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第6話 おかえり

 昼休みの公園は、前日と変わらず暑かった。

 真夏の盛りは過ぎたはずなのに、地面にはまだ夏の熱がしつこく残っている。強い日差しを受けた舗装路は白く眩み、木陰へ入ればいくらか涼しいものの、吹き抜ける風には湿気が混じり、肌へまとわりつくようだった。

 遊具のそばでは、小さな子どもたちが汗だくになって走り回っている。少し離れたベンチでは、会社員らしい男が膝の上にコンビニ弁当を広げ、黙々と箸を動かしていた。木々の向こうからは絶え間なく車の走る音が聞こえ、時折、自転車のベルが乾いた音を響かせる。

 何の変哲もない、平日の昼休みだった。

 そんな日常の中で、マキバダイスケは昨日と同じベンチの前に立っていた。

 カマタリョウガと会った場所。そして、トンダユウイチを殺す計画を聞かされた場所だった。

 マキバはベンチへ腰を下ろさず、その前でしばらく待った。

 今日はサンドイッチを買っていない。

 空腹ではあった。朝からほとんど何も食べていないせいで、腹の奥には確かな空洞がある。それでも、何かを口にする気にはなれなかった。胃の底へ重い石でも沈められたような感覚があり、無理に食べ物を押し込めば、そのまま吐き出してしまいそうだった。

 昨夜、ヤマナシアズミに言われた言葉が、ずっと頭の中に残っている。

『説得してよ。そういうの、うまいでしょ?』

 ――説得。

 ――うまい。

 本当に、そうなのだろうか。

 マキバはこれまで、何人もの特殊能力者を止めてきた。

 暴走する者の声を聞き、その感情を拾い上げ、本人さえうまく言葉にできない思いを代わりに形にして返す。そうすることで、怒りや恐怖に呑み込まれかけた者たちを、何度も踏みとどまらせてきた。

 ――死にたくない。

 ――殺したくない。

 ――怖い。苦しい。

 ――誰かに気づいてほしい。

 どれほど激しく暴れている人間の中にも、そんな声が残っていた。

 だからこそ、自分の言葉も届いたのだと思う。

 表面では怒鳴り、憎み、すべてを壊そうとしていても、その奥にまだ「止まりたい」という気持ちがあった。本人がそれを認めていなくても、心のどこかでは誰かに手を掴んでほしいと願っていた。

 だから、マキバも手を伸ばすことができた。

 では、カマタはどうなのだろう。

 彼の中には、いったい何がある。

 正義。怒り。憎しみ。私怨。罪悪感。

 そして、サトウユウミという女性への想い。

 そのどれか一つなのか。

 あるいは、すべてが複雑に絡み合っているのか。

 それとも今のカマタには、それらを覆い隠してしまうほど強い、トンダを殺したいという衝動しか残っていないのだろうか。

 マキバには、他人の心の声が聞こえる。

 けれど、それだけで人間のすべてがわかるわけではなかった。

 むしろ他人の心を直接聞けるようになってから、人間というものが以前よりわからなくなったようにすら思う。

 口から出る言葉と、胸の内にある感情は一致しない。

 嫌いだと叫びながら、本当は離れてほしくないと思っていることがある。

 殺したいほど憎みながら、それでもどこかでは救われてほしいと願っていることもある。

 一人の人間の中に、互いに矛盾する感情が何の不思議もなく同時に存在している。

 心が聞こえるからといって、その人間を理解できるわけではない。

 むしろ聞こえてしまうからこそ、簡単には理解したつもりになれないのだ。

 マキバは最近、そのことを嫌というほど思い知らされていた。

「で、答えは?」

 不意に声がした。

 マキバは顔を上げた。

 ベンチの脇に、いつの間にかカマタが立っている。

 黒を基調にしたパンク風の服。細身で長身。鋭い目つきに、わずかに持ち上がった口元。いつもと変わらない、どこか他人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべていた。

 けれど、その表情には昨日とは違うものが混じっている。

 ――苛立ち。

 待たされたことへの苛立ちではない。

 これから自分が聞かされる答えを、すでに半分ほど察している人間の顔だった。

「ヤマナシさんに話した」

 マキバが言うと、カマタの眉がほんのわずかに動いた。

「……そうか」

「ヤマナシさんは、協力したくないって」

「だろうな」

 驚いた様子はなかった。

 カマタは短く答え、小さく息を吐いた。それが落胆なのか、最初から期待していなかっただけなのか、マキバには判別できなかった。

「……あと」

 少し迷ってから、マキバは続けた。

「カマタくんにも、戻ってきてほしいって言ってた」

 その瞬間だけ、カマタの目が細くなった。

 何かが揺れた。

 喜んだようにも見えた。苛立ったようにも、痛いところを突かれたようにも見えた。

 けれど、それはすぐに消えた。

「……オレは戻らない」

「……うん」

「ヤマナシがダメってことは、お前がやるのか?」

 マキバは首を横に振った。

「僕も協力したくない」

「そうか……」

 カマタは、それだけだった。

 あまりにもあっさりしていた。

 マキバは拍子抜けすると同時に、かえって警戒した。

 怒鳴られると思っていた。脅される可能性も考えていた。昨日と同じように、半ば強引に協力を迫られることさえ覚悟していた。

 だが、カマタは何もしなかった。

「じゃあ、オレ一人でやるか」

 昼食の予定でも変更するような軽い口調でそう言い、踵を返す。

 その背中を見た瞬間、マキバの背筋に冷たいものが走った。

 諦めたのではない。

 自分たちに断られたところで、最初から一人でも実行するつもりだったのだ。

「カマタくん」

 マキバは呼び止めた。

 カマタは足を止めたが、振り返らなかった。

「カマタくんにも、やってほしくない」

 数秒の沈黙があった。

「……なんだ?」

 やがて、カマタがゆっくりと振り返る。

 口元に浮かんでいた薄い笑みは、もうなかった。

「オレが返り討ちにされると思ってんのか?」

「それもある」

「大丈夫だよ」

 カマタは鼻で笑った。

「今度はちゃんとプランがある。前みたいなヘマはしねえ」

「そういうことじゃなくて」

 マキバは、その目をまっすぐ見た。

「トンダさんを殺してほしくない」

 カマタの顔から、わずかに残っていた余裕が消えた。

「あの人を殺さなきゃ、犠牲者が増えるぞ」

「そうかもしれない」

「そうかもしれない、じゃねえよ」

 声が低くなる。

「増えるんだよ。あの人はこれからも殺す。依頼が来れば、必要だと思った人間を平気で切り捨てる。昨日今日そうなったわけじゃねえ。ずっとそういう人なんだよ」

 カマタの唇の端が歪んだ。

「ユウミさんの時みたいにな」

 マキバは一瞬、言葉を失った。

 その名前が口にされた途端、カマタの内側で何かが鋭く軋んだのがわかった。

 怒りだけではない。

 まだ触れれば血が滲むような、古くて深い傷がある。

「……それでも」

 マキバは慎重に言葉を選んだ。

「相手が危険だから、これから人を殺すかもしれないから、先に殺して終わらせる。それって、カマタくんが嫌ってるトンダさんのやり方と、同じじゃないか」

 カマタの目が細くなる。

「同じ?」

「うん」

「オレとトンダさんが?」

「全部が同じだとは言ってない」

 マキバは首を横に振った。

「でも、相手がこれから何をするかを自分で決めて、その人の命を奪うことで解決しようとしてる。そのやり方は、同じだよ」

 言い切った途端、喉の奥がひどく乾いていることに気づいた。

 怖くないわけではない。

 目の前にいる男が、自分より遥かに強いことは知っている。一度本気で襲われれば、自分にはまともに抵抗することすらできないだろう。

 怒らせれば、何をされるかわからない。

 それでも、ここで口を閉じたら、昨日と何も変わらない。

「僕は、カマタくんにそれをしてほしくない」

 カマタは答えなかった。

 沈黙のせいで、公園の音だけが妙に鮮明になった。

 木の上では蝉が鳴き続けている。遠くでは子どもが笑い、その声に重なるように、母親らしい女性が誰かの名前を呼んでいた。少し離れた道路からは、信号待ちの車が発進する音が聞こえる。

 そこだけが、周囲の日常から切り離されてしまったようだった。

「嫌だと言ったら?」

 やがて、カマタが尋ねた。

 声には、さっきまでの軽さがなかった。

「止める」

 マキバは答えた。

 言った直後、カマタの視線がわずかに下がった。

 マキバの足元を見る。

 次に、胸元。

 そして再び、顔へ戻った。

 一瞬だった。

 けれど、その一瞬で、何かを見定められたような気がした。

「……そうかよ」

 次の瞬間、視界が大きく揺れた。

 何が起きたのかわからないまま、身体が横へ吹き飛ぶ。

 肩から地面へ叩きつけられ、遅れて腹の奥に鈍い痛みが炸裂した。肺の中の空気が一気に押し出され、息を吸おうとしても喉がひゅっと鳴るばかりで、空気が入ってこない。

 視界が白く明滅した。

 腕に力を入れようとしても、一瞬、身体が言うことを聞かなかった。

 ――蹴られた。

 そう理解した時には、カマタは数歩先に立っていた。

 片足を下ろし、何事もなかったような顔でこちらを見ている。

 その目にはもう、先ほどまでの迷いも、皮肉な笑みもなかった。

「バカか、お前は」

 冷え切った声だった。

「勝てるわけねえだろ。オレに」

 マキバは激しく咳き込みながら、地面へ手をついた。

 ざらついた砂と細かな小石が掌に食い込み、皮膚を擦る。腹の奥にはまだ蹴られた衝撃が残っていて、息を吸うたびに鈍い痛みが広がった。

 周囲にいた人々が足を止め、何事かとこちらを振り返っているのが視界の端に映る。

「……勝つ気はない」

 途切れがちな呼吸を整えながら、マキバは言った。

「止めるだけだ」

「だから」

 カマタが歩いてくる。

 硬い靴底が舗装路を踏む音が、一歩ずつ近づいてきた。急ぐ様子はない。それがかえって不気味だった。

「どうやって?」

 言葉と同時に、再び蹴りが飛んだ。

 今度は肩だった。

「っ……!」

 衝撃で身体が横へ崩れ、そのままベンチの脚へ激しくぶつかる。硬い金属が背中へ食い込み、鋭い痛みが肩甲骨のあたりから全身へ走った。

「オレを殴って気絶させるか?」

「……傷つけることは、したくない」

 息を詰まらせながら答えると、カマタは露骨に顔を歪めた。

「甘ったれが」

 吐き捨てるように言い、また足を振り上げる。

 背中。脇腹。太腿。

 蹴りが入るたび、肉の奥まで鈍い衝撃が突き抜けた。息が漏れ、身体が地面の上でわずかに跳ねる。

 マキバは奥歯を噛みしめ、喉までせり上がった呻き声をどうにか飲み込んだ。

 痛かった。怖かった。

 今すぐ身体を丸めて、頭を抱えてしまいたかった。逃げられるものなら、逃げたかった。

 身体は正直だった。

 それでも、倒れたまま顔を伏せていては、何も伝わらない。

 震える腕に力を込める。肘をつき、何度か崩れそうになりながら、どうにか上半身を起こした。

「おい、あれ……喧嘩じゃないか?」

 少し離れたところから、戸惑った声が聞こえた。

「喧嘩っていうか……一方的じゃない?」

「警察呼んだ方がよくない?」

 遠巻きにしていた人々の間へ、ざわめきが広がっていく。

 足を止める者が増えていた。子どもの手を引いてその場を離れる母親。離れた場所から不安そうに様子を窺う会社員。スマートフォンを取り出し、画面をこちらへ向ける者もいる。

 けれど、誰もすぐには近づいてこなかった。

 目の前で起きているのが、普通の喧嘩ではないと感じ取っているのだろう。

 特殊能力者かもしれない。

 そう思えば、無闇に割って入る方が危険だった。

 誰もが一定の距離を保ったまま、助けるべきか、逃げるべきか、警察へ通報するべきかを迷っている。

 カマタも、周囲の視線にはとっくに気づいているはずだった。

 それでも気にする素振りはない。

 人が集まり始めても、スマートフォンを向けられても、足を止める様子はなかった。

「殺すぞ、お前」

 低い声だった。

 怒鳴っているわけでも、威嚇するように凄んでいるわけでもない。それなのに、その一言には妙な現実味があった。

 脅しというより、最後の確認に近かった。

 マキバは荒い呼吸を繰り返しながら顔を上げた。

「弱い能力者を殺すのは……君の主義に反するでしょ?」

 その言葉を聞いた瞬間、カマタの顔が歪んだ。

 次の一歩は速かった。

 距離を詰められたと思った時には、胸ぐらを掴まれている。そのまま乱暴に身体を引き上げられ、マキバの足先がわずかに地面から離れた。

「主義?」

 怒りを押し殺した声だった。

「主義だと?」

 カマタの指が、服越しに胸元へ食い込む。

 細身の身体からは想像しにくいほどの力だった。透明化能力とは何の関係もない。何年も現場に立ち、命のやり取りを繰り返してきた人間の身体だった。

「動物愛護とか言ってたけどな」

 カマタは吐き捨てるように言った。

「あんなの、嘘だよ!」

 マキバは目を見開いた。

「雑魚の特殊能力者なんざ、ブッ殺したくて仕方がねえ!」

 怒声が公園に響いた。

 近くにいた親子連れがびくりと肩を震わせる。母親はすぐに子どもの手を掴み、何度もこちらを振り返りながら足早に離れていった。

「単にユウミさんに惚れてたから、あの人に合わせてただけだ!」

 カマタの目は血走っていた。

「オレが善人にでもなったと思ったか?弱いやつらを守りたい立派な人間に生まれ変わったとでも思ったか?」

 胸ぐらを掴む指に、さらに力がこもった。

「違う!」

 自分自身へ言い聞かせるように叫ぶ。

「トンダはユウミさんを殺した!だからオレはトンダを殺す!」

「……」

「正義でも何でもねえよ!」

 カマタの顔が、すぐ目の前まで迫った。

「完全に私怨だ!」

 そして、ほとんど噛みつくように言う。

「悪いか!」

 マキバは、すぐには答えなかった。

 ただ、目の前のカマタを見つめた。

 その瞬間、心の声が一気に流れ込んできた。

 ――嘘だ。違う。

 ――いや、本当だ。

 ――殺したい。許せない。

 ――あの人は笑っていた。

 ――ユウミさんは死んだ。

 ――オレは変わったのか。変われなかったのか。

 ――わからない。認めたくない。

 ――殺したい。

 ――助けたい。

 ――もう、わからない。

 濁流のようだった。

 一つの感情が形を持つ前に、その真逆の感情が押し寄せてくる。憎しみを認めた直後に否定し、誰かを殺したいと願いながら、同時に誰かを助けようとしている。

 何ひとつ整理されていない。

 怒りの奥には悲しみがあった。

 悲しみの奥には恐怖があり、そのさらに深いところには、自分自身への激しい嫌悪が沈んでいる。

 おそらくカマタ自身にも、どこまでが本心なのかわからないのだ。

 ユウミに出会う前の自分。

 ユウミに出会ってからの自分。

 そして、ユウミを失った後の自分。

 そのどれも捨てきれず、一つの身体の中で互いに噛み合わないまま残っている。

 マキバは唇の端に熱いものを感じた。

 いつの間にか切れていたらしい。舌先に触れると、鉄のような血の味が口の中へ広がった。

 それでも、カマタから目を逸らさなかった。

「……悪いよ」

 カマタの目が見開かれた。

「悪いに決まってる」

「……何だと?」

「私怨で人を殺すのは悪い」

「トンダさんは無実の人間を殺した!」

「だからって」

 マキバは途切れそうになる息を繋いだ。

「カマタくんが殺していい理由にはならない」

「綺麗事を」

「綺麗事でも言うよ」

 マキバは、自分の胸ぐらを掴んでいるカマタの手首へ両手を添えた。

 引き剥がそうとしたわけではない。

 そんなことをしたところで、この腕力の差ではびくともしないだろう。

 ただ、逃げずに向き合うためだった。

「カマタくんは、ユウミさんに惚れてたんだよね」

「ああ、そうだよ」

「だったら、それだけじゃないはずだ」

「何がだよ」

「見た目が好きだったとか、優しくされたとか。それだけで、あそこまでユウミさんのそばにはいなかったはずだ」

 カマタの眉間に深い皺が刻まれた。

「お前に何がわかる」

「全部はわからない」

 マキバは答えた。

「でも、ユウミさんの考えに、少しは納得したんじゃないの?」

 カマタの手が、ほんのわずかに震えた。

「殺しても何も解決しない。弱い能力者が生きにくい環境そのものを変えなきゃいけない。許すことと、殺さないことは別だって」

「黙れ」

「そういう言葉が、カマタくんの中に残ったから――」

「黙れ」

「支援の仕事を手伝ったんじゃないの?」

「黙れって言ってんだよ」

「本当に弱い特殊能力者を殺したくて仕方ないだけなら、ユウミさんがいなくても、あんなことは続けなかったはずだ」

 カマタの表情がさらに険しくなった。

「透明になって行方不明の人を探したり、力仕事を手伝ったり、危険な人を止めたりした」

「……黙れ」

「誰かに褒めてもらうためじゃない。ユウミさんがずっと見ていたわけでもない。それでも、カマタくんはやった」

「黙れ!」

「だから……」

 身体中が痛んだ。

 胸ぐらを締め上げられているせいで息も苦しい。それでもマキバは、カマタから目を逸らさなかった。

「弱い特殊能力者を、本当はもう動物だと思ってないんじゃない?」

 カマタの表情が固まった。

「違う」

「一人の人間として見るようになったんだと思う」

「違う」

「ユウミさんに会って、少しずつそうなった」

「違う!」

 怒声が飛ぶ。

 それでもマキバは止めなかった。

「昔は、本気で見下してたんだと思う。害獣だと思ってた。お母さんを殺されたんだから、憎む理由だってあった」

「……」

「でも、今はもう同じじゃない」

「違わねえ」

「違うから苦しいんだよ」

 その一言で、カマタの呼吸が止まった。

「もし何も変わってないなら、そんなに苦しむ必要ないだろ」

「違う」

「弱い能力者は害獣だって、今まで通り思ってればいい。でも、もうそれだけじゃなくなったから――」

「違う!」

「今さら考えを変えたら、昔の自分を否定することになる」

 マキバは続けた。

「今まで殺してきた人たちのことも、考えなきゃいけなくなる」

「違う!」

「だから、認めたくないんだ」

「黙れ!」

「自分は変わってないって思いたい。弱い能力者なんて今でも動物だって、そう思っていたい」

「黙れ!」

「だから『動物愛護』なんて言葉にして――」

「黙れって言ってんだろ!」

 カマタの声が公園に響いた。

 それでも、マキバは言った。

「人間だって認めないようにしてるんじゃないの?」

 カマタの目を、まっすぐ見つめる。

「そうしないと、今までの自分をどう受け止めればいいのかわからなくなるから」

 次の瞬間だった。

 胸ぐらを掴んでいた手が乱暴に動いた。

 身体が宙へ浮く。

 そして、そのまま地面へ叩きつけられた。

「っ……!」

 背中が地面へ激突し、肺の中の空気が一気に押し出された。

 衝撃が背骨を伝って全身へ走る。視界が滲み、真昼の空が一瞬だけ白く明滅した。

「オレを理解した風に語るな!」

 カマタが叫んだ。

 怒声だった。

 けれどマキバには、それが悲鳴に近いものに聞こえた。

「お前に何がわかる!」

 カマタの肩が激しく上下している。

「お前はユウミさんを知らない!母さんを知らない!オレが何人殺してきたかも知らない!」

「……うん」

 マキバは地面に倒れたまま答えた。

 呼吸をするだけで脇腹が痛む。

「全部は、わからない」

「だったら黙ってろ!」

「……でも」

 痛みに耐えながら、ゆっくりと顔を上げる。

「今のカマタくんが苦しんでるのは、わかる」

「黙れ!」

「本当に何とも思ってないなら、そんなに怒らないよ」

「黙れ!」

「トンダさんを殺しても」

 その言葉だけは、はっきりと言った。

「ユウミさんは戻らない」

 カマタが息を止めた。

 ほんの一瞬だった。

 けれど確かに、その顔から怒りが抜け落ちた。

「……戻らないんだよ」

 マキバ自身の声も震えていた。

 言っている自分も、この言葉がどれほど残酷なのかわかっている。

 それでも、避けて通ることはできなかった。

「そんなの、カマタくんが一番わかってるだろ」

 カマタは何も答えない。

「でも、カマタくんまでトンダさんと同じやり方を選んだら……」

 息を吸う。胸が痛んだ。

 それでも言葉を続ける。

「ユウミさんがカマタくんに残したものまで、本当に死んじゃうよ」

 カマタは動かなかった。

 先ほどまで握り締められていた拳が、わずかに緩む。

 何かを言い返そうとしたのか、唇が小さく動いた。

 けれど、声は出なかった。

 否定する言葉さえ、もう続かなかった。

 いつの間にか、周囲にはかなりの人が集まっていた。

 とはいえ、誰も近くまでは寄ってこない。一定の距離を空けたまま様子を窺い、スマートフォンをこちらへ向けている者もいる。少し離れた場所では、誰かが警察へ電話をかけていた。

「公園で男の人が殴られてて……はい。たぶん特殊能力者で……」

 途切れ途切れの声が、湿った風に乗って聞こえてくる。

 カマタもようやく周囲へ目を向けた。

 肩を大きく上下させながら、集まった人々を順番に見回していく。

 さすがに、これ以上ここへ留まるのはまずい。

 いや、もう十分すぎるほど騒ぎになっていた。

「……チッ」

 カマタが舌打ちする。

 それからもう一度、地面に倒れているマキバへ視線を戻した。

 先ほどまでの激しい怒りは、わずかに形を変えていた。

「次、邪魔したら本当に殺す」

「……それでも止める」

 マキバは迷わず答えた。

 カマタの眉が動く。

 何かを言いかけて口を開いたものの、結局その言葉は出てこなかった。

 数秒だけマキバを睨み、それから吐き捨てる。

「バカが」

 その声には、先ほどまでの怒気だけではないものが混じっているように聞こえた。

 次の瞬間、カマタの輪郭が揺らいだ。

 黒い服が陽炎のように歪み、鋭い目も、険しい表情も、真昼の光へ溶け込むように薄くなっていく。

 数秒もしないうちに、その姿は完全に見えなくなった。

 そこにはもう、誰もいなかった。

 残されたマキバは、しばらく地面から起き上がれなかった。

 全身が痛んでいる。

 最初に蹴られた腹。ベンチへ打ちつけた肩と背中。何度も蹴られた脇腹と太腿。胸ぐらを掴まれていた首元も、擦れた皮膚がじんじんと熱を持っていた。

 どこか一か所が特別に痛いというより、身体全体が重い。

 息を吸えば脇腹が痛み、腕を動かせば肩が軋む。ほんの少し身体の向きを変えるだけで、それまで気づかなかった場所から新しい痛みが浮かび上がってきた。

「だ、大丈夫ですか?」

 近くから、恐る恐る声をかけられた。

 マキバが顔を上げる。

 先ほどベンチで弁当を食べていた会社員らしい男性が、数メートル離れた場所に立っていた。

 心配してくれているのだろう。

 だが、ついさっきまで特殊能力者らしい男が暴れていたのだ。下手に近づけば、自分まで巻き込まれるかもしれない。その迷いが、踏み出せない足元や強張った表情から伝わってきた。

 マキバは地面へ両手をついた。

 腕に力を込め、ゆっくりと上半身を起こす。

 そのまま立ち上がろうとした瞬間、視界がわずかに揺れた。

 思わず膝へ手をつく。

 数秒その姿勢で耐え、眩暈が引くのを待ってから、もう一度身体を起こした。

 何とか立てた。

 マキバは男性へ軽く頭を下げる。

「大丈夫です」

 もちろん、大丈夫ではなかった。

 服は汚れ、全身は痛み、まともに歩けるかどうかさえ怪しい。

 それでも、今はそう答えるしかなかった。

 説得は、うまくいったのだろうか。

 マキバにはわからなかった。

 カマタは怒った。

 何度も自分を蹴りつけ、最後まで「トンダを殺さない」とは言わなかった。

 約束させることもできなかった。

 考えを変えたという言葉も聞けていない。

 結果だけを見れば、失敗したと言われても仕方がない。

 それでも、最後の瞬間。

 カマタは何も言い返さなかった。

 ――ユウミは戻らない。

 ――ユウミが残したものまで殺すことになる。

 そう告げた時だけ、確かに彼の言葉が止まった。

 ほんの一瞬だった。

 けれど、その目には、それまでの怒りとは違う何かが浮かんだように見えた。

 迷いだったのかもしれない。悲しみだったのかもしれない。

 それとも、自分の言葉が届いたと思いたいマキバが、勝手にそう見ただけなのかもしれない。

 心の声を聞けても、その答えまではわからない。

 今のマキバには、まだ判断できなかった。


 午後。

 マキバが特殊対策室へ戻ると、事務所の空気が一瞬で変わった。

 扉を開けた途端、それまで思い思いに過ごしていた面々の視線が、一斉にこちらへ集まる。

 マキバ自身は、なるべく普段通りに入ってきたつもりだった。

 けれど、服には土埃がつき、頬には赤黒い腫れが浮かんでいる。口元も切れていた。歩き方もわずかにぎこちなく、脇腹を庇うように身体が傾いている。

 どう見ても、普通に昼休みを過ごして帰ってきた人間の姿ではなかった。

 最初に声を上げたのは、マチヤユミだった。

「マキバくん、どうしたの!?」

 床に座って弄んでいたおもちゃを放り出し、慌てて駆け寄ってくる。

「顔、すごいことになってるよ!」

「あっ、えーと……」

 マキバは笑って誤魔化そうとした。

 だが、頬を動かしただけで口元の傷が引きつり、鈍い痛みが走る。結局、笑顔らしいものにはならなかった。

「転びました」

「転んだんですか!」

 少し離れたところから、モテギハナの大きな声が飛んできた。

「ドジですね!」

 そして、からからと笑う。

 悪気はない。おそらく本当に、派手に転んだだけだと思っている。

「それにしても、すごい転び方ですね!階段から落ちたんですか?」

「いや、まあ……そんな感じ」

「どこで転んだら、そんな打撲だらけになるんだよ」

 低い声が割り込んだ。

 ヤマナシアズミだった。

 それまで眺めていたスマートフォンを机へ置き、椅子に座ったままマキバをじっと見つめている。

 その目は、まったく笑っていなかった。

「嘘つけ!」

 今度はカモイヨシエが勢いよく立ち上がった。

「誰がやった!?殺してやる!」

 言葉とほとんど同時に、事務所の空気がわずかに重くなった。

 机の上に置かれていたペンがころりと転がり、棚の中のファイルがかすかに揺れる。床板が低く軋み、身体へ見えない重しを載せられたような圧迫感が広がった。

 カモイの感情に、能力が反応している。

 マキバは慌てて両手を振った。

「いや、本当に大丈夫ですから」

「大丈夫なわけないでしょ!鏡見ろ!」

「カモイさん、意外と仲間想いですね……」

 ナガヤマミナミが、机の陰からぼそりと言った。

「意外って何よ!?」

「普段の言動が悪すぎるので……」

「ナガヤマ!」

 怒鳴り声が飛ぶ。

 ナガヤマは肩をすくめ、何事もなかったように視線を逸らした。

 事務所がいつもの騒がしさを取り戻しかける中、ヤマナシだけは何も言わなかった。

 ただ、マキバを見ていた。

 目が合う。

 マキバは、ほんの少しだけ肩をすくめてみせた。

 ――うまくいったのかどうか、わからない。

 そんな意味を込めたつもりだった。

 ヤマナシにも伝わったらしい。

 彼女は一瞬だけ目を伏せ、それから深く息を吐いて額へ手を当てた。

「アンタって本当に……」

 呆れたように呟く。

 怒っているのか、心配しているのか、それとも両方なのか。

 最後まで言葉にはせず、そのまま口を閉じた。

 その時、トンダユウイチが椅子から立ち上がった。

 騒ぎに加わるでもなく、少し離れた場所からマキバの姿を静かに見ていたらしい。

「マキバくん」

「はい」

「病院へ行った方がいいように見えますが」

「あ、いや、大丈夫です」

「大丈夫には見えません」

 トンダの視線が、マキバの顔から肩、脇腹、汚れた服へと静かに移っていく。

「顔も腫れていますし、歩き方もおかしいですよ」

「本当に、そこまででは……」

 マキバが言い訳を続けようとした、その時だった。

 背後から、扉の開く音がした。

 その音に反応するように、事務所にいた全員が一斉に振り返る。

 入口に、一人の男が立っていた。

 ――カマタリョウガだった。

 それまで騒がしかった事務所が、嘘のように静まり返った。

 昼の公園で見た時と同じ、黒を基調としたパンク風の服装。細身の身体も、相手を射抜くような鋭い目つきも変わらない。

 けれど、表情にはわずかな疲労が滲んでいた。

 単に歩き疲れたという顔ではない。

 何かを長い時間考え続け、何度も同じところを巡り、それでも答えを出し切れないまま、最後にはここへ足を向けてしまった。そんな疲れ方に見えた。

「あっ!」

 重たい沈黙を最初に破ったのは、やはりマチヤだった。

 目を輝かせ、嬉しそうにカマタを指差す。

「カマタくん、ひさしぶりー!」

「マチヤさん、久しぶりです」

 カマタは、ごく普通に返した。

 声にも態度にも気負いがない。

 まるで数時間前までここで働いていて、昼食でも買いに外へ出ていただけのような口調だった。

 その自然さが、かえって異様だった。

 カモイが、ゆっくりと目を吊り上げる。

「アンタ……どのツラ下げて来てんの?」

「カモイさんは相変わらず太いッスね」

「……」

 カモイの顔から、すっと表情が消えた。

 あまりにも見慣れた危険な兆候に、その場にいた何人かが反射的に身構える。

 ナガヤマは椅子ごとわずかに後ろへ下がり、モテギは意味もなく両手を胸の前に構えた。マチヤだけは何が起きるのかわかっていないのか、きょとんとしている。

 カモイは何も言わず、しばらくカマタを睨んでいた。

 そして、ふと何かに気づいたように視線を横へ動かす。

「……まさか」

 マキバを見る。

 腫れた頬。切れた口元。土埃で汚れた服。

 そして、痛みを堪えるように無意識に庇っている脇腹。

 カモイの視線が、その一つ一つを確かめるように辿っていった。

 それから、ゆっくりとカマタへ戻る。

「マキバをやったの、アンタ?」

「そうです」

 カマタは何の躊躇もなく答えた。

 言い訳もしない。隠そうともしない。

 次の瞬間、床が大きく軋んだ。

 事務所全体へ、突然見えない重しを落とされたような圧力がかかる。

 空気そのものが一段重くなった。

 机の上に積まれていた書類が押し潰されるように沈み、ペンがころりと転がる。椅子の脚が床板へ食い込むような音を立て、棚の中ではファイル同士が低く擦れ合った。

 マキバの身体にも、上から押さえつけられるような重圧がのしかかる。

「殺す」

 カモイが低く言った。

 先ほどまでの怒鳴り声よりも、その静かな一言の方が遥かに恐ろしかった。

 片手がゆっくりと持ち上がる。

 カマタも逃げようとはしなかった。むしろ、どこか面倒そうにカモイを見返している。

 だが、その手が振り下ろされるより早く、トンダが口を開いた。

「カモイさん」

 静かな声だった。

「やめなさい」

「でも!」

「やめろ」

 語気が変わった。

 ほんの短い一言だった。怒鳴ったわけでもない。

 それでも、カモイの動きはそこで止まった。

 持ち上げた手が空中で固まり、唇が悔しそうに歪む。

 しばらくカマタを睨みつけていたが、やがて奥歯を噛みしめたまま、乱暴に手を下ろした。

 その瞬間、事務所を覆っていた重圧がふっと消えた。

 押しつけられていた床板が、小さく軋みながら元へ戻る。

 誰からともなく、止めていた息を吐く気配がした。

 カマタはカモイには構わず、そのまま室内へ足を踏み入れた。

 誰とも目を合わせず、一歩ずつトンダの方へ歩いていく。

 靴音が床を叩くたび、事務所の空気がわずかに張り詰める。

 誰も口を開かなかった。マチヤでさえ、今だけは黙っている。

 やがて、カマタはトンダの前で足を止めた。

 二人が向き合う。

 かつての上司と部下。

 そして、一度は本気で互いの命を奪おうとした者同士だった。

 トンダはいつもと変わらない穏やかな表情で、カマタを見ている。

 カマタは頭を下げなかった。

「……先に言っとくが」

 低い声で切り出す。

「頭は下げませんよ」

 事務所の空気が、またわずかに硬くなる。

「悪いことしたと思ってねえから」

 カマタは、はっきりと言った。

 自分がトンダを殺そうとしたことを謝るつもりはない。後悔もしていない。

 その意思を隠そうともしていなかった。

 トンダはわずかに目を細めた。

 けれど、不快そうな顔をするでもなく、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。

「奇遇ですね」

「……」

「僕も同じ気持ちです」

 カマタの口元が、皮肉げに歪んだ。

「でしょうね」

「はい」

 それきり、短い沈黙が落ちた。

 謝罪もない。許しもない。

 どちらも自分が間違っていたとは思っていない。

 そんな二人が、ただ何事もなかったように向かい合っている。

 マキバは息を詰め、その様子を見守っていた。

 カマタは今も怒っている。トンダを許したわけではない。

 それは目を見ればわかった。

 けれど、昼の公園で見た時とは違う。

 あの時のカマタの目には、トンダを殺すこと以外、何も映っていないように見えた。

 ――今は違った。

 怒りもある。憎しみもある。

 それでも、それだけではない何かが残っている。

「アンタは嫌いだ」

 カマタが言った。

「はい」

「今でも殺したいと思ってる」

「でしょうね」

「……でも」

 そこで初めて、カマタの視線が落ちた。

 床を見つめたまま、数秒黙り込む。何を言うべきか迷っているようにも見えた。

 やがて顔を上げると、ゆっくりと事務所の中を見回した。

 カモイ。

 マチヤ。

 モテギ。

 ナガヤマ。

 ヤマナシ。

 そして、マキバ。

 視線が一人ひとりの上を通り過ぎていく。

 最後に目を向けたのは、トンダの机に置かれた、星形の眼鏡をかけた奇妙なぬいぐるみだった。

 ――キョウコ。

 カマタはそれをしばらく見つめ、小さく息を吐いた。

「この職場と、この仕事は好きだ」

 その言葉に、ヤマナシがかすかに息を呑んだ。

 カマタ自身も、その台詞を口にすることにどこか居心地の悪さを感じているようだった。

 それでも、撤回はしなかった。

 トンダへ視線を戻す。

「復職させてもらう」

 誰かが反応するより早く、トンダは答えた。

「わかりました」

 一秒も迷わなかった。

 あまりにもあっさりとした返事だった。

 カマタ自身も少し意外だったのか、眉がわずかに動く。

「ちょっと!」

 当然、黙っていられなかったのはカモイだった。

「何を勝手に決めてんのよ!」

「復職を認めます」

 トンダは平然と言う。

「私は認めてないわよ!」

「人事権は僕にあります」

「そういう問題じゃないでしょ!」

 カモイの怒鳴り声が事務所に響く。

 けれど、カマタはそちらを見ようともせず、トンダを見たままだった。

「……ただし」

「はい」

「殺しは、もうやらない」

 トンダの目が、ほんの少しだけ細くなった。

「ほう……」

 その反応を見ても、カマタは言葉を撤回しなかった。

「マキバみたいに、口で相手をどうにかするなんて無理だ。オレには、あんな気持ち悪い共感能力も、頭のおかしい忍耐力もねえ」

「それ、褒めてるの?」

 マキバが思わず尋ねた。

 カマタは横目で睨む。

「貶してる」

「そうですか」

「だから、オレはオレのやり方でやる」

 カマタは続けた。

「可能な限り、生きたまま捕まえる。抵抗するなら動けなくする。拘束して、逃げられねえようにする」

 一度、言葉を切る。

「それでも話を聞く必要があるなら、その先はマキバに投げる」

「結局、僕に投げるんだね」

「適材適所だ」

「便利に使われそうだな……」

 マキバは苦笑した。

 身体中がまだ痛むせいで、その笑みさえ少し引きつった。

 トンダは二人のやり取りを眺めながら、いつもの穏やかな表情を崩さなかった。

「……どうぞご勝手に」

 カマタが眉を寄せる。

「軽いな」

「仕事をしてくれるなら、方法にはそれほど口出ししませんよ」

「殺さないって言ってんのに?」

「それも一つの方法でしょう」

 トンダは何でもないことのように答えた。

 カマタは、しばらくその顔を見つめていた。

 自分が殺さないと言っても、この男は褒めもしない。考えを改めろとも言わない。

 たぶん、カマタが以前のように殺し続けると言ったところで、同じように受け入れたのだろう。

 それが腹立たしくもあり、同時に、妙にこの男らしくもあった。

 二人はしばらく無言のまま見つめ合った。

 和解ではない。許しでもない。

 カマタはトンダを憎んでいる。

 トンダも、自分のしたことを悔いてはいない。

 過去が消えたわけでもなければ、互いの価値観を理解し合ったわけでもなかった。

 それでも今、二人は同じ場所に立っている。

 そして少なくとも、この瞬間だけは、互いを殺そうとはしていなかった。

「オイコラ!」

 しばらく黙っていたカモイが、とうとう我慢できなくなったように二人の間へ割って入った。

「私はまだ認めてないからね!」

「カモイさんの許可はいらねえだろ」

 カマタは面倒そうに答える。

「何だと!?」

「相変わらず声でかいし、態度でかいし、横にもでかいな」

 一瞬の沈黙。

 カモイのこめかみに青筋が浮かんだ。

「マジで殺す!」

「カモイさん、落ち着いてください!」

 再び空気が物騒になりかけたところへ、モテギが慌てて飛び込んできた。

 二人の間に立ち、両腕を大きく広げる。

 止めに入ったはずなのに、その顔にはなぜか満面の笑みが浮かんでいた。

「せっかくカマタさんが戻るんですから、喧嘩している場合ではありません!」

「アンタは黙ってろ!」

「まずは歓迎会をしましょう!」

「話聞いてる!?」

 カモイが怒鳴る。

 だが、モテギはまったく怯まなかった。

 むしろ何かを思いついたように目を輝かせ、勢いよく拳を握る。

「カマタさんが戻ってきたのは私のおかげですね!」

 得意げに胸を張った。

 マキバが思わず首を傾げる。

「え?どういうこと?」

「簡単です!」

 モテギは自信満々に答えた。

「私が日頃から職場を明るくしていたので、カマタさんも『あの楽しい職場に戻りたい!』と思ったのです!」

「たぶん違うと思うけど」

「違いません!」

「いや、違うぞ」

 カマタ本人が即座に否定した。

 それでもモテギは微塵も動じなかった。

「本人がまだ気づいていないだけです!」

「何でお前がオレの気持ち決めてんだよ」

 根拠のない自信だけは、相変わらずだった。

 その横で、マチヤは一連のやり取りなどほとんど聞いていなかったらしい。

 カマタが復職するという事実だけを理解すると、嬉しそうにその場でぴょんと跳ねた。

「カマタくん戻るの!?やったー!」

 その笑顔を見て、カマタの険しかった表情がほんの少し緩んだ。

「マチヤさんは変わらねえな」

「カマタくんも変わらないねー」

「これでも変わったつもりなんだけどな」

 カマタは苦笑する。

 マチヤは不思議そうに首を傾げ、頭の先から足元までカマタを眺めた。

「うーん……」

「何スか?」

「見た目は変わってないよ!」

「そりゃどうも」

「髪も同じ!」

「そこはどうでもいいでしょ」

 マチヤは楽しそうに笑った。

 少し離れたところでは、ナガヤマが机の陰から半分だけ顔を出し、警戒するようにカマタを眺めていた。

「私は……まあ、どちらでもいいですけど……」

 いかにも興味がないという口調だったが、完全に無関心というわけでもなさそうだった。

 カマタはそんな彼女を見て、懐かしそうに目を細める。

「ナガヤマ、お前も相変わらず陰気だな」

「カマタさんこそ、相変わらず口が悪いですね……」

「元気そうで何よりだ」

「元気ではないです……」

 ナガヤマは不機嫌そうに呟きながら、また少し机の陰へ引っ込んだ。

 その時だった。

 トンダの机の上で、ぬいぐるみが突然ぴょんと跳ね上がった。

「やっほー!」

 キョウコだった。

 星形の眼鏡をきらりと光らせるようにして、小さな身体で大げさなポーズを決める。

「カマタくん!おかえりー!」

 カマタの顔が、露骨に引きつった。

「起きてたんスか」

「今起きた!」

「最悪のタイミングだな」

「ひどーい!私、カマタくんのことけっこう好きなのにー!」

「オレは苦手です」

「正直!」

 キョウコはけらけらと笑った。

「また楽しくなりそうだねー!」

 そう言って机の上で一度弾むと、そのままトンダの肩へ飛び乗る。

 トンダは慣れた様子で、落ちないように小さな身体を片手で支えた。

 カマタは、その光景をしばらく黙って見つめていた。

 嫌悪。懐かしさ。苛立ち。

 そして、それらをすべてまとめて飲み込むような、どうしようもない諦め。

 いくつもの感情が表情の上へ浮かびかけては、すぐに消えていった。

 やがてカマタは視線を動かし、ヤマナシとマキバを見た。

「……これで満足か?」

 マキバは、すぐには答えなかった。

 カマタは戻ってきた。

 少なくとも今は、トンダを殺すことをやめた。そして、自分の口で「もう殺さない」と言った。

 それで十分なのかと問われれば、簡単には頷けなかった。

 トンダの歪さが消えたわけではない。キョウコの危うさも、カモイの過激さも変わらない。マチヤは相変わらず無邪気で、モテギは空回りし、ナガヤマは陰気なままだ。ヤマナシだって、抱えているものをすべて乗り越えたわけではない。

 そして何より、カマタ自身が今日から別人になるわけではなかった。

 きっと、また腹を立てる。

 誰かを殺したいと思うこともあるだろう。

 弱い特殊能力者への憎しみと、ユウミから受け取ったものとの間で、何度も揺れることになるのかもしれない。

 人間は、たった一度の会話で綺麗に生まれ変われるほど単純ではない。

 それでも今日、カマタはここへ戻ってきた。

 トンダを殺すためではない。

 この職場と、この仕事が好きだから戻るのだと、自分の口で言った。

「……まあ、そうだね」

 マキバはようやく答えた。

「完全に満足ってわけじゃないけど」

「贅沢言うな」

「カマタくんに蹴られた件も残ってるし」

「それは悪いことしたと思ってねえ」

「そこは思ってよ」

「痛かったか?」

「痛かったよ」

「そうか」

「それだけ?」

 カマタは少し考えた。

「……今度、昼飯奢る」

「前のランチセット代も払ってないよね」

「まとめて払う」

「本当に?」

「たぶん」

「たぶんか……」

 マキバが呆れていると、その隣でヤマナシがずっと黙っていることに気づいた。

 カマタも同じことに気づいたらしい。

 二人の視線が重なる。

 しばらく、どちらも口を開かなかった。

 かつて、同じ職場で働いていた二人。

 ある日、何も告げずに姿を消した男。

 その男を、それでもどこかで仲間だと思い続けていた女。

 いろいろな言葉が必要なはずだった。

 どうしていなくなったのか。何をしていたのか。なぜ戻ってきたのか。

 腹が立ったことも、心配したことも、言いたいことはいくらでもあったはずだった。

 けれど、ヤマナシは何も聞かなかった。

 いつものように少し不機嫌そうな、そっけない顔でカマタを見ている。

 ただ、その目だけがわずかに揺れていた。

 光の加減かもしれない。

 けれどマキバには、ほんの少しだけ潤んでいるように見えた。

 ヤマナシは一度視線を落とした。

 そして、もう一度カマタを見る。

「おかえり」

 短い一言だった。

 カマタの目が、わずかに見開かれる。

 何かを言おうとして口を開いた。

 けれど、すぐには言葉が出なかった。

 数秒の沈黙の後、カマタは困ったように、それでいてどこか照れ臭そうに口元を緩めた。

「……ただいま」

 その一言が落ちた瞬間、張り詰めていた事務所の空気が、ようやく少しだけ緩んだ。

「歓迎会しよー!」

 真っ先にマチヤが騒ぎ始める。

「幹事は私がやります!」

 モテギが勢いよく手を挙げた。

「絶対グダグダになる……」

 ナガヤマが机の陰で呟く。

「私はまだ認めてないからね!」

 カモイがしつこく怒鳴った。

「子豚ちゃん、ツンデレー!」

 キョウコがすかさず煽る。

「誰がツンデレだ!あと、子豚言うな!」

 カモイの怒りに反応して、空間の重力が再びわずかに歪みかける。

「暴れるな」

 トンダが静かに止めた。

 騒がしい。呆れるほど、いつもの特殊対策室だった。

 異常で、危険で、倫理観もどこか壊れていて、まともな職場とは到底言い難い。

 誰かが怒鳴り、誰かが余計なことを言い、誰かがそれを煽り、最後にはトンダが止める。

 そんな場所だった。

 それなのに、こんな場所が、誰かにとっては帰ってくる場所になってしまう。

 昼間の説得が成功したのかどうか、マキバには今もわからなかった。

 カマタの怒りは消えていない。トンダの冷酷さも変わっていない。

 この先、また二人が衝突することもあるだろう。もっと大きな問題が起きるかもしれない。

 何も綺麗には解決していない。

 けれど今日は、誰も死ななかった。

 そして、一人が帰ってきた。

 それだけで十分だ、とまでは思わない。

 それでも今だけは、その小さな変化を否定したくなかった。

 マキバは騒がしい事務所の中で、その事実を胸の奥へそっとしまい込んだ。

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