第8話 白い光
缶コーヒーを二本ぶら下げて、カイは外階段の一段目に足をかける。
ゆうべの黒いコートは、一歩踏み出したところで止まった。それきり路地へ消えて、夜が明けるまで戻らない。
二本は、さっき自販機で買ったものだ。小銭を入れたところで、手は一度止まっている。二本。リーの買い方と同じだ。一本はリーに、一本はワンに。
渡す時に、黒いコートのことを話す。ひと晩かけて、そう決めている。
見上げると、屋上の手すりにリーがいる。長い銃を、布でふいている。朝日が、銃身で白く光る。
「何だよ、朝っぱらから。寝てねえ顔だぞ」
「見張ってた」
「何を」
「話がある。下りてこい」
缶を一本、振ってみせる。リーが笑う。
「おごりか。今日は雨だな」
「二本とも、お前らのだ」
「お前の分は」
「忘れた」
「お前が数を忘れるかよ」
リーは銃身に息を吹きかけて、最後のひとふきをする。布をたたむ手つきが、やけにていねいだ。
小屋の窓が開いて、ワンの寝ぐせ頭がのぞく。
「朝からうるせえ。何だ、その缶。毒か」
「待ってろ、今下りる」
リーが、手すりに銃を立てかけて、階段の方へ歩きだす。
その顔から、笑いが抜け落ちる。
目が、カイの背中の向こうを見ている。
振り返る。
右の路地から一人。左の路地から一人。向かいの空き地から、もう一人。足首まである黒いコート。三人とも、目から下を黒い布で隠している。急ぎもせず、まっすぐ工場へ歩いてくる。
「あのコートだ」
上から落ちてくる声が、一瞬、誰のものか分からない。小さな子どもが、声を押し殺しているような声。
リーの手が、手すりの銃へ戻る。
「カイ、来るな!」
今度は、いつものリーの声。
乾いた音が一つ、空気を裂く。
先頭の黒いコートが、半歩よろける。肩を押さえている。この距離を、一発。
よろけた男が、屋上を見上げる。手を、上へ開く。
屋上の真ん中で、白い光がふくらむ。
音は遅れて来る。工場の窓という窓が、いっぺんに割れる。ガラスが道に降りそそぐ。
頬に、細い痛みが一本走る。ぬぐうと、指が赤い。
光の大きさと、窓の割れた順番と、肩を撃たれた男の手がまだ上を向いたままだということから、頭は冷えたまま次の光の場所を手すりの真上と出している。その同じ胸の中で、のどを使わない声が、リー、リー、と、数を並べる頭のすぐ横で何度も同じ名前を呼びつづけている。
煙の中を、ワンが外階段を転がるように下りてくる。手すりにぶつかり、また下りてくる。
「ワン、止まれ!」
自分のものとは思えないほど、かすれた声。
ワンは止まらない。
足が、階段を駆け上がる。
二つ目の光が、手すりの真上でふくらむ。
熱い風。背中を押される。
段が、足の下から消える。
頭は、そこだと分かっていた。分かっていて、体はワンの方へ走っていた。
階段の下で、ワンがくずれている。
膝をつき、体を起こす。左腕の古い傷あとの横から、わきの下へ、ガラスの破片が深くささっている。手で押さえる。ゆうべの湿布が、血を吸って重い。指のすき間から、温かいものがあふれてくる。
ワンの目が、カイの顔を見る。何かを確かめようとする目。
「……カイ」
「しゃべるな」
「お前」
ワンの口が、もう一度動く。声にはならない。唇の形だけが、はっきり読める。
お前、誰。
答えは、ない。四日前から、ずっと持っていない。持っていないものを、ワンは最後まで聞きに来た。
「カイだ」
言っても、ワンの目はもう、どこも確かめていない。
ワンの手から、力が抜けていく。腕の中で、ワンが重くなる。
屋上を見上げる。
手すりの上には、誰もいない。煙が、白くほどけていくだけだ。
――昼の河原。リーが空き缶を並べて、端から撃っていく。全部当てて、こっちを振り向いて、歯を見せて笑う。
その顔だけが、煙の向こうにうまく浮かばない。
道のまん中に、缶が一本転がっている。さっきリーに振ってみせた一本だ。拾うと、まだ冷たい。ポケットに入れる。
もう一本は、ワンの指が届く所に立てておく。
黒いコートが三人、ガラスを踏んで近づいてくる。かかとから鳴る靴。肩を撃たれた男だけが、少し遅れている。
先頭の男の靴が、ワンの手のそばの缶を、ていねいによける。
「手を見せろ」
カイは、空の両手を開いてみせる。ワンの血で、指が赤い。
三人とも、カイの顔を見ていない。胸を見ている。
胸の骨の裏で、爪が一度、深く食いこむ。
サイレンは、どこからも聞こえてこない。近所の窓が、一つ、また一つと閉まっていく音だけがする。
先頭の男が、耳もとの機械に指を当てる。
『確認した。連れていく』
路地の角に、もう一つ影がある。金属の指が、壁の角をつかんでいる。かちり、と小さな音がして、すぐに引っこむ。
カイは、その音を知っている。
立ち上がる。膝についたガラスのかけらが、ぱらぱらと落ちる。
胸の声は、まだやまない。頭は、出口までの歩数を数えている。ワンの唇の形が、目の奥から消えない。
甘いはずの缶が、ポケットの中で冷たい。
「知りたい」
口から出たのは、自分の声だ。
「壊れてもいい」




