第10話 残り
夜が明けても、屋上には誰も来ない。
カイは二人の顔の布を最後にもう一度直して、外階段を下りる。どこへ行くとも決めないうちに、足は西へ向いている。
工場の並びを抜けると、排水のにおいが濃くなる。低いトタン屋根が肩を寄せあい、柵のところどころに穴があいている。西のスラムだ。知らない町のはずなのに、足は一度も迷わない。
柵をくぐると、道ばたでトマトを並べていた女が顔を上げる。
「あら、カイちゃん。早いね。リーは一緒じゃないの」
答えが、どこにもない。開いた口から何も出ないまま、カイは女の前を通りすぎる。
足が止まるのは、小さなタバコ屋の前だ。
店先の丸いすに、白髪まじりの男が座っている。
「レイドさん」
考えるより先に、名前が出る。
「カイか。リーとワンはどうした」
「死んだ」
くわえたタバコの先から、灰がひとかけら落ちる。少しおいて、残りがもうひとかけら落ちる。
レイドは長いあいだ黙っている。それから、店の奥へ声を投げる。若いのが二人、顔を出す。
「工場の屋上に二人いる。連れてこい。あいつらはここで生まれた。ここに埋める」
若いのが走っていく。
「誰にやられた」
「黒いコート」
「なら、誰も来ねえ。警察も、近所もな」
「何で」
「この辺の水は、北のダムから来る。ダムを握ってるのは管理局だ。にらまれた家は、次の朝に蛇口が乾く」
レイドは、足もとの排水のみぞを見る。
「だから、みんな窓を閉める」
レイドの手が、店の小窓の戸にかかる。閉めかけて、そこで止まる。
「俺も、閉めてきた」
手は戸から離れない。閉めもしない。開けもしない。
吐いた煙が、まっすぐカイの顔にかかる。のどがむずがゆい。咳が一つ、二つ。
足もとに、黒い霧がこぼれる。
レイドの指から、タバコが落ちる。丸いすの脚が、かたかた鳴りだす。膝が震えている。
「見えるのか」
「昔、一度な。荷の護衛をしてた頃だ。あれから、見える目になっちまった」
それきり、レイドは口を閉じる。
タマは落ちたタバコを鼻先でつつき、くしゃみをする。小さな霧の輪が一つ、店先に浮いてほどける。それから、こぼれた砂糖を見つけて、熱心になめはじめる。
「……うちの砂糖だ」
「後で払う」
「犬の分まで取るほど、落ちぶれちゃいねえ」
タマは気がすんだのか、カイの胸へ跳びこむ。レイドは新しいタバコをくわえ、二度、火をつけ損ねる。
「高架下の、義手の男を知ってるか」
「レムルか。昔、管理局の下働きをしてた奴だ。追い出されて、ずっと戻りたがってる」
「工場の角に、あいつの指が見えた」
三度目で、火がつく。
「なら、もう近づくな。少なくとも、今はな」
レイドは煙を吐いてから、カイの顔を下から上まで一度だけ見る。
「寝る所はあるのか」
「ない」
「二階が空いてる。家賃はいらねえ。代わりに、夜は柵の番をしとけ」
カイは、ポケットの革のケースに手をやる。
「金なら、ある」
「しまっとけ。どうせ三日で溶かす」
同じことを、何年も前から言いつづけてきた声だ。
――雨の中を走っている。タバコの箱を胸に抱えて。ぬれた箱を差し出すと、店先の男が笑う。その髪は、まだ黒い。
カイは、レイドの白い頭を見る。それから、黙って二階への階段を上がる。
部屋には、窓が一つと、うすい布団が一枚。
布団の上に、ケースの中身を広げて数える。十万と少し。坂の上の修理屋が言った五十万まで、あと四十万。
ポケットから、空になったリーの缶を出す。窓のへりに立てる。西日が来れば、光るはずだ。
下の道を、子どもが二人、空き缶を蹴って走っていく。一人が見上げて、手を振る。
「カイ兄ちゃん!」
手が、先に上がっている。誰に振り返しているのか分からないまま、その手を下ろす。
横になると、眠りはすぐに来た。
目を覚ますと、窓のへりで缶が光っている。
階段がきしむ。レイドは顔だけ出して、入り口の棚に紙袋を一つ置く。中で、パンが二つ転がる音がする。
「埋めてきた。水場の裏の、日の当たる所だ」
「助かる」
「並べといた。リーが右だ。あいつは昔から、右に寝ねえと文句を言う」
「ワンは」
「どっちでもいいって顔で寝てる。いつもどおりだ」
レイドの目が、窓のへりの缶に止まる。何か言いかけて、タバコをくわえ直す。
「パンは固くなる前に食っとけ。日が落ちたら、柵だ」
返事を待たずに、足音が階段を下りていく。途中で、ライターの音が一つ鳴る。
「面倒なのを拾ったな」
ひとりごとと煙のにおいだけが、上がってくる。
初めての番の夜は、静かだ。
酔った男が二人、肩を組んで通りすぎる。猫が一匹、柵の下をくぐる。それだけで、東の空が白みはじめる。
柵を離れると、足は水場へ向いている。さびた鉄の水タンクの裏に、土を盛ったばかりの場所が二つ並んでいる。
かける言葉は、まだ見つからない。
タンクの向こうで、水の音がする。
背の低い男が、地面にバケツを並べている。どれも、排水みたいに濁っている。
男が両手を沈め、泥水をすくい上げる。
手の中で、水が二つに分かれる。




