002
ごちり、ぱきん。硬い衝撃がどこかから響いて、目が覚めかけた。
(……眠い!)
つい頭の中で宙に向かって主張する。
三十代にもなって褒められた事ではないが、わたしは子供の頃から寝起きが悪い。しかし五十を越えると逆に良く眠れなくなるそうなので、わたしはまだまだ若いということなんだろう。きっとそうに違いない。
それにしても、なんだか起きるのが惜しいほどに心地が良い夢を見ていた気がする。暖かい場所でたゆたい傍に小さな鼓動を聞きながら、自分というものが、美しい器のように捏ねられ形づくられ、焼成されて固く目が詰まってゆくような。
だが夢心地は、しつこく続く衝撃の中でゆっくりと失せてゆく。すると突然息苦しくなって、あとはわき腹の辺りでもぞもぞと動く何かにも気づき、一気に不快感が増した。
反射的にもがいて手足を跳ね上げると、ぐらりと世界が回り、
「くはッ」
どっと肺へ空気が流れ込んできた。こうなるともう寝ている場合じゃなく、ひとまず驚愕して狼狽する。
(もしかするとわたし、しばらく肺で息を吸っていなかったんじゃなかろうか)
そんな事がありえるのか。まさか、溺れていたとか?
頭上に見える光に、自分がひどく狭い場所にいることに気づく。球だ。わたしは球体の容器の中にいた。しかも一人じゃない。何故だかべっとり濡れた顔を拭うと右目は良く見えるようになって、わき腹のもぞもぞの正体が、険しい顔で上を見上げているのに気づいた。お互い座ってぎゅうぎゅうになっているもう一人は、白磁に薔薇を浮かべたような肌の美少女である。まだ子供といって良い歳だが確実にアジア人ではないだろう。金の髪と黒の目をして、鼻はちょっと上向きで、あとはなんだか耳が妙に長くてとんがっている……気がする。しかも今、その耳がぴるるっと震えた。えっ。
「孵った、か」
外からやけに響く男の声が響き、少女は目を細めて、小さな天蓋のふちに指をかける。
周囲の壁からカーブを描いて繋がるそれは、ぱきんと割れて広がった。厚さは数センチ、硬そうに見えて案外脆いらしい。
本来狭い場所は嫌いなのだが、周囲の光が少し透けるこの場所は妙に落ち着く。だが確かにわたしも外へ出たい。服さえあれば。気づけば美少女もわたしも裸である。濡れてはいるが、身体に違和感がないのが一縷の希望だろうか。
とにかく落ち着こうと、とりあえず腕を伸ばして、こつこつと壁を叩いてみた。しかし先ほどから左目に何か塵でも入ったか、視界が曇って仕方ない。
「なんという事だ、女の腕だ」
「伝承の通りだ」
「瑞兆だ」
「百余年越しの」
外のざわめきに向かって、勇敢にも少女が声を張り上げる。
「おまえ達、この私を妙な場所へ閉じ込めて、何のつもりだ!」
確かに誰が何の酔狂で、どうやってこの子とわたしを閉じ込めたんだ。ここの石灰質の壁は、どう見ても何かの卵の内側に見える。それも安っぽい小道具などではない、間近に見ても、薄皮まで張り付いて酷く本格的だ。天井の穴はまだ酷く小さく、内側に他のつなぎ目や割れた箇所は見つからない。しかしそんなはずはないじゃないか。
(だってわたし達が内側にいるのに?)
と、急に外が騒がしくなった。
「陛下、お下がりあそばせ」
「御身になにかあっては」
「伝承の通りであれば、そこに居るのはわが妻だというのにか? おい、殻を割るぞ、目は瞑っていろ」
その美声の持ち主が、かつりと叩いた殻が大きくヒビ割れ、外の世界があらわれる。殻は美少女より背のあるわたしの胸元まで崩れた。
「ふ、二人!?」
幾人か居るらしい周囲から、押し殺したような悲鳴があがった。とても芝居とは思えない。
しかしこちらを覗き込んだ男は、興味深そうに口角を上げている。切れ長の目に凄みと甘さが混在した、ちょっと珍しいような美青年だった。
「ほう、確かに二人だな」
「人間どもか」
「ならばそちらは竜の眷属か」
少女の唸り声を無視して、男は重ねた着物をさらりと肩から滑らせ、こちらへ寄越す。二枚寄越したところが、青年、なかなかゆき届いている。
「……竜。お前、何をいっている」
「この卵は我が始祖竜が、世継ぎの伴侶を探して得たものと聞いているが。おまえ達は竜ではないのか?」
「見れば分かるだろうが」
美少女の冷静なッコミに思わず頷きつつ、私は与えられた着物を引っ張り込んだ。
手織りされた柔らかい絹を眺め、自分はひとまず肩にひっかけ、それからぴちぴちの美少女の身体を包んでやる。周囲を猜疑と警戒に満ちた目で睨んでいる美少女だが、この不可解な状況のお仲間だからか、わたしには抵抗せずに背中を預けた。ひと心地ついたところで、改めて周囲を見渡す。朱柱が並ぶ大堂にぱらぱらと平伏する数十人。
「まず」
声を発すると、視線がわたしに集まるのを感じた。
平伏しているその他大勢からは、あ、影薄かったけどこいつも喋るのという目を向けられている。わたし達は珍獣ですか。
「身体を洗いたいのですが、どうでしょうか」
(動転のあまり、先に名乗るの忘れた)
黒川 五鞠というのがわたしの名前だ。
現在の記憶の及ぶ範囲で言うと、歳は三十四、西暦二千年代の日本でごく地味に会社員をしていた。未婚である。
漢字は当て字で、想像が付く人も居るかもしれないが、骨董屋の祖父が好きな焼き物にあやかって付けたらしい。その実子の母は古美術の類が大嫌いだったため、猛反対をしたらしいが、祖父に丸め込まれた婿の父が押し切ったらしい。どうも長年父が愛用しているヴィンテージの腕時計辺りが怪しいと、わたしは睨んでいる。
従って、いまりのアクセントは『い』に付く。
そんな詳細まで話はしなかったが、浴室へ案内されがてら、美少女とお互い自己紹介は済ませた。
彼女の名はニナ、歳は数えで七十五……なんですとな。
「そんな事より、おまえ、目が」
ニナはわたしの頬に白く細い指を伸ばす。
「左がよく見えないだろう。それは私の目だ。私の傷だったのに」
光と色は分かるのだ。失明までしている訳ではなさそうだが、確かに、いまわたしの左目はものの輪郭が全く見えない。
唇を噛み締めたニナの、美しい金髪がかかるには違和感がある、黒い目。そして浴室で差し出された鏡を覗けば、馴染みの深い我が顔に納まった、瑠璃色の瞳……その左の瞼には斜めに大きな傷がのこって、これで恐らく眼球を痛めたのだろうという事がわかった。
わたしはそこでようやく、本能的に悟っていた現実を認めざるを得なくなった。
わたしとニナはあの卵から、ここへ孵ったのだ。その際にお互いの部品を取り違えた結果が、この目なのだろう。他に内臓のひとつくらいは交換していそうな気がするが、とりあえず手足や胴にはこれといった違和感はない。しかし人間が卵から生まれるなんて聞いたこともない。衝撃のあまり完全に飽和した頭で考えた。
つまるところ今から入る風呂が、わたしの新しい産湯ということになるらしい。
続く




