第7話 焼肉
「カルビ三皿。まとめて。こいつのおごりで」
駅裏の焼肉屋。煙の向こうで、ワンが店員に指を三本立てる。
「勝手に決めるな」
「四日いなかった分だろ。あと、昼にすった分」
「すったのは俺の金だ」
「だから、お前のおごりなんだよ」
リーが、網の上に肉を並べはじめる。並べ方に迷いがない。煙が、まっすぐカイの顔へ来る。
咳が一つ。
テーブルの下に、黒いものがこぼれる。
タマはワンのいすの脚にすりより、鼻先をぐいと上へ伸ばす。ねらいは、ワンの皿の上の、焼けたばかりの一枚。
「タマ、待て」
タマが、ぴたりと止まる。止まったまま、肉から目を離さない。
ワンが顔を上げる。
「タマ?」
「犬の名前」
「犬にタマ?」
ワンはいすの下をのぞく。何もいない。
「どこに犬がいるんだよ」
カイは、自分の胸を親指で指す。
「ここ」
「酔ってんのか」
「まだ水しか飲んでねえ」
タマが、つまらなそうに胸へ跳びこんでくる。ワンは首をかしげたまま、狙われていた一枚を口に入れる。守りきった顔だ。
カイは網の上の一枚を、じっと見ている。
ふちが縮む。赤が、はしの方から茶色に変わっていく。真ん中の色が変わる瞬間を、見逃したくない。一分。二分。
「焦げるぞ」
三分目に、リーが横からその一枚を取っていく。
「前は生でも食ってたくせに」
ワンが、ビールの缶を開けながら言う。それから、箸の先でカイの顔を指す。
「なあ。俺の誕生日、言ってみ」
「十月の三日」
考えるより、口の方が早かった。
「……合ってる」
ワンが笑う。昼間より、声が大きい。
「何だよ、それ」
「別に。確かめただけ。合ってた、合ってた」
ワンは肉を二枚まとめて口に入れる。
カイは、網の向こうのリーを見る。
「なあ。俺、何で実験なんか行ったんだ」
リーの箸が、肉の上で一度止まって、また動く。
「借金だよ。お前の。取り立ての連中が、ここらまで来そうになってな」
「それで、金のいい方に」
「これで最後だって、お前は言った。金目的は、これで最後だって」
「借金は、消えたのか」
「知らねえ。取り立ては、ぱったり来なくなった。それが一番気味わりい」
知らない借金。知らない約束。どっちも、払ったのはこの体だ。
ワンの左腕に、新しいあざがある。古い傷あとの、すぐ下。昼の客席で、酔った客とぶつかった跡だろう。
「貼ってやる」
店の救急箱から、湿布を一枚もらう。フィルムをはがして、あざの上に乗せる。指が、湿布の角を三回なでる。
ワンが、自分の腕を見下ろす。
「それは、前と一緒だな」
「何が」
「角のとこ。三回なでるやつ。お前、昔からそれだけはうまい」
ワンは肉を一枚、裏返す。
「肉の焼き方が違う。パチの打ち方も違う。殴り方も違う。で、湿布だけ一緒」
口は笑っている。箸は、止まっている。
湿布のはしが、浮いてくる。カイは指で押さえる。押さえても、またじわりと浮く。
リーが、缶の底でテーブルを軽く叩く。
「変わったっていいんだよ。生きてりゃ」
ワンは何か言いかけて、箸を置く。
リーは、網の上の肉を裏返しながら、目を上げない。
「うちの親父なんか、変わる暇もなかった。黒いコートが来て、管理局に連れてかれて、それっきり。俺が五つの時」
「戻ってこなかったのか」
「戻ってこねえよ。あそこに連れてかれた奴は」
肉を裏返す。もう裏返す所がないのに、また裏返す。
網の上で、脂がはねる。三人とも、しばらくその音を聞いている。
「次は、十万の肉を食わせてやる」
カイが言うと、リーが顔を上げて笑う。
「そういうのは、勝ってから言え」
「今日、一回勝ったろ」
「一回負けたろ」
ワンが、ようやく声を出して笑う。
「十万の肉を三分ずつ見てたら、朝になるぞ」
「お前なら本当にやる。だから怖えんだよ」
会計で、ケースから一万札が一枚と、小銭が少し消える。
店を出ると、雨上がりの道が光っている。
工場まで、三人で歩く。リーが前を行き、ワンが少し遅れてついてくる。
角の自販機の前で、リーが足を止める。缶コーヒーを二本買って、一本をワンに、一本をカイに投げる。
「お前の分。甘いやつ」
「リーの分は」
「腹いっぱいだ」
リーが買うのは、いつも二本。自分の分は、最初から数に入っていない。
「泊まってけよ。小屋、広くはねえけど」
「橋の下で寝る」
「物好きめ」
リーとワンは外階段を上がり、屋上の小屋に入っていく。窓に灯りがともる。
カイは橋の方へ足を向けて、止まる。
通りの向こう、街灯の下に、男が一人立っている。
足首まである黒いコート。六月の夜に。袖から出た手に、白い手袋。
男は、工場の屋上を見上げている。足もとの水たまりに街灯が映っていて、その光が少しも揺れない。
胸の中で、タマが毛を逆立てるみたいに縮こまる。
右手が、腰のあたりを探る。何もない。拳銃は、ワンの包みの中だ。
外階段を上がって、二人を起こすか。そうすれば、リーはまた眠らずに夜を明かす。四日寝なかった男だ。
カイは自販機の影に腰を下ろす。もらった缶を開けて、少しずつ飲む。屋上の灯りを見ながらだと、なかなか減らない。
屋上の灯りが消える。
通る車を数える。十二台目で、やめる。数えている間は、街灯から目が離れる。
缶が空になる。
街灯の下の黒いコートが、屋上の方へ、一歩動く。




