第9話 戻る
三人は、急がない。
割れたガラスを踏む音が、かかとから順に鳴る。三人は少しずつ左右へ開いていく。真ん中は、肩を撃たれた男だ。押さえた指のすき間で、黒い布が濡れて光っている。
カイの頭は、まだ数えている。
三人とも、手をこちらへ開かない。屋上へ向けたあの手を、カイには向けない。
殺す気なら、もう光っている。
生かしたまま、運ぶ気だ。
ワンの指のそばに立てた缶を、目のはしに一度だけ入れる。それから、走る。
工場の裏の路地へ。右。左。干したシーツの下を、頭を下げてくぐる。洗濯物を取りこんでいた女が、カイの顔を見るなり、窓を音を立てて閉める。
曲がり角のたびに、足の裏が次の道を先に知っている。この体は、何年もこのあたりを走り回ってきたらしい。
背中で、足音が二つに分かれる。一つはまっすぐ追ってくる。もう一つは、どこかへ回りこんでいく。
肩の男の足音は、ついてこない。
細い路地の出口に、黒いコートが一人立っている。回りこんだ方だ。
後ろの足音は、まだ遠い。一対一。
腕が上がり、肩の前で何かを構える形に固まる。足は勝手に開いて、長い物を握る時のように半歩引く。腕と足が、別々のけんかをしようとしている。
黒いコートが踏みこむ。
速い。払った腕ごと、壁に押しつけられる。ひじが、あばらにめりこむ。息が全部、口から押し出される。
カイも返す。手の甲が布の上から頬を打ち、布の下で歯が鳴る。
どちらも下がらない。壁と壁が近すぎて、よける場所がない。
二つ目のひじが、同じ所に入る。
咳が出る。止まらない。体を折ると、口から黒いものがこぼれて、石だたみの上で犬の形になる。
タマ。
黒いコートの目が、下へ落ちる。布の上の目が、跳ねるタマを追いかけている。こいつらには、見えている。
男が、耳もとの小さな機械に指を当てる。
『寄生体、確認。外に出ている』
声は落ち着いている。目だけが、タマから離れない。
そのすきに、体が動く。
二度もらったひじの角度を、あばらがそっくり覚えている。同じ角度で、同じ速さで、そのまま返す。
ひじが、布の上からあごに入る。
骨の砕ける手ごたえが、腕を伝って肩まで来た。
男の膝が抜ける。壁をこすって、ずるずると座りこむ。何か言おうとして、横にずれたあごが動かない。
「しゃべらなくていい。聞いても、どうせ答えねえだろ」
耳の機械をむしり取って、かかとで踏みつぶす。小さな部品が、石の間に散る。
胸に、どん、と重みがぶつかる。タマが戻ってくる。
角の向こうで、足音が近づく。カイは塀に手をかけ、向こう側へ体を落とす。
橋の下は、昼でも薄暗い。
コンクリートの壁には、いつかの夜に石で書きつけた字が、一面に残っている。その前に座りこむと、息を吸うたびにあばらがきしむ。手の甲には、布ごしにぶつけた歯の形が赤く浮いている。
段ボールが、がさりと鳴る。ひげのじいさんが顔を出し、カイの顔をしばらく眺める。
「ひでえ面だな。壁よりひでえ」
「壁は、まだ消してねえ」
「知ってる。毎晩、見てる」
じいさんは、水の入ったペットボトルを一本、黙って転がしてよこす。半分ほど減っている。
ふたを開けて、一口。ぬるい。さびた鉄の味がする。
「金は」
じいさんは首を横に振る。それから壁の字を端から順に眺めて、段ボールの奥へ戻っていく。ほどなく、いびきが聞こえてくる。
何があったのか、じいさんは一つも聞かない。聞かれたら、答えの代わりに何が口から出てくるか、カイには分からない。
日が落ちるのを待つ。胸の中のタマは、朝から一度も動かない。
工場の前に戻ると、空はもう暗い。
ロープは張られていない。警察の車が来た跡もない。割れたガラスが、朝の形のまま道に散らばっている。
向かいの家に明かりがつく。顔を向けると、カーテンがすっと引かれる。
ワンは、下ろした場所にいる。指のそばの缶も、立ったままだ。
缶をポケットに入れ、ワンを背負う。
外階段は一段ごとに鉄の音を返し、そのたびにあばらが同じ所で鳴り、背中のワンは朝よりずっと重く、だらりと下がった腕が一段ごとにカイの腰を軽く叩くので、そのたびに振り返りそうになる首を、手すりをつかむ指の力で前へ向けたまま、最後の段まで上がっていく。
屋上の床に、黒く焼けた跡が二つある。真ん中と、手すりの前。
リーは、そのどちらにもいない。小屋の戸の手前でうつぶせになり、片方の腕を戸の方へ伸ばしている。窓から顔を出していたワンを、中へ押し戻しに行く途中の形だ。
ワンを、リーの隣に寝かせる。ポケットからワンの缶を出して、頭の横に立てる。
手すりの下に、銃をふいていた布が落ちている。立てかけてあったはずの長い銃は、どこにもない。屋上の端から端まで、二度探す。ない。
布を二つに裂いて、二人の顔に一枚ずつかける。
隅に転がっていたワンの包みは、ひもをほどきかけて、やめる。中の重さは、手が知っている。結び直して、ワンの腕に抱かせる。
二人の前に座る。何か言おうと、口を開ける。何も出てこない。名前だけは、朝、あんなに簡単に出たのに。
ポケットから、もう一本の缶を出す。朝、リーに振ってみせた缶だ。
プルタブを起こして、一口。
甘い。
二口目も、甘い。
目は、乾いたまま。
顔にかけた布のはしが、夜風でめくれる。手を伸ばして直す。少しして、また浮く。また直す。三度目に、飲みかけの缶を重しに置きかけて、やめた。
指を折って、日を数える。処理場で目を開けた夜から、今日で五日目。
胸の骨の上を、指で端から順に押していく。骨の裏で、タマは丸くなったまま、爪の先も動かさない。
どこを押しても、痛む場所は見つからない。




