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第百十二話 怒れる部屋

## 第百十二話 怒れる部屋


 東佐賀病院の診察室には、窓が一つあった。


 曇りガラスの下半分に、午後の光が白く溜まっている。


 宮崎めぐみは、机に置かれたA4用紙を見ていた。


 転院予定。


 搬送先。


 聖マリア病院。


 その下には、治療項目が四つ並んでいる。


 再生神経の反応評価。


 音声支援機器の調整。


 呼吸と発声の連携確認。


 嚥下機能の再検査。


 めぐみは、人差し指の腹を、


 聖マリア病院。


 の文字へ置いた。


 そこになおがいる。


 外海へ流されたあとも。


 黒い水から引き上げられたあとも。


 目を閉じためぐみを最後に見たままでも。


 生きている。


「肺の修復部位は安定しています」


 主治医が、診察用モニターの画像を切り替えた。


 胸部の断面。


 喉から肺へ続く、細い線。


「神経側の反応も出ています。ただ、ここからは喉だけを見ても十分ではありません」


 指示棒が喉から胸へ下りる。


「息を出す力。声へ変えるタイミング。飲み込む時の閉鎖。この三つを一緒に確認します」


 めぐみは説明を聞いていた。


 視線は病院名へ残っている。


 隣の椅子では、末安えりが銀紙からミントガムを出していた。


 煙草の代わりに口へ入れる。


 噛む前に尋ねた。


「転院の目的は治療ですね」


「はい」


「真柴さんに会わせるためではない」


「違います」


 主治医は、めぐみを見る。


「面会を希望しなくても、転院と治療の条件は変わりません」


 めぐみの指が、聖マリア病院の文字から離れた。


 えりがガムを奥歯へ送る。


「同じ病院にはなる」


「なります」


「会いたくないと言ったら?」


「会わせません」


「真柴さんが希望しても?」


「宮崎さんが希望しなければ行いません」


 主治医は別の紙を出した。


 面談仮予定。


 転院後、双方の状態を確認して実施。


 上限十五分。


 どちらか一方の意思で中断可能。


 めぐみは、


 面談。


 の二文字を見た。


 えりが紙を覗き込む。


「初対面みたいですね」


「表現が気になりますか」


「この二人、もう会ってます」


 京都。


 外海。


 えりは、その二つだけを口にした。


「顔も見てる。名前も呼んでる。触ってもいる」


 えりは面談の文字を指で押さえた。


「だから、これは再会じゃない」


 主治医は否定しなかった。


「では、話すための時間です」


 めぐみの目が動く。


「敵も、移動も、治療もない場所で」


 主治医が続ける。


「互いの話を聞くための時間です」


 めぐみは記録板を取った。


 ペンを持つ。


 紙の上に書く。


 なおは知ってる?


「本日、聖マリア側から伝えます」


 会いたくないって言ったら?


「面談は行いません」


 私が怒ったら?


 主治医は文字を読む。


「怒ったことで、治療条件が変わることはありません」


 めぐみは、もう一行書く。


 話すのが失敗になる?


「怒ることが、ですか」


 めぐみはうなずいた。


「なりません」


 主治医は、仮予定票の余白へ書いた。


 怒り。


 沈黙。


 涙。


 発声の中断。


 途中退出。


 面談の失敗として記録しない。


 その文章をめぐみへ見せる。


「これでどうですか」


 めぐみは読んだ。


 ペン先が止まる。


 京都で、なおの名前を呼ばなかった。


 名前でこちらへ引き戻せば、なおの意思を奪う気がした。


 触れない。


 近づかない。


 扉を塞がない。


 そう言って待った。


 あれがなおの選択ではなかったことは、分かっている。


 めぐみを見ても、誰か分からなかったことも。


 敵かと尋ねたことも。


 触るなと言ったことも。


 病気と記憶の中で起きたことだと分かっている。


 それでも。


 名前を呼べなかった時間は、痛かった。


 なおの目の前にいたのに、なおの中にはいなかった。


 理解できたことと、傷つかなかったことは同じではなかった。


 外海では、言えなかった。


 雨。


 銃声。


 血。


 なおは黒崎へ向かっていた。


 止めなければ帰れなくなる。


 だから、


 帰ろう。


 と言った。


 その直後、撃たれた。


 なおの腕の中で名前を呼んだ。


 死にたくないと言った。


 一緒に帰りたいと言った。


 けれど、あれも話し合いではなかった。


 生きている間に、互いの名前を残そうとしただけだった。


 今度は、雨が降っていない。


 銃を持つ人間もいない。


 誰かを助けるために、言葉を途中で切る必要もない。


 それでも怒ったら。


 声を出したら。


 なおがまた遠くへ行ったら。


 めぐみは記録板へ書いた。


 怒っていい?


 主治医は答えた。


「相手を傷つける行動は止めます」


 めぐみは主治医を見る。


「でも、言葉として怒ることは止めません」


 記録板へ、もう一行。


 大きい声は出ない。


「声の大きさは関係ありません」


 書いても?


「書いてください」


 黙っても?


「待ちます」


 途中で出ても?


「出られます」


 戻ってもいい?


「戻りたいと双方が希望し、体調が許せば、別の日を申請できます」


 めぐみのペン先が止まった。


 次。


 奈良で、


 後で話す。


 と言われた。


 その後は来なかった。


 白い光が来た。


 真柴直樹という名前だけが、行方不明の紙へ残った。


 外海では、


 一緒に帰る。


 と言われた。


 その直後に撃たれた。


 次があると思った時ほど、途中で切れた。


 だから、十五分ですべて言わなければならないと思っていた。


 高校が別になったことも。


 少年工科学校へ行ったことも。


 海外へ行ったことも。


 十年間戻らなかったことも。


 京都で名前を呼べなかったことも。


 誘拐されたことも。


 声を失ったことも。


 なおが自分の手を傷つけたことも。


 一度に全部。


 言わなければ、また途中で終わる。


「十五分は、結論を出す時間ではありません」


 主治医が言った。


「喉と身体を守るための上限です」


 めぐみは顔を上げる。


「和解も、謝罪も、今後の約束も求めません」


 えりがガムを噛みながら言った。


「十五分で十年を片づけようとしたら、喉より先に紙が足りなくなる」


 めぐみが睨む。


「睨んでも足りない」


 えりは仮予定票を指した。


「最初に言いたいこと、一つでいいんじゃない」


 めぐみは記録板を見る。


 最初に言いたいこと。


 なお。


 帰ってきて。


 行かないで。


 どうして。


 ごめん。


 会いたかった。


 どれも違う。


 どれも同じだった。


 めぐみは、まだ書かなかった。


     *


 病棟の相談室へ、面談室の平面図が運ばれた。


 元は家族説明に使う小さな部屋だった。


 長机。


 椅子六脚。


 壁掛け時計。


 記録用端末。


 窓。


 出入口は一つ。


 病院の調整担当者が、赤い鉛筆で机へ線を引いた。


「机は撤去します」


 えりが尋ねる。


「何で?」


「向かい合わせに座った時、境界や遮蔽物として使われる可能性があります」


 説明を聞いていためぐみが、平面図へ手を伸ばした。


 机を消した赤い線を見る。


「椅子は二脚」


 担当者が続ける。


「正面には置きません。少し角度をつけます」


 二つの四角が、斜めに描かれる。


「双方から出入口が見えます」


 めぐみは直樹側の椅子を指す。


 そこから扉まで、何もない。


「真柴さんは、出口が見えない位置だと負荷が上がる可能性があります」


 めぐみは自分側の椅子を見る。


 こちらからも扉が見える。


「宮崎さん側の退出経路も塞ぎません」


 録音機は?


 めぐみが書く。


「置きません」


 カメラは?


「ありません」


 誰か聞いてる?


「医療者は扉の外にいます。ただし、内容を聞くためではありません」


 扉は?


「施錠しません」


 開けておける?


「希望があれば、少し開けた状態でも行えます」


 めぐみは考える。


 京都では、開いた扉が必要だった。


 逃げるためではない。


 なおが、自分でここにいると決められるように。


 けれど今度は、外に誰かが立っていることも怖かった。


 国家の人間。


 行政の人間。


 二人が何を言うか待っている人間。


 めぐみは書く。


 閉める。


 鍵はかけない。


「分かりました」


 時計は?


「撤去します」


 十五分はどうやって分かる?


「室外の担当者が管理します。終了二分前に、扉を二回軽く叩きます」


 急に開けない?


「開けません」


 呼び出しは?


「双方から届く位置にボタンを置きます」


 担当者は平面図へ、小さな丸を二つ描いた。


「どちらかが押せば中断します」


 めぐみは、二脚の椅子を見る。


 机はない。


 時計もない。


 録音機もない。


 誰かが正解を出す場所ではない。


「この部屋で怒っても」


 えりが調整担当者へ尋ねた。


「国の報告書に、情緒不安定とか書かれません?」


「今回の内容は、治療成果報告へ使用しません」


「帰属確認にも?」


「使用しません」


「誰が決めたの」


 担当者は別の紙を出した。


 真柴健二。


 秋山志保。


 その下に、赤い受領印。


 再会は帰属式ではない。


 本人同意なく、広報、撮影、成果報告へ使用しない。


 怒り、拒否、退出を支援失敗として扱わない。


 めぐみは健二の名前へ触れた。


「旧南第三から届いた条件です」


 担当者が言った。


「聖マリア側、東佐賀側ともに受領しています」


 めぐみは平面図の余白へ書いた。


 怒れる部屋。


 えりが読む。


「部屋の名前?」


 めぐみはうなずく。


 担当者は笑わなかった。


 訂正もしなかった。


 平面図の上部へ、


 怒れる部屋。


 と、そのまま書き写した。


     *


 発声訓練室の机には、五枚のカードが置かれた。


 なお。


 帰ろう。


 一緒に。


 行かないで。


 どうして。


 白いカード。


 太い黒字。


 めぐみは最後の二枚を見ていた。


 担当者が喉の横へ小型電極を貼る。


「今日は一つだけです」


 めぐみは、


 行かないで。


 のカードへ手を置いた。


「五音あります」


 い。


 か。


 な。


 い。


 で。


「一息ですべて出す必要はありません」


 めぐみは首を横に振った。


「では、『なお』にしますか」


 もう一度、首を横に振る。


 えりは壁際で、ガムの包み紙を小さく畳んでいた。


「声で言わないと駄目?」


 めぐみが見る。


「なおなら、書いても分かる」


 めぐみは記録板へ書く。


 声で言いたい。


「全部?」


 首を横に振る。


 最初だけ。


「最初が何か、決めたの?」


 めぐみはペンを止めた。


 どうして。


 その二文字では足りない。


 行かないで。


 どこへ。


 戦場へ。


 病室から。


 自分の前から。


 十年前へ戻って。


 もう一度、中学の教室から始めて。


 どこへ行かないでほしいのか、めぐみ自身にも分からなかった。


 担当者が言った。


「今日、言葉を決めなくても大丈夫です」


 間に合わない。


 めぐみが書く。


「何にですか」


 なおがいなくなる。


 えりが文字を読む。


「誰が、そう言ったの」


 めぐみは答えない。


 誰も言っていない。


 けれど、なおはいつもそうだった。


 必要だと思えば行く。


 身体が動くかではない。


 自分が動かなければならないと思った時、誰にも言わずに動く。


「行くなって言いたい?」


 めぐみは分からなかった。


 なおが動かなければ助からなかった人を知っている。


 自分も、その一人だった。


 けれど。


 なおが助けた人の数だけ、自分が置いていかれていいわけではない。


 めぐみは、


 行かないで。


 のカードを裏返した。


 白い面だけにする。


「持っていく?」


 うなずく。


「見せる?」


 めぐみは少し考えた。


 分からない。


 と書いた。


 カードは鞄へ入れた。


 文字を下にして。


     *


 聖マリア病院の小会議室で、真柴直樹は面談説明書を読んでいた。


 相手の氏名。


 宮崎めぐみ。


 目的。


 双方の希望による対話。


 上限十五分。


 録音、撮影なし。


 心理評価、帰属確認、治療成果評価へ使用しない。


 発声を求めない。


 謝罪、和解、今後の決定を求めない。


 沈黙、拒否、途中退出を失敗として扱わない。


 右手には、薄い補助具がついている。


 親指と人差し指の間に、小さな端子が見えた。


 担当医が説明する。


「宮崎さんは聖マリアへの転院に同意しています」


「医学的な目的は」


「音声、呼吸、嚥下の連携治療です」


「面談のためではない」


「違います」


「面談を拒否した場合は」


「治療へ影響しません」


 直樹は紙から目を上げない。


「宮崎の身体は」


「本人が共有を許可した範囲だけお伝えします」


 担当医は別紙を見た。


「転院可能。胸部状態は安定。発声を求めないこと。途中で休止できること」


「それだけですか」


「それだけです」


「外海での損傷は」


「宮崎さん側の医療記録です」


「俺は現場にいました」


「それでも、本人の記録です」


 直樹は黙った。


 第111話で健二が残した条件が、ここにも来ている。


 兄ちゃんの手は、兄ちゃんの記録。


 めぐみの声は、めぐみの記録。


 二人は一緒に傷ついた。


 それでも、傷は一つではなかった。


「宮崎さんは、対話を希望しています」


 医師が言った。


「何を話すかは聞いていません」


「発声できない可能性は」


「あります」


「その場合は」


「記録板を使います」


「書けない場合は」


「黙っていても構いません」


「負荷が高すぎた場合は」


「中断します」


「俺が退出した場合は」


「面談終了です」


「宮崎が退出した場合も」


「同じです」


「再申請は」


「双方が希望すれば可能です」


 直樹は説明書の最後を見る。


 希望確認。


 同意する。


 同意しない。


 保留。


 署名欄は空いている。


「医学的な必要はありませんね」


「ありません」


「心理評価でもない」


「違います」


「それなら」


 直樹は言葉を止めた。


 窓側には松隈先生がいた。


 大きな眼鏡を指で押し上げる。


「宮崎が話したいからだろ」


 直樹は松隈先生を見ない。


「本人が無理をしている可能性があります」


「それは医師が見る」


「会うことで状態が悪化する可能性も」


「それも医師が見る」


「俺が行かなければ」


 松隈先生が遮る。


「会いたくないのか」


 直樹の指が、補助具の中で止まる。


「必要性の話です」


「聞いてない」


「治療を優先すべきです」


「それも聞いてない」


 直樹は面談説明書へ目を落とす。


「会いたいのか」


 室内が静かになる。


 直樹は外海で最後に見ためぐみを思い出した。


 瞼を閉じていた。


 手の力が抜けていた。


 何度名前を呼んでも、返事をしなかった。


 生きていると聞いたあとも、その顔だけは消えなかった。


「会いたいです」


 声に出すと、呼吸が少し崩れた。


「目を開けているところを見たい」


 右手の人差し指が、わずかに曲がる。


「血のない状態で」


 松隈先生は何も言わなかった。


 直樹は続ける。


「でも、会えば、宮崎は俺を止めるかもしれません」


「何を」


 直樹は答えなかった。


「お前は、何か決めてるのか」


「まだです」


 嘘ではなかった。


 決めたとは書いていない。


 ただ、行く準備をしているだけだった。


 松隈先生は机の紙を指した。


「謝るつもりか」


「必要です」


「謝る前に聞け」


 直樹の目が動く。


「宮崎が何を言うかまで、お前が先に決めるな」


 それ以上、松隈先生は言わなかった。


 直樹は同意欄へ印をつけなかった。


「今日中に回答してください」


 担当医が言った。


 直樹は説明書を受け取った。


     *


 病室へ戻ると、机の上に薄い封筒が置かれていた。


 病院の封筒ではない。


 差出人の名前もない。


 表に書かれているのは、


 真柴直樹。


 その四文字だけだった。


 福岡仁ではない。


 ジンでもない。


 旧南第三で、黒崎が照会した名前。


 病院で右手を動かし、もう一度書いた名前。


 直樹は封筒の端を見る。


 開封確認用の細い線。


 古い国家文書で使われていた形式だった。


 左手で封を切る。


 中には、紙が三枚入っていた。


 一枚目は、古い経歴照会の写し。


 真柴直樹。


 元陸上自衛官。


 宇都宮駐屯地勤務歴あり。


 中央即応連隊所属歴あり。


 照会元。


 白羽生活支援系統。


 照会理由。


 対象者の身分および過去勤務歴の確認。


 それは、第31話で黒崎が机へ置いた紙と同じものだった。


 ただし、写しの下部には、別の文字が追加されている。


 休眠対象記録への照会発生。


 生存可能性判定を再開。


 対象経歴識別一致。


 旧防衛・公安連絡系統へ限定通知。


 直樹は日付を見る。


 白羽が、旧南第三の外側から真柴直樹を調べた日。


 あの日。


 自分の名前が、四年前に止まった国家の記録を起こしていた。


 二枚目。


 紙は一枚目より古い。


 端が少し変色している。


 上部には、崩壊前の日本国の公印。


 表題。


 特別防衛人材計画。


 原型要員編入予定通知。


 対象者。


 真柴直樹。


 前籍。


 陸上自衛隊。


 所属歴。


 中央即応連隊準備隊。


 中央即応連隊。


 海外軍事組織勤務歴については、別紙照合。


 計画目的。


 高脅威環境下において、通常指揮系統の断絶後も、国家目的と住民保護を両立し得る高度自律型要員の選抜、運用および教育体系化。


 原型要員の運用記録を、第二期以降の選抜・教育課程へ反映する。


 直樹の目が、その一行で止まった。


 第二期以降。


 自分は新しい部隊へ入る予定だった。


 通常の自衛隊指揮系統とは異なる任務へ移る。


 日本国内と極東境界で動く。


 説明されたのは、そこまでだった。


 自分の行動が、次の要員を作るための基準になるとは聞いていない。


 自分が原型だったことも。


 直樹は文書の発効予定日を見る。


 奈良の旅行の直後。


 指輪を渡したあと。


 めぐみに、


 これからは日本にいる。


 急に消えることを減らす。


 戻る場所を曖昧にしない。


 そう伝えたあとで、編入されるはずだった。


 日本にはいられたかもしれない。


 だが、帰れたとは限らない。


 三枚目は、新しい紙だった。


 公印はない。


 組織名も書かれていない。


 対象者再確認票。


 氏名。


 真柴直樹。


 任官記録。


 照合済み。


 本人識別。


 確認済み。


 生存。


 確認。


 身体機能。


 回復審査中。


 記憶統合。


 本人申告および医療記録上、進行中。


 原型要員復帰準備。


 条件成立待ち。


 復帰意思。


 未確認。


 最後に、署名欄がある。


 真柴直樹。


 同じ名前を書く場所。


 面談説明書と同じ名前。


 紙の下には、手書きの短い文があった。


 白羽が君の名前を照会した。


 四年前に止まった記録が、そこで動いた。


 迎えに向かった時、君はもういなかった。


 その後に残った福岡仁の記録は、拾える限り照合した。


 アレクセイ。


 華南系統。


 富士川。


 指揮を失っても、君は同じ順番で人を戻している。


 戻したいのは福岡仁ではない。


 日本人として。


 自衛官として。


 真柴直樹として。


 黒瀬了。


 直樹は三枚の紙を机へ置いた。


 黒瀬。


 富士川へ来た、古い身分証を持つ男。


 日本国はお前に命令できない。


 そう言いながら、命令の形をした依頼を置いた男。


 あの時は、福岡仁に用があると言った。


 国家の紙へ載せないために。


 今回は違う。


 黒瀬が呼んでいるのは真柴直樹だった。


 四年前から。


 白い光が来る前から。


 黒瀬は、失われた一人の自衛官を探していた。


 直樹だけではない。


 中央即応連隊準備隊。


 初期の中央即応連隊。


 崩壊前の計画に名前を載せられた隊員たち。


 四年前の内戦で死んだ者。


 行方不明になった者。


 別の勢力へ流れた者。


 名前を変えて生きている者。


 黒瀬たちは、その全員を探し続けている。


 直樹は、その中で生存が確認された一人だった。


 身体も。


 記憶も。


 判断力も。


 守る理由も。


 戻り始めている一人。


 黒瀬は、直樹の回復を本気で望んでいる。


 日本人として。


 自衛官として。


 めぐみを知っている人間として。


 完全に戻ることを。


 その先で、また国家へ渡すために。


     *


 直樹は棚から衣類を出した。


 濃紺のシャツ。


 下着。


 処方薬。


 医療記録の複写。


 黒い手袋。


 退院申請書。


 そして、黒瀬から届いた三枚の紙。


 ベッドの上へ並べる。


 原型要員復帰準備。


 条件成立待ち。


 そこには任務名がない。


 集合場所もない。


 敵の名前もない。


 まだ命令ではない。


 直樹が名前を書けば、その次が届く。


 黒瀬たちは、直樹を強制的に連れ出さない。


 本人が戻ることを待っている。


 真柴直樹という名前で、自分から。


 直樹はバッグへ衣類を入れた。


 左手で口を押さえる。


 右手でファスナーの金具をつかむ。


 親指が滑った。


 もう一度つかむ。


 三センチ。


 傷跡が引かれる。


 指が止まった。


 誰かを呼べば閉められる。


 だが、呼ばなかった。


 半分開いたバッグを、そのまま床へ置く。


 面談説明書を見る。


 宮崎めぐみ。


 話したい。


 それ以外の内容は書かれていない。


 怒っているかもしれない。


 泣くかもしれない。


 直樹を許さないかもしれない。


 会った瞬間、出ていくかもしれない。


 それでも。


 黒瀬の紙へ署名すれば、直樹が何をするかは決まる。


 国家へ戻る。


 原型要員として復帰する。


 残った初期要員を探す。


 新しい兵士を作るための記録になる。


 健二。


 旧南第三。


 八人の子ども。


 めぐみ。


 そのすべてを守る力を得られるかもしれない。


 国家の輸送路。


 医療。


 情報。


 人員。


 一人では届かなかったものへ手が届く。


 代わりに、また行く。


 今度は福岡仁ではない。


 真柴直樹として。


 めぐみが待っていた名前で、めぐみの前からいなくなる。


 直樹は退院申請書を取った。


 署名欄は空白。


 廊下へ出る。


 夜勤帯の照明は落とされている。


 病棟の奥で、機器の警告音が一度だけ鳴った。


 エレベーターまでは三十七歩。


 非常階段までは二十四歩。


 職員通用口が開く時刻も知っている。


 今ここから出れば、黒瀬へ接触できる。


 復帰意思を伝えられる。


 健二たちの危険へ、国家の力を引き込める。


 自分の命を最後まで使える。


 白い光のせいではない。


 記憶が消えたせいでもない。


 黒崎に追われたせいでもない。


 今回は、自分で選んで出ていく。


 めぐみに何も聞かずに。


 直樹はエレベーターの前へ立った。


 下向きのボタンを見る。


 押さなかった。


 黒瀬の紙も、面談説明書も、同じ名前を求めている。


 真柴直樹。


 一方は国家へ戻るため。


 一方は、宮崎めぐみの話を聞くため。


 名前は同じだった。


 だから、どちらが本当の自分かという問題ではない。


 両方、自分だった。


 自衛官だった自分。


 めぐみを愛していた自分。


 健二の兄だった自分。


 誰かが倒れていれば、戻れなくても手を伸ばした自分。


 それらを一つに戻すことを、黒瀬は望んでいる。


 めぐみも望んでいるのか。


 直樹には、まだ分からない。


 分からないまま、直樹はめぐみの答えを先に決めようとしている。


 危険だから離れる。


 守るために行く。


 自分が消えれば済む。


 その結論を、また一人で作っている。


 直樹は病室へ戻った。


 バッグは半分開いたまま。


 退院申請書を机へ置く。


 黒瀬の再確認票を、その横へ置く。


 復帰意思確認欄。


 空白。


 面談説明書を開く。


 同意する。


 四角い欄へ、左手で印をつける。


 署名欄へ書く。


 真柴直樹。


 昔の手紙より崩れた字だった。


 第108話で書いた署名よりも、少しだけ線が安定していた。


 黒瀬の紙にも、同じ名前を書ける。


 けれど、今夜は書かなかった。


 国家へ戻らないと決めたわけではない。


 任務を拒否したわけでもない。


 ただ。


 宮崎めぐみの言葉を聞く前に、真柴直樹を国家へ渡すことだけを止めた。


     *


 東佐賀病院では、面談室の平面図に、


 怒れる部屋。


 と書かれていた。


 その下には、


 怒り、沈黙、涙、退出を失敗として記録しない。


 という一文。


 聖マリア病院では、面談説明書の署名欄に、


 真柴直樹。


 と書かれていた。


 同じ病室の机には、もう一枚の紙がある。


 原型要員復帰準備。


 復帰意思。


 未確認。


 その署名欄は、まだ空いていた。


 二枚とも、同じ名前を待っていた。


 直樹が最初に名前を渡したのは、録音機も、国旗も、机もない部屋へ入るための紙だった。


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