第4話 タマ
「知らねえ」
カイは正直に言う。
「気づいたら、読めた」
灰色の目が、カイの顔から額へ移り、また戻ってくる。
「五十万、持ってこい。そしたら裏を見せる」
「さっきは、売りもんじゃないって」
「見せると言っとる。売るとは言っとらん」
「けちくせえ」
「それまで、その字のことは誰にも言うな。読めることもだ」
「何で」
老人はもう、本の方に向き直っている。答えは来ない。戸を閉める時、ガラスごしにのぞくと、老人の手は止まったまま、目だけが額の方を向いている。
自動ドアが開いたとたん、音の壁。何百台もの台が、いっぺんに鳴っている。
駅前のパチ屋。天井の近くに、タバコの煙が白くたまっている。ここで咳が出たら終わりだ。息を浅くする。
「お、来た」
通路の奥で、リーが手を上げる。
「仕事のない日は、ここが事務所なんだよ。お前もそうだったろ」
リーの左隣が、一つだけ空いている。体は迷わず、そこに座る。
「金目的は、やめるんじゃなかったのか」
「これは紙目的だ」
「紙?」
「紙」
紙幣を一枚、台に入れる。ハンドルを回すと、銀色の玉が次々に飛び出し、くぎに当たってはね、ほとんどが下へ落ちていく。
カイは玉を見る。どのくぎに当たって、どちらへはねるか。当てようとはしない。見るだけ。
「お前、まばたきしろよ」
一枚目が、見ているうちに消える。二枚目。ケースに残るのは、あと一枚。
くぎの頭に、細い線がちらりと重なる。消える。また重なる。線をつないでいくと、玉の通り道が浮かんでくる。この角度なら、三本目のくぎで右へはねて、真ん中の穴へ落ちる。
ハンドルを、ほんの少し戻す。そこで手を止める。指は、もう一ミリも動かさない。
玉が、真ん中の穴に吸いこまれる。次も。その次も。
十。三十。五十。百を過ぎたところで、数えるのをやめる。外れが一つもないと、数える意味がない。
「おい。全部入ってねえか」
返事をしない。口を開くと、線がずれる気がする。
「俺の台も、それやれ」
「目が二つしかねえんだよ」
リーは自分の台に戻る。そのくせ、首がだんだんこっちの皿の方へ傾いてくる。そのうちリーの玉が尽きる。リーは台を叩かずに、自分のすねを一発叩く。
「いってえ」
「何で自分を叩くんだよ」
「台は高えんだよ」
「マジかよ」
いつのまにか、後ろにワンが立っている。缶を片手に、カイの皿をのぞきこむ。
「前に一万発出したよな。三人で焼肉行ったやつ」
「出したな」
「出してねえよ」
ワンは笑う。カイの顔から目を外さないまま、笑うだけで、何も足さない。
口が、知らない思い出に勝手にうなずいた。玉の道は一つも外さないのに、こっちは一発で外している。
天井のテレビが、ニュースを流している。中央国の工場の町で、生まれつきの力――因子を持つ男が暴れたらしい。誰も画面を見ていない。
リーだけが、ちらりと見上げる。
「あいつ、明日にはいねえな」
「何で」
「黒いコートが来る。因子持ちが目立つと、いつもそうだ」
ワンが、リーの肩を軽く小突く。リーはそれきり黙って、空の皿を見ている。
しばらくして、腕を組んだ店員がカイの台に札をぶら下げる。
「本日は、ここまでで」
「まだ出るぞ」
「だから、ここまでで」
リーが吹き出す。
換金所は、店の裏の小さな窓口だ。中で、じいさんがタバコをふかしている。煙が、すき間から流れてくる。
しまった、と思った時には、もう咳きこんでいる。
足もとに、犬が形になる。
窓の横の小さな画面に、防犯カメラの映像。映っているのは、咳をする作業着の男が一人だけ。床に落ちる影も、一人分。
カイの目には、自分の足もとに、もう一つ犬の形の影が落ちているのに。
「お前、本当に誰にも見えないのか」
犬は答えない。
ポケットの中で、指が硬いものに当たる。銀色の玉が一つ。台から転がりこんでいたらしい。
手の中で転がす。犬の赤い目が、その動きを追う。右。左。右。
「タマ」
口にしたとたん、犬の形がきゅっと締まる。ぼやけていた輪郭がはっきりして、耳の先がとがる。前足の下で、床のほこりがかすかに動く。
重さが、できた。
「タマ。今日から、それな」
タマは尻尾を一回だけ振る。気に入ったのかどうかは、分からない。
何かに名前をつけたのは、生まれて初めての気がする。生まれて、がいつなのかも知らないくせに。
「兄ちゃん」
窓口から、札の束が出てくる。じいさんが、ここで初めて顔を上げる。
「読める奴は、高く売れる。命が惜しかったら、ほどほどにな」
手の中の札が、急に重くなる。
台のことだ。台が読める、という話だ。そうに決まっている。じいさんはもう、次の客の札を数えている。
十二万と少し。五十万には、まだ遠い。
裏口から、リーがあくびをしながら出てくる。
「なあ。咳をすると黒い霧が出る、みたいな話、聞いたことあるか」
「なんだそれ、怪談か」
リーは天井を見上げて少し考え、それから指を鳴らす。
「霧の犬の話なら、高架下のレムルが管理局のごみを売ってる。紙もある」
「紙もあるのか」
「口の軽い奴だぞ。財布ごと持ってかれんなよ」
リーの声を半分聞きながら、札の束をポケットの奥へ押しこむ。
五十万には遠い。それなのに、足はもう、高架の方を向いている。




