1-3
【3】
「いいか、絶対にそこから出るな」
その時、遠くの街灯が点滅したかと思うと怪物が再び現れる。不気味な瞳で彼らを見つめ、一直線で駆け出すと更に加速し粳部の方に突っ込んでいく。彼女は今すぐにここから逃げたかったが、彼が絶対にここから出るなと言ったのだ。彼女は動かなかった。
まともに怯える時間すら与えられず、眼前に迫ってくるそれから粳部が反射的に目を閉じたその瞬間、突撃してきた怪物は突如として消失した。そして、彼女を通り抜けて彼の所へ向かっていた。
「はあっ!?」
「光の中じゃ実態がないんだ」
「どうなって……」
『停止』
飛び出した怪物が彼の言葉で急停止する。そして、生まれたあまりにも大きな隙に全力の回し蹴りが襲う。外れる筈のない一撃が怪物に綺麗に命中し、激突したアスファルトを凹ませながら遠くへ飛んだ。あれで生きているのが不思議だ。
街灯の明かりの中に藍川が入る。
「光の中に居れば奴は手出しできない。まあ、それはこっちもだが」
「な、何でそんなこと分かったんですか」
「そりゃ、『権能』で心を読ん……うっ……!?」
その時、彼が突然膝から崩れたかと思うと地面に嘔吐する。血が混じった胃液をアスファルトに吐く彼の容態は悪く、その様子はかなり悪い。彼女が今まで見た中で一番悪いくらいには悪い。
「鈴先輩!?どうしたんですか!」
「すまん……反動が来……おえっ」
「や、やっぱ体調悪いんじゃ……」
「はあ……はあ……まだ行ける」
遠くで態勢を立て直した怪物がこちらを向き、折れた手足をボキボキと鳴らしながら元の形に戻していく。やはりあれは怪物だ。歩き出した怪物が街灯の明かりに照らされた瞬間、その体が消える。光の中に入った瞬間に消えたのだ。そして、光の当たらぬ場所からヌッと現れる。
「光の中だけ……姿がない?」
粳部が瞬きを繰り返すが視界は変わらず、生じる疑問も尽きはしない。立ち上がった藍川が明かりから離れ暗がりに立つ。
「そういうことだ。だから明るい場所に居ろ」
彼女にも理解はできる。暗闇の中では自由でいられるものの、光の中では動くどころか姿が消えてしまう仕組み。故に光の中に居れば確実に安心だということ。簡単に言えばこんな感じで理解は容易いが、彼女が納得できるかは別だ。
「速攻で片付ける」
「で、でもさっき吐いて……」
「あれは怪我とは別だ」
彼には詳細に答える気は毛頭なかった。彼女を安心させる為に一応の説明はしたものの、敵の正体や彼のことについては何も分かっていない。彼女をこの件に関わらせる気がないのだ。状況が状況なだけに露骨になってしまっているが。
「俺は相手の心を操れる。だがそれは覚えなくていい」
「な、なんすかそれ!?」
突如、藍川が彼女を抱えたかと思うと隣の街灯に移動し彼女を降ろす。何が起きたのかと彼女が目を開くと、さっきまで居た場所の街灯が点滅し怪物が現れた。粳部は、何故彼は怪物がそこに来ると分かったのかと疑問に思う。
彼の方へと怪物が向かった。
『折れ』
彼がそう叫んだ瞬間、立ち止まった怪物は自分の頭を掴み怪力で無理やりへし折った。彼が心を操作して、その怪物に自ら死を選ばせたのだ。それはどう考えてもまともな死に方ではない。怪物は首を折られたまま直立する。
しかし、そうさせた彼もまともではないのではないのかもしれない。
「せ、先輩がこれやったんですか?」
「まさか、奴が自分でやったんだよ」
何故か藍川にはこういう存在への対処に普通ではない慣れが見える。この街に住んでいれば自然とこうなるという訳でもあるまいし。こんな状況では尚更、彼女に納得のいく答えは思い浮かばない。彼もあの怪物も、何もかもおかしい。
「何でこんな……何で」
「くっ……うう……」
「先輩!」
突如として悶え苦しみ、藍川は弱々しく地面にしゃがみ込む。肩の傷が痛んだにしては様子がおかしく、グロテスクな光景に絶えられなくなったようにも見えない。その表情は苦悶に満ち、先程までの勇ましさは欠片も残っていない。
彼が頭を抱えて悶え苦しむ。
「反動が……!粳部!そこから離れっ……」
「だ、大丈夫ですか!?」
「そこに出るぞ!心を読んだ!」
その時、突然バチっという音と共に真上の街灯が消える。先程まで煌々と輝いていたというのに、何の前振りもなく消えてしまった。彼女を守ってくれていた光が、たやすく消えてしまったのだ。
辺りを夜が包む中、粳部は反射的に光源へと駆け出す。その背後に奴は居た。
「粳部っ!?」
彼女はこれを覚えていた。間違いなく怪物が現れる時の感覚だ。光の中に居られないあの怪物は街灯の灯りを消すことで姿を現す。点滅という前兆もなく現れてしまえば、うずくまって弱っている彼では間に合わない。
怪物でもブラフは使う。粳部は背後の気配に悪寒を覚えた。
「先ぱ」
一瞬で青ざめた藍川の表情から結末は見えていた。彼女の死は避けられそうにない。彼の速度が尋常ではないことは粳部も既に承知している。しかし、あの動きを止める謎の力でも間に合うかどうか分からない。常識をかなぐり捨てても、彼女には自分が助かる道が思い浮かばないのだ。
彼は、間に合わない。
「(死んだな)」
何も分からず、彼女は背後から襲われる。だが、彼女は自分を殺す攻撃を見なくてもいいのだ。腕を振り下ろされて彼女は即死するだろう。砕けるのは頭だろうか、肩だろうか。痛くないといいのだが。彼女は一瞬でそんなことを考える。
彼女の中の時間が引き伸ばされている。今の時間に走馬灯は入れられただろうに。残念だが、もう過去を振り返る暇もない。
不意に、どこからかあの水音が響いた。
「(……いや)」
否定。
「(死んだら、先輩が生きてるか分からないや)」
その時、気付けば彼女は振り向いていた。何故そんな速度が出たのかは分からないが、彼女は現にこうして振り向いている。ならば、些細な理由などどうだっていいのだ。
振り下ろされる腕が当たれば体が裂けることは免れない。頭はかち割られることだろう。彼女ができることは何もなく、もう避けることなど叶わない。恐怖を直視せずに死んだ方が幾分かマシだったというのに。
水音に、足音が混じる。
「(……死ねないな)」
彼女の滲む視界が光った、そんな気がした。
瞬間、奴の腕が静止する。彼女の頭はかち割られてはいなかった。音も何もかもが止まり死だけがそこから遠ざかる。彼女からは藍川の顔が見えず、今の状況が何も分からない。彼女がフワつく意識と頭を動かした。その時だった。
頭を下げた先、奴の腹に腕が刺さっている。黒い、奴の体よりも暗い腕が。
「助か……」
そう思った矢先、その腕がある場所に彼女が違和感を覚えた。だが、もう遅かった。すぐにそれはやってくる。確実な物として、命である限り流れられない物。その腕は奴も『彼女』も貫通していたのだ。
彼女は助かってなどいない。
「……え?」
これは、誰の腕なのか。粳部ではない誰かがその手を伸ばしていた。奴と粳部のその先に、腕を貫いて。黒い怪物は『もう一体』居た。どこに居たのかは分からない、どうやって来たのかも分からない。分かることはたった一つ、その腕で両者に攻撃したのだ。
藍川が何とか起き上がり叫ぶ。
「粳部え!?」
彼女の腹から滴り落ちる血の量が増える。自分へと駆け出した彼を粳部が見た瞬間、彼女の腹を貫いていた怪物が消えた。塵も影も残さず、ただ消えた。
藍川は支えを失った粳部をすぐさま受け止め、そのまま棒立ちする奴の側面へと移動する。彼女の腹を貫いた怪物は消えたが、せめて一体でも仕留めなければならない。確実に処理していく必要がある。
彼が怪物に囁く。
『停止』
構えようとした奴の動きが硬直する。無様なその格好は蹴ってくれとでも言っているようで、藍川はその望み通りに回し蹴りを叩き付ける。受け身の取れない怪物では衝撃を吸収できず、ブロック塀を壊して民家にまで被害が及んでしまった。だが奴は動きを完全に止め、全てが終わったのだ。
「お、終わった……」
鈍い痛みと激しい痛みが交互に粳部へやってくる。普段感じている熱さや冷たさがこんなにも死に近いものだと、彼女は今まで考えたことすらなかった。温度の感覚が狂い始め、彼女は脱力とやり場のない苦痛へのもがきで動けない。
藍川が彼女を地面に降ろす。
「粳部!よく耐えた!」
「……鈴、先輩」
藍川は生きている。粳部もまだ生きている。だが、彼女がその目を閉じたら藍川が死んでいるかもしれない。彼女が死んだ後藍川が生きている保証はない。まだ死ねない。生物の本能と自分の強い意思で粳部はここに残っている。
藍川がぎこちなく腕を動かす。
「流石にしつこいぞ……!」
彼がよく分からないことを口走ったその時。不意に、街灯が点滅する。
「……あ」
彼が点滅に気が付いた瞬間、街灯の暗闇に奴が現れる。腹に穴が開いたとしても、首が折れたとしても、あの怪物を止めるにはまだ足りなかった。そこに傷は残っていなかった。彼女は邪魔にしかならなかったのだ。
果たして今の彼は奴に対応できるのか。遂に怪物が動き、彼女は目を塞ぐ。
「気の毒なことだ」
誰か、知らない声がした。その刹那、激しい熱と轟音が空間を震わせる。彼女が遅れて目を見開くと纏わりつくような炎が奴の体を駆け巡っていた。暴れる怪物は謎の男に蹴飛ばされて弾け飛び、地面を転がり動きを止める。静かに炎は燃え続け、遂に完全に静止したのだ。
先程まで怪物が立っていた場所に、仮面の男が立っている。
「すまんな藍川、網を張っていたが当てが外れた」
「谷口!こいつの応急処置が先だ!」
「相分かった」
仮面を付けた謎の男性、彼は谷口と呼んでいたが明らかに常人ではない。彼女が思うに人間離れした藍川の同類なのだろう。先の爆炎もそうだが、当然のように今までの常識を乖離する原理が、粳部の脳を混乱させ続けていた。
仮面の男が彼女へ歩き出した時だった。
「……ッ!?こいつ!」
「え?」
何かに気が付いた谷口が反射的に後ろに下がる。一体何に反応したのか。彼女か、それとも彼女の背後に何か居たのか。だが彼女の背後には誰も居ない。彼女の腹を貫いた怪物は神出鬼没だが、今は居ないことは彼女にも分かっていた。
彼女が困惑した瞬間、藍川までもがその目を見開く。
「粳部……体が!?」
「な、何ですか?」
彼女は何も違和感を覚えていなかった。当たり前のように考えていたことが最大の異常だった。腹を腕が貫通したことを忘れていたからなのか、暴れる怪物で思考が圧迫されていたからなのか。理由は定かではない。だが、現にその異常の正体はすぐ近くにあった。
普通、重症の人間がこんなに喋ることはない。彼女の体は何故か自然に再生していた。傷口が完全に塞がり、骨も再生し、大量出血による意識の混濁も終わり、穴が開いた服までもが直っていた。先程までの負傷の証拠は今となっては服に着いたあの血痕だけだ。
もう、人間ではない。




