7-1
【1】
「……どうしてこんなことになった」
「そんなこと言われてもねえ」
木の幹にまたがった染野とシルバー7が、双眼鏡を手に遠くを覗き込む。木の葉の作る日陰でひっそりと監視業務を行う彼らを、外から見つけるのは至難の業だろう。しかし、これは彼らの本来の業務ではない。染野が勝手にやっていることなのだ。
「隊長が言い出したんでしょ。監視するって」
「そこじゃない。何でこんなことを言い出したのかだ」
「……そりゃ直接聞けばいいんじゃない?」
「……聞いたところでだな」
歯痒そうな表情をする彼の持つ双眼鏡には、レンズを通して姉の日折が映っている。水泳の授業らしく、プールサイドに居る彼女を遠くから監視するのは絵面としては最悪だが、彼にはそうせざるを得ない事情があった。それに付き合わされているシルバー7は特に気にしていないようだが。
「……」
「これ、何かの罪に問われない?」
「いや」
どうやら彼女は別のことが気になるらしい。染野はいつもの無表情の上に険しい顔を貼り付けて、どういうわけか自分の姉の監視を続けていた。自分の姉がターゲットでなければ絵面が酷くなっていたが、かろうじてマシかもしれない。
こうなった理由は数日前に遡る。
『私も組織に入れて』
『……えっ?』
デパートの屋上、廃れた遊具の墓場で二人が向かい合う。染野が言葉を失くした後、文字を再度読み込んでリアクションをした。もう動かない錆びたパンダにまたがった日折は、あの染野が目を丸くするような提案をして見せたのだ。
七月上旬、まだ陽は高い。
『いや……いやあり得ない』
『飾身が辞めないなら、こうするしかないでしょ』
『組織に入っても俺の後をくっ付いて回ることはできない』
『そんなの、やってみなきゃ分からない』
日折はとうとう引き下がらなくなった。彼女は以前から我が強いタイプであったが、今日は以前の彼女とはレベルが違う。染野のその場しのぎの言葉では動じない程に、彼女の決意は固まっているのだ。
『……入って何するんだ』
『さあ……身の振り方は入ってから考える』
『何一つとして認められない……無理だ』
『飾身が推薦して。何が何でも入る』
『身内は推薦できない』
彼はルールを語るものの、重要なのはそこではない。染野としては何が何でも姉を組織に加入させるわけにはいかないのだ。普通の環境で普通の人間として生かす為、彼はできることを全てやっていた。だが、抵抗虚しく日折は逆らう。
彼と同様に。
『……こうなると、学校を辞めてでも』
『いや、いやそれは……それは違うだろ』
彼が動揺を隠せなくなる。彼女が学校を、若者の日常を捨てることだけは看過できなかったのだ。無感情でただ機械的だった彼が珍しく感情を露わにしていた。だが、染野はその事実に気が付いていない。今の彼では、まだ。
だがその時、近く遊具の影から見知った顔の女が現れる。
『そ、そんなに一緒に居たいんですか?』
『粳部か』
『……隻眼隻腕の人』
『う、粳部音夏です……どうも』
粳部は腕の無い方の袖を揺らしながら頭を下げる。彼女の出現に染野は何かを察したのか、表情を硬くした。話を聞いていて口を挟んだのであれば、碌な話の流れにならないことくらいは分かる。
『……どこから聞いていた』
『最初からです……た、たまたま近くにいて』
『随分都合の良い偶然だな』
『すいません……見守ろうと法術で分身を飛ばしました』
粳部が言い訳のように視線を逸らす。元々隠れて見るのが得意なのか、それとも単に染野の感知能力が彼女に対して鈍いだけなのか。日折はそんな彼女を訝しむような目で見つめていた。
『前にも急に現れた人……』
『は、はい……すいません』
『何で今謝った?』
『うっ……ただの癖です』
粳部が苦虫を噛み潰したような顔をする。彼女の方が彼よりも等級は遥かに上だが、それを言葉にして自慢するような人間ではないのだろう。日折はそんな彼女の反応を見て、ほんの少しだけ表情を緩めた。
『日折さん、でしたよね。お勧めしませんよ?』
『私に勧められないなら、飾身にも勧められないでしょ』
『それはそうですが……』
即答だった。染野が口を挟む隙すら与えない。日折はその物言いに不満そうにする。少なくとも、この女は自分の弟のように常識が欠如してはいないらしい。粳部はずっと同じことを考えていたのだから。
『本気ですよね……組織に入りたいって話』
『見た通りでしょ』
『……染野さんの傍に居たいからですか?』
『別に』
日折は一度、染野の方を見る。彼は粳部が現れてからは何も言わず、ただ二人の会話を見守っていた。口を挟めば余計に拗れることくらいは、彼にも分かっていたのだろう。それに、粳部の決定を彼が覆せる筈もない。
彼女の言葉は短い。
『私は、自分にできる程度のことしかできない』
『……』
『それを繰り返すだけ』
粳部は日折の言葉を朱い瞳でじっと見つめる。蓮向かいの戦闘要員になりたいという話ではない。それは、変えられないことへのささやかな抵抗だった。だが、ただの学生の彼女に何ができるのか。
『で、でも、染野さんと同じ場所には立てません』
『粳部……』
『最前線に立ち続ける彼とは、違う世界に居たわけですし』
染野が小さく息を吐く。それは安堵のようにも見えたが、粳部の話はまだ終わっていなかった。
『でも、未成年者でもできる業務として……』
『……おい待て』
『情報収集、監視……人手は常に足りてません』
『許可できない』
『身の危険は少ないです。一般職員として、組織の末端になれます』
粳部の提案に、染野の表情が少しだけ変わる。普段の彼にしては珍しい、明確な拒絶の色だった。許可できないという強い言葉で粳部を否定するが、その言葉にはやけに焦りの色が伺える。
『駄目だ。普通の生活を送って、関わるべきじゃない』
『私が決めることでしょ』
『お前は……』
『飾身は私の何なの?保護者?それとも、私の人生の管理者?』
日折の声には、明確な怒気が混ざっていた。錆びたパンダから降りた彼女が、染野の方へ一歩近付く。だが、それに怯むほど彼はやわではなかった。
『そうじゃないのか?』
『どうしてそこでそういうこと言うんですか……?』
『分からず屋……』
『権利の話ならある。俺の等級なら、推薦の有無に関係なく』
『それは、もっと上の権限には勝てないですよね』
日折が粳部の方を見る。粳部は困ったような顔をしながら、もうこれ以外に選択肢はないと判断した。彼女らしからぬ乱暴な言いようだったが、染野が相手であればこうもなるだろう。
『……私の権限で許可します』
『粳部!』
『す、すいません……でも、これは日折さんの意思なので』
Ω+の等級を持つ粳部の決定に、染野の等級では覆すことができない。組織における立場の差が、ここで初めて姉弟の間に明確な線を引いた。
『……』
染野は何も言えなかった。ルールに従うことはできても、ルールそのものを変える力は彼にはない。そして、彼が本当に拒否したいのはルールではなく、姉が危険な世界に踏み入ることそのものだった。
その想いを、彼はまだ言葉にできていない。
だからこそ、彼は数日後、双眼鏡を持って木に登っている。
日折が遠くのプールで水泳を行う一方、染野はただ不愛想に監視を行っている。今の彼にできることは、せいぜい姉の行動を見守ることだけだ。そして、それは彼にとって何よりも落ち着かないことだった。
「……リスク管理にしては大げさすぎない?」
「大げさくらいでいいだろ。問題を起こされるよりは」
「問題ねえ……珍しく私情が見えるなあ」
シルバー7の指摘に、染野は何も答えなかった。双眼鏡の先で日折は何事もなくプールから上がり、友人の朝子や三らと談笑している。普通の高校生の、普通の光景だった。
だが、日折はそれを捨てかけている。
「私情……自覚できないな」
「隊長として満点でも、人としては赤点かな」
「……考えを上手く言語化できないが、これを続けるのが普通か?」
「さあね、正解なんかないでしょ」
シルバー7が木の枝に背中を預けながら呟く。その言葉は彼女にしては珍しく的を射ったものであった。染野は双眼鏡を下げ、ようやくシルバー7の方を見る。彼の疑問は尽きないらしい。
「……それなら俺は、昔のままでいい」
「それもありなんじゃない?知らないけど」
シルバー7は自分の発言に責任など持たない。




