003
「むはぁ」
呆然として身体を洗い、髪を洗い、顔を洗う。しかし人間、身体には正直で、露天の熱い湯に浸かるといきなり人心地ついた。
トロリとして、底の石が見えるほど透明な湯は極上である。
周囲は見事な竹林、季節は初夏か、目に染みるような若い緑が素晴らしい。
『風呂は大浴場になさいますか、露天になさいますか。小さな内湯のようなものもございます。簡単に使い方をご説明いたしますが、介添えは必要ですか』
外交官であるという年配の女性にさらりと聞かれ、わたしは迷わず露天を取った。湯の使い方は温泉旅館と大差ない。
私は平気だが、ニナのほうはそもそも他人と一緒の浴室という文化が信じられないようで、こわごわと内湯を選んでいた。あの分だと、他にも色々とまどっているかもしれない。
(ああ、いい湯だなぁ)
ここは静かだ。
汗をかいた顔を撫でると、左に目の傷が引っ掛かる。
右の瞼だけを閉じると、途端に周囲の風景に霞がかかり、明るい緑と光だけが印象派の絵のように揺れた。
孟宗竹の間をさあっと風が走り、両目を閉じたところで、急にお腹が鳴ってしまった。
「何だあれは、あんな熱湯にはいっては火傷するじゃないか!」
すっかりのぼせて湯からあがると、すでにニナが待っていた。
残念ながら、彼女はわたしのようには寛げなかったらしい。適当に着たらしい浴衣の崩れた胸元を直すと、素直に身を預けてきた。なのに、先ほどの外交官が飲み物を差し出すと、途端警戒した顔つきになる。
「いただきます」
「……イマリ、なんで暑いところに熱いものを飲むんだ」
お冷と熱い煎茶の後者と取ると、信じられない顔をされた。
「習慣だからかな。暑気払いといって、暑いときには熱いものを飲むのがいいと、爺ちゃんが言っていた」
ふうふう言って上品な薄緑を口に含む。もちろん外を歩いたりした後は冷たいものが欲しいが、今のは無意識にやっていた。わたしが飲むのを見て、疑わしそうにニナも茶を取る。
(もしかして、毒なんかを疑っているんだろうか)
その部屋は半分が石の床、半分が一段高い畳敷きになっていて、私はその座布団の上に足を崩している。和洋折衷というか、不思議な作りだ。
ニナは落ち着かないのか、靴を履いて畳に尻を乗せて腰掛けていた。
「イマリ、お前はここがどこか知っているか。お前はここのものなのか」
「ここが何処なのかは、よく分からない。わたしの住んでいたところに似ているけれど、違う場所だと思う」
ここはわたしなんかが想像もしなかったほど、ここは小さな茶托のひとつまでが当たり前に一級品で、贅沢な場所だ。一般庶民のただの想像、いや妄想に過ぎないけれど、将軍家とか明治の大財閥の屋敷、あるいは御所なんかでなければこうはいかないんじゃないだろうか。しかし湯も着物も茶も日本のものに似てはいるけれど、どこか風合いが異なる。何よりどの部屋にもどの場所にも、電化製品が見当たらない。
「その割には慣れているというか、落ち着いていないか」
「自分が卵から孵ったという衝撃で、感覚が麻痺してる」
別に肝が据わっているのではなく、単に現在鈍感になっているというだけなのだろう。どうも我ながらぼうっとしている。
「なあ。私達は、本当にあれから孵ったのか?」
視線が合う。取り替えられたわたしの黒の目と、ニナの緑の目が。
理性のどこかが、自分は根本的な思い違いをしているだけではないか、誰かに担がれているんじゃないかと囁くけれど、何故か心が信ずるところは揺らがない。ニナは首を振った。
「……私もあそこに長い間、居たような気はするが」
「同じく。でも、もういい歳のはずの自分がどうやって、何故卵の中に入ったのか、全然記憶にない」
記憶にある限りの過去を検証してみれば良いのかもしれないが、今は頭が働かない。
その後、粥を運ぶ外交官と共に現れたのは、少し小太りだが声がしっかりして感じがいい男だった。
「両殿下、失礼致します」
わたしより少し年上といったところだが、先の外交官の上司らしい。名は、ツヅミ。
充分距離を開けて立ち、もしよろしければと粥を勧めて、その間に手短に話をさせて欲しいという。
「陛下より、私から両殿下に簡単にこの国とお二方のお立場をご説明するようにと言い付かりました。普段は諸外国の官吏ばかり相手にしておりますもので、行き届かぬこともありましょうが、私に何でもご下問いただければと存じます」
「その殿下というのは何なんだ?」
これはニナの問い。
「陛下がひとまずそのように、お二人のご身分を定められました。この国の始祖竜の招いた尊い客人ゆえ、他国の王女に順ずる応対をせよと」
わたし達に着物をくれたのがさっきの陛下とやら、つまりはここで最も身分が高い男と思われる。
(頭が切れそうな人だな)
得体の知れないわたし達相手の対応に、部下が困らないようにすると同時、陛下と呼ばれる自分のほうが位が高いことも示している気がする。それがわたし達に吉と出るか凶と出るかは置いておいて、若いのに気が回る。
「このまま話を続けても宜しいでしょうか。実はこの後、お二人を次の場所へお連れするように言われており、それほど時間がないのです」
「ええ、どうぞ」
ニナと視線を合わせて、頷く。こちらは今、右も左も分からない。大人しく情報収集しよう。
ツヅミ曰く。ここはヤマという名の国で、代々の帝が治めている。
帝の始祖は竜であったと言われており、その血筋がこの国を平定して四百年近い。
さて何代か前の帝の時代に、その枕元に始祖の竜が現れ、己が子孫へ花嫁を遣わすと告げた。その翌朝、宮殿の大堂に巨大な卵が見つかり、ではここから帝の花嫁が出てくるのであろうと大切にされたが、結局その帝の代に卵は孵らなかった。次の代も、次の次の代も。今の帝の先代の頃にようやく卵にひびが入り、いよいよ花嫁が現れるかと期待されたが、その帝は残念ながら若くして崩御した。
今上帝が即位して一年と少し、とうとう今日竜の遣わした卵が孵り、宮廷は慶事に沸き立っている。
さすが官僚、ツヅミはおくびにも出さなかったが、孵った女が二人居るのはお互い困った事態に違いない。
続く




