第11話 分離
泥水が分かれる。
男の指のすき間から、すんだ水だけが落ちていく。手の中に残るのは、黒い泥のかたまりだ。
カイはバケツの前にしゃがみこみ、そのまま動かない。
二杯目。男がまた両手を沈める。濁りが手のまわりから引いていき、底に泥が沈む。消えたのではない。水と泥が、別々にそこにある。
三杯目。油だけが上に浮いて、白く固まる。
四杯目。タンクの影が、地面の上でじわじわ短くなる。
五杯目に手を入れたまま、男がとうとう顔を上げる。四十前後の、眉の下がった顔だ。
「見すぎだ」
濡れた手を、ズボンでぬぐう。一回。
「水がほしいなら並べって。順番があるんだ。朝はみんな機嫌が悪いし、おれだって機嫌が悪い。お前、どこの家の者だ」
「水はいらねえ。見てるだけだ」
「見て楽しいもんじゃないだろう」
「楽しい」
男の手が、もう一回ズボンをぬぐう。
「あんた、消してないな」
「何だって」
カイは、五杯目の底を指さす。
パチ屋のくぎの上で見たのと同じ、細い線が、目の前に重なる。
線は太くなり、バケツのふちをなぞって、水と泥の境目を走る。指の付け根が、内側からむずがゆくなる。
青い針が三本、音もなく伸びる。二本はバケツの水へ、一本は水の中の男の手首へ。
刺さった所から、見える。男の手首の奥を、水の通り道が細い管のように走っている。ふつうの手なら、水は指のあいだをそのまま抜ける。この手は違う。指の付け根で、水が二つに割れる。重い方だけが、底へ押しやられていく。
《水》《泥》《分かれて、離れたもの》
処理場の木箱と、同じ字だ。
あの字は、古い板や紙の上にだけあるものだと思っていた。人の手首の中にも、同じ字が流れている。
カイは、バケツに素手を入れる。冷たい水が指を包む。男の手のぬくもりと、泥だけを底へ押していく指の向きが、そのまま伝わってくる。何千回もくり返して、体にしみついた動きだ。
男が手を引きかけて、止まる。自分の手首を見る。何も刺さっていない。
「今の、何だ。何か、取られた気がする」
「知らねえ」
本当に知らない。出し方も、しまい方も。針はもう、細かい光の粒になってほどけている。
胸の骨の裏で、爪がひとつ、内側から押す。タマも、何かに気づいている。
「あんたの力は、水をきれいにする力じゃない。混ざったものを、分けてるんだ」
男は、自分の濡れた手を見下ろす。ズボンでぬぐう。三回目。
「生まれつきの、ちっぽけな因子だって。二十年、ここの水を守ってきたんだ。きれいにする力だって、みんな言うじゃないか。おれもそう言ってきたし、そう思ってたし、それで別に困ってなかったし」
「試していいか」
カイは、タンクの脇の屋台で茶を一杯買ってくる。紙コップの中で、茶葉のかすが回っている。
「茶と、水と、かすに分けてくれ」
「茶なら、そのまま飲めばいいじゃないか」
「飲んだら、分けられねえ」
男は口の中で何かぶつぶつ言いながら、指を一本沈める。
コップの中が、静かに動きだす。かすが底に沈む。真ん中に茶色い層ができて、上だけが透きとおっていく。三つの層が、紙コップの中にきれいに重なる。
カイは、いちばん上をすする。
「うまいな」
「水だからな」
「助かる。いいもん見た」
男の口が、とがる。
「礼を言われるようなことじゃないって。水を分けただけだって。キールだ」
「カイ。レイドさんの店の上にいる」
「ああ、柵の番の新入りか。工場の方から来たって聞いたぞ」
キールの目が、タンクの裏の二つの盛り土へ、ちらりと行く。それから急に、今朝の水の濁り具合がいつもよりひどい、という話を始める。雨のあとは上の方の泥が流れてくるんだとか、管が古いんだとか、止まらない。
カイは、その話を最後まで聞く。
昼、柵のそばの雑貨屋で、いちばん安いノートを買う。最初のページに今朝の字を写し、その下に「寄生体」とだけ書き足す。黒いコートが、タマを呼んだ名だ。
ページを閉じても、指の付け根にぬるい熱が残っている。
夕方、柵の番に出ようと階段を下りると、レイドが店先で待っている。
黙って差し出されたのは、スマホだ。画面の角が割れていて、裏に缶コーヒーのおまけのシールが貼ってある。
「リーのポケットに入ってた。お前が持ってろ」
「俺でいいのか」
「ほかに誰がいる」
レイドの灰が、二回に分けて落ちる。
「キールのとこで、半日しゃがんでたそうだな」
「見てただけだ」
「あいつ、昼すぎにうちへ来て、おれは何か取られたのかって三回聞いてった。お前、何をした」
「水を見た」
「水を見ただけで、大の男が三回も来るか」
「四回目が来たら、俺が出る」
レイドは鼻から煙を出して、店の奥へ引っこんでいく。
手の中のスマホは、思ったより重い。指が画面に触れて、明かりがつく。
待ち受けの写真。川べりで、少年が三人、肩を組んで笑っている。
左のやせた子が、リー。右の小さい子が、ワン。
真ん中で歯を見せている少年の顔に、覚えがない。




