第9話 空白の街
カモイヨシエは、特殊対策室に入ってから、目に見えて成長していった。
もちろん、性格が丸くなったわけではない。
口の悪さは相変わらずだったし、気に入らないことがあればすぐに怒った。自分より弱い相手には容赦がなく、自分より目立つ人間には露骨に嫉妬する。失敗を指摘されれば食ってかかり、少し褒められただけで、さも当然とばかりに胸を張った。
人間として成長したのかと問われれば、かなり怪しい。
だが、少なくとも特殊能力者としては、確実に変わっていた。
特殊対策室に入ったばかりの頃、ヨシエの戦い方はひどく力任せだった。
彼女が操るのは重力だ。
人や物にかかる重力を強めることも、逆に軽くすることもできる。単純なようでいて応用範囲は広く、出力だけを見れば、ヨシエは最初から十分すぎるほど強かった。
まともに力を受ければ、人間など立っていることすらできない。さらに重力を強めれば骨を砕き、地面へ押し潰すこともできる。車両を停止させ、建物を崩落させるほどの力さえあった。
問題は、その強大な力を、当の本人がろくに扱えていなかったことだった。
腹を立てれば出力を上げる。相手が倒れなければ、さらに強くする。それでも気に入らなければ、もっと強くする。
それが当時のヨシエの戦い方だった。
敵一人を止めるために周囲の床まで陥没させ、古い建物では壁や天井に亀裂を走らせる。味方が近くにいることを忘れて重力場を広げ、トンダの足元まで巻き込んだこともあった。能力を乱暴に展開した結果、自分の身体にまで余計な負荷をかけ、戦闘が終わる頃には膝が震えて立っていられなくなったことさえある。
力はある。だが、あまりにも雑だった。
そして、そのたびにトンダユウイチは容赦なく彼女を罵倒した。
「雑なんだよ、豚」
「誰が豚よ!」
「重力を強くすりゃ勝てると思ってんのか。脳みそまで豚なのか?」
「殺す!」
「やってみろ。重さで押し潰すだけなら大型トラックでもできる。お前は特殊能力者だろ。制御しろ」
「誰が大型トラック以下よ!」
「そこまでは言ってねえ」
「今言ったのと同じでしょうが!」
腹が立った。死ぬほど腹が立った。
あの黒縁眼鏡ごと顔面を地面へめり込ませてやろうと思ったことなど、一度や二度ではない。実際、頭の中では何度も潰した。
だが、さらに腹立たしいことに、トンダの指摘はいつも的確だった。
ただ「もっと上手くやれ」と言うのではない。
どこが悪かったのか。なぜ失敗したのか。どうすれば同じ力で、もっと少ない被害に抑えられるのか。反論の余地がなくなるほど具体的に突いてくる。
重力場を展開する範囲。力を集中させる位置。対象の重心や姿勢。味方の動線を塞がない立ち位置。建物の構造や強度を踏まえた出力の調整。相手の全身を押し潰すのではなく、膝や足首といった一部だけへ負荷をかけ、動きを封じる方法。
倒すためにどれだけ強い力を出せるかではない。
必要な場所へ、必要なだけの力を使う。
トンダがヨシエに求めたのは、それだった。
現場が終わるたび、あれが悪かった、ここが遅かった、次はこうしろと叩き込まれた。褒められることはほとんどなく、何かできるようになれば、それを前提にさらに難しいことを要求された。
ヨシエにとって、それは初めての経験だった。
学校では、そんなことを教えてくれる人間はいなかった。
教師たちが考えていたのは、彼女の能力をどう使えばいいかではない。どうすれば使わせずに済むかだった。
感情的にならないように。興奮しないように。なるべく能力を使わないように。何かを壊さないように。
幼い頃から暴発を繰り返してきた重力操作は、才能として扱われたことなどほとんどなかった。家族にとっても、それは誇るべきものではなく、いつ周囲を傷つけるかわからない危険な力だった。
大人になってからも、その扱いは変わらなかった。
就職活動で特殊能力者であることを伝えた瞬間、面接官の表情がわずかに硬くなる。
重力操作だと説明すれば、なおさらだった。
危険ではないのか。日常生活で暴発することはないのか。職場の設備を壊す可能性はないのか。もし業務中に事故を起こした場合、誰が責任を負うのか。
聞かれるのは、いつもそんなことばかりだった。
誰一人として、「その力で何ができますか」とは尋ねなかった。
どう生かせるのか。どんな場面で役に立つのか。もっと上手く使うには何を覚えればいいのか。
そんな話をされたことは、一度もなかった。
だが、トンダは違った。
最初から、ヨシエが重力操作を使うことを当然の前提としていた。
危険だから使うなとは言わない。能力を知っても怖がらない。距離を取ることもしない。
むしろ使わせる。失敗すれば罵倒する。何が悪かったのかを指摘し、直せと言う。
そして次の現場になれば、前回の失敗など当たり前のように過去のものとして、またヨシエを連れていく。
そこには、彼女を危険物として扱う感覚がなかった。
特殊能力者だから遠ざけるのではなく、特殊能力者だからこそ、使いこなせるようになれと要求してくる。
ヨシエの力を、一つの戦力として数えている。
その扱いは、彼女にとって腹立たしいほど新鮮だった。
「豚、右!」
「だから豚って言うな!」
ある現場で、トンダの声が飛んだ。
怒鳴り返しながら、ヨシエは反射的に右腕を振った。
崩れかけた壁の向こうから、鋭く尖った鉄片が飛んでくる。敵の能力によって弾き飛ばされたそれは、甲高い風切り音を響かせながら、トンダの顔めがけて一直線に迫っていた。
ヨシエは即座に重力をかけた。
鉄片が空中で急激に沈む。
軌道が折れ、トンダへ届く直前で床へ叩き落とされた。硬い金属音とともに先端が床へ突き刺さり、その周囲のコンクリートが小さく砕ける。
「遅い」
「落としたでしょ!」
「落としたが遅い。俺が避けなきゃ頬が裂けてた」
「裂ければよかったのに」
「お前の給料から治療費引くぞ」
「労基に言うわよ!」
「その前に報告書を書け。今ので床も割れてる」
「細かいのよ!」
怒鳴りながら足元を見る。
確かに、鉄片が突き刺さった周囲の床まで浅くへこんでいた。
必要以上の範囲へ力をかけてしまっている。
鉄片だけを落とせばよかった。周囲の床まで重くする必要はない。
ヨシエは舌打ちした。
トンダに指摘されるのが腹立たしい。
だが、自分でも失敗したことはわかっていた。
――次は、鉄片だけ。
頭の中でそう決める。
次の現場で、似たような飛来物が来た。
今度は狙いを絞った。
周囲ではない。飛んでくる物体そのものだけを捉える。力を集中させる。
飛来物は、床をほとんど傷つけることなく真下へ落ちた。
トンダはそれを見ても褒めなかった。
「今度は遅くなかったな」
それだけだった。
ヨシエはむっとした。
「それ、褒めてんの?」
「事実を言っただけだ」
「素直に褒めなさいよ」
「調子に乗るから嫌だ」
「殺す!」
さらに次の現場では、もう考える必要さえなかった。
何かが飛んでくれば、その物体だけを捉える。味方の位置を確認する。被害を出さない場所へ落とす。
以前なら意識しなければできなかったことを、身体が勝手に選ぶようになっていた。
失敗して、罵倒されて、腹を立てて、それでも次は直す。
その繰り返しだった。
そんな騒がしくも容赦のない日々を積み重ねながら、ヨシエの戦闘精度は少しずつ、しかし確実に上がっていった。
トンダだけではなく、キョウコも、ときどきヨシエの能力の使い方に口を出した。
「子豚ちゃん、力を面で使いすぎー」
「アンタに言われたくないわよ、赤毛」
「だって子豚ちゃん、何でもまとめて潰そうとするじゃん。もっと点で使えばいいのに」
キョウコはいつもの軽い調子で言いながら、自分の膝を指差した。
「たとえば相手の膝だけ重くするとか。足首だけでもいいよ。走れなくなれば追いかけなくて済むし、立てなくなればそれで終わりでしょ?」
「簡単に言わないでよ」
「簡単じゃん」
「アンタ基準で話すな」
「じゃあ、武器持ってる相手なら手首だけ軽くするとか」
ヨシエは眉をひそめた。
「軽くする?」
「そっ。人間って、自分の腕や持ってる物の重さを無意識に計算して動いてるじゃん?そこだけ急に感覚が変わったら、力加減狂うでしょ」
キョウコは、自分の手から何かを放り出すような仕草をした。
「握ってるものをすっぽ抜けさせてもいいし、逆に武器だけ重くして腕を下げさせてもいい。何でもかんでも全身まとめて地面にめり込ませなくていいんだって」
「……何よ、そんな器用なこと」
「できないの?」
ヨシエはむっとした。
「できるけど!」
「じゃあやれ」
「命令すんな!」
キョウコはけらけらと笑った。
その笑い方が、また腹立たしかった。
何もかもが軽いのだ。
口調も、態度も、物事の捉え方も。
ヨシエが何度も失敗し、歯を食いしばって覚えようとしていることを、キョウコは最初からわかっているような顔で口にする。
難しいことを難しそうに語らない。できない理由を考えるより先に、できる方法を思いつく。
そして何より、あまりにも強かった。
ヨシエには、キョウコという女が何でもできるように見えた。
彼女の能力は、単に何かを燃やすとか、物を動かすとか、身体を強くするといった種類のものではない。
――思い描いたことを現実にする。
言葉にしてしまえば、それだけだった。
だが、それが意味するものは、途方もなかった。
誰もが変えられないと思っている世界の決まりごとを、キョウコだけは「そうじゃなくてもいいじゃん」とでも言うような気軽さで書き換えてしまう。
ある現場では、暴走した特殊能力者を巨大な熊のぬいぐるみに変えた。
つい数秒前まで、男は怒鳴りながら周囲へ能力を撒き散らし、警察も近づけないほど暴れていた。コンクリート片が飛び、窓ガラスが割れ、ヨシエも重力で押さえ込む機会を窺っていた。
そこへキョウコが歩いていった。
「うるさいなー。もっとかわいくなればいいのに」
ほとんど独り言のように言った。
次の瞬間、男の姿が消えた。
代わりに、丸々と太った巨大な熊のぬいぐるみが地面へ転がっていた。
それまで響いていた怒声も能力の轟音も、一瞬で止まった。
ヨシエが呆然としている横で、キョウコは熊の腹を靴先でつついた。
「おっ、ふかふか」
「……それ、中身どうなってんのよ」
「かわいーでしょ?」
「そういう問題じゃないわよ!」
キョウコは楽しそうに笑っていた。
別の現場では、爆発寸前の建物を「今日は爆発しない建物」に変えた。
ガス漏れが発生した古い雑居ビルだった。
内部には可燃物が多く残され、どこかで火花が散れば一気に爆発しかねない。消防隊も容易には近づけず、周囲には規制線が張られていた。ヨシエも、能力で建物を押さえたところで爆発そのものを防げるわけではないと判断し、手を出せずにいた。
そんな中、キョウコだけが建物を見上げた。
「じゃあ今日は、爆発しない建物ってことで」
何でもないことのように言った。
それだけだった。
光が走ったわけでもない。
空気が震えたわけでも、何かが壊れる音がしたわけでもない。
目の前の建物は、それまでと何一つ変わっていないように見えた。
だが、その瞬間から、そこは「爆発する可能性のある建物」ではなくなった。
後になって火花が発生しても、火は燃え広がらなかった。ガスへ引火することもなかった。
原因も理屈も、ヨシエにはわからなかった。
ただ、キョウコがそう決めたから、そうなった。
また別の現場では、刃物を振り回しながら襲いかかってきた能力者を、小さな金魚へ変えたこともある。
男が刃物を振り上げた直後、その姿が消えた。
次の瞬間、アスファルトの上で赤い金魚が一匹、ぱたぱたと跳ねていた。
「あっ!」
キョウコはしばらくそれを見下ろしたあと、急に慌てた。
「死んじゃう!」
「そこ!?」
彼女は近くのコンビニへ走り、ミネラルウォーターとビニール袋を買って戻ってきた。袋に水を入れ、金魚になった犯人を拾い上げると、そのまま何事もなかったような顔で持ち帰った。
帰り道、透明な袋の中では、さっきまで人間だった金魚が悠々と泳いでいた。
ヨシエには、理解できなかった。
強いとか、能力の扱いが上手いとか、そういう言葉で説明できる存在ではなかった。
自分の重力操作には、明確な枠がある。
どれほど力を鍛え、どれほど出力を高めたところで、重力という現象の外へ出ることはできない。
物を重くする。軽くする。引き寄せる。押さえつける。
その限られた性質をどう組み合わせ、どう効率よく使うか。その範囲の中で技術を磨くのが、ヨシエの戦いだった。
トンダから教えられているのも、まさにそこだった。
強い力を、もっと正確に使え。無駄を減らせ。使い方を考えろ。
努力すれば、少しずつできることは増えていく。
だが、キョウコは違った。
彼女には、そもそもその「枠」が存在しないように見えた。
暴走する敵をどう押さえ込むか悩む必要さえない。ぬいぐるみに変えてしまえば、戦いそのものが終わる。
建物が爆発しそうなら、爆発を防ぐ方法を考える必要もない。「爆発しない建物」にしてしまえばいい。
敵が刃物を持っているなら、武器を落とさせる必要はない。本人を金魚にしてしまえばいい。
普通の能力者が、与えられた世界の中でどう戦うかを考えるのだとすれば、キョウコだけは世界の方を自分に都合よく組み替えてしまう。
彼女が戦場へ入った瞬間、それまで成立していた前提が意味を失う。
敵がどれほど強くても、どれほど危険な能力を持っていても、キョウコが「こうなればいい」と思えば、現実の方がそれに合わせて形を変える。
ヨシエには、それがひどく理不尽に思えた。
努力や経験の差ですらない。
もっと根本的なところで、生まれ持ったものが違う。
しかも、それほど途方もない力を持ちながら、キョウコ本人には大仰なところが何一つなかった。
自分が特別だと誇示するわけでもない。圧倒的な能力を見せつけて悦に入るわけでもない。
笑いながら、くだらない冗談を言いながら、ときには自分がどれほど異常なことをしているのかさえ忘れているような顔で力を使う。
ヨシエが必死になって理解しようとしている世界の法則を、キョウコは鼻歌でも歌うような気軽さで飛び越えていく。
それが、何より腹立たしかった。
そして同時に、どうしようもないほど圧倒された。
まるで最初から世界の方が彼女を特別扱いしているかのように、キョウコは現実そのものを軽々と組み替えてしまう女だった。
ヨシエは、そんなキョウコが嫌いだった。
最初から気に入らなかった。
まず、見た目が気に入らない。
すらりとした長身。細く長い手足。癖の強い赤毛の天然パーマ。眼鏡の奥でころころと表情を変える目。そして、星のように輝く瞳。
黙って立っているだけでも人目を引くのに、本人には目立とうとしている様子がまるでない。それでもキョウコがいる場所には自然と視線が集まり、気づけば人が寄ってくる。
本人が意識していないからこそ、余計に腹立たしかった。
自分だって、決して容姿が悪いとは思っていない。むしろ、かなり整っている方だ。本気でそう思っていた。
誰がブスだの豚だのと言おうが、それは変わらない。少なくとも鏡を見て、自分の顔に失望したことはなかった。目鼻立ちは悪くないし、髪だって手入れしている。服装にもそれなりに気を遣っている。
だからこそ、キョウコと並んだ時に妙に分が悪くなることが気に入らなかった。
顔立ちそのものなら、そこまで負けているとは思わない。
違うのは、纏っているものだった。
キョウコには、人を惹きつける華やかさがあった。
本人が大口を開けて笑っていようが、品のない冗談を飛ばしていようが、妙な存在感だけは消えない。何をしていても、その場の空気の中心へ自然と入り込んでしまう。
笑えば周囲がつられて笑う。ふざければ誰かが返す。黙っていても、なぜか目に留まる。
キョウコ自身は、それを才能だとも思っていないようだった。
それが、また気に入らなかった。
何より腹立たしいのは、そんな女が自分と同い年だということだった。
同じだけ生きてきたはずなのに、キョウコの方がずっと先にいるように見える。
――強い。
――自由だ。
――人から好かれる。
そして、すでに結婚している。
しかも、その夫がトンダユウイチだった。
最悪の口の悪さで、最悪の態度で、気に入らなければ平然と人を罵倒する男。
ヨシエを「豚」と呼び、失敗すれば容赦なく責める。少しでも能力の使い方が雑なら、その場で欠点を突きつけてくる。優しい言葉をかけることなどほとんどない。
それでも、ヨシエの能力を、初めて真正面から認めてくれた男だった。
危険だから使うなとは言わなかった。怖がって遠ざかることもしなかった。
――もっと使え。
――もっと上手くなれ。
――お前ならできるだろう。
言葉そのものは乱暴だったが、ヨシエにはそう言われているように思えた。
気づけば、そんな男に恋をしていた。
絶対に認めたくなかった。認めた瞬間に負けるような気がした。何に負けるのか、自分でもよくわからなかったが、とにかく嫌だった。
最初のうちは、あんな男を好きになるわけがないと本気で思っていた。
顔を合わせれば喧嘩になる。褒められるより罵倒される方が圧倒的に多い。優しくされた記憶など、探してもほとんど出てこない。
むしろ腹を立てた回数なら、いくらでも数えられる。
それなのに、トンダに認められると嬉しかった。
現場で名前を呼ばれると、反射的に振り向いてしまう。自分の能力を頼られると、胸の奥がわずかに熱くなる。
「そこ頼む」
「お前なら止められるだろ」
そんな何気ない言葉だけで、気分が良くなる。
まして、ほんの一言でも「悪くない」と言われれば、その言葉を何日も覚えていた。
本人の前では当然という顔をする。
「でしょ?私は優秀なんだから」
そう言って胸を張る。
けれど夜になり、一人になると、ふと思い出す。
――悪くない。
たったそれだけの言葉を。
今まで誰にも必要とされなかった自分の力を、この男だけは当然のように必要としている。
それが嬉しかった。
だからこそ、許せなかった。
トンダがキョウコを見る時だけ、明らかに違う顔をすることが。
自分に向けるものとは違う。仕事仲間に向けるものとも違う。
ほんのわずかな表情の変化だった。
けれど、ヨシエには嫌というほどわかった。
トンダは、キョウコを見る時だけ、明らかに柔らかくなる。
その事実が、どうしようもなく腹立たしかった。
当時のトンダは、今よりもずっと粗野だった。
誰に対しても口が悪く、態度も悪い。
現場では周囲への被害など二の次で、相手を倒せればそれでいいとでもいうような荒っぽさがあった。自分が多少怪我をしようが、建物が壊れようが構わず前へ出る。
他人に気を遣うことなどほとんどなく、相手が傷つくかもしれない言葉も平然と口にした。
けれど、キョウコに対してだけは違った。
ある現場でのことだった。
すでにかなりの能力を使い、キョウコの顔には薄く疲労が滲んでいた。それでも彼女は、まだ戦えると言わんばかりに敵の方へ歩き出そうとした。
その腕を、横からトンダが掴んだ。
「キョウコ、無茶するな」
「ダーリンに言われたくないなー」
キョウコは振り返り、いつもの調子で笑う。
「お前が暴れると後処理が面倒なんだよ」
「心配してくれてる?」
嬉しそうに、トンダの顔を覗き込む。
トンダは一瞬だけ黙った。
普段なら、そこで悪態の一つでも返しそうなものだった。
だが、キョウコの顔を見たまま、ほんの少しだけ表情を緩める。
「してる」
「きゃー、ダーリン好きー!」
キョウコは声を弾ませ、そのままトンダの腕へ抱きついた。
「はいはい」
トンダは面倒そうに答えた。
けれど、振り払おうとはしない。鬱陶しそうに眉をひそめながらも、その腕をそのままにしている。
その「はいはい」が、ヨシエにはどうしようもなく腹立たしかった。
声だけを聞けば、投げやりだった。
けれど、優しい。
面倒そうにしながら、ちゃんと受け入れている。
キョウコが距離を詰めても拒まない。くだらない冗談を言えば、何だかんだで相手をする。無茶をすれば本気で止めるし、危険なことをすれば真剣に心配する。
自分に向けられる態度とは、まるで違った。
自分に飛んでくるのは、「豚」「雑」「遅い」「もっと頭を使え」といった言葉ばかりだ。
もちろん、それがただの嫌悪ではないことくらい、ヨシエにも少しずつわかり始めていた。トンダなりに自分を戦力として認めているからこそ厳しく言うのだと、頭では理解している。
それでも、キョウコへ向けられる声の柔らかさを見ると、そんな理屈などどうでもよくなった。
明らかに違う。同じ男とは思えないほど違う。
ヨシエは嫉妬した。
胸の内側を爪で掻きむしりたくなるほど、激しく嫉妬した。
けれど、その感情は単純に「好きな男を取られた」というだけのものではなかった。
むしろ、それだけならもっと簡単だったのかもしれない。
――キョウコがトンダの妻だから嫌い。
――自分の好きな男と仲良くしているから腹が立つ。
そういう単純な理由だけなら、相手を恋敵として憎めば済んだ。
だが、ヨシエがキョウコに抱いている感情は、もっと厄介だった。
キョウコは、自分より美しく見えた。
自分より強かった。
自分より自由だった。
自分より人から好かれていた。
そして、自分よりずっと自然に、誰かから愛されていた。
そのどれもが、ヨシエには眩しかった。
そして、眩しいからこそ憎かった。
ヨシエがずっと欲しいと思いながら、どうしても手に入れられなかったものを、キョウコは最初から持っているように見えた。
家族の中で、そこにいることを当然のように受け入れられること。
自分の能力を恐れられるのではなく、価値のあるものとして認めてもらうこと。
人の輪の中へ無理に入り込もうとしなくても、自然と誰かが寄ってくること。
失敗しても、怒っても、多少おかしなことを言っても、それだけで居場所を失わないこと。
誰かから大切にされ、その好意を「いつまで続くのか」と疑わず、そのまま受け取れること。
キョウコは、そのすべてを持っているように見えた。
もちろん、本当のところなどヨシエにはわからない。キョウコにだって、人には見せない悩みや傷があるのかもしれない。
それでも、当時のヨシエにはそんなことを想像する余裕はなかった。
見えているものだけがすべてだった。
よく笑う。誰とでも話す。圧倒的に強い。トンダから愛されている。
自分が欲しかったものを、この女だけが何の苦労もなく手に入れているように見える。
だから、キョウコが笑うたびに、ヨシエの胸の奥へ黒いものが沈んでいった。
楽しそうにしているだけで腹が立つ。誰かと笑っているだけでも気に食わない。
まして、トンダと楽しそうに話していれば、なおさらだった。
トンダがキョウコに向けてわずかに表情を緩める。
それだけで胸の奥がざらついた。
キョウコが誰かに褒められれば、欠点を探したくなる。誰かに好かれている姿を見れば、その相手の見る目がないと言いたくなる。
何か理由を見つけて、キョウコの価値を下げたくなった。
そうしなければ、自分の方が劣っているように感じてしまうからだった。
自分より幸福そうな人間を見ているだけで、自分が持っていないものを、一つずつ目の前へ並べられているような気がした。
家族からの愛情。
他人からの好意。
圧倒的な才能。
自由に振る舞える強さ。
そして、トンダから向けられる、疑いようのない愛情。
キョウコを見るたび、自分の中に空いた穴の形まで見せつけられているようだった。
だからヨシエは、キョウコが嫌いだった。
嫌いでいる方が、羨ましいと認めるよりずっと楽だった。
「何よ、あの赤毛」
ある日の現場帰り。
夕暮れの街を走る車の後部座席で、ヨシエは窓の外を見たまま、小さく吐き捨てた。
その日の仕事は思った以上に長引いた。何度も能力を使ったせいで身体の芯には重い疲労が残り、両脚にはまだ鈍いだるさがまとわりついている。車内では冷房が低く唸り、タイヤが道路の継ぎ目を踏むたび、細かな振動が座席から背中へ伝わってきた。
運転席のトンダには届かない程度の声だった。
少なくとも、そのつもりだった。
「んー?」
すぐ隣から間の抜けた声がした。
嫌な予感を覚えて振り向くと、キョウコがすでにこちらへ身を寄せていた。眼鏡の奥の目が、面白いものを見つけた子どものように細められている。
「子豚ちゃん、私の悪口?」
「近い。離れろ」
ヨシエは露骨に身体を反対側へ寄せ、ドアへ肩を押しつけた。
「えー、何て言ったの?」
「何も言ってない」
「『何よ、あの赤毛』って聞こえたけど」
「聞こえてるなら聞くな!」
「やっぱり私の悪口じゃーん」
キョウコは楽しそうに笑った。
まるで責められているという意識がない。
その顔を見ているだけで、ますます腹が立った。
「もしかして嫉妬?」
「違うわよ」
「嫉妬じゃーん」
「違うっつってんでしょ!」
「ダーリン取られて悔しい?」
「殺すぞ!」
「照れ隠しが物騒ー」
キョウコはけらけらと笑う。
その声に気づいたのか、運転席のトンダがバックミラー越しに二人を見た。
「後ろで暴れるなよ」
「暴れてないよー。子豚ちゃんと仲良くしてるだけ」
「誰が仲良しよ!」
「うるせえぞ、豚」
「アンタも黙って運転しろ!」
トンダは何も言い返さなかった。
ただ面倒そうに片眉を上げると、そのまま前へ視線を戻した。
ヨシエも窓の外へ顔を向けた。
夕方の街並みが、一定の速度で後ろへ流れていく。
信号待ちをする人々。明かりのつき始めたコンビニの看板。駅へ向かう会社員。犬を連れて歩く老人。西日に照らされたビルの窓が、ところどころ金色に光っている。
どこにでもある、何でもない街の景色だった。
ヨシエはそれを眺めながら、奥歯を強く噛んだ。
――自分は、この女に勝てない。
ふいに、そんな考えが浮かんだ。
考えたくもなかったのに、妙にはっきりと言葉になった。
能力でも。人間としての余裕でも。トンダとの関係でも。
どれだけ競おうとしても、キョウコはずっと先にいるように見えた。
その事実だけは、どうしても認めたくなかった。認めてしまえば、自分が何も持っていないような気がした。
だから、せめて口では負けたくなかった。
「…アンタって、本当にムカつくわね」
窓の外を見たまま言う。
すると、間を置かずに返事がきた。
「よく言われる!」
「褒めてないわよ」
「知ってる!」
声には傷ついた様子など欠片もない。まるで効いていなかった。
ヨシエは眉間に深く皺を寄せた。
キョウコは、いつもそうだった。
どれだけ刺々しい言葉を投げつけても、軽々と受け流す。怒ることもある。言い返すこともある。口喧嘩になれば、むしろ面白がって乗ってくる。
それでも、ヨシエがどこかで期待しているような顔だけは、ほとんど見せなかった。
傷ついた顔。困った顔。言われたことを気にして、黙り込む顔。
そういう表情を見せてくれれば、自分の言葉が届いたのだと思えたかもしれない。
少しは対等になれたような気がしたかもしれない。
だが、キョウコは笑っている。
本当に何とも思っていないのか。それとも、傷ついていることを見せないだけなのか。
ヨシエにはわからなかった。
ただ、その余裕だけが腹立たしかった。
自分なら、同じことを言われればすぐに傷つく。
たとえ相手に悪気がなくても、言葉はいつまでも胸の内側に残る。
傷ついたことを認めるのが嫌で、先に怒る。
怒った勢いで相手を攻撃し、もっとひどい言葉を投げ返す。
その場では勝ったような気になる。
けれど夜になり、一人になると、言われたことを思い出す。
頭の中で何度も繰り返す。
――あの時、ああ言われた。
――あんな顔をされた。
そんなことを、いつまでも考えてしまう。
それなのに、キョウコは笑っている。
少なくとも、ヨシエにはそう見えた。
何を言われても平然としている。まるで、自分の価値が他人の言葉程度では揺らがないと、最初から知っているかのように。
その強さは、やはり眩しかった。眩しいからこそ憎かった。
――羨ましい。
――悔しい。
――本当は自分も、ああなりたい。
そんな惨めな感情を認めたくなかった。
だからヨシエは、その日もキョウコを嫌った。
仕事を重ねるうちに、ヨシエは特殊能力者として確実に成長していった。
本人は決して素直に認めようとしなかったが、その成長の多くがトンダとキョウコの影響によるものだったことは否定できない。
トンダの指導は、とにかく厳しかった。
ほんの一瞬でも判断が遅れれば容赦なく罵倒される。能力の使い方が雑なら、その場で何が悪かったのかを細かく指摘された。褒めることなど滅多にないくせに、失敗だけは決して見逃さない。前の現場でできたことは、次からできて当然として扱われ、少し上達すれば、すぐにさらに難しいことを要求してくる。
一方のキョウコは、ほとんど遊びの延長のような軽い調子で口を出してきた。
「そこ、もっと軽くした方が楽じゃない?」
「重くするばっかりじゃ芸がないよー」
「子豚ちゃん、今の力、半分で足りたんじゃない?」
言い方はいちいち腹立たしい。
だが、内容そのものは驚くほど実践的だった。
トンダが無駄や欠点を徹底的に削っていくのだとすれば、キョウコはヨシエ自身が思いつかなかった使い方を、いとも簡単に示してくる。
不本意ではあったが、二人の助言は確実にヨシエの中へ蓄積されていった。
それまでのヨシエにとって、重力操作とは、ほとんど力の強弱だけで考える能力だった。
重くするか。軽くするか。
相手が止まらないなら、もっと重くする。それでも倒れないなら、さらに出力を上げる。
強い力を持っているのだから、より強く使えばいい。
それが彼女にとって、ごく自然な考え方だった。
しかし、いくつもの現場を経験するうちに、同じ能力でも使い方次第でまるで異なる結果を生み出せることを覚えていった。
逃走しようとする相手を止めたいからといって、全身を地面へ押し潰す必要はない。踏み出した片足にだけ重力を集中させれば、身体の均衡を崩して転倒させることができる。
拳銃を構えた人間なら、腕ごと押さえ込む必要もなかった。銃口や手首にだけ急激な重さを加えれば、照準を下へ逸らせる。引き金を引かれる前に武器だけを床へ落とすこともできた。
爆発そのものを消すことはできない。
だが、飛び散る破片へ重力をかけて軌道を変えることはできる。吹き出した炎や爆風に乗る瓦礫を人のいない方向へ押し流し、被害を減らすこともできる。
頭上から鉄骨が落ちてくれば、以前ならその周辺一帯へ強引に重力をかけ、地面へ叩き落としていただろう。その結果、鉄骨だけでなく床まで壊していたかもしれない。
だが、今は違う。
落下している鉄骨だけを捉え、その動きへ必要な分だけ干渉する。
勢いを殺し、速度を落とし、誰もいない場所へ落とす。
周囲の建物や人間へ余計な負荷をかけず、必要な対象だけを制御する。
それが少しずつできるようになった。
さらに大きかったのは、自分以外の人間へ能力を使うことを覚えたことだった。
仲間が敵の攻撃を避けようと地面を蹴る。
その瞬間だけ、身体へかかる重力をわずかに弱める。
たったそれだけで身体は普段より遠くへ跳び、紙一重でしか避けられなかった攻撃から安全圏まで逃れることができる。
最初にそれを成功させた時、何より驚いたのはヨシエ自身だった。
その現場では、敵の能力によって巨大なコンクリート片が飛ばされていた。
避けきれない。
そう思った瞬間、近くにいたトンダの身体を無意識に軽くした。
直後、トンダの跳躍距離が大きく伸び、コンクリート片は彼の背後を掠めるように通過して壁へ激突した。
ヨシエは、一瞬だけ自分が何をしたのかわからなかった。
「……今の、私?」
「他に誰がいるんだよ」
トンダは当然のように答えた。
それだけだった。
だが、ヨシエの中には妙な感覚が残った。
自分の力は、敵を潰すためだけのものではない。
誰かを守るためにも使える。
誰かを逃がすこともできる。
誰かが傷つくはずだった未来を、ほんの少しだけ変えることができる。
幼い頃から周囲に怖がられ、自分自身でさえ扱いづらいものだと思っていた能力に、そんな使い方があるとは考えたこともなかった。
その発見は、ヨシエが自覚している以上に大きなものだった。
現場そのものを壊すことも、目に見えて減っていった。
以前なら、敵を一人捕らえるだけで床には亀裂が入り、壁が歪み、近くに置かれていた机や椅子まで潰れていた。仕事が終わったあとで修繕費や損害賠償の話を持ち出され、ヨシエが「知るか」と逆上するところまでが、半ばお決まりになっていた。
それがいつしか、必要な場所にだけ力を集中させ、周囲へほとんど被害を出さずに相手を無力化できるようになった。
力そのものが強くなったわけではない。
むしろ、必要以上の力を使わなくなった。
それでも以前より、ずっと確実に相手を止められる。
ヨシエは少しずつ、強さとは単純な出力ではないということを理解し始めていた。
力を抑えられること。
必要な時に、必要な場所へ、必要なだけ使えること。
それもまた強さなのだと、現場で何度も思い知らされた。
そして、ヨシエの変化に合わせるように、周囲の彼女を見る目も少しずつ変わっていった。
以前のような、ただ力が強く、扱いを間違えれば味方まで巻き込みかねない危険な重力使いではない。
任せれば、きちんと応えてくれる。
何かが崩れそうなら、ヨシエを呼ぶ。
敵を逃がしたくなければ、ヨシエに頼む。
仲間を守る必要があれば、彼女の能力を当てにする。
気づけば現場では、当たり前のように彼女の名前が呼ばれるようになっていた。
それはヨシエにとって、これまでほとんど経験したことのないことだった。
危険だから遠ざけられるのではなく、必要だから呼ばれる。
自分の力が、誰かに求められている。
その感覚は、彼女が思っていた以上に心地よかった。
ある日の現場。
特殊能力者が建物の内部で暴走し、その影響で古い雑居ビルが倒壊寸前まで損傷していた。
任務は二つ。
暴走した能力者を可能な限り生け捕りにすること。そして、建物の中に取り残された人々を救出することだった。
すでに壁の一部は崩れ、天井には大きな亀裂が走っている。床には砕けたコンクリートやガラス片が散乱し、どこかで配管が破裂したのか、水が細い筋を作って流れていた。
建物全体が、今にも限界を迎えそうな不気味な軋みを上げている。
「豚、左の柱を支えろ!」
半壊したフロアの奥から、トンダの声が飛んだ。
「言われなくてもやってるわよ!」
ヨシエは怒鳴り返した。
左を見る。
天井を支えていた太い柱の一本に、斜めの亀裂が走っていた。上階の重量に耐えきれず、ひび割れた部分が少しずつ押し潰されている。天井からは細かなコンクリート片がぱらぱらと落ち、そのたびに周囲の人間が身を竦ませた。
柱が完全に折れれば、この区画ごと崩れる。
ヨシエはすぐに意識を集中させた。
以前の自分なら、柱全体へ強引に能力をかけていただろう。
倒れようとするものを、力ずくで止める。
その結果、柱そのものは止められても、周囲の床や壁へ余計な負荷をかけ、別の場所を壊していたかもしれない。
今は違う。
どこに力が集中しているのかを見る。
どこが折れようとしているのかを捉える。
亀裂の周辺へかかっている負荷だけを軽減し、傾こうとする柱には反対方向から最小限の力を加える。
必要な場所へ、必要なだけ。
ヨシエは歯を食いしばり、細かな調整を続けた。
柱が低く軋む。亀裂がわずかに広がった。
だが、それ以上は動かなかった。
「止めたわよ!」
「そのまま維持しろ!」
「命令すんな!」
「今は命令する場面だ!」
「ムカつく!」
悪態をつきながらも、ヨシエは能力を緩めなかった。
その隙に、トンダが崩れた壁際へ駆け込む。
瓦礫の下には、取り残された男性がいた。脚の一部がコンクリート片に挟まれている。
トンダは瓦礫を持ち上げ、男の腕を掴んだ。
「立てるか?」
「脚が……」
「いいから掴まれ」
男を引きずり出し、安全な場所へ移す。
その間も、ヨシエは柱を支え続けていた。
以前なら、それだけで精一杯だった。
だが今は、周囲を見る余裕がある。
視界の端で、人影が動いた。
暴走していた能力者だった。
男は負傷していたが、まだ動ける。救助に意識が向いている隙を狙い、崩れた廊下の向こうへ逃げようとしていた。
その男を追っていたキョウコが叫ぶ。
「子豚ちゃん、あの子の足だけ止めて!」
「子豚って言うな!」
反射的に怒鳴り返す。
だが、ヨシエの意識はすでに男の足へ向いていた。
柱へかける能力は維持したまま、もう一つ、別の対象を捉える。
昔のヨシエなら、そんな器用な真似はできなかった。
一つの対象へ全力を注ぐ。それで精一杯だった。
今は、柱へかける力を崩さず、残った意識だけを逃走する男へ向ける。
全身を潰す必要はない。
キョウコの言葉を思い出す。
――足だけ止めて。
男が右足を前へ踏み出した。
その瞬間を狙う。
右足だけへ、重力を集中させた。
「うわっ!」
男の右足が床へ沈むように止まった。
突然身体の片側だけが重くなり、勢いのまま上体が前へ傾く。
そのまま顔面から床へ突っ込みかけた。
「危なーい」
キョウコが片手を振る。
瞬間、男が着ていた上着が大きく膨らんだ。
布地が柔らかな塊へ変わり、見る間に巨大なクッションのような形になる。
男はそこへ顔から沈み込み、間の抜けた音を立てて止まった。
身体が半分ほどクッションへ埋まっている。
「……何それ」
ヨシエが思わず言った。
「安全第一」
キョウコは胸を張った。
そして男が動けなくなったのを確認すると、ヨシエへ親指を立てる。
「ナイスー」
「アンタに褒められても嬉しくないわよ」
「えー、素直じゃないなー」
「うるさい」
そう言いながらも、ヨシエは以前ほど本気では腹を立てていなかった。
それに気づきかけて、すぐに考えるのをやめた。
認めるのは癪だった。
やがて救助が終わり、暴走した能力者も拘束された。
建物から全員が退避したあと、ヨシエはようやく柱へかけていた能力を解いた。
肩から一気に力が抜ける。
「疲れた……」
小さく吐き捨てる。
建物の外では、救急隊員や消防隊員が慌ただしく行き交っていた。救出された人々が担架へ乗せられ、少し離れたところでは、捕らえられた能力者が関係者に囲まれている。
ヨシエは壁にもたれ、息を整えていた。
その時だった。
「カモイちゃん」
不意に名前を呼ばれた。
ヨシエは一瞬、自分のことだとわからなかった。
普段なら「子豚ちゃん」としか呼ばない女の声だったからだ。
振り向く。
少し離れたところに、キョウコが立っていた。
「……何よ?」
妙に落ち着かない。
普通に名前を呼ばれただけなのに、居心地が悪かった。
馬鹿にされる方が、ずっと慣れている。
キョウコは、少し離れた場所で拘束されている能力者を一度確認してから、ヨシエへ視線を戻した。
「さっき、助かった」
「は?」
ヨシエは思わず聞き返した。
「何が?」
「途中で鉄骨落ちてきたでしょ」
救助の最中、別の場所で崩れた梁から鉄骨が一本落下していた。
その時、キョウコは倒れた人間を守るために能力を使っていて、すぐには反応できなかった。
ヨシエが咄嗟に鉄骨へ重力をかけ、落下方向を逸らしていた。
「あれ、カモイちゃんが止めてくれなかったら、私でもちょっと間に合わなかったかも」
「……」
一瞬、ヨシエは言葉を失った。
キョウコが。
あの、何でもできるように見える女が。
自分に助けられたと言っている。
聞き間違いではない。冗談を言っている顔でもなかった。
キョウコは、本気で礼を言っている。
胸の奥で、何かがむずがゆく動いた。喜びに近い感情だった。
だが、それを認めるのはあまりにも癪だった。まして、目の前の女に気づかれるなど絶対に嫌だった。
ヨシエは素早く顔を背けた。
「当然でしょ」
できるだけ尊大な声を作る。
「私は優秀なんだから」
「うん」
キョウコは素直に頷いた。
「優秀な子豚ちゃん」
ヨシエは振り向いた。
「やっぱり殺す」
さっきまで胸の奥にあったくすぐったさが、一瞬で殺意に変わった。
「えー、褒めたのに」
「最後の一言が余計なのよ!」
「でも子豚ちゃんは子豚ちゃんだし」
「黙れ!」
キョウコは楽しそうにけらけらと笑った。
ヨシエは睨みつけながらも、もう本気で怒ってはいなかった。
そんな日々が、しばらく続いた。
現場へ出る。
判断を誤れば罵倒され、能力の使い方が雑なら容赦なく指摘される。ヨシエも黙ってはいない。腹が立てば怒鳴り返し、気に入らなければ悪態を吐く。失敗して、悔しがって、それでも次の仕事では同じ失敗をしないようにする。
昨日できなかったことが、今日は少しだけできるようになる。今日できたことが、明日には当たり前として求められる。
そうして少しずつ、ヨシエに任されることは増えていった。
そして、ごくたまに褒められた。
「今のは悪くなかった」
「やるじゃん」
どれも大した言葉ではない。
長々と労われるわけでもなければ、特別に持ち上げられるわけでもない。現場の流れの中で、何気なく投げられる一言に過ぎなかった。
けれど、ヨシエにはそれで十分だった。
むしろ、これまでほとんど褒められてこなかったからこそ、そんな短い言葉ほど妙に心に残った。
特にトンダから言われた言葉は、腹立たしいほど長く残った。
現場では当然という顔をする。
「それくらいできて当たり前でしょ」
そう言って胸を張る。
だが、家へ帰り、風呂に入って、一人で布団へ潜り込んだあと、何の前触れもなく、昼間の言葉が頭に浮かぶ。
『今のは悪くなかった』
それだけだった。
たったそれだけなのに、もう一度思い出してしまう。
言い方まで覚えている。声の調子も、どんな顔をしていたかも。
自分でも馬鹿らしいと思った。
翌朝になれば、そんなことはどうでもいいという顔で事務所へ向かう。
トンダに会えば、また「豚」と呼ばれて腹を立てる。
キョウコには「子豚ちゃん」とからかわれる。
それでも、昨日よりほんの少しだけ機嫌がいい。
もちろん、本人は絶対に認めなかった。
けれど気づけば、ヨシエは特殊対策室という場所に、しがみつくようになっていた。
そこは、彼女にとって初めて手に入れた居場所だった。
家族の中にはなかった。学校にもなかった。大学にもなかった。就職活動で何社もの扉を叩いた先にも、見つけることはできなかった。
ヨシエはこれまで、どこへ行っても、自分を抑えることを求められてきた。
――能力を使うな。
――感情的になるな。
――余計なことを言うな。
――周囲に合わせろ。
――なるべく普通に振る舞え。
そうやって、自分の目立つ部分も、扱いにくい部分も、できるだけ小さくして生きることを求められてきた。
だが、特殊対策室では違った。
性格が悪いことも、口が悪いことも、嫉妬深いことも、すぐ怒ることも、人の悪口を平然と口にすることも、トンダとキョウコはとっくに知っていた。
もちろん、何をしても許されたわけではない。
度が過ぎれば窘められたし、馬鹿なことを言えば馬鹿にされた。誰かに八つ当たりすれば言い返されるし、仕事で迷惑をかければ容赦なく叱られた。
それでも、「もっと抑えろ」とは言われなかった。
性格を矯正しろとも、周囲に合わせて大人しくしろとも要求されなかった。
能力についても同じだった。
ヨシエの重力操作が危険であることなど、説明するまでもない。
扱いを誤れば建物を壊す。人間を傷つける。場合によっては、味方まで巻き込む。
それでも、力を使うなとは言われなかった。
むしろ、
――もっと使え。もっと上手く使え。
――自分の力なのだから、自分で制御できるようになれ。
トンダとキョウコがヨシエに求めたのは、能力を押し殺すことではなく、使いこなすことだった。
口汚く罵れば、もっと口汚く言い返してくる人間がいる。
怒鳴れば、怖がって距離を取るのではなく、「うるせえ」と怒鳴り返してくる人間がいる。
失敗すれば叱られる。何が悪かったのかも指摘される。
けれど、その一度の失敗だけを理由に、もう来るなとは言われない。
仕事を任されなくなるわけでもない。
翌日になれば、昨日のことなど当然のように過去へ追いやられ、また名前を呼ばれる。
「おい、豚、行くぞ」
「子豚ちゃん、今日も頑張ろー」
そうやって、次の現場へ連れていかれる。
ヨシエにとって、それはこれまで知らなかった関係だった。
失敗しても、関係が終わらない。怒っても、見捨てられない。
醜いところを見せても、それだけですべてを失うわけではない。
それが当たり前のことなのかどうか、ヨシエにはわからなかった。
彼女にとっては、当たり前ではなかった。
だから、どこかでずっと怖かった。
役に立てなくなれば、いらないと言われるのではないか。
いつか本当に嫌われて、追い出されるのではないか。
何か決定的な失敗をすれば、また一人になるのではないか。
そんな不安が、完全に消えたわけではない。
むしろ、居心地がよくなるほど、失いたくないという気持ちも強くなっていった。
それでも、
――昨日もここにいた。
――今日もここにいる。
明日になっても、おそらく同じように事務所の扉を開ける。
トンダに豚と呼ばれて怒鳴り返し、キョウコに子豚ちゃんとからかわれて「殺す」と脅す。
誰かがくだらないことを言い、誰かが笑い、また面倒な依頼が入れば一緒に現場へ出る。
そんな明日を、自然に想像できるようになっていた。
それはヨシエにとって、思っていた以上に大きなことだった。
いつの間にか特殊対策室は、ただ働く場所ではなくなっていた。
何かを隠さなくても、ここにいていいと思える場所。
失敗しても、また明日があると思える場所。
ヨシエはまだ、それを「居場所」と口にするつもりはなかった。
そんな殊勝な言葉は、自分には似合わないと思っていた。
けれど少なくとも、その場所から離れたいとは思わなくなっていた。
そんなある日のことだった。
特殊対策室に、それまでとは明らかに性質の違う依頼が舞い込んだ。
きっかけは、一本の電話だった。
トンダはいつものように自分の机で受話器を取った。
最初のうちは、いかにも面倒そうな顔で相手の話を聞いていた。特殊対策室には毎日のように厄介事が持ち込まれる。
能力者同士の喧嘩。暴走。失踪。能力を利用した犯罪。
多少物騒な話を聞いたところで、今さら驚くような男ではない。
だが、数十秒も経たないうちに、その表情からいつもの雑な気配が消えていった。
「……ああ」
声が低くなる。
「被害範囲は?」
相手の返答を聞く。
トンダの眉間に、わずかに皺が寄った。
「生存者は?」
さらに沈黙が続いた。
ソファに座っていたヨシエは、何となく顔を上げた。
普段なら、依頼の電話くらいでいちいち気に留めることはない。
トンダはいつも、舌打ちの一つでもしながら必要な情報だけを拾い、話が済めばさっさと電話を切る。そして資料を掴み、「行くぞ」と言って現場へ向かう。
それがいつもの流れだった。
だが、その日は違った。
電話を切ったあとも、トンダはすぐには動かなかった。
受話器に手を置いたまま、数秒間、じっと机の一点を見つめている。
顔つきが硬い。
さっきまで近くの椅子に座り、菓子の袋を漁りながらくだらない話をしていたキョウコも、いつの間にか笑うのをやめていた。
トンダの表情を見れば、何かあったのだとわかるのだろう。眼鏡の奥の目が、静かに細められている。
その変化に、ヨシエもさすがに気づいた。
「何よ?」
ソファに腰掛けたまま尋ねる。
「また能力者同士の喧嘩?」
「違う」
トンダは短く答えた。
机の端末を操作し、送られてきた資料を確認する。
やがて、低い声で言った。
「……街がひとつ消えた」
ヨシエは、すぐには意味を理解できなかった。
「……は?」
「地方都市の市街地だ。中心部のかなり広い範囲が、丸ごと消滅した」
「消滅って……」
ヨシエは眉を寄せた。
「爆発?」
「違う」
「じゃあ、地震とか?」
「それも違う」
トンダは資料を数枚印刷し、机の上へ並べた。
「見ろ」
ヨシエは立ち上がり、机へ近づいた。
写真が何枚か並んでいる。
最初は、何が異常なのかわからなかった。
空がある。地面がある。遠くには建物も見える。
一見すれば、ただ何もない広い土地を撮影しただけの写真にも見えた。
だが、何度か見直すうちに、ヨシエはようやく違和感の正体に気づいた。
本来なら、そこには街があったはずだった。
住宅。商店。道路。信号機。電柱。街路樹。
駐車されていた車。そこを歩いていた人間。
しかし、
――何もない。
ただ空間だけが残っている。
瓦礫すら存在しなかった。
爆発で吹き飛んだのなら、破片が残る。大規模な火災なら、焼け跡がある。
巨大な力で押し潰されたのなら、崩れた建物やひしゃげた車、砕けた地面が残るはずだ。
だが、写真の中には、そのどれもなかった。
土地が大きくえぐれているわけでもない。焦げてもいない。倒壊した建物さえない。
そこに存在していたものだけが、綺麗に抜け落ちている。
道路の一部は途中で不自然に途切れ、その向こうに続いていたはずの交差点も、店舗も、住宅も存在しなかった。
何かに破壊されたのではない。
最初からそこには何もなかったのだとでもいうように、街の一部だけが空白になっている。
まるで、現実という一枚の絵から、そこだけを切り抜いて捨てたようだった。
「何よ、これ……」
ヨシエの声が、無意識に低くなった。
「能力の暴走だと見られている」
トンダが言った。
「特殊能力によるものなの?」
「現時点では、その可能性が最も高い」
「誰がやったの?」
「若い女だ」
トンダは別の資料を指先で押さえた。
そこには、防犯カメラの映像から切り出したらしい、粗い画像が載っていた。
画質が悪く、顔までははっきり確認できない。
それでも、若い女性らしいことだけはわかった。
「身元はまだ特定できていない。名前も不明。能力の種類も詳細は不明。ただ、消滅が起きる直前、この女が現場付近にいたことは確認されている」
「それで?」
ヨシエは写真を見たまま尋ねた。
トンダは一拍置いて答える。
「生きてる」
ヨシエは目を細めた。
「……街ひとつ消して、そのまま逃げたってこと?」
「そういうことだ」
口にすればするほど、現実味が薄れていくようだった。
ヨシエはこれまで、何人もの特殊能力者を見てきた。
強い能力者もいる。人間を一瞬で殺せる者もいる。建物を破壊できる者もいる。
自分自身、本気で重力を操れば、相当な被害を出せることくらいわかっていた。
建物を潰す。車を押し潰す。地面を陥没させる。人間を立てなくする。
それくらいならできる。
だからこそ、わかった。
目の前の写真に写っているものは、その延長線上にはない。
壊したのではない。潰したのでもない。
街そのものを、そこから消している。
規模も、現象そのものも、自分の理解できる範囲から外れていた。
「こんな能力者がいるの?」
口にした直後、ヨシエは無意識に隣を見た。
キョウコだった。
キョウコは机の上の資料を一枚手に取り、写真をじっと見つめていた。
いつものような笑顔はない。
菓子のことも、くだらない冗談のことも、今は完全に頭から消えているようだった。
眼鏡の奥の目が、珍しく鋭い。
写真の隅々まで確かめるように見つめたあと、キョウコは口元だけをわずかに歪めた。
「……いるみたいね」
「アンタならできるの?」
ヨシエは思わず尋ねた。
聞いてから、自分でも妙な質問だと思った。だが、確かめずにはいられなかった。
キョウコは写真から目を離さず、少しだけ首を傾げる。
「うーん……」
数秒考える。
そして、まるで夕飯の献立でも考えるような調子で答えた。
「多分できるけど、こんな雑な消し方はしないかなー」
「……」
ヨシエの背筋を、冷たいものが這った。
――できる。
――街を消すことが。
――この女なら。
隣を見れば、そこにはいつものキョウコがいる。
赤い天然パーマ。眼鏡。さっきまで菓子を食べ、くだらないことを言って笑っていた女。
そんな人間が、本気になれば街そのものを消せる。
頭では以前からわかっていた。
キョウコの能力が尋常ではないことも。他の特殊能力者とは明らかに次元が違うことも。
何度も現場で見てきた。
ぬいぐるみにする。金魚にする。爆発しない建物に変える。
理屈など無視して、現実そのものを書き換える。
それでも、それまではどこか現実味がなかった。
目の前で起きていても、あまりにも馬鹿げているせいで、キョウコだからできる妙な芸当のように感じていた。
だが、「街ひとつを消せる」と具体的な規模に置き換えた瞬間、その力の異常さが初めて輪郭を持った。
――もしキョウコがその気になれば
建物一つでも、人間一人でもない。
街に暮らす人々も、その生活も、そこに積み重なってきたものすべてを、まとめて消せるのかもしれない。
そう考えると、ヨシエは初めて、キョウコという女に対して純粋な恐怖に近いものを覚えた。
「依頼内容は?」
キョウコが尋ねた。
その声からは、いつもの軽さがかなり薄れていた。
「犯人の捜索と始末」
トンダは短く答えた。
「始末?」
ヨシエは一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「捕獲じゃなくて?」
キョウコも確認する。
「ああ……」
トンダは机の上に広げていた資料をまとめながら答えた。
「始末だ」
短い言葉だった。
だが、その一言だけで、今回の依頼がこれまでとは明らかに違うことが伝わってきた。
通常、特殊能力者が犯罪を起こしたとしても、最初から殺害を前提にすることはない。
制圧できるなら制圧する。拘束できるなら拘束する。能力を封じ、身柄を確保し、しかるべき機関へ引き渡す。
もちろん、遠回しに殺害を求められることはある。
現行の法律では、特殊対策室のように国から許可を得た業者が、重大な危険を及ぼす特殊能力者を任務中に殺害すること自体は認められている。
それでも、依頼の段階から「殺せ」と明言されることは滅多にない。
能力者とはいえ、人間の殺害を公然と依頼したことが知られれば、激しい批判を浴びかねない。世論が反発すれば、依頼した組織や行政機関の信用にも大きな傷がつく。
だから普通は、もっと曖昧な言葉が使われる。
――確実に無力化してほしい。
――被害の拡大を最優先で阻止してほしい。
――抵抗する場合は、手段を問わない。
そうした言葉の裏に、「必要なら殺して構わない」という意味を忍ばせる。それが通例だった。
だが、今回は違う。
――始末。
最初から、そう明言されている。
世間から批判される危険を承知したうえで、それでも対象を生かしておく方が危険だと判断されている。
パブリックイメージを守ることよりも、対象を確実に排除することが優先されているのだ。
それだけで、この女がどれほど危険視されているのかは十分に伝わった。
「まあ……そりゃそうか」
キョウコは椅子の背にもたれた。
いつもの彼女なら、こんな時でも何かくだらない冗談を言っただろう。「じゃあ金魚にしちゃう?」とか。「ぬいぐるみにすれば持って帰れるよー」とか。
だが、何も言わなかった。
資料に写る、不自然に空白となった街の写真を見つめたまま、静かに息を吐く。
ヨシエは、その横顔を見ていた。
キョウコが真面目になっている。
普段なら、暴れる相手を金魚やぬいぐるみに変えて笑っているような女が、冗談一つ口にしない。
それだけで、今回の案件がどれほど危険なのか嫌でもわかった。
喉の奥が、わずかに乾いた。
――もし相手を見つけて、戦うことになったら。
本当に、自分たちは無事に帰れるのだろうか。
そんな考えが浮かんだところで、トンダが椅子から立ち上がった。
「行くぞ」
机の脇に掛けてあった上着を手に取る。
キョウコも何も言わずに立ち上がった。
ヨシエはソファに座ったまま、二人を見た。
当然、自分はここに残るものだと思った。
これは、いつもの仕事とは違う。
街ひとつを跡形もなく消した、化け物じみた能力者を始末する仕事だ。
認めるのは癪だったが、今回ばかりは、自分がついていったところで、どこまで役に立てるのかわからない。
相手の能力がどんなものなのかさえ判明していない。
まともに戦えるのか。そもそも、重力操作など通用する相手なのか。
そんな確信すら持てなかった。
――危険だから待っていろ。
――今回は連れていけない。
そう言われても、おかしくはなかった。
だが、事務所の出口へ向かいかけたトンダが、ふと振り返った。
「豚も来い」
「……私も?」
思わず聞き返した。
トンダは眉をひそめる。
「当然だろ」
「でも、街ひとつ消すような奴なんでしょ?」
「だからだ」
トンダは何でもないことのように言った。
「戦力として数えてる」
ほんの一瞬、ヨシエは何も言えなかった。
胸の奥に、小さな熱が灯った。
危険だから置いていかれるのではない。
危険だからこそ、連れていかれる。
能力を怖がられ、遠ざけられ、必要とされなかった自分が、今はその力を必要とされている。
しかも、街ひとつを消した能力者を相手にするような現場で。
それが何より嬉しかった。
同時に、少しだけ怖かった。
期待されるということは、その期待に応えなければならないということでもある。
それでも、「来るな」と言われるよりずっとよかった。
ヨシエは、胸の内に湧いたものを押し隠すように顎を上げた。
「……ふん」
いつものように、不機嫌そうな顔を作る。
「足手まといにならないでよね」
トンダが鼻で笑った。
「お前がな」
「何だって?」
「聞こえただろ」
「殺すわよ」
「黙れ、豚」
「ああ!?」
思わず立ち上がるヨシエを見て、キョウコが横から笑った。
「仲良しだねー」
「どこがよ!目が悪いんじゃないの?」
「眼鏡かけてるから大丈夫ー」
「そういう問題じゃない!」
「おい、さっさと行くぞ」
トンダが面倒そうに言いながら事務所の扉を開けた。
「誰のせいで遅れてると思ってんのよ!」
「お前だよ」
「殺す!」
いつもの調子だった。
くだらない罵り合い。聞き慣れたキョウコの笑い声。
それだけを見れば、普段の仕事へ向かう時と何も変わらない。
けれど、事務所を出た瞬間から、ヨシエにもわかっていた。
今回だけは違う。
相手は、人間一人を殺した能力者ではない。建物一つを壊した能力者でもない。
街そのものを消した女だ。
その女を見つける。そして殺す。
三人はそのまま現場へ向かった。
そして、街ひとつを消した正体不明の女を追う日々が始まった。
現地へ到着したヨシエは、車を降りた途端、思わず足を止めた。
事前に何枚も写真を見ていた。被害の規模も聞いていた。
それでも、実際にその場所を目の前にすると、受ける印象はまるで違った。
街の中心部が、ごっそりと消えている。
少し離れた場所には、何事もなかったかのように住宅や店舗が残っていた。道路標識が立ち、電線が空を横切っている。規制区域の外には遠巻きに現場を見つめる住民たちが集まり、路肩には警察や関係機関の車両が何台も並んでいた。
制服姿の人間たちが慌ただしく行き交う様子だけを見れば、大規模な事件現場として理解できる。
だが、その先へ目を向けると、感覚がおかしくなった。
ある地点を境にして、街そのものが途切れている。
建物も、車も、電柱も、街路樹もない。
そこにいたはずの人間も消えている。
焼け跡はなく、煙も上がっていない。崩れた建物も、散乱した瓦礫も見当たらない。巨大な何かに押し潰された形跡も、地面が抉れた痕跡もなかった。
ただ、そこにあるはずのものだけが失われている。
ヨシエは規制線の近くまで歩き、足元へ視線を落とした。
道路が途中で終わっていた。
舗装されたアスファルトはその先まで伸び、唐突に途切れている。本来なら、そこには交差点があり、横断歩道と信号機、その向こうには店舗や住宅が並んでいたという。
だが、今は何もない。
奇妙なのは、その境界だった。
アスファルトが砕けているわけでも、地面が陥没しているわけでもない。断面から土や砕石が露出していることさえなかった。
まるで道路を造った人間が、最初からそこまでしか舗装しなかったかのように、不自然なほど滑らかに終わっている。
途中まで伸びていた白線も、その境界で綺麗に消えていた。
ヨシエはしばらく、その光景から目を離せなかった。
「何よ……これ」
ようやく漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。
目の前に広がっているのは、廃墟ですらない。
昨日まで住宅があり、店があり、大勢の人間が生活していたはずなのに、今の景色からは、その営みを想像する手掛かりさえほとんど残されていなかった。
ヨシエは無意識に、消失した区域の向こうへ視線を走らせた。
そして、自分の能力ならどうなるだろうと考えた。
重力を操る自分には、到底こんなことはできない。
本気で力を使えば、建物を潰すことはできる。屋根も壁も床も圧し潰し、地面を陥没させ、車を鉄屑のようにひしゃげさせることもできるだろう。電柱をへし折ることも、人間を一瞬で殺すこともできる。
自分の力が危険なものであることは、ヨシエ自身が誰よりよく知っていた。
だが、それでも自分にできるのは、あくまで破壊することだった。
建物を潰せば瓦礫が残る。地面を陥没させれば傷跡が残る。車を潰せば鉄の塊が残る。人間を殺せば、死体が残る。
どれほど原形を失わせても、そこに何かが存在していたという痕跡までは消せない。
だが、この場所にはそれがなかった。
血痕一つ、衣服一枚、生活用品の欠片さえ見当たらない。
何かに吹き飛ばされたのでも、押し潰されたのでもない。
そこに存在していたものが、痕跡ごと取り除かれている。
ヨシエには、そうとしか思えなかった。
自分がどれほど能力を鍛えたところで、決して辿り着けない種類の現象だった。
強い、弱いという話ではない。単純に出力が大きいわけでもない。
自分の重力操作とは、世界への干渉の仕方そのものが違う。
目の前に広がる空白を見つめながら、ヨシエはそのことを初めて実感した。
――これは破壊ではない。
存在そのものを、世界から抜き取ったようにしか見えなかった。
「キョウコ」
少し先を歩いていたトンダが呼んだ。
「痕跡は?」
「見てみる」
キョウコはそれだけ答えると、消失した区域と残された街との境界へ向かった。
普段なら、こんな時でも余計な一言くらい挟む女だった。だが今は何も言わず、足元の境界を確かめながらゆっくり歩いていく。
やがて道路が途切れている場所まで来ると、その場にしゃがみ込んだ。
赤い巻き毛が肩から流れ落ちる。
キョウコは片方の手袋を外し、露出した指先を境界の地面へそっと触れさせた。
軽く触れるだけだった。
それでも、何かを探るように指を止め、しばらく動かない。
ヨシエとトンダは、少し離れた場所から黙って見守っていた。
「うーん……」
やがて、キョウコが低く唸った。
眉間に薄く皺が寄っている。
指先をわずかに動かし、今度は境界線をなぞるようにゆっくり滑らせていく。
「どうだ?」
トンダが尋ねた。
「変」
「何が?」
「消えてる……っていうのとも、ちょっと違う気がする」
キョウコは地面を見つめたまま答えた。
そして、何かを確かめるようにもう一度指先を往復させる。
「これ、置き換えられてるのかな」
ヨシエが眉を寄せた。
「置き換えられてるって、何に?」
「それがわかんない」
キョウコは珍しく困った顔をした。
「何て言えばいいんだろ。見た目は何もないでしょ?でも、本当にただ『なくなった』だけじゃない感じがする」
「意味わかんないんだけど」
「だから私も上手く説明できないんだって」
少し苛立ったように言いながらも、キョウコの視線は境界から離れない。
「普通に消したなら、消したっていう感じが残るんだよね。そこにあったものをなくした、っていうか……」
ヨシエには、その感覚自体がよくわからなかった。
キョウコは少し考えてから続けた。
「でも、これは違う。そこにあったものがなくなったというより……そこにあったものごと、別の何かに差し替えられたみたい」
「別の何か?」
「うん。でも、その『何か』が何なのかがわからない」
キョウコは境界の先に広がる空間へ目を向けた。
「空白に近い何か……かな」
「何よ、それ」
「私にもわかんないよ」
キョウコは苦笑しかけたが、その表情はすぐに消えた。
「何もないように見えるのに、ただの『何もない』じゃないんだよね。そこにあったものを消したんじゃなくて、『何もない状態』そのものを置いたみたいな……」
言いながら、自分でも説明に納得できていないのか、眉をひそめる。
もう一度、指先で境界へ触れた。
その瞬間だった。
キョウコの肩が、ほんのわずかに震えた。
「あー……気持ち悪いな、これ」
ヨシエは思わず彼女を見た。
その言葉が、妙に耳に残った。
キョウコが「気持ち悪い」と言った。
敵をぬいぐるみに変える。人間を金魚に変える。爆発するはずの建物を、爆発しないものへ書き換える。
現実というものを、まるで最初から決まりなど存在しないかのように扱う女。
そんなキョウコが、目の前の現象を理解できず、しかも嫌悪に近い反応を見せている。
それだけで、ヨシエの胸の奥へ冷たいものが沈んだ。
「アンタでもわかんないの?」
「うん」
キョウコはあっさり認めた。
立ち上がり、外していた手袋をゆっくりとはめ直す。
「自分でやったなら、何をどう変えたのかはわかるんだけどね。これは、どういう理屈でこうなってるのか全然掴めない」
そこで一度、消失した街へ視線を向けた。
「……だから気持ち悪いんだよね」
その声には、いつもの軽さがなかった。
結局、その日の現場調査では、消失の仕組みについて明確な答えを得ることはできず、犯人へ直接つながる有力な手掛かりもほとんど見つからなかった。
捜索は難航した。
犯人と見られる女は、能力を暴走させたあと、消失した区域の外へ逃げたらしい。
だが、足取りを追おうにも、肝心の目撃者がほとんど残っていなかった。
事件当時、街の中心部にいた人間の多くは、建物や車と一緒に消えている。運よく消失範囲の外にいた者たちも、目の前で街の一部が突然なくなるという異常事態に巻き込まれ、ひどく混乱していた。
悲鳴を上げて逃げた者。その場に立ち尽くした者。家族や知人を捜して周囲を駆け回った者。何が起きたのかさえ理解できないまま、ただ遠くへ逃げた者。
そんな状況で、事件の前後に誰がどこを歩いていたのかまで正確に覚えている者は、ほとんどいなかった。
監視カメラも頼りにはならなかった。
消失範囲内に設置されていたものは、機器も記録媒体もろとも失われている。周辺に残っていた防犯カメラや車載映像を可能な限り集めても、映っているのは騒ぎから逃げ惑う人々や、途中から不自然に途切れた道路ばかりだった。
犯人と思われる女の姿をはっきり捉えた映像はない。
それでも、まったく手掛かりがないわけではなかった。
断片的ではあるが、複数の証言に共通する特徴がいくつか残っていた。
三人はそれを一つずつ拾い集めながら、事件現場周辺の街を回った。
若い女。年齢は十代後半から二十代前半ほど。髪は明るい色。
そして、奇妙なぬいぐるみを抱えていた。
「ぬいぐるみ?」
聞き取りの内容をまとめた資料を眺めながら、ヨシエは眉をひそめた。
「こんな事件起こしたあとに、ぬいぐるみ抱えて逃げてるの?」
「そういう証言が複数ある」
トンダが答えた。
「どんなぬいぐるみ?」
「種類までは証言が一致してない。動物っぽかったって奴もいれば、何なのかわからなかったって奴もいる」
「ずいぶん曖昧ね」
「まともな状況じゃなかったからな。ただ、ひとつだけ妙に証言が重なってる特徴がある」
「何?」
「眼鏡だ」
ヨシエは資料から顔を上げた。
「眼鏡?」
「ぬいぐるみがかけてたらしい」
「どんな?」
「星形」
数秒、沈黙が落ちた。
ヨシエはゆっくりと眉間へ皺を寄せた。
「……星形の眼鏡をかけたぬいぐるみ?」
「ああ」
「何それ?」
街ひとつが消えた事件の重要参考人について聞いているはずなのに、突然そこだけ妙に幼稚な情報が混ざり込んでくる。
その不釣り合いさが、かえって不気味だった。
「精神年齢が幼いのかもな」
トンダは感情を交えずに言った。
「少なくとも、事件のあとも捨てずに持ち歩いてるなら、本人にとって相当大事な物なんだろ。目印にはなる」
「まあ、星形眼鏡のぬいぐるみなんて、そう何人も持って歩いてないでしょうけど」
ヨシエが言うと、その横でキョウコが資料を覗き込んだ。
「星形の眼鏡かー……」
先ほどまで張りつめていた表情が、わずかに緩んだ。
「センス変なの」
ヨシエは即座に横を向いた。
「それ、アンタが言う?」
「え?」
キョウコがきょとんとする。
「赤毛の天パ女が、他人のセンス語る?」
「これは生まれつきだからセンス関係ないもーん」
キョウコは自分の赤い巻き毛をひと房つまみ、指先でくるくる弄んだ。
「赤毛もパーマも天然。つまり普通」
「その理屈で赤毛天パを『普通』に分類するの無理があるでしょ」
「カモイちゃんの方が普通じゃないと思うけどなー」
「どこがよ?」
キョウコは少し考える素振りを見せてから、にっこり笑った。
「子豚なところ」
「子豚って言うな!」
「ほら、すぐ怒る」
「アンタが怒らせてんでしょうが!」
キョウコは楽しそうに笑った。
ヨシエは舌打ちし、苛立たしげに顔を背ける。
トンダは二人のやり取りには構わず、手元の資料へ視線を落としたままだった。
街ひとつが消え、大勢の人間が失われたという事実は、何も変わっていない。
それでも、ほんのわずかな間だけ、張りつめ続けていた空気が緩んだ。
三人にとって、それは必要な時間だった。
捜索は、それから数日間にわたって続いた。
昼間は近隣の街を回り、わずかな目撃情報を頼りに聞き込みをする。夕方になれば、その日に集まった証言や記録を整理し、夜は用意されたビジネスホテルへ戻る。翌朝にはまた車へ乗り込み、別の地域へ向かう。
その繰り返しだった。
狭いホテルの部屋。何時間も揺られ続ける車内。コンビニの弁当やパンで適当に済ませる食事。聞き込みと聞き込みの間にできる、半端な待ち時間。
毎日それなりの量の情報は集まった。
だが、犯人との距離が縮まっているという実感はほとんどなかった。
「若い女を見た気がする」
「明るい髪だったと思う」
「変なぬいぐるみを持っていた」
そんな曖昧な証言を辿って移動しても、その先で得られるのは、また別の曖昧な話ばかりだった。
時間だけが過ぎていく。
ヨシエは少しずつ疲れていった。
身体の疲労だけではない。
相手が見つからない。能力の詳細もわからない。決定的な痕跡も残っていない。
どこにいるのかも、次に何をするのかもわからない女を追い続けること自体が、じわじわと神経を削っていった。
そして何より、あの街の光景が頭から離れなかった。
途中で唐突に途切れた道路。その先に広がる、何も残っていない空白。
昨日までそこに家があり、店があり、大勢の人間が暮らしていたという事実。
瓦礫すら残さず、街そのものが抜き取られたような景色。
夜、ホテルのベッドへ横になって目を閉じても、ときおりあの光景が蘇った。
街ひとつを消した女。
自分たちは、その女を探している。見つけたら、捕らえるのではない。
――始末する。
その言葉を思い出すたび、腹の奥が冷えた。
本当に勝てるのだろうか。
相手が真正面から能力を向けてきた時、自分の重力操作など役に立つのか。
建物も、人間も、存在そのものを消せるような相手だとしたら、こちらが攻撃するより先に、自分の方が消されるのではないか。
いくら考えても答えは出なかった。
そんな不安が頭をよぎるたび、ヨシエは無意識にキョウコを見た。
車の助手席で眠そうに欠伸をしている時もあった。コンビニで甘い菓子を選んでいる時もあった。ホテルのロビーで資料を眺めながら、どうでもいい冗談を言っている時もあった。
いつものキョウコだった。
その姿を見ると、不思議と呼吸が少し楽になった。
――この女がいる。
それだけで、最悪の事態までは起こらないような気がした。
どれほど異常な能力者が相手でも、キョウコなら何とかするのではないか。
実際、本人は街を消すことについて「あんな雑な消し方はしない」と平然と言っていた。
つまり、同じ規模のことができる。
こちらにも、相手と同じ領域に立てる人間がいる。
そう考えれば、恐怖はわずかに薄れた。
だが同時に、その安心感がヨシエには腹立たしかった。
結局、またキョウコだ。
どれほど厄介な敵が現れても、最後にはあの女が何とかする。
相手そのものを別のものへ変える。
危険な現象を書き換える。
普通の方法ではどうにもならなければ、そもそもの前提を変えてしまう。
ヨシエがどれほど能力を鍛えても、その差が埋まる未来は想像できなかった。
以前よりずっと細かな制御ができるようになった。
相手の足だけを止められる。仲間を守るために重力を使える。周囲を壊さずに敵を無力化することもできる。
昔の自分とは比べものにならないほど成長している。
その自覚はあった。
トンダからも戦力として認められた。現場で名前を呼ばれることも、能力を頼られることも増えた。
それなのに、キョウコの隣へ立つと、自分の成長がひどく小さなものに思えた。
自分は一段ずつ必死に階段を上っている。失敗し、怒鳴られ、何度もやり直しながら、ようやく一つ上へ進む。
だが、キョウコだけは最初から、自分では見上げることしかできない場所に立っているように見えた。
しかも、トンダもまた、そんなキョウコを深く信頼していた。
能力者として。仲間として。そして、妻として。
現場でキョウコが前へ出ても、トンダは必要以上に口を挟まない。
危険だと判断すれば止める。無茶をすれば怒る。
それでも最後には、キョウコならやれると信じて任せている。
細かく指示する必要もない。何を考えているのか、一から説明する必要もない。
視線を交わすだけで次の動きを察していることさえあった。
長い時間を共に過ごしてきた者同士にしか生まれない、説明のいらない距離感。
ヨシエには、それが眩しく見えた。
そして、同じくらい腹立たしかった。
自分だって、トンダから仕事を任されるようになった。
――戦力として数えてる。
あの言葉が嬉しかったことは否定できない。
今でも思い出せば、胸の奥がわずかに熱くなる。
だが、それはキョウコへ向けられているものとは違う。
ヨシエが与えられたのは、積み重ねた実績によって少しずつ得た信頼だった。
キョウコとトンダの間にあるものは、それだけではなかった。
何度も同じ現場を潜り抜けた時間。
互いの強さも弱さも知ったうえで、それでも隣にいるという確信。
夫婦として積み重ねてきたもの。
能力を磨くだけでは、簡単には追いつけない。
どれだけ役に立ったとしても、自分にはまだ届かない種類の信頼だった。
ヨシエは、その違いを認めたくなかった。
だから、キョウコの存在に安心するたびに苛立った。
自分ではどうにもならないかもしれない。
けれど、キョウコなら何とかするかもしれない。
そう思ってしまう自分が嫌だった。
頼りたくない。負けたくない。
できるなら、自分の力だけでも役に立てると思いたい。
それでも、あの空白の街を思い出せば、キョウコが隣にいることに安堵してしまう。
その矛盾が、ヨシエの胸の奥に、抜けない棘のように残り続けていた。
ある日の夕方。
三人は捜索の合間に、人気のない河川敷を歩いていた。
昼間の熱はまだ地面に残っていたが、川から吹いてくる風には、わずかな涼しさが混じっていた。西へ傾いた夕日が水面に細長く伸び、流れに揺られて金色の光が細かく砕けている。対岸には低い建物が並び、その向こうでは、空がゆっくりと薄い橙色へ染まり始めていた。
トンダは、二人より少し先を歩いている。
携帯電話を耳に当て、関係者らしき相手と話していた。時折足を止め、低い声で何かを確認しては、また歩き出す。
その少し後ろを、ヨシエとキョウコが並んで歩いていた。
風が吹くたび、キョウコの赤い髪がふわりと揺れる。
癖の強い巻き毛が夕日に照らされ、ところどころ金色に透けていた。
ヨシエは横目でその姿を見た。
腹立たしいほど綺麗だった。
本人はそんなことなど気にも留めず、川面を眺めながらのんびり歩いている。その無頓着さまで気に入らない。
しばらく黙って歩いたあと、ヨシエはふと口を開いた。
「……ねえ」
「ん?」
キョウコが振り向く。
ヨシエは一瞬だけ迷った。
こんなことを聞いてどうするのか、自分でもわからない。
けれど、数日前からずっと、胸の奥に引っかかっていることがあった。
「アンタさ……」
「うん」
「あの眼鏡の、どこが好きなの?」
口にした途端、馬鹿なことを聞いたと思った。
恋敵に、その夫のどこが好きなのか尋ねる。
改めて考えれば、かなり惨めな質問だった。
それでも、聞いてみたかった。
トンダユウイチは、どう考えてもわかりやすく人から好かれるような男ではない。
口が悪い。態度も悪い。
人付き合いは不器用で、他人への気遣いにも欠ける。仕事となれば冷酷な判断を平然と下し、ときには人の生死さえ、必要な処理の一つであるかのように扱う。
もちろん、ヨシエはそんな部分も含めて惹かれてしまった。
むしろ、誰にでも愛想よく振る舞う男ではなかったからこそ、そのトンダが自分を認めてくれたことを特別に感じたのかもしれない。
だが、キョウコは違う。
この女なら、もっといくらでも相手を選べたはずだった。
もっと優しい男。もっと愛想のいい男。もっと華やかで、人から羨ましがられるような男。
キョウコほど強く、美しく、自由に振る舞える女なら、わざわざトンダのような面倒な男を選ぶ必要などなかったはずだ。
それでも、キョウコはトンダを選んだ。
その理由が、ヨシエにはずっと気になっていた。
そして心のどこかでは、大した理由でなければいいと思っていた。
顔が好みだったから。
一緒にいて面白かったから。
何となく気が合ったから。
そんな軽い理由なら、まだよかった。
その程度なら、自分にもどこか入り込む余地があるような気がした。
「うーん……」
キョウコは少し考えた。
ヨシエは、てっきりいつものようにふざけると思った。「顔かなー」とか。「ダーリン、眼鏡外すと意外とかわいいんだよー」とか。
そんなくだらない答えが返ってくるものだと思っていた。
だが、キョウコは珍しく笑わなかった。
少し前を歩くトンダの背中を見ながら、静かに答えた。
「やるって決めたら、どんなに辛くても最後までやり切るところ」
「……」
ヨシエは黙った。
予想していた答えとは、まるで違った。
「ダーリンってさ……」
キョウコはゆっくり歩きながら続けた。
「口悪いし、不器用だし、頑固だし。たまに『それ、人としてどうなの?』って判断も普通にするじゃん?」
「そこは認めるのね」
「認めるよ。だって本当だもん」
キョウコは小さく笑った。
「私だって、ダーリンのやること全部が正しいなんて思ってないし」
前方では、トンダが電話をしながら何かをメモしていた。
その背中を見つめながら、キョウコは続ける。
「でも、あの人は逃げないんだよ」
「逃げない?」
「うん」
キョウコの声は穏やかだった。
「自分がやるって決めたことは、最後までやる。途中でどれだけしんどくなっても、誰かに嫌われても、恨まれても、自分が傷ついても……」
少しだけ間を置く。
「やるって決めたら、やる」
ヨシエは何も言わなかった。
「それが正しいかどうかは、また別の話だけどね。私だってダーリンの判断を止めたことあるし、喧嘩したこともいっぱいある」
キョウコは、ほんの少し目を細めた。
「でも、あの人は自分が背負ったものから逃げないんだよ。誰かがやらなきゃいけないなら、自分がやる。嫌われる役でも、汚い役でも、自分で引き受けたことを途中で放り出さない」
夕日に照らされたトンダの背中を見ながら、静かに言う。
「……そういうところが好き」
夕方の風が、二人の間を抜けていった。
「……」
ヨシエは何も返せなかった。
胸の奥へ、じわじわと妙な敗北感が広がっていく。
ただ恋敵として負けた、という感覚ではなかった。
もっと根本的なところで、自分とキョウコは見ているものが違う。
そんな気がした。
ヨシエがトンダに惹かれたきっかけは、自分を認めてくれたことだった。
誰からも危険だとしか見られなかった能力を、戦力として扱ってくれた。危険な現場で助けてくれた。死にかけた自分に、「次は死ぬな」と言った。
そして、特殊対策室という場所に、自分を置いてくれた。
自分を見てくれた。自分を必要としてくれた。
だから好きになった。
それが間違っているとは思わない。
けれど、改めて考えてみれば、自分の恋心の中心には、いつも自分がいた。
――私を認めてくれた。
――私を必要としてくれた。
――私に居場所をくれた。
だから、好き。
それに対して、キョウコが語ったのは、自分がトンダから何をしてもらったかではなかった。
トンダユウイチという人間が、どう生きるのか。どんな時にも逃げず、何を背負い、何を選ぶ人間なのか。
その不器用さも、危うさも、冷たさも知ったうえで、それでも好きだと言った。
ヨシエには、それが妙に大人びたものに思えた。そして、自分の恋心が、急に幼く見えた。
もちろん、本当に幼稚なのかどうかなどわからない。
誰かを好きになる理由に、優劣などないのかもしれない。自分に向けられた優しさや承認をきっかけに人を好きになることだって、何もおかしくはない。
それでも今のヨシエには、キョウコの言葉の方が、自分よりずっと深い場所から出てきたもののように聞こえた。
「……何よ、それ」
思わず小さく呟く。
キョウコが横目で見る。
「『何よ』って何?」
「……別に」
「真面目に答えたのに文句?」
「別に」
ヨシエは前を向いた。
その横で、キョウコがにやりと笑う。
「子豚ちゃんもダーリンのこと好きだもんねー」
「違うわよ」
「嘘つき」
「うるさい」
「顔赤いよ?」
「夕日のせいよ」
「便利だね、夕日」
「殺すぞ」
いつもの調子で返した。
だが、キョウコはそれ以上からかわなかった。
少しだけ歩いてから、ぽつりと言う。
「好きでいいじゃん」
ヨシエは眉をひそめた。
「は?」
「誰かを好きになるのって、別に悪いことじゃないでしょ」
「既婚者の夫を好きになるのは悪いでしょ」
「おっ?」
キョウコが目を丸くした。
「そこは常識あるんだ」
「アンタ、私を何だと思ってんのよ」
「口が悪くて嫉妬深い子豚ちゃん」
「殺すぞ」
「ほら、すぐ殺すって言う」
「誰のせいよ」
キョウコは楽しそうに笑った。
けれど、その笑い方はいつものものとは少し違った。
相手をからかい、反応を面白がるような笑いではない。
どこか柔らかかった。
「でもさ……」
キョウコは軽く肩をすくめる。
「子豚ちゃんがダーリンを好きになる気持ちは、ちょっとわかるよ」
「はあ?」
「だって……」
キョウコは前を歩くトンダを見た。
「いい男だもんね」
あまりにも自然に言った。
自慢するでもなく、牽制するでもない。
自分だけのものだと誇示するような響きもなかった。
ただ、本当にそう思っているから口にしただけのようだった。
その余裕が、ヨシエにはまた悔しかった。
同時に、これまでとは少し違う種類の感情も湧いた。
「……嫌いよ、アンタ」
「知ってる」
「大嫌い」
「それも知ってる」
「本当にムカつく」
「うん」
何を言っても、キョウコは怒らなかった。
ヨシエは唇を噛む。
「でも……」
言葉が漏れた。
そこで止まった。
自分でも、その先に何を続けようとしたのかわからなかった。
――でも。
少しだけ。本当に、ほんの少しだけ。
以前とは違う何かを、キョウコに対して感じ始めている。
まだ好きになったわけではない。
腹は立つ。嫉妬もする。できることなら負けたくない。
それでも、ただ嫌いなだけの女ではなくなり始めていた。
それを言葉にしてしまうのは、まだ早かった。
キョウコは何も聞かなかった。
続きを促すことも、茶化すこともしない。
ただ隣を歩きながら、ヨシエが話すのを待っていた。
そのことが、かえってヨシエには居心地が悪かった。
「……」
結局、何も言わなかった。
川面を渡る風だけが、二人の髪を揺らしていった。
しばらくして、少し先を歩いていたトンダが電話を終えた。
携帯電話を下ろし、二人を振り返る。
「おい、行くぞ」
「はーい、ダーリン」
キョウコがすぐに返事をする。
「次の聞き込み先がわかった。急ぐぞ」
「はーい」
キョウコは少し足を速めた。
その背中へ、トンダがいつもの調子で言う。
「転ぶなよ」
「ダーリン、心配性ー」
「はいはい」
また、その「はいはい」だった。
以前なら、それを聞くだけで胸の奥が激しくざらついた。
今だって腹は立つ。
悔しい。羨ましい。
できることなら、その隣に立つのが自分だったらと思う。
その気持ちは、何一つ消えていない。
ヨシエも二人を追って歩き出した。
胸の中には、まだ敗北感がある。嫉妬も残っている。
キョウコには敵わないのだと認めさせられたような悔しさも、確かにあった。
けれど、その中に、それまでにはなかった感情がほんの少しだけ混じり始めていた。
まだ名前をつけるには曖昧で、ヨシエ自身も認めたくないほど小さな何かが。
それから、さらに数日が過ぎた。
ほとんど手掛かりのない捜索を続けていた三人のもとへ、ようやく有力な目撃情報が入った。
場所は、郊外にある廃遊園地だった。
十年以上前に閉園し、その後も取り壊されることなく放置されているらしい。周囲には住宅も少なく、幹線道路からも外れている。昼間ならともかく、日が落ちれば近づく者などほとんどいない。
目撃者の話では、問題の女らしき人物が夕方、一人で錆びついたゲートをくぐっていく姿を見たという。
例の、星形の眼鏡をかけたぬいぐるみも抱えていた。
三人が現地へ到着した頃には、すでに日が落ちていた。
月明かりの下、遊園地の入口には巨大なゲートが黒い影となって立っている。かつては子どもたちを迎えるため、明るい色に塗られていたのだろう。だが今では塗装の大半が剥げ落ち、露出した金属には赤茶色の錆が広がっていた。
上部に取り付けられた園名の看板も、文字のいくつかが欠けている。残った部分だけが斜めに傾き、風が吹くたび、留め具の緩んだ箇所がかすかに揺れていた。
ゲートの向こうには、動かなくなった遊具が並んでいる。
遠くに見える観覧車は完全に停止し、巨大な円形の骨組みだけを夜空へ晒していた。
メリーゴーラウンドの屋根は色褪せ、並んだ馬たちの塗装も剥がれ落ちている。かつて鮮やかだったはずの装飾はくすみ、ところどころ白い下地が覗いていた。
売店の看板は半分外れ、片側の金具だけで辛うじてぶら下がっている。
風が吹いた。
どこかで、ぎい、と長い金属音が鳴る。
誰も触れていないはずの遊具が、暗闇の中でゆっくりと軋んでいた。
「趣味悪い場所に逃げ込んだわね」
ヨシエは辺りを見回しながら言った。
「いかにも何か出そうじゃない」
「実際、出るかもしれないぞ」
トンダは冗談とも本気ともつかない口調で返しながら、周囲へ視線を巡らせていた。
「追い詰められた人間は、人目につかない場所を選ぶ。ここは消滅した街からもかなり離れてる。幹線道路から外れてるし、周囲に人家も少ない。潜伏するには都合がいい」
「でも、本当にここにいるの?」
ヨシエは隣に立つキョウコを見た。
「……」
キョウコは答えなかった。
眼鏡の奥で目を閉じ、じっとその場に立っている。
普段の落ち着きのない姿からは想像できないほど静かだった。
風が吹き、赤い巻き毛が頬の横で揺れる。
数秒後。
キョウコが目を開いた。
「……いる」
声が低かった。
トンダとヨシエの表情が変わる。
「奥の方。メリーゴーラウンドの近く」
「わかるの?」
ヨシエが尋ねる。
「何となく」
キョウコは眉を寄せた。
「というか、わかりたくなくてもわかる感じ。変なのがいる」
その言い方に、ヨシエはわずかに背筋を強張らせた。
キョウコが何かを「変」と感じる。
それだけで、普通ではない。
トンダの顔つきもわずかに険しくなった。
「……行くぞ」
三人は錆びたゲートを越え、遊園地の奥へ進んだ。
足元には枯れ葉や小石が散らばっていた。舗装はところどころひび割れ、その隙間から伸びた雑草が道を覆い始めている。
かつては家族連れや子どもたちの声で満ちていた場所なのだろう。
今は、三人の足音だけが響いていた。
靴底が小石を踏む音。風に揺らされた看板の軋み。どこからか聞こえる、金属の擦れる音。それ以外には、何もない。
静かだった。
だがヨシエには、単に人のいない施設が静まり返っているだけとは思えなかった。
どうにも落ち着かない。周囲の景色そのものが、妙に頼りなく感じられる。
視線を向ければ、遊具は確かにそこにある。
だが少し目を逸らしただけで、そのまま消えてしまいそうな気がした。
街ひとつを消した能力者が、この先にいる。
そう意識しているせいなのかもしれない。
それでも、肌へ触れる空気まで、どこか現実感を失っているように感じた。
やがて、古びた建物の陰からメリーゴーラウンドが見えてきた。
色褪せた馬たちが、時間だけを取り残されたように円形に並んでいる。
音楽は流れていない。照明も点いていない。
月明かりだけが、ひび割れた床と、剥げた馬たちの塗装を青白く照らしていた。
そして、その中央に人影があった。
三人の足が止まる。
――若い女だった。
メリーゴーラウンドの床に座り込み、両膝を胸元まで引き寄せている。
明るい色の髪は手入れされておらず、乱れた毛先が頬へ張りついていた。身につけている服は比較的派手なものだったが、汚れや皺が目立ち、何日も着替えていないように見える。
年齢は十代後半か、せいぜい二十代前半。
ヨシエが想像していたより、ずっと幼かった。
そして女は、胸元へ何かを強く抱きしめていた。
――ぬいぐるみ。
何の動物なのか、一目ではわからない。
奇妙に丸みを帯びた身体に、不釣り合いなほど大きな顔。
その顔には、ひどく目立つ星形の眼鏡がかけられていた。
――間違いない。
目撃証言にあった女だ。
三人の気配に気づいたのか、女がゆっくりと顔を上げた。
ヨシエは反射的に身構えた。
街ひとつを消した人間。
どんな目をしているのかと思っていた。
狂気に満ちた顔。人を殺したことなど気にも留めないような冷たい目。あるいは、こちらを見た瞬間に襲いかかってくるような殺意。
だが、そこにあったのは、そのどれでもなかった。
虚ろな目だった。
目の下には濃い隈ができ、頬も少し痩せている。何日もまともに眠っていないのかもしれない。
何より、その表情には妙な幼さがあった。
怯えている。追い詰められた子どものように。
まるで、自分がなぜ追われているのかさえ、完全には理解していないような顔だった。
「来ないで」
女が言った。掠れた声だった。
胸元のぬいぐるみを抱く腕に、さらに力が入る。
「来ないでよ……」
三人は足を止めた。
ヨシエはトンダを横目で確認した。
トンダもすぐには動かない。
その中で、キョウコだけがゆっくりと一歩前へ出た。
「あなたが、街を消した子?」
責めるような口調ではなかった。
怯えた子どもへ問いかけるような、驚くほど柔らかな声だった。
女の肩が震える。
「知らない」
「覚えてない?」
「知らない」
女は首を横へ振った。
「知らない!」
突然、声が大きくなる。
「知らない!知らない知らない知らない!」
その瞬間だった。
ヨシエは、空気が震えたように感じた。
だが、風ではない。音が鳴ったわけでもない。
目の前の景色そのものが、一瞬だけ揺らいだ。
背後に並んでいたメリーゴーラウンドの馬の一頭が、わずかにぼやける。
いや、ぼやけたのではない。
輪郭そのものが失われた。
そこに確かに存在していたはずの馬が、ほんの一瞬だけ消えたように見えた。
――違う。
消えたというより――その瞬間だけ、最初からそこには何もなかったかのように見えた。
次の瞬間には、元へ戻っている。
「……っ」
ヨシエは反射的に能力を展開した。
意識を周囲の重力へ広げる。女を捉える。
いつでも、その身体だけを地面へ押さえつけられるように狙いを定めた。
「気をつけろ」
トンダが低く言う。
ヨシエが力を発動しようとした瞬間、キョウコが片手を横へ出した。
「待って」
「何よ」
「まだやらないで」
「今、何か消えかけたでしょ」
「だから」
キョウコは女から目を離さなかった。
「……この子、たぶん自覚してない」
ヨシエは眉を寄せた。
「街ひとつ消しておいて?」
「うん」
「そんなことある?」
「ある」
キョウコは迷わず答えた。
いつもの軽い調子は完全に消えている。
「たぶん、能力が本人の意思と切り離されてる」
「どういうこと?」
「本人が『これをこうしたい』って考えて使ってるんじゃない。感情とか、精神状態とか、もっと無意識に近いところに反応して、勝手に現実へ干渉してる」
女がさらに強くぬいぐるみを抱きしめた。
その瞬間、メリーゴーラウンドの柱の輪郭がわずかに揺らいだように見えた。
ヨシエは息を止める。
「現実を書き換えるタイプってこと?」
「たぶんね」
キョウコは小さく答えた。
ヨシエは一瞬迷ってから尋ねた。
「じゃあ、アンタと同じ?」
その問いに、キョウコはすぐには答えなかった。
目の前の女を見る。メリーゴーラウンドを見る。
その周囲の空間を確かめるように、ゆっくり視線を巡らせる。
「似てる」
やがて言った。
「……でも、違う」
「何が?」
「私は、自分が何を変えるのか選べる」
キョウコの声は真剣だった。
「何をどうしたいのか、自分で決めて、それを現実にする。ぬいぐるみにするならぬいぐるみにする。爆発させたくないなら、爆発しないようにする」
女へ視線を戻す。
「でも、この子はたぶん違う」
「……どう違うの?」
「本人の気持ちと、実際に起きることの境界がぐちゃぐちゃになってる」
キョウコは眉を寄せた。
「嫌だと思ったものが消えるのかもしれない。怖いと思ったものがなくなるのかもしれない。それとも本人すら意識してない何かが、勝手に現実へ出てくるのかもしれない」
「つまり?」
「自分でも何が起きるかわからない」
キョウコはしばらく女を見つめた。
そして、静かに言った。
「私より雑で、私より危ない」
ヨシエは息を呑んだ。
――キョウコより危ない。
その一言が、異様な重さを持って胸へ落ちた。
以前なら、キョウコの能力がどれほど異常なのか、ヨシエにも完全には理解できていなかった。
だが今は違う。
キョウコは常識外れに強い。街そのものを消すことさえ、おそらくできる。
それでも彼女は、自分の能力が何なのかを知っている。
何を変えるのかを選び、どこまで変えるのかを決め、その結果を理解している。
少なくとも、制御している。
目の前の女には、それがない。
街ひとつを消せるほどの力を持ちながら、自分が何をしているのかさえ把握できていない。
敵意がなくても、人を消すかもしれない。
殺すつもりなどなくても、街をなくしてしまうかもしれない。
それは、もはや強い能力者というより、意思を持たない災害に近かった。
若い女は、そんな三人の会話など耳に入っていないようだった。
ぬいぐるみに顔を押しつけ、小さく何かを呟いている。
「私じゃない……」
ヨシエは耳を澄ませた。
「私じゃない……みんな勝手に消えた……私、何もしてない……」
声は震えていた。
言い訳をしているようには聞こえなかった。
責任から逃れようとしている者の声でもない。
本当に、自分は何もしていないと信じている。
少なくとも、ヨシエにはそう聞こえた。
トンダが一歩だけ前へ出た。
「名前は?」
女の身体がびくりと震える。
「お前の名前だ」
返事はない。
女はぬいぐるみを強く抱きしめたまま、俯いている。
トンダがもう一度口を開こうとした時、キョウコが静かに手を上げた。自分に任せろという合図だった。
トンダは何も言わず、その場で止まった。
キョウコは女を刺激しないよう、ゆっくりと膝を曲げた。
完全にしゃがみ込むことはせず、少しだけ身体を低くして目線を近づける。
「ねえ……」
優しい声だった。
「名前、教えてくれる?」
女はすぐには答えなかった。
ぬいぐるみの星形の眼鏡を、指先で何度も撫でている。
沈黙が続いた。
風が吹き抜け、古びたメリーゴーラウンドのどこかが低く軋む。
やがて、女の唇がわずかに動いた。
「……ユミ」
消えてしまいそうなほど、小さな声だった。
キョウコは急かさない。何も言わず、その続きを待つ。
女はほんの少しだけ顔を上げた。
「マチヤ……ユミ」




