第8話 子豚ちゃんの初恋
カモイヨシエは、比較的裕福な家庭に生まれた。
父は大手企業の管理職で、母は専業主婦。都心から少し離れた閑静な住宅街に、庭付きの一戸建てを構えていた。
家の前には低い生垣があり、その内側には母が丹精込めて育てた花々が、季節ごとに違う色を見せていた。春にはチューリップやパンジー、初夏には紫陽花。玄関やリビングにも、その時々の花が小さな花瓶に生けられていた。
家の中は、いつもきちんと整えられていた。
食器棚には同じ柄の皿やカップが寸分違わず並び、ソファのクッションは乱れていればすぐに直された。客が訪れれば、母は少し上等な茶器を出し、普段より幾分よそ行きの声で応対した。
父の収入は安定していた。食べるものにも、着るものにも困らない。誕生日には欲しいものを買ってもらえたし、学校生活に必要なものを我慢させられることもなかった。
何でも望み通りになるほど贅沢な家庭ではない。けれど、子どもが生活の不自由を意識するような家でもなかった。
近所から見れば、きっと理想的な家庭に映っていた。
立派な仕事に就いている父親。家をきれいに保ち、身なりにも気を配る母親。
そして、三人の娘。
少なくとも、外から眺めているだけなら、そこには何の問題もないように見えた。
ヨシエには、二人の姉がいた。
長女は落ち着いた雰囲気の美人だった。幼い頃から成績がよく、大人の言うことにも素直に従った。学校では優等生として通り、通知表を持ち帰るたび、父から褒められていた。
次女は姉とは少し違った。
華やかな顔立ちに、人懐っこい性格。初対面の相手にも自然に笑いかけることができ、同年代の子どもたちの輪へ入るのも早かった。家へ友人を連れてくることも多く、そのたびに明るい笑い声が部屋の中へ響いていた。
二人とも、母によく似ていた。
背が高く、手足が長い。顔立ちも整っていて、成長するにつれて幼さが抜けると、ますます母親譲りの美しさが目立つようになった。
親戚が集まれば、姉たちはよく褒められた。
――美人になった。
――お母さんに似てきた。
――将来が楽しみだ。
そんな言葉を、本人たちは少し照れながら聞いていた。
リビングには、家族で撮った写真がいくつも飾られていた。
旅行先で撮ったもの。入学式の日のもの。正月に親戚の家で撮ったもの。
写真の中では、父と母を中心に、二人の姉が楽しそうに笑っていた。
整った顔立ちの母。
その面影をよく受け継いだ姉たち。
まるで最初から同じ一枚の絵に収まることを想定していたかのように、よく似た家族だった。
そして、その端に、一人だけ、少し雰囲気の違う子どもが写っていた。
それが、ヨシエだった。
姉たちに比べて背は低かった。
身体つきも細長くはなく、幼い頃から丸みを帯びていた。頬はふっくらとしていて、手足も短い。
顔立ちも、姉たちとはあまり似ていなかった。
愛想よく笑うことが苦手だった。
カメラを向けられても、姉たちのように自然な笑顔を作れない。本人は普通にしているつもりでも、眉間にはわずかに皺が寄り、目元にはどこか不機嫌そうな印象が残った。
「ヨシエは目つきが悪いわね」
幼い頃から、何度となくそう言われた。
本人に睨んでいるつもりなどなくても、そう見られた。
姉たちが並んで笑っている家族写真の中で、ヨシエだけがどこか居心地悪そうな顔をしていた。
同じ家に生まれた。
同じ父と母の娘だった。
それなのに写真を見ると、ヨシエだけが、ほんの少し別の場所から紛れ込んできた子どものように見えた。
そして何より、ヨシエは特殊能力者だった。
彼女が持って生まれたのは、重力を操る能力だった。
物体にかかる重力を強めて押し潰す。反対に軽くして宙へ浮かせる。離れたものを引き寄せたり、弾き飛ばしたりすることもできる。
成長し、十分に使いこなせるようになれば、極めて強力な能力になる可能性を秘めていた。
けれど、幼いヨシエにとって、そんな将来性は何の意味もなかった。
自分の意思ではろくに制御できず、怒りや恐怖、寂しさといった感情に反応して勝手に発現する。幼い彼女にとって重力操作は、便利な力でも特別な才能でもなく、いつ何を壊すかわからない厄介なものだった。
その兆候は、赤子の頃から現れていた。
激しく泣けば、ベビーベッドの柵がぎしぎしと不穏な音を立てた。癇癪を起こせば、食器棚の中で皿やカップがひとりでに揺れ始め、互いにぶつかり合って割れた。
母が泣き止ませようと抱き上げた時、突然ヨシエの身体に異様な重さがかかったこともある。
「重っ……!」
母の腕が耐えきれずに下がり、危うく床へ落としかけた。
赤ん坊のヨシエには、もちろん何が起きているのかわからない。
――怖い。
――寂しい。
――腹が減った。
――眠い。
――気に入らない。
幼い子どもなら誰もが抱くような、それだけの感情だった。
けれどヨシエが泣けば、周囲の物まで悲鳴を上げた。
家具が軋む。棚の中の物が震える。床へ置かれていた玩具が沈み込む。時には、何かが壊れた。
やがて家族も、ヨシエが激しく感情を乱すことそのものを恐れるようになった。
三歳の頃には、それまでより大きな事故も起きた。
何が原因だったのか、ヨシエ自身はもう覚えていない。
欲しいものを買ってもらえなかったのかもしれない。姉たちと喧嘩したのかもしれない。母に叱られたのかもしれない。
子どもにとっては、その時だけ世界のすべてが終わってしまったように感じる程度の、ありふれた出来事だったのだろう。
ただひとつ、今でもぼんやりと残っている光景がある。
リビングの床に座り込み、ヨシエは声を上げて泣いていた。
涙で視界は滲み、鼻をすすりながら、何かを訴えるように何度も叫んでいた。
そして次の瞬間。
凄まじい音が響いた。
ヨシエは泣くのを忘れ、目の前を見た。
リビングの中央に置かれていた木製のテーブルが、潰れていた。
四本の脚が折れたのではない。
天板の中央へ見えない巨大なものが落ちてきたかのように、硬い木材そのものが下へ押し込まれている。中央部分は大きく陥没し、脚の一本は耐えきれずに外側へ歪んでいた。
一瞬、家の中が静まり返った。
最初に反応したのは母だった。
「きゃっ……!」
短い悲鳴を上げ、口元を手で覆う。
父の顔からも、見る見る血の気が引いていった。
二人の姉は怯えたようにヨシエを見たあと、ほとんど逃げるように隣の部屋へ駆け込んだ。
ヨシエだけが、その場に取り残された。
涙を流したまま、壊れたテーブルを見る。
次に、父を見る。母を見る。姉たちが消えた扉を見る。
何が起こったのか、理解できなかった。
自分が何をしたのかもわからない。
どうしてみんなが急にあんな顔をしたのかも、幼いヨシエには説明できなかった。
ただ、その表情だけは覚えた。
――怖がっている。
――自分を見て、怖がっている。
ヨシエはまだ三歳だった。
能力という言葉の意味も、自分が特殊能力者であることの重さも理解していなかった。
けれど、もっと単純なことならわかった。
自分が泣くと、みんなの顔が強張る。
自分が怒ると、物が壊れる。
そして自分の感情が激しくなると、家族は自分から離れていく。
それからヨシエは、似たような経験を何度も重ねることになった。
大きな事故ばかりではない。
母が一瞬だけ身を引く。
父が警戒するような目を向ける。
姉たちが、自分の機嫌を窺いながら距離を取る。
そうした小さな反応が、ひとつずつ積み重なっていった。
そしていつしか幼いヨシエの中に、ひとつの感覚として染みついていった。
自分が感情を出すと、周りの人間は自分を怖がる。
そのことだけは、誰かに教えられるまでもなく、よくわかっていた。
家族は、ヨシエを虐待していたわけではない。
食事は毎日きちんと用意された。季節が変われば新しい服を買ってもらえたし、学校にも当然のように通わせてもらった。熱を出せば母が病院へ連れていき、必要な学用品も、生活に必要なものも、たいていは不足なく与えられた。
誕生日になればケーキも出た。クリスマスにはプレゼントもあった。
親として果たすべきことは、ひと通り果たしていた。
だから、外から見れば何の問題もなかった。
ヨシエ自身でさえ、幼い頃は何が不満なのか、うまく説明できなかった。
ただ、姉たちに向けられているものと、自分に向けられているものは、どこか違っていた。
それは、ほんのわずかな違いだった。
朝、姉たちが母の前に座り、髪を結ってもらっていることがあった。
母の指が長い髪を丁寧に梳き、絡まりをほどいていく。今日はどのリボンにしようかと尋ね、姉が鏡越しに答える。母が結び目を整えると、姉は嬉しそうに笑った。
「似合ってるわよ」
そう言って、母も笑う。
ヨシエは少し離れた場所から、その様子を眺めていた。
自分も近づけば、母は拒まなかった。
「ヨシエもやる?」
そう声をかけてくれることもあった。
けれど、ヨシエが母の前に座ると、どこか空気が変わった。
母の手つきが、ほんの少し慎重になる。
髪を引っ張って怒らせないように。
気に入らない髪型にして癇癪を起こさせないように。
母は何も言わなかった。
けれど、その指先にわずかな緊張が宿っていることを、ヨシエは感じ取っていた。
父もそうだった。
姉たちが学校から成績表を持ち帰れば、父は中身を見ながら嬉しそうに笑った。
「よく頑張ったな」
頭を撫でる。
「次もこの調子で頑張れよ」
姉たちは照れながら笑う。
ところがヨシエの成績表を見る時、父の関心は別のところに向いていた。
「学校で問題は起こしてないだろうな」
最初に出てくるのは、たいていその言葉だった。
成績そのものが悪いわけではなかった。
それでも父が気にするのは、能力を使っていないか。誰かと揉めていないか。物を壊していないか。教師から苦情が来ていないか。
――能力を使うな。
――怒るな。興奮するな。
――人に迷惑をかけるな。
――何かを壊すな。
父と母がヨシエに望んでいたことは、いつも似ていた。
何かを成し遂げることではない。誰かに褒められることでもない。
ただ、何も起こさないこと。普通に一日を終えること。
それができれば、それでいい。
ヨシエには、そう言われているように感じられた。
親戚が集まる席でも、似たようなことは何度もあった。
「まあ、また綺麗になったわね」
伯母が長女を見て笑う。
「成績もいいんでしょう?偉いわねえ」
「この子は昔から真面目だから」
母も嬉しそうに答える。
次女には、
「相変わらず明るいわねえ」
「友達も多いんでしょう?」
そんな言葉が次々とかけられた。
そして、ヨシエの番になる。
「ヨシエちゃんも、元気そうね」
それだけだった。
「……うん」
ヨシエは答える。
子どもながらに、それが姉たちへ向けられた言葉とは違うことくらいはわかった。
綺麗とも言われない。賢いとも言われない。偉いとも言われない。
――元気そう。
ただ、それだけ。
そして話題はすぐに別のものへ移っていく。
やがて大人たちは、ヨシエが遊びに行ったと思ったのか、あるいは子どもには聞こえないと思ったのか、少し声を潜めて話し始める。
「あの子、例の能力の子でしょう?」
「そうみたいね」
「今はもう大丈夫なの?」
「小さい頃、家具を壊したことがあるって聞いたけど」
「突然、何かしたりしない?」
少し間があった。
「……怖くないのかしら」
聞こえていた。
全部、聞こえていた。
ヨシエは別の部屋で玩具を触りながら、聞こえていないふりをした。
最初のうちは、何を言われているのか完全には理解できなかった。
それでも、自分について話していることはわかった。
そして、決していい話をしているわけではないことも。
大人になるにつれて、聞こえていないふりだけが上手くなった。
家族はヨシエを殴らなかった。食事を抜くこともなかった。寒い日に外へ締め出すことも、家から追い出すこともなかった。
少なくとも、誰の目にも明らかな形で彼女を傷つけたことはなかった。
ただ、恐れていた。
いつ能力が暴発するかわからない子どもとして。
何かの拍子に家具を壊し、人を傷つけるかもしれない存在として。
怒らせないように。刺激しないように。機嫌を損ねないように。
腫れ物へ触れるように、慎重に扱った。
おそらく、家族なりにヨシエを守ろうとしていた部分もあったのだろう。
事故を起こして本人が傷つかないように。
能力のせいで周囲から責められないように。
誰かを傷つけて取り返しのつかないことにならないように。
だからこそ、止めた。
だからこそ、注意した。
だからこそ、警戒した。
けれど、幼いヨシエには、そんな事情まではわからなかった。
わかるのは、もっと単純なことだけだった。
姉たちへ向ける笑顔と、自分へ向ける笑顔は、少し違う。
自分が近づくと、母の身体がほんのわずかに強張る。
父は姉たちの将来を楽しそうに話すのに、自分には問題を起こすなと言う。
親戚は自分の能力について、聞こえないところで怖がっている。
家族は、自分が何かをする前から機嫌を窺っている。
幼いからわからない、などということはなかった。
子どもは、大人が思っている以上に、そういうものをよく見ている。
ヨシエも見ていた。
声の調子。視線。指先の動き。一瞬だけ生まれる沈黙。自分が怒った時、家族の顔に浮かぶ緊張。
全部、わかっていた。だから、傷ついた。
どうして姉たちには普通に笑うのに、自分にはそんな顔をするのか。
どうして自分だけが、何もしていない時から警戒されなければならないのか。
そう考えると、腹が立った。
腹が立てば、感情が荒れた。
感情が荒れれば、能力が不安定になった。
家具が軋み、物が落ち、時には何かが壊れた。
すると家族は、やはりヨシエを恐れた。
その怯えた顔を見て、ヨシエはまた傷ついた。
傷つけば、さらに怒った。
ヨシエ自身にも止め方のわからない悪循環だった。
家族が恐れるから、ヨシエは傷つく。ヨシエが傷ついて怒るから、能力が暴れる。能力が暴れるから、家族はさらに恐れる。
誰か一人が悪かったわけではない。
それでも、その繰り返しは確実に家族の形を変えていった。
同じ家で暮らし、同じ食卓を囲み、家族写真には同じように収まっている。
それなのに、まだ幼かったヨシエと家族との間には、目には見えない距離が少しずつ広がっていった。
そして、その距離はいつしか、簡単には埋められないものになっていた。
小学校から高校まで、ヨシエは小中高一貫の女子校に通った。
本人が強く望んで選んだ学校ではない。進学先を決めたのは両親だった。
都心から少し離れた場所にある、歴史の長い私立校だった。敷地は広く、校門には警備員が常駐している。校舎の一部には特殊能力者による事故を想定した補強が施され、能力が暴発した際の対応手順も細かく定められていた。
教師たちも、特殊能力者への対応について最低限の研修を受けていた。
能力を無理に抑え込もうとして刺激しないこと。周囲の生徒を速やかに避難させること。必要に応じて専門職員へ連絡すること。
一般的な学校へ通わせるよりは安全だった。
何か起きても、少なくとも対応する仕組みはある。
両親としては、できるだけ管理の行き届いた環境にヨシエを置きたかったのだろう。
だが、どれほど設備を整え、対応マニュアルを用意しても、それだけでカモイヨシエという人間そのものが扱いやすくなるわけではなかった。
ヨシエは、学校でも次第に周囲から距離を置かれるようになった。
最初から全員に嫌われていたわけではない。
低学年の頃には普通に話しかけてくる子もいたし、一緒に遊ぼうと誘われることもあった。
けれど、関係は長続きしなかった。
理由は、特殊能力だけではない。
むしろ年齢を重ねるにつれて、周囲との摩擦を生んだのは、能力そのものよりもヨシエの性格の方だった。
自意識が強く、傲慢で、嫉妬深い。
他人の長所を素直に認めることができなかった。
自分より成績のいい生徒がいれば、教師に贔屓されていると言った。容姿を褒められている生徒がいれば、どこが可愛いのかわからないと鼻で笑った。運動のできる生徒が注目されれば、そんなもの将来何の役にも立たないと貶した。
誰かが評価されることを、そのまま受け入れることができなかった。
相手が上がると、自分が下がったように感じる。
誰かが褒められると、自分が否定されたように思える。
だから、相手の価値を下げようとした。
少しでも自分が軽く扱われたと感じれば、すぐに声を荒らげた。
「何、その言い方?」
「私を馬鹿にしてる?」
相手にはそんなつもりがなくても、一度そう感じてしまえば簡単には引き下がらなかった。
そして、ヨシエは人が傷つく言葉を見つけるのが妙に上手かった。
相手が気にしている容姿。成績。家庭環境。友人関係。
少し話していれば、どこを突けば一番痛いかを察することができた。
腹が立つと、そこを狙った。
言ってはいけないとわかっていても、わざと口にした。
相手の顔が曇れば、一瞬だけ気分がよくなった。
自分を不快にしたのだから、これくらい言われて当然だ。そう考えた。
謝ることも苦手だった。
むしろ、自分に非があるとわかっている時ほど、意地になった。
――ごめんなさい。
その一言を口にすれば負けるような気がした。
自分が悪かったと認めれば、相手より下になる。
ヨシエには、そんな感覚があった。
そのため、能力を使った嫌がらせにまで発展することもあった。
気に入らない同級生の鞄へ重力をかけ、中身ごと床へ叩きつけたことがある。
机の上に置かれていた筆箱へ力をかけ、蓋が割れるまで押し潰したこともあった。
体育の授業では、自分より足の速い生徒に腹を立て、その靴へ一瞬だけ強い重力をかけた。
走っていた生徒は突然足を取られ、勢いよく転倒した。
膝と手のひらを擦りむき、泣きそうな顔でこちらを見る。
ヨシエは知らないふりをした。
後になって教師から呼び出されても、素直に認めなかった。
「カモイさん、あの時、能力を使ったでしょう」
「証拠でもあるの?」
教師を睨み返す。
「近くにいた子も、急に身体が重くなったように見えたと言っているの」
「見えただけでしょ」
「あなた以外に重力を操れる子はいないでしょう」
「だから何?」
追及されるほど、態度は頑なになった。
能力を使ったことが明らかな場合でも、
「あいつが先にムカつくことしたんだけど」
と開き直った。
「だからって、能力を使って傷つけていい理由にはならないでしょう」
「私を怒らせなきゃよかったのよ」
本気でそう言った。
もちろん、ヨシエ自身にも、悪いことをしているという自覚はあった。
人の物を壊してはいけない。
能力を使って他人を傷つけてはいけない。
学校で何度も教えられていたし、それくらいの善悪は理解していた。
ただ、ヨシエの中では、その善悪より先に別の理屈が立った。
自分を舐めた相手が悪い。
自分を馬鹿にした相手が悪い。
自分を怒らせた相手が悪い。
先に傷つけられたから、やり返しただけ。
だから、自分だけが責められるのはおかしい。
そう考えていた。
本当は、相手がそこまで悪意を持っていなかったことも多い。
ただ少し意見が違っただけ。
何気なく言った言葉が気に障っただけ。
偶然、自分より目立っただけ。
それでもヨシエの中では、それらが「自分を軽んじた」というひとつの意味へ変換された。
そして、その解釈を疑おうとはしなかった。
自分は傷つけられた。だから、やり返した。
それだけだった。
いつの間にか、そんな考え方がヨシエの中では当たり前になっていた。
彼女にとって世界は、自分を軽んじ、傷つけようとする人間で満ちているように見えた。
綺麗で、何をしても自然に褒められる姉たち。
優しく接してはくれるものの、心のどこかでは自分の能力を恐れている母。
娘が何かを成し遂げることより、問題さえ起こさなければいいと考えているように見える父。
能力のことを陰で囁き、自分が近づけば声を潜める同級生。
そして、「もう少し周囲とうまくやりなさい」「相手の気持ちも考えなさい」と、もっともらしい正論を並べる教師たち。
誰も自分の側には立たない。
誰も、自分がなぜ怒っているのかを理解しようとはしない。
ただ扱いづらい人間として、自分を大人しくさせようとしている。
少なくとも、ヨシエにはそう見えていた。
実際には、彼女を見下していない人間もいたのだろう。
心配して声をかけた教師もいた。純粋に仲良くしようと近づいてきた同級生もいた。家族にしても、恐れながらではあっても、ヨシエをどうにか守ろうとしていた部分はあった。
けれど、一度人を疑うことを覚えたヨシエには、その違いを見分けることができなくなっていた。
優しくされれば、何か裏があると思った。
注意されれば、馬鹿にされたと感じた。
心配されれば、哀れまれているように思えた。
誰かが少し距離を取れば、やはり自分を嫌っていたのだと確信した。
そうして、相手の言葉や態度の中から、自分を拒絶している証拠ばかりを拾うようになっていった。
だったら、先に噛みつけばいい。
見下されるくらいなら、その前にこちらから見下す。
馬鹿にされるくらいなら、先に相手を馬鹿にする。
傷つけられるくらいなら、自分の方から傷つける。
そして、いつか嫌われるくらいなら、最初からこちらが嫌ってしまえばいい。
そうすれば、相手に捨てられたことにはならない。
自分から見限っただけだと思える。
傷つかずに済むわけではなかった。
それでも、何もせずに拒絶されるよりは、自分から関係を壊した方がずっとましだった。
少なくともヨシエには、そう思えた。
いつしか彼女は、他人に近づく前から牙を剥くようになった。
誰かを信じて傷つくくらいなら、最初から信じない。
誰かに受け入れてもらえることを期待して裏切られるくらいなら、期待そのものをしない。
それが自分を守る方法なのだと、ヨシエはいつの間にか信じ込むようになっていた。
当然、ヨシエには友達と呼べる相手がほとんどできなかった。
最初から、誰も彼女に近づかなかったわけではない。
新しい学年になれば、隣の席になったことをきっかけに話しかけてくる子がいた。昼休みに「一緒に食べない?」と誘ってくれる子もいたし、休み時間になれば、ほかの子たちと遊ぶ輪の中へ入れてくれようとする子もいた。
特殊能力者であることを知っても、特に態度を変えない生徒もいた。
けれど、そうした関係は長く続かなかった。
少し気に入らないことを言われれば、ヨシエはすぐに腹を立てた。
昨日まで自分と一緒にいた子が、今日は別の友達と楽しそうに話している。それだけで、自分が軽く扱われたような気がした。
「何、あいつと仲いいの?」
「え?うん。同じ委員会だから」
「ふーん」
口ではそう答えても、機嫌は目に見えて悪くなった。
自分より成績のいい子がいれば、素直に認めることができなかった。
「今回、一番だったんだって。すごいね」
誰かがそう褒めれば、
「でも、あいつって勉強しかできないじゃん」
と横から口を挟んだ。
容姿を褒められている生徒を見ても同じだった。
「髪型変えたんだ。似合ってるね」
「でも顔は悪いわよ」
わざわざ本人に聞こえる声で言った。
自分より目立つ。自分より褒められる。自分より誰かに必要とされている。
それだけで、胸の奥に黒いものが湧いた。
そしてヨシエは、それを隠すことができなかった。
やがて、相手は少しずつ距離を取るようになる。
昼食へ誘われなくなる。休み時間に話しかけられなくなる。席替えで離れれば、それをきっかけに会話そのものが途絶えることもあった。
けれどヨシエは、その原因を自分の振る舞いに求めなかった。
距離を置かれた。その事実だけを見て、
――やっぱり裏切った。
そう思った。
最初は仲良くするふりをしていただけ。本当は最初から自分を嫌っていた。どうせ能力者だから気味悪がっていたのだ。
そう決めつけた。
そして、傷ついたことを悟られないために、ますます相手へ攻撃的になった。
「別に、アンタなんかいなくても困らないし」
「あいつとつるみたいなら、勝手にすれば?」
そう吐き捨てるたび、本当に相手は遠ざかっていった。
その繰り返しだった。
そして気づいた頃には、積極的にヨシエに近づく者はほとんどいなくなっていた。
それでも、彼女は自分が孤立しているとは認めようとしなかった。
認めてしまえば、自分に原因がある可能性まで考えなければならない。
自分が嫌われた。自分が人間関係を壊した。
その事実と向き合うくらいなら、周囲の方がおかしいと思っていた方が楽だった。
中学生の頃、担任から人間関係について注意されたことがある。
放課後の教室だった。
ほとんどの生徒はすでに帰り、窓の外からは運動部の掛け声や、グラウンドを走る足音が遠く聞こえていた。夕方の光が斜めに差し込み、机や椅子の影を床へ長く伸ばしている。
ヨシエは自分の席に座り、鞄を机の上に置いたまま、露骨に面倒そうな顔をしていた。
担任は向かいの椅子へ腰を下ろした。
「カモイさん」
「何?」
「最近、クラスで一人でいることが多いでしょう」
ヨシエは眉をひそめた。
「それが何?」
「責めてるわけじゃないの。ただ、少し気になって」
「余計なお世話なんだけど」
担任はすぐには言い返さなかった。
ヨシエを刺激しないようにしているのだろう。
その慎重な態度そのものが、ヨシエには気に入らなかった。
「もう少し、周りの子と歩み寄ってみてもいいんじゃないかな」
「歩み寄る?」
「全部相手に合わせろって意味じゃないよ。ただ、少し言い方を変えるとか、相手の話を最後まで聞くとか。それだけでも――」
「私が孤立してるんじゃない」
ヨシエは鼻で笑った。
「周りのレベルが低すぎるの」
担任は一瞬、言葉に詰まった。
「……そういう言い方をしていると、ますます周囲と関係を築くのが難しくなるよ」
「別に困らないけど」
「でも、この先ずっと一人で生きていくわけじゃないでしょう」
「築く価値のある相手なら、こっちだって考えるわよ」
ヨシエは椅子の背にもたれ、腕を組んだ。
「いないだけ」
「カモイさん……」
「何?」
担任の口がわずかに開き、そして閉じた。
叱るべきなのか。諭すべきなのか。それとも、これ以上何も言わない方がいいのか。
迷っていることが、その表情からわかった。
ヨシエは、その顔が嫌いだった。
まただ、と思った。
家族も、これまでの教師も、よく同じ顔をしていた。
自分を前にして、どうすればいいのかわからなくなった時の顔。
――困っている。
――私をどう扱えばいいのかわからなくて、困っている。
担任の表情を見ながら、ヨシエはそう受け取った。
その頃には、学校側もヨシエへの対応にかなり疲弊していた。
成績が悪いわけではない。
むしろ頭の回転は速く、授業の内容を理解するのも早かった。教師が説明している途中で結論を察することもあり、要領もいい。本気で勉強へ取り組めば、学年上位に入るだけの力は十分にあった。
ただし、興味のない科目には露骨に手を抜いた。
「こんなの覚えて何になるの?」
そう言って宿題を出さないこともあったし、授業中に教師の説明へ口を挟むことも珍しくなかった。
理解できないから反抗するのではない。理解したうえで、自分が納得できなければ従わない。
そこが、教師たちにとって余計に厄介だった。
特殊能力についても同じだった。
ヨシエの重力操作は、同年代の能力者と比べても明らかに強かった。
まだ制御には粗さがある。それでも、広い範囲へ同時に重力をかけたり、重量を大きく変化させたりできる出力は、教師や専門職員からも高く評価されていた。
適切な訓練を受け、自分の感情と能力を切り離して扱えるようになれば、将来は相当な能力者になる。そう見込まれていた。
だからこそ、扱いづらかった。
単純に勉強が苦手なら、学習面から支援できる。
能力が弱ければ、危険性をそれほど警戒する必要もない。
ただ反抗的なだけなら、時間をかけて指導することもできたかもしれない。
しかしヨシエは、頭が回る。能力も強い。
そして、自分なりの理屈を必ず持っていた。
教師が注意すれば、言葉尻や矛盾を見つけて反論する。
「でも、それって私だけに言ってない?」
「ほかの子もやってたじゃん」
「校則のどこに書いてあるの?」
厳しく叱れば、威圧されたと受け取って噛みついた。
逆に穏やかに諭せば、今度は子ども扱いされたように感じて腹を立てた。
「そうやって優しく言えば、私が言うこと聞くと思ってるわけ?」
少し褒めれば、やはり自分は周囲より優れているのだと受け取り、態度が大きくなった。
ならば必要以上に構わない方がいいと距離を取れば、
「どうせ私のことなんか面倒なんでしょ」
と機嫌を悪くした。
何をしても、どこかで反発される。
担任一人では対応しきれなくなり、学年主任が面談へ同席するようになった。スクールカウンセラーにも相談が持ち込まれ、ヨシエ本人との面談も何度か行われた。
「何か困っていることはない?」
そう尋ねられても、
「別に」
と答える。
「学校で嫌なことがあったり、人間関係で悩んだりしてない?」
「困ってるのは周りでしょ。私じゃないし」
そう言って、話を終わらせた。
教師たちは、ヨシエの言葉の奥に何かがあることには気づいていた。
だが、その内側へ踏み込もうとすれば、ヨシエはさらに強く拒絶した。
本人に変わる意思がない以上、周囲ができることには限界がある。
何度話し合っても、劇的に何かが改善することはなかった。
問題を起こす。注意される。反発する。しばらく大人しくなる。そして、また何かを起こす。
その繰り返しだった。
学校にとって、ヨシエは間違いなく問題児だった。
そして家庭でも、状況は大きく変わらなかった。
学校から連絡が入る。母が呼び出される。父にも話が伝わる。家へ帰れば注意され、ヨシエは反発する。
家族も学校も、次第に彼女を持て余すようになっていった。
そしてヨシエは、その空気を誰より敏感に感じ取っていた。
大人たちが自分の前では慎重に言葉を選ぶこと。
職員室の前を通った時、自分の名前が聞こえた途端に会話が小さくなること。
担任が学年主任と廊下の隅で話している時、ちらりと自分へ視線を向けること。
三者面談の日が近づくと、母の表情が目に見えて重くなること。
「今度は何を言われるのかしら」
母が小さく呟いたのを、聞いたこともあった。
そのたびにヨシエは思った。
誰も、自分が何を考えているのか知ろうとしていない。
どうして怒るのか。どうして他人を信用できないのか。どうして注意されるたびに、これほど腹が立つのか。
そんなことはどうでもいい。
大人たちが考えているのは、自分を理解することではない。
どうすれば大人しくさせられるか。どうすれば次の問題を起こさずに済むか。どうすれば周囲へ迷惑をかけない人間にできるか。
ヨシエには、そう見えた。
自分は一人の人間ではなく、処理しなければならない問題なのだ。
家族にとっても。教師にとっても。学校にとっても。
誰も、自分を本気で見ていない。
誰も、自分を好きではない。
ただ厄介な存在として、できるだけ波風を立てずに扱おうとしているだけだ。
もちろん、それはヨシエ自身の思い込みも多分に含んでいた。
それでも、本人にとっては紛れもない現実だった。
そしてそう思えば思うほど、胸の奥に溜まっていた怒りは消えるどころか、少しずつ濃く、重くなっていった。
そうした歪んだ考え方を抱えたまま、ヨシエは女子大学へ進学した。
高校までとは違い、大学では学生一人一人の生活を細かく管理する者はいない。服装も自由。時間の使い方も自由。どの講義を選び、誰と付き合い、空いた時間をどこで過ごすかも、基本的には本人に任されている。
ヨシエにとって、そうした環境は最初こそ居心地のいいものだった。
高校までのように、教師から服装や態度を逐一注意されることはない。多少言葉遣いが悪くても、教授は生活指導までしない。嫌いな相手とは無理に付き合う必要もなく、気に入らない集団からは自分の意思で離れられる。
誰にも細かく干渉されない。
それはヨシエにとって、ようやく手に入れた自由のように思えた。
だが、周囲から制止される機会が減った分だけ、彼女の振る舞いは次第に露骨になっていった。
講義中、教授の説明に納得できなければ、その場で食ってかかった。
「それ、根拠あるの?」
「今の説明、前に言ってたことと矛盾してるわよね?」
質問すること自体は悪くない。
むしろ大学では、講義内容へ疑問を持ち、自分なりに考えたうえで質問する姿勢を歓迎する教授も多い。
しかし、ヨシエの場合は少し違った。
相手の説明をより深く理解したいのではない。間違いを見つけたい。矛盾を突きたい。そして、自分の方が頭がいいと証明したい。そういう欲求が、質問の奥に透けていた。
教授が一瞬でも答えに詰まれば、ヨシエは満足そうに口元を緩めた。
「ほら、やっぱりおかしいじゃない」
反対に、理路整然と説明され、自分の認識違いを指摘されれば素直には引き下がらなかった。
「でも、その理屈自体がおかしくない?」
「そんな細かい話してないんだけど」
やがて議論そのものでは勝てないとわかると、今度は講義を馬鹿にした。
「こんな授業、受ける意味ある?」
それでも怒りが収まらなければ、能力にまで手が伸びた。
机が突然重くなり、床へめり込む。教卓の資料が押し潰される。椅子が軋み、照明が不自然に揺れる。
危険を察した教授が講義を中断し、学生たちを退室させたことも、一度や二度ではなかった。
グループワークでは、さらにひどかった。
他人が意見を出すたび、まず欠点を探した。
「それ、意味ある?」
「効率悪くない?」
「そんなこともわからないの?」
ヨシエ自身が代案を出すこともあった。
しかも、内容そのものは的を射ている場合が少なくなかった。頭の回転は速く、問題点を見つける能力にも長けていたからだ。
ただし、言い方が悪かった。
「普通に考えたら、こっちでしょ」
「何でわざわざ遠回りするの?」
「私が一人でやった方が早いんだけど」
それでは、いくら正しいことを言っていても反感を買う。
誰かが反論すれば、すぐに議論ではなく喧嘩になった。
「ああ!?私を馬鹿にしてんの!?」
声を荒らげ、相手に掴みかかろうとして、周囲の学生が止めに入る。
反対に、誰もヨシエへ反論しなくなれば、それはそれで満足した。
「ほらね、やっぱり私以外まともに考えてないじゃない」
実際には、誰も納得していない。
ただ、これ以上ヨシエと揉めるのが面倒だから黙っているだけだった。
やがてグループの中で、彼女へ積極的に意見を求める者はいなくなった。
サークルにも何度か入った。
大学に入ったばかりの頃は、ヨシエなりに新しい人間関係を築こうとしたのかもしれない。
最初のうちは普通に参加した。
大学では特殊能力者というだけで露骨に避ける者も、高校までに比べれば少なかった。能力者の学生自体が珍しくなく、それだけを理由に距離を取られることはほとんどなかった。
それでも、長くは続かなかった。
部長の運営方法が気に入らない。
先輩の態度が偉そうに見える。
後輩のくせに、自分より周囲から好かれている。
自分が提案した企画より、別の誰かの案が採用された。
飲み会へ行けば、ほかの女ばかりが話題の中心になっている。
ほかの人間なら、その場限りで忘れてしまうような些細なことでも、ヨシエの中では引っかかった。
自分を軽く扱われた。自分より、あの女の方が大切にされた。
そう感じた瞬間、不満は急速に膨らんだ。
やがて我慢できなくなる。
「部長のやり方、効率悪すぎるんだけど!」
「先輩だからって偉そうにするな!」
「あの女、何であんな持ち上げられてるの!?」
誰か一人を標的にすると、徹底的だった。
本人へ直接嫌味を言う。周囲へ悪口を広める。相手の失敗を見つければ、必要以上に騒ぎ立てる。
当然、サークルの空気は悪くなる。周囲はヨシエから距離を取る。
すると彼女は、その反応をまた敵意として受け取った。
「こんな馬鹿どもと付き合ってられるか!」
そう吐き捨て、自分から辞めていく。
別のサークルへ入る。しばらくすると、また誰かと揉めて辞める。
その繰り返しだった。
中でも、ヨシエは自分より目立つ女をひどく嫌った。
自分より綺麗な女。自分より細く、どんな服でも似合う女。成績のいい女。友達に囲まれている女。恋人の話を楽しそうにする女。特別何かをしているようにも見えないのに、自然と人から好かれ、周囲に笑顔を向けられている女。
そういう人間を見ると、胸の奥がざらついた。
遠くから笑い声が聞こえるだけでも苛立った。
誰かが「あの子、可愛いよね」と言えば、反射的に欠点を探した。
「あの程度で可愛いとか、見る目なさすぎでしょ」
「細いだけじゃん。顔は大したことないし」
「ああいう女って、男の前でだけ態度変わるのよ」
本人のことをろくに知らなくても、悪口はいくらでも出てきた。
相手が幸せそうであればあるほど、不愉快だった。
ヨシエ自身にも、その感情を完全には説明できなかった。
ただ、楽しそうな人間を見ていると、自分だけがそこから締め出されているような感覚があった。
誰かが愛されている。
誰かが褒められている。
誰かが必要とされている。
誰かが、何の苦労もしていないような顔で人に囲まれている。
その光景を見るたび、幼い頃に何度も見た姉たちの姿が、無意識のうちに重なったのかもしれない。
自分ではなく、姉が褒められる。自分ではなく、姉に笑顔を向けられる。
自分だけが少し離れたところから、それを見る。
誰かが幸福であるというだけで、まるで自分が劣っていると突きつけられているように感じた。
だから、相手の価値を下げようとした。
あの女は大したことがない。周囲が馬鹿だから評価されているだけ。表面だけ取り繕っている。
本当に優れているのは、自分の方だ。
そう考えれば、胸の奥に湧いた不快感を少しだけ押し込めることができた。
そしてヨシエには、その考えを支えるだけの自負もあった。
自分は優秀だ。頭の回転も速い。特殊能力も強い。重力操作という、誰にでも使えるわけではない力まで持っている。
周囲とうまくいかないのは、自分に問題があるからではない。
周りの人間が自分についてこられないだけ。自分の価値を正しく理解できる人間がいないだけ。
さらにヨシエは、特殊能力を持たない普通の人間より、能力者である自分の方が価値の高い存在なのだと考えるようになっていた。
普通の人間にはできないことが、自分にはできる。
重いものを持ち上げることもできる。離れたものを動かすこともできる。本気を出せば、建物すら潰せる。
それほどの力を持っている自分が、何の能力もない人間と同じ価値であるはずがない。
そんな考えを、ヨシエは半ば本気で信じていた。
だからこそ、大学を出て社会に出れば、自分は正当に評価されると思っていた。
学校という狭い場所では理解されなかっただけ。子どもの人間関係では、自分のような人間の価値がわからなかっただけ。
仕事の世界なら違う。
社会では、結果を出せる人間が評価される。能力がある者が必要とされる。
自分がどれほど役に立つ人間なのかを、成果で証明すればいい。
そうすれば、これまで自分を厄介者として扱ってきた人間たちが間違っていたことも証明できる。
ヨシエは、本気でそう思っていた。
——就職活動が始まるまでは。
大学三年の終わり頃になると、周囲の学生たちが一斉に就職活動へ動き始めた。
合同企業説明会。会社説明会。エントリーシート。適性検査。グループディスカッション。面接。
それまで思い思いの服装で大学へ通っていた学生たちが、ある時期を境に、申し合わせたように黒いスーツを着て校内を歩くようになった。食堂では企業の資料を広げ、廊下では面接対策の話をし、講義が終われば急いで説明会へ向かう。
ヨシエも、その流れの中にいた。
黒いリクルートスーツに袖を通し、履き慣れないパンプスを履く。髪も普段より整え、大学のキャリアセンターでもらった資料を鞄へ押し込み、企業説明会へ向かった。
最初の頃、ヨシエは自信に満ちていた。
学歴は悪くない。成績も平均以上。頭の回転にも自信がある。
そして何より、自分には重力操作という強力な特殊能力がある。
企業の中には、特殊能力者を積極的に採用しているところも少なくなかった。
物流。建設。防災。警備。研究開発。
重い資材を浮かせることもできる。落下物を押さえ込むこともできる。災害時には瓦礫を動かし、危険物を遠ざけることもできる。
重力を自在に操れる人間なら、使い道はいくらでもある。
企業説明会で特殊能力者向けの採用枠について説明を受けるたび、ヨシエは内心で確信を深めていった。
自分が落とされる理由などない。むしろ企業の方が、自分を欲しがるはずだ。
普通の学生とは違う。自分には、明確な価値がある。
ところが、実際に選考が始まると、結果は散々だった。
一次面接で落ちる。二次面接まで進んでも落ちる。書類や適性検査は通っても、その先でことごとく弾かれた。
グループディスカッションでは、特にヨシエの悪い部分が露骨に出た。
ある企業では、「地域の商業施設を活性化させるための新しい施策」というテーマについて、六人の学生で議論することになった。
一人の学生が慎重に意見を出す。
「若い世代を呼び込むために、SNSを使ったイベントを――」
「それ、時間の無駄でしょ」
ヨシエが即座に遮った。
学生が言葉を止める。
「え?」
「SNS使えば若者が来るって、発想が安直すぎるのよ。まず客層とか立地を分析しないと意味ないでしょ」
「いや、だからそれも含めて――」
「はあ?含めてないじゃない。今初めて言ったでしょ」
別の学生が間に入った。
「じゃあ、カモイさんはどういう案がいいと思いますか?」
「さっき私が言ったでしょ。データ取ってからターゲット決めるって」
「それを具体化していけばいいんじゃないかな」
「だから今やってるじゃない。馬鹿なの?」
しばらくして別の学生が意見を整理すると、ヨシエは再び顔をしかめた。
「いや、それさっき私が言ったこととほとんど同じでしょ」
「まとめただけなんだけど」
「だったら私の案でいいでしょ。時間の無駄よ」
議論が進むほど、場の空気は重くなった。
誰かが発言すれば否定する。意見が食い違えば、相手が理解していないと決めつける。
「何でそんな簡単なこともわからないの?」
そう言われた学生は、それ以降ほとんど口を開かなくなった。
議論が終わる頃には、同じグループの学生たちは、必要がない限りヨシエの顔を見ようともしなかった。
当然、選考結果は不合格だった。
後日届いたメールには、簡潔な文章とともに、
『能力や論理的思考力については高く評価しておりますが、チームでの協働という観点から総合的に判断いたしました』
と書かれていた。
ヨシエはスマートフォンの画面を見て舌打ちした。
「協働って何よ」
そのままベッドへ端末を放り投げる。
「馬鹿に合わせろってことでしょ」
自分の何が悪かったのかを振り返ろうとはしなかった。
別の企業の面接では、面接官から定番の質問をされた。
「学生時代に、周囲と協力して何かを成し遂げた経験はありますか?」
ヨシエは少し考えた。
サークルは長続きしなかった。ゼミでも何度か揉めた。グループワークでは、自分一人でやった方が早いと思うことの方が多かった。
無理に取り繕うのも馬鹿らしい。
そう思い、正直に答えた。
「特にないわ。私一人で大抵のことはできるもの」
面接官の表情がわずかに固まった。
「そ、そうですか。では、大学の授業やサークル活動などで、誰かと役割分担をされた経験は?」
「ないわね」
「まったく?」
「協力するに値する人間が、周りにいなかったのよ」
一瞬、沈黙が落ちた。
面接官は手元の書類へ視線を落とし、何かを書き込んだ。
その会社から、次の選考案内が届くことはなかった。
また別の会社では、志望動機を尋ねられた。
「数ある企業の中で、なぜ当社を志望されたのでしょうか」
ヨシエは、自分なりには相手を評価しているつもりだった。
「この会社程度の規模なら、私の能力を十分活かせると思ったからよ」
面接官の眉がわずかに動いた。
「……当社程度、ですか?」
「何よ?」
「いえ、その表現が少し気になりまして」
「何キレてんのよ。悪い意味じゃないわよ」
「キレてはいませんが」
「私みたいな能力のある人間って、大企業みたいに無駄な人間が何百人もいるところに入るより、こういうちっぽけな中小企業で働いた方がパフォーマンスを発揮できるでしょ」
面接官は数秒、ヨシエを見つめた。
「……そうですか」
「この私が褒めてやってんのよ?喜びなさい」
「……ありがとうございます」
声には、まったく喜びがなかった。
当然、その会社にも落ちた。
それでもヨシエは懲りなかった。
企業側に見る目がない。面接官の器が小さい。自分の言い方より、相手の受け取り方に問題がある。
不採用通知が届くたびに、そう結論づけた。
ある企業では、最終面接まで残った。
特殊能力者の活用に積極的な会社だった。
重力操作という能力は高く評価され、現場部門の担当者からも、
「非常に応用範囲の広い能力ですね」
と言われていた。
ヨシエは、この会社なら採用されると確信していた。
しかし、最終面接で役員の一人が口にした言葉が、その自信を一瞬で苛立ちへ変えた。
「カモイさんの能力は、非常に魅力的だと考えています」
「でしょうね」
ヨシエは当然のように頷いた。
役員はわずかに間を置いてから続けた。
「ただ、会社というのは、一人で仕事をする場所ではありません」
ヨシエの表情が変わった。
「それ、私に協調性がないって言いたいの?」
「そういう意味ではなく――」
「だったらどういう意味よ?」
室内の空気が固くなる。
「組織では、個人の能力だけでなく、周囲との信頼関係や意思疎通も重要だということです」
「能力のないカスどもに合わせろってこと?」
役員の顔から笑みが消えた。
「……カモイさん」
「何?」
「まず、その言葉遣いを改めた方がいい」
「何で?」
「ここは採用面接の場ですよ。最低限の礼儀は必要でしょう」
「アンタに敬語を使う価値がないから使ってないだけよ」
完全な沈黙が落ちた。
隣に座っていた別の役員が、ゆっくりとペンを置く。
正面の役員はしばらく何も言わなかった。
ヨシエは、その沈黙を自分が言い負かした証拠だと受け取った。
相手は反論できない。なら、自分が正しい。そう思った。
もちろん、不採用だった。
何社受けても、似たような結果が続いた。
最初のうちは、運が悪かっただけだと思っていた。
次は受かる。自分を見る目のある企業なら採用する。そう信じていた。
だが、不採用通知の数が増えていくにつれ、その確信にも少しずつひびが入り始めた。
ヨシエには、自分が落とされる理由が理解できなかった。
いや、本当は、薄々気づき始めていたのかもしれない。
ただ、認めることができなかった。
企業が警戒したのは、重力操作という特殊能力だけではない。
むしろ、選考を重ねるほど問題視されたのは、カモイヨシエという人間そのものだった。
——傲慢で、感情的で、攻撃的。
自分が優秀であることを疑わず、他人を見下すことを隠そうともしない。
相手が教授でも、先輩でも、企業の役員でも関係ない。
少しでも自分を否定されたと感じれば、即座に敵意を剥き出しにする。
自分の非を認めない。他人の意見を受け入れない。
そして、その感情が高ぶれば、強力な重力操作能力まで制御を失う可能性がある。
いくら能力が優秀でも、組織へ入れれば、いずれ深刻な人間関係の問題を起こす。
面接官たちは、わずかな選考時間の中でも、それを十分に感じ取っていた。
ヨシエが企業へ示そうとしていたのは、自分がどれほど優秀かということだった。
けれど実際に相手へ伝わっていたのは、自分がどれほど扱いづらい人間なのかということだった。
その事実を、ヨシエだけが認めようとしなかった。
結果として、どこの企業も彼女を採用しなかった。
そしてヨシエは、ついに一線を越えた。
不採用になった企業のひとつへ、直接乗り込んだのだ。
その会社は、都心のオフィス街にある中規模の企業だった。高層ビルが並ぶ一角に事務所を構え、特殊能力者の採用にも比較的積極的な会社として知られている。
ヨシエは数日前、その企業の最終面接まで進んだ末に不採用を告げられていた。
筆記試験の結果は悪くなかった。重力操作の能力も高く評価され、面接の途中では、実際の業務でどのように活用できるかという話まで出ていた。
だからこそ、ヨシエは自分が採用されるものだと思い込んでいた。
ところが、数日後に届いたのは、簡素な不採用通知だけだった。
『慎重に選考を重ねました結果、誠に残念ながら今回は採用を見送らせていただくこととなりました』
ありふれた文面。理由は、どこにも書かれていない。
そのことが、ヨシエにはどうしても許せなかった。
何が駄目だったのか。どうして落とされたのか。自分より何が優れている人間を採用したのか。
それを説明する責任が、企業側にはあるはずだ。
少なくともヨシエは、本気でそう考えた。
数日後。
彼女は私服のまま、その会社へ現れた。
予約も取っていない。事前の連絡もしていない。
受付へまっすぐ歩み寄る。そして開口一番、
「採用担当を出せ!」
突然の怒声に、受付の女性が目を瞬いた。
「恐れ入りますが、どのようなご用件でしょうか」
「面接の意味不明な結果について、聞きたいことがあるのよ!いいから呼べ!」
「採用選考に関するお問い合わせでしたら、恐れ入りますが――」
「だから、その採用担当を出せって言ってんの!」
声が受付フロアへ響いた。
広い空間に置かれた観葉植物。磨かれた床。静かに行き交っていた社員たち。
その何人かが足を止め、ヨシエの方を見る。
視線が集まった。驚いたような顔。困惑した顔。露骨に警戒している者もいる。
それに気づいた瞬間、ヨシエの苛立ちはさらに膨らんだ。
——まただ。また、あの目だ。
面倒な人間を見る目。関わりたくないものを見る目。
学校でも、大学でも、何度も向けられてきた目。
「何見てんのよ!」
ヨシエが周囲を睨むと、何人かの社員が慌てて視線を逸らした。
それがまた気に入らなかった。
しばらくして、これ以上受付で騒がれるよりはましだと判断したのか、ヨシエは奥の小さな会議室へ案内された。
四人掛けのテーブルと椅子。
壁には会社案内のポスター。窓の外には、無機質なビル群が並んでいる。
ヨシエは椅子へ座らず、腕を組んだまま待っていた。
数分後。
扉が開き、見覚えのある男が入ってきた。
最終面接の前段階で、何度か応対した採用担当者だった。
「カモイさん、本日はどういったご用件でしょうか」
男は努めて穏やかな声で尋ねた。
その口調が、ヨシエにはひどく癇に障った。
まるで興奮した子どもを宥めるような話し方に聞こえた。
「これ」
ヨシエは鞄から不採用通知を取り出した。
紙を乱暴に机へ叩きつける。
「私を落とすなんて、どういう判断なの!?」
担当者は一瞬、目を瞬いた。
それから通知へ視線を落とす。
「……選考結果については、すでにご連絡した通りですが」
「結果を聞いてんじゃないわよ!」
ヨシエは机越しに身を乗り出した。
「理由を聞いてるの!」
「申し訳ありませんが、選考の具体的な内容については、個別にはお答えしておりません」
「何で?」
「弊社の採用方針ですので」
「そんなこと聞いてない!」
声がさらに大きくなる。
「私のどこが不採用なのかって聞いてんのよ!」
担当者はすぐには答えなかった。
ヨシエを刺激しないよう、慎重に言葉を選んでいるようだった。
「重ねてになりますが、具体的な選考理由については――」
「答えろ!」
ヨシエの手が机を強く叩いた。
乾いた音が会議室に響く。
担当者の肩がわずかに跳ねた。
「能力もある!」
ヨシエは指を折りながら並べ立てる。
「筆記も通った!学歴だって悪くない!面接だってちゃんと答えた!」
自分が面接でどのような態度を取っていたのかは、すでに頭から抜け落ちていた。
「だったら何が駄目なのよ!」
「カ、カモイさん、少し落ち着いてください」
「落ち着いてるわよ!」
まったく落ち着いていなかった。
呼吸は荒く、声は会議室の外まで聞こえそうなほど大きい。握った拳には力が入り、爪が掌へ食い込んでいる。
「じゃあ聞くけど」
ヨシエは担当者を睨みつけた。
「私より優秀な人間が、どこにいるのよ!」
担当者の顔に、困惑が浮かんだ。
同時に、それまで隠していた警戒の色がわずかに滲んだ。
ヨシエは見逃さなかった。
その表情を見た瞬間、自分の中にある疑念が確信へ変わった。
――こいつも同じだ。
自分を馬鹿にしている。
面倒な女が来た。早く帰ってほしい。危ない人間だから刺激しない方がいい。
そんなことを考えている。
実際に担当者が何を思っていたのかなど、もう関係なかった。
ヨシエの中では、それが事実になっていた。
「……申し訳ありません」
担当者はゆっくり立ち上がった。
「本日は、これ以上お話しできることはありません。お引き取りください」
「は?」
「必要でしたら出口までご案内します」
「私を追い出す気?」
「そういうことではありません。ただ、これ以上お話ししても――」
担当者の視線が、ほんの一瞬だけ会議室の扉へ向いた。
ヨシエは、その動きを見逃さなかった。
警備員でも呼ぶつもりなのだろう。
話の通じない危険人物として、自分をこの会社から追い出す。そう思った。
それだけで十分だった。
胸の奥に溜まり続けていたものが、一気にせり上がる。
不採用通知。面接官の冷たい視線。学校距離を取った同級生たち。自分を持て余した教師たち。家族の怯えた顔。
これまで自分へ向けられてきた、ありとあらゆる拒絶が、一瞬のうちに重なった。
――まただ。
また、自分を追い出す。また、自分だけを否定する。
何もわかっていないくせに。
自分がどれほど優れているのかも。どれほどの力を持っているのかも。
誰も、わかろうとしない。
ヨシエの指先が、わずかに震えた。
胸の奥で、何かが切れた。
「……舐めるな」
「カモイさん?」
「私を舐めんじゃねえ!」
怒声と同時に、空気が震えた。
次の瞬間、会議室の中央に置かれていた長机が、耳をつんざくような音を立てて沈み込んだ。
金属製の脚が一斉にひしゃげ、厚い天板が中央から大きく折れ曲がる。床材には蜘蛛の巣のような亀裂が走り、周囲の椅子も見えない巨大な手に上から押さえつけられたかのように軋んだ。
天井の蛍光灯が激しく明滅する。
一本。続いて、もう一本。
管が弾け、砕けたガラスが細かな破片となって降り注いだ。
「うわっ!」
採用担当者が頭を庇いながら壁際へ逃れる。
その姿を見た瞬間、ヨシエの中に溜まり続けていた怒りが、堰を切ったように噴き出した。
自分を落とした企業。何社受けても自分を評価しなかった面接官。
協調性がない。組織に向かない。言葉遣いを直せ。周囲との信頼関係が必要だ。
偉そうにそんなことを言ってきた連中。
能力そのものには興味を示すくせに、その能力を持っている自分自身は受け入れようとしない。
家族も。学校も。大学も。企業も。
結局、みんな同じだった。
自分を厄介者として扱う。自分を恐れる。自分を見下す。
「何なのよ……!」
ヨシエの声に呼応するように、床が低く軋んだ。
「何で私が落とされなきゃいけないのよ!」
重力がさらに強くなる。
壁に掛けられていた額縁が落下し、ガラスが割れた。棚の書類がまとめて床へ崩れ落ち、机の端に置かれていた電話機が鈍い音を立てて潰れる。
異変を察した社員たちが、廊下の向こうで悲鳴を上げた。
「特殊能力だ!」
「警備を呼べ!」
「近づくな、離れろ!」
その声が耳へ入るたび、ヨシエの怒りはさらに熱を増した。
「逃げんな!」
会議室へ駆けつけようとした警備員が二人、扉の前まで来た瞬間だった。
見えない力が、その身体を一気に床へ叩きつけた。
「ぐっ……!」
「う、動け……!」
二人は腕を突き、どうにか起き上がろうとする。だが、できない。
まるで身体の重量そのものが何倍にも膨れ上がったかのように、制服姿の男たちは床へ縫いつけられていた。肘を持ち上げようとするだけで全身が震え、まともに顔を上げることさえできない。
周囲から悲鳴が上がった。社員たちが後退する。
誰もヨシエへ近づけない。誰も、止められない。
その光景を見ているうちに、ヨシエの口元がゆっくりと歪んだ。
怖くなかった。自分が大変なことをしているという感覚も、不思議なほど薄かった。罪悪感など、ほとんど湧かなかった。
むしろ、気持ちよかった。
これまで何度も否定されてきた。
――問題児。
――協調性がない。
――扱いづらい。
――人間関係を築けない。
そんな言葉を浴びせられ、距離を置かれ、腫れ物のように扱われてきた。
けれど今は違う。
誰も自分を無視できない。この場にいる全員が、自分を見ている。恐れている。逃げている。
自分が少し力を込めるだけで、大人の男が床から立ち上がれなくなる。
机も椅子も、建物さえも壊せる。
それはヨシエにとって、生まれて初めて、自分の価値を目に見える形で証明できたような感覚だった。
「ほら、見ろ!」
ヨシエは叫んだ。
ひび割れた床を踏みしめ、逃げ惑う社員たちへ向かって両腕を広げる。
「これが私よ!」
重力が波のように広がった。
廊下の奥に置かれていた机が大きく軋み、キャスター付きの椅子が床へ押しつけられる。棚の扉がひしゃげ、遠くで何かが倒れる音がした。
「こんだけの力がある人間を落としたのよ!」
ヨシエは笑った。
怒りと高揚が入り混じった、歪んだ笑みだった。
「後悔しやがれ!」
その時だった。
「うわー」
場違いなほど明るい声がした。
ヨシエの動きが止まった。
「活きがいい子豚ちゃんねー!」
「……は?」
あまりにも緊張感のない声だった。
社員たちが逃げ惑い、警備員が床へ押さえつけられ、家具が潰れ、床には亀裂が走っている。
そんな異常な光景の中で、その声だけがまるで別の世界から紛れ込んできたように軽かった。
ヨシエはゆっくりと振り返った。
廊下の向こうに、一人の女が立っていた。
赤みを帯びた髪は、癖の強い天然の巻き毛だった。肩のあたりで自由に跳ね、騒ぎの中にいるとは思えないほど軽やかに揺れている。
すらりとした長身。無駄のない細身の身体。
眼鏡の奥からこちらを眺める表情には緊張の欠片もなく、まるで面白い見世物でも見つけたかのような好奇心が浮かんでいた。
そして、その瞳。
ヨシエは一瞬、目を疑った。
光が映り込んでいるわけではない。瞳の中そのものに、星のような輝きが宿っている。
異様な目だった。
普通なら不気味さを覚えてもおかしくない。
それなのに、その女の場合は不気味さより先に、美しさの方が目についた。
姿勢がいい。ただ立っているだけなのに妙に華がある。
さっきまで自分へ集まっていたはずの視線も、場の中心そのものも、いつの間にかその女へ奪われたような感覚があった。
美人だった。認めたくないほどに。
背が高い。細い。顔立ちが整っている。
奇妙な星の瞳すら、その女にとっては欠点ではなく、目を引く特徴として成立している。
ヨシエが昔から最も嫌ってきた種類の女だった。
一目見ただけで、嫌いになった。
「……誰よ、アンタ」
ヨシエは低い声で言った。
女は楽しそうに笑った。
「通りすがりの美人能力者でーす」
ひらひらと片手を振る。
「ふざけてんの?」
「わりと常に」
「……潰すわよ」
「やってみ?」
女は笑ったまま、少しも身構えなかった。
逃げる気配もない。能力を防ぐ準備をしているようにも見えない。まるでヨシエの重力など、警戒するほどのものではないと言わんばかりだった。
その態度が、ヨシエの神経を激しく逆撫でした。
「後悔すんなよ!」
ヨシエは容赦なく力を放った。
先ほどまでとは違う。
周囲を威嚇するためでもない。家具を壊して力を見せつけるためでもない。
目の前の女一人だけを狙い、全力の重力を叩きつけた。
押し潰す。床へ這いつくばらせる。二度とそんな余裕のある顔ができないようにする。
ヨシエの意識が一点へ集中した。
普通の人間なら立っていられるはずがない。膝をつく程度では済まない。全身を床へ押しつけられ、まともに息をすることさえ難しくなるほどの圧力だった。
女の足元で、床が低く軋んだ。
細かな亀裂が靴の周囲から広がっていく。
――だが。
「……あれ?」
女は立っていた。何事もなかったように。
膝すら曲がっていない。肩にも力は入っていない。
それどころか、口元へ手を当て、小さくあくびまでした。
「んー……」
「な……」
ヨシエの顔から、笑みが消えた。
「出力は悪くないけど、雑ね」
女が一歩、前へ出た。
靴音が静かに響く。
ヨシエの重力場の中を、まるで休日の散歩でもするように歩いてくる。
「何で……」
ヨシエはさらに力を込めた。
床が沈む。壁に新たな亀裂が走る。廊下の天井から細かな埃が落ちてくる。
それでも女は止まらなかった。
「何でって言われてもなー」
もう一歩。
女は楽しそうに笑った。
「私、強いから」
次の瞬間。
世界が変わった。
「……っ!」
ヨシエの身体が、何の前触れもなく床へ叩きつけられた。
受け身を取る暇すらなかった。
視界が反転したかと思った瞬間には、頬が床へ激突し、肺の中の空気が一気に押し出された。
「ぐっ……!」
何をされたのかわからない。
自分の能力ではない。重力を強くされた感覚とも違う。
もっと理不尽で、もっと根本的な何かだった。
上下。距離。自分が立っていた場所。
そうした空間を形作る前提そのものが、一瞬だけ他人の手の中へ奪われたような感覚。
ヨシエは両手を床につき、身体を起こそうとした。
「く……そ……!」
動かない。力を込めても、身体が自分のものではないように床へ押さえ込まれている。
重力操作を発動させようとする。だが、相手に力が届いているという感触さえなかった。
先ほどまで社員たちを圧倒していた能力が、まるで最初から存在しなかったかのように通じない。
生まれて初めてだった。
自分の力が、ここまで何の意味も持たない相手と出会ったのは。
恐怖より先に、理解できないという感覚があった。
――こんなことがあるはずがない。
自分の能力は強い。誰にも止められなかった。
さっきまで、確かにそうだった。
それなのに、足音が近づいてくる。
女はヨシエの目の前まで来ると、その場にしゃがみ込んだ。
そして床へ押さえつけられたヨシエの顔を、珍しい生き物でも観察するように覗き込んだ。
眼鏡の奥で、星のような瞳が楽しげに細められる。
「うん」
女は満足そうに頷いた。
「ちょうどいいわ」
「……何が!?」
「アンタ、採用」
一瞬、ヨシエは言葉の意味を理解できなかった。
企業へ押しかけ、不採用の理由を問い詰め、能力を暴走させ、いま自分を床へ押さえつけている見知らぬ女から、突然そんな言葉を投げつけられたのだ。
――意味がわからない。
「……はあ!?」
これが、カモイヨシエとトンダキョウコの出会いだった。
キョウコは、ヨシエと同い年だった。
そのことを聞いた時、ヨシエはなぜかひどく腹が立った。
年上なら、まだ納得できたのかもしれない。
自分より長く生き、その分だけ経験を積み、能力の扱いにも慣れている。そういう相手なら、自分より強かったとしても、理屈の上では受け入れられた。
だが、キョウコは同い年だった。
同じだけの年月しか生きていないはずなのに、何もかもが自分より上に見えた。
まず、目を引くほどの美人だった。
すらりと背が高く、細身で、立っているだけでも妙に様になる。赤みを帯びた癖の強い髪も、眼鏡の奥で星のように輝く瞳も、普通なら奇異に映ってもおかしくない特徴なのに、キョウコの場合はむしろその美しさを際立たせていた。
ヨシエが昔から嫌ってきた、自然と人の視線を集める女だった。
しかも、強い。それも、ヨシエがこれまで出会った誰とも比べものにならないほどに。
全力で重力を叩きつけても、キョウコは眉ひとつ動かさなかった。
床には亀裂が走った。壁も軋んだ。それなのに本人だけは、何事もないような顔で立っていた。
そして次の瞬間には、ヨシエの方が床へ叩き伏せられていた。
何をされたのかさえ、いまだによくわからない。理解する暇もなかった。
能力者としての自負を真正面からへし折られたことだけは、嫌というほどわかった。
さらに腹立たしいことに、キョウコは自由だった。
周囲の顔色を窺わない。世間体を気にしている様子もない。
言いたいことを言い、やりたいことをやる。それでいて、誰かに抑えつけられているようにも、必死に反抗しているようにも見えなかった。
ヨシエはこれまで、自由であるためには噛みつかなければならないと思っていた。
舐められないように怒鳴る。押さえつけられないように反抗する。傷つけられる前に相手を傷つける。
そうしてようやく、自分の居場所を守れるのだと思っていた。
けれどキョウコは違った。
誰かと戦って自由を勝ち取ったようには見えない。最初から、自分の好きなように生きていいことを疑っていない。
ヨシエが必死に爪を立てて守ろうとしてきたものを、キョウコは当然の権利のように持っている。
そのことが、どうしようもなく気に入らなかった。
しかも、すでに結婚までしていた。
夫と二人で、特殊能力者が引き起こす事件や事故、能力の暴走などを専門に扱う個人事務所を立ち上げたばかりなのだという。
名前は、「特殊対策室」。
設立されたばかりの、小さな事務所だった。
「何それ。会社なの?」
ヨシエが訊くと、キョウコは少し考えるように首を傾げた。
「んー、会社ってほど立派じゃないかな。事務所。私とダーリンでやってんの」
「ダーリン?」
「夫のこと」
「……うざ」
「あはは、初対面でそこまで言う?」
キョウコは腹を立てるどころか、楽しそうに笑った。
その笑い方さえ気に入らなかった。
何を言っても傷ついた様子を見せない。嫌味を投げても、こちらへ返してくる。
ヨシエがこれまで得意としてきた攻撃の仕方が、ほとんど通じていなかった。
当然、ヨシエは採用の話など断るつもりだった。
自分を初対面で「子豚」と呼んだ女。
自分の全力を真正面から受け止め、それどころか一瞬で床へ叩き伏せた女。
そんな相手がやっている事務所で働くなど、ヨシエのプライドが許すはずもなかった。
「誰が働くか」
吐き捨てるように言った。
「ふざけんじゃないわよ。何で私がアンタなんかに雇われなきゃいけないの?」
「えー、いいじゃん」
「よくない」
「給料も出すよ?」
「そういう問題じゃない!」
ヨシエが睨みつけても、キョウコはまるで堪えなかった。むしろ面白そうに、その顔を覗き込んでいる。
そして不意に、口元の笑みを少しだけ深くした。
「……でもさ」
「何よ?」
「他に行くとこあるの?」
ヨシエは口を開いた。
だが、言葉が出なかった。
――ある。
そう即答したかった。
自分ほど優秀な人間なら、探せば働く場所などいくらでもある。見る目のない企業ばかりに当たっただけだ。
そう言い返せばいい。
けれど頭の中に浮かんだのは、何十通もの不採用通知だった。
面接官の困った顔。
グループディスカッションで、自分から目を逸らした学生たち。
スマートフォンの画面に表示された、感情のない不採用メール。
そして何より、つい先ほど自分が乗り込み、能力を暴走させた会社。
あそこへ戻ることは、もうできない。戻りたいとも思わない。
だが、それとは別に、行く場所がないという事実だけは残った。
ヨシエは唇を噛んだ。
キョウコは、その沈黙を見逃さなかった。
「アンタ、普通の会社じゃ無理でしょ」
「……は?」
「能力も性格も尖りすぎ」
あまりにもあっさり言われ、ヨシエの眉がつり上がった。
「喧嘩売ってんの?」
「褒めてるの」
「どこがよ!」
「だって、強いじゃん」
キョウコは当然のように言った。
「重力をあそこまで操れる人、そうそういないよ。出力もかなりあるし、ちゃんと使えれば相当役に立つ」
「ちゃんと使えてるわよ」
「会社潰しかけてたけど?」
「……うるさい」
「あと性格は最悪」
「殺すぞ!」
「ほら、それ」
キョウコは笑った。
また馬鹿にされた。そのはずだった。
なのに、ヨシエがこれまで人から向けられてきたものとは、どこか感触が違った。
これまで彼女を注意してきた大人たちは、決まって似たようなことを言った。
――もっと周囲と協調しなさい。
――もう少し穏やかに話しなさい。
――相手の気持ちを考えなさい。
――すぐに怒るのをやめなさい。
――能力を抑えなさい。
――人に合わせなさい。
――そのままでは社会でやっていけない。
言葉は違っていても、結局言われていることは同じだった。
――今のお前では駄目だ。
――変わらなければならない。
――普通にならなければ、どこにも居場所はない。
ヨシエには、ずっとそう聞こえていた。
だが、キョウコは違った。
「普通のとこで普通になろうとするから無理なんじゃない?」
キョウコはさらりと言った。
「アンタ、どう見ても普通じゃないし」
「……アンタに言われたくないんだけど」
「でしょ?」
キョウコは嬉しそうに笑った。
まるで、それこそが答えだと言わんばかりだった。
「だからさ、尖ったまま使える場所に来なよ」
ヨシエは目を細めた。
その言葉をすぐには理解できなかった。
尖ったところを削れ、ではない。丸くなれ、とも言わない。そのままでいい、と優しく慰めているわけでもない。
尖ったまま、使う。
ヨシエの能力も。扱いづらさも。
普通の場所では邪魔になるものを、ここでは役に立つものとして扱う。
そんな言い方だった。
「誰がアンタなんかの下で働くか!」
どうにか出てきたのは、いつもの棘のある言葉だった。
だがキョウコは、ほとんど間を置かずに答えた。
「下じゃないわよ」
「は?」
「仲間」
その一言に、ヨシエは返事を忘れた。
「……何?」
「だから、仲間」
キョウコは何でもないことのように繰り返した。
ヨシエは黙った。
――仲間。
聞き慣れない言葉だった。
もちろん、言葉そのものを知らないわけではない。
学校でも何度も聞いた。漫画でも、テレビでも見た。
誰かと誰かが肩を並べ、笑いながら「仲間だから」と口にしている場面を何度も目にしたことがある。
けれど、それが自分に向けられたことはなかった。
友達ですら、まともにできなかった。家では恐れられた。学校では問題児として扱われた。大学では人が離れていった。企業からは何度も拒絶された。
誰かの隣に並ぶ人間ではなく、いつも集団の外側にいる人間だった。
そんな自分に向かって、キョウコは言った。
――仲間。
部下でもない。問題児でもない。厄介者でもない。危険な特殊能力者でもない。
――仲間。
しかもキョウコは、ヨシエのことを何も知らずに言っているわけではなかった。
性格が悪いことも知っている。すぐに怒ることも知っている。能力の制御が雑なことも、自分を不採用にした会社へ乗り込んで暴れたことも知っている。
そのうえで、それらを否定するのではなく、
「尖ったまま使える場所に来なよ」
と言った。
ヨシエは何か言い返そうとした。
いつものように、相手が嫌がりそうな言葉でも吐けばよかった。
――気持ち悪い。
――馴れ馴れしい。
――勝手に仲間扱いするな。
――誰がアンタなんかを信用するか。
いくらでも言葉は浮かんだ。
それなのに、その時だけは、どれもすぐには口から出てこなかった。
数日後、カモイヨシエは特殊対策室を訪れた。
行くかどうかは、直前まで迷っていた。
キョウコから渡された住所の書かれた紙を、ヨシエは何度も見返した。こんな得体の知れない事務所へ、本当に自分から出向く必要があるのか。そもそも、何かを約束したわけではない。採用すると一方的に言われただけで、こちらが了承した覚えもなかった。
行かなければ、それで終わる話だ。
そう思いながらも、気づけばヨシエは電車に乗り、指定された駅で降りていた。
他に行く場所がなかった、というのが一番大きかったのかもしれない。それでも本人は、そんな理由を認める気などなかった。あくまで、どんな胡散臭い連中なのか見てやるだけだ。気に入らなければ、その場で帰ればいい。
ヨシエはそう自分に言い聞かせながら、住所を頼りに歩いた。
特殊対策室が入っていたのは、駅から少し離れた場所に建つ古い雑居ビルだった。
「……ここ?」
建物を見上げた瞬間、ヨシエは露骨に顔をしかめた。
外壁には長年の雨風でできた黒ずみが筋のように残り、入口脇には複数の会社名が並んだ色褪せた案内板が立っている。聞いたこともない会社や事務所の名前に混じって、目的の名称が小さく記されていた。
『特殊対策室』
どう見ても、特殊能力者が関わる事件を扱う組織が入っている建物には見えなかった。
入口を抜けると、薄暗い共用廊下の先に古いエレベーターがあった。ボタンを押してから扉が開くまで妙に時間がかかり、中へ入ると、今度は動き出すたびに低い機械音が響いた。
「大丈夫なんでしょうね、これ……」
ヨシエは眉間に皺を寄せたまま、目的の階へ上がった。
廊下の突き当たりまで進み、そこで足を止める。
何の変哲もない扉に、小さなプレートが掛かっていた。
『特殊対策室』
「……マジでここ?」
思わず声が漏れた。
もう少しまともな場所を想像していた。仮にも特殊能力者によるトラブルを処理する事務所なのだから、警備の厳しいビルか、能力者向けの設備が整った施設にでも入っているのだと思っていた。
それが実際には、どう見ても家賃の安そうな雑居ビルの一室である。
ヨシエはしばらく扉を睨んでいたが、ここまで来て帰るのも癪だった。
ノックもせずに扉を開ける。
「来たわよ」
中へ足を踏み入れた瞬間、ヨシエはさらに顔をしかめた。
狭い。現在の特殊対策室よりも、さらに狭かった。
古びた事務机が三つ並び、壁際には来客用らしい安物のソファが置かれている。その前にあるローテーブルには細かな傷がいくつも刻まれており、棚には書類が無理矢理押し込まれていた。入りきらなかったファイルは床に積み上げられ、今にも雪崩を起こしそうになっている。
壁にはホワイトボードが掛かっていたが、取り付け方が雑なのか、わずかに右へ傾いていた。そこには仕事らしい予定や連絡事項に混じって、意味のわからない落書きまで残されている。
整然とした職場というより、大学の潰れかけたサークル部屋に近かった。
「何よ。しょぼい事務所ね」
ヨシエは遠慮なく吐き捨てた。
その瞬間だった。
部屋の奥で机に向かっていた男が、ゆっくりと顔を上げた。
まだ若い青年だった。
黒縁の眼鏡をかけ、髪はろくに整えていないのか、ところどころ跳ねている。机の上には書類やファイルが無造作に広がっていたが、仕事に集中していたというより、単純に疲れているように見えた。
何より、顔が不機嫌だった。
ぶっきらぼうな雰囲気に、鋭い目つき。初対面の人間を歓迎しようという意思が、欠片ほども感じられない。
青年はヨシエを見た。
一秒。二秒。
頭の先から足元まで眺め、それから何の遠慮もなく口を開いた。
「なんだ、この豚は?」
ヨシエの眉がぴくりと跳ね上がった。
一瞬、聞き間違いかと思った。
しかし青年は、そんなヨシエの反応など気にも留めず、さらに続けた。
「豚を飼うのか?」
その瞬間、ヨシエの中で何かが切れた。
「ああ!?」
部屋の空気が一気に重く沈んだ。
机の上に積まれていた書類が、見えない手で押さえつけられたように潰れる。ペン立てがぎしりと軋み、中に入っていた何本かのペンが耐えきれずに折れた。
床も低く鳴った。
それほど露骨な異変を目の前にしても、青年は少しも怯まなかった。驚きすらしない。
ただ、ひどく面倒そうな顔で椅子から立ち上がった。
「何だよ?」
「今、何て言った?」
「豚」
即答だった。
「殺す!」
「やってみろよ」
青年も完全に喧嘩腰だった。
普通なら、ここで謝るか、少なくとも言葉を濁す。
だが目の前の男には、そのどちらをする気もないらしい。
ヨシエの周囲で重力が歪み始める。床板がさらに深く軋み、近くにあった机の脚が細かく震えた。棚の上に積まれた書類も圧力に耐えきれず、ゆっくりと形を崩していく。
一方の青年は、眼鏡の位置を人差し指で直しただけだった。
そのまま真正面から、ヨシエを睨み返す。
「上等だ!このクソ眼鏡!」
「誰がクソ眼鏡だ。クソ豚」
「ぶっ殺す!」
「できるならな」
「後悔させてやる!」
「さっきから口だけだな」
「はあ!?」
二人の間にあった距離が、見る見る縮まっていく。
出会ってから、まだ一分も経っていない。
それにもかかわらず、すでに互いを心の底から嫌っていた。
ヨシエの怒りに呼応するように、室内の重力はさらに強くなっていく。ローテーブルの脚が軋み、棚に入っていたファイルが圧迫されて変形した。
青年も一歩も引かない。
むしろ、来るなら来いと言わんばかりに身構えている。
このままでは、出会って数十秒で事務所が半壊しかねなかった。
「はい、ストップ!」
突然、張り詰めた空気を切り裂くように、どこからともなくキョウコが二人の間へ飛び込んできた。
ヨシエが反応するより早く、次の瞬間。
「うおっ!?」
目の前にいた青年の姿が消えた。
いや、消えたのではない。
「……は?」
ヨシエは思わず上を向いた。
青年は天井にいた。
つい先ほどまで床に立っていたはずの身体が、何の前触れもなく天井へ叩きつけられ、そのまま背中からぴたりと張りついている。重力の向きそのものをひっくり返されたような、不自然極まりない光景だった。
「ぐえっ……」
天井から間の抜けた声が落ちてきた。
ヨシエは唖然としたまま青年を見上げる。
何をしたのか、まるでわからなかった。
重力操作ではない。少なくとも、自分の能力とは明らかに違う。キョウコが軽く手を振っただけで、そこにある空間の法則そのものが書き換えられたように見えた。
だが、考える間もなかった。
今度は青年の身体が、突然天井から剥がれた。
「うわっ!」
重力を取り戻したように落下し、床へ派手に転がる。
「痛ってぇ……!」
青年は腰を押さえながら顔をしかめた。
キョウコは青年の前に立ち、腰へ両手を当てた。表情は笑っているが、妙に逆らいづらい雰囲気がある。
「ダーリン」
「何だよ」
「仲間には、もっと優しく接しなさい」
「仲間?」
青年は床に座り込んだまま、初めてその言葉を聞いたような顔をした。
それからヨシエを見る。
頭から足元まで眺め、露骨に嫌そうな表情を浮かべた。
「あの豚が?」
次の瞬間だった。
青年の口元に、銀色のものが浮かび上がった。
「ん?」
ヨシエは目を細める。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
だが、よく見ると、それは紛れもなくチャックだった。
比喩ではない。
金属製の小さな引き手までついた、本物のチャックが青年の唇を塞ぐように横一文字に生えている。
「んー!?んんー!」
青年は目を見開き、慌てて口元を押さえた。
当然ながら、開かない。
指で無理矢理こじ開けようとしているが、チャックは唇と一体化しているらしく、びくともしなかった。
キョウコはにっこりと笑う。
「言葉遣い」
「んんんー!」
「直そうね」
「んー!んんん!」
何を言っているのかは、まったくわからない。
ただ、相当に文句を言っていることだけは、表情と身振りで十分すぎるほど伝わってきた。
ヨシエはそんな青年を見下ろした。
つい先ほどまで煮えくり返っていた腹の底が、ほんの少しだけ軽くなる。
「ざまあみろ」
「んんー!」
「何よ?聞こえないわよ?」
ヨシエは勝ち誇ったように鼻で笑った。
青年はさらに何か言い返そうとしたが、口を塞ぐチャックに阻まれ、くぐもった抗議の声しか出せない。その様子が思いのほか滑稽で、ヨシエの機嫌はわずかながら回復した。
キョウコは満足そうに頷くと、ようやくヨシエへ向き直った。
「じゃあ、改めて紹介するね」
そう言って、床に座り込んでいる青年を指差す。
「この口の悪い眼鏡が、私の夫。トンダユウイチ」
「これが?」
ヨシエは隠そうともせず、露骨に顔をしかめた。
改めて青年を見る。
――トンダユウイチ。
口が悪い。態度も悪い。愛想もない。
そして、眼鏡。
しかも、聞けばヨシエより年下だという。
何より最悪なのは、初対面の人間を何の躊躇もなく豚呼ばわりしたことである。
第一印象だけで言えば、これ以上ないほど最低だった。
そして、なぜだかわからないが、こんな青年がキョウコの夫だという事実まで妙に腹立たしかった。
ヨシエは眉をひそめたまま訊いた。
「何でこんなのと結婚したの?」
キョウコは少しも気分を害した様子を見せず、むしろ楽しそうに笑った。
「可愛いじゃん」
「どこがよ」
「いっぱいあるよ?」
「一個もないわよ」
床のトンダが、激しく抗議するように「んんー!」と唸った。
キョウコはそれを見て笑い、ヨシエはますます嫌そうな顔をする。
気に入らなかった。
事務所も。トンダも。キョウコの、何事にも深刻さを感じさせない軽い態度も。
何もかもが、ヨシエの思い描いていた「就職先」とはかけ離れていた。
もっとまともな組織を想像していた。
特殊能力を正当に評価され、それに見合った仕事を与えられる場所。少なくとも、自分ほどの能力者であれば相応の待遇で迎えられるものだと、どこかで思っていた。
だが、実際にたどり着いたのは、古びた雑居ビルの狭い一室だった。
傾いたホワイトボードがあり、書類は床に積まれ、自分を誘った女は人の口にチャックを生やして笑っている。
その夫は、会って一分も経たないうちに自分を豚呼ばわりした。
どう考えても、まともではなかった。
それでも結局、ヨシエは特殊対策室へ入ることになった。
理由はいくつかあった。
まず、現実的な問題として、普通の企業にはどこにも採用されなかった。
どれほど自分の能力に価値があると信じていても、それを仕事として使わせてくれる場所がなければ意味がない。その点だけを考えれば、特殊能力者のトラブルを専門に扱うというこの事務所は、少なくとも自分の力を必要としている。
それに、キョウコの能力にも興味があった。
自分が全力で操った重力をものともせず、それどころか、まるで世界の規則そのものを気軽に弄ぶような女。
ヨシエにとって、自分の能力が真正面から通用しなかった相手はほとんどいなかった。
悔しい。腹が立つ。
それでも、知りたいと思った。
あの女が何者なのか。どこまで強いのか。そして、自分との差がどこにあるのか。
もう一つ、ひどくくだらない理由もあった。
トンダから豚呼ばわりされたまま、その場で尻尾を巻いて帰るのが、どうしても癪だった。
ここで帰れば、あの男に「逃げた」と思われるかもしれない。
そんな想像をしただけで腹が立った。
こんな眼鏡に「怯えて逃げた」と思われるくらいなら、むしろ居座ってやる。自分がどれほど使える人間なのか、嫌でも思い知らせてやればいい。
ヨシエらしい、ほとんど意地だけの理由だった。
そして、もう一つ。
本人が決して口には出さなかった理由があった。
数日前、キョウコが何でもないことのように口にした言葉。
――仲間。
家族からも、学校からも、これまで勤めようとした会社からも、自分はいつも「扱いづらい人間」として見られてきた。
怖がられるか、疎まれるか、遠ざけられるか。
だからヨシエ自身も、誰かと一緒にいることなど初めから期待しないようにしていた。
先に嫌えばいい。先に見下せばいい。
そうしていれば、拒絶されたところで傷つかずに済む。
少なくとも、そう思っていた。
そんなヨシエに向かって、キョウコは何の躊躇もなく言ったのだ。
――仲間。
その言葉だけが、どういうわけか、まだ胸の奥に引っかかったままだった。
ヨシエに任された最初の仕事は、比較的軽い案件だと聞かされていた。
特殊能力者同士の小競り合い。
郊外にある倉庫を複数の能力者が勝手に占拠し、そこで揉め事を起こしているらしい。依頼書に記載された情報によれば、相手はいずれも特別に強力な能力者ではない。今のところ死者は出ておらず、周辺への被害も限定的で、このまま大規模な事件へ発展する可能性は低いと見られていた。
ただし、特殊能力が絡んでいる以上、通常の警察官だけで踏み込むには危険がある。
銃や警棒で対処できる相手とは限らない。どれだけ出力の弱い能力者でも、使い方次第では人間一人を簡単に負傷させることができる。現場へ入った警察官が、想定外の能力を受けて被害を拡大させる可能性もあった。
そこで、特殊能力者への対応を専門とする特殊対策室へ処理の依頼が回ってきた。
ヨシエにとっては、能力を使うことそのものが仕事になるのは初めてだった。
これまで彼女の重力操作は、周囲から恐れられ、止められる対象でしかなかった。
――暴発させるな。
――人に向けるな。
――物を壊すな。
――もっと力を抑えろ。
幼い頃から、何度となく言われ続けてきた言葉だった。
学校に入ってからも、それは変わらなかった。授業で能力を扱うことはあっても、求められるのは常に安全な制御だった。どれだけ大きな力を持っていようと、それを実際に誰かへ向ければ問題になる。
だが、今度は違う。
仕事として能力を使う。
危険な相手を制圧するために、自分の力を堂々と振るっていい。しかも、それを誰かに咎められるどころか、むしろ求められている。
その事実は、ヨシエが思っていた以上に心地よかった。
ようやく自分の力が正当に使われる場所へ来たのだとさえ思った。
自分の重力操作なら、たいした相手ではない。
初仕事から圧倒的な結果を出してやればいい。そうすればキョウコにも、自分を連れてきた判断が正しかったと思わせられる。
ついでに、あの口の悪い眼鏡にも、自分がどれほど優れた能力者なのか思い知らせてやればいい。
ただ、問題があるとすれば、その眼鏡と一緒に仕事をしなければならないことだった。
キョウコは別件への対応が入っており、この案件には同行できなかった。
そのためヨシエは、トンダユウイチと二人で現場へ向かうことになった。
――自動車で。
「最悪」
助手席に座ったヨシエは、出発して間もなく吐き捨てた。
窓の外には、都心から離れるにつれて背の低い建物が増えていく。住宅街の合間に小さな工場や倉庫が混じり始め、道路脇には広い駐車場を備えた店舗が目立つようになっていた。
平日の昼間だというのに道路はそこそこ混んでいる。
信号に引っかかるたびに車列が伸び、少し進んでは止まり、また少し進む。
ヨシエは数台先まで続く車の列を眺めながら、何度目かの苛立ちを覚えた。
当時の特殊対策室では、まだトンダのテレポート能力を日常的な移動手段として使う体制が整っていなかった。
正確に言えば、体制の問題だけではない。
トンダ本人が、「近場なら車でいいだろ」と面倒くさそうに言ったからである。
瞬間移動できる人間が、わざわざ渋滞の中で車を運転している。
ヨシエには、その感覚がまるで理解できなかった。
「こっちのセリフだ、豚」
運転席のトンダは、前を向いたまま言った。
ヨシエのこめかみがぴくりと引きつる。
「その呼び方、やめなさいよ」
「じゃあ痩せろ」
「殺すぞ」
「やってみろ」
返事に間すらなかった。
トンダは片手でハンドルを握り、何事もなかったように前方を見ている。
ヨシエが横から本気で睨みつけても、まるで気にする様子がない。
その態度が余計に腹立たしかった。
「……絶対、いつか殺す」
「その前に、俺がお前を殺すかもな」
「ああ?」
「前見ろ。酔うぞ」
「子ども扱いすんな!」
「じゃあ静かに座ってろ」
ヨシエは舌打ちし、苛立たしげに窓の外へ顔を向けた。
これ以上話せば本当に車内の重力を弄りそうだったので、しばらく黙ることにした。
だが、もったのは数秒だった。
「そもそも、何で私がアンタと組まなきゃいけないのよ」
「キョウコが決めたからだろ」
「断りなさいよ」
「俺だって断りたかった」
「じゃあ断れよ!」
「うるせえな。運転中だぞ」
トンダが面倒そうに眉を寄せた。
「私は初仕事なのよ?二人で行けって言われてるんだから、少しは協力する姿勢を見せなさいよ」
「足を引っ張るなよ」
ヨシエがゆっくりと横を向く。
「誰が?」
「お前が」
「私、アンタより強いけど?」
「寝言は寝て言え」
「今ここで車ごと潰してやろうか?」
「やったらお前も死ぬぞ」
「私は重力で何とかするわよ」
「じゃあ俺だけ先にテレポートする」
「最低!」
「能力を有効活用してるだけだ」
「だったら最初から現場までテレポートしなさいよ!」
「車で行ける距離なのに、疲れることはしたくない」
「意味わかんない!」
ヨシエには、本当に理解できなかった。
自分が瞬間移動などという能力を持っていたなら、歩くことも電車に乗ることも、まして渋滞の中で車を運転することも二度としないだろう。
それなのにトンダは、信号が青になるのを待ちながら、眠そうな顔でハンドルを握っている。
能力に対する考え方からして、まるで違っていた。
二人きりの車内は、これから危険な現場へ向かう仕事仲間のものとは思えないほど険悪だった。
当然、まともな作戦確認もなかなか進まない。
ヨシエは膝の上に置いていた資料を開いた。
倉庫の見取り図と、現場にいるとされる能力者たちの簡単な情報がまとめられている。人数、年齢、過去に確認された能力。詳細不明と書かれた項目もいくつかあった。
「……こいつは発火系。こっちは電気?」
ヨシエが資料へ目を落とすと、トンダが前を見たまま言った。
「それくらい頭に入れとけ」
「初仕事なんだけど」
「だから何だ?」
「普通、最初くらい説明するでしょ」
「資料渡されただろ」
「今、読んでるわよ」
「現場へ向かう車の中で初めて読むなよ」
「昨日渡されたばっかりなのよ!」
「だったら昨日読め」
「読んだわよ!確認してるの!」
「じゃあ静かに確認しろ」
「アンタがいちいち絡んでくるんでしょ!」
「お前から話しかけてきたんだろ」
「むかつく!」
ヨシエは資料を閉じ、助手席の前へ叩きつけるように置いた。
トンダはちらりとも見ない。
それから数分後、ヨシエが敵の人数について質問すれば、「資料に書いてある」と返される。
突入方法を尋ねれば、「着いてから見ればわかる」と言われる。
「それ作戦って言わないでしょ」
「たいした相手じゃねえんだろ」
「アンタ、意外と適当ね」
「お前にだけは言われたくない」
「私の何を知ってんのよ!」
「初めて会った日に事務所潰しかけた奴の性格くらいわかる」
「あれはアンタが豚って言ったからでしょうが!」
「事実を言っただけだ」
「死ね!」
また喧嘩になった。
もしキョウコが同乗していたなら、途中で二人とも一度くらいは物理的に黙らされていたかもしれない。
やがて車は市街地を抜け、倉庫や小規模な工場が点在する一帯へ入った。
交通量は次第に減り、道路沿いの景色も変わっていく。古い工場のフェンス、色褪せた看板、広い資材置き場。人の姿はほとんどなく、ときおり大型トラックが低いエンジン音を響かせながら通り過ぎていった。
目的地は、その一帯のさらに外れにある古びた倉庫だった。
錆の浮いた金属製の外壁。ところどころひび割れた窓ガラス。敷地内には使われなくなった木製パレットや資材が雑然と積まれ、端のほうでは腰の高さまで伸びた雑草が風に揺れている。
長いあいだまともに使われていなかったのか、建物全体に薄暗く荒れた印象があった。
人気は少ない。
その代わり、倉庫から少し離れた道路脇には数台の警察車両が停まっていた。
警官たちは建物へ踏み込まず、敷地の周囲を封鎖して待機している。遠巻きに倉庫の様子を窺っている者もいれば、無線で何かを確認している者もいた。
通常の立て籠もり事件なら、すでに警察が突入していてもおかしくない。
だが、中にいるのは複数の特殊能力者だ。どんな力が、どこから飛んでくるのかわからない。
だからこそ、彼らは専門家の到着を待っていた。
もっとも、その「専門家」二人は、車を降りてもまるで専門家らしい空気を醸し出していなかった。
トンダが車のドアを閉める。ヨシエも助手席から降り、倉庫を見上げた。
「ここね」
「ああ」
それだけで済めばよかった。
だが、仕事が始まるとなれば、今度はどちらが主導権を握るかという新たな争いが始まった。
二人は倉庫の入口付近まで進んだ。
錆びたシャッターの脇に、人が出入りできる小さな扉がある。そこから内部へ入ることになるらしい。
ヨシエは入口を見ながら腕を組んだ。
「私が重力でまとめて押さえつけるから、アンタは後ろで見てなさい」
当然のように言った。
トンダが眉をひそめる。
「新人が偉そうに指示出すな」
「新人でも年上よ」
「年齢だけで偉くなれるなら、亀か鶴でも上司にしてろ」
「口の減らない男ね!」
ヨシエの額に青筋が浮かんだ。
初仕事なのだから多少は緊張していてもおかしくなかったが、今のところその感情はすべてトンダへの苛立ちに押し流されていた。
「いい?私一人で十分だから。アンタは余計なことしないで」
「初仕事の奴が、何を根拠にそんな自信持ってるんだ」
「私の能力、知ってるでしょ?」
「豚に変身する能力だろ」
トンダは少し考えるような間を置いた。
「あ、変身前から豚か」
「ああ!?」
ヨシエの足元で、砂利がわずかに沈んだ。
怒りに反応して周囲の重力が強まったらしい。
「アンタ、本当に殺されたいみたいね」
「仕事前に味方を殺す奴があるか」
「誰が味方よ!」
「一応、今日はそういうことになってる」
「だったら少しは味方らしい態度を取りなさいよ!」
「お前もな」
ヨシエは思いきり睨みつけたが、トンダは気にした様子もなく、倉庫の扉へ視線を向けていた。その態度もまた腹立たしい。
「とにかく、先に入るのは私」
「何でだよ」
「私のほうが制圧向きだから」
「初めての現場で?」
「何回言わせるのよ。能力の強さに経験なんて関係ないでしょ」
「あるに決まってるだろ」
「ないわよ」
「ある」
「ない」
「ある」
「うるさい!」
警戒のため少し離れた場所に立っていた警察官が、何とも言えない表情で二人を見ていた。
特殊能力者を相手にする専門家が到着したと聞いて、もう少し緊張感のある人間を想像していたのかもしれない。
実際に来たのは、倉庫へ踏み込む直前まで口喧嘩を続けている若い男女だった。
一方、倉庫の中にいる能力者たちは、これから自分たちを制圧しに来る二人が入口で延々と揉めていることなど、まだ知る由もなかった。
少なくともこの時点では、ヨシエもトンダも、互いに協力して戦うつもりなどほとんどなかった。
倉庫の中へ足を踏み入れた瞬間、ヨシエとトンダは、ほとんど同時に異変へ気づいた。
聞いていた話と違う。
薄暗い倉庫内には、赤茶けた錆の浮いた鉄骨が縦横に走り、その下には木箱や資材、古びた金属棚が雑然と並んでいた。天井近くに設けられた細長い窓から白っぽい光が差し込み、淀んだ空気の中を漂う埃を筋状に照らしている。
油と鉄錆、それに何人もの汗が入り混じったような、むっとする臭いが鼻についた。
そして、その奥にいる人間の数を見て、ヨシエは眉をひそめた。
「……多くない?」
事前に聞かされていたのは、せいぜい数人の能力者による小競り合いだった。
だが、ざっと見渡しただけでも二十人は超えている。
木箱に腰掛けている者。金属棚にもたれ、虚ろな目で天井を眺めている者。倉庫の中央を意味もなく行ったり来たりしている者。
人数が多いだけではなかった。
誰もが、明らかにまともな状態ではない。
目は赤く充血し、瞳孔が不自然なほど開いている。荒い呼吸を繰り返しながら身体を小刻みに震わせている男もいれば、何もない空間へ向かって薄ら笑いを浮かべている者もいた。
「違う……違うんだよ……そうじゃねえんだ……」
意味の通らない言葉を延々と呟きながら、同じ場所を何度も往復している者までいる。
異様な興奮状態だった。
酒に酔っているという程度ではない。興奮剤か、あるいは特殊能力そのものへ作用する何らかの薬物を使用しているのかもしれなかった。
その可能性を裏づけるように、倉庫のあちこちには、すでに能力が使用された痕跡が残されている。
黒く焦げついた床。
熱で表面が変色した鉄骨。
何か強い力を受けたのか、中央から大きく歪んだ金属棚。
床の一部では、コンクリートが砕け、細かな破片が散乱していた。
事前資料に記載されていた能力の程度と比べても、明らかに破壊の規模が大きい。
本来なら、それほど強くないはずの能力者たちだ。
それが何らかの原因によって、普段以上の出力を引き出されているように見えた。
ヨシエは無意識に周囲へ視線を走らせる。
そこで、もう一つ異常なものを見つけた。
倉庫の床に、何人かの人間が倒れている。
紺色の制服。胸元には、この倉庫を管理する会社らしいロゴが入っていた。
おそらく警備員だろう。
一人は棚の脇に横たわり、もう一人は壁際で身体を投げ出すように倒れている。頭部から血を流している者もいた。
ぴくりとも動かない。
ただ、この距離では意識がないだけなのか、それともさらに深刻な状態なのかまでは判別できなかった。
ヨシエは顔をしかめた。
「情報と違うじゃない」
思わず舌打ちする。
軽い揉め事。能力者は数人。能力自体もそれほど強力ではなく、死者も出ていない。
初仕事にはちょうどいい程度の案件。
そう聞かされていた。
しかし、実際に目の前に広がっている光景は、その説明とはまるで違う。
二十人を超える能力者。異常な興奮状態。通常以上に高まっているらしい能力出力。そして、すでに倒れている警備員たち。
隣に立つトンダも、ここへ来るまでの険悪でくだらない口喧嘩を打ち切り、倉庫の奥へ鋭い視線を向けていた。
先ほどまでヨシエを豚呼ばわりしていた男と同じ人物とは思えないほど、その目つきが変わっている。
視線だけで人数を数え、敵同士の距離を確認する。続いて、倒れている警備員たちへ目を向け、周囲の焦げ跡や破壊された棚、崩れた床へと視線を滑らせた。
何が起きたのか、どんな能力が使われたのか、どこから攻撃される可能性があるのかを、迅速に把握しようとしている。
ヨシエにはそう見えた。
数秒ほど倉庫内を観察したあと、トンダは小さく息を吐いた。
「キョウコ……ちゃんとリサーチしろよ」
呆れと苛立ちが入り混じった声だった。
どうやら、トンダにとっても完全に想定外らしい。
「軽い仕事じゃなかったの?」
ヨシエが小声で訊く。
「俺に聞くな」
「アンタの嫁でしょ」
「仕事の情報まで夫婦で全部共有してると思うな」
「知らないわよ、そんなの」
二人が小声で言い合っている間にも、倉庫の奥では複数の笑い声が響いていた。乾いた、神経質な笑いだった。
やがて、そのうちの一人がこちらへ顔を向ける。
痩せた男だった。頬はこけているのに目だけが異様に大きく見開かれ、額には大量の汗が浮かんでいる。
男は数秒、ヨシエたちを凝視した。
それから突然、表情を歪めた。
「敵だ!」
叫び声が倉庫内に響き渡った。
一斉に視線が集まる。
つい先ほどまで笑っていた者も、独り言を呟いていた者も、まるで何かの合図を受けたように二人へ顔を向けた。
「殺せ!」
誰かが叫ぶ。
次の瞬間、複数の特殊能力が一斉に放たれた。
赤い火炎が床を舐めながら伸びてくる。
別の方向からは青白い電撃が鋭く走り、鉄骨の表面を弾けるように伝った。
空気を強引に圧縮した透明な塊が、目にはほとんど見えないまま周囲の埃を巻き上げて飛来する。
さらに、棚や床に転がっていた金属片が意思を持ったように浮き上がり、回転しながら二人へ殺到した。
「チッ!」
ヨシエは反射的に腕を振った。
空間そのものが沈む。
彼女を中心に、強烈な重力場が一気に広がった。
飛んできていた金属片は途中で勢いを失い、床へ叩き落とされる。鋭い音を立てながらコンクリートへ突き刺さった。
火炎もその進路を無理矢理押し下げられ、床へ這いつくばるように広がって散った。
圧縮された空気の塊も軌道を逸らされ、二人の手前で床へ激突する。
轟音とともにコンクリート片が弾けた。
ただし、電撃だけは違った。重力の影響をほとんど受けず、青白い光がヨシエの脇を縫うように走る。
「危なっ!」
その時には、トンダの姿はもう隣になかった。
一瞬、空間が揺らいだように見えた。
次の瞬間、彼は数メートル離れた木箱の脇に立っていた。
――テレポート。
「雑魚が!」
ヨシエは敵の攻撃など気にも留めず、口元を歪めた。
恐怖より先に、昂揚が勝っていた。
二十人以上いようが関係ない。
一人一人の能力が多少強化されていようが、自分の重力ならまとめて押さえ込める。
ヨシエは両手を前へ突き出した。
意識を集中させる。
倉庫の中央にいた能力者たちへ、目に見えない巨大な力が降りかかった。
「ぐあっ!」
「な、何だ、これ……!」
「重っ……!」
何人もの身体が、一斉に床へ叩きつけられた。
立っていられない。膝が折れ、手をついた者から順番に地面へ押しつぶされていく。
無理に起き上がろうとした男の腕が、自分の体重と加重された重力に耐えきれず、肘から不自然な方向へ曲がった。
鈍い音が聞こえた。
「ぎゃああっ!」
絶叫が上がる。
別の男は完全に腹ばいになり、胸部を床へ押しつけられたまま、必死に息を吸おうとしていた。
「ぐっ……息……でき……」
指先で床を掻いているが、身体はわずかにも持ち上がらない。
その周囲でも、何人もの能力者が呻き声を上げていた。
つい先ほどまで暴れ回っていた人間たちが、自分の力ひとつで地面へ這いつくばっている。
その光景を見て、ヨシエは笑った。
胸の奥が熱くなる。心臓が速く打っていた。
恐怖ではない。むしろ、身体の奥から湧き上がるような快感だった。
「ほらね」
小さく呟く。
やはり、自分は強い。自分の能力は、誰よりも優れている。
これほど大勢の能力者を、まとめて地面へ押さえつけることができる。
そして何より、ここではそれが許されていた。
誰も「やめなさい」とは言わない。
誰も「危ないから力を使うな」と止めない。
むしろ、これこそが仕事だった。
学校では、危険だと言われた。
教師たちは何よりも制御を求め、少しでも感情的になれば能力を使うなと注意した。
企業には扱いにくいと拒絶された。
家では、幼い頃から自分の力そのものを恐れられていた。
どこへ行っても、ヨシエの重力操作は「持て余すもの」として扱われてきた。
だが、違ったのではないか。間違っていたのは、自分ではなく、あいつらのほうだったのではないか。
これだけの力がある。何人もの能力者を、一度に地面へ伏せさせることができる。
誰かに恐れられるほど強いのなら、本来それは欠点ではない。
価値のはずだ。必要とされるべき力のはずだ。
社会に必要なのは、何もできないくせに安全な場所から人を評価する連中ではない。
こういうときに、本当に敵を押さえつけられる人間ではないのか。
初めて仕事として振るった自分の能力が、その考えを肯定してくれているような気がした。
「見た!?」
床へ押し潰される能力者たちを見下ろしながら、ヨシエは得意げに叫んだ。
「私一人で十分じゃない!」
声には、抑えきれない高揚が滲んでいた。
初仕事。二十人を超える能力者。
それでも、自分の力なら通用する。
これまで自分を危険だと恐れ、扱いづらいと遠ざけてきた人間たちが間違っていたのだと、目の前の光景が証明しているように思えた。
「油断すんな、豚!」
少し離れた場所から、トンダの声が飛んできた。
「誰が――」
言い返そうとした、その瞬間だった。
視界の端で、何かが揺れた。
ほんのわずかに、空気の流れが歪んだように見えた。
――風。
そう認識した時には、もう遅かった。
「っ……!」
脇腹に、鋭い熱が走った。
着ていた服が一直線に裂け、その直後、皮膚まで切り開かれる。
赤いものが散った。
「……え?」
一瞬、ヨシエには何が起きたのかわからなかった。
身体が傷ついたという事実より先に、突然服が裂けたことへの戸惑いが来た。
そして、ほんの一拍遅れて。
「ぐっ……!」
強烈な痛みが押し寄せてきた。
焼けた鉄を脇腹へ押し当てられたような熱さだった。
ヨシエは反射的に傷口を押さえる。
掌の下で、ぬるりとした感触が広がった。
恐る恐る手を見る。
――血。
指の間からも、生温かい血が滲み出している。
「なに……これ……」
離れた場所で、一人の男がこちらへ向かって腕を振り抜いていた。
その周囲で、埃が不自然な筋を描いている。
空気を極端に圧縮し、薄い刃のようにして飛ばしたのだろう。
目にはほとんど見えない。
先ほどまでのヨシエなら、そんな攻撃を自分がまともに受けるとは考えもしなかった。
自分は強い。相手は雑魚だ。
その認識が、あまりにも簡単に崩された。
痛い。熱い。
それ以上に、怖かった。
傷そのものよりも、ほんの少し軌道がずれていれば腹部を深く切り裂かれていたかもしれないという事実が、遅れて理解できてしまった。
ここでは、本当に死ぬ。
ヨシエは、そのとき初めて現場というものを理解した。
学校で起きた能力者同士の喧嘩とは違う。
怒りに任せて物を壊したときとも違う。
不採用になった会社へ乗り込み、能力を暴発させたときとも違う。
あのときは、自分が一方的に暴れる側だった。
だが、ここでは相手も能力を使う。
しかも、自分を傷つけることを躊躇していない。殺すつもりで攻撃してくる。
相手一人一人は、それほど強い能力者ではないのかもしれない。
しかし、二十人以上いる。
炎、電撃、圧縮空気、金属操作。
異なる能力を、別々の方向から次々と放ってくる。
さらに薬物の影響なのか、彼らには恐怖心も痛覚もほとんど残っていないようだった。
仲間が重力で床へ叩きつけられようと、腕を折られようと、怯む者がいない。
むしろ異様な笑みを浮かべながら、次の者が前へ出てくる。
「この……!」
ヨシエは傷口を押さえていた手を離し、再び重力をかけた。
二人の能力者が、膝から床へ叩きつけられる。
だが、その処理に意識を向けた瞬間、右側から炎が迫った。
「っ!」
咄嗟に重力場を寄せ、火炎を床へ押しつける。炎が横へ広がった。
今度は左側。金属片が数枚、鋭い音を立てながら飛来する。
ヨシエは腕を振り、まとめて床へ落とした。
その直後、正面の空気がわずかに揺れた。
また、あの刃。
ヨシエは息を呑み、身体を大きくひねった。
透明な刃が頬のすぐ横を通り過ぎ、背後の木箱へ深い切れ目を刻んだ。
「くそ……!」
次から次へと攻撃が来る。
一つを止めれば、別の方向から飛んでくる。
一人を押さえれば、その隙を別の能力者が狙ってくる。
すべてを同時には処理できない。数が多すぎる。
それまでヨシエは、自分の能力の出力ばかりを意識していた。
どれほど重くできるか。どれほど広い範囲を押さえつけられるか。
だが、実戦ではそれだけでは足りなかった。
敵の位置を把握する。能力の種類を見極める。飛んでくる攻撃を防ぎながら、制圧対象を選ぶ。倒れている警備員を巻き込まない。自分自身も動き続ける。
それらを同時に行わなければならない。
脇腹の傷が、その難しさをさらに増幅させていた。
息を吸うたびに痛む。身体をひねれば傷口が開き、血が流れる。服の内側に湿った感触が広がり、腰のあたりまで血が伝っているのがわかった。
呼吸が荒くなる。
集中が乱れるたび、展開している重力場の強さにもわずかな揺らぎが生じた。
「っ……!」
視界まで滲み始める。
痛みのせいか、焦りのせいか、自分でもわからなかった。
少し離れた場所では、トンダも複数の能力者を相手にしていた。
男の一人が、背後から火炎を放つ。
炎が届く直前、トンダの身体が消えた。
次の瞬間には、攻撃してきた男の背後に立っている。
「遅え」
腕を掴む。
二人の姿が同時に消えた。
そして数メートル離れた場所に、能力者の男だけが突然現れ、そのまま勢いよく床へ転がった。
別の男が電撃を放つ。
青白い閃光が一直線に走ったが、トンダはその軌道上から瞬時に消えていた。
炎も。金属片も。衝撃波も。
彼には届かない。
攻撃を避け、相手の死角へ回り込み、掴み、位置を変える。
必要なときにだけ能力を使う。
出力を誇示するような派手さはない。
だが、動きにはほとんど無駄がなかった。
ヨシエはそれを横目で見て、悔しいと思った。
圧倒的だった。
能力の強さだけではない。
実戦でどう動けばいいのかを、トンダは知っている。
それでも、敵の数は多かった。
トンダの周囲にも次々と能力者が集まり、複数方向から攻撃を仕掛けてくる。
いくら瞬間移動できるとはいえ、同時に何十人も処理できるわけではない。
トンダも自分の周囲を片づけることで手いっぱいだった。
少なくとも、ヨシエ一人を常に守り続けられる状況ではない。
「この程度で……!」
ヨシエは歯を食いしばった。
負けたくなかった。こんな連中に負けることが嫌だった。
ましてや、トンダに助けを求めるなど耐えられなかった。
初仕事で大口を叩いた。自分一人で十分だと言った。後ろで見ていろとまで言った。
それなのに、「助けて」などと、あの男に言えるはずがない。
そんな屈辱を味わうくらいなら、自分で何とかする。
まだ足りないなら、もっと強くすればいい。
一人ずつ相手をするから追いつかないのだ。
だったら、全部まとめて押さえつければいい。
ヨシエは大きく息を吸い、能力の出力を一気に引き上げた。
重力場が急速に広がっていく。
周囲にいた数人だけではない。
十人。十五人。
そして、倉庫内のほぼ全域へ。
「ぐっ……!」
「な、何だ……!」
能力者たちの身体が次々と沈んでいく。
だが、影響を受けたのは敵だけではなかった。
倉庫の床そのものが、低い音を立てて軋んだ。
積み上げられていた木箱が重みに耐えきれず、ばきばきと音を立てて潰れていく。
金属棚が歪み、脚が曲がる。
鉄骨の接合部から嫌な音が響いた。
天井から、細かな埃や錆の欠片がぱらぱらと落ちてくる。
それでもヨシエは止めなかった。
敵を一気に制圧することしか、頭になかった。
床に倒れている警備員たちにも。散乱する資材にも。そして、トンダが戦っている場所にも。
区別なく、強烈な重力がのしかかっていく。
「おい!」
トンダの声が倉庫内に響いた。
「出力を雑に上げるな!」
「うるさい!」
「建物ごと潰れるぞ!」
「私が制御する!」
「できてねえから言ってんだ!」
「黙れ!」
ヨシエは聞かなかった。
今ここで出力を落とせば、自分が負けたことになる。
トンダの忠告に従えば、自分のやり方が間違っていたと認めることになる。
そんなことはできなかった。
脇腹の痛みを押し殺し、ヨシエはさらに力を込めた。
その直後だった。
頭上から、鈍い破裂音が響いた。
戦闘の轟音とは違う。もっと重く、建物そのものの奥から鳴ったような音だった。
ヨシエは反射的に顔を上げた。
「……え?」
天井を支えている鉄骨の一部が、わずかに歪んでいる。
接合部から細かな錆と埃が落ち、その周囲に亀裂が走っていた。
次の瞬間。
金属を無理矢理引き裂くような、耳障りな轟音が倉庫内に響き渡った。
梁が折れた。
ヨシエが倉庫全体へ無理に重力をかけたことで、もともと老朽化していた建物の構造に、耐えきれない負荷が集中したのだ。
そこで初めて、トンダの言葉の意味を理解した。
――建物ごと潰れる。
「マズ――」
言葉を最後まで発する暇はなかった。
頭上からコンクリート片が落ちてくる。
続いて天井の一部が崩れ、巨大な鉄骨が支えを失った。
ゆっくり傾いたように見えた。
だが、それは錯覚だった。
次の瞬間には、ヨシエの真上へ落下してくる。
――重力場を解除する。
――自分の周囲だけ重力を反転させる。
――鉄骨へ横方向の力をかけ、落下地点を逸らす。
頭の中にはいくつもの方法が浮かんだ。
普段なら、どれか一つを選んで実行できたかもしれない。
だが、できなかった。
痛み。出血。疲労。広範囲へ展開した能力。
何より、突然目の前に現れた「死」という現実が、思考と身体を切り離した。
頭では動かなければならないとわかっている。
それなのに、足が動かなかった。
腕も上がらない。鉄骨が迫る。視界いっぱいに黒い影が広がった。
――死ぬ。
その言葉だけが、異様なほど鮮明に頭へ浮かんだ。
嫌だ、と考える余裕さえなかった。
次の瞬間。
視界が反転した。
「――っ!」
内臓だけが一瞬遅れてついてくるような、不快な感覚が身体を駆け抜けた。
足元が消える。景色が途切れる。
身体が宙へ放り出されたような浮遊感のあと、固いものが背中へぶつかった。
「ぐっ……!」
ヨシエは床を転がった。
何が起きたのか理解するより早く、すぐ近くで凄まじい轟音が炸裂した。
巨大な鉄骨が、ほんの一瞬前までヨシエの立っていた場所へ叩きつけられる。
床が大きく揺れた。
積まれていた木箱が崩れ、天井からさらに破片が降る。
粉塵が爆発するように舞い上がり、倉庫内の景色を一瞬で灰色に染め上げた。
耳の奥で甲高い音が鳴り続けている。
「げほっ……!げほ……!」
ヨシエは床へ手をつき、激しく咳き込んだ。
肺へ入り込んだ埃が喉に絡む。
何が起きたのか、まだ頭が追いつかない。
ただ、
――生きている。
それだけはわかった。
脇腹は焼けるように痛む。
腕も動く。足もある。頭も潰れていない。
ヨシエは荒い呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと顔を上げた。
粉塵の向こうに、人影が立っていた。
トンダだった。
頬から一本の血が流れている。
服の肩口は裂け、袖にも汚れと血が付着していた。黒縁眼鏡の片側には細いひびまで入っている。
いつ負傷したのか、ヨシエにはわからなかった。
自分のことで精いっぱいで、トンダがどんな攻撃を受けていたのかさえ見ていなかったのだ。
それでも本人は、自分の傷など気にも留めていないようだった。
ただ、ひどく苛立った顔でヨシエを睨んでいる。
「バカか、お前」
開口一番、それだった。
「……何よ」
「自分の能力で自分を潰してどうする」
「うるさい……」
「敵より先に建物壊して死にかけてんじゃねえよ」
トンダは倒れた鉄骨へ一度だけ視線を向けた。
「雑なんだよ。力任せにもほどがある」
ヨシエは唇を噛んだ。
言い返したかった。だが、自分が失敗したことは明白だった。
トンダに言われた通り、無闇に出力を上げ、その結果として倉庫を壊した。
あと一瞬遅ければ、今頃あの鉄骨の下にいた。
それでも素直に認めることなどできない。
「……助けてくれなんて、頼んでないわよ」
ようやく出たのは、そんな言葉だった。
トンダは呆れたように眉を寄せる。
「頼まれてから助けたら間に合わねえだろ、豚」
「その呼び方……!」
怒鳴り返そうとした。だが、声に力が入らなかった。
「っ……」
脇腹がずきりと痛む。
身体を起こそうとしただけで傷口が引きつれ、視界が大きく揺れた。
腕に力を込める。立とうとする。
だが、膝が震えた。
「何よ……」
自分の身体なのに、思うように動かない。
悔しさに歯を食いしばる。
トンダが何か言おうと口を開いた、そのときだった。
粉塵の向こうで、影が動いた。
「死ねえええ!」
一人の能力者が叫びながら飛び出してきた。
顔は血と汗で濡れ、目は完全に血走っている。
狙いは、床に座り込んでいるヨシエだった。
「っ!」
ヨシエが反応するより早かった。
トンダは振り返りもしなかった。
軽く指を鳴らす。
男の身体が、その場から消えた。
次の瞬間、十数メートル離れた倉庫の壁際に、その姿が現れる。
走っていた勢いは消えていない。
「ぐあっ!」
男はそのまま壁へ激突し、鈍い音を立てて床へ崩れ落ちた。
トンダはようやくヨシエへ視線を戻した。
「座ってろ」
「は?」
「足手まといが動くと面倒だ」
ヨシエの眉がぴくりと動く。
「誰が足手まといよ……!」
「お前だ」
迷いなく言い切った。
「……殺す」
「元気あるなら傷押さえてろ」
「誰のせいで……!」
「俺のせいじゃねえだろ」
正論だった。
それがさらに腹立たしかった。
今すぐ後ろから重力で潰してやりたい。
できれば床へ顔面から叩きつけて、二度と豚などと言えないようにしてやりたい。
ヨシエは本気でそう思った。
だが、身体は立ち上がることさえ許してくれなかった。
脇腹から流れた血が服へ染み込み、呼吸を整えるだけでも痛みが走る。
トンダはそれ以上何も言わなかった。
ヨシエの返事を待つこともなく、まだ敵の残っている倉庫の奥へ向き直る。
そして、そのまま歩いていった。
ヨシエは床に座り込んだまま、その背中を見ていた。
口が悪い。態度も最悪。初対面から自分を豚呼ばわりしてくる。
人を気遣うという発想が根本的に欠けているのではないかと思うほど、言葉に遠慮がない。
腹の立つ男だった。大嫌いだった。
少なくとも、このときのヨシエはそう思っていた。
それでも、トンダは助けた。
ヨシエが頼んでもいないのに。
助けを求める声など上げていない。そもそも、声を出す時間すらなかった。
それでもトンダは気づいた。
自分も複数の敵に囲まれ、無傷ではなかったはずなのに、ヨシエの頭上へ鉄骨が落ちる、そのほんのわずかな時間の中で、迷わず能力を使い、彼女を安全な場所へテレポートさせた。
しかも、そのあと恩着せがましく何かを言うこともなかった。
大丈夫か、と優しく声をかけたわけでもない。怖かっただろうと慰めたわけでもない。
返ってきたのは、「バカ」「雑」「豚」「足手まとい」という罵倒ばかりだった。
最悪だった。
それでもヨシエは、確かにあの男に救われた。
戦闘は、それから数分で終わった。
トンダが残っていた能力者たちの間を縫うように移動し、次々と無力化していった。
炎が放たれる直前に姿を消し、次に現れたときには能力者の背後にいる。腕を掴んだと思えば、その相手だけが倉庫の反対側へ飛ばされ、積み上げられた木箱の上へ叩きつけられる。複数人に囲まれても動きは止まらず、攻撃が届くより先に位置を変え、確実に一人ずつ戦闘不能にしていった。
先ほどまで二十人を超える能力者が暴れ回っていた倉庫から、次第に怒号と破壊音が減っていく。
ヨシエも、ただ座り込んで見ていたわけではなかった。
脇腹を押さえながら壁へ背を預け、息を整える。傷は痛み、立ち上がるだけの力は残っていなかったが、それでも能力まで失ったわけではない。
混乱に乗じて倉庫の奥から逃げようとした男たちがいた。
「……逃がすわけないでしょ」
ヨシエは血の気の引いた顔で片手を上げた。残っていた力を振り絞る。
「ぐっ!」
出口へ向かって走っていた数人の身体が、一斉に沈んだ。
膝をつき、そのまま床へ押さえつけられる。
先ほどのように倉庫全体を巻き込む乱暴な重力ではない。狙った相手だけへ範囲を絞り、逃げられない程度の力で拘束する。
それが今のヨシエにできる精いっぱいだった。
やがて、最後まで抵抗していた能力者もトンダに制圧された。
倉庫から戦う者の声が消えた。
残ったのは、床に倒れた者たちの呻き声と、どこかで小さく燃え続けている炎の音だけだった。
あれほど騒がしかった場所が、急に静かになる。
ヨシエの耳には、自分の荒い呼吸がやけに大きく聞こえた。
すべてが終わった頃には、倉庫は半壊していた。
折れ曲がった鉄骨。途中から崩れ落ちた梁。潰れた棚や木箱。
能力によって砕かれた窓からは、ぎざぎざになったガラス片がわずかに残っている。
床には金属片やコンクリートの破片が散乱し、黒く焼け焦げた場所もあれば、ヨシエの重力によって大きくひび割れた箇所もあった。
天井の一部が崩落したため、そこから外の光が斜めに差し込んでいる。
戦闘によって舞い上がった粉塵が、その光の中をゆっくりと漂い、雪のように床へ降り積もっていた。
その惨状のかなりの部分を、自分が作ったのだということを、ヨシエは考えないことにした。少なくとも今は。
「……最悪」
壁際の床に座り込んだまま、ヨシエは小さく呟いた。
何が最悪なのか、自分でもよくわからなかった。
敵の数が聞いていた話と違ったことか。
初仕事で怪我をしたことか。
危うく自分の能力で建物ごと潰れかけたことか。
それとも、あれだけ大口を叩いたくせに、結局トンダに命を救われたことなのか。
おそらく全部だった。
ヨシエは脇腹を押さえた。
裂けた服の下では血がまだ滲んでおり、掌まで赤く汚れている。大量に流れ続けているわけではないが、身体を動かすたびに傷口が引きつり、鋭い痛みが走った。
服は血と埃で汚れ、髪にも細かな粉塵が絡みついている。
顔を拭おうとして腕を上げたものの、その動作さえ億劫だった。
初仕事を終えた達成感など、ほとんどなかった。
ただ疲れた。痛い。
そして悔しい。
少し離れたところにいるトンダも、決して無傷ではなかった。
頬には細い切り傷が走り、乾きかけた血が顎の近くまで伸びている。服の肩口は裂け、袖や胸元には埃と汚れが付着していた。
黒縁の眼鏡にも、先ほどよりはっきりとしたひびが走っている。
それでも彼は、何事もなかったような顔で立っていた。
荒い呼吸をしているわけでもなければ、勝ち誇った様子もない。
床に倒れている能力者たちを見回し、本当に全員が動けなくなったのかを確認するように視線を巡らせている。
同じ戦闘を終えたはずなのに、壁際で座り込んでいる自分とはまるで違って見えた。
ヨシエはそんなトンダの姿を、黙ったまま見つめていた。
戦闘の後始末が始まる中、トンダがヨシエの前まで戻ってきた。
「……立てるか?」
ヨシエは壁際の床に座り込み、血の滲む脇腹を片手で押さえていた。
周囲には砕けたガラスや折れた木材、歪んだ金属片が散乱している。崩れた天井から舞い上がった粉塵はまだ薄く空気の中を漂い、差し込む光の筋の中でゆっくりと沈んでいた。
「立てるわよ」
ヨシエは即座に答えた。
こんな男に、これ以上弱っているところを見せたくなかった。
さっきは助けられた。
それだけでも十分すぎるほど屈辱なのに、今度は立つことさえできないと思われるなど耐えられない。
ヨシエは壁へ手をつき、歯を食いしばって身体を持ち上げた。
「ほら、見なさ――」
だが、最後まで言えなかった。
膝が震えた。
「っ……!」
傷ついた脇腹に鋭い痛みが走り、力を入れたはずの足から一気に力が抜ける。身体が横へ傾き、そのまま床へ倒れそうになった。
その腕を、トンダが掴んだ。
「立ててねえじゃねえか」
「……触らないで」
「じゃあ、そのまま転がって帰れ」
「最低ね、アンタ」
「お前ほどじゃない」
「殺すわよ」
「それだけ元気なら結構」
トンダは、ほんの少しだけ笑った。
大きく笑ったわけではない。口元がかすかに持ち上がっただけだった。
それは、現在のトンダユウイチが見せる穏やかな笑顔とはずいぶん違っていた。
もっと不器用で、もっと雑だった。
誰かを安心させようとか、場の空気を和らげようとか、そんなことを考えて作られた笑顔ではない。ただ、目の前の状況を少しだけ面白がった感情が、そのまま口元へ漏れ出したような、若さの残る笑みだった。
ヨシエは一瞬だけ、その顔を見た。
なぜだかわからない。
ほんの一瞬だけ、目が離せなかった。
それに気づいた途端、すぐに顔を逸らす。
「初仕事で死ななかっただけ上等だ」
「……何よ、それ」
「事実だろ」
トンダはヨシエの腕を支えたまま、半壊した倉庫を見回した。
床には制圧された能力者たちが転がっている。遠くでは、安全を確認した警察官たちがようやく倉庫の中へ入り始め、続いて救急隊員が倒れていた警備員のもとへ駆け寄っていた。
トンダはその様子を一通り見たあと、何でもないことのように言った。
「能力は悪くない」
「……」
「出力も十分ある。あれだけ広い範囲に重力をかけられるなら、使い道はいくらでもある」
ヨシエは意外そうにトンダを見た。
先ほどまで散々だった。
雑だ。足手まといだ。自分の能力で自分を殺しかけるバカだ。
そんなことばかり言われていた。
「何よ、急に」
「ただし、制御が雑すぎる」
「やっぱり悪口じゃない!」
「事実を言ってるだけだ」
「褒めてるの?貶してるの?」
「罵倒の中に、少しだけ褒めを混ぜてやった」
「何よ、それ」
「ありがたく受け取れ」
「いらないわよ!」
ヨシエが睨みつける。
トンダは気にした様子もなく、ひびの入った眼鏡を人差し指で押し上げた。
傷ついたレンズ越しに、改めてヨシエを見る。
「……まあ、アンタは凄い奴だよ」
あまりにもぶっきらぼうな言い方だった。
声に優しさが滲んでいるわけでもない。
照れた様子もない。
ただ評価したことを、そのまま口にしただけだった。
だからこそ、ヨシエは返事ができなかった。
「……何?」
「聞こえなかったのか?」
「聞こえたわよ」
「じゃあ聞き返すな」
「ムカつく……」
トンダは小さく息を吐いた。
それから、何でもないことのように続けた。
「だから、次は死ぬな」
それだけだった。
頑張ったな、と褒めたわけではない。
怖かっただろう、と慰めたわけでもない。
怪我は大丈夫かと心配するような素振りさえ見せなかった。
励ましと呼ぶには、あまりにも雑だった。
――アンタは凄い奴だよ。
――だから、次は死ぬな。
たったそれだけ。
それなのに、その二つの言葉は、ヨシエの胸の奥へ妙に深く入り込んだ。
これまで、彼女の能力を見た人間は、まず恐れた。
家族は、いつ暴発するのかと身構えた。
学校では、問題を起こさないよう管理され続けた。
企業は能力そのものには興味を示しても、結局はヨシエ本人を組織へ置くことを拒んだ。
どこへ行っても、彼女は危険だった。厄介だった。扱いに困る人間だった。
力はある。だが、関わりたくはない。
これまでヨシエが受け取ってきたものは、いつもそんな視線だった。
誰かから必要とされていると思えたことなど、一度もなかった。
少なくとも、ヨシエ自身はそう感じて生きてきた。
そして何より、これまで彼女と関わった人間たちは、失敗したヨシエに「次」を与えなかった。
学校で問題を起こせば、もうやるなと言われた。
人間関係を壊せば、相手は離れていった。
面接で失敗すれば、不採用の通知一つで関係は終わった。
いつだって、一度駄目になれば、そこで終わりだった。
だが、目の前の男は違った。
ヨシエは初仕事で失敗した。
敵の数を見誤り、攻撃を受けた。
焦って能力の出力を上げ、制御を失った。
倉庫を半壊させ、自分の能力で自分を殺しかけた。
挙げればきりがないほど、酷い初仕事だった。
それでもトンダは、「次は死ぬな」と言った。
――次。
その言葉が、ヨシエの中に残った。
次も現場へ出る。
次も自分はここにいる。
今回失敗したからといって追い出されるわけではない。
それどころかトンダは、そのことを説明する必要さえないほど当然の前提として口にしていた。
ヨシエは、そこで初めて気づいた。
この男は、自分を見捨てるつもりがない。
少なくとも、今日の失敗だけで切り捨てるつもりはない。
胸の奥が、妙に熱くなった。
トンダはヨシエの能力を恐れなかった。
暴走しかけても、危険だからもう使うなとは言わなかった。
雑だと罵倒しながらも、力そのものは認めた。
失敗しても追い出さなかった。
性格が悪いことも、口が悪いことも、協調性がないことも、すでに十分すぎるほど知っている。
それでも、
――アンタは凄い奴だよ。
そう言った。
能力だけを褒めたのではなかった。
少なくともヨシエには、その言葉が自分自身へ向けられたもののように聞こえた。
戦力として見られている。次も共に戦う人間として扱われている。
おそらくキョウコが言った「仲間」という言葉と、根っこの部分では同じだった。
自分がここにいてもいい。
失敗しても、まだ次がある。
そんな当たり前のことを、ヨシエはこれまでほとんど誰からも与えられたことがなかった。
だから、そのことがどうしようもなく嬉しかった。
けれど、そんな感情を素直に表へ出せる性格ではない。
ましてや、相手はあのトンダだ。
ヨシエは掴まれていた腕を、乱暴に振り払った。
「……偉そうに」
「あ?」
「次はアンタの手なんか借りなくてもやれるわよ」
「その前に制御を覚えろ、豚」
「豚って言うな!」
「じゃあ子豚」
「余計ムカつくわ!」
「注文の多い豚だな」
「殺すぞ!」
ヨシエは怒鳴った。
だが、先ほどまでとは何かが違っていた。
妙に顔が熱い。耳まで熱を持っているような気がする。
戦闘の興奮が残っているせいだ。
血を流したせいだ。
腹が立っているだけだ。
ヨシエはそう考えようとした。
けれど、自分自身のことだからこそ、誤魔化しきれなかった。
これは怒りだけではない。
ヨシエは、気づかれないようにちらりとトンダを見た。
口が悪い。態度も悪い。
年下のくせに偉そう。
初対面から自分を豚呼ばわりしてくる。
助けたことを恩に着せるでもなく、代わりに罵倒ばかりしてくる。
最悪だった。
本当に、最悪の男だった。
それなのに、死にかけた自分を助けてくれた。失敗した自分を認めてくれた。
そして、当たり前のように「次」があると言った。
これからも自分がここにいることを、最初から疑っていなかった。
その瞬間、カモイヨシエは、トンダユウイチに恋をした。
本人にとって、これ以上ないほど不本意な初恋だった。
事務所へ戻ると、二人の姿を見たキョウコは、心配するより先に声を上げて笑った。
「うわー、ボロボロ!」
ヨシエは脇腹に簡単な応急処置を施されていたものの、裂けた服の一部には乾きかけた血が黒ずんでこびりつき、髪にもまだ倉庫の埃が残っていた。歩くたびに傷が引きつるのか、わずかに顔をしかめている。
トンダも似たようなものだった。
頬には浅い切り傷が走り、服は肩口や袖のあたりが何か所か裂けている。何より、黒縁の眼鏡には大きなひびが入り、片方のレンズはいつ割れてもおかしくない状態だった。
二人並んで事務所へ戻ってきた姿は、どう見ても「軽い案件」を無事に片づけて帰ってきた人間には見えなかった。
「笑うな」
トンダが不機嫌そうに言った。
「だって面白いんだもん」
「何が面白いんだよ」
「ダーリンがそんなにボロボロなの、久しぶりに見た」
キョウコはけらけら笑いながらトンダのひび割れた眼鏡を眺め、それから今度はヨシエへ視線を移した。
「で、初仕事どうだった、子豚ちゃん?」
ヨシエは即座に睨み返す。
「最悪よ」
「そっかー」
「何よ、その反応」
「でも、生きて帰ってきたじゃん」
「当たり前でしょ」
「初仕事なんだから、十分十分」
ずいぶん軽い言い方だった。
ヨシエとしては、もう少しくらい驚かれてもいいと思った。二十人以上の能力者を相手にし、怪我までして、倉庫を半分壊しながら戻ってきたのだ。
それを「十分十分」で済ませられると、妙に拍子抜けする。
ヨシエは不満そうに鼻を鳴らし、顔を逸らした。
するとキョウコが、ふと思いついたように訊いた。
「ダーリンに助けてもらった?」
「助けられてないわ」
「助けた」
トンダが間髪入れずに答えた。
ヨシエが勢いよく振り向く。
「ちょっと!」
「事実だろ」
「余計なこと言うな!」
「鉄骨の下敷きになりかけてた豚を移動させた」
「説明までしなくていい!」
「あと脇腹切られて動けなくなってた」
「黙れ!」
ヨシエの顔がみるみる険しくなっていく。
しかしキョウコは、そんな二人を交互に見ながら、口元へ手を当てた。
「ふーん」
明らかに何かを面白がっている声だった。
ヨシエが怪訝そうに眉をひそめる。
「……何よ」
「いやー?」
「その顔やめなさいよ」
「別にー?」
「絶対何か考えてるでしょ!」
キョウコは答えず、しばらくヨシエの顔をじっと眺めていた。
視線がやけに長い。
ヨシエが居心地悪そうに顔を背けようとしたところで、キョウコは何でもないことのように口を開いた。
「子豚ちゃん、ダーリンのこと好きになった?」
「なっ……!」
ヨシエの顔が、一瞬で赤くなった。
身体まで硬直した。
「な、何言ってんのよ、アンタ!」
「当たった?」
「当たってない!」
「でも顔真っ赤だよ?」
「怪我してんだからでしょ!」
「脇腹怪我すると顔赤くなるんだ?」
「なるわよ!」
「へえー?」
「うるさい!」
キョウコはますます楽しそうに笑った。
その笑顔を見ているだけで、自分の内側を全部見透かされているような気がして、ヨシエは余計に腹が立った。
一方、当のトンダは、心底嫌そうな顔をしていた。
「やめろ、キョウコ」
「何で?」
「気持ち悪い」
一瞬、空気が止まった。
ヨシエの眉が跳ね上がる。
「……気持ち悪いって何よ!」
「そのままの意味だ」
「殺す!」
「やってみろ」
「今すぐ潰す!」
「怪我人が無理すんな」
「誰のせいで余計ムカついてると思ってんのよ!」
二人の間に、また険悪な空気が戻りかける。
「ダーリン」
キョウコが穏やかに呼んだ。
「何だよ」
「仲間には優しく」
「十分優しいだろ」
「どこが?」
「死にかけてたから助けた」
「それは普通」
「じゃあ、もう十分だ」
「全然足りません」
キョウコはにっこり笑った。
その笑顔を見た瞬間、トンダが嫌な予感を覚えたように眉を寄せる。
次の瞬間。
「……は?」
トンダの動きが止まった。
ついさっきまで彼の後ろにあったはずの事務椅子が、跡形もなく消えている。
代わりにそこへ置かれていたのは、小さな花柄のベビーチェアだった。
淡い色の花が散りばめられた、いかにも幼児向けの椅子である。前には小さなテーブルまで取り付けられ、全体的に丸みを帯びた可愛らしい造りをしていた。
どう考えても、トンダには似合わない。
あまりにも似合わなさすぎて、一瞬、事務所全体の空気までおかしくなったように見えた。
トンダは無言で椅子を見下ろした。
次にキョウコを見る。
「……おい」
「何?」
「戻せ」
「やだ」
「何でだよ」
「優しさを学ぶまで、その椅子ね」
「学習方法がおかしいだろ」
「じゃあ、子豚ちゃんに優しくできる?」
キョウコがヨシエを指差す。
トンダはゆっくりとヨシエを見た。
ヨシエも負けじと睨み返す。
数秒の沈黙。
「無理」
「即答すんな!」
ヨシエが怒鳴った。
キョウコは耐えきれなくなったように腹を抱えて笑い始める。
トンダは露骨に嫌そうな顔をしながら、それでも他に座る椅子がないのか、仕方なく花柄のベビーチェアへ腰を下ろした。
当然、身体の大きさとまるで合っていない。
座った途端に膝が不自然なほど高く持ち上がり、前に付いた小さなテーブルが腹へ食い込む。大人の男が無理矢理幼児用の椅子へ収まっている姿は、ひどく滑稽だった。
「……狭い」
「似合ってるよ、ダーリン」
「うるせえ」
「仲間に優しくできない人が言っても説得力ないよー」
「戻せ」
「やだ」
ヨシエは、その光景を横目で見た。
口元が勝手に緩みそうになる。
慌てて唇を引き結んだ。
こんな男を見て笑ったと思われるのは癪だった。
ましてや、ほんの少し前に自分がこの男を好きになったと気づいたばかりなのだ。ここで笑えば、キョウコに何を言われるかわかったものではない。
それでも、少しだけ肩の力が抜けた。
変な場所だと思った。
キョウコは、常識外れに強い。
人を天井へ張りつけたり、口にチャックを生やしたり、椅子をベビーチェアへ変えたりする。何を考えているのかよくわからず、ふざけてばかりいるように見える。
そのくせ、人の感情だけは妙に鋭く見抜く。
トンダは口が悪い。愛想もない。
年下のくせに偉そうで、出会ったその日から自分を豚呼ばわりする。
優しい言葉などほとんど口にしない。
それでも、危険になれば助けた。失敗しても追い出さなかった。
次もヨシエがここにいることを、当然のこととして受け入れていた。
そして、この事務所そのものもひどいものだった。
狭い。古い。
棚には書類が詰め込まれ、入りきらないファイルは床に積まれている。
壁のホワイトボードは傾いているし、来客用のソファも安物だった。
ヨシエが就職活動で訪れた企業の、磨かれた床や整然と並ぶ机、受付嬢のいる綺麗なオフィスとは比べものにならないほどしょぼい。
まともな企業とは到底呼べない。
普通の会社ではなかった。
普通の上司もいない。普通の同僚もいない。
――けれど。
ヨシエは、ふと事務所の中を見回した。
使い込まれた机。壁際の安物のソファ。少し傾いたホワイトボード。
その下で、花柄のベビーチェアに無理矢理身体を収め、不機嫌そうにしているトンダ。
その横で、そんな夫を見て楽しそうに笑っているキョウコ。
滅茶苦茶だった。
自分がこれまで想像してきた職場とは、何一つとして似ていなかった。
なのに、不思議と息苦しくなかった。
学校にいたときのように、いつ能力を暴発させるのかと監視されている感じがしない。
家にいたときのように、余計なことをするなと遠巻きにされることもない。
企業の面接室で感じたような、少しでも間違えれば排除されるという緊張もなかった。
キョウコも普通ではない。トンダも普通ではない。事務所だって、どう見ても普通ではない。
だからなのかもしれない。
ここでは、自分だけが異物ではなかった。
そのことに気づいたとき、ヨシエは胸の奥に、これまであまり知らなかった感覚が生まれているのを感じた。
安心、と呼ぶにはまだ抵抗があった。
居心地がいい、と認めるのも癪だった。
それでも、
――ここにいてもいいのかもしれない。
そう思えたのは、初めてだった。
その日から、カモイヨシエは特殊対策室に居座った。




