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第7章

 三日目、釧路は朝から濃い霧がかかっていた。海霧というのは、理論としては海上で熱せられて蒸発した水分が他の冷たい空気と混ざりあい、ぶつかりあうことによって生じるものらしいが、霧が相当に濃いのを見ると、きのうは随分と海の上で水蒸気が発生したに違いない。

 僕が朝早く目覚めて、河畔公園を釧路川沿いに散歩していると、その霧は一種異様なくらいに濃く深いものだった。僕は公園のベンチに腰かけて、晴れた日にはすぐ目の前に見えるはずの幣舞橋ぬさまいばしを見上げたが、橋全体が霞んで見えなくなっているほどなのだ。かろうじて橋の上の秋と冬を司る、美しい女性の裸像だけは見え隠れしていたが、僕はまったく見も知らぬ異世界へと迷いこんでしまったような、そんな錯覚にすら囚われていた。

 潮の香りと魚貝類の匂いが入り混じった、独特の海の香気があたりには漂っており、平凡な世界に生きる僕のことを、束の間、恋をする偉大な詩人に変えてくれそうだった……といっても、僕はリョウや綾のように、具体的かつ積極的な言葉をもって紙に文字を書きつけるという意味での詩人ではない。僕はただ、思索をする、思想家としての詩人なのだ。いうなれば、思想家を名のってはいるが、自分の思想というものを一度も紙に書いて著したことのないただの夢想家、とも言い換えることができよう……今僕はとてもセンチメンタルな気分になっており、薄暗い幣舞橋の下を、打ち寄せる水音を聞きながら歩いていた。そしてフィッシャーマンズワーフと呼ばれる情緒あふれる外観の、巨大な観光デパートの前へ出ると、埠頭のほうまで歩いていってみることにしようと思った。だがどこも、あまりにも霧が濃く深いために、どこに何があるのかを二メートル先まで教えることすら困難にしていた。それで僕は釧路川を入江に向かって出港していく船の、白いおぼろな姿とエンジン音とを見聞きすると、ある種の満足感を覚えて<はまなすの宿>へ引き返すことにしたのだった。

 八月だというのに薄ら寒い、神秘的な霧の中を彷徨いながら僕が考えていたことといえば、リョウと綾のことで、またリョウと自分、僕と綾、僕とリョウと綾のことについて僕は思いを巡らせていた。

 綾と出会った最初の夜には、僕は恋などしてなるものかと思いながら眠りについたが、きのうの夜にはもう、恋特有の症状に心と精神を蝕まれていたと、こういったわけだ。僕の恋ははじまると同時にもうすでに終わりを迎えており、僕の恋をする心は永久に行き場所を失っているかのようだった。

 僕はリョウになったつもりで物事を、建物の基礎の部分から考えはじめ、彼が今の僕のこの状況についてどう考察しているかと想像してみた。何故なら、彼にはおそらくわかっていたはずだったからだ。僕がリョウの恋人に会いにいき、一目会うなり恋に落ちるであろうことを、彼はあらかじめ予期していたに違いなかった。けれどもリョウに救えなかった彼女のことを、一体どうして僕が救ったりできるだろう?僕は自分が綾のことを慕い求めることに対して、リョウに少しばかりの良心の呵責すら、感じてはいなかった。何故なら、リョウにはすべてわかっていたはずだからだ。そして僕に綾のことをまかせるつもりでーー自分の役目を僕に引き継がせるつもりでーー彼は死んだのだ。このことは僕にとって良心の呵責を感じないための防波堤などでは決してなかった。このことはまるで神鳴りに打たれたかのように、僕の心にはっきりと刻みつけられていることなのだ。けれども綾は決して僕の手のひらをとったりはしないだろうこともまた、僕にははっきりとわかっていた。右手にリョウ、左手には僕……彼女にはきっとそんなことはとてもできないに違いない。両方の手のひらを握ったままでいいんだよ、といくら僕が繰り返し教え諭したところで、一番深いところでは結局、どちらかを選びとらなくてはならないことを、彼女は多分よく知っている――最初、それは自然の神とリョウだった。けれどもこの時、自然に裏切られていた綾は、必然的にリョウの内側に慰めを求めることができた。そして今リョウは、彼女の中でこの自然の神と同一化してしまっている。自然の神・リョウと平凡な人間の僕とでは、天秤の秤に乗せるまでもなく、勝負は見えている。僕は一円玉みたいに薄っぺらなアルミニウムで、彼らは重い金塊みたいなものだった。けれどもここで微妙なバランスをとるのは、やはりリョウの存在だった。リョウは自然の神と同一化しつつも、同時にまた、僕の味方でもあるのだ。僕は札幌から釧路へと上ってくる時、すべては自分の意志による行動だと疑ってはいなかった。けれども今は、リョウの見えざる導きの手が、僕にははっきりと見える。それは青い稲光が暗い闇の世界を一瞬照らしだすのと同じくらい、僕の心にはっきりとしたことだった。つまらない男の自惚れかもしれなかったけれど、綾は僕に対して好意を感じていると、僕には感じられていた。そのことは僕が綾に対して好意を感じているのと同じくらい、はっきりとしたことだった。だからこそ彼女は最初のうちに、僕に釘を刺しておいたのだ。そういうわけだから、わたしのことを好きになっても無駄だし、どうにもならないことだから、と。

 もしかしたら僕も頭がどうにかなりかけているのかもしれなかったけれど、僕は綾がレイプされた事件を、超常的な何ものかによる存在の仕業として捉えていた。彼女は決して汚らわしい人間の男たちの手に捕えられたのではなく、崇高で神聖な何者かによって汚されたのだと、僕はそんなふうに考えていた。おそらくはリョウも同じように捉えていたのではないだろうか。だから綾は少しも汚れてなんていないし、美しい、綺麗なままなんだよ、と。

 堂々巡りの思索の檻の中で、また最後にどうなるのかがわかっている闘いの中で、何かの<変化>と<兆し>が現れるのを僕は待つことにした。時間はあとまだ六日ある。その六日のうちに奇跡が起きることを、僕は神とリョウの両方に祈るような気持ちで、願っていた。


 僕が<はまなすの宿>へ戻る間に、霧は徐々に晴れ渡っていき、霧の代わりに今度は雨が、ぽつりぽつりと降りだしていた。

<はまなすの宿>の前には、ヤマハのドラッグスターが止まっており、そのバイクの後部には<好きです、北海道>と書かれたキタキツネの小さな旗が立っていた――どうやら飛びこみの宿泊客らしい。

 霧の中から突如としてバイクに乗って現れたその男は、六十年代のヒッピーのような格好をしていた。年の頃は二十代後半から三十代前半といったところ。肩よりも長いもじゃもじゃした髪をしていて、髭を生やしている。目には黒のサングラス。まったくもって今時流行らない風貌だったが、不思議とその格好はその男にぴったりとしていた。彼の着ているレザーの黒いバイクスーツみたいに、ぴったりとしている。男はまるで自分のハスキーな声を恥じてでもいるかのように、ぼそぼそと女将さんと小声で話をし、何やら細岡ほそおか展望台がどうの、岩保木山いわぼっきやまがどうのという話をしていた。彼の髪は汚らしく脂ぎっていたが――一体何日の間風呂にも入らずに、バイクに跨っていたのだろうーー僕はこの人物にとても好印象を抱いた。何故かはわからなかったけれど、僕はこの男を見た瞬間に<いい男>だと感じた。きっとサングラスを外して髭を剃り、髪型も今風にしたなら、女たちがざくざくと磁石に吸い寄せられる砂鉄のごとくくっついてくるに違いない。だが彼は孤独な一匹狼……女なんかに用はないのだ。

 僕は朝から豪華なうにといくらのたっぷりのった丼を平らげ、ワカメと豆腐の味噌汁を啜り、漬物をめりめり言わせながら食べると、綾が<はまなすの宿>にやってくるまでの間、この男に纏るちょっとした人生の物語を作り上げた。

 彼は都会のとある工場で朝から晩まで働いている……いや、自動車整備工場で毎日車の油と自分の汗にまみれて働いているほうがいいだろうか。まあどちらにせよ、彼は毎日週に一度の休み以外は、朝から晩まで働いているのだ。 彼は今時流行らないヒッピーのような風貌をしてはいるが、ああみえても実はとても真面目な働き者だ。ただ自分の声があまりにもハスキーで渋すぎるために、なかなかうまく他者とコミュニケーションが計れないだけなのだ。彼はとにかく毎日不平不満ひとつ洩らさずに、真面目に働いている……だが職場の人間たちには、彼が日頃何を考えて働いているのかがさっぱりわからないし、真面目なのは結構だが、不平不満のひとつでも洩らしてもらいたいものだと、そんなふうに感じている。

 彼自身も他の人たちとコミュニケーションをとりたくないというわけではなかったが、彼は誰かから何かを聞かれない限りは決して口を開かないし、必要最小限、仕事のこと以外で何かを誰かに尋ねるということもない。彼は毎日とても真面目に働いているし、何がどうしたということもないのだけれど、彼は次第に職場の中で居心地の悪い思いを募らせていくようになる……自分が特別何をしたというわけでもないのに、人々が彼の噂話や悪口を囁いているのも何度か聞いた。それでも彼は結構な歳月、その会社で我慢して働き続けたが、ある日突然、なんの前触れもなしに『旅にでたい』という思いにとり憑かれるようになる。きっかけは些細な仕事の失敗だったが、彼はその小さな職務上の失敗を契機に会社を辞め、旅にでる決心をした。

 職場の上司は、彼の勤勉で真面目な職務態度を買ってはいたが――今時の若者には珍しいとそう言って――それでも彼の決意が固いことがわかると、強く引き留めるようなことはしなかった。彼の退職願いはあっさりと受理され、彼は職業安定所に離職届を提出しにいった――これで暫くの間は完全なる<自由>に身を包むことができるのだ。

 彼は清々しい思いでバイクに跨ると、エンジンをかけ、スピードを加速させていった……こうして彼は煩わしい俗世間を離れ、風になる旅へと出発したのである。


 僕がまるで妄想にとり憑かれたようにその文章を書き綴っていると、裸足の足音が階段を上ってくる音が聞こえた――綾だった。彼女はおしずさんやお早紀さんの真似をしてだろうか、廊下の床をトントン、と叩いている。

「どうぞ」と、軽く咳払いしてから僕は言った。すると綾は三つ指をついて深々と頭を下げてから室内へ入り、後ろ手に襖を閉めた。

「京介さん、今日は物凄く面白いものを持ってきたわ」綾はそう言って、大きなショルダーバッグの中から何百枚という原稿用紙の束をとりだした。「残念ながら今日は雨が降ってしまったから、室内で楽しめるものをと思ってね、リョウの原稿の中でわたしが清書したものを持ってきたの。一応わたしがリョウの原稿に一切手を加えていないことの証明に、リョウの肉筆の原稿も一緒に持ってきたんだけど……京介さんはもしかして、雨にけぶる釧路湿原をくしゃみをしながら見たいと思って、期待して待っていたかしら?」

「いや、残念ながら」と僕は笑った。「湿原へ行くのは別に今日じゃなくてもいいよ。明日でも明後日でも、また晴れた日にいけばいいさ。それに、僕もリョウの書いたものを早く読みたいと思っていたし……あっ、それは駄目だって!」

 綾は卓上の、僕のくだらない落書きのような文章に目敏く気づくと、それを手にとり上げていた。僕は奪い返そうとしたが、彼女は僕の攻撃を巧みに躱しながら、結局全部の文章を読んでしまったのだ。 「……短いけど、凄く面白いと思うわ。もしかして京介さんも覆面作家か何かなの?」

「違うよ。そうじゃない」僕は罰の悪いような気持ちになりながら言った。「隣の部屋に今朝、新しい宿泊客の人が来てね、これはいわばその人に対するオマージュ……というほどのものでもないけど、とにかく僕の妄想めいた、彼に対する想像なんだ」

「ふうん」と綾は卓の前に長い足を折りこむようにしながら座っている。「でもなかなか面白い文章だとわたしは思うけどな。少し前に即興で書き上げただなんて思えないくらい。今さっき下で、このヒッピー男さんを見かけたけど、京介さんの目にはこういうふうに見えているというわけね」

「実際のところはわからないけどね」僕は綾の向かい側に座りながら言った。「もしかしたら彼には友達が大勢いて、あんまり友達が多いことにうんざりして、ふらっと旅にでたくなったのかもしれないし……それにもしかしたら、彼は毎週末どこかのライヴハウスでドラムを叩いていて、女の子たちにキャーキャー言われているのかもしれない。それは誰にもわからない」

「なるほど」と相槌を打ちながら綾は笑った。「わたしにわかってるのは、このヒッピー男さんが結構物好きだっていうことだけね。だってこの雨の降る中を湿原展望台までひとっ走りしてくるって、そう女将さんに言って出かけていったもの。口笛なんか吹いちゃって、なんだか変な人って感じ……京介さんの言うとおり、なかなかにおかしな好人物であることだけは確かみたいね」

 僕は少しだけ笑ったが、謎のヒッピー男の話はそのくらいにして、リョウが書いたという分厚い原稿を手にとって読みはじめることにした。


『アンドローラはテレパシーを感じているか?』

 この物語は「その時、アンドローラはテレパシーを感じた」という一文で始まり「アンドローラはもうテレパシーを感じない」という文章で終わる、とても悲しい物語だった。

 アンドロメダ星は地球から約二百三十億光年離れた宇宙に位置する、極めて地球によく似た環境を持つ惑星である。だが、文明は地球よりも遥かに発達しており、地球の人類がやっと石器時代を迎えた頃、アンドロメダ星の人類はとっくに宇宙へと進出していた。アンドロメダ星の人々は自分たちの惑星以外の生命体を抽出してさらってきては、様々な人体実験を繰り返し、自分たちの科学文明に応用できる何ものかを発見しようと、やっきになっていたのである……話があまりにも長くなるので詳細は省くが、そんなアンドロメダ星の人々をある時、致死的な細菌が見舞うようになる。感染源も特定できず、予防法も見つからないまま、アンドロメダ星の人々は爆発的にこの細菌ーーXOR7型ーーに感染してゆき、やがて人類は滅亡した。そして惑星の中で唯一生き残ったのは、地球からさらわれて来た一番ひとつがいの男女だけだった。彼らはコンピューターのデータというデータを調べ尽し、自分たちが地球という惑星の出身であり、自分たちの中に何か細菌の抗体になるものがあるらしいということを突きとめる……そしてこのアダムとイヴのカップルは、宇宙船で地球に戻ることよりも、ふたりで力を合わせてアンドロメダ星を支配することを考えるのである。もちろん自分たちの子孫を残すことも大切な使命だったが、ふたりがまず始めたのはアンドロイドの大量生産だった。人間の手によって作られたアンドロイドたちは、アンドロイドたち自身の手によってもさらに増えていき、アダムとイヴはとうとうこのアンドロイド帝国の王と女王になった。そして自分たちの子供に王位を継がせるために、地球から自分たちのこれは、と思う人物をさらってきては、王家の血を絶やさぬようにしたのである。ところがある時、アンドロイドたちの間にクーデターがおき、王家の人間たちは自我に目覚めたアンドロイドたちに抹殺され、ただひとり王女のアンドローラだけが残される。アンドローラは永久に死なぬよう冷凍室に安置され、こうしてアンドロメダ星における地球人の血統は封印されたのである。

 時は流れ、アンドロイドのアンドロイドによるアンドロイドのための帝国は、またしても相次ぐクーデターによって打ち倒され、アンドロイドたちは自分たちの原始の先祖が眠っていると言い伝えられる王家の墓を暴き、アンドローラをとうとう解凍する。アンドローラは半アンドロイド化されて、死ぬことは永遠になくなったかわり、永久にアンドロメダ星を治めていかなければならないという重責を背負わされることになる。そしてアンドローラがそんな自分の宿命を嘆き悲しんでいた時、<アンドローラ、アンドローラ……>と神の人の声にも似た、あるテレパシーの呼びかけがあった。それは文明が発達して宇宙へ飛びだした地球人の、ある超能力者による呼びかけだった。アンドローラは神の人の声と縋りつくかのように交信し、その超能力者はアンドローラを救ってくれると約束する。ただし、アンドローラがアンドロメダ星の機密情報をすべて地球連邦軍に引き渡すことが条件だ。

 アンドローラの身の回りの世話をし、何かと彼女の相談にも乗ってくれる奴隷ロボットのセルジオは、ある時偶然、アンドローラが地球連邦軍の人間と交信しているその会話を傍受してしまう。セルジオは心の底からアンドローラを愛していたが、自分は所詮、奴隷階級のアンドロイド……アンドローラの夫になれるはずもない。だがセルジオは、アンドローラのそばにいられるだけで幸福だった。それでアンドローラにこれからもそば近くにいて仕えさせてくださいと、彼女の足許にひれ伏して懇願した。アンドローラはアンドロメダ星脱出のその日、セルジオを一緒に連れていくと、口先だけの約束を交わす……だが彼女はただ、セルジオに自分のアンドロメダ星脱出の計画を、政府の機械どもに密告されたくなかっただけなのだった。

 運命のアンドロメダ星脱出の日、アンドローラが自分のことを裏切ったと知ったセルジオは、逆上のあまり肉切り包丁でアンドローラのことを滅多刺しにして殺害してしまう……そして自らも自殺プログラムを発動させ、死に至るのである。

 ――以上が『アンドローラはテレパシーを感じているか?』の大体のあらすじだった。


 僕が夢中になって貪るようにリョウの小説を読んでいる間、綾はリョウの別の原稿を手書きで清書していた。リョウの肉筆の原稿を見ると、あちこちに赤ペンで文章が差しこまれていたり、また訂正されていたりしたので、彼女は読みやすいように校正する必要があったらしい。けれども綾はその校正という作業の途中で卓の上に突っ伏して寝入ってしまっていた。

 おそらくはきのうもおとついも、僕にこの『アンドローラはテレパシーを感じているか?』という小説を読ませるために、睡眠時間を削って、ワープロのキィを叩き続けていたのだろう。僕はセルジオがアンドローラを殺害してしまうシーンで、目頭に熱いものがこみ上げてくるのを感じ、思わず綾のことを振り返ったのだが、彼女はその時にはもう、安らかな可愛らしい寝息を立てていた。

 僕は分厚い原稿の束を、音をさせないようにそっと卓の上へ置き、ティッシュペーパーで静かに鼻をかんだ。綾が今校正しているリョウの原稿は『未必の恋』というタイトルの小説で、天才的な脳外科医、西森京一郎という男が主人公だった。僕はワープロからプリント済みの原稿を何枚か読んでみたが、最初の数枚でもうすでにリョウの描く小説世界へと惹きよせられていく自分を感じた――だがその小説はまだ綾が校正の途中なので、最初のほんの数十ページを読むことが許されただけだった。

 綾は白い剥きだしの腕を顔と頭の下に敷いて、相変わらず規則正しい、静かな寝息を立てている。僕は流れる黒い髪に縁どられた、彼女の端正な横顔を眺め、また半分開いている唇の間から覗く、真珠色の歯と薄桃色の舌とをじっと見つめた……僕は自分が彼女の艶やかな黒髪に触れ、彼女の柔らかな唇を貪るように味わう自分自身を想像した。彼女もまた僕の肩や首に腕を回し、僕自身を受け容れる姿勢をとってくれる……だが、そこまでだった。僕は行為の途中で罪悪感を感じはじめるようになり、綾もこんなことはいけないと、妄想の中で抵抗しはじめた。僕には彼女のことをレイプ同然に抱くような勇気はなく、彼女の抵抗が極めて弱いものであるにも関わらず、そのか弱い抵抗を押しきることができなかった。


 ――英雄的レイプ、暴力的イノセンス


 と、僕はまるで呪文でも唱えるかのようにそう考えた。もしも僕が綾にオルガズムを感じさせることができたとしたら、それは英雄的な行為なのだ。春の大地の精霊が、花の精の固い蕾を開いていくのと同じ行為……それは暴力的なまでに純粋なレイプなのだ。けれども僕には春の固い蕾の花を開化させるような能力はないし、僕は精霊ではなくただの人間で、彼らの足許にひれ伏している、つまらない奴隷のひとりに過ぎない。まるでアンドローラの足許にひれ伏している、奴隷階級のアンドロイド、セルジオ=セルバンテスのようなものだった。彼女は僕の手の届かない至高の世界と交感し、忘我状態に到達することができるけれど、僕には彼女に、至高の世界にあるのと同じような何ものかを、垣間見せることすらできない。だがリョウは、肉体的にはセックスを通して綾とぎりぎりのところまでいき、精神的には彼女に恍惚状態すら引き起こさせる、膨大な量の文藝作品まで残したのだ。でも僕には、本当に何もできなかった。僕にできることはといえば、彼女にどんなに触れたくても触れないことと、自分が楽になりたいがために、彼女に心の内を披瀝しないということの、このふたつのことしかなかったーーまったくの無力な奴隷状態。その上極めて始末が悪いことに、僕はアンドロイドなどではなく、生身の人間の男なのだ。

 それでも僕が彼女の髪に触れることくらいなら構わないだろうと思い、綾の黒い髪の上に手を伸ばそうとしたその瞬間ーーこんこん、という廊下の床を鳴らす音がした。いつも思うのだが、女将さんは階段を上ってくる時、足音をほとんどさせないでやってくるので、時々どきりとすることがあった。足音をわざと忍ばせてやってくるというわけではないらしいのだが、気配がまったくせずに突然廊下が鳴るので、心臓に悪いことがそれからも極たまにあった。

 僕が少しうわずった声で「どうぞ」と言うと、「失礼します」と女将さんは襖を開けた。そしてふたり分のお盆を差しだすと、卓の上で眠っている綾のことをなんとはなしに眺めやってから、 「ごゆっくりどうぞ」と含みをもたせるような言い方をして、女将さんはすぐに階下へと降りていった。

 時計は午後の二時を指している――おそらくは雨が降っているにも関わらず、殺人的に店が忙しかったため、二階に昼食を運ぶのが遅くなってしまったのだろう。僕は時が経つのも忘れてリョウの小説を読み耽っていたため、時間の感覚がすっかり麻痺してしまっていたが、それでも蕎麦つゆのいい匂いを一度嗅いでしまうと、そういえば、と思いだしたように空腹感が急激に増大するのを感じた。

 僕は蕎麦やうどんがのびる前にと思い、綾の体を軽く揺すって、無意識の世界を放浪しているであろう、彼女の意識を目覚めさせようと思った。

「綾、起きて。ごはんだよ」と僕は綾の耳許に囁いた。彼女は一瞬はっとしたようになると、現実の世界を確かめるかのように目を擦りながら、大きな欠伸をひとつした。

「ごめんなさいね、京介さん」綾は両腕を上げて、伸びをしながら言った。「わたし、どうしても京介さんに早く『アンドローラ』を読んでもらいたいと思って、きのう家へ帰ってから、明け方頃までワープロのキィを打ちまくっていたの……それで、読んでみた感想はどうだった?」

「月並みだけど、面白かったの一言に尽きるよ」と僕は言った。「正直いって僕は小説なんてそんなに読むような人間ではないし、読むにしても結構時間がかかるほうなんだ。その小説がよほど面白くでもない限りね。だけどリョウの小説には、長くても一息に読ませてしまう魔力があるよ。リョウの文章は表現が適確で無駄がないし、適度に抑制が利いていて極めて語彙が多彩だ。その上創作上の人物たちもひとりひとりが魅力的で、会話のセンスもいい。ストーリーのほうは最後にはやりきれないほど悲しくて切ない終わりを迎えるけど、話の途中に幾つか、アンドロイドたちの笑えるエピソードなんかも交えられていて、読んだあと、総合的に考えさせられるよ。僕は今日から少なくともあと三日は、おそらくアンドロメダ星の命運についてあれこれと考えこんでしまうと思う――それとアンドローラがセルジオと結ばれる道はどうしても他になかったかとか、そういったこともね」

「わかるわ」と綾は頬杖をついて優しく微笑んだ。「わたし、この話を初めて読んだ時、泣いちゃったもの。セルジオがあまりにも可哀相すぎて。アンドローラにも本当はセルジオの気持ちがよくわかっていたはずなのよ――でも彼女はどうしても自分の生まれ故郷の惑星に、一度でいいから帰ってみたかった。そしてその郷愁の思いと同時に、アンドロメダ星への棄て難い愛着も、彼女にはまたあるのね。アンドローラはふたつの惑星への思いの間で揺れ動きながら、結局最後には<地球>をとるのよ。それって、セルジオを含めたアンドロイド全体を捨てるっていうことよ。だからアンドローラはセルジオを地球へ連れていこうとはしなかった。読む人によってはもしかしたら、どうしてアンドローラがセルジオを脱出ポッドに乗せなかったのか、どうしても納得がいかないっていう人がいるかもしれないけど、でもそれはアンドローラにとって極めて際どい賭けだったのよ。アンドローラは脱出ポッドへと向かう途中、セルジオが追いかけてきてくれたら……って考える。そして自分のそんな馬鹿な考えに呆れて、その考えを打ち消す。だけど、アンドローラのその馬鹿な思いつきこそが<愛>なのよ。彼女は最後に、脱出ポッドに先回りしていたセルジオに滅多刺しにされて死んでしまうけど、どうしてセルジオは光線銃なんかじゃなく、肉切り包丁でアンドローラのことを刺し殺したのかしら?セルジオはきっと、アンドローラの肉の重みを感じたいって、そう思ったんじゃないかしら?ひと刺しひと刺し、愛する彼女の、女としての肉の重みを……セルジオは話の途中で、自分のことをセクサロイドとして改造したいと考えるけど、彼は落ちこぼれの奴隷階級のアンドロイドだったから、改造の許可が下りなかったのね。でも彼は、自分のことを改造してアンドローラと肉体的に交わりたいと考えていたわけでは決してなかった。彼は少しでもいいから、本物の人間である、オリジナルのアンドローラに近づきたいと思っていただけだった。最後にセルジオはこう言うわね。『どうして一緒に連れていってはくださらないのですか。一緒に連れていってくださると、小指と小指で約束を交わしたではありませんか』って。するとアンドローラはこう言うのよ。『おまえがわたしに対していやらしい、汚れた、淫らで邪な思いを抱いたからよ』って。本当はもちろん、セルジオを一緒に連れていこうとしなかったことには、別に理由があった。でもアンドローラは『わたしはおまえが自分のことをセクサロイドに改造しようとしたことを知っている』と言ってセルジオのことをなじるのね。『もしセクサロイドの機能を手に入れることができたとしたら、おまえはわたしを抱きたかったのか』って。それでセルジオは思わずカッとなって、アンドローラのことをぶっ殺しちゃう……これってもう、絶対に愛よ」

 綾は恍惚に打たれた人のようになって、箸を片手にほう、と悩ましげな溜息を着いていた。蕎麦はもう、一口も手をつけないうちから、すっかりのびてしまっている。

 僕は綾が熱心にひとりで喋っている話に耳を傾けてはいたけれど、途中からなんとなく自分が惨めで哀れなセルジオになったような気がしてきて、なんともいたたまれなかった。それでうどんをずるずると、ただひたすら黙って食べ続けた。

「リョウはどうして文藝賞やその手の類のものに、自分の書いたものを応募しなかったのかな」僕は旨味のあるうどんの濃いつゆを、一口すすってから言った。「リョウの書いたものはディティールに至るまで完璧だよ。ミケランジェロのダビデ像のように非の打ちどころがない。確かにここまで完璧なのに、もし落選したとしたら、やりきれない敗北感を味わうことになるのかもしれないけど、はっきりいってそんなことは百パーセントありえないよ。絶対にリョウはどこかの賞に作品を応募しさえすれば、世紀の大型新人として脚光を浴び、ベストセラーを連発していたんじゃないかな。僕はリョウの話をまだ一作しか読んでいないけど、これだけの力量があったらおおよそのところ、他の作品についても見当はつくよ。『未必の恋』も最初の数ページを読んだだけだけど、もうはや続きが気になっているくらいだからね」

「『未必の恋』も凄くいいのよ」綾はようやく蕎麦に箸をつけながら言った。「とても優秀な<神の腕を持つ>とまで言われる脳外科医がね、ほんのちょっとしたミスによって動脈瘤の切除手術に失敗してしまうの。それで術患だった彼のお兄さんは植物人間になってしまうのよ……主人公の西森京一郎は手術の前の夜、お兄さんにこう言うわ。『自分はこの手術で失敗したことが一度もないし、大丈夫、そんなに難しい手術じゃないよ』って。でも彼自身、自分のお兄さんだということもあって、特別気持ちが張りつめていたのがいけなかったのか、結果はとても大変なことになってしまうの。それで……あ、駄目よね、こんなにぺらぺら喋ったりしたら。この『未必の恋』もね、あともう少しで校正が終わるから、明日か明後日くらいには、印刷して持ってこれると思うわ。それとリョウは長編・中編・短編と全部合わせて三十作以上もの小説を残しているから、京介さんの札幌の自宅のほうに、これから清書した順番に一作ずつ送ってあげる。だからあとで京介さんの札幌の住所を教えてね」

 僕はあとでといわず、すぐにメモ帳に自分の住所と電話番号を書きこむと、それを彼女に手渡した。

「僕も、リョウの小説を一作読むたびごとに、その感想を必ず手紙に書いて綾に送るよ」

 こうして僕と綾の間には、札幌と釧路とに離れてしまっても連絡をとることのできる、最高にいい口実ができたのだった。

 僕は綾と出会って三日目のこの日、リョウ自身のことやリョウの書いた小説のこと、また綾自身のことや僕自身のことなどを、少しの間も置かずにたくさん話しあった。ただ残念なことに、彼女はリョウの原稿の続きをワープロで清書するため、門限の時間より三時間も早く帰ってしまったけれど――でも僕はしのつく雨の中に彼女を見送りながら、あせる必要など少しもないのだと、自分に言い聞かせていた。   




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