1-4
【4】
「……そいつは司祭か?」
「いや……違うが」
「あ、あの……」
状況が分からず、粳部は傍にあった道路標識を掴んでゆっくりと立ち上がろうとする。だが、どういうわけかそれは彼女の握力によって潰れて曲がり、驚愕した彼女は咄嗟に手を離す。
谷口の姿勢が戦闘態勢に変わる。
「……概怪の擬態の可能性がある。離れろ」
「待て谷口!こいつは別に……」
表情は仮面で見えないが明らかに粳部に対して敵意を持っている。谷口は腕まくりすると粳部を見下ろし、藍川は粳部と谷口の間に割って入った。さっきは粳部を助けてくれたというのに現実は実に非情である。
恐怖で彼女の声が震えた。
「わ、私人間ですけど!」
そう叫んだ瞬間、粳部の影が伸びたかと思うとそこからあの怪物が現れる。粳部を腕で貫いたあの黒い怪物、粳部にはどこか見覚えのある謎の怪物。眼前に現れたそれは谷口の肩を殴り抜けた。怪物を粳部の腹ごと貫いたあの黒い怪物が、まるで彼女を助けるかのように動いたのだ。
霧のように怪物が消えると、よろけた仮面の男が距離を取る。
「その女が操っているのか!?」
「知るか!こいつは人間だ!」
「判断が鈍っているぞ。やることは一つの筈だ!」
粳部が操っている、この怪物を。彼女はその発想がなかったのか驚く。黒い怪物は彼女の腹ごと突き刺してはいたが、見方を変えれば街灯の怪物に攻撃していたことは確かだ。谷口が彼女に近付いて来た時はその腕で彼女を守っていた。ピンチの時にはいつも奴が居たのだ。
自分にできるのかと、彼女は思い始める。
「そいつの正体は何だ!お前が心を読めば分かる筈だ!」
「何で少しも信じないの!?」
「怪物を信じる予定はない」
彼女を抱えて離れようとする藍川。だが地面から現れた光の鎖が彼の片腕を捕らえたかと思うと、側面から谷口が距離を詰める。藍川は動きを制限された状態で谷口の拳を避け、鎖を引き千切って飛び上がり距離を取ろうと試みる。
しかし、地上に居た谷口は腕から電撃を放ち二人を襲う。全身を電撃が駆け巡り、彼女はその威力に思考も文字通りショートする。だが藍川は生きており、粳部も体を再生させている。藍川は地面に撃ち落とされるが彼女を手放さない。
「互いに病み上がりだぞ……大人しくしろ藍川」
彼女が眼前の谷口をよく見てみると、袖を捲くった腕に包帯と何枚ものお札が巻かれている。先程の電流にはあれを使っていたのか、電流が彼の周囲を迸っていた。藍川よりも早く動き、原理の分からない超能力染みた謎の力を使う男。
当然、彼女を抱えたままで戦えるような相手ではない。
「結鎖!」
「病み上がりで法術なんて使うな!」
地面からいくつも光る鎖が飛び出し、藍川は彼女を抱えたままそれを避けつつも後退する。絡みつこうとする鎖を拳で砕いて跳び上がる彼だったが、そこを狙い撃ちするように電撃が飛んでくる。彼が身をよじって電撃を躱すも、それすらも読んでいたかのように電撃がもう一度飛んでくる。これは避けられない。
だが、目の前に再び『アレ』が現れる。
「これって……!」
あの黒い怪物が目の前に現れ、電撃を受け止めて霧散していった。誰が頼んだわけでもないのに彼らを守って、そして再びどこかへ消えていったのだ。その目的は未だに分からない。しかし、こうなれば彼女も一か八か出てみるべきか。
怪物のおかげで彼らは安全に着地する。
「粳部!?」
粳部は暴れて藍川の腕から飛び出し奴の前に出る。彼女からすれば不調な彼にこれ以上の無理をさせるのは心苦しい。直前と同様にアレを出現させることができなければ、彼女の体はただでは済まないだろう。藍川が彼女を逃がしても彼は殺され、彼女はその後に無防備な状態で殺される。ならば、ここであの黒い怪物を出現させてぶつけられれば時間稼ぎにはなるかもしれない。
彼女がアレを操っているという仮説が正しいかは分からない。だが彼女の体に穴を開けたのは確かに奴で、彼女を助けたのは奴だ。
「血迷ったか!」
圧倒的な速度で彼女に迫る仮面の男が視界を覆い、選択肢を奪われる。もうやるしかないのだ。ダメージを受け止めてようやく立ち上がった藍川が動くのよりも早く敵が迫る。彼女は自分が正気でないことは分かっていたが、ここで彼を失うわけにはいかない。終わるくらいならば無駄な足掻きをしたいのだ。
彼女はあの、黒い怪物が出る時の感覚を思い出す。
「やれっ!」
瞬間、彼女は何かと心が繋がった。
叫んだ瞬間、怪物が彼女の目の前に現れる。黒い泥のような鉄のような、見た目で質感を判断しきれない特異な姿。肌が波打ち形が一定でないその怪物はどう見ても生物の枠には入らない。だがこれが彼女の味方だと言うのか。
藍川が叫ぶ。
『停止!』
唐突に足を止め急ブレーキを掛けた谷口。流石に、あの怪物に驚いて足を止めたというわけではないだろう。藍川が持つ心を操作する力によって足を止めさせられたのだ。そして、彼女はこの隙を逃がさない。すぐさま無我夢中で相手を殴るイメージを想像し、相手に仕掛けようとする。
次の瞬間、黒い怪物はとんでもない速度で谷口に拳を叩き込んだ。
「ぐえっ!?」
藍川が傷付くことはない。彼女はやった、やってみせた。吹き飛ぶ男は咄嗟に手から光の鎖を放つと粳部の脇腹を貫通する。しかし、鎖が消えた後に穴が自動的に再生したのだ。
辺りは途端に静寂に包まれる。何とか着地して立ち上がった仮面の男は状況を理解しようと辺りを見渡し、自分を殴り飛ばしたのは黒い怪物だという事実を噛みしめる。
「ぐっ……で、できた?」
「何だ……こいつ何をした!」
そのまま立ち尽くす怪物に谷口が火の塊のような物を投擲する。火が弾けて散弾のようばらけるものの、彼女は飛び散る炎の塊を目で捉えた。ゆっくりと軌道を観測すると、彼女は怪物が自分を抱えて塀に飛び乗る光景をイメージする。そして、怪物はイメージの通りに彼女を抱えて塀に飛び乗った。
炎の散弾が地面に落ちる。
「どうなってる……言うことを聞くのか?」
「谷口、現に奴は助けたぞ。粳部をな」
「処分の必要性はないと?本気か?」
彼女は自分を抱えて佇む怪物を見つめると、同様に怪物も彼女を見つめてきた。吸い込まれそうな白と黒の瞳、光のない底なしの暗い穴。この至近距離で見てもそれが何なのか彼女には分からず、彼女が首を傾げると奴も首を傾げる。
彼女はふと疑問に思った。本当にこの怪物を操作できているのか。
「粳部、操れるんだよな?」
「た、多分……」
塀から飛び降りて抱えられていた奴の腕から降りる。彼女に危害を加える予兆は今のところないが、先程のように不意打ちを仕掛けてくる可能性は消えはしない。彼女は離れた場所から奴を見つめるも何も分かることはない。
藍川は傷口を押さえつつ彼女の傍に立つ。
「何かやらせてみてくれ」
「何かと言われましても……」
まだ完全に操作できる自信があるわけではない。取り敢えず、彼女は目に付いた空き缶を拾わせようと意識する。すると奴は理解したのか歩き出し、道端に落ちている空き缶を拾った。どうやら、彼女が想像しているよりも簡単らしい。ついでにその空き缶を空に掲げさせる。
「ほら!持ちましたよ!」
誇らしげに示すが二人の表情はあまり変わらない。そもそも仮面の男である谷口は表情が見えていない。訝しむように、空き缶を掲げる怪物を見つめている。分からないことが多すぎるこの状況で、彼らは何を知り何を知らないのか。
怪物が指示していないというのに空き缶を指の上で転がし始める。まるで、自分の意思があるかのように。
「……粳部も俺達のように司祭になったと思うか?」
「いや、祝詞を唱えていない。あれは何か違うだろう」
「だが概怪の感じはしない……」
先程まで殴り合っていたというのに、突然落ち着き何か彼女には分からないことを話している。ここまで関わったというのに彼女を置いてけぼりにして。そもそも二人はどういう付き合いなのかを彼女は知らない。谷口は仮面以外どこかで見たような風貌をしているが、誰なのかもどこで会ったのかも分からない。
「だが藍川、彼女が何かに目覚めたことは確かだぞ」
「……どうなってるんだ」
藍川の視線が黒い怪物から彼女へと移り、疑問気だった表情が普通の表情に塗り変わった。
「怪我は治ったのか?」
「あっ……治ってます」
「……そうか」
全てがおかしい。あれ程の重症が治っていることも彼女には納得がいかず、体でもない服が直る原理も分からない。彼女は傷付いた筈の箇所を触れるも何ともなく、そこには怪我をしたという事実すらもない。傷跡すらもないのだ。
彼女は怪物の方を向く。
「あれ、居ない?」
「自分で消したんじゃないのか?」
「いえ……ひと段落ついて、帰ったんすかね?」
気付くと既に奴は居なかった。影も形もなく、気配すらも残さずに消えていた。彼女は分からないことの多さに、自分が無知でスタートラインにすら立っていないことを思い知らされている。彼女に味方したあの黒い怪物も街灯の怪物も、二人の謎の力すらも分かっていない。
藍川が彼女の方を向くと、ポケットから紙を取り出して渡してくる。彼女が何だろうかと書かれていた物を読むと、それが電話番号だと気が付いた。
「うちの電話番号だ。何かあれば電話しろ」
「は、はい」
「駅まで送るが、少しアイツと話すことがある」
急に悲しげな表情を浮かべる彼。そこには嘘の色が混じっていない。
「……今日はすまなかったな」
そう言って藍川は谷口の下に歩いていく。こうした荒事に詳しそうな素振りを見せているが、二人がどういう知り合いなのかを彼女は気にしていた。人間とは思えないことをやってのける二人がただの友人ということはない筈だ。
彼女の疑問は尽きない。
「奴の拘束と護送の手配を」
「すぐやる。だが、彼女はどうする?」
「……保護観察はさせておく」
「これは貸しだぞ藍川」
彼女は気になって藍川に声を掛けてしまった。
「あの……あの怪物、何だったんですか?」
「……忘れろ、他言もするな」
そう言った彼の顔は今まで彼女が見たことがない程、悲し気な表情だった。彼女がしたことに悲しんでいるわけではなく、彼女の体がおかしくなったことに悲しんでいるというわけでもない。いや、欠片もそんな情がないわけではなさそうなのだが、彼にとっては彼女を巻き込んでしまったことの方が辛いようだ。
正常になった街灯はただ夜道を照らしている。
【5】
「仕込みさーん、えんがわ予備二です」
「はーい」
昼時の回転寿司の厨房は混雑しており、店内の客の人数に対して圧倒的な少なさであった。運悪く臨時でバイトが入ってしまった粳部だが、平日とは思えない忙しさに困惑している。愚痴の一つも漏らしたくなる程に忙しい。サーモンフェアの人気が想像の斜め上を行っている。
彼女はバイトの先輩に話しかける。
「注文多すぎっすね……」
「連中は流れてるの皿が見えないのかね。眼科行けよ」
結局、昨夜に自宅へ帰った粳部に変なことは起きなかった。あの黒い怪物をまた出せるかどうかは試しておらず、またあの街灯の怪物のようなものに襲われるのではないかという懸念が粳部の頭から離れない。
全ては夢であったと思いたいのだが、脳裏に焼き付いた痛みの記憶が粳部にそれを許してくれないのだ。体に傷一つないというのに。
「やば……」
粳部が魚を捌きながらふと時計を見ると、いつの間にか自分の勤務時間を過ぎてしまっていた。
「どうしたの?」
「もう時間とっくに過ぎてますよ」
「うわ、本当じゃん」
隣に立っているバイトの先輩が時計を見る。今やっていることを終えたらすぐに厨房を出なければならない。粳部はここで働いてはいるが今日は元々臨時で入っていたのだ。長居してやる義理などない。
昨日のことがあって殆ど眠ることができなかったというのに、追い打ちをかけるように精神的な疲労がしがみついている。不思議と肉体的な疲労はないのだが。とにかく、粳部はもう家に帰って色々と考えたかったのだ。藍川の家に再び行くかどうかも、行って何を話すかも決まっていない。
「今やってるの終わったら上がっていいよ」
「本当っすか?ありがとうございます」
「うん。おーい陽君」
先輩が交代要員を呼びつけて話を進める。シフトの終わりに開放感を覚えながら、足元の冷蔵庫の扉を開きその中に手を伸ばす。だがそこにあったのは魚を入れたバットなどではなかった。
「ぐあっ!?ああああ!!」
腕が千切れた。いや、誰かに千切られた。冷蔵庫の中に居た何者かによって。溢れ出る血と激しい痛みの感覚が断面から伝わり全身を痺れさせる。だがこの痛みは初めての経験というわけではなく、どういうわけか体がこれを覚えている。それはきっと昨夜の腹部の痛みに似た、死に通ずる感覚。
粳部はそのまま床に倒れる。
「う、粳部さん!?」
「店長!粳部さんが!」
「あっああああ!!」
周りの声すらも痛みに変わる苦痛。千切られた腕の断面が熱くて冷たい。異常事態に駆け寄ったバイト仲間も、腕の断面を見るとあまりの異常さに思考が停止してしまう。急に腕が切断されてすぐに対処ができる人間はそう居ない。
彼女が痛みにのたうち回ったその時、冷蔵庫の中に居た誰かが目に入る。それは、あの時の怪物だった。冷蔵庫にギチギチに詰まっている黒い体。光を完全に吸収するような黒色の怪物が、彼女を助けたあの時の怪物がそこに居たのだ。
「うぐっ……あ、あいつ……!」
「粳部さん落ち着い……」
その刹那、千切れた腕が断面に吸い寄せられ、くっ付く。磁石が引かれ合ってくっ付くように、人の腕が玩具のようにくっ付いたのだ。床に溢れ出た筈の多量の血液は蒸発し、何事もなかったかのように現場は元に戻る。
同様に周囲の同僚も静まり返るが、元に戻らない事もある。傷は治っても怪我があったという事実は消せないように。
「えっ」
「……あんた、人間じゃ」
そう言われそうになった瞬間、彼女は厨房を飛び出して控室に飛び込んだ。彼女の様子に驚いているバイト達の横を通り過ぎて店の外に出ると、誰も居ない場所を目指して逃げ出した。もうあそこには居られない。
涙が零れそうになりながらも走り続ける。何故か、疲れる気配がない。
「何で……何でこうなるの」
一人、電話ボックスに飛び込んだ。




