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第5章

 メタリックシルバーのキャデラックを釧路の中心街から大分走らせて郊外のほうへ出た時――そこはリョウの亡くなった仁々志別川下流沿いの、国道53号線だった。綾は上機嫌に鼻歌を歌いながらハンドルを握っていたが、僕は心臓病を患っている人のように、自分には不整脈の徴候があるのではないかと疑わずにはいられなかった。

「……ねえ、今何キロ?」

「百二十キロ」綾は事もなげにあっさりとそう言った。「でも大丈夫よ。ここは走りなれている道だから」

「そういう問題じゃないんだけどな」僕は窓の外の、果てしなく広がるかに見える野原の彼方に目をやった。「誓ってもいいけど、綾はそう遠くない将来、交通事故に遭うと思うよ、僕は。それかスピード違反で警察に捕まるかのどちらかだろうね」

「リョウも京介さんと同じこと言ってたわ。『綾の運転は危なっかしい。故に俺は綾の運転する車にはもう二度と乗らない』って。それでふたりしてどこかへ出かける時は、決まってリョウが自分で運転してたの……」綾はそこで一度口を切ると、少しだけスピードを落とした。「でもひどいわよね。『俺はまだ死にたくないから綾の車には乗らない。俺にはまだやり残したことがたくさん残ってるんだ』なんて言っておきながら、さっさとひとりで死んでしまうんだもの。わたしがリョウのことを恨んでいるとしたら、その一点に尽きるわよ。わたし、死ぬ覚悟なんて、いつでも出来てたのに」

 国道53号線は、車の通りがまばらだった。交通量はそれほど多くはない。けれども綾は前方に車の後ろ姿が見えはじめると、とろくさいわね、とか邪魔くさいわね、と言っては追い越しをかけていた。そしてそうやって車を三台ほど追い抜いたあとで、途中、『鶴居グリーンパーク』と書かれた大きな看板の見えたところで、道を右折した。

「ねえ、京介さん」と綾は僕に呼びかけた。「京介さんは本当に釧路湿原なんて見たいと思ってる?遊歩道なんて歩いてみたい?湿原はなんてスバラシイんだと感じたい?」

「いや、べつに」僕は農家で飼われている牛や馬をぼんやり眺めながら答えた。「せっかく釧路に来たからには、日本一広いと言われるその湿原を見たいと思わないこともないけどね、僕は観光が目的でここへやってきたわけではないんだ。僕は綾に会うために釧路なんていう見も知らぬ町へやってきた――つまり、第一の目的はもう果たしてしまってるんだ。あとのことは綾におまかせするよ」

「京介さんて素晴らしいわ」綾は感動したように僕のほうを脇見しながら言った。「日本一広い釧路湿原なんかより、きっとずっと心が広いのね。湿原なんて明日でも明後日でも見られるから、今日はわたしのドライブにおつきあいしてくれる?決して損はさせないから」

「いいよ」僕は少し考えてから言った。「ただそのかわり、スピードをもう少し落としてくれないか?あんまり野山の景色が移り変わるのが速すぎて、少しもったいないような気がするから」

「ごめんなさい。気がつかなかったわ」綾はブレーキを踏みながら言った。「でも京介さんの今の一言で、わたしもっと京介さんのことが好きになったわ」

 綾は平均時速百キロで走るのをやめて、大体七十~八十キロくらいに速度を落としてそのあとの道を走り抜けていた。それでも途中トヨタ・カローラの後ろ姿やニッサン・サニーなどの後ろ姿にいきあたる度に、ぐっとアクセルを踏みこみ、追い越しをかけた。僕は彼女にどこへ行くのかと尋ねはしなかったけれど、僕は彼女とならどこへ行くのでもよかった。美しい純白の雲がたなびく青い空に、白銀の輝きを放つ真夏の太陽、どこまでも広がる緑の野山や、時折聞こえる虫の声……隣ではスピート狂の素晴らしい女性がハンドルを握っている。他に一体何をいう必要があるだろう?

 綾は登攀車線を上りきり、湿原展望台を通りすぎたあとで「ここが釧路湿原よ」と、スピードを特にのろくして指で指し示してくれた。釧路湿原は雄大で、ハンノキ林やヨシ原やスゲ原などの密生するその景観美は、とても素晴らしかった。残念ながらここからは釧路川の蛇行する様子は見られなかったけれど、どこまでも果てしなく広がる湿原の景観を眺めていると、自分が大脳に抱えこんでいる悩みなどは、とても小さなものであるように思われた。

 釧路湿原を通りすぎたあと、綾は再びアクセルをぐっと踏みこみ、右にも左にも逸れることなく、ただひたすらどこまでも真っ直ぐに車を走らせていった。僕は彼女にこれからどこへ行くのかと尋ねもしなかったし、今車の走っている場所がどこのなんていうところなのか、といったようなことも何ひとつ聞きはしなかった。綾は時折田畑付きの民家がぽつりぽつりとまばらにある通りをとにかくひたすら真っ直ぐに走ってゆき、その間、のべつまくなしに喋り続けた――彼女はまるで喋りながら運転していないと、落ち着かないとでもいったような様子だった。

「きのうは結局親父に叱られちゃった」綾はミンク飼育場の看板を通りすぎた時に言った。「確かに門をくぐった時は九時前だったかもしれないけど、家に着いた時には二分くらい過ぎちゃってたから……父さんもね、釧路の家に戻ってくることなんて年に数回くらいしかないんだけど、今はたまたま運悪く家に戻ってきちゃってるの。たぶん仕事の都合でだとは思うんだけど……」

「綾のお父さんて、厳しいっていうよりはむしろ、どちらかというと怖い人なの?」

「確かに怖いわね」と綾は言った。「怖いというよりもむしろ、おそろしい人よ。わたしも上のふたりの兄さんも、父が悪い人間だっていうことはよく知っているし、わかってもいるけど、どうしても逆らうっていうことができないのね。悪の権力というものに、一家揃って平伏しているの」

「悪の権力?」と僕は聞き返した。

「そう。悪の権力」と綾は言った。「衆議院議員の綾川竜造は一見クリーンな政治家だけど、これまでに贈収賄容疑で百回以上捕まっていないのが不思議なくらいの人物なのよ。結局わたしの兄さんふたりは、そういう父の人脈を通じて、今は儲け話に東奔西走しているというわけ」

「一番上のお兄さんは建築会社の社長で、二番目のお兄さんは弁護士っていったっけ?」

 綾は頷いた。「一番上の拓己兄さんは、役所の人たちとのコネクションを通じて、釧根地方一帯の建築土木関係の仕事をすべて牛じっているっていってもいいんじゃないかしら。つまり釧根地方の道路や建設関係の大きい仕事、最も旨味のあるおいしい仕事は兄の会社に舞いこんでくるというわけね。札入れなんてただの形式に過ぎないのよ。でも兄が言うには、そういうことっていうのは必要悪ということらしいわ。だから近頃談合反対ということがしきりに叫ばれているけど、そういうことって本当はあまり声高に叫びすぎちゃいけないんですって。兄の話によると、自分は下請けの業者のことまでよく考えて仕事をうまいこと配分しているから、それでこそ釧根地方の事業が潤うものなのだとかなんとか……確かに話を聞いていると一理ある部分もあるようには感じたけど、わたしは兄個人の人間性というものをよく知っているから、どうも納得しかねるのよね。二番目の恵介兄さんは弁護士なんてやってるけど、残念ながら正義というものにはあまり縁のない、悪徳弁護士なの。彼にとっては法廷で勝つことが正義なのであって、敗北することイコールすなわち悪なのよ。それとお金がいかにより多く自分の懐に舞いこんでくるかが一番の重要なポイントなのね。その上彼は熱心なスカイライン教の入信者だから、きっと一生結婚なんてしないに違いないわ」

「スカイライン教?」聞き慣れない新興宗教の名前だな、と僕は思った。

「そう。スカイライン教」と綾は笑っている。「家のガレージにはGTRだのなんだの、色々な種類の型の違うスカイラインが七台もあるの。彼は休日になるとせっせとスカイラインをいい女に磨き上げ、お手伝いの志摩さんとドライブに出掛けるんだわ……それが兄さんの唯一の趣味ね。彼が助手席に女の人を乗せるのは、志摩さんだけよ。あたしはいつも後部席。ちなみにスカイライン教の教祖は、兄にいつも耳寄りな車情報を教えてくれる、中古車ディーラーのハゲ頭の親父なの」

 思わず僕は大きな声で笑ってしまった。スカイライン教。それは社会というものにあまり大きな害を及ぼさない、健全な宗教であるように思われた。

「兄さんの趣味はあとはゴルフかしらね。まあこれは趣味っていうより、仕事上のおつきあいの関係で仕方なくっていったところかな。腕前は結構なものらしいけど」

 そして綾がちょうどそう言った時、ゴルフ場の大きな看板が見えてきた。彼女はその看板を通り過ぎたあとにウィンカーを左に上げ、どんどん山奥のほうへと車を走らせていった。やがて道路は舗装から砂利道に変わり、道の両脇はミズナラやシラカバやハルニレなどの樹木に覆われた森へと変化していった。僕はここに至るまで、車一台、人ひとり見かけはしなかったし、途中で僕が見かけたものといえば、木造の廃屋になった家が一軒あるきりだった。

 綾は小さな川の流れる白い橋の上を通りすぎたあと、車一台しか通れない脇道へと逸れてゆき、隣に流れる川へ下る土手の入口にキャデラックを止めた。あたりには自然の奏でる音楽以外何も存在してはいない。コオロギやキリギリスなどの虫の声、樹々の上を渡っていく葉擦れの音、都会では聞きなれない鳥の鳴き声……それから歌うような川のせせらぎ。他には静寂以外に何も、自然以外に何も存在してはいなかった。

「たまにはいいね、こういうところにくるのも」僕は車のドアを開けて外に出ると、大きく伸びをしながら言った。深呼吸をしてあたりの景色をもう一度ゆっくりと、見渡すことにする。

「たまにはって京介さん、札幌の人でしょう?」綾はトランクを開けると、中から花模様の大きなビニールシートをとりだしていた。「向こうだってわりと自然の多いところなのに、何故そんなことをいうの?」

「もちろん札幌も都市としては自然の多いところに違いないけど、僕は休日に郊外までわざわざ自然を求めにいったりするようなタイプの人間ではないからね。それに大通り公園を指して自然が多いとか言われても、それは微妙に自然の意味が違っていると思わないか?」

「まあ確かにそうね」

 綾は緩やかな傾斜の土手を下っていくと、清冽な川の流れのほとりにビニールシートを敷いた。そして重しがわりに僕のことをその上にのせ、再びキャデラックのほうへと戻っている。彼女は後部席から大きなバスケットと水筒を手にして走ってくると「お待ちどおさま」と言って、意気揚々とバスケットの蓋を開けたが、すぐに「ああっ」とがっかりした声を上げていた。

「せっかく朝早く起きて作ったのに……」

 僕がバスケットの中を覗いて見ると、サンドイッチたちは惨めなくらいばらばらになって、形が崩れていた。

「がっかりだわ」綾は水筒から紙コップにオレンジジュースを注ぎながら言った。「サンドイッチはやっぱり形が命だもの。京介さんにも見せたかったわ、バスケットに詰めこんだばかりの時、このひしゃげたサンドイッチたちがどんなに美味しそうだったかを……」

「自業自得とはいわないけどね」僕はカツサンドにトマトとレタスを挟み直しながら言った。「あんなに車のスピードを出したりするからだよ。砂利道ではバスケットが後ろで飛んだり跳ねたりしていたからね。一言いってくれれば、僕がきちんと助手席でバスケットを持ってたのに」

「だってわたしの想像ではね」綾はハムサンドに齧りつきながら言った。「京介さんはわたしのことをサンドイッチ作りの名人としてバスケットを開けた瞬間に崇め奉るという予定だったのよ。大嫌いな志摩さんに手伝ってもらってまで作ったっていうのに」

「志摩さんて……お手伝いさんだっけ?」と僕は聞いた。それから彼女の作ったサンドイッチたちを賞賛することも、もちろん忘れはしなかった。「形はともかくとして、このカツサンドは絶品だよ。イタリアのシェフもきっと食べた瞬間にコック帽がすっ飛ぶんじゃないかっていうくらいね」

「いいのよ、無理しないで」綾は少しだけ口許に笑みを浮かべながら言った。「志摩さんっていうのはね、うちにもう三十年以上も勤めてる、ベテランのお手伝いさんなの。そして父の昔からの愛人。わたしの母は中学二年の時に子宮ガンで亡くなってしまったんだけど、母のことを最後まで精神的に苦しめたのが志摩さんなの。京介さんがうちにきた時、インターホン越しに話をしたのがその人よ」

「ああ、あのおっとりした、優しげな声の……」

「そうでしょう、優しげでしょう」と綾は親指についたマヨネーズを嘗めながら言った。「それがうちの一族の特徴なの。一族って言っても、志摩さんは綾川の家と血の繋りなんてないけど、血の繋り以上に濃いものを持っている人なのよ。もう三十年以上もうちに住みこみで働いてるんだもの、家族も同然よ。井舞志摩が綾川の家で知らないことなんか、何ひとつないわ。彼女はわたしが小さな頃からおっとりとして優しげだったけど、裏にはおそろしいもうひとつの女の顔を持っている人だったの。これは父にもふたりの兄にもわたしにも共通していることなんだけど、きっと京介さんは父さんと拓己兄さんと恵介兄さんに会ったとしたら『なんだ、綾が言うほど悪い人たちでもないじゃないか』ってきっとそう思うのに違いないわ。でも決してそうじゃないのよ。彼らは表向きは紳士的で穏やかな顔をするのが得意だけど、裏にはおそろしいもうひとつの顔を持っているのよ。違ったのは母さんだけね。母はわたしの小さな頃からとても我が儘で、意地悪な嫌な人だった。母は特に志摩さんのことをいじめてばかりいたから、三人の子供たちはみんな、心の中では志摩さんの味方だったの。でもそのこともきっと志摩さんの勘定のうちに入っていたとわたしは思うのね。母さんは家事なんて一切やらない人だったし、子供の面倒も大して見るような人じゃなかった……でもわたし、今では母さんのことが大好きよ。なんて自分勝手で我が儘な母親だろうって、母さんが入院するまでずっとそう思ってたけど、母さんは綾川家では唯一性格に裏表のない、愛すべき人だったって、今では本当にそう思うの」

 綾はサンドイッチを頬張りながら、早口にまくしたてるようにそこまで話すと、紙コップの中のジュースをごくごくと飲みほしていた。「ごめんなさいね。つまらないでしょう、わたしの話なんて」綾はおしぼりで両手を拭きながら言った。「わたし、車の中でもずっと喋りっぱなしだったけど、普段はもっと大人しい、物静かな女の子なのよ。でもわたしとリョウのことを話す前に、わたしの家族関係のこととか、わたしがこれまでに経験した人生の出来ごとだとかを、京介さんにすっかり話しておく必要があるなってそう思ったの。でも安心して。わたしのつまらない家族の話はここまでだから。ここからはわたしとリョウの話をするわ」

「べつに構わないよ」僕はサンドイッチの食べすぎでげっぷが出そうになるのを堪えながら言った。「綾が話したいと思ったことを思ったとおりに話してくれたら、僕はそれだけでいいんだ。時間はまだたっぷりあるし、てふてふが時折そばを通りすぎていく光景はなんともいえず朗らかだしね。それに僕は僕自身がとてもつまらない人間だということをよく知っているから、誰の話す話も決してつまらないだなんて思わない。実際、綾の話すことはなんでも、僕の耳には面白く聞こえるよ。いや、面白い、というよりも興味深い、といったほうがよかったかな」

「いいのよ、気を遣わないで」と綾は優しく微笑んだ。「それに京介さんはちっともつまらなくなんかないわ。リョウの言っていたとおり<とても面白い奴>よ」

 綾は空になったバスケットを閉じると、僕のコップと自分のコップとに水筒のオレンジジュースを注いだ。

「……わたしたちのすぐ目の前を流れるこの川ね」綾は幾分声のトーンを落として言った。「仁々志別川っていうんだけど、リョウが死んだのはこの川のずっと上流のほうなの。ここはまだ中仁々志別のあたりだから、もっとずっとずっとずううっと上流のほうになるんだけど、リョウは途中で車を降りて……というのは、リョウが死んだのは本当にもっとずっと山奥のほうで、近くに車の通る道なんていうもののまったくないところだからなんだけど……そこから車に積んだ重いガソリンを両手に持つか何かして進んでいったんだと思うの。もしかしたら一度か二度、往復したのかもしれないし、そのへんのところはわたしにもよくわからない。ただわたしにわかってるのは、リョウが死に場所として選んだであろう場所の、正確な位置なの。もっとも、リョウが死んだあとに焼け跡を確かめにいったとか、そういうわけではないんだけど……どうしてその場所がわたしにわかっているかっていうと、わたしがその場所でレイプされたからなの」

 僕は手に持っていた紙コップをビニールシートの上に置くと、嘘だろう?と訴えかけるような眼差しで、綾のことを見つめた。

「本当のことよ」綾は僕の眼差しを逸らすことなく、真っ直ぐに受けとめながら言った。「あれはわたしが二十一の時に起こった出来ごとだった。つまりリョウと出会う半年くらい前。どうしてあんな山奥のほうに人がいたのか、それはわたしにもよくわからない。でもリョウの遺体だって魚釣りをしていた人に見つけられたのだから、誰かが偶然にわたしのことを見かけたのだとしても、不思議ではなかったのかもしれない。誰かといっても、相手は複数でね、若い男だったのか、年をとっていたのか、その両方だったのか、そんなことすらわたしにはよくわからないの。わたしの記憶にあるのは、わたしが複数の男の相手をさせられたっていう、その感覚だけなの。京介さんは本当の暗闇って経験したことある?」

「本当の暗闇」と僕は繰り返した。

「このあたりって見てのとおり、夜になると街灯ひとつつきはしないのよ。陽が一度沈んでしまうと、あたりの景色は見知らぬ他人のように一変してしまうの。今は真っ昼間で、樹々の葉擦れの音が耳に心地好いけど、夜になるとそれはおそろしく不安をかきたてる唸り声でしかなくなるの。どこか外から自分の家に帰ってきた時に部屋が真っ暗だったとか、そういうレベルの暗闇じゃないの。本当に本物の真の真っ暗闇。そういうの、京介さんは経験したことある?」

「ないよ」と僕は少し考えてから言った。

「わたしも、その時経験したのが初めてだったの」綾は揺れる川面を見つめながら話を続けた。「もちろんわたしにとっては当たり前のことでも、京介さんにとってはとてもおかしなことに聞こえるとも思う。そんな山奥であたりが不気味に真っ暗くなるまで、一体何をしていたんだって思うでしょう?レイプされても仕方がないって」

「いや……」と僕は言った。「レイプされても仕方がないとまでは思わないよ」

 綾は目を細めるようにして、透明に透き通った川のせせらぎを眺め、もう僕のほうにちらとも眼差しを送ることなく、独り言を呟くように話し続けた。

「実をいうとね、それがわたしの宗教だったの。兄がスカイライン教に入信してるみたいに、わたしは十八で免許を取ったあとは、自然という自然をあちこちへ観照しにいくことが宗教になったの。わたし、基本的に友達と一緒にいたりすることよりも、ひとりでいることのほうが遥かに大好きで、その上自然に囲まれていると、ただそれだけで忘我状態に浸れてしまう体質なのね。わたし、自然に囲まれていると、たまらなく官能の密度が高まって、足の間がどうしようもなく濡れてくるのが自分でもよくわかるの……小川のせせらぎや鳥の歌声や樹々のそよぎなんかが、この上もない至高の世界にわたしの心と体と魂とを誘うの。わたし、心の中でそれを自然とわたしとの交歓と呼んでいた。最初は今わたしたちがいるこの場所みたいに、魚釣りやピクニックなんかに人が来てもおかしくないような場所からわたしは始めたわ。でも次第次第に、もっと山奥のほうへ山奥のほうへと自然に誘われるがままに、上っていくようになっていったの。すると官能の密度がより高まっていって、絶頂に近い法悦が得られるようになるのよ……でもだからといってわたし、山の中や川のほとりで自慰行為に耽っていたとか、そういうわけでは全然ないのよ。だってそれは自然を冒涜することですもの。やっちゃいけないことだって、わたし、本能的によくわかってた。わたしはただ、自然と交歓してただけよ。男の人には少しわかりにくいことかもしれないけど、わたしはただ純粋に神聖に官能というものを感じていただけだったの。もしかしたらそれはわたしが処女で、男の人を知らなかったからこそできたことなのかもしれない。今ではもう、自然にこうして囲まれていても、昔ほどの官能を感じたりはしないもの。わたし、闇の男たちに犯されてしまってから、自然を観照することが怖くなった。毎日ひたすら家に閉じ籠って考え続けたの、どうしてこんなことが起こってしまったんだろうって。わたしは自然を愛し、自然もわたしを愛してくれていたのに、どうしてわたしはわたしの味方である自然に囲まれた真っ直中で惨めに体を犯されなくてはならなかったのか、どうして自然はわたしを守ってくれなかったのか、わたしは神を信じていた人が、不幸の訪れと共に神を憎みはじめるように、自然を憎むようになった。手はじめにまず、庭の花という花をちょん切り、温室の鉢植えという鉢植えを叩き割った……わたしの頭がおかしくなったのではないかと志摩さんが父に報告したから、わたしはお手伝いさんのひとりに連れられて、それから精神病院のカウンセリングに通わされるようになったの。でもわたし、まともな人間のふりを装って、医者には何ひとつ本当のことを話しはしなかった。医者はただ、わたしの複雑な家族関係のことなんかを聞いて、ただひたすらわたしの意見に同調していただけだったの。実際、わたしは短大を途中でやめ、父の紹介してくれた会社も途中でやめ、色々な問題を抱えこんでもいたのね。だからそういう意味では医者がわたしの話を共感的に受けとめてくれて、あれやこれやと助言してくれたのは、とても大きな助けになることではあったわ。でもわたしは本当のところは何ひとつ医者に話したりはしなかったの。この話をわたしが生まれて初めてしたのはリョウで、二番目が京介さんよ」

 蝶がまた、戯れるかのように二羽やってきて、ビニールシートに座る僕と綾の間を擦り抜けていった。それはとても大きなキアゲハだった。

「あの時もちょうど」と、綾は言葉を継いだ。「アゲハ蝶が何羽も飛んでいたわ。川のそばで地蜜を吸っていた……大体、川のそばで地蜜を吸うのはオスの蝶であることが多いと言われてるんだけど、その時もね、モンキアゲハが五羽も六羽もやってきては、あのキアゲハみたいに地蜜を吸っていたの」 

 キアゲハは二羽とも、川べりの地面の上をいったりきたりしながら、何かをしきりと調べるかのように、触覚を動かしては再び舞い上がり、舞い降りては再び触覚を動かしていた。そして真上に立てていた羽を地面と水平にすると、暫くの間、そこから動かなくなった。

「わたし、その時も自然の与える官能に酔いしれて、恍惚状態になっていたの。それでモンキアゲハたちの傍らで、陽光に暖められた地面の上に、ごろりと蝶たちの真似をするみたいに横になった。物凄く気持ちがよくて、わたし、心の中で誓いを立てたわ。わたしは一生涯あなたのもので、一生結婚することなく、純潔のすべてをあなたにお捧げしますって。そうするうちに、蜜のような甘い眠りがわたしを襲いはじめたの。あんなに強い官能を感じたのは、生まれて初めてのことだった。でも目が覚めた時、あたりは真の暗闇に包まれていて、わたしはおそろしくなったの。どうしよう、車が置いてあるのはここからずっと離れた場所なのに、無事歩いて帰れるかしらってとても不安になった。遠くからはホウホウ鳴くミミズクの声や、なんの鳥なのかよくわからないギャアギャアいう不吉な声なんかが聞こえてきて、本当に心の底から恐ろしくなったの。わたし、逃げるようにして走りだしたわ。そしたら大きな闇の壁にぶつかったの。でもわたしがぶつかったそれは、闇と同一化している何者かだった。あたりは本当に真っ暗闇で何も見えないし、その人間の顔や体の輪郭すら、おぼろげにもわからない。その夜、月は厚い雲に覆われて隠れていたから、一条の月の光さえもなかったの。わたし、思わずこう叫んだわ。『お願い、わたしを帰して』って。わたしが闇の中で感じた人間の気配は、少なくとも五六体はあった。彼らはまるで最初から示しあわせていたみたいにわたしの体を抑えつけ、服を破るとわたしの体の中に侵入してきたの。ひとりが終わるとまたもうひとり……といった具合にね。でもわたし、この時のこと、あんまり詳しく覚えてはいないの。わたしが覚えてるのは、途中で気を失って次に目を覚ました時、自分が家の庭の真ん中に素裸で倒れ伏していることだった。どこをどうやって帰ってきたのか、記憶はまったくないんだけど、ガレージにはキャデラックがきちんと収まっている……ということは、わたしは素裸のまま、車を運転して自力で帰ってきたっていうことよね、理屈としては。わたしはわけがわからなくて、自分の頭がどうかしてしまったんじゃないかって疑ったわ。そこへ運悪く父がちょうど家に帰ってきて……父はそのあとわたしに厳しく門限を言い渡し、出かける時には誰とどこへ行くのかきちんと志摩さんに言ってからでないと出かけてはいけないと言ったの。わたしがそのあとはっきりと正気に戻ったのは、父のわたしの裸を見る目がいやらしかったせいよ。それでこれは現実なんだってはっきりと目が覚めたの。だからきのうわたしが父に叱られたのは、その時のせいでもあったのよ。門限を破ったことに対してというよりは、そんな男を誘惑するような格好をして、一体今までどこで何をしていたんだというわけね。しかもわたしは京介さんから借りた男もののトレーナーを着ていたから、また新しい男でも出来たのかって問いつめられたわ。そんなんじゃないって言っておいたけど、たぶん父はそのうち、京介さんのことを興信所にでも頼んで調べはじめるんじゃないかしら。リョウの時もそうだったもの」 綾が衝撃的な話をあまりにも淡々と話すので、僕はなんて言ったらいいのか、すっかり言葉を失っていた。僕は綾が川面の流れをじっと見つめているように、川べりを少しずつ移動していくキアゲハたちを見つめた。そして彼らがその場所を離れて、完全にどこかへ飛び去っていった時、心に残るひとつの疑問を、ようやく口にのせることができたのだった。

「ひとつ聞いてもいいかな」と僕は自分でも不審げな声で聞いた。「その、綾が闇の中でされたことというのは、本当に人間の仕業だったのかな?」

 綾はビニールシートの上に脱力したように寝転がると、おかしくてたまらないというように笑い転げている。「間違いなく人間だったわ」綾はサンダルを脱いだ足をばたばた動かしながら言った。「それにわたしの妄想なんかでも決してない。わたしは何度もあの時起こったことは現実ではないのだと思いこもうとして、どうしてもできなかったのだもの。彼らは生々しい息づかいでわたしの体のすべてを探り、生々しくわたしの体の中に射精したのよ。あれはどう考えても人間よ。自然の化身であるとか、そういうような存在では決してないわ。もしそうだったとしたらわたし、きっと喜びをもって彼らを自分の中に迎え入れたんじゃないかしら」

「でもさっき、綾は言ったよね?その時のことをあまりよくは覚えていないって……」僕は言いにくかったが、それでもやはり聞かずにはいられなかった。「彼らはその、人間の言葉を話していた?」

 綾はますますおかしくてどうしようもないというように、笑い転げている。 「ええ、人間の言葉を話していたわ」綾は片肘をついて、僕のことを見上げながら言った。「じゃなかったら、自然の化身がこんなことを話すかしら?締まり具合がいいだのなんだのという話を?」

 僕は口を噤んだ。彼女があまりにもひっきりなしに笑い続けるので、僕は自分がもしかしたら担がれているのではないかとすら疑ったが、やはり彼女の話してくれたことはすべて本当らしく、ひとしきり笑ったあと、彼女は両腕の間に顔をうずめて、静かに泣いていた。

「京介さんはきっと、とても心が純粋な人なのね」綾は起き上がると、目尻に残る涙を半袖のブラウスの裾で拭った。「京介さんの言い方を借りると、心の底の魂の部分が、とても純粋なんだわ」

「そんなことはないよ」と僕は言った。「僕の心の配管は時々ヘドロで詰まることがあるし、コールタールみたいに全体がねばねばと黒く汚くなることだってある。僕は綾やリョウが思っているほど、純粋な人間なんかじゃない。綾のお父さんやお兄さんみたいに裏表のあるところだってあるし、うちの親父みたいに計算高くて打算的なところだってあるんだ」

「京介さんのお父さんってどんな人?」綾はまだ少し潤みのある瞳で僕のことを見つめた。

「相当にきてれつな人だよ」僕は軽く肩を竦めながら言った。「趣味は盆栽と古美術。親父は自分のことを鑑識眼のある人間だと信じてるらしいけど、親父の集めているものはみんな、僕の目にはただのガラクタにしか見えない。たぶん綾が僕の親父に会ったとしたら、会った瞬間にこう思うだろうね。僕の言ったとおり、なんともいえないキテレツな雰囲気が醸しだされている人物だって」

  綾はさきほどのように嘲笑気味にではなく、本当の意味で笑った。それで僕も彼女につられるように微笑した。

「つまり、京介さんのお父さんの宗教は、盆栽と古美術品の収集なのね。京介さんは何か、宗教めいたものを持ってる?」

「特にこれといって何もないよ」僕は溜息を着きたくなりながら言った。「僕の持っている宗教というか夢はね、極めて平々凡々たるものなんだ。僕は一般に定年といわれる六十五歳くらいまであくせくと働き、その間に自分の性格とぴったりくる女の人と結婚して、幸せな家庭生活を送る……人にはよくそんなの平凡すぎてつまらないって笑われるけど、僕にとってはそれが一番の幸福な夢なんだ」

「素敵だわ」と綾は意味ありげに僕のほうを見つめながら言った。「きっと京介さんにはそういう人がいるのね。一生の間、お互いに寄りそって助けあって生きていきたいって思える女の人が」

「残念ながらそういうわけじゃないよ」僕は少し照れながら言った。「一度、確かにそういう人がいたけど、とっくの昔に振られてしまったし、親父に言わせると僕にはどうも女の人を見る鑑識眼がないらしい。以来、恋愛恐怖症なんだ。僕は恋愛結婚するのが夢なんだけど、親父にいわせるとね、僕は最初から結婚ということが前提になっていて女の人とつきあったほうがうまくいくっていうんだ。手相と人相にそう出ているって。親父は盆栽と古美術の他に占いにも凝ってるんだけど、なんでも僕は二十七歳の時に劇的なお見合いをして結婚する運命にあるらしい」

 綾はいつもの笑い方で、くすくすと笑いだした。

「そのお見合いってもしかして、京介さんが二十七歳になっても独り身だったら、お父さんが条件のいい人を見つけてきてくれるっていうことなんじゃないかしら」

「そうかしもしれない」と僕も笑った。「どちらにしても、僕は占いなんか信じない。例え高名な占い師の人が、僕に女運のないのは南西の方角にベッドがあるからです、と言ったとしても僕はベッドの位置を変えないだろうし、お金がたまらないのは北東にタンスが置いてあるからで、そのタンスがお金の流通を阻害しているといったとしても、僕はタンスをどかしたりはしない。僕はそういう変なところで頑固な人間なんだ」

「風水ね」と綾は言った。「でもわたし、予言してもいいけど、京介さんはきっと、ある日突然運命の人に出会って、宿命的な恋をするんじゃないかしら。その女の人と出会った瞬間に、神鳴りに打たれたみたいになるの。そして相手の女の人のほうでも、心の中で雷鳴の轟く音を聞いているの……そういうの、素敵だと思わない?」

「素敵だとは思うけど」と僕は苦笑した。「でも僕にはそういう映画かTVドラマのような恋は全然似合わないし、僕が求めているのは何も運命的な恋なんかではないんだ。僕は普通に恋愛して、平凡な結婚がしたい」

「やっぱりね」と綾は立ち上がると、バスケットと水筒を手に持った。「やっぱり京介さんは異常な恋愛をして、普通でない結婚をする運命にあるのよ。それは何故かというと、常に超常的なことを求めている人には普通で平凡ことがやって来、平凡なことを求めてやまない人には、異常で考えもつかないことがやってくるからなの。この世界を支配している神さまは、つむじ曲がりでひねくれ者の、気難しい、手に負えない皮肉屋さんなのよ」

 綾はバスケットと水筒を車の中に片付けにいき、僕は彼女が戻ってくるのを待ちながら(僕に限ってそんなことはありえない)と内心思っていた。

 そしてどこか遠くのほうから響いてくる、ピーロロロロロ……ピーロロロロロ……という鳥の鳴く声を聞きながら、あれはなんていう鳥の鳴く声なのだろうと考えた。

 綾はキャデラックから戻ってくると「少し散歩しない?」と言い、僕は「いいよ」と言った。それで僕は立ち上がると彼女とふたりでビニールシートを折りたたみ、川に沿って歩きはじめることにしたのだった。




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