EP 2
夜想曲とラッキーストライク
夜。ポポロ村が深い静寂に包まれる頃、小料理屋『鬼龍』は、大人のためのBARへとその姿を変える。
店内に静かに流れるのは、ショパン『夜想曲 第20番 嬰ハ短調 遺作』。
美しくも、どこか深い喪失感と虚無を孕んだピアノの旋律が、薄暗い間接照明の中に溶け込んでいた。
カウンターの奥。
ワインレッドのタートルネックを着こなした190センチの巨躯が、静かにグラスを磨いている。
袖口から覗く『TUDOR ブラックベイ 58 ブロンズ』が、琥珀色の照明を反射して鈍く光った。
カランコロン。
控えめなドアベルの音とともに、二人の男が店に入ってきた。
一人は薄手のコートを羽織った黒髪の男。もう一人は金髪の青年。
鮫島勇護と、ニコラス。
「……いらっしゃい」
龍魔呂の低く落ち着いた声。
鮫島は店内を一瞥し、カウンターの隅に腰を下ろした。ニコラスも隣に座る。
「驚いたな。こんな田舎村に、地球の……それも銀座の裏通りにでもありそうな、ちゃんとしたBARがあるとは」
ニコラスが感嘆の声を漏らしながら、メニューも見ずに注文する。
「俺はバーボンをロックで。ユーゴは?」
「……ドライ・マティーニ」
鮫島のオーダーに、龍魔呂は無言で頷いた。
無駄な動きが一切ない。ジンとベルモットをステアする氷の音だけが、ショパンの旋律に心地よいリズムを刻む。
スッ、と差し出されたグラス。
鮫島はマティーニを一口含み、わずかに眉を動かした。
(……完璧だ。ロス市警(LAPD)時代に行きつけだった、五番街のバーテンより美味い)
だが、鮫島の元SWAT隊長としての『死線の嗅覚』は、酒の美味さよりも、目の前のバーテンダーが放つ【異常性】を正確に捉えていた。
身長190センチ、体重82キロ。
服の上からでもわかる、鋼鉄ワイヤーを束ねたような極限の肉体。
何より、ジンやライムの香りに混じって、カウンター越しの男から微かに漂ってくる『匂い』。
(……ガンオイル。それも、軍用規格の極上品(CLP)の匂い。それに、染み付いて落ちない『血』の匂いだ)
魔法と剣のファンタジー世界において、銃器の手入れに使うガンオイルの匂いなど、存在するはずがない。
鮫島は、口の中でコーヒーキャンディをガリッと噛み砕いた。
コートの下に吊るしたSCAR-Hのグリップへ、無意識に意識を向ける。
同じ頃、龍魔呂もまた、グラスを拭く手を止めずに二人の男を観察していた。
歩法、視線の配り方、そしてコートの下に隠された『鉄の塊』の重み。
ただの冒険者でも、ルナミス帝国の兵士でもない。
地球の現代戦術(CQB)を極めた、プロの殺し屋の気配。
「……客人に聞くのも野暮だが」
龍魔呂はグラスを置き、懐からマルボロの赤箱を取り出した。
一本咥え、真鍮製のオイルライターを取り出す。
カチッ。
硬質な金属音が鳴り、オレンジ色の炎が龍魔呂の虚無の瞳を照らし出す。
「この村に、何をしに来た?」
紫煙を吐き出しながらの、静かな問いかけ。
鮫島もまた、懐からラッキーストライクを取り出し、シルバーのジッポライターで火を点けた。
「……人探しさ。ルナミス帝国から小賢しい『豚』が逃げ出してきてな。死蟲機の部品を横流しした挙句、この村に隠れ家を作ったらしい。……少しばかり、物理的なお灸を据えに来た」
鮫島はタバコをくわえたまま、龍魔呂の目を真っ直ぐに見据えた。
同業者に対する、明確な牽制。
俺たちの獲物の邪魔をするな、という意思表示だ。
「そうか」
龍魔呂の顔には、一切の感情が浮かばない。
だが、その言葉の裏には、絶対的な『鬼の龍儀』が静かに燃えていた。
「俺は、村の掃除を任されている。……ネズミだろうが豚だろうが、俺の庭にゴミを持ち込む奴は、一匹残らず片付けるのがルールだ」
「……」
「……」
ショパンの物悲しい旋律の中、煙草の煙が空中で交差する。
互いに銃を抜くことはない。
しかし、空間の温度が数度下がったかのような、ヒリつくような殺気の探り合い。
「……美味い酒だった。釣りは取っときな」
やがて鮫島が、カウンターに銀貨を数枚置き、立ち上がった。
ニコラスもバーボンを飲み干し、それに続く。
「ごちそうさん、マスター。……また生きてたら、飲みに来るよ」
「お待ちしている」
カランコロン。
ドアベルが鳴り、二人のプロフェッショナルが夜の闇へと消えていった。
静寂を取り戻した店内で、龍魔呂は灰皿にマルボロを押し付けた。
時計の針は、深夜零時を回ろうとしている。
「……死蟲機、か」
龍魔呂の右手に嵌められた『鬼王の指輪』が、かすかに赤黒い脈動を打つ。
標的の『始祖竜クロノ』がいるこの村に、弟の仇とも言える死蟲の気配を持ち込んだ悪党。
(……生かしておく理由はない)
龍魔呂はワインレッドのタートルネックの上から、漆黒のレザージャケットを羽織った。
そして、カウンターの下に隠してあった車のキーを手に取る。
今夜の『宿代の精算』は、少しばかり派手になりそうだった。




