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第6章

 綾は白の七部丈のサブリナパンツをはいていたので、サンダルを片手に持つと、川の浅いところを裸足で歩いていった。

「すごく気持ちいいわ。京介さんもスニーカーを脱いで、川の中を歩いてみない?」

 僕は彼女の笑顔に誘われるがまま、スニーカーを脱ぎ、その中に靴下を詰めこむと、ジーパンの裾を膝上までたくし上げた。そして綾の歩いているところよりも、少し川の深いところを彼女と並んで歩いていった。

 陽気はとても麗らかで、川の水温はそれほど低いようには感じられなかった。それでも僕と綾は川の中を歩いたり、川のそばの土手の上を歩いたりをお互いに意味もなく繰り返しながら、特別何も話さなくても、自然と顔が綻ぶのを感じた。コンクリートの橋の真下を通る時は、ザアザアと川の音が深くなり、僕は壁に赤いスプレーで卑猥なことの書いてある文字を読むと、せっかくの気分の良さが台無しになったような気がした。エス・イー・エックス……おそらくこの文字を書き殴った人物は、この言葉以外の英単語をあまり知らなかったに違いない。その証拠に、というわけではなかったけれど、他の陰語はすべてカタカナや平仮名だったから。

 僕はその橋の下をくぐり抜けたあと、綾の横顔をじっと見つめるようにしながら歩いた。そして彼女が僕の視線に気づいて振り返ると、川から上がって土手づたいに歩いたり、また川の流れの中を歩いたりを繰り返した。僕は彼女と特別何も話さなくても、そういうことをしているだけで楽しかった。 

 途中、柳の樹が張りだしている川床の深みに、大きな岩魚がいるのを綾が発見して、彼女は土手の上を歩いている僕のことを無言で手招きした。そっと来るようにと、唇に人差し指を当てている。

「釣りの道具を持ってきたほうが良かったかな」僕はその岩魚が三十センチもあるのを見て言った。

「塩焼きにすると美味しいのよ」綾は柳の樹の下で無邪気に微笑んでいる。「京介さん、釣りは好き?」

「小さい頃に何度かやったことのある程度だけど、いたいけな魚を釣り上げるのは大好きだったよ」

「まあ、なんて残酷な」大袈裟に驚くふりをしながら、綾は言った。「でも仕方ないわよね。魚釣りって面白いもの」

 僕と綾は、川のゆるやかな流れに時折尾びれを振っている岩魚をあとにすると、ただなんとなく、手を繋いで歩いた。

 僕が彼女の柔らかな手のひらを握りしめたのは、残る滞在期間の間中、この時以外に一度もありはしなかった。綾は途中、川の道が二手に別れると、右の支流に面白いものがあるから、こっちへ行きましょう、と言った。そしてそう言って指を差すついでに、僕の手をするりと離したのだ。別に僕は心が傷ついたというのではなかったが、ある意味、魔法が解けたのを感じた。僕はそのあと何度も彼女の手を握ろうとして、やはり果たせなかったから……。

 綾が面白いもの、といったのは、小さな底なしの沼で、それは支流を下って川の流れが大分緩やかになった深みに位置していた。その川べりの深みは、同じ川の流れの影響を一切受けずに存在し、ただ川の底の砂を、まるで呼吸でもしているかのように吐きだしている。

 綾は容赦なく川の中をざぶざぶ歩いていくと、川底の石という石をとりあげて、底なし沼に思いきり放り投げていた。けれども底なし沼は何ごともなかったかのように小さな石を十も二十も飲みほして、変わらずに平然と砂の呼吸をし続けている。僕は綾が数にものをいわせて放り投げた小石よりも、幾分大きめの石を見つけだしてきて、両手で持った三十センチ四方の石を、底なし沼に沈めてみたーーだが底なし沼は『いや、まだまだ』とでもいった様子で、僕の投げた大きな石も綾の放りこんだ小石も、まるで大した違いはないとでもいうかのように丸のみにしていた。

 どうしてなのかはわからなかったけれど、僕と綾は底なし沼に石を沈めるという行為に、それから暫くの間没頭していた。僕と綾はこれでもかというくらいに石という石を底なし沼に放りこみ、いくら数にものをいわせてみたところで駄目なのだということがわかると、さらなる大きな石を求めて、あたりの藪の中を探したり、元きた道を引き返して、わざわざ大きな石を両手で運んできたりした。

 最初は十センチ四方の石を五六個続けざまに、それでも変化がないことがわかると、二十センチ、三十センチ、四十センチ……と段々に求める石は大きくなっていった。それでも底なしの沼は埋まらない。そして僕がとうとう、五十センチ以上もある大きな石を見つけて、それを雑木林の中から運んでくると、綾は今度こそ、という希望に顔を輝かせて、額に浮かぶ汗を手のひらで拭っていた。

 僕が石を底なし沼に向かって垂直に投げ入れると、ごぼっ、ごぼごぼっ……と、底なし沼は喉詰まりでも起こしたかのような、息苦しい音を立てていた。空気胞がぷくぷくと幾つも川面に浮かび上がってきている。けれども底なし沼はやはりその黒っぽい大石をも飲みほして、あとにはなんでもなかったかのように、砂を吐きだしていた。

「……しぶといな」と僕はTシャツの袖で顔の汗を拭きながら言った。

「しぶといでしょう」と綾は、底なし沼のすぐそばの土手に腰かけながら言った。

 底なし沼、といってもそこは正確には底なし沼ではなく、川の脇の大きなへりにできた小さな池、とでもいうべき場所だった。けれども僕と綾の感覚としては、そこは底なし池というよりは、底なし沼といったほうがよりしっくりとくるような気がしたのだ。「リョウもね、以前ここに来た時、やっぱり京介さんと同じことをしたわ。薄暗い雑木林の中に分け入って、大きな石を見つけてくると、どぼん、と底なし沼に沈めたの。底なし沼はちょっとだけ苦しそうだったけど、ごぼごぼと嫌な音をさせながら、やっぱり今みたいに飲みこんでしまったの……でもその時は、もう一息で底なし沼の息の根が止まるんじゃないかっていう確かな感触みたいなものがあったのよ。多分、その時リョウが持ってきたのと同じくらいの大きさの石がもう一個か二個くらいあったら、この底なし沼は完全に死んでしまったんじゃないかと思うんだけど……」

「まあ、この程度の大きさだったら、そうだろうな」僕は綾の隣に座りこみながら言った。「僕たちは便宜上、底なしと呼んでいるけれど、この場所は別に本当に底なしだというわけじゃない。底はあるよ、きちんとね。ただ底が砂に覆われて隠されているので底なしに見えるっていう、ただそれだけのことなんだ。アマゾン川流域にあるっていう本物の底なし沼には、人を飲みこんでしまうほどの深みがあるんだろうけど、ここにもし僕が今体を沈めたとしても、多分首の上まで水がくるっていうことはまずないと思う。おそらくせいぜいが腹のあたりくらいまでかな」

「リョウもやっぱり、今の京介さんと同じことを言ったわ」と綾は笑った。「わたしね、本当のこというと、リョウにそう言われるまでこの場所のこと、本当の底なしだって信じてたのよ。だっていくら石を放りこんでも、全部飲みこんでしまうんですもの。わたしが間違って足を踏み外してどぽんと落っこっちゃったら、みるみるうちに体が沈んで、頭の天辺まで水がやってくるに違いないって信じてたの。リョウにそのことを言ったら、彼大笑いしたわ。わたし、リョウがあんまりおかしそうに笑い転げるんで、ついカッと頭に血が上ってね、子供みたいにムキになって、彼にこう言ったの。『じゃああなた、ここに体を沈めて、この場所が底なしじゃないっていうこと、証明してみせなさいよ』って。でもリョウはやっぱりそんなことしなかったわ。もしも本当にこの場所が底なしだったとしたら……わたし、本当はそのもしもが怖いんでしょうってリョウに言ってやったの。そしたらリョウは『確かに綾の言うとおりだ』って素直に認めたあと『それに体が半分埋まって抜けなくなったら、綾は俺のことを見捨てて帰るつもりだろう』って言って、それでふたりして大笑いしたの」

 僕も綾の話を聞いていて、あまりのリョウらしさに大笑いした。確かにリョウの言うとおりだった。もしここに飛びこんでみろ、この場所は底なしじゃないし、水は腹のあたりまでしかこないだろうからと言われたとしても、やはり僕も実際に身を沈めることは躊躇したに違いない。

 底なし沼は、まるで僕たちの話を聞いてでもいるかのように、ぷくぷくと空気胞を吐きだしている。

「肝心な話の続きをしましょうか」綾はだしぬけに真顔になるとそう言った。「京介さんは優しいから、本当に聞きたいことがあったとしても躊躇して、核心に触れるようなことはきっと言えないと思うから、やっぱりわたし、聞かれるのを待つの、やめることにするわ」

「いや、いいんだ」僕は意味もなく草をむしりながら言った。「急がなくていいよ。綾が自分で話したいと思ったことを話したいと思った時に話してくれれば、僕はそれでいい。もしどうしても話したくないことがあるなら、僕は無理に聞きだそうだなんて、思ってないから……」

「いいのよ。遠慮なんかすることないわ」と綾は言った。「それにわたしも落ち着かないの。京介さんに話すべきことを早く言い終えてしまわないことには、京介さんが釧路にいる残りの一週間の間中、ずっといつ話そうかいつ話そうかって、そのことばかり頭の片隅で考えてしまいそうだから」

「じゃあ、聞いてもいい?」と僕は正直に尋ねた。「なんていうか、こう……うまく繋らないんだ。リョウが死んだことと、その……君との間柄のことが。無責任な言い方かもしれないし、こんな言い方をするのは君のことを傷つけることになるのかもしれないけど、リョウと君は愛しあっていた。それもとても深く。それなのに何故リョウは死を選ばなければならなかったのか?軽率な言い方をすることを許してほしいんだけど、僕がもしリョウの立場だったとしたら、自分自身にどんな問題や重い悩みがあるにせよ、君を置いて死ぬなんてこと、絶対にできないって思うんだ。実をいうと、僕が一番知りたいのはその部分なんだよ。釧路へやってくる前は、リョウが抱えこんでいたであろう、悩みや問題について知りたいと思ってた。でも実際に君に――綾に会ってからは、リョウが何故君を置いて<死>なんていうものを選ぶことができたのか、僕はそのことを知りたいと思うようになった。もしかしたら綾自身が一番……」

 綾はストップ、というように僕の唇に手をあてた。そしてまたもうひとつふたつ小石を底なし沼に放り投げると、それが砂煙の中に消えていくのを見守りながら言った。

「わたし自身、うまく説明できるかどうかわからないんだけど、リョウとわたしはとても危うい間柄だったの。多分リョウが死ななければ、わたしは生きていなかった……つまりね、リョウが先に死ななければ、わたしのほうが間違いなく死んでいたはずなのよ。わたしのほうこそ、リョウをひとり残してね」

 綾はまたもうひとつ、川床から石を広い上げると、石の底にびっしりとこびりついている川虫ごと、それを底なし沼へ放りこんだ。

「今や西山良平はわたしの心の英雄……ううん、わたしの魂の救世主なの。彼のおかげでわたしは死ねなくなったし、彼はまた、わたしの命と世界全体のバランスを保つために死んだも同然なのよ。わたしが思うのは、リョウは自分の問題や悩みごとから逃れるために死んだんじゃないっていうことなの。うまく言えないけど、だからといってわたしの命を救うためだけじゃなくて、リョウは世界全体のバランスを保つために死んだのよ。こういっても多分、京介さんには少しわかりずらいと思うから、わかりやすいように順番に説明していくと、わたしたちが住んでいるこの<世界>というところは、生贄を必要としていると、まず最初にそう言ったほうが、一番わかりがいいと思う……わたしたちの住んでいるこの<世界>というところは、一見なんの意思も持っていないようだけど、実ははっきりとした意思を持っているということなのね。つまり、わたし自身の例えを引くと、わたしは自然に愛を捧げているつもりだったけど、本当の愛っていうのはそれだけのものじゃないっていうことなの。何故わたしは闇の男たちにレイプされ、自然はわたしを守ってくれなかったのか?わたし、このことについては随分長いこと悩んで悩んで考え抜いたんだけど、最後にこう結論を導きだしたのね。つまり自然は、自分たちのことを本当に愛しているというのなら、わたしたちの痛みもともに分かちあえって、そういうことをわたしに訴えたかったんだと思うの……京介さん、メモ帳とボールペンなんて、今この場でぱっと出る?」

 僕がジーパンのポケットの中から、何枚かの古びたメモ紙と小型のペンをとりだすと、綾はにっこりとしていた。

「京介さんて、本当に物持ちがいいのね」

 彼女は片方の足の膝を立てて、太腿の上で紙を伸ばすと、ペンでさらさらとーー時折、何かを確かめるように考えこみながら――長い文章を書きこんでいた。それは<詩>の言葉だった。


 人間は醜くて汚らわしい下等生物

 一体誰がこんな者どもに

<高等動物>だの<霊長類>だのという

 胡散臭い称号を与えたのか


 科学者たちは卑劣でいやらしいやり方で

<自然>や<動植物>や<地球>全体を犯してまわっている


 彼らは機械のように感情や情緒といったものに乏しく

 おそらくは自分が何をしているのかもよくわかっていないのに違いない


 おかげで今では<自然>は<不自然>なものとなり

 人間との結婚を強いられた地球という名の乙女は

 毎日暴力的な夫に苦しめられている


 この<人間>という名の

 アルコール中毒で薬物中毒にも陥っている手に負えない暴君は

 妻の体の隅から隅までを傷つけ痛めたので――

 天の法廷では現在<離婚調停中>なのだ


<地球>という名の純潔を失った美しい乙女は

 証言台に立ってすすり泣きながら神にこう訴えた――


「わたしたちの夫婦生活は破綻しています

 わたしは早く未亡人になって

 人間のいない世界でもう一度暮らしとうございます」

 と――


「京介さんはきっと、こんなことは狂信的だって思うに違いないけど……わたしにとってリョウの死は、もし理性的に説明するとしたら、そういうところからでないと始められないの。それと、少し話が飛んでしまうけれど、もう少し我慢して聞いていてね。最後には多分、全部の話はかろうじてすべてつながるはずだから……わたしとリョウはとても深く愛しあっていたし、文学的にも同じような傾向にある、唯一の<同志>だった。でもアダムとイヴが神の楽園を追われたように、わたしたちも完璧なカップルというわけじゃなかったの。わたしとリョウのセックスはうまくいってなくて、わたしはリョウが技巧の限りを尽して愛してくれても、その愛に答えることができなかったし、わたしにとってセックスは苦痛ではないにしても、世間一般で言われているような『いいもの』というわけでは決してなかったのね。わたし、オルガズムというものがどういうものなのか、リョウに抱かれている間、一度も知ったことはなかったし、リョウがわたしの中で絶頂に達してさえくれれば、それで満足だったの……でもそういうことって、やっぱり相手にもわかってしまうものなのね。リョウはいちいち今日はどうだったかなんて聞いたりするような人じゃなかったけど、わたしが十分に満足していないことがわかる故に、彼はいつも不満足だった。でもわたし、何度もリョウに言ったわ。わたしはリョウがわたしのことを欲しがってくれるだけで満足なんだって。でもリョウは、わたしが拷問に近い苦痛を感じながらも実は我慢しながら自分のセックスにつきあっているんじゃないかって、内心疑ってたみたい。実際にはね、本当にそんなこと全然なかったのよ。わたし、リョウの優しい指がわたしの体の上を動きまわったりだとか、そういうの、大好きだったわ。ただわたしにはオルガズムというものが理解できないだけ。リョウとわたしはセックスセラピストの書いた本を読んで、独自にプログラムを組んだりとか、本に書いてあることを色々試してみたりしたわ。他にも性器にぬって具合をよくするローションを通信販売でとりよせて、それを試してみたりとか……感覚的にはそういうもので大分良くなりはしたんだけど、結局わたしにはオルガズムというものがどういうことなのか、理解できないままだった。どちらかというとね、そんなふうに色々なことを試してみるっていうその過程がわたしには面白くて、実際にオルガズムに到達するかどうかなんていうことは、どうでもよかったの。でもリョウは、はっきりとそう口には出さなかったけれど『それじゃ駄目なんだ』って思ってたみたい。そして八方手を尽したあとで、リョウはこう言ったの。『あの場所へもう一度行ってみないか』って。わたし、レイプされたあと、あの場所へ行く道路の近くを車で走るのも嫌になってたんだけど、その時には『いいわ』って、すぐに答えられるくらいになっていたのね。何故かっていうと、それはリョウがわたしの体を繰り返し抱いてくれることで、わたしの心と体と魂の傷が癒されていったからなの。それにあの場所へ行ってもうなんでもないんだっていう確認をとることによって、わたしの中に無意識のうちにもあるバリアのようなものが溶けて、オルガズムが感じられるようになるかもしれないっていう、淡い期待めいた思いもあったのよ。リョウも多分、その部分にもしかしたら……っていう期待をかけていたと思うの。おそらくは何も変わりはしないだろうけれど、それでももしかしたら……って。それにそうすることはわたしにとって精神的な儀式として必要なことだろうって、リョウはそうも感じていたと思うの。わたしたちはリョウの車で、あの場所に一番近いぎりぎりのところまでいくと、そこから一時間以上の時間をかけて川上へと上っていったわ。そして例の場所に辿り着くと、あの日と同じようにアゲハ蝶たちが地蜜を吸っていて、あたりはどうということもなかったの。オオマツヨイグサが以前来た時と同じようにたくさん生えていて、とても良い芳香を放っていたわ。わたしもう、レイプされたなんていうことは、遠い昔の夢の記憶ででもあるかのように、その時はっきりと感じたの。『わたし、もうなんでもないわ』ってわたしがリョウに抱きつくと、彼はわたしの白いワンピースのファスナーを下ろして、それからスカートの中に手を入れはじめたわ…… わたし、もしかしたらここでリョウとセックスすることによって、完全に直ることができるかもしれないってそう思った。でもわたしが目を閉じてリョウの愛撫に身を任せていると、突然瞼の上に雨が降ってきたの。もともと空は曇っていたんだけど、その日ラジオで聞いた天気予報の降水確率は十%だったのに、雨が降ってきたのよ。わたしとリョウは下着やら何やらを身につけると、その場から走りだしたわ。降ってきた雨は大粒で、降ればどしゃぶりといったように、物凄い速さで雨足が加速していくのがわかったからーー結局リョウもわたしも車に辿り着く頃には全身びしょぬれで、服は搾れば水が溢れでるといったような感じだった。しかも車のタイヤがぬかるみに埋まって、わたしがアクセルを踏んで、後ろからリョウが車をおっつけるようにして、それでやっと帰ることができたっていう有様だったの。その上雷鳴や稲光が、わたしたちの車のあとを追いかけるようについてきていたけど、でもわたし、もうちっとも怖くなんかなかったわ。わたしにはもう、目に見えない自然の神さまなんかより、隣で車のハンドルを握っている、人間の男の人のほうが百倍も大切になっていたんですもの。自然はわたしを守るどころか、傷つけることさえしたけど、わたしの存在のすべてを癒してくれたのはリョウなのよ。嫉妬したり怒ったりするだなんてお角違いもいいところだって、わたしはそう思っていたの……でもね、リョウが死んだのって、そのすぐあとのことなのよ」

 ぽちゃり、と綾はまた小石を底なし沼に向かって、力なく放り投げた。石は投げても投げても見えない底のほうへと吸いこまれていく。そしてそれと同じように、リョウの<死>というものに対しても、答えというものはない。あるのはただ、石が投げられたあとの水面の波紋と、水底から湧きあがってくる砂煙だけだった。

「……リョウは罰されたのだと、そう思う?」僕は水面の波紋がおさまるのを待ってから、綾にそう聞いた。彼女は泣いてはいなかったけれど、それ以上にもっと悲しげだった。

「わからないわ」と綾は言った。「こんなことを京介さん以外の人に話したとしたら、きっとそういったことは全部偶然に起こったことで、リョウはただ彼個人の理由によって自殺しただけだって、そういうことになるのかもしれない。でもわたしはこれを現実に体験したのよ。そのことがどんなに重いことか――わたし以外の人にはきっと、絶対にわからないと思う」

「そうだね」と僕は言った。そして僕も何かの儀式を行うかのように、片手に石をとっては投げた。

「わたし、きっともう二度と恋なんかしないと思うわ」綾は独り言を呟くようにそう言った。「もしも仮にこの先、わたしにオルガズムを感じさせることのできる男の人が現れたとしても、わたしはその人と一緒になってはいけないって、そんな気がするの。もしわたしのことを好きだなんていう物好きな人が現れたとしても、やっぱりその人とも一緒になってはいけないような気がする。どうしてかはわからないけど、わたしのことを好きになったりするような男の人はみんな、不幸になるってそんな気がするの」

 僕には<そんなことは迷信のようなものだよ>とも<そんなことを言っていても、人はいつかは恋をするものだよ>とも言うことはできなかった。綾は本当にもう二度と恋なんてしないだろうと、そんな気がした。そしてかくいう僕も彼女のことを好きになりかけている不幸な男のひとりだったけれど、彼女に僕の好意を伝えることは、彼女にとって苦痛以外の何ものにもなりえはしないのだと、この時僕ははっきりと悟ったのだ。

 ――これが僕の、長く苦しい恋のはじまりだった。




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