第16話 置いていく
熱が残っているうちに、カイは走る。
世界はまだ遅い。三十歩が、ひどく短い。自分の足音が、厚い布ごしに聞くように鈍い。
銃口は、こちらを向いている。けれど、引き金の指はまだ半分しか曲がっていない。
握ったままだった空の小びんを、レムルの顔へ放る。
小びんは、眉間から指一本ぶん右に当たる。レムルの目が、そっちへ逃げる。
それで足りる。
目が戻る前に、間合いを詰める。義手の手首をつかみ、壁へ叩きつける。床に落ちた拳銃を、廊下の奥へ蹴る。
そこで、熱が切れた。
全身の骨が、一度にきしむ。膝が折れかけ、レムルの腕を押さえたまま壁にもたれる。鼻の奥から、ぬるいものが垂れてくる。手の甲でぬぐうと、赤い。
「もうすぐ、人が来るよ」
レムルが笑う。
カイが見ているのは、押さえている金属の指だ。指は新しく、傷ひとつない。肩の付け根の金具だけが古く、さびが浮いている。
新しい指と、古い肩。値段の合わない組み合わせだ。
気になった時には、もう針が義手へ沈んでいる。
指を動かす細い線が、肩の古い金具まで続いている。その流れから外れて、豆粒ほどの影が一つ。どの線にもつながらず、そこで小さく震えている。
《飼われているもの》
レムルの肩が、びくりとすくむ。何かを抜き取られたように、自分の義手を見下ろす。
金属の手を、素手で握りこむ。
鈴だ。
「この指、いくらした」
「二百八十万」
「金は、どこから出た」
「わかってるくせに」
「いくらだった」
レムルは少し黙ってから、肩の力を抜く。
「三百万。黒霧寄生体の知らせは、一件三百万。残りは、店の借りで消えたよ」
二人で、三百万。
胸の奥の誰かが、拳を握る。カイの右手が、レムルの胸ぐらへ伸びかける。その手を、自分の膝に下ろす。
「金だけじゃねえだろ。ここまで来た理由は」
「番号だよ」
レムルは、首のひもを指でつまむ。
「仕事で腕をなくしたら、札だけ取り上げられた。兄さんを生きたまま連れていけば、返してもらえる。番号があれば、人に戻れるんだ」
声が、少しも揺れない。本気で信じている声だ。
「高かったって、言ったな」
「言ったね」
「安いな」
レムルの口が、半分開いたまま止まる。
「その指の中に、鈴が入ってる。お前の居場所を、ずっと向こうに知らせてる。番号を返す相手に、鈴はつけない」
「鈴?」
レムルは、自分の金属の手を見る。指を開いて、閉じる。開いて、閉じる。止まらない。
「この指、向こうが教えてくれた店で買ったんだ。いい店だって。安くしとくって」
かちり。かちり。開くたびに、音がする。
もう、どこにも引っかかりがない。胸の奥の拳が、ほどけていく。
手を離し、立ち上がる。骨が鳴る。
「殺さないのか」
「もう読んだ」
「兄さん。これ、外したら、僕はどこへ行けばいい」
「知らねえ。値段のつかない所だ」
緑の札へ歩きだす。背中で、かちり、かちり、という音だけが続いている。
十歩も行かないうちに、声がする。
「もう、いいんですよ」
やわらかい声だ。階段の下に、女が一人立っている。指に細い糸を巻いては、またほどいている。胸の札に、154。
「疲れましたね、776。眠っていいんです」
まぶたが重くなる。骨の痛みが、遠くへ引いていく。膝が、床の方へ沈んでいく。
眠れば、全部終わる。それが、ひどく正しいことに思える。
なのに、指の付け根がむずがゆい。眠りかけた頭のすみで、あの声の仕組みを知りたがっている。どうして、声だけで膝が折れる。どこから、何が入ってくる。
女の目が、カイの手に落ちる。
「まだ、知りたがっていますね」
やわらかい声が、ほんの少し困っている。糸を巻く指が、一回まちがえる。
のどの奥から、咳がこみ上げる。血の味。黒い霧がこぼれ、床で犬の形になる。さっきより小さく、向こうが透けて見える。それでも女の方へ、頭を低くする。
タマが、ほえる。
音というより、風だ。女の声が、ガラスのように割れる。指から、糸が一本切れて落ちる。
「あら」
女は切れた糸を拾い、それきり追ってこない。
カイの足が、また動く。
緑の札の扉だけは、建物が閉じても鍵が下りない。レムルがその手前で待っていたのは、そのためだ。肩で押し開けると、外は雨だ。
白い壁の向こうを、雨で太った川が流れている。茶色い水が、柵のすぐ下まで来ている。
ポケットから掃除用のごみ袋を出し、シャツの内側の紙を二枚入れて、口を固く縛る。袋ごと、シャツの内側へ戻す。
タマが胸へ跳びこむ。羽のように軽い。
「泳げたっけな、俺」
答えは、川に聞くしかない。柵を越えて、飛ぶ。
冷たさが、骨のきしみを一瞬だけ消す。口の中に、泥の味が広がる。紙の袋が、胸に貼りついている。
流されながら、顔を上げる。
雨の向こうで、白い車が研究所の横の扉に止まる。黒いコートが何人も降りて、中へ入っていく。カイが出てきた扉だ。
鈴の鳴る方へ、迎えが来ている。番号を返しに来た迎えではない。かちり、という音は、もう雨にまぎれて届かない。
二つの鼓動が、少しずれて鳴っている。その音を数えているうちに、水の色が分からなくなった。




