第12話 開けない
親指が、迷わず四つの数字を打つ。画面が開く。
打ち終わってから、それがリーの誕生日だと分かる。数字を覚えているのは、頭ではない。指だ。
なら、待ち受けの真ん中で笑っている少年も、この指の持ち主だ。川べりで二人に肩を組まれていたのは、この体だ。中にいたのは、自分ではない。
店先には、もう誰もいない。奥でラジオが小さく鳴っている。
画面に、やりとりの一覧が出ている。相手の名前は、カイ。
リーの吹き出しが、縦に並んでいる。日付は先月の終わりから、処理場で目を開けた夜の前の日まで。どれにも、既読の字がついていない。
開かなくても、一行目だけは見えてしまう。
【おい、どこにいる】
【研究所に電話した。そんな人間はいません、だとよ】
【屋上で待ってる】
同じ一行目が、日付を変えて何度も並んでいる。屋上で待ってる。屋上で待ってる。四日分。
指で画面を送るたびに、吹き出しが一つずつ下から上がってくる。
いちばん下の見出しが、少しだけのぞいている。焼肉、の二文字。
親指が、その上で止まる。割れた角が、指の腹に引っかかる。
押せば読める。目を開けてから、読めるものを読まずにすませたことは、一つもない。ファイルの黒塗りも、木箱の字も、指でこすってまで読もうとしてきた。
なのに、指が下りない。
焼肉屋の煙の中で、リーは肉を裏返しながら、目を上げずに父親の話をした。その声が、まだ耳の奥にある。ここを押せば、あの声の続きが出てくる。自分あてではない言葉で。
画面を消す。二階に上がり、スマホを窓のへりに置く。リーの空き缶の隣に。
缶と黒い画面が、並んで西日を返している。
次の夜も、柵の番に出る。
真夜中の手前で、柵の内側にタバコの火が一つ灯る。
「寝てねえな」
「寝てねえ。数えてた」
「何を」
「屋根。百十二」
「数えて、どうする」
「明日、一つ減ってたら分かる」
「減るか、屋根が」
「昨日は百十三だった」
レイドは返事の代わりに、煙を長く吐く。灰を、二回に分けて落とす。
「スマホ、どうした」
「窓のへりに置いてきた」
「持って歩かねえのか」
「ポケットに入れると、重い」
レイドの火が、一度だけ強く赤くなる。
「中は、開いたか。リーの奴、番号は誰にも教えなかったぞ」
「指が知ってた」
「見ないのか、中」
「開いた。開いたけど、見ない」
「そうか」
レイドは、それ以上何も言わない。
足が勝手に道を選び、口が勝手に名前を呼び、指が勝手に数字を打つ。この体で目を開けてから、ずっとそうだ。その中で、止まることだけは、自分で選んだ。それが正しいのかどうかは、まだ分からない。
悲鳴は、その少しあとに上がる。大きな交差点の方だ。
レイドが懐中電灯をつかむ。目が合うと、あごで交差点を指す。
人のいない道で、信号の黄色だけが点滅している。
交差点の真ん中に、人が倒れている。近づくと、一人なのに、形が二つある。
背広の男が、肩から腰へ、斜めに二つになっている。
切り口は、まっすぐだ。同じ線がアスファルトにも走り、交差点を横切って、向こうの電柱の根元まで続いている。電柱も斜めに切れて、上の方がこぶし一つぶんずれて止まっている。
道の端で、買い物袋を落とした女が座りこんでいる。みかんが一つ、線の手前まで転がって止まっている。
「立てるか。家に帰れ。振り向くな」
レイドが女の腕を引いて立たせる。女はみかんを拾わずに、暗い路地へ走っていく。
まわりの窓が、一つずつ閉まっていく。
胸の奥で、タマが小さく縮んでいく。
懐中電灯の光の輪が、線の上で細かく震えている。
「黒いコートか」
「違う。あいつらに、こんな真似はできねえ」
レイドはタバコを出しかけて、箱ごとポケットに戻す。
「番号持ちだ。NOって呼ばれてる。首か胸に番号を下げた連中で、番号が小さいほど上だ」
「闘技場に、290ってのがいた」
「二百番台は下っ端だ。小遣い欲しさに拳を売るのもいる。これは、うんと小さい方の仕事だ。今の番号は知らねえが、番号がもっと小さい連中でも、あれより切れる奴はいねえって話だ」
レイドの声が、いつもより低い。
「NOを見たら、逃げろ。勝つとか負けるとかの話じゃねえ」
カイは、倒れた男の上にかがむ。安物の背広。胸ポケットから、つぶれたタバコの箱と、角のそろった紙の束がのぞいている。指が伸びかける。
レイドの懐中電灯が、その指を照らす。
「さわるな。死人の持ち物だ」
指を引っこめる。紙の束の一枚目に何が書いてあるのか、それだけが、目の奥に引っかかって残る。
線は、交差点の向こうの暗がりから来ている。切った者は、ここにいない。ずっと遠くから、一度で切っている。
肉も、骨も、アスファルトも、電柱も、同じ一本の線だ。刃の跡が、どこにも見えない。
どうやったら、ああなる。
指の付け根が、むずがゆい。
読みたい。あの線の中に、何が書いてあるのか。
「帰るぞ」
レイドの手が、カイの腕をつかむ。指が、骨まで食いこむ強さだ。タバコのない口は平らなまま、手だけが震えるほど強い。
「カイ」
それでも、足は動かない。




