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【2】
行きではあれだけ暑く鬱陶しかった道が、まるで湖面のように穏やかで静かだ。彼らの行先を照らす転々とした街灯の明かりはか細く、そして弱かった。街灯が途切れることなく続いていても暗い。
だが、この場で一番暗いのは自分の心かもしれないと、粳部は歩きながら考えていた。暫くして藍川が開口する。
「粳部、このままバイト生活を続けるのか?」
「長く続く気はしませんね。災害の補償金があるので無職もありです」
「どうすんだよこれから」
例の災害の補償のおかげで貯金に関しては心配ない。粳部は実家から一人立ちして暮らし続けているが、このまま何の目的もない退屈な生活を続けていくのは耐え難い。父からの多額の仕送りにも手を付けずにいる。目的を見失ってどうすればいいのか分からなくなっている彼女に、仕送りなど必要はない。
彼女は何も起きない日常が最も尊いものだと自覚してはいるが、刺激も何もない生活は次第に毒に変じる。そして自分を壊す。やりたいと思えるような仕事か何かに出会えればいいのだが、今の粳部はまだどこかをさまよう身だ。
「時間ありますから、諦めた大学を目指すのもありっすけど……」
「まあ、お前人間嫌いだからな」
その言い方には語弊がある。粳部は他人が好きな上に積極的に関わりたいと思ってはいても、自分を上手く守れないのだ。彼女は誰が何を考えているのかを考えることは凄く上手いと言っていい。
「好きですよ。ただ、自分を守る為に離れただけです」
根本から受け入れられない人間は拒むしかない。また、彼女は相手に対して共感し過ぎるあまり自分と他人の境界が曖昧になることもある。彼女は強い人間ではない、酷く脆いのだ。
故に変わった。繰り返していたらいつか壊れてしまうのだから。
「離れたね……共感し過ぎるからか?」
「深く相手が分かるってことは、諸刃の剣ですよ」
粳部は、できるのならば好きな物だけを選んでいたいと思っている。目の前の相手から逃げられないことの方が多い世の中なのだ。こんな小さなことくらい彼女の自由でもいいだろう。別に誰かを傷付けているわけではないのだから。人の多過ぎる場所はまだ、今の粳部には早い。
「他人と自分を切り離せないと、往々にして痛い目を見る」
「それは誰の名言っすか?」
「俺の経験だ」
ふと粳部は気になった。藍川が話をする人の数は彼女と変わらないくらいだったが、彼女と比べ彼とその友人の関係は浅い。今の粳部は他人と自分を線引きし適切な距離を取ることを選んだが、彼女にとって藍川は誰と接する時も自然と深く干渉しないようにしている風に見えていた。
それはどこか冷めているようで、別の生き物を見るようで。粳部とその姉に接する時以外、藍川の表情は貼り付けられたような笑み一枚だけだった。
藍川が笑い声を漏らす。
「お前って、我が強いように見えて実は弱い方だな」
「えーそうっすか?」
「でも、他人との線引きは上手い」
褒められているのか笑われているのか、又はその両方か。彼女からすれば彼の心は分かりにくい。それは生まれの差故か育ちの差故か。
かすかな虫の鳴き声すらも聞こえなくなった夜道に、二人の硬質な足音だけが響く。弱い街灯の光は足下まで届かず、グラデーションのように光と闇は分かれていた。周辺に家の明かりは全くと言っていい程になく、もし大気が綺麗ならば星も見えたのかもしれない。ここは酷く静かだ。
その時、藍川が沈黙を破って喋り始める。
「応急入院した日のこと……覚えてるのか?」
それをここで聞くとは思っていなかったのか彼女は驚く。ずっと避けていると思っていた為、聞かぬまま別れると思い込んでいたのだ。他人の頭の中を考えることは得意分野だが、彼に関する考えが当たることは多くない。彼がどういう人間なのか彼女にもよく分からないのだ。
「……実はサッパリないんですよね」
「え?」
「父が言うには、半年は受け答えが曖昧だったとか」
沈黙が再開し時間だけが過ぎていく。これはどう答えても微妙な空気になる話題であった。だが、彼はその場しのぎの嘘で騙せるような人間ではない。彼を本気で騙そうとするならば、明らかに時間が足りなかった。ならば黙っていることが正解なのかと言うと、やはりそういうことではないだろう。
まるで責任を感じているような視線の理由を、彼女は聞くことができない。
「……一年でよく退院できたな」
「そんなにヤワな人間じゃありませんから」
「ヤワじゃない奴が入院するかよ」
「あっ、ひどーい」
「冗談だよ」
次第に藍川は足を早める。背中の向こう側の表情は彼女には見えないが、彼には似合わないその速度から分かることはある。何か、得体の知れないものに追い詰められているような。彼女は今の彼からそんな嫌な感触を覚えていた。
彼女の歩幅が縮んで足音が遠ざかった、その時だった。不意に足音が近付く。
「……水の音?」
蛇口から水が溢れているにしては音が大きい。だが、水溜まりをぴちゃぴちゃと歩くような音が確かに聞こえる。雨どころか水気のないカラッとした夜に、その音は全くと言っていいほど似合っていない。大した理由ではないと思いたい彼女ではあったが、何か嫌な予感がしていた。
振り向くものの、そこには水溜まりどころか誰も居なかった。
「気のせいか」
「いや、気のせいじゃない」
「え?」
藍川の声に焦りが混じる。明確な不純物、日常的にあるありふれた焦りとは天と地ほど離れているそれは、明らかにその性質が異なっている。背中からではその表情は伺えないが、藍川の様子がおかしいことに粳部は気が付いていた。それはまるで、命の危機のような。
藍川はそのまま話し続ける。
「すまん粳部、道を間違えた。分かれ道まで戻ってくれ」
「いや鈴先ぱ……」
粳部がその異様さを追及しようと前を向いた時、道の奥で点滅を繰り返す街灯に気が付く。普通に考えれば街灯の寿命が近付いているだけだ。行政の手が行き届いていないのか。人間の世界を支える人工の光が、その存在を主張するようにチカチカと点滅していた。
しかし、それだけならば普通の光景だ。夜道を歩けば遭遇するかもしれない光景だ。意味も主張も人間の中にしかない。ただのありふれた故障と断言できる。
だが、奇妙なのは。
「お知り合い……じゃないですよね」
「粳部、急用を思い出した。先に帰ってくれ」
灯りの消えた街灯の下、藍色の暗闇に佇む高身長の男。粳部の見間違いか、街灯が光る度にその身体が消え、灯りが消えると現れる。その姿は常に暗がりの中にあり、灯りの下にはない。彼女の目は遂に狂ってしまったのだろうか、夢でも見ているのだろうか。
しかし、眼前の現実は決して揺るがない。すぐ側に藍川が居るのだから。
「どうしたんすか先輩、急に……」
「三回も言わせるな。早く……!」
粳部を横目に見た彼の眼光は、彼女が今まで感じたことのない刃物のような冷たさを喉元に突き付けていた。銀色に光る焦りと苛立ち。それはとても、かつての日常には似合うことのない代物。彼女の中のイメージと著しく乖離するモノ。
彼女は思わず怯み、弱々しく後退りする。
「え……え?」
「そのまま公衆電話に……」
その時、奴の真上にある街灯の点滅が止まり煌々と光る。粳部の目を奪う不自然な現象が消え、暖かみのある光で満たされたというのに懸念は消えない。涼しく心地良かった外気の感触すら不審だ。あの長身の男が居ないのだから。
そして、二人の視界が点滅する。
「……え?」
違う、点滅しているのは二人の視界ではない。それは彼女の真上にある街灯だ。視線の先にあったあの街灯のように点滅を繰り返しているのだ。不自然に、その存在を示すように。
瞬間、何かが粳部の背中に当たった。気配も音も殺して、何かがぶつかった。
「あの」
見上げる前に粳部の体が動く。彼女が動かしたのではなく、藍川が彼女を抱き寄せて街灯から離れたのだ。ほんの一秒にも満たない時間。拡張された彼女のスローな認識ですら、刹那の彼を捉えることはできない。たった一瞬で十数メートルも移動して見せたのだ。
だが、それは街灯の下の相手も同じだ。
「ッ!?」
いつの間にか彼女の背後に移動していた眼前の怪物は、既にその腕を振り下ろしていた。彼女が気が付くと彼は左肩から血を流している。目にも止まらぬ速さの攻撃だ。避けられないと悟っていたのか、彼の表情に驚きはない。
鋭利な手刀か何かで切り裂かれた彼の肩は、妙に現実味がない。
「す、鈴先輩!?」
「かすり傷だ!」
藍川が彼女を小脇に抱えて走り出す。街灯の下の怪物に動く様子はなく、ただジッと二人を眺めている。黒く、全体像を掴み難いコートと帽子を着た怪物。彼女からすれば襲ってきた恐怖よりも、理解できない恐ろしさの方が強かった。あれは人間ではない。
目まぐるしく動く藍川は既に車の速度を超えていた。
「とにかく移動する!」
「あれ人間じゃな……」
「見間違いだ!」
今更誤魔化せる筈がない。鬼気迫る状況であった為にまともな嘘を吐くことができず、逆に興味を引かせていることに彼は気が付いていない。初めて見たあの怪物に、彼女が興味を抱かない筈はない。
その時、粳部はその怪物が辺りの何処にも居ないことに気が付く。
「……ア、アイツは?」
「っ!?」
彼の息を呑む音に言い知れぬ焦りが見えた、その時だった。飛び乗った塀を駆け抜けて別の道路へ飛び込む二人の先、連立する街灯の中に一つだけ異常な街灯がある。点滅しているのだ。ただ暗闇で瞬いて、そこに居る筈のないその怪物を照らしているのだ。彼が全速力を出したというのに、先回りされていた。
彼女が今まで築き上げた常識が崩れた瞬間だった。
「なるほど、仕掛けはそれか」
「何言ってるんですか!?」
道路で急停止した彼が、暗闇に佇む黒い奴を見つめる。互いが互いを牽制しているようにも見えるが、人間ではない相手にそれが通じるかは不明だ。この様子では言語も通じないだろう。それに、どちらかと言うとその逆の挑発のようにも思える。藍川が彼女を地面に降ろす。
「ふう……」
彼が息を吐くと不意に大気が揺れる。ピリッとした電流のような感覚が彼女の肌に流れ、同時におぞましい何かを感じさせた。轟く恐怖が彼女の身を揺らす。敵を見据えて構える彼を見た瞬間に悪寒が彼女を襲うと、溢れる息が白いことに気が付いた。彼が何をしようとしているのか、彼女は知らない。
鋭い眼差しが空を裂く。
『祭具奉納、崇めたてるは筒路の此岸』
突然周囲が不自然に輝き何かが起きた。だが、彼女には理解ができない。
怪物の方は認識を凌駕する速度で突撃しようと、再び彼らを襲おうと静止した状態から予備動作なしで加速する。それは常識の外の攻撃方法。予備動作なく最高速度を叩き出した怪物は、その豪腕を振り下ろそうと彼に直進してきた。
だが、藍川は静かに何かを唄い上げる。
『搦目心中』
怪物が接近し腕が振り下ろされた刹那、藍川の目と鼻の先でそれは静止する。破壊的な威力の攻撃を止める不自然な怪物。彼は冷静にその胴体に重い拳を叩き込み、追い打ちとばかりに足を払うと更に卍蹴りで蹴り飛ばした。
崩れたブロック塀から起き上がる敵を見ながら藍川は距離を詰める。怪物が動きを止めたのは自分の意思なのか、それとも彼が何かをしたからか。
ふと粳部は、藍川の指にさっきまでなかった指輪の存在に気が付く。
『自害』
藍川が小さく呟いた途端、怪物はその腕を振るわせながら自分の腹に突き刺す。臓物に似た何かを腹から引っ張り出しながら、悲鳴にも似た声を発した。彼女には理解できない。何故自分達を襲った怪物が突然自殺しようとしたのか、一体何が起きているのか。
走り出した彼が地面を跳ね、なおも臓物を引っ張り出そうとする怪物に跳び蹴りを叩き込む。だが、彼女の近くの街灯が点滅すると奴が消えた。
「ま、また消えた!?」
「逃がすか」
突然、明かりの消えた街灯の暗がりに怪物が現れると飛び出し、粳部に襲い掛かろうとする。だが、またも直前で止まると硬直し、藍川の肘打ちを腹に打ち込まれた。しかし怪物も彼に肘落としを当てて隙を作り、彼の首へと手を伸ばす。
直前でその手が止まった。
『トラウマ』
その言葉が聞こえた途端、怪物は頭を抱えて悶え苦しむように動く。先程からまるで彼によって心を操られているかのような状態だが、彼女にはそれが何だか分からない。
彼はそんな怪物の頭に拳を突き上げると、がら空きの胴体を何度も何度も殴りつける。奴の体が空に浮き上がった瞬間、彼は怪物を遠くまで殴り飛ばした。奴の体がアスファルトにぶつかると砕け、何度も跳ねて転がっていく。
「何がどうなって!」
「説明はまだだ!終わりじゃないぞ!」
粳部が彼から怪物に視線を戻すと、そこに怪物の姿はなかった。
「どこから来ようとやることは変わらないぞ」
彼が冷静な声でそう言った瞬間、近くの街灯が激しく点滅する。もう流石に粳部にもどうなるのかが分かってきた。あの怪物は姿を消した後、街灯の下に出現する。その際に街灯を激しく点滅させて消すのだ。
街灯が消えた瞬間に暗がりから飛び出した怪物、藍川はその間合いに踏み込むとラリアットをぶつけて吹き飛ばす。怪物がブロック塀にぶつかって家と家の間に飛んでいく中、彼は粳部の腕を引っ張って街灯の明かりの下に入る。
「取り敢えずここに居ろ。この明かりの下から出るな」
「に、逃げないんですか?」
「ここ以外は皆同じようなもんだ」
普通、明かりの下に居ることが役に立つとは思えない。藍川が戦う間、ここで待っていろとでも言うのかと粳部は考える。確かに彼女は足手まといだが、こんな状況に一人で待機というのは不安だ。一番安全な彼の側には居られない。
藍川は敵を見て心底嫌そうな表情を浮かべた。
「全く、病み上がりに無茶をさせるよ」
「せ、先輩……ちっ、血が出てるっすよ!?」
「傷が裂けた。またぶり返したな、こりゃ」
街灯の明かりが真っ赤に染まる彼の服を照らす。彼女はあの包帯を見た時から不安に思っていた、どうしてそんな重傷で平気そうな顔をしているのか。こうして尋常ではない動きをすれば出血してしまうことは一目瞭然だった。
状況は悪い。




