EP 4
忍び寄る鉄の匂い
深夜。『鬼龍』の入り口に「準備中」の札が掛けられ、村が深い静寂に包まれた頃。
カラン、と控えめにドアベルが鳴った。
「……鍵は掛けていたはずだが」
カウンターで包丁の手入れをしていた龍魔呂が、視線を上げずに言う。
「失礼いたします。いささか、裏口の立て付けが悪かったようですので」
滑らかな声とともに現れたのは、一切のシワがない燕尾服を纏った男。
ポポロ村の宰相であり、キャルル村長に絶対の忠誠を誓う人狼族の執事、リバロンだった。
彼はただの従者ではない。ルナミス帝国の執事検定1級を持ち、マキャベリやホッブズの哲学を実務に落とし込む冷徹な「怪物の管理者」だ。
「コーヒーでいいか」
「お気遣い痛み入ります。ですが今夜は、優雅に香りを嗜んでいる余裕が少々ございません」
リバロンはカウンターの前に立ち、白い手袋に包まれた手で、スッと一枚の紙切れを差し出した。
ポポロ村の周辺地図。その北東の森の一部に、赤いインクで印がつけられている。
「先ほど、ニャングル殿が手配した監視網から報告が上がりました。ルナミス帝国の崩れ傭兵団……約30名。重武装の彼らが、村の緩衝結界を一つ、物理的に突破したとのこと」
「……仕事が早いな、執事殿」
「主の安眠を守るのが、私の務めですので」
リバロンは恭しく一礼するが、その眼の奥には猛禽類のような鋭い光が宿っている。
「キャルル村長は?」
「現在、村長邸でスヤスヤとお休みになられています。……ですが、このまま奴らが村の居住区に踏み込めば、お目覚めになるでしょう」
それが、リバロンにとっての最大の懸念だった。
キャルルが目覚め、村を荒らす悪党を認識すれば、満月の力と圧倒的な脚力で一瞬にして敵を粉砕してしまう。
だが、それでは困るのだ。
一介の村長が、元とはいえルナミス帝国の正規兵たちを惨殺すれば、それを大義名分として帝国本軍が「自国民の保護」を理由に軍事介入してくる。
力(暴力)は最終手段ではない。使わずに盤面を制圧することこそが、リバロンの信条とする『戦争論』の真髄だった。
「主人の手を汚させるわけにはいきません。ポポロ村は、あくまで『中立で無害な顔』を保ち続ける必要があるのです。……外交上の『存在しない者』による処理が、最も望ましい」
リバロンはそこで言葉を区切り、静かに龍魔呂を見つめた。
この男がただの料理人ではないことなど、リバロンの眼にはとうの昔に看破されている。
「……」
龍魔呂は研ぎ終わった包丁を布巾で拭い、静かに鞘に収めた。
小皿から角砂糖を一つ摘み上げ、口に放り込む。
ガリッ、ガリッ。
硬い砂糖が砕け、甘い痛みが脳を刺激する。
(……この村は、悪くない)
龍魔呂は思考する。
目的である『始祖竜クロノ』を監視するためとはいえ、このポポロ村は余所者の自分をすんなりと受け入れた。
店を構えさせ、キャルルやリーザたちが笑いながら飯を食う空間を与えてくれた。
彼には、一つの絶対的な『龍儀』がある。
自分が居座らせてもらった地域は、己の庭として守護する。
そして、その平穏な日々の『宿代』は、金ではなく――その地を脅かす悪党の命で精算する。
「……執事殿。あんたは、随分と耳が遠いようだな」
「はて?」
「村の結界が破られたというのに、俺には何の報告も聞こえなかった。そうだろ?」
龍魔呂の言葉に、リバロンはふっと、口角だけを吊り上げて完璧な笑みを作った。
「ええ、左様でございますとも。私は今夜、極上のコーヒー豆を分けていただきに上がっただけです」
「豆なら、勝手口の棚に置いてある。持っていけ」
龍魔呂はカウンターから離れると、壁に掛けてあった深紅のジャケットを羽織った。
「俺はこれから、少しばかり『ゴミ出し』に行ってくる。今夜は燃えないゴミが多くてな。手こずるかもしれない」
「お気をつけて。……夜道は、冷えますので」
リバロンの深く優雅な一礼を背に受けながら、龍魔呂は『鬼龍』の裏口から暗闇へと身を躍らせた。
空には、薄雲に隠れた月が妖しく光っている。
右手の『鬼王の指輪』が、主の静かな殺意に呼応するように、ドクンと赤黒い脈動を打った。
――さあ、宿代の精算(ツケ払い)の時間だ。




