第5話 愛の範囲
キョウコの一件を境に、マキバダイスケは世間から激しく叩かれるようになった。
厚生労働省前でデモを行っていた特殊能力者支援団体の構成員たちは、全員死亡した。
正確に言えば、彼らを殺したのはマキバではない。殺したのは、トンダユウイチの妻――キョウコだった。
肉体を失い、今は星形の眼鏡をかけた奇怪なぬいぐるみに思念を宿している女。
頭に思い描いたものを現実として具現化する、ほとんど神に近い力を持つ特殊能力者。
そのキョウコが、厚生労働省の前に座り込んでいた人々を殺した。
彼らは武器を持っていたわけではない。誰かに襲いかかっていたわけでもない。ただその場に座り込み、プラカードを掲げ、自分たちの声を社会に届けようとしていただけだった。
キョウコは、そんな彼らを文房具へ変えた。
人としての意識だけを残したまま、鉛筆に、消しゴムに、定規に、ホチキスに。
身体を奪われても、彼らの意識は消えなかった。自分の身に何が起きているのかを理解できるまま、叫ぶための口も、逃げるための足も、助けを求めて手を伸ばすことすらできない物体へと変えられた。
それでも恐怖は消えない。苦痛も消えない。人間としての感覚だけを残したまま、自分の身体がすでに人間ではなくなっているという異常を、彼らは意識の中で味わい続けた。
そして、十分に恐怖と苦痛を味わわせたあと、キョウコは彼らを再び人間に近い姿へ戻した。
ただし、それはもう、人間と呼べる形ではなかった。
身体は歪み、捻じれ、関節は本来とは異なる方向へ折れ曲がり、あり得ない位置から手足が生えていた。人間の部品だけを無秩序につなぎ合わせたような、見る者の生理的な嫌悪を誘う肉の塊だった。
それでも、まだ終わりではなかった。
最後にキョウコは、それらすべてを破裂させた。
まるでくだらない遊びの仕上げでもするように。笑いながら。
それが、あの日に起きたことだった。
しかし、そんな真実を世間が信じるはずもなかった。
ぬいぐるみが人間を殺した。
しかも、そのぬいぐるみは国内最強の特殊能力者として知られるトンダユウイチの妻で、すでに肉体を失っている。死んだはずの女の思念だけがぬいぐるみに宿り、その状態で存在し続けている。さらに、その女には頭に思い描いたことを現実へ変える、ほとんど神に近い力がある。
何も知らない人間が聞けば、出来の悪い怪談か、子どもの作った荒唐無稽な物語にしか聞こえない。
そんな話を政府や関係機関が、そのまま公式に発表できるはずもなかった。仮にありのまま公表したところで、どれほどの人間が信じるかもわからない。むしろ、特殊対策室が責任逃れのために奇妙な嘘を並べている、と受け取られる可能性の方が高かった。
結果として、事件はもっと単純で、世間にも理解しやすい形へと整えられた。
『特殊対策室所属の若手能力者、厚労省前の能力者団体を制圧』
『“殺さない解決”で注目された特殊能力者、ついに方針転換か』
『平和的デモが一転、参加者全員死亡――能力者対策の透明性に疑問』
テレビでは連日のように似た見出しが流れ、新聞もネットニュースも事件を大きく取り上げた。
実名こそ伏せられていたが、それに大した意味はなかった。過去に撮影された映像では顔にぼかしが入り、写真も一部加工されている。それでも、細い体格や髪型、特殊対策室に所属する若手能力者という情報、それまで報じられてきた事件とのつながりを追えば、それが誰なのかは容易に推測できた。
少なくとも、マキバダイスケという人間を以前から知っている者なら、すぐにわかった。
誰も傷つけずに事件を解決する青年。弱い特殊能力者の声を聞く男。
殺すことを当然と考える特殊能力者たちの中で、愚直なほど「殺さない」ことにこだわり続けてきた人間。
これまで、マキバはそういう存在として扱われていた。
そのマキバダイスケが、ついに弱い特殊能力者たちを殺した。
世間にとって、それは格好の材料だった。英雄が人を救うより、善人が転落する方が話題になる。持ち上げた人間を、今度は同じ口で引きずり下ろす。
メディアは連日のように事件を取り上げ、評論家や有識者と呼ばれる人間たちは、それぞれ好き勝手にマキバの思想や人格まで語った。
実際に現場で何が起きたのかを知らない者まで、「もともと危険な思想を持っていたのではないか」「殺さないという主張そのものが偽善だったのではないか」と、もっともらしい顔で論じた。
そして、ネット上ではさらに露骨だった。
『ほら見ろ、結局殺すんじゃん』
『偽善者の本性出たな』
『今まで助けてたのも全部パフォーマンスだったんだろ』
『デモ隊が死んだのはざまあだけど、こいつは普通に気持ち悪い』
『殺すなら最初から殺せよ』
『中途半端に善人ぶってるやつほど怖いんだよ』
『弱者の味方ヅラして最後は虐殺。草』
名前も顔も知らない人間たちが、画面の向こうからマキバを裁いた。
マキバが何を考えていたのか。あの場所で何を見たのか。誰を止めようとしたのか。そして、何を守れなかったのか。
そんなことは、誰も知らない。知ろうともしなかった。
特殊対策室の事務所へ直接届く手紙も、目に見えて増えた。
以前から、マキバを嫌う人間はいた。むしろ、決して少なくなかった。当時よく届いていたのは、
『犯罪者を生かすな』
『お前のせいでまた被害者が出る』
『綺麗事を言うな』
そういった種類の罵倒だった。
危険な特殊能力者を殺さず、生かしたまま捕らえようとするマキバへの非難だった。
それが今度は、正反対のものへ変わった。
『人殺し』
『偽善者』
『お前が殺した人たちに謝れ』
『やっと本性を出したな』
『弱者の味方じゃなかったのか』
『このまま消えろ』
結局、何をしても叩かれるのだ。
弱い特殊能力者を救えば、「犯罪者を甘やかすな」と罵られる。
弱い特殊能力者が死ねば、「弱者を殺した」と罵られる。
殺すなと言われ、殺せと言われる。助けろと言われ、助けるなと言われる。
昨日までマキバを偽善者と笑っていた人間が、今日は人殺しと呼んでいる。
矛盾していた。理不尽だった。
それでも、マキバはどちらにも反論できなかった。
自分が直接彼らを殺したわけではない。傷つけようと思ったことすらない。それは紛れもない事実だった。
だから、「僕が殺したんじゃない」と言うことはできた。すべてキョウコがやったことで、自分には責任がないと言い張ることもできた。
けれど、マキバにはできなかった。
なぜなら、止められなかったからだ。
あの場所に、自分はいた。すぐそばにいた。
そして、聞こえていた。
彼らの心の声が。
恐怖。怒り。屈辱。
突然、人間ではない何かへ変えられた混乱。
自分の身体に何が起きているのかわからない絶望。
そして、誰か助けてくれと願う声。死にたくないと叫ぶ声。
全部、聞こえていた。
一つ残らず、マキバの中へ流れ込んできていた。
それなのに、何もできなかった。
助けを求める声を聞くことができる。他の誰にも届かない声に気づくことができる。
これまでマキバは、それを自分の力だと思っていた。
声を聞けば、その人間の痛みを理解できる。理解できれば、何かを変えられるかもしれない。そう信じていた。
けれど、聞こえることと、救えることは違う。
どれほど鮮明にその声を聞くことができても、そこから救い出せなければ、その力に何の意味があるのか。
世間が自分を何と呼ぶかは、本当はどうでもよかった。偽善者でも、人殺しでも、好きに呼べばいい。
マキバの胸に残っているのは、そんな言葉ではなかった。
助けを求めていた人々の声だった。
最後まで自分には聞こえていたのに、救うことのできなかった声。
その事実だけが消えることなく、重い塊となって、いつまでもマキバの胸の奥に沈み続けていた。
特殊対策室の事務所では、昼前の情報番組が流れていた。
壁際に置かれたテレビから、必要以上に落ち着いた司会者の声が響いている。窓の外は明るく、街はいつも通り動いていた。仕事の電話が鳴り、誰かが受話器を取る。パソコンのキーボードを叩く音も、書類をめくる音も聞こえる。
それなのに、テレビの中だけは、数日前の事件から時間が止まったようだった。
画面には厚生労働省前の映像が映し出されている。規制線の向こうに並ぶ警察車両。慌ただしく動く関係者たち。
そして画面の端には、大きな文字で、
『能力者団体全員死亡――現場で何が?』
と表示されていた。
スタジオでは、スーツ姿のコメンテーターが眉間に皺を寄せ、いかにも難しい問題について考えているような顔で口を開いた。
『これまでこの特殊能力者については、“殺さない制圧”を徹底する若い能力者として評価する声もありました。しかし今回の件を受けて、やはり実際の現場では、そのような綺麗事だけでは済まないのではないかという意見も出ています』
隣に座る女性コメンテーターが、慎重な口調で続ける。
『ただ、亡くなった方々については、当時、暴力行為を行っていなかったという複数の証言もありますよね』
『そこは今後、詳しい調査が必要でしょう』
『少なくとも、特殊対策室側には、なぜこのような結果になったのか説明する責任があると思います』
もっともらしい言葉が、次々とテレビから流れてくる。
誰も、真実を知らない。
知らないまま状況を整理し、責任の所在を論じ、誰が正しくて誰が間違っているのかを決めようとしている。それは報道として当然のことなのかもしれない。
けれど、実際にあの場所にいたマキバには、その言葉の一つ一つが現実から少しずつずれているように聞こえた。
マキバは自分の机に座ったまま、黙ってテレビを見ていた。
反論したいとは思わなかった。むしろ、何を言えばいいのかわからなかった。
――自分が殺したのではない。
そう言えば済むのかもしれない。だが、それだけで済ませていいとも思えなかった。
テレビの前では、マチヤユミがソファに寝転がり、ポテトチップスの袋を抱えていた。深刻なニュースが流れているというのに、彼女だけはいつも通りだった。
袋の中へ手を突っ込みながら、何気なく言う。
「マキバくん、また有名人だねー」
「そういう言い方、やめてください」
すぐにヤマナシアズミが低い声でたしなめた。
マチヤはポテトチップスを一枚くわえたまま、きょとんとする。
「えー?だってテレビ出てるし」
「本人が嬉しそうに見えます?」
マチヤは言われるままマキバを見る。
マキバは笑っていなかった。
「……見えない」
「じゃあ黙ってて」
「ヤマナシちゃん、こわーい」
「怖くて結構」
ヤマナシはそう言って、再びパソコンへ視線を戻した。
だが、仕事をしているようには見えなかった。さっきから同じ画面を開いたまま、ほとんど手が動いていない。時折マキバの方を気にするように視線だけを動かし、そのたびに何事もなかったように画面へ戻している。
彼女なりに、マキバを気にしているのだろう。
少し離れたところでは、カモイヨシエが腕を組み、テレビを睨みつけていた。
「まったく!いい迷惑よ!」
「すみません……」
マキバは反射的に謝った。
言ってから、自分でもなぜ謝ったのかわからなかった。
「いや、マキバは悪くないよ」
ヤマナシが即座に顔を上げる。
いつもより少し強い口調だった。
「悪いの、キョウコさんでしょ」
その名前が出た瞬間、事務所の空気がわずかに止まった。
それまでそれぞれの作業をしていた人間たちの視線が、ゆっくりとトンダのデスクへ集まる。
そこには、星形の眼鏡をかけた奇怪なぬいぐるみが置かれていた。
――キョウコ。
ぬいぐるみは微動だにしない。
机の上に転がるように横たわり、完全に沈黙している。まるで今回の騒動など、自分には何の関係もないと言わんばかりだった。
もっとも、ぬいぐるみなのだから表情など変わるはずもない。目も動かない。口元も、最初から笑ったような形のままだ。
だからこそ、その沈黙が今のマキバには妙に腹立たしく見えた。
あれだけのことをした本人が、眠っている。
大勢の人間を殺したことも。そのせいで自分が世間から叩かれていることも。
何もかも置き去りにして、まるで自分だけが事件の外側にいるように。
もちろん、キョウコが本当にそう考えているのかはわからない。
ただ、少なくとも今のマキバには、そう見えてしまった。
「……寝てるんですか?」
マキバが聞くと、トンダユウイチは書類から顔を上げ、デスクの端に転がっているキョウコを一瞥した。
「はい。しばらく起きないでしょうね」
「……都合がいいですね」
口から出た声は、自分で思っていた以上に冷たかった。
事務所にいた何人かが、驚いたようにマキバを見る。普段の彼なら、まず口にしない種類の言葉だった。
だが、トンダは気分を害した様子もない。むしろ、わずかに苦笑しながら眼鏡の位置を直した。
「そうですね。キョウコは昔から、都合のいい時に起きて、都合のいい時に寝る女ですから」
その言い方にすら、マキバは苛立った。
まるで、困った妻のちょっとした悪癖について話しているようだった。寝坊が多いとか、片づけが苦手だとか、その程度の話をしているように聞こえる。
「管理できないんですか」
「できません」
即答だった。
あまりにもあっさりしていて、マキバは思わずトンダを見る。
「できない?」
「はい。僕にも、彼女を完全に制御することはできません」
「だったら、どうして現場に出したんですか」
マキバの声が少し強くなる。
「出したわけではありません」
「え?」
「勝手についてきたんです」
トンダは淡々としていた。
「止めても来ます。閉じ込めても出てきます。置いていっても、気づけば現場にいる。そういう女です」
「それでも……」
マキバは言葉に詰まった。
そんな説明で納得できるはずがない。
制御できないほど危険な存在なら、なおさら何か方法を考えるべきではないのか。少なくとも、「勝手についてきた」で終わらせていい話ではない。
あの日、実際に人が死んでいる。それも、一人や二人ではない。
「……マキバくん」
トンダの声が、わずかに低くなった。
怒っているわけではなかった。むしろ先ほどまでより静かで、柔らかい声だった。
「責任の話をするなら、僕の責任です。君ではありません」
マキバは黙ってトンダを見る。
その言葉は優しかった。少なくとも、言葉だけを聞けば。
マキバを庇おうとしている。世間から何を言われようと、自分が責任を引き受けると言っている。その意図は理解できた。
だが、素直に受け取ることはできなかった。
トンダは「責任」と言った。
では、その責任をどう取るつもりなのか。
キョウコを止められなかったことを悔いているのか。あそこで死んだ人々について、少しでも思うところがあるのか。
彼らにも家族がいた。仕事や生活があった。怒りがあり、不満があり、それでも何とか自分たちの声を届けようとしていた。そして最後には、恐怖の中で助けを求めていた。
その声を、トンダは知ろうとしているのだろうか。
マキバにはわからなかった。
目の前にいる男の穏やかな表情からは、何も読み取れない。
その時、ぱり、と乾いた音がした。
マチヤがポテトチップスを噛んだ音だった。
「でもさー」
彼女はテレビを見ながら、何気なく言う。
「ネットってすごいよね」
「何がですか?」
ヤマナシが警戒するように聞き返す。
「助けても怒るし、殺しても怒るし。何しても怒るじゃん」
マチヤは本気で不思議そうだった。
「その程度の知能なんでしょ」
カモイが吐き捨てるように言った。
「自分じゃ何もしないくせに、結果だけ見て偉そうに文句言うのよ。結局、誰かを叩きたいだけ」
「……カモイさんが言うと説得力ありますね」
ヤマナシがぼそりと呟く。
カモイはヤマナシを睨んだ。
「どういう意味よ?」
「そのままです」
「……アンタ最近、本当に反抗的ね」
「事実を言っただけです」
少し離れた席で資料を読んでいたナガヤマミナミも、カモイを見る。
「後輩に嫌われる先輩の典型……」
「ナガヤマ!」
「ほら、すぐ怒鳴る……」
「テメエ!」
カモイが椅子から立ち上がりかけ、周囲の空気がわずかに重くなる。
「事務所壊さないでくださいね」
ヤマナシが冷静に言った。
「壊さないわよ!」
「以前壊しかけたので信用できません」
「お前ら!今日まとめて表出ろ!」
いつものように騒ぎ始める三人を横目に、今度はモテギハナが勢いよく立ち上がった。椅子が床を擦り、大きな音を立てる。
「マキバさん!」
「はい?」
あまりの声量に、マキバは反射的に顔を上げた。
モテギは真剣そのものの顔で拳を握っている。
「元気を出してください!世間が何と言おうと、私はマキバさんを信じています!」
まっすぐな言葉だった。裏もない。気を遣って言っているわけでもない。
モテギは、本当にそう思っている。
マキバは少しだけ表情を緩めた。
「ありがとう」
「はい!」
モテギは満面の笑みを浮かべる。
「それでは今から、私とフルマラソンをしましょう!」
「結構です」
「身体を動かせば悩みなんて吹き飛びます!」
「四十二キロ走ったら僕も吹き飛びます」
「大丈夫です!途中で倒れたら背負います!」
「もっと嫌です」
「では百キロウォークで!」
「悪化してます」
「そうですか!」
モテギは本気で残念そうな顔をして席へ戻った。
また、事務所に騒音が戻ってくる。
カモイとナガヤマはまだ言い争っている。マチヤはテレビを見ながら菓子を食べ、ヤマナシは仕事をしているふりをしながら、時折こちらを気にしている。トンダは何事もなかったように書類へ目を戻し、キョウコは相変わらず眠ったままだった。
いつもの特殊対策室だった。
騒がしく、まとまりがなく、どこか異常で、決して健全とは言えない場所。
普段なら、その馬鹿馬鹿しい騒がしさに救われることもあった。くだらない言い争いや、意味のわからない冗談を聞いているうちに、重かった気持ちが少しだけ軽くなることもある。
けれど、今日は違った。
マキバは机の上の書類へ視線を落とした。
報告書だった。何度も目を通しているはずの、ごく簡単な文章。
一行目を読む。次の行へ進む。だが、何が書いてあったのかわからなくなり、また一行目へ戻る。
文字は確かに目に入っている。
けれど、意味として頭の中に残らない。
テレビの音が聞こえる。誰かの笑い声も聞こえる。カモイの怒鳴り声も、モテギの大きな声も、全部聞こえている。
それでも、そのすべてより深いところに、別の声が残っていた。
あの日、助けを求めていた人々の声。
死にたくないと叫んでいた声。
何をしていても、その声だけはまだ、マキバの中から消えてくれなかった。
昼休み。
マキバダイスケは、事務所から少し離れた公園で、一人サンドイッチを食べていた。
昼時の公園には、近隣の会社員や親子連れがぽつぽつと集まっている。木陰のベンチで弁当を広げる者、自販機の前で缶コーヒーを飲む者。遊具のそばでは、小さな子どもたちが甲高い声を上げながら走り回っていた。
夏の盛りはすでに過ぎている。それでも空気にはまだ湿った熱が残り、木々の間では、力を失いかけた蝉が途切れ途切れに鳴いている。
どこにでもある、ごく普通の昼休みだった。
けれど今のマキバには、その平穏な風景の中で、自分だけが異物になったような感覚があった。
ベンチに座っていると、通りかかる人々がちらちらとこちらを見る。視線を感じて顔を上げれば、すぐに逸らされる。
少し離れた場所に立っていた若い男は、スマートフォンを胸元に構えていた。
自分を撮っているのかもしれない。いや、単に画面を見ているだけかもしれない。
そう考え直しても、一度気になってしまうと、背面の小さなレンズが自分へ向けられているように見えて仕方がなかった。
やがて、小さな子どもを連れた母親がマキバの前を通った。
母親は、ほんの一瞬だけマキバの顔を見る。その表情がわずかに強張ったように見えた。次の瞬間、子どもの手を引き、ごく自然な動作で進路を少し変えた。
ほんの数歩だった。露骨に避けられたわけではない。
それでも、マキバから距離を取ったことだけはわかった。少なくとも、好意的な視線には思えなかった。
以前から、人に見られることはあった。
誰も殺さずに事件を解決する若い特殊能力者。弱い特殊能力者の声を聞く青年。
そう報じられるようになってからは、街を歩いていても、自分の顔を知っている者がいるのではないかと感じることが増えた。
当時向けられていた視線には、好奇心と、ほんの少しの期待が混じっていたように思う。
だが、今は違う。
恐怖。嫌悪。軽蔑。
――あれが、人を殺した能力者か。
誰もそんなことは口にしていない。それでも、向けられる視線の一つ一つに、そんな言葉が込められているような気がした。
もちろん、すべてマキバの思い込みかもしれない。
報道では名前も顔も公表されていない。映像にはぼかしが入り、実名も伏せられている。街を歩いている人間すべてが、マキバダイスケという男の顔を知っているはずもない。
頭ではわかっている。
けれど、一度意識してしまえば、今までなら気にも留めなかった視線まで、自分を責めているように感じられた。
マキバは膝の上の袋からサンドイッチを取り出し、一口かじった。
味がしなかった。
パンの柔らかな感触はある。中に挟まれた具材も舌には触れている。それなのに、何を食べているのかほとんどわからなかった。
食欲がないわけではない。朝から仕事をしていた身体は、確かに空腹を訴えている。
ただ、頭の中が別のもので埋め尽くされていた。
厚生労働省前の光景。
プラカードを掲げていた人々。
『特殊能力者も人間です』
『普通に生きたい』
あの文字が、今も目の裏に焼きついている。
彼らは怒っていた。
政府に。社会に。強い能力者ばかりが評価され、弱い特殊能力者は役に立たない厄介者のように扱われる現実に。
だが、少なくともあの時点では暴れていなかった。
武器を振り回していたわけでもない。誰かに襲いかかっていたわけでもない。ただその場に座り込み、自分たちの言葉を聞いてほしいと訴えていた。
話せばわかりそうだった。
少なくとも、マキバにはそう思えた。
彼らの怒りの奥には、まだ誰かに理解してほしいという思いがあった。社会を壊したいのではなく、その社会の中で普通に生きたいと願っていた。
それなのに、死んだ。
キョウコが殺した。
そして、自分は止められなかった。
彼らの心の声は聞こえていた。
恐怖も。混乱も。助けを求める声も。死にたくないという叫びも。
すぐそばにいながら、全部聞いていた。
それなのに、何もできなかった。
思い返すたび、胃の奥が締めつけられる。さっき飲み込んだはずのサンドイッチが、喉の奥まで戻ってきそうだった。
悔しかった。
キョウコにも腹が立った。
何も知らずに自分を裁く世間にも、少しは腹が立っていた。
けれど、それ以上に許せなかったのは自分自身だった。
声を聞くことができたのに、救えなかった。その無力さが、吐き気がするほど嫌だった。
「よお、元気か?」
突然、すぐ隣から声がした。
マキバはびくりと肩を震わせ、反射的に顔を上げた。
いつの間にか、ベンチの端に一人の青年が腰を下ろしている。
黒を基調にしたパンク風の服装。細身で長身。鋭い目つきと整った顔立ちには、どこか人を食ったような雰囲気がある。
――カマタリョウガ。
前に会った時と同じく、近づいてきた気配はまったくなかった。足音もなければ、ベンチが軋む音すら聞こえなかった。
マキバは一瞬だけ周囲を見回した。ほんの少し前まで、隣には確かに誰もいなかったはずだ。
おそらく、テレポートか、それに近い特殊能力を使っているのだろう。
「……カマタくん」
「だから、元気かって聞いてんだよ」
カマタは呆れたように言った。
「……」
マキバは少し迷った。反射的に「元気だよ」と答えることもできたが、今はそんな簡単な嘘をつく気になれなかった。
「正直、あまり……」
「だろうな」
カマタは片手に持っていた缶コーヒーのプルタブを開けた。乾いた金属音が、小さく響く。
「お前、最近すげえ炎上してるよな」
「うん」
「ネット見てんのか?」
「少しだけ」
「やめとけ」
カマタはそう言って、缶コーヒーを一口飲んだ。
「精神に悪いぞ」
「そうだね」
「そうだね、じゃねえよ」
カマタは横目でマキバを見る。
「仕方ないと思ってる顔だな」
マキバは膝の上のサンドイッチへ視線を落とした。包み紙の上に残ったそれは、さっきからほとんど減っていない。
「……仕方ないよ」
「何が?」
「そう思われても」
カマタは小さく鼻を鳴らした。
「でも、お前がやったんじゃねえんだろ」
責めるでも慰めるでもなく、最初から答えを知っていることを確認するような口調だった。
「どうせキョウコさんだろ?」
マキバの手が止まった。一瞬、呼吸まで止まる。
「……わかるの?」
「わかるさ」
カマタは当然のように答え、また缶に口をつけた。
「あの人が起きたなら、だいたい何か起きる」
「だいたいって……」
「しかも今回、普通に殺したって感じじゃなかったんだろ?」
カマタは手の中の缶を軽く振った。
「妙な死に方だったらしいじゃねえか。そこまで聞けば、まあ、あの人だろうなって思う」
マキバは何も答えなかった。
キョウコのことをよく知っている人間なら、事件の異常さだけで察することができる。それが妙に恐ろしく思えた。
しばらく沈黙したあと、マキバは絞り出すように言った。
「……キョウコさんを止められなかった」
「仕方ねえよ」
カマタは間髪入れずに答えた。
あまりにも迷いがなかったので、マキバは思わず顔を上げる。
「キョウコさんは、なんつーか……天災みたいなもんだ」
「天災……」
「ああ」
カマタは木々の向こうに見える空を眺めた。
「トンダさんですら止められねえんだ。お前がどうこうできる相手じゃねえよ」
「でも……」
マキバは眉を寄せた。
「天災っていうのは、ちょっと違う気がする」
「そうか?」
「台風は、自分が人を殺してるってわからないでしょ」
「まあな」
「キョウコさんはわかってる」
人間が苦しんでいることも、自分がそれを引き起こしていることも理解している。それどころか、あの時のキョウコは楽しそうに笑っていた。
だから、自然災害と同じようには考えられなかった。
カマタは少し考え込んだあと、肩をすくめた。
「じゃあ、喋る台風だ」
「余計に嫌だな」
「だろ?」
カマタが笑った。
軽い笑いだった。けれど、その目は笑っていなかった。
カマタ自身も、本気でキョウコをただの冗談として語っているわけではない。そのことに気づきながら、マキバはしばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと言う。
「トンダさんやカモイさんが言ってることは……」
「ん?」
「理解したくはないけど、理解はできるんだ」
「……」
カマタは何も言わず、続きを待った。
「危険だから殺す。説得するより殺した方が早いから殺す。弱い能力者を、人間としてまともに扱ってない」
自分で口にするほど、胸の奥が重くなっていく。
「最悪だと思う。絶対に同意したくない。でも、あの人たちなりの理屈があることはわかるんだ」
「ああ」
「どうしてそういう考え方になったのかも、少しなら想像できる」
トンダも、カモイも、何度も危険な特殊能力者と向き合い、人が死ぬ現場を見てきたのかもしれない。説得しようとして失敗したことも、誰かを生かしたせいで別の被害が出たこともあるのかもしれない。
だからといって認めるつもりはない。
それでも、思考の道筋くらいは想像できた。
マキバは指先でサンドイッチの包み紙を弄った。
「でも……キョウコさんだけは、わからない」
声がわずかに震えた。
「あんなことを、どうして平気でできるんだろう」
厚生労働省前の光景が、また鮮明に蘇る。
文房具に変えられた人々。身体を奪われても残っていた意識。何が起きているのかわからないという恐怖。助けてくれと叫び続けていた声。
そして最後には、人間だったものが歪な姿に戻され、破裂した。
キョウコは、それを笑いながら見ていた。
マキバは俯いた。
「言っちゃ悪いけど……正直、僕たちとは別の生き物なんじゃないかって思ってしまうよ」
言葉にしてしまうと、それは自分でも思っていた以上に冷たい響きを持っていた。
それでも、今のマキバには他に言い表しようがなかった。
カマタは口元だけで少し笑った。
「今は人間の見た目じゃねえしな」
「人間の見た目でも、たぶん同じ感想を持つと思う」
「だろうな」
カマタはそう言って、飲みかけの缶コーヒーを足元へ置いた。コンクリートの地面に缶の底が触れ、小さな金属音が響く。
その音を境にするように、彼の纏う空気がわずかに変わった。
先ほどまで浮かんでいた軽い笑みが消え、カマタはベンチの背もたれにゆっくりと身体を預ける。
「……まあ、オレからすりゃ、キョウコさんよりトンダさんの方が理解できねえけどな」
マキバは顔を上げた。
「トンダさんが?」
「ああ」
カマタの声から、先ほどまでの冗談めいた軽さが消えていた。
マキバは黙って彼を見る。
トンダに対して、カマタが複雑な感情を抱いていることは以前から感じていた。特殊対策室を辞めたことにも、何か大きな理由があるらしい。
だが、その詳細についてはまだ聞いていない。
「……お前さ」
カマタはそこで一度言葉を切り、しばらく足元を見つめた。
「キョウコさんから聞けたか?オレが特殊対策室を辞めた理由」
「いや、まだ……」
「そうか……」
短く答えたあと、カマタは黙り込んだ。
話すべきかどうか迷っているようにも見えた。あるいは、これから口にする出来事を、頭の中でもう一度辿っているのかもしれない。
やがて、何かを決めたように小さく息を吐いた。
「じゃあ、オレから話してやるよ」
それまでとは違う声音だった。
マキバは食べかけのサンドイッチを包み紙の上へ戻し、自然と姿勢を正した。
軽い世間話の続きを聞くような雰囲気ではないことは、カマタの表情を見ればわかった。
だが、カマタはすぐには話し始めなかった。ベンチに深く腰掛けたまま、しばらく遠くを見つめている。
視線の先では、木々の葉がかすかな風に揺れていた。夏の盛りを過ぎたとはいえ、公園の木陰にはまだ湿った熱が残っている。
遠くから蝉の声が聞こえた。
けれど、その鳴き声も真夏の頃ほど力強くはない。途切れ途切れに響く声には、どこか季節の終わりを思わせる弱さが混じっていた。
カマタはしばらく黙っていた。
遠くで鳴いている蝉の声を聞くともなく聞きながら、足元に置いた缶コーヒーへ視線を落としている。缶の表面には薄く水滴が浮かび、それがゆっくりと側面を伝っていた。
やがて、カマタは静かに口を開いた。
「……オレはさ、最初から今みたいだったわけじゃねえんだよ」
いつもの皮肉っぽさが、声から少しだけ消えていた。人をからかうような笑みも浮かんでいない。
「昔は……トンダさんに憧れてた」
マキバは黙ってカマタを見る。
その言葉は、少し意外だった。
今のカマタから、トンダに対する尊敬のようなものはほとんど感じられない。むしろ、名前を口にするたびに、深いわだかまりのようなものが滲む。
だが、カマタリョウガが特殊対策室に入ったばかりの頃は違った。
それは、今から数年前のことだった。
当時の特殊対策室は、今よりもさらに小さな組織だった。
所長のトンダユウイチ。
古参のカモイヨシエ。
明るく無邪気で、それゆえに時折どうしようもなく危険なマチヤユミ。
そして、事務員として入ったばかりのヤマナシアズミ。
まともに数えれば、それだけだった。
今のように大勢が狭い事務所で騒ぎ、くだらないことで言い争うこともなかった。ナガヤマミナミも、モテギハナもまだいない。
キョウコだけは、すでにそこにいた。
ただし、人間の姿ではない。星形の眼鏡をかけた、奇妙なぬいぐるみとして。
トンダのデスクの上に置かれ、何日間も微動だにしなかったかと思えば、ある日突然起き上がって喋り始める。意味のわからない冗談を言い、誰かをからかい、笑い、飽きればその場でまた眠る。
初めてそれを目にした時、カマタは本気で入る事務所を間違えたと思ったらしい。
「正直、辞めようかと思ったぜ」
カマタが小さく笑った。
「国内最強の特殊能力者がやってる事務所だって聞いて来たら、机の上に変なぬいぐるみが転がっててさ。しかも急に喋るんだぞ」
「まあ……初見だとそうなるよね」
「だろ?」
一瞬だけ、いつものカマタらしい笑みが戻った。
だが、それもすぐに消えた。
「……でもな、トンダさんは、やっぱりすげえ人だった」
当時のカマタにとって、トンダユウイチは英雄だった。
国内最強の特殊能力者。
都市ひとつを消滅させかけた怪物を倒し、大勢の人間を救った男。
特殊能力者がどれほど暴れようと、トンダが現れれば事件は終わる。炎を撒き散らす者でも、建物を破壊する者でも、銃弾すら通用しない身体を持つ者でも関係なかった。
圧倒的な力で叩き伏せる。必要なら殺す。
迷わない。怯まない。ためらわない。
その過程がどうであれ、最後には必ず事態を収める。
少なくとも当時のカマタには、それが完璧な強さに見えていた。
「弱い能力者が何人集まって暴れようが、一瞬で片づける。強い能力者が相手でも変わらねえ。何が出てきても、最後はトンダさんが勝つ」
カマタは遠くを見たまま言った。
「オレは、ああいう人になりたかったんだよ」
当時の彼にとって、強さは正しさとほとんど同じ意味だった。
迷わず敵を倒せること。危険な相手を確実に排除できること。守るべき人間を守り、その邪魔になるものを消せること。
そのすべてを体現しているのが、トンダユウイチだった。
そして、カマタ自身も決して弱い特殊能力者ではなかった。
彼の特殊能力は、透明化。
自分自身の姿を周囲から消す能力だった。
だが、単に目に見えなくなるだけではない。能力を深く使えば、自分という存在そのものを周囲の知覚から薄めるように、気配まで消すことができる。
足音。衣擦れ。呼吸。身体から発せられる熱。
それらが完全に消滅するわけではない。それでも、他人が意識して捉えることが極端に難しくなる。
目の前を歩いても気づかれない。背後に立っていても振り返られない。静かな部屋へ入り込んでも、そこに誰かが増えたことすら察知されない。
戦闘において、それは非常に厄介な能力だった。
さらに、カマタには特殊能力とは別の武器があった。
自分の身体そのものだ。
鍛え抜かれた筋力と持久力。無駄のない身のこなし。柔軟性と反射神経。
そして、刃物の扱いや格闘術、相手を最短距離で無力化するための、暗殺術に近い戦闘技術。
真正面から殴り合えば、トンダやカモイのような規格外の能力者には敵わない。
だが、真正面から戦う必要などなかった。
見えない。聞こえない。気づいた時には、すでに背後にいる。
首。心臓。動脈。
能力を発動される前に、急所を潰してしまえばいい。
透明化という特殊能力と、鍛え上げられた肉体。その二つが組み合わさることで、カマタリョウガは極めて危険な戦闘員になっていた。
「当時のオレは、弱い特殊能力者を殺すことに何のためらいもなかった」
カマタは淡々と言った。
自慢するような口調でもなければ、必要以上に後悔を滲ませるような口調でもない。ただ、昔の自分について事実だけを読み上げているような声だった。
「むしろ、積極的に駆除してた」
「……駆除」
マキバは思わずその言葉を繰り返した。
「ああ、その言葉を使ってたんだよ、昔のオレは」
人間に向ける言葉ではない。害虫や害獣を排除する時に使う言葉だ。
マキバは何も言わなかった。
今のカマタが、その言葉をどう思っているのか。まだわからない。ただ、少なくとも誇らしげに口にしているようには見えなかった。
しばらく沈黙したあと、カマタは続けた。
「オレ、母親が死んでるんだ」
唐突な言葉だった。
だが、その声には不思議なほど感情が乗っていなかった。
「弱い特殊能力者どもが起こした事件に巻き込まれてな」
マキバはカマタを見る。
カマタはマキバを見なかった。視線はずっと前へ向けられている。
まるで何年も前の出来事を、遠く離れた場所から眺めているようだった。
それは、大きく報道されるような事件ではなかったという。
都内にある、小さな商業施設。
全国ニュースで何日も取り上げられるような有名な場所ではない。休日になれば家族連れが買い物に訪れ、学生がフードコートで時間を潰し、近所の老人が夕食の食材を買いに来る。
どこにでもある、ごく普通の施設だった。
そこで、立てこもり事件が起きた。
犯人は複数の特殊能力者だった。
社会への不満を抱え、特殊能力者に対する扱いや、自分たちの境遇への怒りを訴えていた。
ただし、一人一人の能力は決して強くなかった。
小さな爆発を起こせる。
金属製の扉をわずかに歪められる。
他人に軽い幻覚を見せられる。
離れた場所にある物を数メートル動かせる。
どれも、一人だけなら警察でも十分に対応できる程度の力だった。
だから当初、彼らはそれほど危険視されていなかった。
それが間違いだった。
弱い力であっても、複数が同時に、しかも大勢の一般人がいる場所で使えば、結果はまるで違ってくる。
突然、爆発音が響いた。
驚いた客たちが一斉に逃げ始める。
出口へ人が殺到したところで、能力によって歪められた金属扉が開かなくなる。別の方向へ逃げようとした者は幻覚によって方向感覚を失い、壁の方へ走る。宙を飛ばされた商品が人にぶつかり、それを避けようとした誰かが転倒する。
一人が転べば、その後ろの人間も躓く。
倒れた人間の上へ、混乱した群衆が押し寄せる。
悲鳴が上がる。さらに、その悲鳴が別の人間の恐怖を煽る。
そして、誰かが火をつけた。
最初は小さな火だった。
だが、それが商品や内装へ燃え移り、瞬く間に黒い煙が施設内へ広がっていった。
視界が奪われる。非常口の表示が見えなくなる。避難誘導の声も悲鳴にかき消される。煙を吸い込み、その場に倒れる者も出た。
犯人たちの能力そのもので直接殺された人間は、それほど多くなかった。
それでも、結果として多くの人が傷つき、何人かが死んだ。
カマタの母親も、その一人だった。
偶然、その日に買い物へ来ていただけだった。
事件とは何の関係もない。特殊能力者でもない。
犯人たちの主張を否定したわけでもなければ、彼らを差別したことがあるわけでもない。
ただ、その場に居合わせただけの一般人だった。
逃げ遅れた。そして、二度と帰ってこなかった。
「だから、オレは思ってた」
カマタの声が少し低くなる。
「あいつらは害獣だって」
マキバは口を挟まなかった。
「弱いくせに、自分が弱いことを全部世の中のせいにして、不満を周りにぶつける。何もできねえくせに、いざ暴れりゃ関係ない人間まで巻き込む」
拳を握りしめるでもない。怒鳴るでもない。
それでも、その静かな声の奥には、かつて抱いていた憎悪が今も薄く残っていた。
「だったら、最初から殺せばいい」
カマタは言った。
「被害が出る前にな」
マキバの胸に、微かな痛みが走った。
聞き覚えのある考え方だった。
危険なら、殺す。被害が出る可能性があるなら、その前に排除する。
特殊対策室にも、その発想は確かに残っている。少なくとも、トンダやカモイが口にする理屈とはよく似ていた。
「そんな連中は、生かしておく価値がない。殺していい。いや、殺すべきだって、本気で思ってた」
カマタは一度言葉を切った。
「トンダさんも、カモイさんも、そこは似たようなもんだった」
そう言って、わずかに口元を歪める。
「だから、居心地は悪くなかったよ」
特殊対策室に入ったカマタは、自分の考えを疑わなかった。
むしろ、ようやく自分と同じものを見ている人間たちに出会えたと感じていた。
母親を奪ったものを憎むことも、危険な特殊能力者を殺すことも、ここでは否定されない。
当時のカマタは、自分が正しい場所へ来たのだと本気で思っていた。
特殊能力者同士の喧嘩。
能力者支援団体の内紛。
学校で起きた能力暴走。職場への逆恨み。企業への襲撃。
弱い特殊能力者が引き起こす事件は、いくらでもあった。
そのたびに、カマタは現場へ向かった。
姿を消し、気配を消す。足音も呼吸も限りなく薄くして、相手に悟られないまま背後へ回る。
そして、急所を突く。
喉。首。胸。
相手がカマタの存在に気づく頃には、すでにすべてが終わっていた。
相手が何を考えていたのかなど、どうでもよかった。
なぜ事件を起こしたのか。それまでに何があったのか。誰かに追い詰められていたのか。助けを求めていたのか。
そんな事情に興味はなかった。
事件を起こした。人を危険に晒した。
なら、殺す。
当時のカマタにとっては、それだけで十分だった。
むしろ、生きたまま捕らえようとする方が危険だと考えていた。
拘束に時間をかければ、その間に誰かが傷つくかもしれない。説得を試みれば、相手に能力を使う隙を与えるかもしれない。運よく捕らえることができたとしても、生かしておけば、いつかまた同じことを繰り返すかもしれない。
それなら、その場で終わらせた方がいい。
被害が出る前に殺す。再び事件を起こす可能性そのものを消してしまう。
それこそが最も合理的で、最も確実な解決方法なのだと、当時のカマタは本気で信じていた。
そんな仕事を続けるうちに、特殊対策室へ新しい人間が入ってきた。
――ナガヤマミナミ。
人見知りが激しく、陰気で、他人と会話することをひどく苦手としている女だった。初対面の相手とはろくに目も合わせず、必要なこと以外はほとんど喋らない。
だが、その内向的な態度とは裏腹に、彼女が持つサイコキネシスは極めて強力だった。
物を浮かせる。離れた場所にある物体を動かす。暴れる人間の身体を空中に固定し、そのまま拘束する。
力のかけ方を変えれば、骨を折ることもできる。
さらに出力を上げれば、人間の身体そのものを捻じ曲げることさえ不可能ではない。
本人の気弱そうな雰囲気と、能力の凶悪さがまるで噛み合っていなかった。
そして、その後に入ってきたのがモテギハナだった。
明るく、声が大きく、誰に対しても善意に満ちている。
困っている人間を見れば助けようとするし、落ち込んでいる人間がいれば励まそうとする。
その一方で、何かが決定的にずれている女でもあった。
彼女の特殊能力は透過。
壁を通り抜ける。床をすり抜ける。
閉ざされた部屋にも、その気になれば何事もなかったように入り込める。
だが、本当に危険なのは、その能力が人間の肉体にも通用することだった。
壁の向こうへ腕を伸ばすのと同じように、相手の身体へ手を差し入れることができる。
皮膚も、筋肉も、骨も無視して、その奥へ。
そして能力を解除すれば、内部にあるものを直接傷つけることさえできる。
心臓。肺。血管。
使い方次第では、外傷をほとんど残さないまま、人間を殺すことも可能だった。
本人は明るく、人助けが好きで、基本的には善良だった。
だからこそ、その能力との組み合わせには妙な不気味さがあった。
こうして戦力は増えていった。
人が増えるにつれて、以前は静かだった事務所も少しずつ騒がしくなっていった。
トンダ。カモイ。マチヤ。ヤマナシ。カマタ。ナガヤマ。モテギ。
能力も性格も価値観も、まるで統一されていない。
歪で、危険で、とてもまともな組織とは言い難い人間たちが同じ場所に集まり、特殊対策室は少しずつ、現在の形へと近づいていった。
「……その頃だ」
カマタは目を細めた。先ほどまで過去を眺めていた視線が、さらにその奥へ沈んでいく。
「サトウユウミに会ったのは」
――サトウユウミ。
彼女は、特殊能力者の支援を行う民間団体で働いていた女性だった。自身も特殊能力者ではあったが、その力は決して強いものではなかったという。
物を破壊できるわけでもなければ、戦闘で役に立つわけでもない。特殊対策室に所属する者たちのような派手な能力とは程遠く、社会から見れば、能力者であることそのものに価値を見出されるような力ではなかった。
だからこそなのかもしれない。
ユウミは、自分と同じように弱い力しか持たず、そのせいで社会の中に居場所を失った特殊能力者たちを支えることに、ほとんど自分の生活を捧げていた。
能力者であることを理由に住居を追われた者の相談に乗り、職場を解雇された者の再就職を手伝う。
学校で孤立した子どもと話し、その家族との間に入る。
役所の窓口へ付き添い、制度上の支援が受けられないか一緒に調べることもあった。
中には何度支援しても問題を起こす者や、理不尽な不満をぶつけてくる者もいたが、ユウミはそういう相手の話にも何時間でも付き合った。
当時のカマタには、それが理解できなかったという。
何の得にもならない。感謝されるとも限らない。むしろ罵られたり、裏切られたりすることの方が多い。
それでも他人のために走り回るユウミは、まるで自分の人生を少しずつ削り、その欠片を他人へ配っているように見えた。
そんなユウミと初めてまともに言葉を交わしたのは、支援団体の施設内でトラブルが起きた時だった。
きっかけは、ごく些細な口論だった。
支援を受けていた特殊能力者同士が、相談の順番や職員の対応をめぐって揉めた。最初は互いに声を荒らげる程度だったが、そこに、それまで溜め込んできた不満が重なった。
――自分ばかり後回しにされている。
――あいつだけが優遇されている。
――何度相談しても何も変わらない。
――結局、誰も自分のことなど見ていない。
普段なら飲み込んでいた感情が、一つの言い争いをきっかけに次々と噴き出した。声は大きくなり、言葉は激しくなり、やがて特殊能力まで使われ始めた。
小さな爆発が起こり、壁際の棚が揺れた。別の者が念動力で机を倒し、飛んできた椅子が窓にぶつかってガラスが砕ける。施設内に悲鳴が響き、職員たちは利用者を避難させながら必死に事態を収めようとしていた。
まだ死者はいなかった。大きな怪我を負った者もいない。
だが、このまま感情が膨らんでいけば、いつ誰かが取り返しのつかないことをするかわからなかった。
通報を受けた特殊対策室から、カマタが現場へ向かった。
当時の彼にとって、対応方法に迷う余地などなかった。
能力を使う。
身体の輪郭が消え、やがて姿そのものが見えなくなる。衣擦れや足音、呼吸の気配まで極限まで薄めていくと、そこに人間がいること自体が感じ取れなくなった。
興奮している能力者たちは、カマタがすぐそばまで近づいていることに気づいていない。
一人の背後へ回る。
腰の刃物を抜く。
狙うのは心臓。
一突きで終わる。
いつも通りだった。そのはずだった。
『やめてください!』
突然、女の声が施設内に響いた。
カマタの手が止まった。
透明化した彼と、標的にしていた男との間へ、一人の女性が飛び込んできた。
サトウユウミだった。
当然、ユウミにはカマタの姿など見えていない。それでも何かを感じ取ったのか、あるいは、これまで何度か特殊対策室のやり方を見聞きしていたのかもしれない。彼女は両腕を広げるようにして、能力者たちの前へ立った。
身体は震えていた。
声にも、わずかな震えが混じっている。
怖くないはずがなかった。目の前では興奮した特殊能力者たちが睨み合い、いつまた能力を使うかわからない。割れたガラスが床に散乱し、焦げた臭いが残っている。そして背後のどこかには、姿の見えないカマタが刃物を持って立っている。
それでも、ユウミは逃げなかった。
『この人たちは、まだ誰も殺していません!』
カマタは舌打ちして透明化を解いた。
突然姿を現した彼を見て、周囲から息を呑む音が上がる。カマタは苛立ちを隠そうともせず、握っていた刃を下げた。
『どけ』
『嫌です』
『被害が出てからじゃ遅い』
『だから、被害が出ないようにするんです』
ユウミは振り返らなかった。
『それが支援です』
『綺麗事言ってる場合かよ』
『綺麗事を言わなくなったら、支援なんてできません!』
予想していなかった強い言葉に、カマタは思わず黙った。
ユウミはすぐに能力者たちへ向き直った。
怒鳴らなかった。命令もしなかった。
まして、「落ち着いてください」と何度も繰り返すようなこともしなかった。今の彼らに、そんな言葉を投げても届かないとわかっていたのだろう。
まず、一人ずつ名前を呼んだ。
『怖かったですよね』
一人には、そう言った。
『ずっと我慢してたんですよね』
別の者には、そう言った。
『悔しかったでしょう』
それから、何に怒っているのかを聞いた。
話の途中で遮らない。内容が理不尽だからといって、最初から否定もしない。何度も同じ話を繰り返されても、急かさずに聞いた。
支援団体側に落ち度があった部分については、言い訳をせずに謝った。改善できることについては、いつまでに何をするのかを具体的に伝えた。
一方で、できない要求については曖昧に期待を持たせることもなく、できないとはっきり告げた。
何でも相手の言う通りにするわけではなかった。
譲れるところは譲る。譲れないところでは立ち止まる。
受け入れることと、従うことを混同していなかった。
『でも、ここで暴れたら駄目です』
ユウミは静かに言った。
『今ここで誰かを傷つけたら、あなたたちが本当に伝えたかったことまで、全部消えてしまいます』
怒りで肩を震わせている男を、真正面から見つめる。
『何を言っても、暴れた人、人を傷つけた人としか見てもらえなくなります。それでいいんですか?』
男は何も答えなかった。
ただ、握り締めていた拳がわずかに震えた。
『今は座ってください』
ユウミは少しだけ声を柔らかくした。
『話は聞きます』
命令というより、出口を示すような声だった。
『誰も追い出しませんから』
もちろん、それですぐにすべてが収まったわけではない。
なお怒鳴り続ける者もいた。途中で再び能力を使おうとする者もいた。そのたびに周囲の職員が身を強張らせ、ユウミ自身も何度か反射的に肩をすくめた。
それでも彼女は、その場から離れなかった。
話を聞き続けた。
同じ不満を何度繰り返されても、途中で見限らなかった。
やがて、一人が座った。
それを見た別の一人も、少しして椅子へ腰を下ろした。最後まで苛立っていた男も、長い沈黙の末に握っていた拳を開いた。
そこに至るまで、かなりの時間がかかった。
カマタなら数十秒で終わらせていた仕事だった。
標的へ近づき、急所を刺す。
それだけなら、一分も必要ない。
ユウミは同じ一件を収めるために、何十分も使った。
けれど、その何十分の果てに、誰も死ななかった。
そして、誰も人を殺さなかった。
「……オレは文句言ったよ」
カマタは当時を思い出すように、わずかに口元を緩めた。懐かしんでいるというより、昔の自分の頑なさを思い返しているような笑いだった。
「危険すぎる。甘い。今回はたまたま上手くいっただけだ。次は死人が出るぞってな」
騒ぎが収まった後、カマタはユウミにそう言った。あれだけ危険な状況の中へ、自分から無防備に割って入ったのだ。一歩間違えば、能力者たちの攻撃に巻き込まれていたかもしれない。説得に失敗し、より大きな被害へ繋がっていた可能性だってある。
だが、ユウミはカマタを真っ直ぐ見返した。その時にはもう、先ほどまで見せていた怯えはほとんど消えていた。
『殺しても、何も解決しません』
静かな声だった。
怒っているわけでも、カマタを責めているわけでもない。ただ、自分が信じていることを確かめるように言った。
カマタは、その言葉を今でもはっきり覚えているという。
『問題を起こした人を殺せば、その場の騒ぎは終わります』
『終わるなら、それでいいだろ』
『よくありません』
ユウミはゆっくりと首を横に振った。
『同じような人は、また出てきます』
『だったら、そいつも止めればいい』
『また殺すんですか?』
『ああ』
『その次も?』
『必要ならな』
『ずっと?』
カマタはそこで黙った。
単純な問いだった。
だからこそ、すぐに答えられなかった。
ユウミは責めるような口調にはならず、そのまま続けた。
『弱い特殊能力者が生きにくい社会のままなら、同じことは何度でも起きると思います。能力が弱いというだけで仕事を失ったり、学校から追い出されたり、家を借りられなかったりする。周りから怖がられて、役に立たないと見下されて、それでも普通の人と同じように生きろと言われる。その不満や孤独を抱えた人たちがいなくならない限り、事件を起こした人だけを殺しても、根本の原因は何も変わりません』
『だから何だ?』
カマタは苛立ちを隠さなかった。
『世の中全部変えるつもりかよ』
『変えたいです』
ユウミは迷わず答えた。
『少なくとも、変えようとする必要はあると思っています。事件が起きるたびに、その人だけを排除して終わりにするんじゃなくて、どうしてそこまで追い詰められたのかを考えて、同じことが起こりにくい環境にしていかないといけません』
『理想論だ』
『そうです』
あまりにもあっさり認められ、カマタは少し拍子抜けした。
否定されると思っていた。自分のやり方こそ現実的だと言い張り、もっともらしい理屈を並べるのだと思っていた。
だが、ユウミは自分の言葉が理想論であることを否定しなかった。
『理想論ですよ』
もう一度、はっきりと言った。
『でも、理想論を誰も口にしなくなったら、現実はずっとひどいままです』
その言葉に、カマタは感情的になった。
弱い特殊能力者たちが事件を起こしたせいで、自分の母親は死んだ。
母親は何もしていなかった。
特殊能力者を差別したわけでも、追い詰めたわけでもない。ただその場所に居合わせただけで、他人の怒りや鬱屈が爆発した結果に巻き込まれて死んだ。
彼らがどれほど社会から冷遇されていたとしても、他人を傷つけた瞬間に加害者になる。
苦しんでいた。追い詰められていた。生きづらかった。
そんな事情があれば、何をしても許されるのか。
誰かを傷つけても、人を殺しても、それでも自分たちは被害者なのだと言い続けるのか。
カマタはそんなことを、吐き出すようにユウミへぶつけた。
ところが、ユウミはそれを否定しなかった。
『許す必要はありません』
意外なほど、はっきりした声だった。
カマタは言葉を止めた。
『悪いことをしたなら、その責任は取らないといけません。誰かを傷つけたなら、被害を受けた人が怒るのは当然です。許したくないなら、無理に許す必要なんてないと思います』
カマタは黙って彼女を見た。
同情しろ、と言われると思っていた。
事情を理解してやれ、と言われるのだと思っていた。
だが、ユウミの言葉は少し違った。
『……でも』
彼女は静かに続けた。
『その人たちが、そもそも犯罪を起こさなくても済むように、生きやすくする努力は必要だと思います』
『……』
『苦しんでいるから何をしてもいい、とは思いません。でも、悪いことをしたから助けなくていい、とも思いません』
ユウミは一度言葉を切り、カマタの目を見た。
『許すことと、助けることは同じじゃありません』
そして、少し間を置いて続けた。
『許すことと、殺さないことも違います』
カマタは反論できなかった。
いや、正確には、言い返そうと思えばいくらでも言葉はあった。
そんなのは甘い。現実を知らない。
話し合いだけですべて解決できるなら、特殊対策室など必要ない。
実際に母親を殺された自分の前で、それでも同じことを言えるのか。
そう言い返すことはできた。
けれど、ユウミの言葉を完全に間違いだと言い切ることもできなかった。
納得したわけではない。
弱い特殊能力者に対する憎しみが、その場で消えたわけでもない。母親を奪った者たちを許したわけでもなかった。まして、それまで自分が殺してきた人間について、突然罪悪感を覚えたわけでもない。
ただ、それまで絶対に正しいと信じていたものの中に、初めて小さなひびが入った。
危険な能力者は殺せばいい。
殺せば事件は終わる。
事件になる前に排除できるなら、その方が被害は少ない。
カマタはずっと、そう考えていた。
それは母親を失ってから、自分の中でほとんど疑う余地のない常識になっていた。特殊対策室で働き始めてからも、その考えを否定する者はいなかった。むしろ周囲には、それを当然のように受け入れる人間ばかりがいた。
けれどユウミは、そこで初めて別の問いを差し込んできた。
殺せば、本当に終わるのか。
一人を消したところで、次の一人が現れるだけではないのか。
事件を起こした人間を殺すことと、事件そのものを減らすことは、本当に同じなのか。
その疑問は、まだひどく小さなものだった。
長年抱えてきた憎しみを崩すには遠く及ばない。カマタ自身も、その時は大したことだとは思っていなかった。
ただ、絶対に正しいと思っていた考え方の奥に、一度だけ「本当にそれだけなのか」という声が生まれてしまった。
そのひびは、まだ細かった。
けれど、一度入ったひびを、最初から存在しなかったことにはもうできなかった。
それ以降、カマタは特殊対策室のやり方に、少しずつ疑問を持つようになった。
最初は、本当に些細な違和感だった。それまでなら何の迷いもなく終わらせていた現場で、ふと手が止まるようになった。
――今の相手は、本当に殺す必要があったのか。
――もう少し時間をかければ、話し合えたのではないか。
――あの人間は、本当に死ななければならないほどのことをしたのか。
以前のカマタなら、そんなことを考える余地すらなかった。
危険なら殺す。事件を起こしたなら排除する。被害が広がる可能性があるなら、その前に始末する。
それが最も速く、最も確実で、結果として最も多くの人間を守れる方法だと思っていた。
だが、ユウミと出会ってから、その単純だった答えの横に、別の選択肢がちらつくようになった。
もちろん、すぐに殺すことを嫌悪するようになったわけではない。明確に人を殺そうとしている能力者を前にすれば、今まで通り刃を抜くこともあった。
それでも、以前なら最初から存在しなかったはずの「殺さずに済む方法はないか」という考えが、一瞬だけ頭をよぎるようになった。
やがて、その違和感は言葉になって現れた。
『今のは、殺さなくてもよかったんじゃないスか?』
ある現場を終えた後、カマタは何気ない口調でそう言った。
別の日には、
『人質もいなかったんだし、もう少し説得する余地はあったと思いますけど』
さらに別の事件では、
『こいつ、支援団体に引き渡すって選択肢もあるんじゃないスか?』
そんなことまで口にするようになった。
以前のカマタを知っている者ほど、その変化には戸惑った。
『最近のアンタ、いちいち面倒くさいわね』
カモイは露骨に鬱陶しそうな顔をした。
『前はもっと話が早かったじゃない』
『前がおかしかったのかもしれないッスよ』
『なに?宗教でも始めた?』
『始めてねえよ』
マチヤに至っては、そもそも何が問題なのかよくわかっていなかった。
『でも、殺した方が早くない?』
何の悪意もなく、純粋な疑問としてそう言った。
『早けりゃ何でもいいわけじゃないでしょ』
『なんで?』
『……アンタに説明すんの、すげえ疲れるわ』
ヤマナシは何も言わなかった。
カマタの意見に賛成することも、否定することもなかった。ただ、以前なら「殺せばいい」と言っていた男が、「殺さなくてもよかったんじゃないか」と口にするようになったことだけは、黙って覚えていた。
トンダの反応は、他の者たちとは少し違った。
否定もしなければ、怒りもしなかった。カマタがどんな意見を口にしても、いつもの穏やかな表情で最後まで話を聞いた。
『なるほど』
ある時はそう頷いた。
『確かに、そういう選択肢もあったかもしれませんね』
別の時には、そんな言葉まで返した。
だからこそ、カマタは少し期待してしまったという。
もしかしたら、この人も変わるのではないか。
少なくとも、自分の言葉を無視してはいない。きちんと聞いて、内容を理解しようとしてくれている。
何よりトンダは、カマタが昔から憧れていた人間だった。最強の特殊能力者であり、どんな事件でも淡々と片づける、かつてのカマタにとっての英雄だった。
だから信じたかった。
自分が少しずつ変わったように、トンダもいつか考え方を変えるかもしれないと。
しかし、特殊対策室のやり方はほとんど変わらなかった。
危険なら殺す。
時間をかける必要がないなら殺す。
依頼を最短で終わらせるために必要なら殺す。
トンダはカマタの言葉を聞いていた。
けれど、聞いていることと、受け入れていることは違った。
そのことに気づくまでには、少し時間がかかった。
同じ頃から、カマタはユウミの所属する支援団体にも顔を出すようになった。
正式な職員になったわけではない。あくまでボランティアだった。昼休みや仕事が早く終わった夜、何も予定のない休日など、時間が空くとふらりと事務所へ立ち寄った。
最初はユウミに誘われたからだった。
『人手が足りないので、暇なら来てください』
『暇じゃねえよ』
『じゃあ来なくて大丈夫です』
『……何時からだよ』
そんなやり取りがきっかけだったという。
最初のうちは、本当にたまに顔を出す程度だった。だが、いつの間にかユウミから声をかけられなくても、自分から立ち寄るようになっていた。
書類整理を手伝う。相談会のために机や椅子を運ぶ。届いた支援物資を倉庫へ入れる。逆に必要な物資を車まで運ぶ。人手が足りなければ、相談者の話を聞くこともあった。
もちろん、支援員としてのカマタは決して優秀ではなかった。
口が悪い。態度も悪い。愛想もない。
相談者が延々と同じ愚痴を繰り返せば、途中から露骨に眉間へ皺が寄った。
『で、結局どうしたいんだよ』
などと平気で言う。
『つらいんです』と泣いている相手に、
『それはもう聞いた。これからどうしたいかを聞いてんだ』
と返し、ユウミから横で睨まれることもあった。
初対面の相談者からは、かなりの確率で怖がられた。
『カマタさん、もう少し優しくできません?』
ユウミに注意されるたび、カマタは不満そうな顔をした。
『してるだろ』
『どこがですか』
『殺してねえ』
『基準が低すぎます』
そんなやり取りを何度もした。
それでも、カマタにはカマタなりのやり方があった。
突然いなくなった支援対象者がいれば、透明化能力を使って、人の目につきにくい場所まで探しに行った。立入禁止区域の近くや、人気のない高架下、深夜の公園まで足を運ぶこともあった。
事務所に重い荷物が届けば、何も言わず一番重い箱を持った。
女性スタッフだけでは対応しづらい、威圧的な相談者が来れば、頼まれなくても近くの椅子に座った。何かあればすぐ動ける距離を保ちながら、相談そのものには口を挟まない。
能力を暴発させそうな者がいれば、以前のように急所を狙うのではなく、関節を押さえたり、身体の動きを封じたりして、必要以上に傷つけないようになった。
その加減を覚えるまで、何度かユウミに怒られた。
『もっと優しく押さえてください!』
『暴れてんだから無理だろ』
『骨折させない程度にはできますよね?』
『注文多いな』
『支援対象者ですから』
『オレの顔に椅子投げたぞ、こいつ』
『それとこれは別です』
カマタは何度も、
『面倒くせえな』
と口にした。
だが、本当に面倒になったからといって、途中で放り出して帰ることはなかった。
夜遅くまで相談が長引けば、最後まで残った。行方不明者を探しに出れば、見つかるまで戻らなかった。文句を言いながら荷物を運び、文句を言いながら人を助けた。
ある日、そんなカマタの姿を見て、ユウミが笑った。
『カマタさん、向いてますよ』
『何が?』
『支援』
カマタは心底嫌そうな顔をした。
『向いてるわけねえだろ』
『向いてますよ』
ユウミは迷いなく言った。
『雑ですけど』
『褒めてねえな』
『褒めてます』
『どこがだよ』
ユウミは少し考えるような顔をしてから、笑った。
『雑だけど、見捨てない人ですから』
カマタは何も返さなかった。
くだらない評価だと思った。
自分は優しい人間ではない。支援に向いているとも思わない。口も悪ければ気も短いし、今でも危険な能力者を見れば、殺した方が早いと考える瞬間はいくらでもある。
そんな自分を「見捨てない人」などと呼ぶのは、ユウミくらいのものだった。
だから、その場では鼻で笑って終わらせた。そんな言葉で喜ぶような柄でもなかった。
けれど、なぜかその言葉だけは、いつまでも頭に残った。
――雑だけど、見捨てない。
自分が本当にそんな人間なのか、カマタにはわからなかった。
ただ、自分のことをそう見ている人間が一人いる。
その事実だけは、少し悪くないと思った。
そして、カマタの考えを決定的に変える事件が起きた。
ある日、ユウミが勤める特殊能力者支援団体の事務所で、立てこもり事件が発生した。
犯人は、その団体から支援を受けていた特殊能力者だった。
身体能力が高いわけでもなく、直接人間を吹き飛ばしたり、建物を破壊したりできるような戦闘向きの能力も持っていない。単純な戦闘だけなら、特殊対策室にとって脅威と呼べるような相手ではなかった。
だが、その能力だけは極めて厄介だった。
自分自身の生命活動と、一定範囲内にいる他人の生命活動を一時的に結びつける能力。
簡単に言えば、能力が発動している間に犯人が死ねば、結びつけられた人間も同時に死ぬ。
事務所内には複数の人間が取り残されていた。ユウミをはじめとする支援団体のスタッフ、その日たまたま相談に訪れていた特殊能力者たち。誰も逃げることができず、全員が犯人と生命を結ばれた人質になっていた。
犯人は、完全に追い詰められていた。
これまで支援を受けてこなかったわけではない。相談にも乗ってもらった。職探しを手伝ってもらい、生活についての助言も受けた。それでも現実はほとんど変わらなかった。
仕事を探しても、特殊能力者だと知られれば断られる。ようやく採用されても、能力を知られた途端に職場で腫れ物のように扱われる。家族からも距離を置かれ、住む場所さえ失いかけていた。
本人にしてみれば、助けを求めるたびに「支援します」と言われ、そのたびに何も変わらなかったのだろう。そして最後には、それまで頼ってきた支援団体さえ、自分を見捨てようとしていると思い込んだ。
それが事実だったかどうかは、その時点でもう大きな意味を持っていなかった。
少なくとも犯人の中では、それが紛れもない真実になっていた。
怒りと恐怖と絶望が混ざり合い、行き場を失った末に、男は事務所に立てこもった。
特殊対策室へ事件解決の依頼が入り、現場へ向かったのはカマタとトンダだった。
犯人の能力と人質の状況を聞いた時点で、カマタははっきりと言った。
『殺すのはなしですよ』
トンダがカマタを見る。
『犯人を殺したら、人質まで死ぬ』
『そうですね』
トンダは穏やかに頷いた。
『だったら、説得するしかねえ』
『それだと時間がかかりますよ』
『かかってもやるしかないでしょ』
カマタは強い口調で言った。
以前の彼なら、まず出てこなかった言葉だった。人質ごと犠牲になる危険を計算しながら、それでも最短で犯人を排除する方法を考えていたかもしれない。
だが、その時のカマタは違った。
まだ誰も死んでいない。
ならば、死なせない方法を探すべきだと思っていた。
現場の空気は張り詰めていた。
事務所の奥では、犯人が涙を流しながら叫んでいる。
『どうせ誰も助けてくれない!全部嘘だったんだ!』
机か何かを殴りつける音が響いた。
『お前らだって、結局オレを捨てるんだろ!』
その声は怒鳴り声というより、ほとんど悲鳴だった。誰かを脅して支配しようとする声ではない。自分が世界のどこにも居場所を持てないことを、必死に訴えているように聞こえた。
その男に対して、ユウミは人質になりながらも声をかけ続けていた。
『大丈夫です』
静かな声だった。
『まだ終わってません』
男が何かを叫び返す。
ユウミは遮らなかった。
言いたいことを吐き出させ、それからまた言葉を返す。
『話を聞きます』
そして、ゆっくりと続けた。
『誰もあなたを見捨てません』
カマタは少し離れた場所で、その声を聞いていた。
以前、支援団体の中で特殊能力者同士の喧嘩を止めた時と同じだった。
怖いはずなのに、逃げない。
目の前の人間が事件を起こしたからといって、それまで抱えてきた苦しみまで否定しない。犯罪者という一言で切り捨てず、それでも話を聞こうとする。
――あの人なら。
カマタは思った。
――ユウミさんなら、本当に説得できるかもしれない。
もちろん保証などない。
何時間かかるかもわからないし、途中で犯人がさらに取り乱す可能性もある。説得に失敗すれば、人質が傷つけられるかもしれない。
それでも、今はまだ誰も死んでいない。
ならば、待つ価値はある。
少なくとも、その時のカマタにはそう思えた。
その時だった。
トンダが何気なく左腕を持ち上げ、腕時計に目を落とした。
ほんの数秒、時刻を確認する。
それから顔を上げ、いつもと何一つ変わらない穏やかな口調で言った。
『今日は妻とのデートの約束があるので』
カマタは一瞬、何を言われたのかわからなかった。
『……は?』
次の瞬間、トンダが能力を使った。
犯人の周囲の空間が、ごくわずかに揺らいだ。
目に見えるほど大きな変化ではなかった。ただ、そこだけ現実の位置関係が一瞬狂ったように見えた。
犯人の身体の内部で、致命的な位置にある何かがずれた。
あまりにも一瞬だった。
男が目を見開く。
本人にも、何が起きたのかわからなかったのだろう。驚いたように口を開いたが、言葉が出る前に身体から力が抜け、そのまま床へ崩れ落ちた。
そして、ほとんど同時だった。
事務所のあちこちで、人間が倒れた。
立っていたスタッフの膝が折れ、椅子に座っていた支援対象者が横へ崩れる。誰かが名前を呼ぶ暇さえなかった。まるで一斉に糸を切られた人形のように、人質たちの身体から力が失われていった。
そして、ユウミも倒れた。
『……え?』
カマタは動けなかった。
一瞬、すべての音が消えたように感じた。
先ほどまで事務所に響いていた犯人の叫び声も、ユウミの声も、周囲で慌ただしく動いていた人間たちの足音も、急に遥か遠くへ押し流されていく。
世界だけが自分を残して後ろへ引いていくような、不自然な静けさだった。
ユウミは床に横たわっていた。
動かない。
ほんの少し前まで、
――誰もあなたを見捨てません。
そう言っていた。
その口はもう動かなかった。
カマタはその場に立ち尽くし、ユウミを見ていた。何秒そうしていたのか、自分でもわからなかった。
ようやく喉が動いた。
『……何してるんスか?』
自分の声なのに、自分のものではないように聞こえた。
トンダはいつも通りの顔をしていた。
『事件を解決しました』
『……は?』
カマタはゆっくりトンダを見る。
『人質が死んだ』
『はい』
トンダは頷いた。
『ユウミさんも死んだ』
『そうですね』
声の調子は何一つ変わらない。
『説得すれば……』
カマタの声が震え始めた。
『説得すれば、助かったかもしれない』
『かもしれませんね』
トンダは否定しなかった。
その返事が、カマタには何より恐ろしかった。
知らなかったのではない。
犯人を殺せば人質まで死ぬことを理解していなかったわけでもない。
ユウミが説得を続けていたことも知っていた。
時間をかければ、全員助かった可能性があることもわかっていた。
そのうえで、殺した。
『なんで……』
カマタの指が震えていた。
怒っているのか、混乱しているのか、それとも悲しいのか、自分でも区別がつかなかった。ただ身体の奥から何かがこみ上げ、うまく息ができなかった。
『なんで殺したんだよ?』
トンダはほんの少し首を傾げた。
『クライアントからは、事件を解決しろと言われました』
静かな声だった。
『……何?』
『依頼内容は、立てこもり事件の解決です』
トンダは淡々と続ける。
『人質を救えとは言われていません』
『……』
カマタは何も言えなかった。
その瞬間だった。
カマタは初めて、本当の意味でトンダユウイチという男を理解できなくなった。
単に冷酷だからではない。
人を殺すことに快楽を感じているわけでもない。
ユウミを憎んでいたわけでも、人質を苦しませようとしたわけでもなかった。
むしろ、そこには悪意らしい悪意がまったくなかった。
だからこそ恐ろしかった。
トンダは、依頼された内容をそのまま現実へ当てはめている。
立てこもり事件を解決する。
依頼されたのは、そこまで。
ならば、その条件を最短で満たせば仕事は終わる。
人質が助かるかどうか。
犯人にまだ説得の余地があるかどうか。
その場にいる人間たちが、それぞれどんな人生を送ってきたのか。家族がいるのか。帰りを待っている誰かがいるのか。
そんなものは依頼の条件に入っていない。
だから、優先されない。
ユウミの命も、他の人質たちの命も、追い詰められた犯人の苦しみも、すべて依頼内容の外側にあった。
それまでカマタは、トンダを強い人間だと思っていた。
何が起きても迷わない人間。
感情に流されず、必要なことを即座に判断し、どんな困難な事件でも確実に終わらせることのできる圧倒的な英雄。
ずっと、そう思っていた。
だが、その時初めて気づいた。
トンダの「迷わなさ」は、自分が憧れていた強さとはまったく違うものだった。
何を守るべきか悩んだ末に決断しているのではない。
そもそも、依頼の外側にあるものを判断材料に入れていない。
だから迷わない。
その事実に気づいた瞬間、かつて英雄に見えていた男が、カマタには急に途方もなく遠い存在に思えた。
トンダがもう一度腕時計を見る。
『あっ』
小さく声を上げた。
『そろそろ行かないと』
そして、倒れている人々の間に立ったまま、いつもと何ら変わらない口調で言った。
『じゃあ、デートがあるので、もう帰りますね』
カマタは何も答えられなかった。
次の瞬間、トンダの姿が消えた。
テレポートだった。
つい先ほどまでそこに立っていた人間だけが、最初から存在していなかったように空間から消える。
あとに残されたのは、急に静まり返った支援団体の事務所と、床に倒れた人々。
動かなくなったユウミ。
そして、その場から一歩も動くことのできないカマタだけだった。
「……その数日後だ」
カマタは静かに言った。先ほどまで過去を振り返っていた目に、今度はわずかに冷たいものが宿る。
「夜、職場にトンダさんが一人でいる時を狙った」
ユウミが死んでから数日後、カマタは夜の特殊対策室へ忍び込んだ。
正面から話をするつもりはなかった。説得する気もなければ、あの時の判断について改めて問い詰めるつもりもなかった。
すでに十分すぎるほど答えを聞いていたからだ。
人質を救えとは依頼されていなかった。だから救わなかった。
トンダにとって、あの事件はそれだけのことだった。
何人死んだのか。ユウミがどんな思いで最後まで犯人を説得していたのか。残された人間がその死をどう受け止めるのか。そうしたものは、少なくとも事件を処理するうえでは判断材料にならなかった。
カマタには、もうトンダと話して理解し合えるとは思えなかった。
その夜、特殊対策室の事務所には一部の照明だけが点いていた。時刻は遅く、他の職員たちはすでに帰宅している。普段なら話し声や電話の音が絶えない室内も静まり返り、空調の低い音と、時折紙をめくる乾いた音だけが響いていた。
トンダユウイチは自分のデスクに座り、一人で書類に目を通していた。
キョウコのぬいぐるみは、そのすぐ横に置かれている。眠っているのか、星形の眼鏡をかけたまままったく動かなかった。
カマタはすでに透明化していた。
彼の能力は、単に身体を見えなくするだけではない。熟練すれば、衣擦れや足音、呼吸によって生じるわずかな気配まで薄めることができる。長年実戦で磨いてきた技術と組み合わせれば、人間の意識から存在そのものが抜け落ちたかのように行動することもできた。
暗殺には、これ以上ない能力だった。
カマタは焦らず、ゆっくりとトンダの背後へ回った。
トンダは書類を読み続けている。顔を上げない。振り向く様子もない。
――気づいていない。
少なくとも、その時のカマタにはそう見えた。
腰から刃物を抜き、逆手に握る。
狙うのは心臓。
透明化したまま一気に距離を詰め、認識されるより先に急所を貫く。どれほど強力な特殊能力を持っていようと、能力を使う前に死ねば関係ない。実際、カマタはそれまで何度も同じ方法で能力者を仕留めてきた。
トンダも人間である以上、例外ではない。
そのつもりだった。
「でも、失敗した」
カマタは自嘲するように肩をすくめた。
「トンダさんは、最初から気づいてた」
刃先がトンダの背中へ届こうとした、その瞬間だった。
突然、目の前の景色が切り替わった。
移動したという感覚すらほとんどなかった。身体そのものを空間から抜き取られ、別の場所へ置き直されたような、不自然な感覚だった。
気づいた時には、カマタは事務所の反対側に立っていた。
何が起きたのか理解するより先に、腹の奥で凄まじい痛みが弾けた。
内臓を巨大な手で直接掴み、力任せに捻られたような激痛だった。肺から空気が押し出され、声を出すことすらできない。膝が崩れそうになった直後、今度は腕に強烈な衝撃が走った。
鈍い音が、自分の身体の内側から聞こえた。
骨が折れたのだと理解した時には、さらに胸を突き抜けるような痛みが走り、何本かの肋骨まで砕けていた。
視界が大きく揺れる。
片目の前が赤く染まり、景色の半分が潰れた。
カマタには、自分が何をされたのかほとんど理解できなかったという。
空間そのものをずらされたのか。身体の一部だけを別の位置へ移されたのか。それとも、トンダが持つ能力のさらに別の使い方だったのか。
考える余裕などなかった。
ただ一つわかったのは、自分が攻撃したと思った瞬間には、すでに勝負が終わっていたということだけだった。
トンダは怒っていなかった。
突然殺されかけたというのに、声を荒らげることもなければ、カマタへ憎悪を向けることもなかった。殺気すら感じられなかったという。
ただ、いつもの穏やかな表情で、傷だらけのカマタを見ていた。
『残念です、カマタくん』
それだけだった。
叱責も、問いかけもなかった。
どうしてこんなことをしたのかと尋ねることすらしなかった。
カマタは結局、その場では殺されなかった。
情けをかけられたのかどうかは、今でもわからない。あるいはトンダにとって、わざわざ止めを刺すほどの脅威ですらなかったのかもしれない。
その後、自分がどうやって逃げたのかも、カマタはほとんど覚えていなかった。
意識が途切れそうになるたびに透明化を使い、残っている力だけで身体を動かした。片腕はまともに使えず、呼吸をするたびに胸へ激痛が走った。それでも、とにかくトンダから離れなければならないという本能だけで動いた。
血を床へ落としながら廊下を進み、人目につきにくい場所を選んで特殊対策室から離れていく。途中からは、自分がどこを歩き、どこを曲がったのかさえ曖昧になっていた。
気がついた時には、特殊対策室から遠く離れた場所にいた。
「……で、今に至るわけだ」
カマタはそこで話を終えた。
「……」
マキバは何も言えなかった。
すぐに言葉を返せるような話ではなかった。公園を行き交う人の声も、遠くを走る車の音も耳には入っているはずなのに、どこか現実味が薄い。頭の中では、今聞いたばかりの話が何度も繰り返されていた。
キョウコとのデート。その予定に間に合わせるために、トンダは犯人を殺した。そして、犯人の能力によって生命を結びつけられていた人質たちも同時に死んだ。
その中には、最後まで犯人を説得しようとしていたユウミもいた。
もちろん、トンダ自身は「デートのために人質を殺した」とは考えていないだろう。
依頼されたのは、立てこもり事件を解決することだった。
犯人を排除すれば事件は終わる。人質の救出は依頼内容に含まれていない。説得には時間がかかり、成功する保証もない。
だから最も早く、確実な方法を選んだ。
きっと、トンダの中ではそれだけのことだった。
だが、その理屈でユウミたちは死んだ。
カマタが言っていたことが、少しだけ理解できた気がした。
――キョウコより、トンダの方が理解できない。
キョウコは天災に近い。本人なりの好悪や感情はあるのだろうが、その行動原理は初めから常人の尺度を外れている。人間の身体を失い、ぬいぐるみの姿になっていることまで含めて、最初から理解の外側にいる存在だと思うことができる。
だが、トンダは違う。
人間の言葉を話す。穏やかで礼儀正しく、仲間には気を配る。冗談も言えば、困っている部下を助けることもある。妻であるキョウコを心から大切にしていることも、マキバにはよくわかる。
その一方で、必要がないと判断した人間の命を、驚くほど簡単に切り捨てる。
人間らしい優しさと、人間離れした合理性が、同じ人物の中に矛盾なく収まっている。
そのことが、マキバには恐ろしかった。
「……オレは」
カマタが言った。
マキバは顔を上げる。
「もう一度、トンダさんを殺そうと思ってる」
一瞬、意味を理解するのが遅れた。
「えっ?」
「協力者が必要だ」
カマタは冗談を言っている顔ではなかった。まっすぐマキバを見据えている。
「マキバ、手伝え」
「いや、それは……」
反射的に断ろうとして、言葉が詰まった。
つい先ほどまで、トンダの行動に強い恐怖を感じていた。その直後に、殺すのを手伝えと言われても、簡単に答えられるはずがない。
「ダメなら、オレはヤマナシに頼む」
その名前が出た瞬間、胸の奥が冷えた。
「ヤマナシさんに?」
「ああ、アイツなら、多分引き受けてくれる」
「そんな……」
マキバの頭に、ヤマナシの顔が浮かんだ。
口は悪い。面倒事を嫌う。大きな事件では怖がることもあるし、決して胆力のある人間には見えない。それでも、一度仲間だと思った相手のためなら、無茶をするところがある。
だからこそ、カマタの言葉をただの脅しとして聞き流せなかった。
「でも、アイツはドジだし、気が小さいし、ぶっちゃけ頼りない」
「ひどい言い方だね」
「事実だ」
カマタは平然としていたが、少し間を置いてから言葉を足した。
「あと、迷惑をかけたくない」
その一言だけは、妙に素直だった。
マキバはカマタの横顔を見る。
矛盾している。迷惑をかけたくないと言いながら、自分が断ればヤマナシを頼るつもりでいる。
それでも、本心では巻き込みたくないのだろう。
利用する気持ちもある。守りたい気持ちもある。その二つが同時に存在している。
今のカマタは、そういう人間なのかもしれなかった。
「だが、お前なら安心して頼める」
「どうして?」
「お前はトンダさんと普通に話せる。あの人もお前には興味持ってるし、少なくともオレよりは警戒されてねえ」
嫌な予感がした。
「何をするつもりなの?」
「簡単だ」
カマタの声が少し低くなる。
「お前が指定した場所にトンダさんを誘き出す。そこで適当に会話してろ。その間にオレが透明化して背後まで近づいて、心臓を刺す」
「ちょっと待って」
「前みたいに一人で行けば気づかれる。でも、お前と話してる最中なら、少しくらい意識を散らせるかもしれない」
「待ってって」
「いけるか?」
「だから、待ってくれよ」
マキバの声に苛立ちが混じる。
それでもカマタは止まらなかった。
「あの人を生かしておけば、また同じことが起きる」
「だからって――」
「罪のない特殊能力者が、これからも殺されるかもしれねえんだぞ」
カマタの声が鋭くなった。
「あの人は変わらない。少なくともオレはそう思ってる。ユウミさんの時と同じことが起きても、必要だと思えばまたやる」
マキバは何も言えなかった。
否定しきれなかったからだ。
あの事件の話を聞いた直後だからではない。これまで自分が見てきたトンダの言動を思い返しても、同じ条件なら同じ判断をする可能性は十分にあると思えた。
「いいのか?」
「待ってくれよ!」
思わず声が大きくなった。
近くを歩いていた会社員が振り向き、少し離れた場所では子どもを連れた母親がこちらを見る。
マキバは我に返り、反射的に口を閉じた。
カマタも黙った。
少しの沈黙の後、短く息を吐く。
「……急かして悪かったな」
カマタはベンチから立ち上がった。
「明日の同じ時間、またここに来い。その時に返事を聞かせてくれ」
「カマタくん」
「逃げてもいい」
振り返らないまま言う。
「でも、その場合はヤマナシに頼む」
「それは卑怯だよ」
「知ってる」
カマタはそこで初めて、薄く笑った。
開き直った笑いではなかった。自分でも、自分のやっていることが綺麗ではないとわかっているような、自嘲に近い笑みだった。
「オレは別に、綺麗な人間じゃねえ」
次の瞬間、カマタの姿が消えた。
輪郭が薄くなり、空気に溶け込むように見えなくなる。足音もほとんど聞こえず、数秒後には、そこに誰かがいたという気配さえ失われていた。
マキバは一人、公園のベンチに残された。
膝の上には、食べかけのサンドイッチがある。昼休みに入った時には確かに腹が減っていたはずなのに、今はもう一口も食べる気になれなかった。
カマタは、トンダを殺そうとしている。
弱い特殊能力者を守るために。
これ以上、罪のない人間を殺させないために。
彼はそう言っている。
だが、本当にそれだけなのだろうか。
ユウミを殺されたことへの復讐ではないのか。
トンダへの私怨を、「弱者を守るため」というもっともらしい言葉で包んでいるだけではないのか。
そもそも、その復讐に自分やヤマナシを巻き込もうとしている時点で、ユウミが目指していたものとはどこか違うのではないか。
考えれば考えるほど、カマタが急に生々しく、俗っぽい人間に見えてきた。
前に会った時は、特殊対策室の異常さをよく知る元職員だった。マキバには、自分と近い感覚を持っている人間のようにも思えた。
弱い特殊能力者を簡単に殺すことに疑問を持ち、トンダたちとは違う場所へ進もうとしている。
少なくとも、そう見えていた。
けれど今は違う。
弱い特殊能力者を守りたいと言いながら、彼らを「動物」と呼ぶ。
トンダを殺すためにマキバを利用しようとする。
断れば今度はヤマナシを巻き込むと告げる。
口では正義を語っていても、その奥には憎しみがある。ユウミを奪われた悲しみがある。
復讐したいという、ごく個人的な感情がある。
決して綺麗ではなかった。
けれど、綺麗ではないから間違っていると、それだけで切り捨てていいのだろうか。
トンダをこのままにしておけば、また誰かが死ぬかもしれない。
誰かを救うことが依頼内容に含まれていなければ、また同じように切り捨てるかもしれない。
それもまた、否定しきれない事実だった。
マキバは食べかけのサンドイッチに目を落としたまま、長い間動けなかった。
昼休みを終えて事務所に戻ると、マキバは真っ先にトンダを見た。
トンダユウイチは、いつもと変わらず自分のデスクで書類に目を通していた。昼前、テレビで自分たちのことが好き勝手に論じられていた時と同じ、穏やかで落ち着いた横顔だった。デスクの端にはキョウコのぬいぐるみが横たわり、星形の眼鏡をかけたまま微動だにしない。
「トンダさん」
「はい」
トンダが書類から目を上げる。その声の硬さに何かを感じ取ったのか、事務所にいた何人かも手を止めた。
「聞きたいことがあります」
「何でしょう」
「サトウユウミさんの事件についてです」
その名前を出した瞬間、事務所の空気がわずかに変わった。
スマホを弄っていたヤマナシが顔を上げ、カモイは露骨に眉をひそめる。ナガヤマも作業の手を止め、眼鏡の奥からこちらを窺った。事情を知らないらしいマチヤだけが、「ユウミさん?」と不思議そうに首を傾げている。
トンダだけは表情を変えなかった。
「ああ、事実ですよ」
あまりにも早い返答に、マキバは一瞬言葉を失った。
「……まだ何も言ってません」
「カマタくんから聞いたのでしょう?」
「……」
マキバは黙った。
「彼が君に接触する可能性は考えていました。ユウミさんの事件で僕が犯人を殺し、その結果、人質も全員死亡した。その件でカマタくんが僕に怒り、数日後に僕を殺そうとした。だいたい、そういう話でしょう?」
「……本当に、事実なんですか?」
「はい、事実です」
トンダはいつもの穏やかな口調で答えた。
マキバは無意識に拳を握った。公園で聞かされた話を、どこかで否定してほしかったのかもしれない。カマタがユウミを失った怒りから、事実を歪めて語っていたのだと言ってほしかった。
だが、トンダはほとんどそのまま認めた。
「……キョウコさんとのデートがあったから、というのも事実なんですか?」
「はい、キョウコとのデートの予定がありました」
あまりにも普通に答えた。
言い訳もしない。隠そうともしない。後ろめたそうな素振りさえ見せない。まるで、帰りに買い物へ寄る予定が入っていたとでも話すような口調だった。
マキバが愕然としていると、トンダのデスクの上で突然ぬいぐるみが跳ねた。
「ダーリン優しいでしょー!」
眠っていたはずのキョウコが、何事もなかったように勢いよく起き上がる。
「私のこと最優先してくれたの!大事にしてくれてるの!もう、めっちゃキュンキュンしちゃった!」
マキバは思わず息を呑んだ。
カモイは心底嫌そうに顔をしかめたが、マチヤは素直に手を叩く。
「本当に優しいね!」
「奥さんを大切にできる旦那さんは素晴らしいです!」
モテギまで、なぜか感心したように拍手を始めた。
「……そこですか?」
思わずマキバが呟くと、カモイが深いため息をついた。
「私は普通にドン引きしたけどね」
意外な言葉にマキバが顔を向けると、カモイはすぐに眉を吊り上げた。
「なによ、その顔」
「いや……カモイさんでも、そう思うんだなって」
「アンタ、私を何だと思ってんのよ?」
「弱い特殊能力者を害虫呼ばわりして、危険なら殺せって言う人だと……」
「それは事実だけど、無関係な人質までまとめて殺すのは普通に引くわよ」
カモイは腕を組み、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「害虫駆除だって、家ごと燃やしたら駄目でしょ」
「例えは最悪ですけど、言いたいことはわかります」
「私にも倫理観くらいあるのよ」
それを胸を張って言うのもどうなのだろう、とマキバは思ったが、口には出さなかった。
普段のカモイは過激だ。弱い特殊能力者を平然と害虫扱いし、危険なら排除すればいいと言う。
それでも、彼女の中には彼女なりの線引きがあるらしい。
明確に敵と見なした者を殺すことと、無関係な人間を巻き添えにすることは違う。依頼に含まれていないからという理由だけで人質を切り捨てることにも、彼女なりの嫌悪があるようだ。
「私も、そこはカモイさんと同じ意見ですね」
ナガヤマが小さく言った。
「カモイさんと意見が一致するのは、非常に不本意ですが……」
「オイ、ナガヤマ!」
カモイがすぐさま噛みつく。
その横で、マチヤはまだ何が問題なのか完全には理解できていないらしく、きょとんと首を傾げた。
「でも、デートって大事じゃない?」
「マチヤさんは今ちょっと黙っててください」
ヤマナシが冷たい声で遮った。
マキバは彼女を見る。
ヤマナシは明らかに不愉快そうな顔をしていた。目が合うと、面倒そうに眉を寄せる。
「……言わなくてもわかるだろ」
それだけだった。
だが、十分だった。ヤマナシも、あの事件には納得していない。
カマタの言葉が頭をよぎる。
――自分が断れば、ヤマナシに頼む。
ヤマナシなら引き受けるかもしれない。先ほどまでは半信半疑だったが、今の表情を見ると、その可能性が急に現実味を帯びた。
だからこそ、絶対に巻き込ませるわけにはいかない。
「……マキバくん」
トンダが静かに呼びかけた。
マキバは振り向く。
「君は僕を責めていますね」
「……責めています」
「正直でよろしい」
トンダは怒らなかった。それどころか、少しだけ微笑んだ。
「トンダさんは、悪いことをしたと思っていないんですか?」
「依頼内容が『事件の解決』であるなら、それを最短かつ確実に達成するべきだと考えています」
トンダは淡々と答えた。
「犯人は、自分が死亡すれば人質も死亡するよう能力を使っていた。説得には時間がかかるうえ、成功する保証もありません。その間に犯人がさらに追い詰められ、別の行動に出る可能性もある。ならば犯人を即座に排除し、立てこもりという状況そのものを終了させる。それが最も確実でした」
「でも、人質は……」
「依頼内容に含まれていませんでした」
「そんなの……」
マキバの声が掠れた。
「もちろん、依頼が『人質を救出してほしい』という内容であれば話は別ですよ」
トンダは何でもないことのように続ける。
「その場合は、人質を救うことが達成条件になります。必要なら何時間でも説得を試みますし、どれほど手間がかかっても助けます」
「……依頼の文章次第で、人を助けるかどうかが変わるんですか?」
「文章というより、依頼の目的ですね」
トンダはわずかに首を傾げた。
「目的が違えば、最適解も変わります。当然のことだと思いますが」
マキバの背筋に、冷たいものが走った。
理屈そのものは一貫している。破綻しているわけではない。
むしろ、あまりにも綺麗に筋が通っている。
だからこそ恐ろしかった。
トンダの中では、人を助けることそのものが絶対的な目的ではないのだ。与えられた条件の中に「救出」が含まれていれば、全力で救う。含まれていなければ、他の目的を優先する。
そこに善悪という尺度が割り込む余地は、ほとんどないのかもしれない。
「……仮に」
トンダは穏やかな声で続けた。
「その日にキョウコとのデートがなかったとしても、僕は同じ判断をしたでしょう」
マキバは息を止めた。
「……じゃあ、デートは関係なかったんですか?」
「判断の本質には関係ありません。デートはあくまで、その後に入っていた予定です」
「だったら、どうしてカマタくんに『デートがあるから』なんて言ったんですか?」
「事実だったからです」
「それを言ったら、カマタくんがどう思うか考えなかったんですか?ユウミさんが目の前で死んだ直後ですよ」
「考えましたよ」
「だったら……!」
「ですが、嘘をつく理由もありませんでした」
そこでマキバは完全に言葉を失った。
トンダは、相手の感情がわからないわけではない。
カマタが傷つくことも理解していた。
ユウミを失った直後にそんな言葉を聞けば、どれほど残酷に響くのかも、おそらくわかっていた。
それでも言った。
理解できないのではない。
理解したうえで、それを自分の判断を変えるほど重要なものとして扱っていない。
そのことが、マキバには何より不気味だった。
「もちろん」
そんなマキバを見て、トンダは少しだけ表情を和らげた。
「もし人質の中にマキバくんや、ここにいる皆さんがいたなら、依頼内容に関係なく助けますけどね」
その声は優しかった。
冗談でも、場を取り繕うための言葉でもない。本当にそうするのだろうと、マキバにはわかった。
だからこそ、寒気がした。
トンダは仲間を大切にする。
キョウコを心から愛している。マチヤを気にかけ、カモイがどれほど勝手なことをしても見捨てない。ヤマナシたちも、自分の部下として守ろうとする。マキバ自身も、これまで何度もトンダに助けられてきた。
その情は偽物ではない。
むしろ、本物だからこそ厄介だった。
トンダは誰も愛せない人間ではない。誰かの命を大切だと思えない人間でもない。
ただ、その範囲が極端に狭い。
自分が大切だと認識した相手には、依頼も合理性も関係なく手を差し伸べる。
その一方で、その輪の外にいる人間は、仕事の目的や条件によって簡単に優先順位を下げられてしまう。
彼の優しさは本物だった。
だからこそ、その優しさがどこまで届き、どこから先には届かないのか。その境界線が、マキバには恐ろしかった。
キョウコが机の上でけらけらと笑う。
「ダーリンってば、愛の範囲が狭くて深いのよねー!」
「狭くて悪かったな」
トンダは苦笑しながら、キョウコの小さな頭を優しく撫でた。
その手つきには、迷いも偽りもなかった。
そして、そのどうしようもないほど自然な優しさを見ていることが、今のマキバにはひどく恐ろしかった。
仕事が終わった後、マキバはヤマナシを事務所近くの路地裏へ呼び出した。
以前、カマタの話をしたビル裏とよく似た場所だった。建物と建物の隙間に挟まれた細い通路で、日が落ちてもコンクリートの壁には昼間の熱が残っている。古びた室外機が低く唸りながら湿った空気を吐き出し、路地の奥には飲食店から流れてきたらしい油の匂いがかすかに漂っていた。頭上を見上げても、高層ビルの間に細長く切り取られた夜空しか見えない。
しばらくして、ヤマナシがいつものように不機嫌そうな顔で現れた。
「また呼び出し?」
「ごめん」
「まあ、別にいいけど」
ヤマナシはそう言って壁に背中を預けた。片手にはスマホを持っていたが、画面を見ることなくポケットへ押し込む。
「で、何?」
マキバは一瞬ためらった。
昼休みにカマタから聞いた話を、どこまで伝えるべきなのか迷ったからだ。あの事件のことも、カマタの復讐心も、本来なら軽々しく話すような内容ではない。
だが、カマタの口からヤマナシの名前が出ている以上、黙っているわけにはいかなかった。
「……昼休みに、カマタくんに会った」
ヤマナシの表情がわずかに硬くなった。
「また?」
「うん」
「今度は何言われたの?」
「トンダさんを殺すつもりだから、協力してほしいって」
ヤマナシは黙った。
目を見開くことも、聞き返すこともしなかった。
ただ一度視線を落とし、何かを飲み込むように短く息を吐いた。その反応を見て、マキバは彼女もカマタがそこまで考えている可能性を、どこかで予想していたのかもしれないと思った。
「……そう」
「僕が断ったら、ヤマナシさんに頼むって言ってた」
その瞬間、ヤマナシの眉がぴくりと動いた。
「あのバカ」
「ヤマナシさん」
「何?」
「もし本当に頼まれたら……」
「乗らないよ」
即答だった。
あまりにも迷いのない返事に、マキバは思わず目を瞬いた。
「え?」
「なに、その顔」
ヤマナシが露骨に不機嫌そうな顔になる。
「いや、だって……」
「私なら乗りそうだと思った?」
マキバは答えに詰まり、少し迷った末に正直に言った。
「……少し」
「正直でよろしい」
ヤマナシは呆れたようにため息をついた。
「私はね、この職場が好きなんだよ」
予想していなかった言葉だった。
マキバは何も返せず、ただ彼女を見る。
ヤマナシ自身も、口にしてから少し気まずくなったらしい。視線を逸らし、壁に後頭部を軽く預けた。こういうことを真面目に語るのは、どうやら得意ではないようだった。
「まあ確かに、倫理観ガバガバな連中しかいないけどさ。カモイさんはすぐ害虫とか言うし、マチヤさんは子どもみたいだし、モテギはうるさいし、ナガヤマは陰湿だし、トンダさんは……正直、ちょっと怖い」
「うん」
「キョウコさんは論外」
「うん」
「そこは否定しないんだ」
「できないよ」
ヤマナシはわずかに口元を緩めたが、その笑みはすぐに消えた。
「嫌になる時はあるよ。今日みたいな話を聞いたら、マジで何なんだ、この職場って思う。普通に考えたら、もっとまともなところへ転職した方がいいんじゃないかって思うこともある」
そう言って、壁に背中を預けたまま細い夜空を見上げた。
「でも、私を受け入れてくれてるんだよ」
声が少しだけ小さくなる。
「ちゃんと仲間だと思ってくれてる」
マキバは黙って聞いていた。
「そういう人たち、今まであんまりいなかったから」
何気ない言葉だったが、その奥には、マキバの知らない時間が積み重なっているように感じられた。
ヤマナシがこれまでどんな場所にいて、どんなふうに周囲と馴染めず、どんな扱いを受けてきたのか。詳しいことは知らない。だからこそ、勝手に想像して理解した気になるのも違うと思った。
マキバは彼女の心の声を拾おうとはしなかった。
意識して聞かなくても、強い感情が流れ込んでくることはある。それでも今は、できるだけ聞きたくなかった。能力を通してではなく、ヤマナシ自身が自分で選び、口にした言葉だけを受け取りたかった。
「私、能力も弱いし、性格もよくないし、仕事中にスマホ弄るし、普通の職場ならたぶんとっくに浮いてると思う」
「仕事中のスマホは直した方がいいんじゃない?」
「今そういう話してない」
「ごめん」
「でも、ここならそれでもいられるんだよ。誰も『普通になれ』って言ってこない。そもそも普通じゃないやつしかいないから、こっちも無理に普通のふりをしなくていい」
ヤマナシはそこで少し考え、言葉を選ぶように続けた。
「トンダさんは怖いよ。今日の話だって理解できないし、たまに本気で何考えてるのかわからない。でも、私を要らないとは言わなかった。能力が弱いから役に立たないとも言わなかった」
それから、指を折るように一人ずつ挙げていく。
「カモイさんは口悪いし、すぐ怒るし、こっちまで害虫扱いされそうになる時あるけど、なんだかんだ困ってたら助けてくれる。マチヤさんは子どもみたいだけど、普通にランチ誘ってくれるし」
「うん」
「モテギは声でかいけど、少なくとも悪意はない。ナガヤマは陰湿だけど、たまにお菓子くれる」
「お菓子?」
「チョコが多いね。だいたい湿ってるけど」
「なんで湿ってるの?」
「知らない」
マキバは思わず笑った。
ヤマナシもほんの少し口元を緩めた。本人にそのつもりはないのだろうが、こうして一人ずつ悪口を並べながら話す声には、妙な親しさが混じっていた。
その笑みはすぐに消えた。
「だから、トンダさんには死んでほしくない」
「うん」
「カマタも、できれば戻ってほしい」
マキバは顔を上げた。
「他のやつがどう思ってるかは知らない。でも少なくとも私は、今でもカマタのこと仲間だと思ってる」
その言葉に、胸の奥が少し痛んだ。
カマタはヤマナシを巻き込もうとしている。
本当は迷惑をかけたくないと言いながら、マキバが断れば彼女を使うつもりだと告げた。本人も、それが卑怯なやり方だと理解している。
それでもヤマナシは、そんなカマタを仲間だと言う。
仲間だから何をされても許す、という意味ではないのだろう。トンダを殺す手伝いはしない。それでも、間違ったことをしようとしているからといって、簡単に仲間ではなくなるわけでもない。
「アンタ、またカマタに会うんだろ?」
「うん」
「だったら、説得してよ」
ヤマナシは壁から背中を離し、真正面からマキバを見た。
「そういうの、うまいでしょ?」
マキバはすぐには答えられなかった。
――うまい。
最近は、そう言われることが増えた。
相手の心の声を聞き、そこに隠れている恐怖や怒りを拾い、それを言葉にして返す。それによって暴走を止め、何人もの特殊能力者を投降させてきた。
結果だけを見れば、確かにそうなのかもしれない。
けれど、本当に自分は人を説得するのがうまいのだろうか。
キョウコは止められなかった。
トンダの考え方も変えられない。
カマタがユウミにどれほど強い思いを抱き、その死によってどこまで追い詰められているのかも、今日話を聞くまで知らなかった。
ヤマナシがこの場所をこれほど大切にしていたことも知らなかったし、カモイに彼女なりの倫理的な線引きがあることさえ意外に感じた。
心の声は聞こえる。
人が口にできない感情まで、時には誰より早く知ることができる。
それなのに、人間のことなど何もわかっていないのではないか。
そんな思いが胸の奥に残った。
「……できるかどうかは、わからない」
マキバは正直に言った。
「でも、やってみる」
「うん」
ヤマナシは小さく頷いた。
「頼む」
いつものぶっきらぼうな声だった。
それでも、その短い一言が普段とは違う重さを持っていることくらいは、心の声を聞かなくてもわかった。
マキバも小さく頷いた。
今日一日だけで、今まで見えていなかったものがいくつも見えた気がした。
トンダの冷酷さ。カマタの身勝手さ。カモイの意外な良識。ヤマナシが仲間に抱いている思い。
どれも、マキバがそれまで抱いていた人物像から少しずつ外れていた。
人間は単純ではない。
残酷なことを平然と言う人間にも、越えたくない一線がある。正義を語る人間の中にも、私怨や復讐心は混じる。無関心そうに見える人間にも、失いたくない居場所がある。そして優しい気持ちを持っている人間でさえ、いつでも誰かを救えるわけではない。
誰が正しいのか。
誰が間違っているのか。
ひとつの言葉で簡単に決められるものではなかった。
それがわかるほど、マキバは自分の無力さを思い知らされた。
それでも明日、カマタに会わなければならない。
トンダを殺す計画を止めるために。
カマタをこれ以上引き返せないところまで行かせないために。
ヤマナシを巻き込ませないために。
そして、できることなら、カマタを特殊対策室へ戻すために。
この異常で、騒がしくて、決して健全とは言えない場所を、それでも「自分の居場所だ」と思っている人間がいる。
そのことを知った今、何もしないという選択だけはしたくなかった。
たぶん、それはマキバ自身のためでもあった。
――心の声が聞こえても、結局誰も救えない。
そんな思いに押し潰されずにいるために。
この力で人の声を聞くことには、まだ意味があるのだと信じるために。
マキバはビルの間に細く切り取られた夜空を見上げた。
夏の終わりの空は暗く、路地には昼の名残のような湿った熱がまだこもっていた。
その息苦しさが、今の自分の胸の内とどこか似ているように思えた。




