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ガランドゥ『仮想現代戦記』  作者: 扇屋
赤の火鼠 第4話『無知が罪ならば』

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4-4

【7】


 春風が路地裏に吹き込む中、日折はスーツケースを持って階段を降りてくる。トルコの気候と気温は日本とそこまで差がなく、旅行は快適なものであった。だが、彼女は旅行に来たわけではない。

 その表情は酷く無機質なものであった。

「……」

 階段を降り切った彼女は周囲を見渡し、腕まくりしていたシャツを元に戻す。そこには何度か止血したのか絆創膏が何枚か貼られている。スーツケースを引いて日折ひおりが歩く中、路地裏の住人達は彼女のことを観察していた。

 海外で女性が一人出歩くのはあまりにも危険過ぎる。だが、運が良かったのか彼らは何も手出しをせずに彼女を見逃す。

「……」

 まず、数日前に遡る。



『ん?どこに行く?』

『連休だから……友達の家に泊まることになった』

 自宅で日折が広げられたスーツケースに荷物を詰めている。帰って来たばかりの染野そめのは状況がよく分かっていなかったものの、特に気にする様子もなさそうだ。それはこの穏やかな生活で牙を抜かれてしまったからなのか。それとも。

『月曜日の昼には帰って来るから』

『そうか』

『おかずはパックに詰めてる……好きに食べて』

『分かった』

 染野そめのが単純な返事をする。子供扱いされているものの、彼は今まで自分のことを自分で全てやってきたのだ。言われなくともそのくらいのことは自分でできる。

 彼女が忘れ物がないのかを指差し確認していた。

『パックご飯もあるから、レンジでチンして』

『俺はガキか』

『私よりはガキでしょうが』

『それもそうだ』

 そんなやり取りをした後、パスポートをこっそりと懐にしまった彼女が立ちあがる。荷物を詰め終えたスーツケースを引っ張ると、日折ひおりは旅に出る為に玄関へと向かう。染野そめのは彼女の嘘に気が付けていない。

『じゃあ……行ってきます』

『ああ』

 扉が閉まる。スーツケースを引く音が遠ざかっていく中、染野は定位置とも呼べる窓際に座った。この連休はどうやら彼一人で過ごすらしい。

『……寮に住んでない友達が居るのか?』



 そして、彼女はここまでやって来た。自分の行先について弟に話すことなく、スーツケースを引っ張って大通りを目指す。そのスーツケースの中に何を入れているのかは誰にも分からない。

 その時、光が差し込む大通りからある女が現れる。

「ひっ、一人歩きは辞めた方がいいですよ……海外では」

「……いつも一瞬で現れる」

 粳部音夏うるべおとかが彼女を待ち構える。日本ならまだしもトルコのこんな外れの町で出くわすのは、偶然だとしたら天文学的な確率だ。隻眼隻腕の女はいつものように弱々しい表情をしながら、勇気を振り絞って話をする。

 二人が向かい合って止まった。

「何でトルコくんだりまで?」

「……あなたに言う義理が?」

「な、ないですけど……犯罪に巻き込まれたりしますよ」

「弟を解放したことは感謝してる……でも関わらないで」

 本来、もう二人に関わりが生じる筈がない。染野は組織との関りを失い、もう戦いに駆り出されることもないのだ。だが、彼女は再び現れた。日折の目の前に粳部音夏は現れたのだ。

「……ここでは売血も合法です。褒められた話じゃないですけど」

「……」

「そうやってあの四千万円を用意したんですか?」

 日折が売血した方の腕を隠す。誰にも気が付かれないように細心の注意を払っていたというのに、彼女は見つけてしまったのだ。四千万円という大金は学生のアルバイト程度では稼ぐことはできない。ズルでもしない限りは。

 だが、そうだとしても不審点がある。

「でも、四千万円分の血は致死量を超えてます……」

「……私の血をどうしようと私の勝手」

「コツコツやっても無理な筈……」

 血の価格というのはそこまで高いわけではない。貧乏人が行う最終手段として、売血の主な利用者は低所得者が殆どだ。四千万円の分の血を失血死せずに売ったとなると相当な期間になってしまう。

 日折は一体どうやって、それだけの額を稼いで見せたのか。彼女は粳部の問いに答えることなく大通り向かっていく。

「余計なことに首を突っ込まないで」

「……つっ、突っ込みますよ。職業柄」

 すれ違った二人は離れていく。通りを歩く日折は胸ポケットに挿していたサングラスを掛ける。それが変装のつもりなのかは誰にも分からないが、彼女は雑踏の中に溶け込んで姿を消した。

 最強と呼ばれる粳部音夏も、人の心の中までは分からない。




【8】


 夜、二十三時を回った頃。日折は敷かれた布団の上で脚を崩しつつ本を読んでいる。染野も椅子に座って何かの冊子を読んでおり、網戸の向こうからは涼しい風が吹いていた。虫の音すらも聞こえない静かな夜だ。

 二人が紙を捲る。

「……何読んでるの?」

「求人。今日、調べに行った」

 求人票を読んでいる彼を日折が横目に見る。彼女が読んでいるのは子供向けの小説だというのに、弟の彼が読む物は酷く退屈そうだ。求人票を調べる辺り、元の組織のことを忘れようとしているのか。

「……飾身は学校とかに興味ないの?」

「必要があれば。ないから人生で一度も行ってないわけだ」

「時間はまだいっぱいあるのに」

「……今更行ったところで、どうせ付け焼き刃さ」

 染野の人間性は日折と比較してかなり薄い。普通の生活を今から送ったところで、今までの遅れを取り戻せる筈がなかった。彼のその判断は合理的なもので、彼のどうにもならなさを物語っている。

 染野が求人票を読み終えたのかテーブルに置く。

「何読んでるんだ?」

「図書室で借りた本……案外面白い」

「……そうか」

「昔は読めなかったものも……今は自由に読める」

 日折は今の生活を気に入っている。唯一の家族である弟と共に小さな部屋で、特に不自由することなく穏やかな日々を送る。その為ならば、彼女は文字通り自分の身を削ることもいとわない。

 ふと、日折が本に栞を挟む。

「……少し、蒸してるね」

「そうだな」

 梅雨真っ只中ということもあり、窓を開けているというのに高い湿度が二人を襲う。暮らすには少し不快指数の高い湿度で、エアコンの除湿機能があれば過ごしやすくなったことだろう。

「……アイス食べたい」

「……買いに行くか?」

「いいの?」

「まあ、いいんじゃないか」

 珍しく染野が曖昧な返事をする。いつもは堅物で答えにくい話をする彼にしては、それはノリの良い返事であった。日折はふと目を丸くした後、それならばと立ち上がる。

「じゃあ……行こう」

 そのまま、無言で二人は家の外に出る。特に準備をするなどということもなく、ノリと勢いで行動に移る。夜風のあまりない夜はまどろんでおり、停滞した湿度がじわじわと二人を蝕んだ。

 街灯の少ないこの町の夜は暗い。

「……珍しいね、こんな風に出歩こうと思うなんて」

「まあ……たまには良いだろ」

「そうだね……時間はあるんだから」

 彼らしからぬことを言う。二人は人通りの一切ない夜道を歩き、街並みのどこかに埋まったコンビニを目指す。夜中に買い物に行くのはあまり褒められたことではないが、それができるのは都会の特権だ。

 静かな夜に硬質な足音が響く。

「……自分が、駄目になってきている感覚がある」

「そんなことない……これは多分、幸せなことだよ」

「どうだろう……俺には分からない」

 ここ数日、彼は役割を与えられずただボーっと生きていた。それこそが幸せなのかもしれないし、働かなくていいのなら誰しもがそうするだろう。だが、人としての軸が未完成の彼を野放しにしてもまともなことにならない。

 自由を与えても染野はそれを持て余してしまっていた。

「私は……今が一番幸せ」

「……」

「今が続くなら、私は何だって支払える」

 実際、彼女は四千万円を支払ってまで手に入れようとしたのだから。

「俺は何をしたかったのか……もう曖昧になってきた」

 誰ともすれ違うことなく二人はコンビニに近付いていく。生きる動機も、自分のことすらも曖昧になってしまった染野は気力を失いつつある。気力が空でも生きていくことはできる。だが、それは少し苦しい。

 言葉と言葉の間隔が長い。

「……曖昧でも、生きていけるよ」

 日折がそう答えたその時、遠くから激しい光と轟音が生じる。建物の上部で爆発が起き、そこから高速で離れる希代きだいと四人の追っ手達。祭具さいぐの斧を手にした希代きだいは彼らと打ち合うが、四人の連携を前に苦戦しているようだ。

 染野の心は戦場が戻りかける。

希代きだい……!何らかの任務か」

「行くなんて言い出さないよね」

 圧のある言葉が彼を引き留める。実際、染野が出向く必要はないのだろう。希代きだいもそれなりの実力者であり、手を出したところで逮捕が早まるだけだ。組織を抜けた染野が彼のことを気にする必要はなく、日折の言葉は正論だった。

 彼女が彼の腕を掴む。

「もう組織の人間じゃないでしょ」

「……」

「それに、飾身が出なくても倒せる」

 事態はそれほど深刻ではない。だが、彼は目の前の現実から眼を逸らすことができない。かつての部下が戦っている。自分は日常と非日常の間を彷徨っている。一歩進むか一歩戻るか、彼はどちらも選べる状態であった。

「俺は……」

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