第1話 処理場
ダクトの口から、男が一人、吐き出される。
冷たい床に、肩から落ちる。濡れた髪に、うすい検査着。はだしの指が、白い床をかく。
胸の奥で、何かが跳ねる。
胸の骨の裏を、爪のあるものが内側から引っかいていく。のどが焼け、男は背中を丸めて咳きこむ。
口から、黒いものがこぼれ落ちる。
煙に似ているのに、床に落ちても散らない。黒い霧は寄り集まり、ほどけ、また集まって、四本の脚になる。耳が立つ。尾が垂れる。最後に、赤い目が二つともる。
犬だ。たぶん。
「……何だ、お前」
返事はない。
男は手を伸ばす。右手が震えている。左手で右の手首をつかみ、震えごと前へ押し出す。
指が、犬の頭を抜けて空を切る。
もう一度。今度は首の下から、すくうように。抜ける。
「ケチだな」
見えるのに、さわれない。床の上では、影だけがきちんと犬の形をしている。
「目からビームとか、出ないのか」
出ない。犬は片耳を寝かせる。呆れた顔に見える。
男は少し笑う。笑うと、右手の震えが止まる。
白い天井。白い壁。薬品のにおいの下に、甘く腐ったにおいが沈んでいる。壁ぎわには黒い袋が並び、一つだけ口が開いて、人の腕が垂れている。
「最悪だな」
袋の数を、目が勝手に数える。十一。自分を入れたら、十二だ。
扉の向こうから、低い鼻歌が近づいてくる。
犬が跳ぶ。胸にぶつかる、と思った時には、床にもう何もいない。胸の中で、重さのないものが丸くなる。
扉が開く。白い防護服の大男が、台車を押して入ってくる。袋を一つずつ確かめながら歩いてきて、男の前で止まる。
鼻歌が切れる。
大男の手から端末が落ち、床をすべって、男の膝に当たる。画面に、赤い字。
【死亡処理完了】
【識別情報抹消済】
「生きてるのか」
「見て分からねえか」
「お前は、死んだはずだ」
「知らねえよ」
大男は端末を拾い、画面を何度も叩く。表示は変わらない。
「名前は」
「カイ」
口の方が、先に答えていた。
のどに手を当てる。合っている気はする。ただ、このサイコロを振ったのは、自分の手じゃない気もする。
その手を、目の前で開く。右の人さし指の内側に、硬いたこがある。何を握って、何年かけてできたものか。持ち主のくせに、何も知らない。
大男は壁にもたれ、端末を打っては消し、また打つ。その間、カイは相手を見ている。
肩の回り方。膝の沈み方。
視界のはしで、大男の輪郭に細い線が重なる。まばたきすると、消える。
「その服、重いだろ」
「何の話だ」
「関節を金具で固めてる。なのに足音が軽い。肩も回りすぎだ。管理局の装備か」
大男の指が、画面の上で止まる。
「よく見てるな」
「見りゃ分かる」
「普通は、分からない」
管理局、という言葉は、すらりと口から出てくる。自分の家がどこにあるのかは、どこを探しても出てこない。
大男が、あごで壁を示す。金属の札が打ちつけてある。
776。
「それがお前だ」
「名前じゃなくて、番号か」
カイは札を壁から引きはがし、裏を見て、表に戻す。
「惜しいな」
「何がだ」
「777じゃない」
マスクの奥で、長い息の音がする。
カイは札を床に落とし、はだしのかかとで踏む。札はゆがまない。かかとの方が痛い。仕方なく、台車の下へ蹴りこむ。
部屋の隅の木箱が、目に入る。
白い部屋の中で、それだけが黒ずんでいる。角のすり減った、古い箱だ。ふたに、焼きつけたような線が何本も走っている。字には見えない。傷か、模様だ。
なのに、意味の方が先に目へ入ってくる。
「名は、ここに置いていけ」
声に出している。
大男の手が、台車の取っ手の上で固まる。
「今、何て言った」
「書いてあるだろ。そこに」
大男は箱を見て、カイを見て、また箱を見る。それから、箱から一歩下がる。マスクの奥で、何か短くつぶやく。祈りにも、悪態にも聞こえる。
カイの方は、下がらない。
読めるはずのない線が、看板みたいに読める。気味が悪い、と思うより先に、ふたの裏が気になる。表にこれだけ書いてあるなら、中にも何かある。
手が、ふたへ伸びる。
防護服の大きな手が、先にふたを押さえる。
「やめておけ」
「ちょっと見るだけだ」
「ちょっとで済む顔じゃない」
大男はそのまま奥の鉄の扉を開ける。夜の風が流れこみ、薬品のにおいを押し流していく。
「何も見なかった。俺も、お前も」
「助かる」
扉を出かけて、カイは足を止める。
「財布がない」
「知るか」
言いながら、大男はふところから革のケースを放る。片手で受ける。中に、紙幣が三枚。続けて台車の下の段から、古い靴が一足、蹴ってよこされる。
「飯代だ。靴は、そこの誰かのだ」
「親切だな」
「黙って履け」
「パチ屋で増やして、返しに来る」
「来るな。早く行け」
扉が閉まる。閉まりきる前に、鼻歌がまた始まる。
死人の靴は少し大きい。一歩ごとに、かかとが浮く。
のどの奥がむずがゆい。咳を一つすると、黒いものがこぼれて、足もとで犬になる。足音はない。街灯の下を通るたび、影だけがちゃんと伸びる。
フェンスに、札が下がっている。
【管理局南国支部 東地区研究所群】
振り返ると、白い建物が闇の中に並んでいる。窓の明かりが、同じ間隔でどこまでも続く。
カイは窓を数えはじめる。
十。二十。三十を過ぎると、指まで動きだす。四十。五十。
六十を過ぎたところで、犬がフェンスに向かって低くうなる。
「分かってる」
足は動かない。目が、六十一個目を探している。
犬がもう一度うなる。今度は、カイの方を向いて。
「……分かったよ」
フェンスから目をはがす。はがすのに、思ったより力がいる。
知らない名前を、口が知っている。知らない字を、目が読む。知らないたこを、指が持っている。この体の中身を知っている奴が、あの窓のどれかの奥にいる。いなければ、紙がある。紙がなければ、あの箱みたいな字がある。
犬が、片耳だけ動かす。
「お前も来るか」
赤い目が、見上げてくるだけだ。
「全部知るぞ」
「まずは776からだな」




