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第8章

 僕が釧路へやって来た四日目から八日目までは、とても気持ちのいい快晴の毎日が続いた。ヒッピー男は雨の上がるのと同時に再び旅立ってゆき――確か知床に熊の肉を食べにいく予定だと言っていた――<はまなすの宿>の客はまた僕ひとりだけになってしまった。

 僕がヒッピー男と持った交流はといえば、風呂にどちらが先に入るかという話をしたことくらいだったろうか。僕たちは互いに一番風呂を譲りあったが、結局ヒッピー男が先に湯につかることになったのだ……だが僕は、いざ自分が湯船につかろうという段になってから、彼に風呂を先に譲ったことを激しく後悔した。浴槽は彼の体の脂や垢で芋風呂のような状態になっており、僕は風呂をもう一度洗って沸かし直してから入浴せねばならない羽目に陥ったからだ。そして僕がやれやれと思いながら風呂から上がってくると、ヒッピー男の部屋からは微かにエリック・クラプトンの曲が流れていて、僕をなんだかとても懐しい気持ちにさせた――以上が、僕とヒッピー男に纏る心の交流のすべてだった。

 僕は彼の愛車、ドラッグスターの姿が<はまなすの宿>から遠ざかっていくのを見送りながら『ヒッピー男に幸あれ』と、彼のことを心の中で祝福した。そしてヒッピー男と入れ違いになるようにして綾がやってくると、僕のことをメタリックシルバーのキャデラックの中へさらっていったと、こういうわけだ。

 きのうの帰り際に彼女は『晴れたら釧路湿原、雨が降ったら読書』と言っていたのだが、僕は晴れても釧路湿原へはいかずに、リョウの小説を読んでいたいような気持ちだった――が、いざドライブへと出発すると、僕のそんな鬱屈とした思いは一変してしまった。

 釧路湿原展望台では木道を歩いて自然を満喫し、コッタロ湿原展望台ではアオサギを遠く眺めやり、細岡湿原展望台では雄阿寒岳、雌阿寒岳を一望に収めることができた――それに僕は何よりも、綾と一緒にいることができるだけで、他には何ひとつ必要なものなどなかったのだ。

 僕と綾は釧路湿原をあらゆる角度から眺めたのち、丹頂鶴自然公園へと向かい、フェンス越しにその優美な姿を静かに観察した。そして綾はつがいの丹頂を愛しそうに見つめながら、隣で同じようにフェンスに手をかけている僕に向かって、こう言ったのだった。

「丹頂って、一度番になると、一生の間仲睦まじく添い遂げるんですって。もちろん浮気なんてことは問題外らしいわ」

「丹頂の求愛のダンスなら、テレビで見たことがあるけど」僕は鶴たちが餌を食んでいる様子から目を離さずに言った。「じゃあ、あの求愛のダンスで結ばれたあとは、もう他の丹頂に目を移したりすることはないんだ」

「人間の男の人も、丹頂鶴みたいだったら良かったのにね」綾はフェンスから離れると、すぐそばに流れる小川へと歩いていった。川の流れる音がさらさらと、音楽みたいに心地好く、耳に響いてくる。

「リョウは、浮気なんかするようなタイプの男じゃなかっただろ。むしろだからこそリョウは……」

 僕はそう言いかけて、口を噤んだ。彼女の心の、ほんの少し触れただけでも血の溢れそうな部分に爪を立てようとしているのではないかと、そんな気がしたからだ。

「でもわたし、あのままいってたら、いずれは必ずそういうことになってただろうなって、わかってたわ」綾は無理に微笑みながら言った。「京介さんは、どちらがより不幸だと思う?運命の人と出会っても結ばれることは叶わないのと、運命の人と一生の間出会えないのと、どちらのほうが?」

「出会えないほうが不幸だよ」僕は緑の草むらに覆われた、小さな川のせせらぎを覗きこみながら言った。「僕も、こうして綾に出会えなかったとしたら、きっと不幸なままだったと思う。僕は……例え結ばれなかったとしても、今のままでいられたとしたら、きっと幸福なんだ。リョウもきっと、僕と同じ気持ちだったと思うよ。綾と一緒に存在していられたら、それだけで良かったんだ。リョウは以前、僕にこう言ってたよ。『自分は綾と結婚できなかったとしたら、他の誰とも結婚なんてしないだろう』って」

 綾は草むらの上に力なくしゃがみこむと、両手で口許をおさえて嗚咽を押し殺すように泣いた――かわりに、丹頂鶴のほうがクァークァーと彼女のことを慰めるかのように鳴き、白と黒の羽根をはためかせている。

 僕はちょうどその時、珍しくも自分がハンカチを持ちあわせていることを思いだし、ギンガムチェックのハンカチをポケットからとりだすと、それを綾に差しだした。

「……ありがとう」と言いながら綾は、ハンカチで両の目頭をおさえた。「結婚なんて、べつにどうでも良かったのに。わたしも、リョウと一緒にいることさえできたら、それだけで……」

 綾は独白するようにそう呟いたあと、車に戻るまでの間、それから車に戻ってからも、ずっと涙を流し続けた。僕は彼女に向かってかけることのできるような言葉もなく、ただ助手席に座ってぼんやりと、彼女の泣きやむのを待つ以外になかった。綾はしゃくりあげたり啜りあげたりしながら、もう永遠にいつまでも泣きやまないのではないかというくらい長い時間、泣き続けた。

「ごめんなさいね」綾は次第に声の震えがおさまってきた時に言った。「このハンカチは、京介さんが札幌に帰る日までに洗って返すわね」 「いや、いいよ」と僕は言った。「それにそのハンカチは、僕のジーパンのポケットに半年以上も前から入っていた代物だしね」

「じゃあ、なおのこと念入りに洗濯しなきゃ」綾はあまりにも泣きすぎたために、鼻声になりながら笑った。「ねえ、次はどこへ行く?」

「<はまなすの宿>へ戻ろう」と僕は言った。「綾がサービス精神旺盛なのはわかるけど、今日はもう帰ることにしたほうがいい。観光なら明日でも明後日でもできるし、僕は何度も言っているように、観光のために釧路までやってきたわけじゃないんだ。僕は僕自身とリョウのために、綾に会いにきたんだよ。だから……」

「そうね」綾はハンカチをたたんで、茶色のジーンズのポケットにしまいこみながら言った。「なんだか湿っぽくなっちゃったものね。わたし、京介さんを送ったら、今日は真っ直ぐ家に帰ることにするわ。ひとりでぼんやりして、時々泣いたりしながら、リョウのことを考えたいの」

「そうしたほうがいいよ」と僕は言ったが、内心、心の最も深いところを傷つけられたような、そんな気持ちにもなっていた。僕と綾は帰りの車の中で、終始無言だった。僕は僕自身の考えごとの世界に埋没し、綾は綾自身の考えごとの中に没頭しているといったような、そんな感じだった。彼女は一度、国道240号線を走っている時に、信号が赤なのにも関わらず、そのまま駆け抜けていってしまったくらい、ぼんやりしていた。僕は思わず歩道の停止線の手前でクラクションを鳴らしていたが、彼女は「ごめんなさいね」と一言あやまっただけで、相変わらず百キロ台で車を走らせた。

「運転、変わろうか?」僕は冷や汗をかきながら言ったが、彼女は「いいの」と、寝ながら起きている人のようにぽつりと答えただけだった。そして僕はこの時、以前リョウが『綾は精神病理学的に少しおかしい』と言っていたことを、改めて思いだしていた。普段の彼女はとてもチャーミングで、精神的な病いを抱えているような人には少しも見えない。けれども綾は元気によく喋る時と、今のように落ちこんでいる時との落差が激しく、僕は彼女のことを<躁鬱病>か何かなのだろうかと、この時ほんの少しばかり疑った。しかし彼女は実際には<躁鬱病>なのではなく、違う別の精神的な病いを抱えていると、僕はこの二か月半ほどのちに、精神科医の口から告げられることになるのだった。


 綾は僕を<はまなすの宿>まで送り届けると、きのうもまた夜明け頃までかかって打ち上げたという『未必の恋』の原稿を手渡してくれた。そして「明日は厚岸・根室方面か、阿寒町方面のどちらかにドライブしにいきましょう」と、最後だけいつもの彼女に戻って、にっこりと微笑んでいた。

「運転、気をつけて」僕は助手席の窓越しに、念を押すように言った。綾は「また明日」と手を振っている。そして僕がシルバーメタリックの車の影を夕闇の中に見送った時、時刻はちょうど六時で、お早紀さんが<はまなす>の暖簾を外にだすところだった。「あら、おかえりなさい」と言われ、僕は意味もなく照れくさいような気持ちになりながら「ただいま」と答えた。暖簾をくぐると女将さんに客と間違えられ「いらっしゃいま……」と途中まで歓迎されたあと、おやっさんに「あのべっぴんさんは今日は上がらないのかい?」とからかわれた。それで僕はひとり分の夕食を託けると、馬鹿みたいにはにかみながら二階へと上がっていった――もちろんおやっさんたちには「ただの友達」という説明をしてはあったが、三人が三人とも僕と綾のことを<深い仲>と誤解しているらしいのが、僕にはとても嬉しいことのように感じられていた。

 ――もしそうなれたとしたら、どんなにいいだろう。

 一瞬、僕は夢想に囚われそうになり、それから車中での綾の涙と沈黙とを思いだして、頭を振った。それよりも今は、と茶色い封筒の中に入っている、リョウの分厚い原稿に目を落とすことにする。


 ――『未必の恋』もまた、悲しい恋の物語だった。<神の腕を持つ>とまで言われる、天才的な脳外科医の主人公、西森京一郎は、自分の兄でもあり、北山綾子の夫でもある北山慶一郎を、手術のミスによって植物人間にしてしまう。といっても京一郎は、自分の敬愛する兄のために万全の態勢で手術に臨み、自分にミスがあったなどとは、手術中も手術後も、少しも疑いはしなかった。彼は<手術は成功した>と思いこんでいたのだが、結果として兄は麻酔が切れたあとも目覚めることなく植物状態に陥ってしまう。京一郎はまず麻酔科医に手落ちがあったのではないかと疑ったが、手術に立ちあっていた若い研修医に、ミスがあったとしたらこの点ではないかと示唆される。

「何故、手術中にそのことを言わなかったのか」と京一郎は研修医をなじったが、

「まさか、先生ほどの方がそのことに気づかないだなんて、まず考えられませんでしたから……」と気弱そうに研修医は弁解した。「それに、他の手術に立ちあわれた先生方も何もおっしゃられませんでしたので、わたしがでしゃばるのもどうかと思いまして……」

 慶一郎の妻、綾子は、京一郎の「最善を尽した」との言葉を信じ、日々、物言わぬ夫に献身的な介護を続けている。

 京一郎は良心の呵責に苦しみながらも、どうしても綾子に手術のミスを告げることはできなかった。実をいうと京一郎は、医学生の頃から兄の恋人の綾子に憧れ続けていたのだ。京一郎自身はアメリカのハーバード大学に留学したのち<西森総合病院>の理事長の娘と見合い結婚していたが、妻との関係は結婚当初からうまくいってはいなかった。彼はひたすら自分の医学的な研究に没頭し、家庭を顧みたことなど一度もなく、二人いる子供もまるで他人の子供のようにしか感じてはいないのだった。京一郎は綾子の熱心な夫への介護の態度を見るにつけ、学生時代の恋心が再燃していくのを感じるようになる。兄の慶一郎のベッドを挟んで、綾子と会話しているひととき、京一郎はこの上もない魂の安らぎを感じ、自分が心の底から求めてやまないすべてが、綾子の中にはあると感じる。ふたりは許されないことと思いながらも惹かれあっていくことを止められなかった。そしてとうとう激しい肉体関係を持つまでに至るのである――だが、ふたりが関係を持った夜から慶一郎の容態が急変し、彼は一般病棟から再びICU(集中治療室)へと移されることになる。綾子は良心の呵責に苦しめられ続け、とうとう京一郎に別れを告げるが、京一郎は「もう元の自分には戻れない」と彼女に言う。「妻と離婚したのちに、綾子と一緒になりたい」と。「財産も地位も名誉も、もはや何もいりはしない」――だがそんな時、綾子は看護婦たちが慶一郎の手術のミスについてうっかり話しているのをナースステーションで立ち聞きしてしまう。綾子の心の中で募る、京一郎への不信感……彼は果たして故意に夫を死なせようとしたのか?いや、彼はそんな人ではない。彼もまた自分が夫を愛するのと同じように、兄のことを深く愛していたのだから……だが綾子は夫が亡くなった時、京一郎と別れる決心を固めていた。その時にはもう京一郎は妻と離婚して、財産も地位も名誉もすべて失っており、彼はその上綾子まで失うことになるのだったが……。

『彼は死ぬまでの間に何百人という患者の命を救ったが、綾子と別れて以後、彼の魂に憩いがあったためしは、ただの一度もありはしなかったのである』  それがこの小説の最後の文章だった。

 僕は『アンドローラはテレパシーを感じているか?』の読後感と同じ、非常な魂の飢えや渇きといったものを感じ、とりあえずビールで肉体的な喉の渇きを癒しはしたが、心のほうは相変わらず、やりきれなくて死にたいような侘しさを味わったままだった。

『未必の恋』を読みながら夕食を済ませた僕は、お盆を下にさげた時にお金を払ってビールを一缶持ってきたのだが、ビールの喉ごしがいつも以上に苦く辛いもののように感じられ、自分があまりにも惨めで寂しい存在のような気がしてならなかった。


 ――僕が今味わっている、この感覚はなんなのだ?


 と、僕は自問した。『アンドローラはテレパシーを感じているか?』も『未必の恋』も、文学的にとても素晴らしい、これ以上一語のつけたしようもない、完璧な作品だった。絵画に例えるなら、ボッティチェリの『プリマヴェーラ』や『ヴィーナスの誕生』を見た時に受ける衝撃といってもいい。もちろん人によってはそれは少し大袈裟なのではないかと思うかもしれない。でもリョウの小説には確かにこれ以上一筆のつけ足しようもない完璧さが存在し、また天才の烙印がまこと鮮やかに刻印されてもいた――そして同時に僕個人としては――リョウという生身の作者本人を知っているだけに――彼の作品に、ただの文学以上ものを感じずにはいられなかった。彼の小説は僕の人生にとって、あまりにも予見的だったからだ。リョウの肉筆の原稿を読んでみると、西森京一郎の名前は最初のうち、西森京介、となっている。しかも北山綾子は会話のセンスの良さなどが、綾をモデルにしているといえないこともない女性である。

 ――綾は、リョウと連絡がとれなくなってのち、彼から彼の人生の集大成ともいえる小説がすべて送られて来、彼の死を直感した、と言っていた。僕はリョウの小説を読みながら、彼が僕に対してあるメッセージ――あるいはテレパシーのようなもの――を送ってきているような気がしてならなかった。


 ――魂の飢えと渇き


 と、僕はもう一度考える。著者がもしそういった感情をどこまでも深く感じていなかったとしたら、こうした血の滲むような作品が、果たして生まれてくるだろうか?答えは否、だ。僕の考えすぎか、あるいはただの気のせいかもしれなかったけれど、リョウの小説は、彼自身、あるいは読む人間すべてが魂の飢えと渇きを感じないための<身代わり>というような気がした。つまりそこには僕自身も含まれているし、また綾自身も含まれているということになる。

 僕と綾が魂の飢えと渇きを感じないためにできること――それが何なのか、僕にはまだはっきりとはわからなかった。ただその影が、炎に照らされて微かに揺らめいているのが見える程度だ。可能性としては、僕と綾が西森京一郎と北山綾子のように激しい肉体関係を持つようなことは99.9%ありえない(それに物語の中の京一郎と綾子は、肉体関係を持つことによってますます魂の飢えと渇きを増していくのである)。僕と綾の関係はどちらかといえば『アンドローラはテレパシーを感じているか?』のアンドローラと奴隷アンドロイドのセルジオのようなものだった。今日、運転席で泣いている綾のことをなすすべもなく隣で見守りながら、僕は嫌というほどそのことを思い知っていた――自分の全く無力な奴隷状態というものを。

 僕は綾とほんの四時間ほど前に別れたばかりだというのに、すでにもう彼女と会いたくて、話をしたくて、存在を感じあいたくて、たまらなくなっている。僕は札幌に戻ったあと、彼女なしで一体どうしたらいいというのだろう?彼女との唯一の繋りが手紙のやりとりだけだなんて、きっと僕には我慢できないに違いない。


 ――充たされることのない、底なしの沼


 と、僕は魂の飢えと渇きを、違う言葉で言い換えてみる。僕が今こんなにも綾の存在を恋しく思っていても、彼女は今、リョウのことを恋しがって部屋でひとり、涙にくれているのだろう……僕にはリョウが、一体僕にどうしてもらいたいと思っているのかがわからなかった。僕は初め、自分自身の強引なまでの強固な意思によって札幌から釧路へやってきたのだと思い、それから今、自分はリョウに呼ばれてここまでやってきたのだと、はっきりと感じるようになっていた。もしかしたらそんなことはただの思いすごしでしかなかったかもしれないけれど、リョウの小説を読むごとに、彼の働きかけが顕著になってきつつあるのを、僕は理性としてではなく感覚として、認めないわけにはいかなくなっていた。

 そして僕はやはりこの時も、残りの四日間、この四日間という時間の間に、リョウの導きによって何かが起こるかもしれないと、そのことだけを期待して、就寝するために布団を敷いたのだった。


 五日目の早朝、僕はリョウの夢を見ていたような気がした。辺りは濃く深い霧に包まれ、視界は1メートル先――いや、0.5メートル先をも見通すことさえ困難な状態だった。自分自身の姿さえ、どこか霞んでいるようにすら感じられる。

「リョウ!」と僕は霧の彼方に存在するであろう、彼の名前を叫び求めた。何故かはわからないけれど、僕はこの濃く深い夢の霧のどこかに、リョウが隠れている、間違いなく実在している、と強く感じていた。

 それで大きな声でもう一度「リョウ!」と彼の名前を呼んでみたが、彼は一向に姿を現す気配がない。僕は霧の中を彷徨いながら彼の名前を叫び続け、そしてはっとあることに気づいたのだ――この濃く深い霧、この霧そのものが実はリョウ自身の存在そのものなのだ、ということに――夢は僕がそのことに気づいた瞬間に終わりを告げ、僕は自分がリョウの名前を呼ぶ、谺となって返ってきた声と、ギヤスピイク、ゴゴゴゴゴ……と鳥が彼方で鳴いている声とで目が覚めたのだった。


 ――ギヤスピイク、ゴゴゴゴ……


 僕は布団の上に体を起こした時、頭の彼方から響いてくる、あまりにも奇妙な鳥の声に驚いた。こんなに奇妙な鳥の鳴き声は、聞いたことがない。だが擬音で表すとしたらそうとしか言いようがないし、それが間違いなく鳥の声であると、夢の中の僕にははっきりとわかっていたのだ。


 僕は迎えにきた綾の車に乗った時、最初に自分からこの話をした。だが霧の中のリョウの存在のことは敢えて伏せて、深い霧の中でギヤスピイク、ゴゴゴゴ……という、奇妙な姿なき鳥の鳴き声を聞いたとだけ説明した。

「それは多分オオジシギ鳥ね。別名カミナリシギともいうけれど」白のTシャツにサブリナパンツという格好の綾は言った。彼女はきのう嗚咽していたことなどすっかり忘れているかのように、溌剌とした優しい笑顔を浮かべている。「釧路湿原にいる鳥なのよ」

 そして綾はズビヤクズビヤクゴゴゴゴ……と、僕よりももっと早口に、もっと上手く鳥の鳴き声を真似ながら言った。

「それだよ、それ!」僕はあまりにも彼女の鳥真似が上手いので、興奮しながら言った。「でも僕はそんな鳥を実際に見たこともなければ、そんな奇妙な鳴き声を聞いたこともないんだけど……」

「きのう、湿原の遊歩道を歩いている時か、他の展望台を歩いている時にでも、もしかしたらそう遠くないところにいたのかもしれないわね。鳴き声が聞こえるか聞こえないかぐらいの、ぎりぎりのところに。それで京介さんもわたしも耳の奥のほうで、はっきりとではないけれど、その鳴き声を捉えていたんじゃないかしら……まあちょっと強烈な鳴き声だから、近くにいたとしたら聞き逃すことはまずないと思うけど」

「そうかもしれないな」僕はほんの少しばかり神秘的な気分になりながら言った。「そうかもしれない」

「ところで、今日は厚岸、根室方面と阿寒町方面、どちらから攻めることにする?」

「どっちでもいいよ」と僕が言うと、綾は笑った。「何?」

「ううん、なんでも」赤信号で車を止めた時に綾は言った。「たぶん京介さんはそういうだろうなあって思ってたから」

「だったら聞くなよ」と僕も笑いながら言った。 「じゃあね、今日は厚岸方面にレッツのゴーっていうことでいい?」

「いいよ」

 僕たちはそれから、北太平洋シーサイドラインを通って厚岸へ行き、お昼御飯にはエビやホタテやカキなどの新鮮な魚貝類のバーベキューを食べた。そして厚岸を離れると、霧多布、浜中を経て、海岸線のみえる道路をずっと根室の納沙布岬まで走らせていった……帰り道では風蓮湖の春国岳へよって、国道44号線を通って帰るという予定だった。

 車の通りは極めてまばらで、彼女は例によって時速百キロ以上のスピードで国道という国道を走り抜けていたが、僕はせっかくの海の見える景色がもったいないと思い――ついでに自分の命ももったいないと思い――綾にスピードを落とすよう、いつもの調子で要請した。だが彼女は気を緩めるとすぐに120~130キロで走りはじめるので、僕は何度も再三に渡って彼女に注意を促さなければならなかった。

 霧多布湿原の甘く香るはまなすの花や、何気なく道路の両脇を飾るミズナラ林、地平線まで続く、果てしのない広大な牧草地、そしてその牧草を食む、牛たちの群れ……ついでに風にのって漂ってくる、牛糞のなんともいえない良い香り……車窓の景色を楽しんでいた僕たちも、流石にその時ばかりは急いで窓を閉めていた。

 納沙布岬には、厚岸から約二時間ほどで辿りついた。北海道本土最東端に位置する岬。日本一早い日の出が見られることでも有名らしい。岬からは歯舞諸島が間近に浮かんでおり、僕は北方領土問題のことを微かに頭の隅で考えたが、やはり答えのわからぬまま、納沙布岬をあとにすることにした。そして風蓮湖では軽いハイキングを楽しみ、僕は道東地方の自然と景観とを、片想いの相手とともに思う存分満喫することができたと、こういったわけなのだった。


 六日目は、標茶、弟子屈、摩周湖、阿寒湖、屈斜路湖方面へ。透明度の高いことで世界的に名高い摩周湖では、美しい一点の曇りもないコバルトブルーの景観を眺望し、硫黄山では噴煙をあげる剥きだしの岩肌を上り、屈斜路湖では大きな白鳥の乗り物にのって、僕と綾は湖の中へ競うようにペダルを漕いでいたーーそれから美幌峠を越えると、阿寒湖をまわり、ミズナラやカラマツ、トドマツなどの緑の美しい道路を、釧路へ向けて快走してきたというわけなのである。

 僕は摩周湖や硫黄山や阿寒湖、砂湯などにあった民芸品店で、職場に菓子折りをふたつと、<はまなすの宿>の女将さんとお早紀さんとおやっさんに、ささやかな土産物を購入しておいた。だがそのお菓子とキーホルダーをすぐに手渡してしまうと、残りの二日の間に三人がまたしても気を遣うといけないと思ったので、八日目に釧路を発つ時まで、鞄の奥深くに隠しておくことにしようと思った。

 僕は綾と、各地の観光名所を訪れながら、この日も前の日も、本当に色々なたくさんのことを話した。もちろんリョウのことも時々話したけれど、この二日の間は、僕は綾と僕自身のこと、綾自身のことのほうをより多く情報交換しあっていた――そして僕にはそのことが嬉しくてたまらなかったのだ。綾がリョウの話をなるべく避けるようにして、自分自身のことを話してくれたり、僕に色々な質問をして、僕自身のことをより詳しく知ろうとしてくれたことが。

 僕は恋人の綾から見たリョウのことを知りたくて、遠路はるばる札幌から釧路まで訪ねてきたはずなのに、この頃にはもう綾の口からリョウの名前がでるたびごとに、嫉妬とも羨望ともつかない感情で、たびたび心を苦しめられるようにすらなっていたから……。


 そして僕は釧路へ来た七日目の朝にもまた、三日目の早朝の時と同じように、河畔公園やフィッシャーマンズワーフのあたりを彷徨い歩き、散歩するふりをしながら、思索を続けた。今日はあの日のようにおそろしいほど先の見えない濃く深い霧はかかっておらず、河畔公園からは北海道の三大名橋のひとつといわれる幣舞橋が、くっきりと鮮明に朝陽に栄えている。僕は堤に打ち寄せるちゃぷちゃぷという、子供が水遊びをしているような波の音を楽しみながら橋の下を歩いてゆき、やがてフィッシャーマンズワーフのほうに抜けると、そこから春と夏を司どる、二体の女性のブロンズの像を見上げた――そして港から入江へと出港してゆく漁船を見送りながら、埠頭でぼんやり考えごとを続けたのだった。

 おとついときのうの二日に渡って、僕は厚岸や根室や阿寒などの方面を綾とふたりで巡り、密接な時間を過ごしたけれど、だがそれは<ただそれだけの時間>であるのに過ぎなかった。僕には綾が必要だったし、綾には僕が必要だとお互いに感じあいながらも、それ以上先の関係になることは決してできないという防波堤のようなものを、僕も綾も同時に感じていたからだ。僕は何度も彼女と手を握ろうとして結局できず、キスをするきっかけやタイミングのようなものを何度も掴んでいながらも、わざと見逃すより他はなかった。綾のほうでもし、ほんの少しでも僕のことを誘うようなそぶりを見せてくれたとしたら、きっと僕は彼女の手をとり、彼女の細い腰の感触を確かめて離すことなく、自分の感情のすべてを打ち明けてしまっていたに違いない……けれども綾は、わざと僕が彼女の横顔を見つめていることに気づかないふりをしていたし、偶然タイミングがふと会ってしまったような時には、故意に僕から身を遠ざけるようにしていた。まるで『そんな目でわたしのことを見ても駄目なのよ。わたしには最初から何をどうしても無駄だということがよくわかってるの。そしてそのためにリョウは死んだのだし、わたしはあなたをこれ以上自分自身の問題に巻きこみたくないのよ』とでも言っているかのように――。

 僕は毎日、明日こそは自分の期待している何かが起きるのではないかと思って待っていたけれど、釧路にいる滞在期間があと二日となったこの日(実質的にはあと1.5日もありはしなかった)、もう自分の期待している何かなど、起こりはしないだろうと確信した。もちろん僕は綾と何も、残り二日の間に急いで肉体関係を結びたいとか、そんなことを考えていたわけではない。ただ、一度でいい、軽いキスでも交わして、自分が綾にとって友達以上の何者かだという、約束をとりかわしておきたかった。キスが駄目なら、ただ抱きしめあうだけでもいい――今日、思いきって彼女に告白してみようか?自分はあの哀れな奴隷アンドロイドのセルジオで、とても苦しい、叶わぬ恋をしている、と。セルジオがアンドローラとの性交を求めていたのではないように、僕も時々、綾の肉体の重みを感じることができたら、それだけで十分なのだ、と――。

『でも京介さんはアンドロイドではなく、生身の、本物の人間の男の人だから、そんなことはとても無理よ』

 そう言われて終わってしまうだろうか?それに僕が綾に告白することは、彼女にとってただ苦しみと混乱しか引き起こさないことなのだろうか?……僕には何もわからなかった。僕には彼女が何もかもわかっているということがわからなかった。

(リョウ、力を貸してくれ)僕は海に近い、紺碧の川の流れに向かって祈るようにそう願った。もしもリョウが僕を、おまえの代わりに綾を引き受けることのできる人間として任命してくれるというのなら、僕は彼女のために、奴隷のようになんでもしよう。そのことがどんなに苦しく、どれほどの時間がかかることであろうと構わない。ただ、僕は今しるしが欲しい。僕がリョウから綾のことを奪うのではなく、彼女を自分とリョウとの間で引き裂くのではなく、リョウが綾のことを僕に任せてもいいと思っている、そのしるしが欲しい。リョウはそのためにこそ僕のことを札幌から釧路まで呼びだしたのだというしるしを……けれども、底の見えない川の緩やかな流れから答えてくれる者の声はなく、僕はやはりすべては僕自身のひとりよがりにすぎないのかと、哀しい思いで波の打ち寄せる音を聞いていた。


 僕は釧路へ来た二日目には、自分自身の意志で札幌から釧路へとやって来たのではなく、リョウに導かれて綾と会うためにここまで来たのだと、強く確信するようになっていたけれど、今やその確信も薄らぎはじめていた。僕はただ、死んだ親友の恋人を奪うことに対する罪の咎めを感じないために、自分勝手な理論を考えだしたに違いない。もしかしたらリョウは草葉の陰で『俺から綾を奪うな』と怒りと嫉妬に燃えているかもしれないのだから……。

 僕は夢遊病者のようにふらふらとした足どりで、埠頭に並ぶ倉庫に背を向けて歩きだした。そしてすべては何も、少しも変わりはしないのだと、諦観の高みに自分を置いて、残りの1.5日のうちにも何も起こりはしないだろうと、すべてを諦めて、川沿いの道をのろのろ歩いて戻った。




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