
えりはすぐには答えなかった。
「明日の時間には来るって」
めぐみの目が動く。
「同意書は、もう受け取ってる」
本当?
「真柴直樹って署名したって」
めぐみの手が止まる。
嬉しいとは違った。
安心とも違う。
怖い。
怒っている。
会いたい。
全部が同じ場所へ集まって、胸の中を狭くした。
「全部持っていけばいい」
えりが言った。
めぐみは記録板へ書く。
入りきらない。
「なら、残せばいい」
どこに。
「明日の次に」
めぐみは向かいの窓を見る。
次があるとは、まだ信じられない。
それでも、次を拒むために会うのではない。
めぐみは予備の紙をもう一枚、鞄へ入れた。
*
翌日。
午後一時四十一分。
直樹の机には、黒瀬の復帰書類が残っていた。
復帰意思。
未確認。
署名欄は空白。
その横には、書きかけの謝罪文。
退院申請書。
黒い手袋。
直樹は濃紺のシャツの袖口を整えた。
右手の傷跡が見える。
袖を少し引けば、手の甲までは隠せる。
直樹は袖口へ指をかけた。
引き下ろす。
傷跡の半分が隠れる。
完全には隠れない。
そのままにした。
右手を見せると決めたわけではない。
隠し切れなかっただけだった。
担当看護師が病室へ来る。
「現在の痛みは」
「三です」
「緊張は」
「六です」
「中止しますか」
「行きます」
「途中で変わったら」
「伝えます」
直樹は病室を出た。
机の上に、
国家へ戻る紙。
先に謝るための紙。
消えるための申請書。
三つを残して。
*
午後一時四十七分。
めぐみは病室の鏡の前にいた。
病衣の上へ、薄い紺色のカーディガンを着ている。
首の傷を隠すためのスカーフが、ベッドの上に置かれていた。
めぐみは手に取る。
鏡の前へ当てる。
すぐに戻した。
傷を見せると決めたわけではない。
自分だけ、何もなかった姿で会いたくなかった。
鞄を開ける。
記録板。
ペン。
水。
裏返した発声カード。
古い手紙。
生成りの布袋。
めぐみは布袋を取り出した。
掌の上へ置く。
小さい。
四年間、聞けなかった言葉が入っているには、小さすぎる袋だった。
えりが隣へ立つ。
「持っていく?」
めぐみは布袋を見る。
記録板へ書く。
今は聞かない。
「何を言うつもりだったか?」
うなずく。
「置いていく?」
めぐみは布袋を、えりの掌へ載せた。
未来を捨てたわけではない。
今は、未来の答えで過去を塞ぎたくなかった。
えりは布袋を制服の内ポケットへ入れた。
「預かる」
めぐみは古い手紙も鞄から出した。
それは枕元へ置く。
面談室へ持っていくのは、
記録板。
ペン。
水。
裏返した二枚のカード。
それだけだった。
*
午後一時五十四分。
直樹は、怒れる部屋の前へ着いた。
扉の横に、部屋の使用条件が貼られている。
録音なし。
撮影なし。
施錠なし。
途中退出可。
怒り、沈黙、涙、拒否を失敗として記録しない。
担当看護師が確認する。
「扉は閉めます。鍵はかけません」
「はい」
「呼び出しボタンは双方の椅子から届きます」
「はい」
「終了二分前に、外から二度叩きます」
「はい」
「急に開けることはありません」
「分かりました」
扉が開く。
中に机はない。
時計もない。
録音端末もない。
二脚の椅子が、少し角度をつけて置かれている。
どちらからも扉が見える。
どちらの前にも、退出を塞ぐ物はない。
直樹は椅子を見る。
自分で位置を変えなかった。
決められた方へ座る。
右手を膝の上へ置く。
すぐに左手で包みかける。
途中で止めた。
右手を膝の脇へ下ろす。
袖口の影に、傷の一部が隠れた。
松隈先生が扉の外にいた。
「昨日言ったことだけ覚えておけ」
「聞くことです」
「それでいい」
「先生は」
「外にいる」
松隈先生は車椅子を少し下げた。
「お前たちの十年に、教師が座る椅子はない」
扉が閉まった。
鍵の音はしなかった。
部屋には時計がない。
十五分が、まだ始まっているのかも分からない。
直樹は一人で座った。
右手が震える。
袖の中へ引き込みたくなる。
しなかった。
見せるためではない。
逃げる動作を増やさないためだった。
*
午後一時五十七分。
めぐみは廊下を進んでいた。
えりは鞄を持たない。
記録板と水だけを、めぐみ自身が持っている。
面談室の手前で、車椅子が止まった。
めぐみは足を床へ下ろす。
えりが腕を差し出す。
めぐみはつかんだ。
立ち上がる。
膝が少し揺れる。
それでも、自分の足で扉まで歩いた。
扉の前。
えりが尋ねる。
「ここで待つ?」
めぐみはうなずいた。
「開けようか」
首を横へ振る。
自分で。
記録板へ書いた。
えりは取っ手から手を離した。
数歩下がる。
めぐみは扉を見る。
向こうになおがいる。
国家へ戻る紙を持っていることを、めぐみは知らない。
直樹がまた消えようとしていたことも知らない。
直樹も、めぐみが指輪を廊下の外へ置いてきたことを知らない。
二人とも、相手が未来をどう決めるつもりなのか分からない。
分からないまま、同じ部屋へ入る。
めぐみは息を吸った。
吐く。
記録板を胸へ抱える。
右手を取っ手へ伸ばす。
面談室の中で、直樹は物音へ顔を上げた。
取っ手へ触れる小さな音。
止まる。
もう一度。
十年間、二人の間には、学校と部隊と国境と戦地があった。
生きているか分からない四年間もあった。
今、残っているのは扉一枚だった。
めぐみの手が、取っ手をゆっくり下げた。




