第3話 修理屋
壁から写した紙を握って、坂の上の店のガラス戸を押す。
ここへ来るまでに、坂の古本屋三軒で、紙を見せる前から手を振られている。四軒目はパン屋で、紙より先に焼きたてのにおいに負けかけて、ケースの三枚を数え直してやめた。
戸の内側に、白い字が貼ってある。
【本の修理 タリム】
のりのにおい。古い紙のにおい。濃いお茶のにおい。
奥の机で、白髪の小さな老人が、ばらばらの本を一枚ずつ並べている。紙のはしを指ではじいて厚さを確かめ、また並べる。客が入っても、顔を上げない。
手に、むだが一つもない。細い線が老人の輪郭に重なりかけて、途中でぷつりと切れる。
まばたきする。もう何も見えない。
「こういう字の本、ないか」
紙を机の上に置く。老人は目だけを一度やって、すぐ手もとへ戻す。
「ない」
「見てから言えよ」
「見たわい。そんな字の本は、この町のどこにもありゃせん」
机の横の壁に、ガラスの額が一つかかっている。
中に、茶色く焼けた切れ端が一枚。はしがぼろぼろに欠けている。表に、焼きつけたような線が並んでいる。
木箱と、同じ字だ。
「本はないけど、紙はあるじゃねえか」
「紙じゃない。獣の皮を、紙みたいに薄うしたもんだ。二千五百年より前のな。学者が十人来て、十人とも首を振って帰りよった」
「十一人目だ」
「学者は、そんなぶかぶかの靴は履かん」
「履いてる学者もいるかもしれねえだろ」
「おらん」
老人は、とじ糸の玉を引き出しから出す。目は、まだ本の方だ。
「見るだけなら、ただだ。さわるな」
「ただは好きだ」
額に顔を寄せる。寄せすぎて、ガラスに鼻がつく。
「さわるなと言っとる」
「鼻だ」
「鼻もだ」
一歩下がって、線を一本ずつ目で追う。追った分だけ、意味が先に入ってくる。
読む、というのとは違う。看板の字なら、目で拾って、頭で組み立てる。これは組み立てる前に、もう意味の形をしている。誰かの声で、耳もとに置かれるみたいに。
その誰かが、自分なのかどうかは分からない。
窓からの光が、床の上をはっていく。老人が湯のみにお茶を足す音が、二度する。腹が鳴る。放っておく。
耳の奥で、乾いた音がする。木のおわんの中を、小さな骨が転がるような音。
「三つ振って、目がそろわなければ、羊を二頭。そろえば、川向こうの畑を一年」
声に出している。
背中で、紙をはじく音が止まる。
「見届けたのは、粉屋の……名前のとこは欠けてる。これ、サイコロの賭けの約束だ」
頭が勝手に、勝負の中身をはじく。三つの目がそろうのは、めったにない。そろわない方が、ずっと出やすい。
「こいつ、損な方に張ってるな。そろわなきゃ羊二頭なんて、最初から渡してるのと同じだ」
言ってから、舌の上に変な味が残る。張る。そろう。降りる。どれも、使い慣れた言葉みたいに口になじむ。賭けなんて、した覚えはないのに。
羊二頭を損な方に張った奴が、それでも振った理由。それが知りたい。裏に、あるかもしれない。
紙をはじく音が、また始まる。さっきより少し速い。
最後の線は、はしで切れている。裏にも、線が透けている。
気づくと、指が額のふちにかかっていた。
「裏が読みたい。見せてくれ」
「だめだ」
「じゃあ買う。いくらだ」
「売りもんじゃない」
「いくらなら、売りもんになる」
長い間がある。老人は一枚を並べ終え、次の一枚を取る。
「五十万」
作業着のポケットから、革のケースを出す。紙幣は、パン屋の前で数えた時と同じ三枚。何度開いても、四枚にはならない。
「まけてくれ」
「値下げはせん」
「一枚もか」
「一枚もだ」
「増やしてくる」
「どこでだ」
「パチ屋」
「この坂を上ってくる奴は、みんな同じ顔をしとる。読めんものを読みたがる顔だ。お前のは、それより悪い」
「どう悪い」
「読めとる顔だ」
老人は笑わない。お茶をすすって、湯のみを置く。
「字は、読めんでいい。読める奴から順に、いなくなる」
「いなくなったら、誰が読むんだ」
「誰も読まんでいい」
老人の指の先で、本のとじ糸が一本、音もなく二つに切れる。
はさみは、机のはしに置いたままだ。刃物は、どこにもない。
カイの目は、切れた糸の端に吸いつく。切り口が、まっすぐすぎる。引きちぎった糸なら、毛羽が立つ。これは、立っていない。
「今の、どうやった」
返事はない。老人は切れた糸を指でつまみ、新しい糸に替えはじめる。針に糸を通す手は、少しも震えていない。
「爪か。指に何か仕込んでるのか」
「年寄りの指に、何を仕込む」
「じゃあ、どうやった」
二度聞いても、手は止まらない。止まらない手の方が、答えより多くをしゃべっている気がする。知らない方がいい、と言っている手だ。
知らない方がいいものほど、知りたくなる。
胸の中で、霧の犬が身じろぎする。内側から、何かのにおいをかいでいる。
老人が、初めて顔を上げる。
灰色の目。まばたきをしない。紙を見る時と同じ目で、カイを見ている。
「その字を、どこで習った」




