第7話 仲間を失うのは嫌なのよ
カマタリョウガが特殊対策室に戻ってから、しばらくが経った。
季節は、いつの間にか秋へ移っていた。真夏のまとわりつくような熱気はすっかり薄れ、朝晩の風には、肌を撫でるような冷たさが混じるようになった。雑居ビルの窓から見える街路樹も、濃い緑の中に黄色や赤を少しずつ滲ませ始めている。
日が落ちるのも早くなった。少し前までならまだ明るかった時刻にも、今ではビルの隙間へ夜の色が降り始めている。窓の外が暗くなるにつれ、事務所を照らす蛍光灯の白さだけが、妙にくっきりと浮かび上がるようになった。
特殊対策室は、相変わらずだった。
いや、正確には、少しだけ変わっていた。
カマタが戻ってきたことで、事務所は以前よりも騒がしくなった。
何かにつけてカモイと口論になり、モテギの大声に顔をしかめ、ナガヤマの陰気な一言にも律儀に言い返す。
そんなやり取りが日常的に飛び交うようになり、もともと狭かった事務所には、以前よりも人の気配が濃く満ちているように感じられた。
そして、変わったのは事務所の空気だけではない。
カマタ自身も、確かに変わっていた。
彼は宣言した通り、どのような事件であっても、犯人を殺さず、生きたまま確保することを徹底していた。
もちろん、マキバのように相手の心の声を聞き、その苦しみや事情へ寄り添うわけではない。犯人の過去を知ろうとも、その人生そのものを救おうともしていなかった。
カマタのやり方は、もっと乱暴で、もっと実務的だった。
姿を透明にして相手の死角へ回り込み、武器を持っているなら使われる前に叩き落とす。刃を突きつける時も急所は外し、暴れれば関節を極め、逃げようとすれば先回りして進路を塞ぐ。それでも抵抗を続ける相手は、動けなくなるまで追い込み、必要なら気絶させて無力化する。
決して優しいやり方ではない。捕らえられた者が、無傷で済むとも限らなかった。
それでも、殺さなかった。必要以上に傷つけることも避けていた。
以前のカマタなら、少しでも危険だと判断すれば、迷うことなく刃を心臓へ突き立てていただろう。相手がその後どうなるかなど、考える必要すらないと思っていた。
だが、今は違う。
殺さずに制圧できる方法があるなら、まずそれを選ぶ。相手が抵抗しても、命を奪う以外の手段を探す。
穏やかになったわけではない。人に優しくなったわけでもない。やり方そのものは相変わらず荒っぽく、現場によっては犯人の方が悲鳴を上げることさえある。
それでも、越えないと決めた一線だけは守っていた。
カマタはカマタなりのやり方で、殺さないことを選び続けていた。
その姿を見るたび、マキバは時折、不思議な気持ちになった。
あの公園で、カマタはマキバを殴り、蹴り、怒鳴った。
動物愛護を理由にしていたのは嘘だったと、自分の口で認めた。
弱い特殊能力者など殺したくて仕方がないと吐き捨て、トンダを殺したいという気持ちも正義感などではなく、ただの私怨なのだと叫んだ。
あの時の言葉に、嘘はなかったのだと思う。
取り繕っていたものをすべて剥ぎ取り、怒りも憎しみも醜さも、そのまま吐き出した言葉だった。少なくとも、あの瞬間のカマタにとっては、それが紛れもない本音だったのだろう。
けれど、それだけがカマタリョウガという人間のすべてでもなかった。
彼は特殊対策室へ戻ってきた。
トンダへの憎しみが消えたわけでもなければ、弱い能力者に対する考え方が一夜にして変わったわけでもない。それでも今は、目の前の相手を殺さずに済ませる方法を、自分なりに探し続けている。
たとえ殺したいと思っていても、殺さないことを選ぶ。
たとえ心の底から誰かを嫌っていても、その感情のまま行動するとは限らない。
人間は、自分で口にした本音だけでできているわけではないのかもしれない。
怒りの中で吐き出した言葉も、その人間の一部ではある。醜い感情も、憎しみも、間違いなく本人の中に存在している。
けれど、人はその感情に従うこともできれば、逆らうこともできる。
昨日まで当然だと思っていたことを、今日になって選び直すこともできる。
何を感じているかだけではなく、その感情を抱えたうえで何を選ぶのか。それもまた、その人間を形作るものなのかもしれない。
マキバは最近、そんなことを考えるようになっていた。
しかし、そんなカマタの変化を、まったく歓迎していない人間もいた。
「生ぬるいわね」
カモイヨシエは自分の席で頬杖をつき、露骨に不満そうな声を漏らした。
話題になっているのは、昨日の現場だった。
特殊能力を使って宝石店を襲った強盗を、カマタが殺さずに取り押さえたのである。
犯人は能力を使って店内を荒らし、従業員にも怪我を負わせていた。それでもカマタは急所を避けて制圧し、最後まで命を奪わなかった。
「相手は宝石店を襲ったのよ。しかも能力者。普通に殺せばよかったじゃない」
「殺す必要がなかった」
カマタは椅子の背にもたれたまま、面倒くさそうに答えた。
「拘束できるなら拘束する。それだけです」
「甘いわ。そういう奴がまた同じことするのよ」
「再犯するかどうかは、司法と支援機関の仕事でしょ。オレたちの仕事は、その場を収めて引き渡すところまでです」
カモイの眉がぴくりと動いた。
「なに急にまともぶってるの?」
「まともぶってるんじゃなくて、まともになろうとしてるんです」
カマタは平然と言った。
一瞬だけ、カモイが言葉に詰まった。
言い返す言葉を探しているらしく、口を開きかけては閉じる。
その横では、そんな二人のやり取りなど気にも留めず、なぜかモテギハナがスクワットをしていた。
もちろん、業務とは一切関係がない。
誰かに命じられたわけでもないのに、背筋を伸ばし、両手を前へ突き出して、一定のリズムで腰を落としては立ち上がっている。
「皆さん、今日も元気で何よりです!」
スクワットを続けながら、モテギは朗らかに言った。
「モテギさんは毎日元気すぎるんですよ……」
パソコンへ向かっていたナガヤマミナミが、画面から目を離さないまま小さく呟く。
「ありがとうございます!」
「褒めてません……」
「ご指摘ありがとうございます!」
「それも褒めてません……」
ナガヤマは深いため息をつくと、もう相手にするのを諦めたように、再び画面へ視線を戻した。
いつもの光景だった。
カモイとカマタが言い争い、そのすぐそばでモテギが意味もなく身体を鍛え、ナガヤマがぼそぼそと毒を吐く。
異常で、騒がしく、くだらない。
少し前のマキバなら、まともな職場ではないと思っただろう。
いや、今でもまともだとは思っていない。
それでも最近は、この騒がしさを聞いていると、不思議と胸の奥が落ち着いた。
誰かが怒鳴っている。誰かが呆れている。誰かが意味のわからないことをしている。
そんな声が事務所の中を飛び交っているだけで、そこに人がいることを実感できる。
その感覚に気づくたび、マキバは少し戸惑った。
ここは、人を殺すことに慣れた者たちの集まりだ。
倫理観はどこか歪んでいる。言動は過激で、一般的な意味でまともとは言いがたい人間ばかりだった。
つい最近まで、人の命を奪うことを当然のように受け入れていた者が、今は殺さずに済ませる方法を覚えようとしている。
弱い者を平然と侮辱する人間がいる一方で、その相手が困れば何だかんだと手を貸すこともある。
善人なのか、悪人なのか。
そんな単純な言葉では割り切れない者たちが、この狭い事務所に集まっている。
そしてマキバ自身も、少しずつ、その中へ馴染み始めていた。
以前なら眉をひそめていたような騒動にも慣れ、誰かの声が聞こえれば、ここに戻ってきたのだと思うようになっている。
それは、少し怖かった。
自分までこの場所の歪さに慣れ、その価値観に染まっていくのではないかという不安は、今も消えていない。
けれど同時に、この場所にいることで救われている自分も、確かにいた。
そして、特殊対策室の朝には、もうひとつ、いつの間にか欠かせない習慣になっているものがあった。
「ところで、トンダさん」
カモイが椅子から立ち上がった。
その声を聞いた瞬間、事務所の空気がほんのわずかに変わった。
マキバは手元の書類から顔を上げ、カマタは椅子の背にもたれたまま視線だけを向ける。パソコンに向かっていたナガヤマも、キーボードを打つ手を止めた。
誰も驚いてはいない。
むしろ全員の顔には、「今日も始まった」とでも言いたげな諦めと慣れが浮かんでいた。
トンダユウイチも同じだった。
机の上に広げていた書類から静かに顔を上げる。
「はい」
カモイは一度だけ息を整えた。
そして、それまでの悪態が嘘だったかのように背筋を伸ばし、妙に真剣な表情になる。
「結婚してください」
「嫌です」
間髪を入れない即答だった。
「今日も冷たい!」
カモイが机を叩く。
「毎日同じ提案をされていますから」
「毎日同じ気持ちで言ってるのよ!」
「毎日同じ気持ちで断っています」
「まるで夫婦みたいな会話ね」
「断じて違います」
最後の否定だけは、先ほどまでよりわずかに強かった。
カモイは悔しそうに歯を食いしばる。
当然、このやり取りも今日が初めてではない。カモイが求婚し、トンダが即座に断り、それでもカモイが食い下がる。いつから始まったのかはわからないが、今では朝の挨拶とほとんど同じ扱いになっていた。
その様子を眺めながら、マキバは思わず苦笑した。
「本当に懲りないというか、ガッツがあるというか……すごいね、カモイさんは」
「カモイさんの求婚は、もはやウチのルーティンだな」
カマタが淡々と言った。
「アレがないと、一日が始まった気がしない」
「黙れ、偽善者コンビ!」
カモイが即座に怒鳴った。
突然まとめて罵倒され、マキバは一度目を瞬かせる。それから隣のカマタへ顔を向けた。
「コンビ扱いされたね」
カマタは露骨に顔をしかめた。
「不本意だ」
「僕も少し不本意だよ」
「お前は光栄に思え」
「偽善者扱いを?」
「オレとコンビ扱いされたことをだ」
「そっちですか」
マキバが苦笑する。
カマタは腕を組み、当然だと言わんばかりの顔をしていた。
そのやり取りを聞きながら、ヤマナシアズミがスマートフォンから目を離さないまま、ぼそりと言った。
「でも、逆にカモイさんって偽悪だよね」
事務所の空気が、一瞬だけ止まった。
カモイの肩がぴくりと動く。
数秒遅れて、彼女はゆっくりとヤマナシの方へ顔を向けた。
「……何?」
低い声だった。
明らかに、聞き流してはいけない種類の声音である。
だが、ヤマナシはまるで気づいていないかのように、スマートフォンの画面を眺めたまま続けた。
「悪ぶってるだけで、意外と優しいじゃん」
「はあ!?」
カモイの怒声が事務所中に響いた。
勢いよく立ち上がった拍子に、椅子が床を大きく擦る。
「誰が!?私が!?優しい!?」
「はい」
ヤマナシは平然と答えた。
その即答が、かえってカモイの神経を逆撫でしたらしい。
「どこをどう見たらそうなるのよ!」
「昨日もマチヤさんの書類、直してたし」
「あれはミスが残ってたら、後で私が迷惑するからよ!」
「ナガヤマが体調悪そうだった時、机に栄養ドリンク置いてたし」
パソコンに向かっていたナガヤマが、わずかに顔を上げる。
カモイは一瞬だけ言葉に詰まった。
だが、すぐに顔を背ける。
「目障りだっただけ!あんな死人みたいな顔で仕事されてたら気が散るのよ!」
ナガヤマの眉がわずかに寄ったが、何も言わなかった。
「モテギが暴走して机を壊した時も、怒りながら片づけ手伝ってたし」
「あれは邪魔だったから仕方なくやったの!」
「ほら」
そこでようやく、ヤマナシがスマートフォンから顔を上げた。
眠たげな目でカモイを見る。
「全部ちゃんと理由つけてるけど、結局手伝ってるじゃん」
「だから何よ!」
「やっぱり優しい」
カモイのこめかみに、目に見えて青筋が浮かんだ。
「だから偽悪」
「ヤマナシ!」
カモイが机を回り込むように一歩踏み出す。
その剣幕にも、ヤマナシはほとんど動じなかった。
「今この場で、その口を縫い合わせてやろうか!」
「お断りします」
ヤマナシは即答すると、何事もなかったかのように再びスマートフォンへ視線を戻した。
カモイだけが、その場に取り残されたように怒りで震えていた。
そんなやり取りの最中、事務所の電話が鳴った。
乾いた呼び出し音が響いた途端、それまで室内を満たしていた騒がしさがふっと途切れた。カモイの怒声も、ヤマナシの気の抜けた返事も止まり、全員の意識が自然と電話へ向く。
トンダが受話器を取った。
「はい、特殊対策室です」
たったそれだけで、事務所の空気が切り替わった。先ほどまでの冗談と罵倒と雑談に満ちた空気が消え、仕事の場に戻っていく。
トンダは相手の話を聞きながら短く応答し、いくつか確認を重ねた。表情はほとんど変わらない。だが、通話が続くにつれて声がわずかに低くなり、手元のメモへ簡潔に何かを書き留めていく。
やがて話を聞き終えると、受話器を静かに置いた。
「……仕事です」
全員の視線が、自然とトンダへ集まった。
「マキバくんとカモイさん。それから……ヤマナシさん。出動してください」
その瞬間、ヤマナシの動きがぴたりと止まった。
「え!?」
スマートフォンを手にしたまま顔を上げ、露骨に嫌そうな表情を浮かべる。
「私!?なんで!?」
「ヤマナシさんの能力が必要です」
マキバは隣にいるヤマナシへ目を向けた。
「ヤマナシさんの能力って……危機察知でしたよね?」
「うっすら嫌な予感がするだけの、役立たず能力だよ」
ヤマナシは間髪を入れずに吐き捨てた。
「そうでもありません」
トンダは机の上のメモへ一度視線を落とし、それから説明を始めた。
「今回の依頼は、百貨店に立てこもった特殊能力者の確保です。犯人が建物内に複数の爆発物を仕掛けたらしく、その捜索と処理もこちらに要請されています」
「爆弾……」
マキバの表情が引き締まった。
「はい。現在、客と従業員の避難はほぼ完了しています。ただ、避難確認が取れていない人がまだ数名いるそうです」
事務所の空気がさらに重くなる。
「警察の爆発物処理班も現場へ向かっていますが、犯人自身が起爆装置を所持している可能性が高い。慎重に動く必要はありますが、悠長に一つずつ探している余裕もありません」
トンダはそこで言葉を切り、ヤマナシを見た。
「そこで、ヤマナシさんの危機察知を使います」
「いやな予感しかしないんですけど」
「それが君の能力でしょう」
「そういう意味じゃないです」
ヤマナシが顔をしかめる。
トンダは構わず続けた。
「ヤマナシさんの危機察知で、まず爆弾がありそうな場所を絞り込む。カモイさんは、その周辺を捜索して処理してください。万が一、途中で爆発しても、あなたの重力操作なら爆風や破片の拡散をある程度抑えられるはずです」
「まあ、それくらいならできるわ」
カモイは平然と答えた。
「その間に、マキバくんは犯人のところへ向かい、説得を試みてください。可能なら起爆装置を手放させる。以上です」
トンダは三人を順番に見た。
「わかりましたか?」
「いやいやいや!」
ヤマナシは慌てて両手を振った。
「私、そんな都合よく爆弾の場所なんて当てられませんよ!危機察知って言っても、本当に何となくヤバいとか、そっちに行きたくないとか、その程度なんですから!」
声がいつもより少し早い。
「目を閉じたら爆弾の場所が見えるとか、そういう便利な能力じゃないんです!何階にあるとか、何メートル先とか、そんなの全然わかりませんよ!」
「でも、近づけば大体どの辺が危ないかはわかるでしょ?」
カモイが横から言った。
「そこまで絞れれば十分よ。後は私が探して処理する」
「そんな簡単に言わないでくださいよ」
「簡単とは言ってない。でも、やるのよ」
「失敗したら?」
「失敗しなければいい」
「根性論じゃん」
「根性は大事よ」
あまりにも迷いのない返答に、ヤマナシは心底嫌そうな顔をした。
普段の彼女なら、面倒なことを言われても適当に聞き流して終わる。仕事にも人間関係にもどこか一歩引いたところがあり、興味がないふりをすることで、余計な責任や厄介事から自分を遠ざけているようなところがあった。
だが、今は違った。
いつもの気だるさの奥から、不安がはっきりと顔を出している。
爆弾を見つけられなかったら、どうするのか。
自分が危険だと感じた場所を信じて進み、その感覚が間違っていたら、どうするのか。
そのせいで時間を失えば、取り残された人間が死ぬかもしれない。カモイやマキバまで、爆発に巻き込まれるかもしれない。
自分の曖昧な感覚ひとつに、誰かの命が乗る。
そのことが、ヤマナシには何より恐ろしいのだろう。
不安と恐怖。
そして、その奥にある、自分の能力に対する根深い不信。
それらが、いつになく強張った横顔にはっきりと滲んでいた。
マキバは、強張ったヤマナシの横顔をしばらく見つめていた。
何か気の利いたことを言えればいいのだが、彼女の不安を消せるような根拠など、自分にもない。危機察知の精度がどの程度なのか、今回の現場で本当に役に立つのかもわからなかった。
それでも、何も言わないまま送り出す気にはなれなかった。
少し迷った末、マキバはヤマナシのそばへ歩み寄る。
「ヤマナシさん」
「何?」
返事はいつも通り素っ気なかったが、声にはわずかな硬さが残っていた。
「大丈夫だよ」
ヤマナシの眉間に皺が寄る。
「何を根拠に?」
「君ならできる」
「だから、それが根拠になってないって」
もっともな指摘だった。
マキバ自身、それはわかっている。大丈夫だと言い切れる材料など何ひとつない。ヤマナシの能力は曖昧で、現場には爆弾があり、判断を間違えれば誰かが傷つくかもしれない。
「うん、そうだね」
マキバは素直に認めた。
「でも、僕はそう思う」
ヤマナシはじっとマキバを睨んだ。
いつものような棘はある。くだらないことを言うな、と言いたげな目でもある。
けれど、その視線には普段ほどの勢いがなかった。
「そういう無責任な励まし、嫌いなんだけど」
「ごめん」
マキバがすぐに謝ると、ヤマナシは何か言おうとして口を開き、結局そのまま閉じた。
「でも……」
やがて、ふっと視線を逸らす。
手の中のスマートフォンへ目を落とし、気まずそうに親指で画面の端を撫でた。わずかに口元が歪む。
「……ちょっとだけ、ありがたい」
聞き逃してしまいそうなほど、小さな声だった。
マキバは笑わなかった。からかうことも、改めて励ますこともしなかった。
ただ、小さく頷いた。
そのやり取りを見届けたトンダが、静かに片手を上げた。
「では、行きますよ」
指を鳴らす。
乾いた音が響いた次の瞬間、足元の感覚が消えた。
事務所の壁も、机も、蛍光灯も、一瞬で形を失う。
マキバの視界が、ぐるりと裏返った。
次の瞬間、マキバたちは現場に立っていた。
都内の繁華街に建つ大型百貨店。その正面一帯は、すでに日常から切り離されたような空間へ変わっていた。
平日とはいえ、普段なら買い物客や会社員、観光客が絶えず行き交う場所である。だが今は広い歩道の一部が規制線で封鎖され、その外側には避難してきた客や通行人たちが集まり、不安そうに百貨店を見上げていた。
道路脇には何台もの警察車両が並んでいる。赤色灯が絶え間なく明滅し、制服姿の警察官たちが慌ただしく行き交っていた。無線の声や指示を飛ばす怒鳴り声が飛び交い、さらにその外側には、すでに報道陣まで押しかけている。
テレビカメラが百貨店へ向けられ、記者が規制線の前から現場の状況を伝えていた。
それだけ周囲が騒がしいにもかかわらず、百貨店そのものは異様なほど静かだった。
正面入口は完全に封鎖されている。
普段なら客が絶えず出入りしている大きなガラス扉。その向こうには、照明を落とした薄暗い売り場が広がっていた。入口近くに並ぶ案内板も、季節物の商品を飾ったディスプレイも、その奥に整然と続く商品棚も、ほとんどいつも通りに見える。
ただ、人だけがいない。
そのことが、かえって不気味だった。
秋の澄んだ青空の下、巨大な百貨店だけが周囲の喧騒から取り残され、時間を止めたように沈黙している。
マキバたちの姿に気づき、一人の警察官が規制線の向こうから駆け寄ってきた。
「特殊対策室の方ですね」
息を切らしながら確認する警察官へ、カモイは面倒くさそうな顔を向ける。
「見ればわかるでしょ」
警察官が一瞬だけ言葉に詰まった。
「状況は?」
マキバがすぐに代わって尋ねる。
警察官は気を取り直し、手元の資料を確認しながら説明を始めた。
犯人は特殊能力者の男。
能力は、一度触れた電子機器を、一定時間だけ離れた場所から操作できるというものらしい。
それだけなら、戦闘向きの能力ではない。携帯電話や家電、防犯カメラ、電子錠などを遠隔で動かせる程度で、能力そのものに人間を直接傷つける力はなかった。
だが、使い方次第では話が変わる。
今回、男はその能力を爆発物と組み合わせていた。
「建物内の複数箇所に爆弾が仕掛けられています」
警察官の表情が険しくなる。
「正確な個数も、設置場所もまだ特定できていません。犯人は現在、上層階のイベントスペースに立てこもっています」
「起爆方法は?」
マキバが尋ねた。
「電子式の可能性が高いです。本人が遠隔操作できるよう細工していると考えられています」
つまり、爆弾そのものを発見しても安心はできない。
犯人が能力を使えば、離れた場所から起爆される危険がある。
しかも、どの爆弾とどの装置がつながっているのかさえ、現時点ではわかっていない。
「避難状況は?」
「大半の客と従業員は、すでに外へ出ています」
警察官はそこでわずかに声を落とした。
「ただ、避難確認が取れていない人が数名います」
マキバの表情が曇る。
「まだ中に?」
「その可能性があります。混乱の中で人数確認が完全にはできていません。トイレや倉庫、更衣室などへ逃げ込んだまま、身動きが取れなくなっている可能性もあります」
現在も警察が建物内の確認を進めているという。
しかし、どこに爆弾が仕掛けられているかわからない以上、大人数を投入することもできない。
人を探すために動けば、それだけ爆発に巻き込まれる人間を増やす危険もある。
目の前にそびえる百貨店を、マキバは改めて見上げた。
外から見れば、いつもと変わらない建物だった。
だが、その内部のどこかには、数も場所もわからない爆弾が隠されている。
そして、その中にはまだ、人が残っている。
「犯人から要求は?」
マキバが尋ねると、警察官は困ったように眉を寄せた。
「それが……かなり支離滅裂でして」
犯人は館内放送や警察との通信を通じて、さまざまな主張を繰り返しているらしい。
以前勤めていた会社を解雇されたことへの恨み。特殊能力者が社会から差別されているという怒り。自分を正当に評価しなかったメディアへの不満。警察や行政に対する敵意。
一つ一つを拾えば、それなりに意味のある不満なのだろう。だが、それらが整理されないまま次々と吐き出され、話すたびに要求の内容まで変わっているという。
「金を寄越せと言った直後に、元の職場の責任者を連れてこいと言ったり、テレビで自分の主張を流せと言ったかと思えば、今度は警察を全員撤退させろと言い出したり……」
警察官は疲れたように息を吐いた。
「本人も、何を条件にすれば立てこもりをやめるのか、整理できていないように見えます」
「いつものやつね」
カモイが鼻で笑った。
「弱くて、鬱屈して、社会に逆恨みして、最後に爆弾。芸がないわ」
「カモイさん」
マキバは静かに名前を呼んだ。
「今はやめましょう」
「はいはい」
カモイは悪びれる様子もなく肩をすくめた。
その隣で、ヤマナシは一言も発さず、百貨店を見上げていた。
事務所にいた時よりも、明らかに顔色が悪い。
唇をかすかに噛み、正面入口から上層階へゆっくりと視線を動かしている。建物の外観を見ているというより、その向こうにある何かを探ろうとしているようだった。
彼女の危機察知は、目に見えるものではない。
危険な場所が光って見えるわけでも、具体的な映像が浮かぶわけでもない。
ただ、近づきたくないと感じる。
理由もなく胸の奥がざわつき、身体のどこかが逃げろと訴えてくる。
その曖昧な感覚へ意識を向けているのだろう。
「ヤマナシさん」
マキバが声をかける。
少し間を置いて、ヤマナシが答えた。
「……もう嫌な感じする」
「どのあたり?」
ヤマナシは返事をせず、しばらく建物を見つめ続けた。
やがて、心底嫌そうに眉を寄せる。
「建物全体」
マキバも改めて百貨店を見上げた。
「それは……そうかもしれない」
「だから言ったじゃん」
ヤマナシは深いため息をついた。
「私の能力、こういう時に向いてないって」
百貨店を指差す。
「爆弾が何個もある。中には犯人もいる。避難できてない人もいる。そもそも、この建物に入ること自体が危ないでしょ」
「うん」
「嫌な予感しかしない場所に入って、その中から『特に嫌な予感がする場所を探せ』って言われても、無茶なんだよ……」
確かに、その通りだった。
危険が一つしかない場所なら、ヤマナシの能力は有効だろう。
一本道の先に罠がある。二つの部屋のうち片方だけが危険。そうした状況なら、漠然とした違和感でも十分な手掛かりになる。
だが、今回は違う。
爆弾がある。
武装した犯人がいる。
取り残された人間もいる。
いつ起爆されてもおかしくない以上、建物そのものが巨大な危険地帯になっている。
危険の中から、さらに危険な場所だけを選び取る。
それは、彼女の能力にとって決して簡単な仕事ではなかった。
カモイが、そんなヤマナシの肩を軽く叩いた。
「泣き言は中で聞くわ」
ヤマナシが嫌そうに振り向く。
「もっと優しく言えないんですか」
「言えない」
カモイは即答した。
「でしょうね」
ヤマナシはもう反論する気も失せたのか、諦めたように肩を落とした。
三人は、封鎖された正面入口から百貨店の中へ足を踏み入れた。
ガラス扉をくぐった瞬間、背後にあった外の喧騒が急に遠のいた。
普段なら客の話し声や店内放送、売り場ごとに流れる軽快な音楽で満たされているはずの一階フロアは、不気味なほど静まり返っていた。照明もすべてが点いているわけではなく、ところどころ消えた天井灯のせいで、明るい場所と薄暗い場所がまだらに入り混じっている。
化粧品売り場では、ガラス製の陳列棚がいくつか割れていた。砕けた破片が床に散らばり、その間には口紅やファンデーションの箱が転がっている。避難する途中で誰かがぶつかったのだろう。倒れた商品ラックが通路へ斜めに突き出し、割れた香水瓶から漏れた甘く濃い匂いが空気に残っていた。
人の姿がないせいか、その華やかな香りさえ妙に不穏だった。
案内板は斜めに倒れ、エスカレーターも停止している。吹き抜けの上階まで見渡せるが、動く人影はどこにもない。
ただ、どこか遠くで警報音だけが一定の間隔で鳴り続けていた。
その電子音が広い店内を反響し、吹き抜けを通って何度も戻ってくる。そのたびに、巨大な建物そのものが低く呻いているように聞こえた。
「ヤマナシさん」
マキバが隣を歩くヤマナシへ声をかけた。
「無理しないで」
「無理しなきゃ、来た意味ないでしょ」
ヤマナシはそう答えたものの、声にはいつもの気だるさがなかった。
小さく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
それから足を止め、目を細めながら周囲を見渡した。
ヤマナシの危機察知は、何かが目に見える能力ではない。
危険な場所だけが光って見えるわけでもなければ、頭の中に地図が浮かぶわけでもない。そこから声や音が聞こえてくるわけでもなかった。
ただ、感じる。
理由もないのに胸の奥がざわつく。そちらへ進みたくないと思う。何も起きていないはずなのに、身体の内側から「近づくな」と警告されているような感覚が生まれる。
直感に似ているが、単なる勘とも違う。
ヤマナシ自身にも、それが何なのかを正確に説明することはできなかった。
「……右」
しばらくして、彼女が小さく呟いた。
「右?」
「あっち」
ヤマナシが指差したのは、婦人服売り場の奥だった。
「なんか……嫌な感じが濃い」
確信がある言い方ではない。
それでもカモイは迷わなかった。
「こっちね」
三人は婦人服売り場へ向かった。
無人のマネキンが並ぶ通路を抜け、奥にある試着室へ近づく。逃げる途中で放置されたらしい服が床に落ち、ハンガーが何本か散らばっていた。
カモイは試着室の扉を一つずつ開けていく。
中を確認する。
次。
また次。
「ない」
短く言った。
ヤマナシはその場で足を止め、ゆっくりと周囲を見回した。
「もう少し奥……」
眉間に皺が寄る。
「いや、違う」
目を閉じかけ、わずかに首を傾げる。
「下かも」
「下?」
カモイが聞き返した。
「床の近く」
ヤマナシは売り場に並ぶ什器へ視線を動かした。
「あの辺。棚の下……たぶん」
額には、いつの間にか薄く汗が滲んでいた。
その「たぶん」に、どれほどの責任が乗っているのか。
本人が一番よくわかっているのだろう。
カモイは何も言わず、ヤマナシが示した大型の什器へ右手を向けた。
次の瞬間、重量のある棚が、音もなく床から浮き上がった。
服や小物を載せたまま、まるで発泡スチロールでできているかのように静かに持ち上がる。
その下に、何かがあった。
床とのわずかな隙間へ押し込むように隠された、小さな箱型の装置。
黒いケース。むき出しになった数本の配線。
側面では、小さな赤いランプが規則正しく点滅している。
「ビンゴ」
カモイの表情から、先ほどまでの軽さが消えた。
浮かせていた什器を少し横へずらし、爆弾へ右手を向ける。
空気が、わずかに震えた。
目に見える変化はない。
それでもマキバには、その場だけ空間の密度が変わったように感じられた。
爆弾の周囲へ、強烈な重力が集中している。
外へ広がろうとする力を、さらに強い力で内側へ押し込める。
爆風も、破片も、熱も、すべてを逃がさないための、見えない檻。
カモイが指先へ力を込めた。
直後、装置の内部で何かが破裂した。
ぼん、と腹に響くような低い音が鳴る。
マキバは反射的に身構えた。
だが、爆風はほとんど広がらなかった。
黒いケースの一部が内側へひしゃげ、隙間から細い煙が立ち上っただけだった。周囲の商品棚も、服も、ほとんど動いていない。
カモイは数秒だけ装置を見つめ、安全を確認すると手を下ろした。
「ひとつ」
そして、何事もなかったかのようにヤマナシを見る。
「次」
ヤマナシは唇を噛み、もう一度意識を集中させた。
「上……」
ゆっくりと顔を上げる。
「二階……いや、三階かも」
自信なさそうに目を細め、吹き抜けの上方を見つめた。
「でも、階段の方が嫌な感じする」
「行くわよ」
カモイは迷わず歩き出した。
三人は停止したエスカレーターを横目に階段へ向かい、そのまま上の階へ進んだ。
それからも、ヤマナシの曖昧な感覚を頼りに、百貨店の中を探し回った。
階段の裏。
子ども服売り場に並ぶ、色とりどりのぬいぐるみの棚。
従業員用通路の奥にあるロッカー。
レストラン街の端に置かれた、大きな植木鉢の裏。
胸の奥に強い違和感が生まれるたび、ヤマナシが場所を示し、カモイが周囲を確認する。
実際に爆弾が見つかることもあった。
ぬいぐるみの奥へ押し込まれた小型の装置。ロッカーの底へ貼りつけられた黒い箱。目立たない場所に隠されたそれらを、カモイは一つずつ重力で押さえ込み、処理していった。
だが、ヤマナシの感覚が常に正しいわけではなかった。
「ここ……だと思う」
そう言って立ち止まった場所に、何もないこともある。
棚を動かす。
ロッカーを一つずつ開ける。
段ボールを退かし、物陰を覗き込む。
それでも、爆弾は見つからない。
「……違う」
そんな空振りが、一度ではなかった。
調べている間にも時間は過ぎていく。
どこかに、まだ別の爆弾が残っているかもしれない。犯人がいつ起爆に踏み切るかもわからない。
何も見つからない時間が長くなるほど、ヤマナシの表情には焦りが濃くなっていった。
「ごめん……違うかも」
また一か所、何も見つからないまま捜索を終えたところで、ヤマナシが俯いた。
「謝るな」
カモイが短く言った。
「でも……」
「違ったら、次を探す。それだけよ」
ヤマナシが顔を上げる。
「でも、その間にも時間が……」
「だからって黙ったら、もっと時間を食うでしょうが」
カモイは苛立ったように言った。
口調だけを聞けば叱っているようにも聞こえる。
だが、その苛立ちはヤマナシへ向けられたものではなかった。少なくとも、彼女の失敗を責めているわけではない。
「アンタが何も言わなかったら、こっちは手当たり次第に探すしかないの。アンタが感じたことを言ってくれれば、それだけでも探す範囲を絞れる」
「でも、間違ってたら……」
「間違ってるかどうかは、私が確かめる」
カモイはきっぱりと言った。
「アンタの仕事は、感じたことを言うところまで。それを確かめて処理するのは私の仕事よ」
ヤマナシが黙ってカモイを見る。
「自信がなくても言いなさい。合ってたら処理する。違ってたら次を探す。それだけ」
カモイはわずかに眉を寄せた。
「だから、勝手に止まるな」
ヤマナシは少しだけ目を見開いた。
乱暴な言い方だった。
慰めてもいないし、「大丈夫」と無責任に励ましているわけでもない。
ただ、ヤマナシ一人に責任を負わせるつもりはないのだと、その言葉ははっきり示していた。
しばらく黙った後、ヤマナシは一度だけ深く息を吐いた。
先ほどまで強張っていた肩から、ほんの少し力が抜ける。
「……わかりました」
そしてもう一度、周囲へ意識を向けた。
マキバは途中でカモイとヤマナシに別れを告げ、一人で上層階へ向かった。
停止したエスカレーターを横目に、非常階段を上っていく。
階を重ねるごとに、犯人の心の声が少しずつ鮮明になっていった。
怒り。恐怖。焦り。憎しみ。
そして、そのすべてが絡まり合った末に生まれた、自分でも何をしたいのかわからなくなっている混乱。
――殺してやる。
――いや、死にたくない。
――見ろ。俺を見ろ。
――どうせ誰も見ない。
――爆発させれば、嫌でも見る。
――でも怖い。
――誰か止めてくれ。
互いに矛盾する言葉が、濁流のように次々と押し寄せてくる。
誰かを憎み、傷つけたいほど怒っている。
けれど、その怒り以上に、自分がこれから何をしてしまうのかを恐れている。
爆弾を仕掛け、起爆装置まで手にしている。それでも心の奥では、本当に人を殺してしまうことを怖がっていた。
自分からここまで来たはずなのに、誰かに止めてほしいと願っている。
その矛盾した声を拾いながら、マキバは慎重に階段を上った。
――急いではいけない。
相手は極度に興奮している。こちらの足音ひとつ、姿を見せるタイミングひとつで、何をするかわからない。
やがて上層階へ辿り着くと、非常階段の扉の向こうに、イベントスペースへ続く通路が見えた。
そこから先は、下の階以上に静かだった。
催事を告知するポスターが壁に並び、入口には華やかな装飾が残っている。それなのに、人の気配だけが消えている。
マキバは足音を抑えながら進み、開け放たれたイベントスペースの入口で立ち止まった。
中には、展示用のパネルや折り畳み式の椅子が乱雑に散らばっていた。
催事の最中に避難が始まったのだろう。
床にはパンフレットや紙袋、誰かが落とした買い物袋まで残されている。空調の風が通るたび、薄い紙がかさりとかすかな音を立てた。
その広い空間の中央に、一人の男が立っていた。
三十代前半ほどに見える。
痩せた身体に、乱れた髪。頬はこけ、目の下には濃い隈が浮かんでいた。服装そのものはごく普通だったが、その姿には何日もまともに眠っていないような疲労と荒れた気配が滲んでいる。
片手には、小型の電子端末が握られていた。
形状から見て、おそらく起爆装置だ。
男の指は、その表面へ食い込むほど強く端末を握り締めている。
少し離れた場所には、百貨店の従業員らしい男女が二人、床に座らされていた。
二人とも顔から血の気を失っている。
肩を寄せ合うようにして身を縮め、男の様子を窺っていた。
少なくとも、目立った怪我はないようだった。
マキバはそのことだけを確認すると、改めて男へ視線を戻した。
男はマキバの姿を認めた瞬間、反射的に端末を握った手を跳ね上げた。
「来るな!」
声が裏返っていた。
怒鳴っているというより、怯えた人間が必死に相手を遠ざけようとしている声だった。
マキバはすぐに足を止めた。
「止まります」
刺激しないよう、ゆっくりと両手を上げる。
「特殊対策室のマキバです」
「殺し屋か!」
「違います」
マキバは男から視線を逸らさず、できるだけ穏やかな声で答えた。
「あなたの話を聞きに来ました」
「嘘だ!」
男の手に力が入った。
起爆装置らしき端末が、ぎしりと音を立てそうなほど強く握り締められる。
マキバの喉が小さく鳴った。
爆弾の処理は、まだ終わっていない。
ここで男を不用意に刺激すれば、建物のどこかで爆発が起きるかもしれない。目の前にいる二人の従業員だけではない。別行動をしているカモイやヤマナシまで巻き込まれる可能性がある。
失敗はできない。
けれど、その緊張を顔に出せば、男はさらに追い詰められる。
マキバは一度だけ静かに息を吸った。
「あなたは、本当は爆発させたいわけじゃない」
男の眉がぴくりと動く。
「本当は、誰かに見てほしかった」
「わかったようなことを言うな」
「全部わかっているとは言いません」
マキバは声を荒らげなかった。
「でも、聞こえます」
「……何が?」
「あなたが怖がっていること」
男の呼吸が、目に見えて荒くなった。
起爆装置を握る指先が震えている。
怒りを向けられたからではない。
隠していたものを言い当てられたことに、動揺している。
マキバは慎重に言葉を選んだ。
「自分に能力があるとわかった時、最初は周りも面白がった」
男の表情が固まる。
「珍しいとか、便利だとか言われた。ちょっとやってみろって頼まれることもあった」
男は何も答えない。
けれど、心の声だけが大きく揺れた。
「でも、実際にはそれほど強い能力じゃなかった。電子機器を少し遠隔操作できるだけ。便利だから頼られることはあっても、それで評価されるわけじゃなかった」
「……」
「むしろ、何か機械のトラブルが起きるたびに疑われた」
男の目が揺れる。
「自分は何もしていないのに。能力者だから、それだけで」
「黙れ」
低い声だった。
マキバはそれでも続けた。
「会社でも――」
「黙れ」
「解雇された」
「黙れ!」
男の声が大きく跳ねた。
イベントスペースの壁に反響し、床に座らされていた従業員たちがびくりと身体を震わせる。
男の目には、いつの間にか涙が滲んでいた。
「俺はちゃんと働いてた!」
「はい」
「遅刻だってほとんどしなかった!言われた仕事だってやった!」
言葉が止まらなくなる。
「あいつらが困ってたら、能力だって使って助けてやった!機械が動かなくなった時も、誰より先に呼ばれて、直せることは全部やった!」
「はい」
「なのに、あいつらは……!」
男の声が震えた。
握り締めた起爆装置も、小刻みに揺れている。
「何か起きるたび俺を見るんだよ。俺が壊したんじゃないかって。俺が何かしたんじゃないかって……!」
怒りだけではなかった。
悔しさ。惨めさ。疑われ続けた屈辱。
どれだけ真面目に働いても、自分自身ではなく「能力者」としてしか見てもらえなかった苦しさ。
長い間、誰にも言えずに押し込めていた言葉が、堰を切ったように次々と溢れ出していた。
「悔しかったんですね」
「悔しいなんてもんじゃない!」
「はい」
「俺は危険物じゃない!」
男は、胸の奥に溜め込んでいたものを吐き出すように叫んだ。
「化け物でもない!ただ、普通に働きたかっただけだ!」
マキバはゆっくりと頷いた。
「そうですね」
「そうですね、じゃねえよ!」
「すみません」
「謝るな!」
「はい」
男は荒い呼吸を繰り返しながら、マキバを睨みつけた。
怒鳴れば怒鳴るほど、自分でも何に怒っているのかわからなくなっているようだった。
会社に対してなのか。
自分を疑った同僚たちに対してなのか。
特殊能力者というだけで距離を置いた社会に対してなのか。
それとも、ここまで来てしまった自分自身に対してなのか。
心の声は、いくつもの感情が絡まり合っていた。
男は、たぶんマキバに言い返してほしかった。
――そんなものは逆恨みだ。
――お前が悪いのだ。
――危険な能力者は排除されて当然だ。
そう言われれば、目の前の相手を敵だと思える。
憎む理由ができる。
怒りをぶつける先が、はっきりする。
けれど、マキバは反論しなかった。
正論も説教も口にしない。
ただ、男の言葉を聞いていた。
そのせいで、行き場を失った怒りだけが、少しずつ勢いを失っていく。
マキバは一歩も近づかなかった。
距離を保ったまま、できるだけ静かな声で言う。
「爆発させたら、あなたの言葉は届かなくなります」
男の目がわずかに動いた。
「……」
「ニュースでは、危険な特殊能力者が百貨店に爆弾を仕掛けて、大勢を巻き込んだ。それだけになります」
男の顔が強張る。
マキバは続けた。
「あなたがどうしてここまで追い詰められたのか。何が悔しかったのか。どんなふうに疑われてきたのか。どうして普通に働きたかっただけなのに、こんなところまで来てしまったのか」
一度、言葉を切る。
「爆発させたら、そういう話は全部消えます」
男は何も言わなかった。
ただ、起爆装置を握る指だけが小さく震えている。
「残るのは、『危険な特殊能力者が事件を起こした』という事実だけです」
「じゃあ……」
男の声が掠れた。
「じゃあ、どうしろって言うんだ!」
先ほどまでの怒鳴り声とは違っていた。
怒りというより、行き場を失った人間の叫びに近かった。
「今、話してください」
「誰に?」
「僕に」
「お前に話して何になる!」
マキバは少しだけ間を置いた。
「何かがすぐに変わるとは言えません」
嘘をついて安心させるつもりはなかった。
「あなたの会社が間違っていたのか、これから何ができるのか、僕にはまだわかりません」
それでも、男から視線は逸らさない。
「でも、少なくとも僕は聞きます」
男は黙った。
呼吸はまだ荒い。目にも涙が残っている。
それでも、起爆装置を握り締めていた指から、ほんの少しだけ力が抜けた。
その時だった。
耳につけた小型通信機から、微かなノイズとともにカモイの声が届いた。
『七つ目、処理完了』
短く、いつも通り迷いのない声だった。
続いて、少し間を置いてヤマナシの声が聞こえる。
『たぶん、これで全部……だと思う』
最後の一言だけが、ひどく頼りなかった。
――だと思う。
確信ではない。
ヤマナシの危機察知は、最初から正確な位置や数まで教えてくれる能力ではなかった。七つ見つけたからといって、それですべてだという保証はどこにもない。
まだ別の爆弾が残っているかもしれない。
見つけられていない装置が、どこかで起爆の瞬間を待っている可能性もある。
マキバは一瞬だけ目を閉じた。
胸の奥に、不安が広がる。
けれど、ここでその不安に飲まれるわけにはいかなかった。
ヤマナシは、自分にできる限りのことをした。
カモイも、その感覚を頼りに一つずつ爆弾を処理してきた。
二人がそう言うのなら、今は信じるしかない。
そして、目の前にいる男のことも。
ここまで追い詰められ、怒りと恐怖の中で爆弾まで仕掛けた。それでも心の奥では、誰かに止めてほしいと願っていた男が、最後の一線を越えないことを信じる。
マキバは再び目を開いた。
「スイッチを置いてください」
できるだけ静かに、けれど曖昧にならない声で言った。
「今なら、まだ誰も死んでいません」
男の身体が震えた。
握られた端末も、その震えに合わせて小刻みに揺れている。
指先にはまだ力が残っていた。
押そうと思えば、押せる。
マキバは動かなかった。
近づかない。急かさない。
ただ、男の判断を待った。
長い沈黙が流れた。
イベントスペースには、男の荒い呼吸だけが響いている。
床に座らされた二人の従業員も、身じろぎひとつしない。
数秒だったのか、それとももっと長かったのか。
マキバにはわからなかった。
やがて、男の指から少しずつ力が抜けていく。
強く握り締められていた手が、ゆっくりと開いた。
小型端末が掌から滑り落ちる。
硬い床へぶつかり、からん、と乾いた軽い音を立てた。
その音が、静まり返った空間に妙にはっきりと響いた。
男はもう、それを拾おうとはしなかった。
マキバはしばらく端末を見つめ、それからようやく、張りつめていた息をゆっくりと吐き出した。
肩から、わずかに力が抜ける。
――事件は終わった。
そう思った。
その直後だった。
下の階から、腹の底まで震わせるような爆音が響いた。
床が大きく揺れ、イベントスペース全体が一瞬だけ跳ねたように感じられた。天井から細かな埃が降り、残されていた什器が軋む。積み重ねられていたパンフレットが崩れ、ばらばらと床へ散った。
マキバの心臓が大きく跳ねる。
「何だ!?」
犯人の男も目を見開き、床に落とした起爆装置へ反射的に視線を向けた。
その表情に浮かんでいたのは、驚きだった。
少なくとも、今の爆発を自分で起こしたようには見えない。
だが、マキバにはそれを考えている余裕はなかった。
耳につけた通信機から激しいノイズが走る。
その向こうで、鋭い叫び声が響いた。
『ヤマナシ!』
カモイの声だった。
普段の苛立った声とも、怒鳴り声とも違う。
切迫した響きだった。
「カモイさん?」
マキバが呼びかける。
返事はない。
「カモイさん!」
もう一度呼ぶ。
やはり、ノイズしか返ってこなかった。
マキバは踵を返し、その場を飛び出した。
通路を駆け抜け、非常階段へ飛び込む。
一段飛ばしで階段を下りていく途中、爆発音を聞きつけて上がってきた警察官たちとすれ違った。
「どこですか!?」
「三階です!」
誰かが叫んだ。
マキバは返事をする間も惜しみ、そのまま駆け下りる。
階を下るにつれて、空気の匂いが変わっていった。
焦げ臭い。
煙と火薬。
焼けた布や樹脂の、鼻の奥にまとわりつくような臭い。
その匂いが濃くなるほど、胸の中の嫌な予感も強くなっていく。
手すりを掴みながら勢いよく階段を下り、三階の扉を押し開ける。
婦人服売り場の奥から、薄い灰色の煙が流れていた。
マキバは足を止める。
そこだけ、景色が変わっていた。
先ほどまで整然と並んでいたはずの棚はいくつも吹き飛び、衣服やハンガー、割れた什器の破片が床一面に散乱している。
天井の一部は崩れ、照明器具がコードだけで斜めに垂れ下がっていた。
壁には黒い煤がこびりつき、近くにあったマネキンは横倒しになっている。熱で変形した樹脂の臭いが、煙の中に混じっていた。
床には大きな焦げ跡が広がっている。
その中心付近は黒く焼け、まだ細い煙が立ち上っていた。
明らかに、爆発が起きた跡だった。
「ヤマナシさん!カモイさん!」
マキバが煙の向こうへ向かって叫ぶ。
最初に見えたのは、床に座り込んでいるヤマナシだった。
顔から血の気が失せ、肩が小刻みに震えている。服には煤や埃がこびりつき、髪も乱れていた。頬には細かな汚れがついているものの、見たところ大きな怪我はない。
その姿を確認し、マキバはほんの一瞬だけ安堵した。
だが、すぐにその前に立つカモイへ目が移った。
そして、息を呑んだ。
最初は、何がおかしいのかわからなかった。
立っている。意識もある。いつものように険しい顔をしている。
なのに、何かが決定的に足りない。
視線を下ろした次の瞬間、マキバはようやく理解した。
――右腕がなかった。
肩から先が、完全に失われている。
服は右肩のあたりから大きく裂け、残った袖口は黒く焦げていた。傷口から流れた血が脇腹を伝い、床へぽたり、ぽたりと赤い滴を落としている。
「カモイさん!」
自分でも驚くほど、マキバの声が裏返った。
ヤマナシもまた、泣き出しそうな顔でカモイを見上げていた。
「カモイさん!ごめんなさい!私、全部見つけたと思って……!もうないと思って……!」
「ああ?」
カモイが鬱陶しそうに顔をしかめる。
痛くないはずがない。
肩から先を失っているのだ。普通の人間なら意識を保つことすら難しく、まして立って会話などできる状態ではない。
それでもカモイは呻き声ひとつ上げなかった。
表情を微塵も崩さず、泣きそうになっているヤマナシを煩わしそうに見下ろしている。
「いいわよ、別に」
「よくないです!」
ヤマナシの声が震えた。
「腕……!腕なくなってるじゃないですか!」
「見ればわかるわよ」
「そんな……!」
「後でキョウコに治してもらうから」
まるで服のボタンでも取れたかのような口調だった。
「でも、私がちゃんと見つけてたら……」
「それより……」
カモイはヤマナシの言葉を遮った。
残った左手を膝に置き、少しだけ身体を屈める。
「アンタは平気?」
ヤマナシの顔を覗き込む。
「私は……大丈夫です。でも、その……本当に、ごめんなさい」
「だから謝るなって」
カモイは苛立たしそうに眉を寄せた。
「苦手なのよ、そういうの」
「でも……」
「アンタのせいじゃないでしょ」
ヤマナシの唇が震えた。
何かを言おうとしているのに、声にならない。
カモイはそんな彼女をしばらく見つめ、短く息を吐いた。
「アンタが生きてるなら、それでいい」
その言葉は、いつものカモイらしくないほど簡潔で、まっすぐだった。
皮肉もなかった。悪態もない。
照れ隠しのような乱暴な言葉すら、そこには挟まれていなかった。
「……」
ヤマナシは何も言えなくなった。
床に座り込んだまま、大きく目を見開いてカモイを見つめている。
マキバもまた、言葉を失っていた。
カモイヨシエという人間を、これまで何度も見てきた。
弱い特殊能力者を害虫と呼ぶ。
役に立たない人間なら死んでも構わないとでも言うようなことを、平然と口にする。
命に関わることですら冗談のように扱い、相手が傷つくとわかっている言葉を、ためらいもなく投げつける。
ヤマナシに対しても、事務仕事すら満足にできなければお払い箱だと笑ったことがあった。
少なくとも、カモイ自身はそういう人間として振る舞っていた。
冷酷で、人の命に頓着せず、役に立つかどうかで他人を切り分ける人間。
そう見られることを、むしろ望んでいるようですらあった。
けれど、爆発が起きた瞬間。
カモイは考えなかった。
逃げることも、自分の身を守ることも選ばず、すぐそばにいたヤマナシを庇った。
右腕を失うほどの至近距離で爆発を受け、それでも彼女を守った。
そこに打算があったとは思えない。
考える時間など、なかったはずだ。
身体が先に動いたのだ。
普段どれほど悪ぶっていても、どれほど冷酷な言葉を口にしていても、咄嗟の瞬間に身体が選んだ行動までは偽れない。
人間は、口にした言葉だけでできているわけではない。
何を言うかではなく、何を選ぶか。
その瞬間、カモイが選んだのは、自分の右腕ではなく、ヤマナシの命だった。
その事実が、マキバの胸の奥へ、ゆっくりと重く沈んでいった。
特殊対策室へ戻ると、さすがに事務所は騒然となった。
「カモイさん!?」
真っ先に声を上げたのはモテギだった。
入口に立つカモイの姿を見た瞬間、椅子を蹴るように立ち上がり、目を大きく見開く。
「腕が!」
「見ればわかるわよ!」
カモイは右肩から先を失ったまま、不機嫌そうに怒鳴った。
現場で最低限の止血と応急処置は施されているものの、裂けた服には黒い煤と乾ききっていない血がこびりついている。肩口には厚く包帯が巻かれていたが、その下に本来あるはずの腕が存在しないという事実は隠しようがなかった。
普通なら、そのまま救急車で病院へ運ばれていても何ひとつおかしくない状態である。
「いやいやいや!落ち着いてる場合じゃないでしょー!」
マチヤも慌てて駆け寄り、カモイの右側へ回り込んだ。
そして、本当に腕がないことを確かめるように目を丸くする。
「腕ないよ!すごいないよ!」
「すごいないって何よ!」
「すごくないって意味じゃなくて、すごいくらいない!」
「余計わからないわよ!」
ナガヤマも遠巻きに青ざめた顔をしている。モテギに至っては今にも救急車を呼びそうな勢いだったが、当のカモイ本人だけは、まるで大したことではないと言わんばかりの顔をしていた。
周囲の騒ぎを無視し、そのまま一直線にトンダのデスクへ向かう。
机の上には、いつものように星形の眼鏡をかけたキョウコのぬいぐるみが置かれていた。
身体を横たえ、まったく動かない。
どうやら眠っているらしい。
カモイは残った左手でキョウコの胴体を掴むと、何の遠慮もなく前後に揺さぶった。
「オイ。起きろ、悪霊。右腕治せ」
ぬいぐるみの頭が、がくがくと激しく揺れる。
星形の眼鏡までずれかけたが、反応はない。
「起きろって言ってんだろ」
さらに強く揺らす。
「このまま千切るぞ」
何度目かの揺さぶりで、ようやく星形の眼鏡がぴくりと動いた。
「……んにゃ?」
キョウコが寝ぼけた声を漏らす。
「何?朝?」
「夜よ」
「じゃあ寝る」
「寝るな。腕治せ」
カモイはキョウコを机の上へ乱暴に置いた。
「いたーい。もっと優しく扱ってよー」
「ぬいぐるみのくせに痛覚あるの?」
「乙女心はあるよ」
「どうでもいいわ」
キョウコはしばらくぼんやりしていたが、やがてカモイの右側へ視線を向けた。
「あれ?」
「治せ」
「腕ないじゃん」
「だから治せって言ってんの」
キョウコは小さな身体を起こし、改めて肩口を眺めた。
「派手にやったねー」
「うるせえな。早く治せや」
キョウコは腕を組むような仕草をして、ふん、とそっぽを向いた。
「それが人に物を頼む態度?」
「人じゃなくて悪霊でしょ」
「左腕も削っちゃおうかな?」
「やってみろよ、綿クズ」
「カモイちゃん、腕一本ないのに元気だねー」
「アンタがさっさと治せば、もっと元気になるわよ」
「態度悪いから治したくなーい!」
「ああ!?」
「キョウコ」
そこで、トンダが静かに名前を呼んだ。
たったそれだけで、キョウコの動きがぴたりと止まる。
トンダは書類から顔を上げ、いつもの穏やかな表情のまま言った。
「早く治してあげなさい」
「嫌だけど、ハーイ」
返事だけは妙に素直だった。
キョウコは不満そうに身体を揺らしながら、短い腕をカモイへ向けた。
次の瞬間、カモイの右肩が淡い光に包まれた。
空間がわずかに歪むような、不思議な感覚が室内へ広がる。
傷口の奥から、まず白い骨が伸び始めた。
ゆっくりと形を取り戻すように上腕骨が現れ、その周囲を赤い筋肉が覆っていく。細い血管が枝分かれしながら走り、神経や腱が組み上がり、そのさらに外側を皮膚が包み込んでいった。
傷を治しているというより、そこだけ時間が巻き戻されているようだった。
失われたものが、新しく作られているのではない。
本来そこにあった状態へ、世界そのものが戻されていく。
肘が形を取り戻す。
前腕が伸びる。
手首。掌。そして、五本の指。
それだけではなかった。
爆発で焼け落ちた服の袖までもが、見えない糸で縫い直されていくように再生していく。焦げ跡が消え、裂けた布が繋がり、数秒前まで失われていた右腕を覆った。
やがて光が消える。
そこには、何事もなかったかのようにカモイの右腕が存在していた。
事務所の面々が、揃ってその腕を見つめる。
カモイは右腕を持ち上げ、肘を曲げた。
手首を回す。
指を一本ずつ動かし、最後に強く拳を握ってから開く。
「よし」
問題はなさそうだった。
「感謝は?」
キョウコが期待するように尋ねる。
「ない」
「即答!?」
「当然でしょ」
「子豚ちゃん、可愛くなーい!」
「誰が子豚だ!?」
「二人とも」
トンダが静かに口を挟んだ。
カモイとキョウコが同時に振り向く。
「騒ぐなら外でやってください」
「ダーリン冷たい!」
キョウコが机の上でぴょんと跳ねた。
「はいはい」
トンダはそれ以上相手にせず、何事もなかったかのように手元の書類へ視線を戻した。
つい数分前まで片腕を失っていた人間がいるとは思えないほど、特殊対策室にはいつもの騒がしさが戻っていた。
その横で、ヤマナシはずっと黙っていた。
カモイの右腕が何事もなかったように元へ戻っても、その顔色はまだ青ざめたままだった。
先ほどの爆発音。
目の前でカモイの腕が吹き飛んだ瞬間。
床へ飛び散った血。
キョウコの力で傷そのものは消えても、ヤマナシの中に焼きついた光景までは消えてくれないのだろう。
皆がいつもの調子を取り戻していく中でも、彼女だけは笑うことができずにいた。
しばらく迷った末、ヤマナシは意を決したようにカモイへ近づいた。
「あの……」
「何?」
カモイが振り向く。
ヤマナシは一度俯いた。握った手に力を込め、それから顔を上げる。
「本当に、ごめ――」
「謝るな!」
カモイの怒声が事務所いっぱいに響いた。
ヤマナシの肩がびくりと跳ねる。
「次また謝ったら殺すぞ!」
「それは言いすぎです」
マキバが思わず口を挟んだ。
「黙ってろ!」
即座に怒鳴り返された。
マキバは素直に口を閉じる。
カモイは改めてヤマナシへ向き直った。
「アンタはアンタの仕事をした。私は私の仕事をした。それだけよ」
「でも……」
ヤマナシの声は弱かった。
「私が爆弾を見落としたから、カモイさんの腕が……」
「見落としたんじゃない」
カモイはきっぱりと言った。迷いのない声だった。
「アンタの能力じゃ、あれ以上わからなかったんでしょ」
「……」
「わかってたのに言わなかったなら失敗よ。でも、感じ取れなかったものを『見落とした』とは言わない。それは能力の限界でしょ」
ヤマナシは何も言い返せなかった。
「自分の能力が万能じゃないことくらい、最初からわかってたんでしょ?」
「……はい」
「だったら、今日のことを覚えときなさい」
カモイは再生したばかりの右腕を組んだ。
「どのくらいの距離なら危険を感じ取れたのか。爆弾が複数ある時は、感覚がどう重なったのか。最後の一個は、どうして他と同じように感じられなかったのか。わかる範囲でいいから整理しときなさい」
ヤマナシがゆっくりと顔を上げる。
「次に似た現場へ行った時、今回より一つでも多く拾えるようにすればいい」
「でも、また間違えたら……」
「その時はまた考える」
カモイはあっさり言った。
「能力なんて道具と同じよ。使ってみなきゃ、どこまでできるかなんてわからない。失敗するたびに使うのを怖がってたら、いつまで経っても使い物にならないでしょ」
言い方は相変わらず乱暴だった。
だが、ヤマナシを責める響きはなかった。
「いつまでも謝ってたところで、能力の精度は一ミリも上がらないわ。反省するなら、次に使える形にしなさい。その方がよっぽど有益よ」
ヤマナシは唇を噛んだ。
しばらく何かを考えるように黙り、それから小さく頷く。
「……はい」
「あと……」
カモイが続けた。
だが、そこでなぜか言葉が止まった。
先ほどまで真っ直ぐヤマナシを見ていた視線が、ふいに横へ逸れる。
「……何ですか?」
「別に」
「いや、今『あと』って」
「うるさいわね」
カモイはわずかに眉を寄せた。
それでも何か言うべきだと思ったのか、しばらく口を閉ざした後、ぼそりと続ける。
「仲間を失うのは……嫌なのよ」
事務所が静まり返った。
あれほど騒いでいたマチヤも、モテギも黙った。
ナガヤマも手元から顔を上げる。
机の上にいるキョウコまで、珍しく何も言わなかった。
カモイ自身も、口にした直後に気づいたらしい。
自分が何を言ってしまったのか。
「……何よ」
誰も何も言っていない。
ただ、全員の視線だけが集まっていた。
それがかえって耐えられなかったのか、カモイの頬がみるみる赤くなっていく。
「何見てんのよ!?」
「ヨシエさん!」
真っ先に沈黙を破ったのはマチヤだった。
目をきらきらと輝かせ、両手を胸の前で合わせている。
「やさしー!」
「うるさい!」
「仲間だってー!」
「聞こえてたわよ!」
「ヨシエさん、みんなのこと好きなんだね!」
「違う!」
「じゃあ嫌いなの?」
「そういう話じゃない!」
「でも仲間なんでしょ?」
「もう黙れ!」
カモイの怒鳴り声が事務所に響いた。
けれど、その声には、いつものような刺々しい怒気がどこか足りなかった。
本気で怒っているというより、これ以上そこへ触れられたくないという焦りの方が強く見える。
少し離れた場所で、マキバはそのやり取りを黙って見ていた。
すると、いつの間にかカマタが隣まで来ていた。
壁に背を預け、腕を組む。その視線の先では、カモイがマチヤから「やさしー」「仲間思いー」と囃し立てられ、顔を真っ赤にして本気で怒鳴り返していた。
「カモイさん、派手にやったな」
カマタがぼそりと言う。
右腕はすでに元通りになっているとはいえ、ほんの少し前まで肩から先を失っていたのだ。「派手にやった」で済ませていい怪我ではない。
もっとも、この事務所にいる人間たちにとっては、それくらいの表現がちょうどいいのかもしれなかった。
マキバはしばらくカマタの横顔を見ていたが、やがて小さな声で尋ねた。
「カマタくん」
「何だ?」
「カモイさんって、いつも弱い特殊能力者のことを害虫とか、役立たずとか言ってるよね」
「ああ」
「なのに、どうしてヤマナシさんをあそこまでして守ったのかな」
カマタは一瞬黙った。
それから、まだそんなことを考えていたのか、とでも言いたげな顔でマキバを見る。
「……単純な話だよ」
カマタは視線をカモイへ戻した。
「あの人は、弱い能力者だからって、それだけで仲間まで切り捨てるような人じゃねえ」
「え?」
「能力が強いか弱いかより先に、仲間かどうかで線を引いてるんだよ」
あまりにもあっさりした答えに、マキバは瞬きをした。
改めてカモイを見る。
彼女は今もマチヤから「ヨシエさん、ほんとは優しいんだねー」と追い打ちをかけられ、「殺すぞ!」と顔を真っ赤にして怒鳴っていた。
「強い能力者でも、自分の仲間じゃなきゃ平気でボロクソに言う。気に入らなきゃ喧嘩も売るし、邪魔だと思えば容赦なく潰そうとする」
カマタは淡々と続ける。
「逆に、能力がどれだけ弱くても、一度仲間だと思った相手なら、絶対見捨てない」
「……」
「だから、ヤマナシを庇ったこと自体は、別におかしくない」
「そうなんだ」
「カモイさんの世界は、ものすごく狭いんだよ」
マキバはカマタを見る。
「狭い?」
「ああ」
カマタはわずかに肩をすくめた。
「誰にでも優しい人じゃない。むしろ真逆だ。嫌いな相手には徹底的に冷たいし、興味のない人間がどうなろうと知ったことじゃないって、本気で思ってる」
そこで一度、言葉を切った。
「でも、その狭い世界の中に入った相手には、意外なくらい手厚い」
マキバは何も言わず、少し離れたところで騒いでいるカモイたちを見つめた。
そう言われてみれば、思い当たることはいくつもあった。
ヤマナシは以前、この職場が好きだと言っていた。
自分を受け入れてくれる。仲間として扱ってくれる。
そういう人たちは、これまでの人生でほとんどいなかったのだと。
トンダも似たようなことを口にしていた。
正式な依頼がなくても、人質の中にマキバたちがいれば助けに行く、と。
それは万人へ等しく向けられた正義ではない。
困っている人間なら誰であろうと救う、という博愛でもない。
むしろ、かなり偏っていて、歪んでいる。
それでもトンダにとって、「仲間」と呼べる人間だけは明らかに特別なのだ。
カマタもそうだった。
トンダへの憎しみを抱え、自分の中にある殺意まで否定しきれないまま、それでも特殊対策室へ戻ってきた。
この職場が好きだと言った。
この仕事を続けたいと言った。
そして今日、カモイは爆発の瞬間、迷うことなくヤマナシを庇った。
右腕を失うほどの傷を負っても、ヤマナシを責めなかった。それどころか、自分の怪我より先に彼女が無事かどうかを確かめた。
マキバが考えていた以上に、特殊対策室という場所は、彼らにとって特別なのかもしれない。
単なる職場ではない。
そこで働く者たちも、ただ同じ部署に所属しているだけの同僚ではない。
社会の中でうまく生きられなかった者。
能力ゆえに恐れられた者。
強すぎる力を持て余した者。
人を傷つけることに慣れ、それでも完全には壊れきれなかった者。
そうした人間たちが、それぞれの歪さを抱えたまま、同じ部屋へ集まっている。
まともな家族とは、とても呼べない。
異常で、騒がしく、危険で、倫理観だってところどころ壊れている。
口を開けば喧嘩になり、殺すだの死ねだのという言葉さえ日常的に飛び交う。
それでも、彼らにとっては帰ってくる場所なのだ。
家族ではない。
けれど、家に似た何か。
そう考えると、これまで理解できなかった彼らの言動のいくつかが、少しだけ腑に落ちる気がした。
ただ、それですべてを美しい話として受け入れることも、マキバにはできなかった。
仲間には優しい。仲間は守る。
その一方で、その輪の外側にいる人間は、あまりにも簡単に切り捨てられる。
トンダもカモイも、そこにはっきりと線を引いている。
そして時には、その線の内側と外側で、人の命の重ささえ変わってしまう。
身内を大切にすることと、他人を大切にすることは同じではない。
むしろ彼らの場合、一方が強烈であるほど、もう一方への冷淡さが際立っているようにも思えた。
マキバはふと考える。
自分は、もうその線の内側にいるのだろうか。
それとも、自分でも気づかないうちに、そこへ足を踏み入れてしまったのだろうか。
そう思うと、胸の奥がかすかにざわついた。
嫌悪ではない。
かといって、素直な喜びとも違う。
誰かに仲間だと思われることへの安堵と、この場所の価値観に自分まで馴染んでいくことへの恐ろしさが、うまく分けられないまま混ざっていた。
そしてもう一つ。
カモイが先ほど口にした言葉が、まだ耳の奥に残っている。
――仲間を失うのは嫌なのよ。
あれほど迷いなく誰かを庇った人間が、そう言った。
単なる一般論には聞こえなかった。
もしかすると、カモイは以前にも誰かを失ったことがあるのではないか。
この特殊対策室で仕事をしていれば、命に関わる現場など珍しくない。
爆弾。
銃撃。
制御不能になった特殊能力者。
今日だって、キョウコがいなければカモイは右腕を失ったままだった。
ならば、これまでにも誰かが戻ってこなかった現場があっても不思議ではない。
特殊対策室で、殉職した人間がいたこともあるのかもしれない。
聞くのは失礼かもしれない。
本人たちが触れられたくない過去である可能性もある。
それでも、マキバは知りたいと思った。
この事務所の人間たちが、なぜこれほどまでに「仲間」という言葉へ強く反応するのか。
その理由の一端だけでも。
「……トンダさん」
マキバは少し迷った末、声をかけた。
トンダは、先ほどまで騒いでいたキョウコをデスクの上へ戻しているところだった。星形の眼鏡をかけたぬいぐるみは、何事もなかったように机の端へ座り、足代わりの短い布地をぶらつかせている。
「はい」
「ちょっと、感じの悪いことを聞くんですけど」
「どうぞ」
トンダは特に身構える様子もなく答えた。
そのいつもと変わらない淡々とした態度に背中を押され、マキバは口を開く。
「今まで、この特殊対策室で殉職した方っているんですか?」
ほんの一瞬だった。
事務所の空気が止まった。
先ほどまで聞こえていた雑談が途切れ、誰かが書類をめくる音まで妙にはっきりと聞こえる。
マキバは、口にしてから少し後悔した。
聞くべきではなかったかもしれない。
カモイが先ほど口にした、「仲間を失うのは嫌」という言葉。それが気になったとはいえ、わざわざ過去を掘り返す必要まであったのだろうか。
この仕事なら、触れられたくない出来事が一つや二つあってもおかしくない。
だが、トンダは意外なほどあっさりと答えた。
「ああ、幸いなことに、いないですね」
その瞬間だった。
「いやいやいやいや!」
カモイがものすごい勢いで割り込んできた。
トンダのデスクを指差す。
「いるでしょ!そこに!」
全員の視線が、一斉に机の上のキョウコへ向いた。
トンダもつられるように妻を見る。
「えーと……」
珍しく、言葉に詰まった。
冗談で迷っているというより、本当に少し判断に困っているようだった。
「キョウコは殉職にカウントされるのか?」
「されるに決まってるでしょ!」
カモイが即座に怒鳴る。
一方、当のキョウコは、ぬいぐるみの身体を左右にゆらゆらと揺らした。
「うーん、ちょっと微妙なラインよねー」
「どこが微妙なのよ!死んでんでしょ!」
「肉体はね!」
「それを普通は死んだって言うのよ!」
「でも意識あるしー」
「だから何だよ、この悪霊!」
「悪霊じゃなくて正妻!」
「黙れ!」
また始まった。
激しく言い争う二人を前に、マキバはしばらくぽかんとしていた。
トンダの妻、キョウコ。
肉体はすでに存在せず、今ここにいるのは、思念だけをぬいぐるみに宿した存在だ。
そういう意味では、確かに彼女は一度死んでいる。
だが、本人はこうして普通に喋り、笑い、眠り、トンダへまとわりつき、カモイと喧嘩している。少なくとも、目の前にいるキョウコから「死者」という言葉を連想するのは難しかった。
これを殉職者と呼ぶべきなのか。
それとも、今も特殊対策室の一員として存在している以上、殉職したことにはならないのか。
マキバには判断がつかなかった。
どうやらこの事務所では、生きているか死んでいるかという、ごく基本的な区分ですら、時として曖昧になるらしい。
「そういやさー」
それまで一連のやり取りを眺めていたマチヤが、何の警戒もない声で言った。
「キョウコさんって、どうやって死んだのー?」
「あー、それはねー……」
キョウコが、いつもの調子で答えようとした。
その瞬間だった。
「言うな、バカ!」
トンダとカモイの声が、寸分違わず重なった。
あまりの剣幕に、事務所中の空気が凍りついた。モテギまで口を開けたまま動きを止め、先ほどまで聞こえていた物音さえ一瞬遠のいたように感じられる。
「え?」
マチヤだけが、何が起きたのかわからないという顔で目を丸くする。
キョウコも一瞬だけ黙った。
だが、重くなった空気を気にする様子もなく、すぐにぬいぐるみの小さな肩をすくめる。
「はいはい。ダーリンと子豚ちゃんが怖いから、今日は言わないでおいてあげる」
「子豚って言うな!」
「はいはい」
キョウコは気の抜けた返事をして、そのまま話を終わらせた。
表面だけを見れば、あっという間にいつもの特殊対策室へ戻ったようにも見える。
けれど、完全に元通りになったわけではなかった。
マチヤはまだきょとんとしている。
モテギも事情がわからないらしく、珍しく黙っていた。
ナガヤマは視線を伏せ、何も聞かなかったことにするように手元へ目を落としている。カマタも口を開かず、壁際に立ったままだった。
ヤマナシはスマートフォンへ視線を落としていたが、画面を見ているというより、そこへ目を向けることで周囲の空気から距離を置こうとしているように見えた。
マキバには、それぞれの沈黙が何を意味しているのかまではわからない。
ただ一つだけ、はっきりしていた。
この場にいる何人かは、キョウコの死因について軽々しく口にしてはいけないことを知っている。
トンダは何も説明しなかった。
ただ、デスクの上で少し傾いていたキョウコの身体へ手を伸ばし、静かに位置を整えた。倒れかけていた小さな身体を起こし、いつもの場所へ座らせる。
その手つきは、ひどく丁寧だった。
表情は、マキバのいる位置からはよく見えない。
キョウコはどうやって死んだのか。
なぜトンダとカモイは、あれほど激しく反応したのか。
普段なら何を聞かれても平然としているトンダまで、考えるより先に声を荒らげた。
それだけで、この話題が特殊対策室の中でも簡単に触れてはいけないものなのだとわかる。
マキバは、また一つ、自分の知らない扉の前に立ってしまったような気がした。
この事務所には、まだ自分の知らない過去がある。
トンダの穏やかさの奥に。
カモイの刺々しさの奥に。
キョウコの、何もかも笑い飛ばしてしまうような明るさの奥に。
そして、この場所の人間たちが「仲間」という言葉にあれほど強く反応する、その理由の奥にも。
何があったのかは、まだわからない。
ただ、今ここにいる彼らが、それぞれ何かを抱えたまま同じ部屋で過ごしていることだけは、少しずつ見えてきた気がした。
窓の外では、秋の夕暮れが静かに沈み始めていた。
西の空から赤みが薄れ、青と灰色が混ざり始める。その下で、ビルの窓や街灯が一つ、また一つと明かりを灯していく。
事務所の中では、キョウコが何事もなかったかのようにデスクの上へ転がった。
「えー、気になるー」
マチヤがまだ不満そうに呟く。
「いつか話してもらえるといいですね!」
モテギがいつもの明るい声で言った。
「知らない方がいいことも、あるかも……」
ナガヤマが小さく返す。
ヤマナシは何も言わなかった。
カマタも黙ったままだった。
カモイだけが少し離れたところで、「子豚じゃないからね」と誰にともなくぶつぶつ文句を言っている。
そうして、止まりかけていた事務所の時間が少しずつ元へ戻っていく。
その中で、トンダはふとキョウコへ手を伸ばした。
星形の眼鏡の奥にある、ぬいぐるみの柔らかな頭をそっと撫でる。
それ自体は、マキバもこれまで何度も見てきた仕草だった。
妻を愛おしむ、ごく自然な手つき。
けれどその時だけは、失ってしまったものが、本当にまだそこにあるのかを確かめるような、そして、今も消えない何かを胸の奥で悔やみ続けているような人間の手つきにも、マキバには見えた。




