第2話 生きてたな
夜明け前、道を選んでいるのは足の方だ。
路地を三つ曲がり、さびた外階段を上る。廃工場の屋上に、給水塔が一本。はしごの三段目に、手のあぶらで黒く光る所があって、指がちょうどそこにかかる。
てっぺんに腰を下ろしたところで、下の鉄の扉が鳴る。
胸の中で、霧の犬が身を縮める。
「カイ!」
男が一人、屋上を走ってくる。やせた体に、すり切れた上着。目の下が黒い。
知らない顔だ。そう思うより先に、舌が名前を転がしている。
「リー」
リーがはしごに飛びつく。三段、四段。
五段目のボルトに、細い線が重なる。そこだけさびの色が濃い。ねじ山がやせて、穴がゆるく広がっている。
「そこ、踏むな!」
遅い。リーの足が五段目に乗り、ボルトが抜ける。はしごが鳴る。カイは身を乗り出して、リーの手首をつかむ。引き上げる。腕の方が、人の重さの扱い方を知っている。
ボルトが、下のコンクリートで乾いた音を立てる。
「何で分かった」
「色が違った」
「見えるか、普通」
上がりきるなり、リーはカイのえりをつかむ。殴られるのかと思う。つかんだ指が、布ごしに震えている。
「四日だぞ。四日、なんの連絡もなしに」
「……助かる」
「何がだよ」
リーはえりを放し、ポケットから缶コーヒーを出して、カイの胸に投げつける。痛い。
ふたを開けて、一口。
甘い。思っていたより、ずっと甘い。のどがびっくりして、カイはむせる。
口から、黒いものがこぼれる。膝の上で、犬が形になる。
リーは背中を向けて、下へ手を振っている。
「ワン、上だ! 生きてたぞ!」
犬の耳が、ぴんと立つ。お前を呼んだんじゃない。
「戻れ」
声を殺して言う。犬は動かない。
「頼む。戻ってくれ。あとで缶をやるから」
リーが振り返る寸前、犬は胸へ跳びこむ。爪の感触が、さっきより乱暴だ。
「むせたのか」
「甘すぎる」
「いつもの味だろ」
いつもの味、らしい。カイはラベルを読む。読んでも、何も思い出さない。
はしごが鳴って、もう一人。リーより若い。左腕に古い傷あと。黒い布の包みを抱えている。
「マジで生きてる」
リーがポケットのもう一本を放る。ワンは受け取って、飲まずにしまう。それから、カイを上から下まで眺める。
「なにその格好。病院から逃げてきたの?」
「似たようなもんだ」
「靴、でかくねえか」
「借りた」
「誰に」
「死んだ奴」
「朝から冗談きついって」
冗談ではない。黙っておく。
ワンが包みをほどく。中身は拳銃。
「預かってたやつ。ねらいが右にずれてたから、直しといた」
手に取ると、指の方が先に動く。弾の箱を抜く。残りを目で数える。戻す。上を引いて中をのぞき、ばらして、組む。十を数える間もない。
終わってから、自分の手を見る。
ワンも見ている。口は笑ったまま、目だけがカイの右手に止まっている。
「で、実験どうだった」
「覚えてねえ」
「金は」
「もらった覚えがねえ」
ポケットの革のケースのことは、黙っておく。
「研究所に電話したら、そんな人間はいません、だとよ」
リーが、缶の底でコンクリートを叩く。
「いねえことにされてたか」
「ひでえのは、お前だぞ。行き先も言わねえで」
「言ったじゃん」
ワンが、自分の缶をポケットの上から叩く。
「東の研究所の、なんとか募集だろ。最後の仕事だって、出てったじゃん」
東の研究所。ゆうべのフェンスの向こうだ。
壁の札は、誰かが貼っていったものじゃない。この体が自分で並んで、もらってきた番号だ。
「羽蟻ん時から変わんねえよな、こいつ。あれ何時間だっけ」
「三時間だろ」
答えが先に出て、絵はあとから来る。
――地面の割れ目から、赤茶色の羽がわいてくる。しゃがんだまま、日が暮れる。
知らない夕方だ。しゃがんだ膝の痛みだけが、いやに本物だ。
「三時間見て分かったのは、あいつらも迷うってことだけだ」
ワンが吹き出す。
「気持ち悪っ。何でそんなの覚えてんだよ」
リーは笑わない。給水塔のふちから、下を見ている。
「もう、ああいうのはやめろよ」
「金目的は、もうやめとく」
言うつもりのなかった言葉が、するりと出る。
リーが顔を上げる。
「それ、前も聞いた」
前の自分は、同じ約束をして、破った。約束の言葉だけが、口の中に残っている。噛むと、缶コーヒーより苦い。
夜、川の橋の下で寝床を探す。
段ボールの上に、作業着がたたんで置いてある。乾いていて、大きさも、まあ合う。袖に、どこかの会社の名前の縫いとり。誰が置いたのかは、分からない。検査着の上から袖を通す。
目を閉じると、木箱の線が浮かぶ。浮かんだまま、消えない。
河原の石を拾って、コンクリートの壁に線を引く。浮かんだ形を、そのまま写す。
一つ引くと、次の形が気になる。次を引くと、前の曲がり方が気になる。もう少し右だ。引き直す。
川の音が遠くなり、石の音だけが残る。
段ボールの山が、がさりと鳴る。
ひげだらけのじいさんが、顔を出す。先客らしい。じいさんは壁を見て、カイを見て、また壁を見る。
顔を上げると、空が白い。壁は腰の高さから頭の上まで、線で埋まっている。石を握る指の皮が、二か所むけている。
「ひと晩じゅう、何か書いてるね」
「字だ。どこの字かは知らねえ」
「読めてるの」
「読める。だから困ってる」
じいさんは何も聞かずに、水の入ったペットボトルを一本、カイの足もとに置く。それから、また壁を見る。長いこと、見ている。
「その字、坂の上の修理屋に見せてみな。あそこのじいさんだけは、逃げなかった」




