第4話 スーパー最強プリンセス
カマタリョウガは、トンダユウイチを殺そうとした。
そして、返り討ちにあった。
マキバダイスケがトンダ本人の口から聞かされたのは、ひとまずそれだけだった。
場所は、特殊対策室の入る雑居ビルの裏手だった。
建物と建物の隙間に押し込められたような、細長く薄暗い空間。昼間だというのに陽射しはほとんど届かず、湿ったコンクリートの壁には黒ずんだ雨染みが残っている。いくつも並んだ古びた室外機が低い唸り声を上げ、吐き出された熱風が狭い通路の中にこもっていた。
立っているだけで、じわじわと汗が滲んでくる。
そんな息苦しい場所で、トンダはいつものように穏やかな笑顔を浮かべていた。
「カマタくんは僕を殺そうとしたんです」
あまりにも静かな声だった。
怒っているわけでもない。傷ついているわけでもない。かといって、自分の強さを誇示しているようにも聞こえなかった。
まるで昨日の昼食に何を食べたかでも話すような、ごく平凡な調子だった。
だからこそ、マキバはすぐに言葉を返せなかった。
――自分を殺そうとした。
普通なら、その一言の中にはもっと何かが含まれているはずだった。
怒り。恨み。恐怖。裏切られたという感情。あるいは、せめて多少の苛立ちくらいは。
けれど、目の前の男からは、そのどれも感じられない。
マキバの隣に立っていたヤマナシアズミも黙っていた。
いつもなら気だるそうにスマートフォンを眺めている彼女も、今は画面を見ていない。わずかに眉を寄せ、何か言いたそうに唇を動かしかけている。
だが、結局その口から言葉は出なかった。
「……それで、どうなったんですか?」
少しの沈黙の後、ようやくマキバが尋ねた。
トンダは、質問の意味がよくわからないとでもいうように、小さく首を傾げた。
「返り討ちにしました」
簡潔だった。
「殺したんですか?」
「まさか」
トンダはすぐに笑った。
「殺したなら、今日、君に会えないでしょ?」
「……」
「大怪我は負わせましたが、逃げられました」
そう言って、軽く肩をすくめる。
――大怪我。
その言葉だけが妙に重く、マキバの耳に残った。
どの程度の怪我だったのか。骨折なのか。内臓を傷つけたのか。それとも、もっと酷い状態だったのか。
聞こうかと思った。けれど、やめた。
トンダが「大怪我」と呼ぶほどの状態を、あまり具体的に想像したくなかった。
「……彼は優秀です」
トンダは続けた。
「逃げ足も含めて」
口元にはまだ、薄い笑みが浮かんでいる。
嫌味なのだろうか。マキバは一瞬そう思ったが、少なくとも表情からは悪意を読み取れなかった。
本当に感心しているようにも見える。
自分を殺そうとした相手に重傷を負わせ、その相手が逃げ切ったことを、純粋に「優秀だ」と評価している。それがかえって不気味だった。
悪意がないことと、恐ろしくないことは、まったく別の話だった。。
「僕も別に気にしてないので、戻ってきてくれてもいいんですけどねえ」
トンダは、どこか呑気に言った。
「戻って……?」
「特殊対策室にですよ」
あまりにも自然に言うものだから、マキバは思わずトンダの顔を見つめた。
自分を殺そうとした人間である。
それも、ただ口論の末に殴りかかってきたという話ではない。明確な殺意を持って襲ってきたのだ。
それなのに、戻ってきても構わないという。
それが本音なのか、マキバにはわからなかった。
本当にカマタを許しているのか。許すも何も、最初から腹を立てていないのか。
あるいは、もう脅威ですらないと判断し、相手にする価値もないと思っているだけなのか。
それとも本当に、カマタの能力や働きぶりを評価していて、以前のように特殊対策室で働いてほしいと思っているのか。
考えてもわからない。
目の前にいるのは、人のよさそうな笑みを浮かべた眼鏡の男だった。
その笑顔の奥に何があるのか、マキバにはまるで読めなかった。
「ひとつ、言っておきます」
ふいに、トンダの声音が変わった。
ほんのわずかだった。
笑顔は消えていない。姿勢も変わっていない。
それなのに、声だけが少し低くなった。
マキバは無意識に背筋を伸ばした。
「カマタくんに対して、君が親近感を覚えるのはわかります」
室外機の低い駆動音が、三人の間を埋めていた。
「彼も僕たちのやり方に反発していましたからね」
マキバは黙って聞いていた。
それは事実だった。
カマタは、トンダたちのように弱い特殊能力者を簡単に殺そうとはしない。
だからこそマキバも、彼に少なからず親近感を抱いていた。
少なくとも、話の通じる相手だと思っていた。
「……ですが」
トンダは続けた。
「彼も基本的には、僕やカモイさんたちと同じ思考回路の生物です」
その言葉に、マキバは眉を寄せた。
「同じ……?」
「はい」
トンダは静かに頷いた。
「マキバくんやヤマナシさんとは、根本的に違います」
隣で、ヤマナシがわずかに顔を上げた。
「そこを認識しておかないと、後で辛い思いをしますよ」
注意というより、忠告だった。
しかも、それを口にしているトンダ自身が、カマタと同じ側に自分を置いている。
ヤマナシの目が、ほんの少し揺れた。
何か言いたそうだった。
反論したかったのか。それとも、トンダの言葉に思い当たるところがあったのか。
マキバにはわからない。
ヤマナシはしばらくトンダを見ていたが、やがて視線を落とした。何も言わなかった。
マキバも、すぐには言葉を返せなかった。
代わりに、先ほどカマタから聞いた言葉が頭の中に蘇った。
――動物愛護派。
あの時は、妙な言い回しだと思った。
弱い特殊能力者を殺すトンダたちに反対している。彼らを守ろうとしている。
ならば、少なくともカマタはトンダたちとは違う。
そう思っていた。
けれど、改めて考えてみれば、カマタは一度も、弱い特殊能力者を「自分と同じ人間」だとは言っていなかった。
トンダやカモイたちは、弱い特殊能力者を害獣のような存在として見ている。
危険なら排除する。不要なら処分する。
一方で、カマタは彼らを保護すべき存在として見ている。
無意味に殺すべきではない。強い者が守るべきだ。
その違いは、決して小さくない。
命を奪う側と、守ろうとする側。
行動だけを見れば、むしろ正反対に近い。
けれど、その根にあるものは、本当に別なのだろうか。
害獣だから駆除する。可哀想な動物だから保護する。
どちらも、相手を自分と同じ場所には置いていない。弱い特殊能力者を、自分とは異なる下位の存在として捉えている。
扱い方が違うだけで、見下ろしている方向そのものは同じなのかもしれない。
そこまで考えたところで、マキバは背筋に薄い寒気を覚えた。
室外機の熱風は相変わらず生温かく、額には汗まで滲んでいる。それなのに、身体の内側だけが妙に冷えていた。
トンダは、その違いを最初から見抜いていたのだ。
カマタが自分を嫌い、命まで狙ったことを知っている。
それでもなお、彼を「自分と同じ側の生物」だと言い切った。
敵意や好悪ではなく、その人間が世界をどう見ているのかだけを、冷静に切り分けている。
マキバは、目の前の男の穏やかな横顔を見た。
いつもの柔らかな笑み。何を考えているのかわからない顔。
その笑顔のまま、人間の本質を見透かすようなことを口にするトンダが、マキバには少し怖かった。
真夏のピークは、ひとまず過ぎていた。
それでも、街から夏が消えたわけではない。
昼間に照りつけた陽射しの熱がアスファルトの奥まで染み込み、夕方になっても地面からじわじわと熱気が立ち上っている。ビルの谷間を抜ける風も生温かく、少し歩くだけでスーツの襟元には汗が滲んだ。
駅前に並ぶ街路樹は、強い日差しに晒され続けたせいか、どこか疲れたように乾いた葉を揺らしている。
つい最近まで朝から晩まで鳴き続けていた蝉の声も、少しずつ弱くなっていた。
夏は終わりへ向かっている。
けれど、その名残だけが、街のあちこちにしつこくこびりついていた。
そんな季節の中でも、マキバダイスケの日常は大きく変わらなかった。
彼は相変わらず、誰も傷つけずに特殊能力者のトラブルを解決し続けていた。
感情の昂ぶりから能力を暴走させ、商店街の一角を混乱させた少女。
突然解雇を告げられ、怒りと絶望のあまり、勤めていた会社の正面玄関に座り込んだ男性。
能力者専門の就労支援施設で酷い扱いを受けたと思い込み、施設へ火を放とうとした女性。
事情も、年齢も、能力も、それぞれ違った。
けれど、マキバが最初にすることはいつも同じだった。
話を聞く。怒鳴られても聞く。罵倒されても聞く。能力を向けられても、可能な限り逃げずに聞く。
怒りの底に沈んでいる傷を拾い上げる。憎しみの裏側に隠れている悲しみを探す。恐怖のせいで言葉にならなくなった思いを、一つずつすくい上げる。
そうして相手自身にも整理できていなかった感情を言葉にし、何とか投降や撤退へ持ち込んだ。
もちろん、毎回綺麗に解決できたわけではない。
怒鳴られることもあった。唾を吐きかけられることもあった。殴られそうになったことも、一度や二度ではない。
それでも、少なくともマキバが対応した案件で、命を落とす者はいなかった。
一時期は面白がるように彼を取り上げていたメディアも、やがて別の話題へ移っていった。
テレビで名前が出ることは減った。ニュースサイトの記事も少なくなった。
世間の関心は、少しずつ薄れていった。
だが、ネット上に生まれた憎悪まで消えたわけではなかった。
むしろ、報道が落ち着いてからの方が、それは湿った染みのように残り続けた。
派手に燃え上がる炎ではない。
誰かが新しい話題を持ち出すたびに再び掘り返され、匿名の人間たちが思い出したように悪意を書き込む。
いつまでも乾かない泥のようなものだった。
特殊対策室の事務所にも、連日のように手紙が届いた。
白い封筒。茶封筒。几帳面な字で宛名が書かれたもの。差出人の名前がどこにもないもの。
外見こそさまざまだったが、中身はどれも似たようなものだった。
『偽善者』
『犯罪者を助けるな』
『お前の家族が能力者に殺されても同じことが言えるのか』
『特殊能力者は全員消えろ』
『社会のゴミを守るな』
何ページにもわたって特殊能力者への憎悪を書き連ねたもの。
新聞記事を乱雑に切り抜き、その上から赤いペンで罵倒を書き込んだもの。
それでも、まだ言葉として意味が通じるものはましだった。
中には、意味のわからない記号や数字が紙いっぱいに並んでいるものや、封筒を開けると乾いた虫の死骸が転がり出てきたものまであった。
その日も、特殊対策室の事務所には大量の封筒が届いていた。
マキバの机の端に積み上げられたそれらは、もはや郵便物というより、処理を待つゴミの山に近かった。
「資源の無駄遣いでしょ……」
ナガヤマミナミが、いつもの陰気な声で呟いた。
彼女が指先をわずかに動かす。
すると、机の上に積まれていた封筒が一斉に浮かび上がった。
十通、二十通。
白や茶色の封筒が、目に見えない糸で吊り下げられたように空中へ並ぶ。
ナガヤマが目を細めた。
次の瞬間。
――びりっ。
無数の封筒が、一斉に裂けた。さらに中の便箋まで細かく千切られていく。
紙片となった誹謗中傷の手紙が、事務所の中を白い紙吹雪のように舞った。
もっとも、祝福とは正反対の言葉が書かれた紙吹雪だったが。
ナガヤマが軽く手を振る。
宙を舞っていた紙片は、一枚残らず机の横のゴミ袋へ吸い込まれていった。
「分別してくださいね」
トンダが書類から目を上げずに言った。
「後でやります……」
ナガヤマは面倒そうに答えた。
近くの席では、ヤマナシアズミがスマートフォンをいじっていた。
画面からほとんど目を離さないまま、先ほどまで封筒が積まれていた場所を一瞥する。
「暇人多すぎ」
「アンタのせいよ」
すぐにカモイヨシエがマキバを睨んだ。
「え?」
「アンタが妙なこと始めたから、こんなゴミが毎日届くようになったんでしょうが」
カモイは不機嫌そうに腕を組んだ。
「手紙よこした奴らの住所調べて、一軒ずつ回って全員殺しなさい」
「すみません……」
マキバは反射的に頭を下げた。
何について謝っているのか、自分でもよくわからない。
「なんで謝んの?」
ヤマナシがスマートフォンから顔を上げた。少し呆れたようにマキバを見る。
「アンタは悪くないでしょ」
「でも、みんなにも迷惑かかってるし」
「迷惑なのは手紙送ってくる奴らでしょ」
ヤマナシは当然のことを言うように続けた。
「アンタは悪くないよ。むしろ、よくやってると思う」
マキバは少しだけ目を瞬いた。
「……ありがとう」
「別に」
ヤマナシはすぐに顔を背けた。
「事実を言っただけ」
再びスマートフォンへ視線を落とす。
髪の隙間から見えた耳が、ほんの少し赤くなっているような気がした。
マキバは、見なかったことにした。
「その通りです」
トンダが手元の書類を一枚めくりながら言った。
「むしろ最近は、マキバくんに対応させること自体を、企業イメージの向上に利用しようとするクライアントまで出てきました」
「企業イメージ?」
マキバが聞き返す。
「ええ」
トンダは淡々と答えた。
「『我々は特殊能力者に対しても人道的な対応を行っています』『可能な限り誰も傷つけずに問題解決を図りました』と、世間にアピールできるでしょう?」
「ああ……」
マキバは曖昧に頷いた。
褒められているような気もする。利用されているだけのような気もする。
「気持ち悪い連中ね」
カモイが吐き捨てるように言った。
「本音じゃ、さっさと殺して片づけたいくせに」
「まあ、そういう顧客もいるでしょうね」
トンダは否定しなかった。
「表向きは人道的な対応を希望している。けれど内心では、後腐れなく処分してほしいと思っている。人間社会では、それほど珍しいことでもありません」
「だから嫌いなのよ、人間社会」
カモイは盛大に舌打ちした。
「カモイさんも人間ですよ」
「私は違うわよ」
「では、何なんですか?」
「上澄みよ」
一瞬、事務所が静かになった。
「豚のくせに、自己評価が無駄に高い……」
ナガヤマがぼそりと呟いた。
「ああ!?」
カモイが振り向く。
「聞こえてるわよ、ナガヤマ!」
「聞こえるように言いました……」
「殺す!」
いつもの特殊対策室だった。
罵声が飛び、殺害予告が飛び、それを誰かが適当に受け流す。
騒がしく、異常で、どうしようもなく物騒なのに、なぜか少しだけ滑稽な職場。
マキバにとっても、いつの間にかそれが日常になりつつあった。
その空気を切り裂くように、
「子豚ちゃん、イラつきすぎー!また皺が増えちゃうぞ?」
突然、甲高い女の声が響いた。
事務所の空気が、一瞬で凍りついた。
マキバは目を瞬いた。
――今の声は?
少なくとも、聞き覚えはない。
ヤマナシがスマートフォンから顔を上げ、ナガヤマも怪訝そうに眉をひそめる。先ほどまで書類を読んでいたトンダだけは、なぜか特に驚いた様子を見せなかった。
そしてカモイだけが、椅子を蹴り飛ばしかねない勢いで振り返った。
「ああ!?誰だコラ!?」
「私でーす!」
元気いっぱいの返事が飛んだ。
だが、そこに女の姿はない。
マキバは声のした方へ目を向けた。
トンダのデスク。
その上にあるのは、以前から何度も目にしていた奇妙なぬいぐるみだけだった。
星形の眼鏡をかけた、妙に愛嬌があるような、ないような造形。何の動物をモデルにしているのかすら、いまひとつ判然としない。
次の瞬間、そのぬいぐるみが跳ねた。
「え?」
マキバの口から、間の抜けた声が漏れた。
跳ねた。ぬいぐるみが。
しかも、「ぴょん」などという可愛らしい高さではない。トンダのデスクから勢いよく飛び上がり、マキバの頭よりも高く舞い上がった。
「うわっ!?」
マキバが仰け反る。
ぬいぐるみは空中でくるりと一回転し、両腕らしき短い突起を大きく広げた。そして、なぜか妙に完成度の高い、やたらと可愛らしいポーズを決める。
「うわあああ!?」
マキバは今度こそ椅子から転げ落ちそうになった。椅子の脚が床を擦り、甲高い音を立てる。
ぬいぐるみが動いた。
生きている。いや、生きているのか?
そもそも、これは何なのか。
混乱するマキバをよそに、ぬいぐるみはそのまま宙を舞い、彼のデスクへ降りてきた。
――ぽすん。
あまりにも軽い音を立てて着地する。
星形の眼鏡が、真正面からマキバへ向けられた。
当然、その奥に本物の目などあるはずがない。
ないはずなのに、確実にこちらを見ている。
そんな気がした。
「マキバくん、こんちはー!」
甲高く、底抜けに明るい声。
ぬいぐるみは短い腕をぶんぶんと振った。
動きが大きい。声も大きい。
ぬいぐるみのくせに、妙に感情表現が豊かだった。
縫い付けられた顔そのものは変わっていないはずなのに、なぜか満面の笑みを浮かべているようにさえ見える。
マキバは、それをただ見つめた。
頭の中ではいくつもの疑問が同時に浮かんでいた。
――何だこれは?
なぜ動いている。なぜ喋っている。なぜ自分の名前を知っている。
そもそも、どうして周りの人間は自分ほど驚いていないのか。
けれど、驚きが限界を越えたせいで、そのどれ一つとして言葉にならなかった。
マキバは、ただ呆然と、目の前のぬいぐるみを見つめていた。
「あ、キョウコさん、おはよー」
最初に声を上げたのは、マチヤだった。
つい今しがた、ぬいぐるみが跳び、喋り、マキバを驚愕させたというのに、彼女は何事もなかったかのように笑顔で手を振っている。
「おはようございます!」
モテギも勢いよく立ち上がり、ぬいぐるみに向かって元気いっぱいに頭を下げた。
「おはようございます……」
ナガヤマは椅子に座ったまま、小さく会釈する。
「こんちは」
ヤマナシも、スマートフォンを片手に淡々と言った。
誰も驚いていない。
誰一人として、「ぬいぐるみが喋った」という事実に疑問を抱いていない。
驚愕しているのは、マキバだけだった。
まるで、自分だけがこの世界の基本的なルールを教えられていないような気分だった。
「みんな、おはよー!」
ぬいぐるみは短い両腕をぶんぶんと振った。
その仕草には妙な愛嬌がある。縫い付けられた顔は変わっていないはずなのに、満面の笑みを浮かべているように見えた。
「私がネムネムしてて寂しかった?」
「今回は長かったな」
トンダが穏やかに言った。こちらも、ぬいぐるみが喋ることなど当然であるかのように、ごく自然に会話を続けている。
「ダーリン!」
ぬいぐるみが弾けるような声を上げた。
次の瞬間、机の上から勢いよく跳び上がり、そのままトンダの胸元へ飛び込んだ。
「おはよー!」
トンダは驚きもせず、飛んできたぬいぐるみを両手で受け止めた。
あまりにも手慣れている。これまで何度も同じことを繰り返してきたのだろうと思わせる、自然な動きだった。
「おはよう、キョウコ」
トンダの声も、ごく自然だった。
マキバは二人――正確には、一人と一体を交互に見た。そして、震える指を向ける。
「え?あの……これは……」
何から聞けばいいのかわからない。
ぬいぐるみが喋っている。動いている。それを、ここにいる全員が当たり前のこととして受け止めている。
しかも、トンダを「ダーリン」と呼んだ。
疑問が多すぎて、頭の中が渋滞していた。
「改めて紹介します」
そんなマキバの混乱をよそに、トンダは落ち着き払っていた。
胸元に抱いていたぬいぐるみを両手で持ち上げ、マキバの方へ向ける。
「妻のキョウコです」
マキバは数秒、沈黙した。
「……妻?」
声が裏返りかけた。
その瞬間、キョウコがトンダの手の中でくるりと身体をひねった。短い腕を頬の近くへ寄せ、片足らしきものを少し浮かせる。
本人なりに、精一杯あざとさを追求したポーズらしい。
「スーパー最強プリンセスのトンダキョウコです!しくよろー!」
甲高い声が事務所に響き渡る。
マキバは頭を抱えたくなった。
――妻。
――ぬいぐるみ。
――スーパー最強プリンセス。
どの単語から、どういう順番で理解すればいいのかわからなかった。
「出たな悪霊……!」
低い声が響いた。
カモイが、親の仇でも見るような目でキョウコを睨んでいる。
「おお、出たな子豚ちゃん!」
キョウコはけらけらと笑った。
「殺す!」
カモイが即答する。その瞬間、彼女の周囲の空気がずしりと重くなり、机の上の書類がわずかに震えた。床も低く軋む。
「落ち着け」
トンダが淡々と言った。
「キョウコも煽るな」
「はーい」
キョウコは元気よく返事をした。声だけ聞けば素直だったが、反省していないことだけは誰の目にも明らかだった。
「説明を……」
マキバはようやく声を絞り出し、何とか状況を整理しようと額に手を当てた。
「説明をしてください」
「説明?」
キョウコが小首を傾げる。その仕草は妙に人間くさかった。
「何を説明するの?私が今まで動かなかった理由?」
「それもそうですけど、それ以前に……」
「それはお昼寝してたから!」
キョウコは得意げに胸を張った。胸がどこにあるのか、マキバにはよくわからなかったが、とにかくそう見えた。
「私って、ホラ、めっちゃ能力サイキョーじゃん?」
「知りません」
「えー!」
「今日初めて喋ってるところを見たので」
「あ、そっか!」
キョウコは一人で納得した。
「まあ、とにかくサイキョーなの!でもその分、めっちゃエネルギー喰うんだよねー。だから普通の人よりいっぱい寝ないとダメなの」
短い腕を大きく広げる。
「でも、今回はちょーっと寝過ぎちゃった!」
「ちょっと……?」
マキバは思わずトンダを見た。
先ほどトンダは「今回は長かった」と言っていた。どうやら、マキバが特殊対策室へ来るより前から眠っていたらしい。
「あの……」
「でもでも!」
キョウコはマキバの言葉を遮った。
「意識は覚醒してたから、マキバくんのことはちゃんと見てたよ!」
そう言うなり、キョウコはトンダの腕から高く飛び上がり、再びマキバの机へ着地した。ぽすん、と軽い音がして、そのまま嬉しそうに何度か跳ねる。
「誰も殺さずに事件を解決してるんでしょ?」
「あ、はい……」
「すごく面白いじゃん!」
キョウコは声を弾ませた。
「私、そういうの好きだよ!今まであんまりいなかったタイプだし!」
「ありがとうございます……」
どうやら褒められているらしい。
だが、マキバの疑問は何一つ解消していなかった。
「いや、あの、それ以前に、何と言うか……」
マキバは視線を泳がせた。どう聞けば失礼にならないのか、一瞬迷う。そもそも、相手が人間なのかどうかすら、まだよくわからない。
結局、もっとも根本的な疑問を口にした。
「どうして、ぬいぐるみに?」
「ああ、それは……」
答えたのはトンダだった。書類の内容でも説明するような、ごく普通の口調だった。
「キョウコは肉体がないので、思念をぬいぐるみに宿しているんです」
マキバは黙った。
今聞いた言葉を、頭の中で一つずつ噛み砕く。
「肉体がない?」
「はい」
「思念を?」
「はい」
「ぬいぐるみに?」
「はい」
トンダはすべての質問に、同じ穏やかな調子で答えた。
マキバは理解することを半ば諦めた。
聞けば聞くほど、わからないことが増えていく。
「つまり亡霊よ、亡霊!」
横からカモイが吐き捨てるように言った。
「こんなもの、とっとと除霊すべきなのよ!」
「カモイちゃん、嫉妬がひどーい」
キョウコが身体を左右に揺らした。
「嫉妬じゃないわよ!」
「ダーリンの正妻ポジを奪えなくて悔しいの?」
「うるせえ!この無機物が!」
カモイのこめかみに青筋が浮かんだ。
「その綿、全部引きずり出してやる!」
「やだー!こわーい!」
そう言いながら、キョウコはまったく怖がっていない。
むしろ楽しそうだった。
カモイがなぜキョウコをここまで敵視しているのか、マキバにはまだわからない。
過去に何かあったのか。ただ単純に相性が悪いだけなのか。
けれど、この二人の性格が絶望的なまでに噛み合わないことだけは、初対面のマキバにも一瞬で理解できた。
「そういうことなら、事前に話してくれれば……」
マキバは疲れたように言った。
そうすれば、少なくとも喋るぬいぐるみを目の前にして椅子から転げ落ちそうになることはなかった。
すると、ヤマナシが鼻で笑った。
「話しても信じないだろ」
「それは……」
反論しようとして、マキバは口を閉じた。
『トンダさんの奥さんは肉体がなくて、思念をぬいぐるみに宿しています』
確かに、事前にそう説明されても、冗談だと思った可能性の方が高い。
「それに!」
キョウコがずいっと身を乗り出した。星形の眼鏡が、マキバの目前に迫る。
「先に教えちゃったら、驚かないでしょー?」
「え?」
「つまんないじゃーん!」
「つまんないって……」
「人生、サプライズが大事!」
キョウコは得意げに言い切った。
自分に肉体がないことを話している。
本来なら、もっと重く語られてもおかしくない話だった。
けれど、キョウコには悲壮感の欠片もなかった。不幸を嘆く様子もなければ、自分を哀れむ様子もない。
むしろ、肉体を失ったことさえ、自分を面白く見せるための話題の一つとして扱っているようだった。
明るい。あまりにも、明るすぎる。
その底抜けの陽気さを前にして、マキバは笑うことができなかった。
星形の眼鏡をかけた奇妙なぬいぐるみが、机の上で楽しそうに身体を揺らしている。
死や喪失が持つはずの重さだけを、どこかへ置き忘れてきたような存在だった。
マキバはその姿を見つめながら、ほんのわずかに寒気を覚えた。
「……さーて」
キョウコは、短い両腕をぐいっと上へ伸ばした。
ぬいぐるみの身体なので、本当に筋肉が伸びているのかどうかはわからない。それでも仕草だけは、人間が長い眠りから目覚めた直後にする伸びそのものだった。
「目覚めの一発!ちょっと軽く一般ピーポー虐殺してくかー!」
「えっ!?」
マキバは反射的に声を上げた。
椅子から腰まで浮きかける。
先ほどまで笑っていたキョウコが、あまりにも自然な調子で物騒なことを言うものだから、一瞬、本気なのか冗談なのか判断できなかった。
だが、当の本人はすぐに声を上げて笑い始めた。
「ジョーダンだよ、ジョーダン!」
キョウコは腹を抱えるような仕草をして、身体を前後に揺らした。
「私が慈愛の権化なの知ってるでしょー!」
「知らないです……」
マキバは疲れた声で答えた。
「じゃあ今知って!」
「そんな後付けみたいに……」
その時だった。
事務所の電話が鳴った。
電子音が響いた瞬間、さっきまでの馬鹿騒ぎがわずかに途切れる。
トンダが何事もなかったかのように受話器を取った。
「はい、特殊対策室です」
声色は一瞬で仕事用のものへ切り替わっていた。
相手の話を聞きながら、時折短く相槌を打つ。
「はい……はい。状況は?」
事務所の面々も、何となく会話へ耳を傾けている。
やがてトンダは「わかりました」とだけ答え、受話器を置いた。
「……マキバくん、仕事です」
呼ばれた瞬間、マキバも自然と姿勢を正した。
「はい」
「厚生労働省の前に居座っている民間団体を何とかしてほしい、とのことです」
「厚生労働省?」
「あー、アレでしょ」
カモイが心底面倒そうな声を出した。椅子の背もたれへ深く身体を預け、露骨に眉間へ皺を寄せる。
「特殊能力者の生存権を保障しろとか、能力差別をやめろとか騒いでる連中」
「おそらく、その団体でしょうね」
トンダが淡々と答えた。
「ここ数日、庁舎前で抗議活動を続けているようです。職員や通行人への直接的な危害はないものの、長時間の座り込みで対応に困っているそうです」
「迷惑ね」
カモイは即座に吐き捨てた。
「私が許可するから、殺しなさい」
「殺しませんよ」
マキバは間髪入れずに答えた。
「なんでよ?」
「なんでって……」
マキバは呆れたようにカモイを見る。
「今回は誰かに危害を加えているわけでもないんですよね?」
「現時点では、暴力行為などは確認されていないそうです」
トンダが答える。
「だったら、なおさら殺す理由ないじゃないですか。というか、殺したら普通に罪に問われますよ」
「害虫殺しても罪に問われないわよ!」
「人間の話をしてるんですよ」
マキバが即座に返す。
「カモイちゃん、相変わらず理性のカケラもないわねー!」
横からキョウコが楽しそうに笑った。
カモイの眉が、ぴくりと動く。
「ああ!?」
椅子を蹴るような勢いで立ち上がった。
「潰すぞ!悪霊が!」
右手を振り上げる。
その瞬間、事務所の空気が一変した。
目には見えない。それでも、マキバにははっきりとわかった。
キョウコのいる一点へ向かって、強烈な重力が集中している。
机の天板がぎしりと鈍く軋み、積まれていた書類がばさりと跳ねた。ペン立てが倒れ、中のボールペンが机の上へ散らばる。床までかすかに震え、空気そのものが重くなったような圧迫感があった。
小さなぬいぐるみの身体など、一瞬で押し潰されてもおかしくない。
マキバはそう思った。
だが、次の瞬間。
「ぐっ!?」
吹き飛んだのは、カモイの方だった。
「え?」
マキバが目を見開く。
何が起きたのか、まるでわからなかった。
カモイの身体は、正面から巨大な何かに殴り飛ばされたように宙を舞った。足元の椅子を巻き込みながら床へ叩きつけられ、そのまま数メートル転がって壁へ激突する。
どん、と重い音が事務所に響いた。
「いったぁ……!」
カモイが床に片手をつき、顔をしかめながら上体を起こす。
一方のキョウコは、まったくの無傷だった。
机の上で楽しそうにくるくると回り、勝ち誇ったように短い両腕を広げる。
「はい、ざーこ!」
「殺す……!」
カモイの額に、くっきりと青筋が浮かんだ。
「キョウコ」
トンダの声が低く落ちた。
大きな声ではない。怒鳴っているわけでもない。それなのに、その一言が響いた瞬間、先ほどまで騒がしかった事務所の空気がすっと静まった。
「暴れるな。うるさい」
「はーい、ダーリン」
キョウコはぴたりと動きを止めた。
あれほど好き勝手に騒ぎ、つい先ほどカモイを壁まで吹き飛ばしたばかりだというのに、トンダの言葉には驚くほど素直に従う。
マキバは少しだけ目を見張った。
どうやら、この奇妙なぬいぐるみにも逆らわない相手はいるらしい。
「よっしゃ!」
しかし、その反省は三秒も続かなかった。
キョウコはすぐさま短い両腕を高く掲げ、先ほどまで叱られていたことなど忘れたような声を上げた。
「そのトラブル、私がズバッと解決したげる!」
「やめろ」
トンダは即答した。間すらなかった。
「えー!」
「お前はもう特殊対策室に在籍していない。部外者だ」
「ダーリン、つめたーい!」
「事実だ」
「妻なのに?」
「関係ない」
トンダは淡々と言い切った。
そのやり取りだけを聞いていれば、仕事に口を出そうとする妻を夫がたしなめているだけの、ごく普通の夫婦の会話にも思える。
ただし、一方は肉体を持たず、ぬいぐるみに思念を宿している女で、もう一方は人間を容易に殺せるほど強力な特殊能力者だった。
やはり、何一つ普通ではない。
トンダはキョウコを自分のデスクの端へ戻すと、何事もなかったようにマキバへ視線を向けた。
「マキバくん、お願いしますね」
「あ、はい」
マキバは慌てて返事をし、椅子から立ち上がった。先ほどの騒ぎで少し乱れた上着の裾を軽く整える。
「今回は本当に、話を聞くだけで済むと思います」
「そうですね」
トンダも立ち上がった。
「暴れているわけではありませんし、行政側も強制排除までは望んでいないようです。まずは事情を聞いてみましょう」
「わかりました」
マキバは頷いた。
すると、背後からキョウコの明るい声が飛んできた。
「頑張ってねー、マキバくん!」
「ありがとうございます」
「ヤバくなったら皆殺しで!」
「しません!」
「ジョーダンだってー!」
楽しそうな笑い声が響く。
マキバは振り返らず、小さく息を吐いた。
やはり信用してはいけない。
そんなことを考えている横で、トンダが片手を上げた。
「では、行きますよ」
指を鳴らす。
乾いた音が響いた瞬間、マキバの視界がぐるりと裏返った。
次の瞬間、マキバは霞が関の一角に立っていた。
ほんの一瞬前まで、特殊対策室の事務所にいたはずだった。
視界が反転し、足元の感覚が一瞬だけ浮き上がったかと思うと、鼻を突いたのは古いビルの空調の匂いではなく、熱を帯びたアスファルトと排気ガスの匂いだった。
目の前には、高層の庁舎が立ち並ぶ官庁街が広がっている。
厚生労働省の庁舎前。
午後の日差しを受けた建物の壁面は白く眩しく、広い歩道には警備員や警察官が数人、抗議を続ける人々から一定の距離を取って立っていた。すぐに実力行使へ移るような様子はないものの、その表情には明らかな警戒が浮かんでいる。
騒ぎに気づいた通行人も、あちこちで足を止めていた。
スーツ姿の会社員、買い物袋を提げた女性、スマートフォンを向けて撮影している若者。
誰も積極的に近づこうとはせず、歩道の端や道路の向こう側から遠巻きに様子を窺っている。
その視線の先に、二十人ほどの男女が座り込んでいた。
二十代くらいの若者もいれば、スーツ姿の中年男性もいる。小柄な女性や、車椅子に座って膝の上にプラカードを抱えている者もいた。
服装にも統一感はなく、いかにも活動家らしい者ばかりではない。街ですれ違っても気に留めないような、ごく普通の会社員や主婦にしか見えない人々も多く混じっていた。
彼らの周囲には、手作りの旗やプラカードが掲げられている。
『特殊能力者も人間です』
『特殊能力者も普通に生きたい』
『能力の強弱で命の価値を決めるな』
『管理より支援を』
『弱い能力者にも生存権を』
マジックペンで大きく書かれた文字。家庭用プリンターで印刷した紙を厚紙へ貼り付けたもの。布へ直接、絵の具で文字を書いたらしい旗。
どれも決して洗練されてはいなかった。けれど、その不格好さがかえって、彼らが切実な思いから自分たちの手で用意したものなのだと伝えていた。
「能力者差別をやめろ!」
「弱い能力者も人間だ!」
「放置するな!」
抗議の声は大きく、官庁街の建物の間に反響していた。時折、通り過ぎようとした人間が驚いて振り返る程度には響いている。
しかし、暴れてはいなかった。
物を壊している者はいない。警察官へ殴りかかる者もいなければ、庁舎へ無理やり侵入しようとしている様子もない。
ただ、その場に座り込み、プラカードを掲げ、自分たちの主張を声にしているだけだった。
マキバは周囲の様子をひと通り確かめ、わずかに息を吐いた。
少なくとも今のところ、暴力で制圧しなければならないような状況ではない。
――これなら、話せる。
「本当に居座ってるだけなのねー」
背後から、聞き覚えのある甲高い声がした。
「どうせならカチコミでもすりゃいいのに」
マキバの身体が固まった。背中を嫌な汗が伝っていく。
――まさか。
そんな思いを抱きながら、ゆっくりと振り返る。
「……キョウコさん?」
――いた。
星形の眼鏡をかけた奇妙なぬいぐるみが、街灯の上にちょこんと腰掛けている。短い脚をぶらぶらと揺らしながら、ずいぶん楽しそうに眼下の抗議集団を眺めていた。
「なんでここにいるんですか!?」
思わず声が大きくなる。
「さっき言ったじゃーん!」
キョウコは短い両腕を大きく広げた。
「私がズバッと解決したげるって!」
「トンダさんに止められてましたよね」
「ダーリンの言うことは聞くよ?」
キョウコは得意げに胸を張った。
「でも、守るとは言ってない!」
「最悪の理屈だ……」
マキバは額を押さえた。
これまで出会った特殊対策室の人間には、危険な者が多い。
カモイは何かにつけて相手を殺そうとするし、モテギも善意のまま恐ろしいことをやってのける。ナガヤマも、時折ぞっとするほど陰湿な発想を口にする。
しかし、キョウコには彼女たちとは別種の危うさがあった。
殺すとか、殴るとか、そういう単純でわかりやすい危険とは少し違う。
本人が面白がった結果、誰にも予想できない方向へ事態そのものを壊してしまいそうな怖さがあった。
「大丈夫です」
マキバは念を押すように言った。
「今回は僕一人でできますから」
「えー、つまんなーい」
「つまらなくていいです」
「何それー?仕事は楽しくやろうよ!」
「今はそういう話じゃありません」
「じゃあ、見てるだけね」
キョウコは街灯の上で足を組み、見物する気満々といった様子で座り直した。
「本当に、見てるだけでお願いします」
「努力しまーす!」
信用できない。まったく信用できない。
しかし、いつまでもキョウコに構っているわけにもいかなかった。少し離れた場所では警察官たちが抗議団体の動きを警戒し続けており、座り込んでいる人々からも緊張が消えていない。
マキバは仕方なくキョウコから視線を外し、抗議集団へ向き直った。
座り込みを続ける人々の中に、全体をまとめているらしい女性がいた。三十代後半くらいだろうか。短く切った髪に、少し日に焼けた顔。首から拡声器を下げ、周囲の仲間たちへ時折声をかけている。
長時間ここにいるのだろう。表情には疲労の色が濃く滲んでいた。
それでも、その目だけは強かった。
マキバは両手を身体の横へ出したまま、警戒させないようにゆっくりと近づいていった。
「すみません」
声をかけると、座り込んでいた何人かが一斉に振り向いた。先ほどまで厚生労働省の庁舎へ向けられていた視線が、一瞬でマキバへ集まる。
「特殊対策室のマキバです」
その名を告げた途端、空気が変わった。
抗議のために張りつめていた緊張が、今度は明確な警戒と敵意へ変わっていく。
顔を強張らせる者。隣の仲間へ小声で何かを伝える者。腰を浮かせ、いつでも動けるよう身構える者もいた。
「また殺し屋を寄こしたのか!」
若い男が勢いよく立ち上がり、怒鳴った。
「違います」
「近寄るな!」
別の男性も声を上げる。
「私たちは暴れていません!」
「誰にも危害なんて加えてない!」
「ただ話を聞いてほしいだけです!」
次々と声が飛んでくる。
「わかっています」
マキバはその場で足を止めた。
それ以上は距離を詰めず、両手を相手からよく見える位置まで上げる。武器を持っていないことと、こちらに敵意がないことを少しでも伝えるためだった。
「今日は、皆さんを排除しに来たわけではありません」
「どうせ嘘だ!」
「お前らなんて信用できるか!」
「弱い能力者は生きる価値がないって思ってるんだろ!」
怒声が重なる。一人が声を荒らげれば、それに引きずられるように別の誰かも叫ぶ。
長い間押し込められていた不満が、マキバというわかりやすい対象を見つけ、一気に噴き出したようだった。
マキバは反論しなかった。
今ここで「違う」と言い返しても意味はない。彼らが特殊対策室を信用していないことにも、それなりの理由がある。
ただ静かに、目の前の人々を見た。
水晶のように透き通った瞳が、一人ひとりを捉えていく。
すると、表に出ている怒声とはまったく違う声が、無数に重なってマキバの中へ流れ込んできた。
――怖い。また殺されるかもしれない。
――逃げたくない。
――でも、本当は怖い。
――もう黙っていたくない。
――暴れたいわけじゃない。誰かを傷つけたいわけでもない。
――ただ働きたい。
――家を借りたい。
――普通に学校へ通いたい。
――子どもを普通に育てたい。
――能力のことを話した瞬間に、面接官の顔が変わるのが嫌だ。
――賃貸契約を断られた。
――能力者だからという理由だけで、いじめられた。
――こんな能力、何の役にも立たない。それなのに危険人物みたいに扱われる。
――笑われたくない。怖がられたくない。
そして、いくつもの思いの底から、同じ願いが浮かび上がってきた。
――人間だと言ってほしい。
その声が、ひどく強くマキバの胸へ響いた。
――人間だと言ってほしい。
たったそれだけだった。
特別な権利がほしいわけではない。自分たちだけ優遇してほしいわけでも、誰かを支配したいわけでもない。
働きたい。住む場所がほしい。学校へ行きたい。家族と暮らしたい。能力の有無や強さではなく、一人の人間として扱ってほしい。
ただ、自分たちも同じ場所に立たせてほしい。
それだけの願いが、マキバの胸の奥に鈍い痛みを残した。
「皆さんが怒っているのは、当然だと思います」
マキバは静かに言った。
その言葉が意外だったのか、それまで怒鳴っていた何人かが、わずかに声を止めた。
「……何?」
先ほど立ち上がった若い男が、怪訝そうに眉をひそめる。
「能力がある。それだけで危険人物として見られる」
マキバは、相手の反応を確かめながら、ゆっくりと言葉を選んだ。
「強い能力なら、国や企業から利用価値があると判断される。でも、弱い能力なら、役に立たないのに危険性だけを問題にされる。そういう扱いに納得できないのは、当然だと思います」
周囲が少しずつ静かになっていく。
「普通に生きたいだけなのに、それすら難しい」
誰も何も言わなかった。
「僕には、皆さんが怒る理由はわかります」
ただし、完全に理解できるとは言わなかった。
当事者でもない自分が、彼らの人生を少し覗いただけで「全部わかる」と口にするのは違う気がした。
「僕は、皆さんを排除したいわけではありません」
少し離れた場所では、警察官たちが依然としてこちらを警戒している。マキバはそちらへ一度だけ視線を向け、それから再び抗議団体の人々を見た。
「ただ、このままここに居続ければ、いずれ警察との衝突が起きるかもしれません」
「だから帰れって言うんですか?」
代表らしい女性が、初めて口を開いた。
低く、疲れの滲んだ声だった。
「帰ったら、また無視されるだけです」
「その気持ちもわかります」
「わかる?」
女性の目が鋭くなった。
「あなたに何がわかるんですか?」
マキバは少し黙った。ここで反射的に言い返してはいけない。
「……全部はわかりません」
そう答えた。
「僕は、皆さんと同じ経験をしてきたわけではありませんから」
女性が口を閉じる。
「でも、だからこそ、まず話を聞きたいんです」
マキバは続けた。
「ここで警察とぶつかって、皆さんが『危険な能力者集団』として扱われたら、本当に伝えたかったことまで聞いてもらえなくなる。何を訴えていたのかではなく、『能力者が暴れた』という事実だけが残ってしまいます」
誰も反論しなかった。
「だから、そうなる前に、別の形で訴える方法を一緒に考えたいんです」
代表の女性の表情が、ほんの少しだけ揺らいだ。
警戒が消えたわけではない。それでも、先ほどまでのように、最初からすべてを拒絶する目ではなくなっていた。
「あなたは……」
女性がゆっくりと言った。
「本当に、私たちの話を聞く気があるんですか?」
「あります」
マキバは即答した。
「形だけじゃなく?」
「はい」
女性はしばらくマキバの顔を見ていた。本当に信用していいのか、その表情から何かを見極めようとしているようだった。
「私たちは、何度も無視されてきました」
「はい」
「役所にも行きました。相談窓口にも行きました。政治家にも手紙を送りました」
女性は膝の上で拳を握りしめた。
「でも、誰もまともに取り合ってくれない」
その言葉に、周囲の人々も小さく頷いた。
「弱い能力者は、支援制度からも漏れるんです」
「……はい」
「能力者として申告しなければ、あとで発覚した時に問題になる。だけど、正直に申告すれば雇ってもらえない」
女性の声が、次第に強くなっていく。
「面接で能力のことを話した瞬間、不採用にされた人もいます」
後ろにいた若い男が、悔しそうに唇を噛んだ。
「家を借りようとして、能力者だとわかった途端に断られた人もいます」
車椅子の女性が、膝の上のプラカードへ視線を落とした。
「能力者向けの支援を受けようとしても、『危険度が低いから対象外』だと言われる」
代表の女性は、まっすぐにマキバを見据えた。
「でも社会に出れば、『能力者だから危険だ』と言われるんです」
その矛盾が、一つ一つの言葉に滲んでいた。
危険ではないから助けない。
けれど、危険かもしれないから普通には扱わない。
どちらへ転んでも、彼らには居場所がない。
「強い能力者は国が守る」
女性は続けた。
「企業が高い金を出して雇う。テレビにも出る。社会に必要な人間として扱われる。英雄みたいに持ち上げられる人だっている」
そこで一度言葉を切り、自嘲するように笑った。
「なのに、私たちは何なんですか?」
誰も答えなかった。
「役に立つほど強くない。でも、普通の人間として扱ってもらえるほど普通でもない」
女性は自分の膝へ視線を落とした。
「ただの邪魔者ですよ」
「……」
マキバは静かに頷いた。
否定するだけなら簡単だった。
そんなことはない、と。
あなたたちは邪魔者ではない、と。
けれど今、この女性が必要としているのは、そんな綺麗な慰めではない。何度も無視され、聞き流されてきた言葉を、今度こそ最後まで誰かに聞いてもらうことなのだろう。
だからマキバは急がなかった。
遮らない。否定しない。自分の意見を差し挟まず、相手の言葉が尽きるまで待つ。
周囲へ目を向けると、先ほどまで怒号を上げていた者たちも、少しずつ静かになっていた。
怒りが消えたわけではない。不信も、警戒も残っている。
それでも、何かが変わり始めていた。
叫ぶだけだった感情が、少しずつ言葉になっている。
何に傷ついたのか。何に困っているのか。何を変えてほしいのか。
それを言葉にできれば、少なくとも相手へ伝えることはできる。誰かへ向けて能力を放つ必要もなければ、警察と衝突する必要もない。
マキバは、ほんのわずかに手応えを感じていた。
まだ解決には遠い。それでも、最初にここへ転移してきた時よりは確実に前へ進んでいる。
このまま時間をかければいい。
一人ずつ話を聞き、彼らが何を求めているのかを整理する。それを行政側へ伝える方法を考え、今日のところは警察と衝突する前に一度撤収してもらう。
そこまでなら、持っていけるかもしれない。
マキバは、そう考えていた。
「焦ったいわねー」
その声が聞こえた瞬間、マキバの全身からさっと血の気が引いた。
振り向く。
さっきまで街灯の上で大人しく見物していたはずのキョウコが、いつの間にかそこから降り、抗議団体の方へ向かっていた。
小さなぬいぐるみの身体で、ぴょん、ぴょん、と歩道を軽やかに跳ねていく。その姿だけを見れば、子どもの玩具が楽しげに散歩しているようにも見えた。
だが、マキバにはそうは見えなかった。
抗議団体の人々も、突然近づいてくる奇妙なぬいぐるみに気づき、戸惑ったように顔を見合わせる。
「何だ、あれ……?」
「ぬいぐるみ?」
警察官の一人も怪訝そうに眉をひそめた。
誰も、この小さな存在が何者なのかわかっていない。
マキバだけが、少なくとも彼女が普通ではないことを知っていた。
だからこそ、嫌な予感がした。
いや、予感などという曖昧なものではなかった。キョウコが自分から前へ出た時点で、ろくなことにはならないという確信に近かった。
「こうすりゃいいじゃん」
キョウコが、ひどく楽しそうな声で言った。
「待ってください!」
マキバが叫ぶ。
だが、遅かった。
キョウコが短い腕を横へ振った。
ただ、それだけだった。
轟音もない。眩しい閃光も、爆発もない。
にもかかわらず、その瞬間、マキバの目の前で世界の形そのものが崩れた。
空間が一瞬だけ柔らかくなったように、景色がぐにゃりと歪む。
座り込んでいた人間たちも、歩道の白線も、その向こうに立ち並ぶ官庁街の建物さえも、水面に映った景色を指先でかき回したように輪郭を失っていった。
まっすぐだったものが曲がり、遠近感が狂い、人間の身体さえ粘土のように引き伸ばされて見える。
マキバは息を呑んだ。
時間にすれば、ほんの一瞬だった。
歪んだ景色が何事もなかったかのように元へ戻る。
そして、次の瞬間。
座り込んでいた人々が、消えた。
「……え?」
マキバは、何が起きたのかわからなかった。
ほんの一秒前まで、そこには二十人ほどの男女がいた。
怒っていた。怯えていた。それでも、自分たちの言葉を誰かに届けようと、声を上げていた。
その人々が、一人残らず消えている。
代わりに、歩道の上には色とりどりの文房具が散らばっていた。
ピンク色のハサミ。花柄のセロハンテープ。赤いリボンがついた糊。星形のクリップ。ラメの入ったボールペン。動物の絵が描かれた付箋。ハート型の消しゴム。やけに装飾の多い定規。
どれも、子ども向けの雑貨店にでも並んでいそうな、妙に可愛らしいものばかりだった。
あまりにも、この場所には似つかわしくない。
霞が関の官庁街。無機質な庁舎。緊張した面持ちの警察官。地面に倒れたままのプラカード。
その中央に、まるで誰かがおもちゃ箱をひっくり返したように、少女趣味の文房具が散らばっている。
風が吹いた。
一枚の付箋が、歩道の上をかさかさと滑っていく。
誰も動かなかった。
警察官も、遠巻きに見ていた通行人も、目の前で起きたことを理解できずに立ち尽くしている。
マキバも同じだった。
息をすることさえ忘れ、ただ呆然とその光景を見つめていた。
「え……」
声にならない声が、喉から漏れる。
その瞬間だった。
別の声が聞こえた。
耳からではない。頭の中へ、直接流れ込んでくる。
――助けて。何これ。
――動けない。
――怖い。戻して。
――身体がない。
――手がない。
――足もない。
――口がない。喋れない。
――見える。見えるのに動けない。
――声が出ない。
――誰か。
――助けて。
――誰か。
――誰か。
いくつもの声が一斉に重なり、マキバの頭の中を埋め尽くしていく。
恐怖。混乱。絶望。
何が起きたのかわからないまま、自分の身体だけを突然奪われた者たちの感情が、濁流のように押し寄せてきた。
マキバの瞳が大きく見開かれる。
視線が、足元に散らばる文房具へ落ちた。
ピンク色のハサミから。花柄のセロハンテープから。ハート型の消しゴムから。
聞こえている。心の声が。
さっきまで、ここに座っていた人間たちの声が。
「キョウコさん……」
自分の声が震えているのが、マキバにもわかった。
「あの人たちは……?」
「文房具に変えました!」
キョウコは誇らしげに胸を張った。
まるで難しい問題を鮮やかに解決し、褒めてもらえるのを待っている子どものようだった。
「これなら役に立つでしょ?」
マキバは一瞬、その言葉の意味を理解できなかった。
「……は?」
「だって、この人たちさー」
キョウコは足元に散らばった文房具を指差した。
「役に立たないから困ってたんでしょ?」
あまりにも軽い口調だった。
つい先ほどまで、ここには二十人ほどの人間がいた。
仕事ができない。家を借りられない。普通の人間として扱ってもらえない。そんな苦しみを必死に訴えていた。
キョウコも、それを聞いていたはずだった。
「だったら、役に立つものに変えれば解決じゃん!」
マキバの背筋を、冷たいものが這い上がった。
「あっ!」
キョウコは何かを思い出したように、短い両手をぱん、と合わせた。
「ちゃんと意識は残してあるよ!」
「……」
「意識なくしちゃったら、自分が社会の役に立ってるってわかんないじゃん?」
得意げだった。
「そこまでちゃんと考えてあげる私って、やさしー!」
マキバは何も言えなかった。
頭の中には、今も彼らの声が流れ込んできている。
悲鳴。混乱。絶望。
人間だった者たちの心の声が、幾重にも重なって押し寄せてくる。
――身体を失った。動けない。
――叫びたいのに、口がない。
――逃げたいのに、足がない。
――助けを求めたいのに、誰にも声が届かない。
見える。聞こえる。考えることもできる。
だからこそ、自分が今、人間ではなく「物」として地面に転がされていることを理解してしまう。
その恐怖が、生々しいほど伝わってきた。
マキバは込み上げてくる吐き気を堪えた。
トンダたちは、弱い特殊能力者を殺す。
それは恐ろしいことだ。到底、肯定などできない。
けれど、少なくとも彼らの行為には、彼らなりの理屈がある。
危険だから殺す。
依頼を早く終わらせるために殺す。
不要だと判断したから処分する。
冷酷だ。傲慢だ。人間の命をあまりにも軽く扱っている。
それでも、彼らにとって殺害はあくまで目的を達成するための「処理」だった。マキバには到底受け入れられない理屈であっても、何のためにやっているのかだけは理解できる。
だが、キョウコは違った。
必要だから殺すのではない。
効率のためでもない。危険を排除するためでもない。
もっと単純で、もっと恐ろしい。
――遊んでいる。
マキバには、そうとしか思えなかった。
人間を文房具に変え、意識だけを残し、自分が物になったことを理解させる。
それを残酷だとは思っていない。
むしろ、相手のためにしてやったことだと、本気で思っているように見える。
人間の身体も、心も、尊厳も。
キョウコにとっては、自分が面白いと思った形へ好き勝手に作り変えられる玩具でしかないのかもしれない。
その感覚の隔たりが、マキバには何よりも恐ろしかった。
「元に……」
ようやく声を絞り出した。
「ん?」
キョウコが振り返る。
「元に戻してください」
「えー?」
キョウコは心底、不思議そうな声を出した。
「なんで?」
その一言で、マキバの中の何かが切れた。
「いいから!」
気づけば叫んでいた。
自分でも驚くほど大きな声だった。周囲にいた警察官たちが一斉にこちらを振り向く。
キョウコも星形の眼鏡をマキバへ向けたまま、きょとんとしていた。
「マキバくんって、意外と怒りんぼなのね」
「戻してください!」
「ハイハイ」
キョウコは面倒そうに短い腕を振った。
「わかりましたー」
次の瞬間、再び景色が歪んだ。
歩道に散らばっていた文房具が、一斉に形を崩していく。ハサミの刃がぐにゃりと伸び、テープがねじれ、ペンが熱で溶けた飴のように崩れ、定規が内側から膨らんでいく。
それぞれが柔らかな粘土のように輪郭を失い、引き伸ばされ、縮み、ねじれながら別の形へ変わっていった。
やがて、そこに人間の姿が現れた。
――戻った。
最初の一瞬、マキバはそう思った。
だが、
「……!?」
――違う。
彼らは、元の姿には戻っていなかった。
左右の腕の長さが明らかに違う者。
肩から肘までが異様に短く、前腕だけが長く伸びている者。
顔の中心がわずかにずれ、目や鼻の位置が本来あるべき場所から外れている者。
指が六本、七本と不自然に枝分かれしている者。
皮膚の一部だけが硬く滑らかな質感へ変わり、ピンクや水色といった人工物めいた色を残している者。
掌の一部が金属のような光沢を帯びている者。
髪の先に細いリボンのようなものが絡みつき、皮膚と一体化している者までいる。
人間の輪郭そのものは保っている。
頭があり、胴体があり、手足もある。
けれど、どこかが決定的に間違っていた。
まるで、人間という生き物を一度ばらばらに分解したあと、曖昧な記憶だけを頼りに組み立て直し、細部をことごとく間違えてしまったようだった。
「あれ?失敗した?」
キョウコが首を傾げた。
そこには焦りも、罪悪感もなかった。
「元の形、覚えてないしなー」
そして、けらけらと笑う。
「まあ、仕方ないか!」
マキバは耳を疑った。
その瞬間、無数の心の声が一気に流れ込んできた。
――戻ってない。
――何これ?
――身体が違う。
――指が痛い。痛い。
――何で?
――戻して。
――助けて。
――嫌だ。嫌だ。
――許さない。
――殺す。
――殺す。
――殺す。
感情が、急速に黒く染まっていく。
恐怖。混乱。絶望。
そして、それらすべてを覆い尽くすほどの怒り。
当然だった。
人間から物へ変えられた。意識だけを残され、身体を奪われた。
ようやく元に戻れると思ったのに、与えられた身体は、もう自分が知っている身体ではない。
鏡を見る必要すらなかった。
自分の手を見るだけでわかる。
指の本数が違う。皮膚の色が違う。腕の長さが違う。触れたときの感覚すら、以前とは違っている。
間違いなく自分の身体であるはずなのに、自分のものとは思えない。
自分という存在の輪郭そのものを、勝手に作り変えられてしまった。
その恐怖は、人間が耐えられる範囲をとうに越えていた。
「待ってください!」
マキバは両手を上げたまま、一歩前へ出た。
「落ち着いてください!今、何とかしますから!」
だが、彼らの目はもうマキバを見ていなかった。
誰もが大きく目を見開き、焦点の定まらない視線を宙へ彷徨わせている。呼吸は荒く、歪んだ指が震えていた。自分の身体に起きた異変を受け入れられず、恐怖と怒りの行き場すら失っているようだった。
「今、必ず元に――」
言葉は届かなかった。
「う……」
一人の男の喉から、低い音が漏れた。
「うぅ……ああ……」
押し殺すような声は、次第に唸りへと変わっていく。
隣にいた女性も、その向こうの男も、同じように声を上げ始めた。
間違いなく、人間の喉から出ている。
けれど、それはもう言葉ではなかった。
恐怖と苦痛と怒りが入り混じり、形を失ったまま吐き出される、獣じみた声だった。
そして、一人が走り出した。
誰が最初だったのか、マキバにはわからなかった。
ただ、それを合図にしたように、残りの者たちも一斉に地面を蹴った。
向かう先は、マキバとキョウコだった。
「待って!」
マキバは叫んだ。
「キョウコさん、やめ――」
――パン。
乾いた音が響いた。
マキバは目を見開いた。
つい今までこちらへ走ってきていた一人の姿が、消えていた。
そこにいたはずだった。
腕を振り、歪んだ足で地面を蹴り、確かにこちらへ向かってきていた。
それが、一瞬でいなくなった。
次の瞬間。
――パン。
また一人。
――パン。
さらに一人。
キョウコが短い腕を軽く振るたびに、人影が次々と消えていく。ほんの一瞬だけ赤い飛沫が宙へ散り、それさえすぐに地面へ落ちた。
「やめろ!」
マキバが叫ぶ。
だが、キョウコは止まらなかった。
――パン。
――パン。パン。
――パン。パン。パン。
乾いた音が、霞が関の歩道へ機械的に響いていく。
あまりにも速かった。
悲鳴を上げる暇すらない。逃げる時間もない。
そして何より、マキバにはわかってしまった。
一人消えるたびに、それまで頭の中へ流れ込んできていた心の声も、同時に途切れていく。
――怖い。
消える。
――許さない。
消える。
――助けて。
消える。
怒りも、恐怖も、絶望も。
ついさっきまで確かにそこに存在していた人間の思考が、乾いた音とともに、一つずつ唐突に消えていった。
「やめてくれ……!」
マキバの声は届かなかった。
最後の一人が、彼に向かって手を伸ばした。
歪んだ指だった。
その顔には怒りとも恐怖ともつかない表情が浮かんでいる。
助けを求めているのか。マキバを殺そうとしているのか。
もう、わからなかった。
ただ、その手だけが必死に伸びてくる。
あと少しでマキバへ届く。
その直前。
――パン。
人影が消えた。
伸ばされていた腕も。その人間の心の声も。
すべてが消えた。
静寂が訪れた。
あれほど響いていた怒号も、泣き声も、抗議の声も、もう何一つ聞こえない。
厚生労働省前の歩道には、先ほどまで座り込んでいた人々の姿が、一人も残っていなかった。
風が吹いた。
地面に取り残されたプラカードが、かさりと音を立てる。
そのうちの一枚が、文字を空へ向けたまま倒れていた。
『特殊能力者も人間です』
黒いマジックで書かれた、不器用な文字。
その上には、小さな赤い点がいくつか飛んでいた。
「襲ってきたから壊してオッケーよね?」
キョウコは明るく言った。
ほんの数秒前まで何人もの人間がいた場所を見回しながら、まるで簡単な計算問題の答え合わせでもするような口調だった。
「正当防衛!」
短い両腕を大きく広げ、得意げに胸を張る。
マキバは何も答えなかった。いや、答えられなかった。
ただ、その場に立ち尽くしていた。
怒りなのか、悲しみなのか、それとも恐怖なのか、自分でもわからない。
あまりにも短い時間の中で、あまりにも多くのことが起こりすぎたせいで、感情が形になる前にすべて押し潰されてしまったようだった。
耳鳴りにも似た静けさの中で、頭の奥には、ついさっきまで聞こえていた心の声だけがこびりついている。
――助けて。
――戻して。
――怖い。
――身体が違う。
――殺す。
――助けて。
あれほど幾重にも重なっていた声が、一つ、また一つと、何の前触れもなく途切れていった。
そして今は、もう何も聞こえない。
――死んだ。全員。
その事実が、遅れて胸の奥へ沈んでいく。
さっきまで目の前で話していた人間たちが。
怒り、怯え、それでも自分たちの言葉を誰かに届けようとしていた人々が。
ただ、人間として扱ってほしいと訴えていた人々が。
もう、誰一人いない。
「ん?」
キョウコがマキバを見上げた。
星形の眼鏡が、無言のままこちらへ向けられている。表情などあるはずもないのに、本当に不思議そうに見えた。
「どうした?」
少し考えるように首を傾げる。
「あっ、もしかして捕まっちゃうとか思ってる?」
「……」
「ダイジョーブだって!」
キョウコは、ぴょん、とその場で軽く跳ねた。
「これ正当防衛だもん!」
あまりにも軽かった。
何人の人間が死んだのかなど、最初から数える気すらないような声だった。
「それにさー」
キョウコは楽しげに続ける。
「クライアントだって、あの人たちを追い出すより、殺してくれた方が助かるって思ってるよ、たぶん!」
倒れたプラカードの間を、遊び場でも歩くようにぴょんぴょんと跳ねていく。黒い文字の書かれた紙も、赤い点の飛んだ板も、キョウコは気に留める様子すらない。
「抗議も終わる!警備もいらない!お仕事も解決!」
そして、短い両腕をいっぱいに広げ、明るく言った。
「誰も損しない!やったね!」
その瞬間だった。
マキバの中で、何かが切れた。
「そんな問題じゃない!」
自分の声が、霞が関の歩道に響き渡った。
キョウコの動きが止まる。
マキバ自身も、自分がこれほど大きな声を出したことに一瞬驚いた。
声は震えていた。けれど、今度は恐怖のせいではない。
怒りだった。
はっきりとした、抑えようのない怒りだった。
「人の命を……」
喉が詰まりかける。
それでも、込み上げる感情ごと言葉を押し出した。
「人の命を、尊厳を……なんだと思ってるんだ!?」
キョウコは黙った。
星形の眼鏡の奥に、本物の目はない。それでも、その瞬間だけは、驚いて目を丸くしたように見えた。
マキバが怒鳴ったこと自体が、意外だったらしい。
そして次の瞬間、キョウコはにやりと笑った。
「あ、それさー……」
小さな身体で肩をすくめる。
「一度死んで、今は思念だけで存在してる女に聞いちゃう感じ?」
「……」
マキバは言葉を失った。
「ごめんねー」
キョウコは軽く笑った。
到底、謝罪には聞こえなかった。
「私、生まれた時から最強だからさー」
そう言いながら、ぬいぐるみの身体をくるりと一回転させる。
「そういうの、あんまわかんないんだよね」
「そういうの……?」
「命とか、身体とか」
あまりにも簡単に言った。
「なくなったら終わり、とか」
キョウコは、自分のぬいぐるみの身体を短い指で示した。
「私、終わってないじゃん?」
「……」
マキバは何も言えなかった。
確かに、目の前にいるキョウコには肉体がない。一度死んだ人間でありながら、思念だけの存在となって、こうして喋り、笑い、自由に動き回っている。
だが、それを理由に、他人の命まで同じように扱っていいはずがない。
「それに私、昔から何でもできたし」
キョウコは気にする様子もなく続けた。
「人間だって飛ばせるし、潰せるし、形も変えられる。街だって壊せる。大体のことは、やろうと思ったらできたから」
悪びれているわけではなかった。自慢しているようにも聞こえない。
ただ、自分にとって当たり前の事実を並べているだけだった。
「だからさ、その辺の感覚、ダーリンたちより薄いんだと思う」
キョウコは小さく首を傾げた。
マキバは、その奇妙なぬいぐるみを黙って見つめた。
そして、ようやく少しだけわかった気がした。
キョウコは、善悪という概念そのものを知らないわけではない。
正当防衛という言葉を知っている。人を殺せば社会的に問題になることも理解している。トンダに止められれば、少なくともその場では従うこともできる。
何をすれば怒られるのか。何をすれば法律に触れるのか。何をすれば周囲から非難されるのか。
そうしたことは、おそらく理解している。
ただ、その意味を自分自身の感覚として受け止めることができないのだ。
普通の人間にとって、身体は失えば戻らない。命は一度失えば、それで終わる。
だからこそ人は傷つくことを恐れ、死を恐れ、他人の身体や命にも簡単には手を出さない。
けれど、キョウコにとっては違う。
自分自身が一度死んでも終わらなかった。
壊れたものは形を変えられる。人間さえ別の物に作り変えられる。
強すぎる力を持って生まれた彼女にとって、世界は最初から、普通の人間ほど頑丈でも、絶対的でもなかったのかもしれない。
人間の身体も同じだ。
変えられる。壊せる。物にできる。そして、気が向けば元に戻すこともできる。
キョウコにとっては、それだけのことなのだ。
だからこそ、その扱いに「尊厳」というものが入り込む余地がない。
マキバは、そのことが何より恐ろしかった。
その夜。
特殊対策室の事務所には、昼間までの騒がしさが嘘のような、重たい空気が漂っていた。
窓の外は、すっかり暗くなっている。雑居ビルの隙間から覗く夜空は狭く、その下では無数の窓明かりが点々と灯っていた。遠くを走る車の音。時折、かすかに聞こえてくる電車の走行音。事務所の中では、空調だけが低い唸りを立てている。
街はいつも通りだった。
厚生労働省の前で、ほんの数時間前に何人もの人間が死んだことなど、最初から知らなかったかのように。
トンダのデスクの上には、キョウコがいた。
星形の眼鏡をかけた、奇怪なぬいぐるみ。
昼間は飛び跳ね、笑い、人間を文房具へ変え、最後には一人残らず消した存在が、今は完全に動きを止めている。
――ただのぬいぐるみ。
事情を知らない人間が見れば、そう思うだろう。
机の上に置き忘れられた、少し趣味の悪い玩具。それ以上のものには見えない。
どうやら眠っているらしい。
もちろん、呼吸をしているわけでもなければ、胸が上下しているわけでもない。まぶたすらないのだから、眠っているのか起きているのか、外見だけでは判別のしようもなかった。
それでも、この部屋にいる全員が「キョウコは寝ている」と認識している。
ならば、寝ているのだろう。
マキバダイスケは、自分のデスクに座っていた。
背中を椅子へ預けることもできず、浅く腰掛けたまま、両手を膝の上に置いている。
指先はまだ、わずかに震えていた。
一度強く握る。ゆっくり開く。もう一度握る。
それでも、震えは完全には止まらなかった。
頭の中には、昼間に聞いた声が残っている。
――助けて。
――戻して。
――どうして。
――怖い。
何度も何度も、同じ声が記憶の奥底から浮かび上がってきた。
実際には、もう聞こえていない。
あの人たちは死んだ。心の声も、その瞬間に途絶えた。
聞こえてくるものは、もう何一つない。
それなのに、マキバの中にだけは残っている。
助けを求める声も。恐怖も。絶望も。
最後の瞬間に彼らが抱いていたものだけが、耳鳴りのように消えずに残り続けていた。
「キョウコには困ったものですね」
静かな声が聞こえた。
マキバが顔を上げると、トンダユウイチが自分のデスクで書類を整理していた。
その様子は昼間と何も変わらない。穏やかな表情も、落ち着いた声も、いつも通りだった。まるで今日起きた惨事ではなく、少し厄介な部下の失敗について話しているかのようだった。
「今回は特に何も言われませんでしたが」
トンダは書類の端を揃えながら続ける。
「さっさと殺せば済む相手を、面白おかしくいたぶってから殺す。あるいは、死んだ方がマシだと思えるような状態にしてしまう」
マキバの膝の上で、指先がわずかに強く握られた。
「そういうのは、さすがに世間の心証が悪いですからね」
その言葉に、マキバはゆっくりと顔を上げた。
「……心証、ですか」
「はい」
トンダは当然のように頷いた。
「世間は、殺人そのものよりも、意味のない残虐性を嫌います」
淡々とした口調だった。
「必要な処理だった。危険を排除するためだった。被害の拡大を防ぐためだった。そう説明できるのであれば、一定数の人間は納得します」
一枚、書類をめくる。
「ですが、苦しませる必要もないのに苦しませる。本人が楽しむために弄ぶ。そう見えてしまうと、途端に反発が強くなる」
マキバは何も言わなかった。
胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。
――そこなのか。問題は、そこなのか。
人を殺したことではない。
人間の身体を物へ変えたことでもない。
意識だけを残して、逃げることも叫ぶこともできない恐怖を味わわせたことでもない。
トンダが問題にしているのは、それを世間がどう見るかということだった。
必要だったと説明できるのか。正当な「処理」だったと納得させられるのか。そこに余計な残虐性があったように見えないか。
人が死んだことではなく、その死に世間が納得できる理由を付けられるかどうか。
マキバには、そう聞こえた。
「サイコパスよ、サイコパス」
カモイヨシエが吐き捨てるように言った。
椅子へ深く腰掛けたまま、トンダのデスクに置かれているキョウコを忌々しげに睨んでいる。
「アイツがしゃしゃり出るたびにクレーム来るし、後処理は面倒だし、いい迷惑なのよ。だから早く除霊しろって言ってんの」
「私はキョウコさんのやり方、面白くて好きだけどなー」
マチヤユミが、菓子を口へ放り込みながら無邪気に言った。
「変身させるのとか楽しそう」
「マチヤさんもサイコパスですね!」
モテギハナが元気よく言う。
「えー、そうかなー?」
マチヤはなぜか嬉しそうに笑った。
「ありがとー」
「どういたしまして!」
「モテギさんも、なかなかサイコ……」
少し離れたところから、ナガヤマミナミがぼそりと呟いた。
いつもなら、このくらいのやり取りには多少なりとも笑えたのかもしれない。
けれど今のマキバには、それを面白いと思えるだけの余裕がなかった。
視線は、どうしてもトンダのデスクへ戻ってしまう。
眠っているキョウコ。星形の眼鏡をかけた、小さなぬいぐるみ。
昼間、あれほど無邪気に笑いながら人間の身体を弄び、最後には一人残らず消した存在が、今はぴくりとも動かない。何も知らない人間が見れば、ただ机の上に置かれた玩具にしか見えないだろう。
その静けさが、マキバにはかえって不気味だった。
「トンダさん」
「はい」
「キョウコさんの能力って……」
マキバは言葉を探しながら、眠っているぬいぐるみを見た。
「結局、何なんですか?」
「ああ……」
トンダも一度キョウコへ視線を向けた。
「自分の思ったことを具現化できます」
「……思ったことを?」
「はい」
トンダは、ごく普通の能力について説明するような口調で答えた。
「ぶっちゃけ、最強の能力です」
マキバは眉を寄せる。
「最強……」
「文字通りです。物質変換、空間改変、存在操作、物理法則への干渉、因果関係のねじ曲げ……」
トンダは指を折りながら、一つずつ挙げていった。
「分類しようと思えば、いくらでも分類できます」
「そんなに……」
「ですが、本人に説明させれば、もっと簡単です」
トンダは小さく苦笑した。
「『思ったことが、そうなる』」
マキバは言葉を失った。
あまりにも単純で、それだけに恐ろしい。
人を文房具にしたいと思えば、文房具になる。
吹き飛ばしたいと思えば、吹き飛ぶ。
消したいと思えば、消える。
キョウコが世界の法則に従うのではない。世界の側が、彼女の意思に合わせて形を変えるのだ。
「……それ、本当に何でもできるんですか?」
「本人の出力や状態には左右されますが、基本的には」
トンダは頷いた。
「だから最強なんです」
昼間の光景が、まざまざと蘇った。
人間が一瞬で文房具へ変わった。元に戻したつもりで、歪な身体へ作り変えられた。そして最後には、一人残らず跡形もなく消えた。
どれも、キョウコにとっては大したことではなかったのだろう。腕を一度振る程度の、取るに足らない行為だった。
「自分の思い通りに、好き放題できる」
トンダが言った。
「生まれた頃から、ずっとそうです」
その声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「だから、ああいう傲慢で傍若無人な振る舞いをしてしまうんですよ」
そう言いながら、トンダは眠っているキョウコの頭へ手を伸ばした。
星形の眼鏡に触れないように、そっとぬいぐるみの頭を撫でる。
その手つきは驚くほど優しかった。壊れ物を扱っているというより、本当に大切な誰かへ触れているような優しさだった。
マキバは、その光景を黙って見つめた。
どうしても違和感が拭えない。
昼間、何人もの人間を殺したぬいぐるみ。それを「困ったもの」と評し、残虐な振る舞いに問題があることも理解している男。
それなのに、キョウコへ触れる指は、あまりにも優しい。
本当に、大切な妻の髪でも撫でているようだった。
嫌っているようには見えない。仕方なく一緒にいるようにも見えない。
むしろ、
――愛している。
マキバには、そう見えた。
トンダはキョウコを、どう思っているのだろう。
困った女。危険な存在。手に負えないほど強大な力を持つ怪物。
それでも、大切な妻。
愛しているのか。諦めているのか。恐れているのか。
あるいは、そのすべてなのか。
「……アンタ」
横から声がした。
マキバが振り向くと、カモイがこちらを見ていた。
「はい」
「私のこと、人間のクズみたいに思ってるでしょ?」
「……そこまでは」
「思ってる顔してるわよ」
カモイは腕を組んだ。
「でもさ……」
顎でキョウコを指す。
「あの悪霊に比べたら、私の方がよっぽど人道的でしょ?」
マキバは答えられなかった。
否定したかった。
カモイは決して人道的ではない。弱い特殊能力者を害虫と呼び、役に立たないなら殺せばいいと言う。実際に、その思想のまま何人もの能力者を殺してきた。
それは、どう考えても許されることではない。
けれど、今日見たものが頭から離れなかった。
キョウコは人間を物へ変えた。意識だけを残したまま、動くことも、喋ることもできず、自分が物にされたことだけは理解できる状態にした。
戻してほしいと言われたから戻した。けれど元の姿を覚えていなかったという理由で、身体を適当に組み直した。そして、その壊れた身体に絶望した人々が怒り、襲いかかってくれば、今度は一人残らず消した。
トンダやカモイは、弱い特殊能力者を害獣のように見る。危険で、役に立たないから駆除する。
カマタリョウガは違う。弱い特殊能力者を、守るべき動物のように見る。だから保護しようとする。
その二つには、確かに大きな違いがある。
けれど、どちらも自分たちより下にいる存在として見ていることに変わりはない。同じ人間として、同じ場所に立たせてはいない。
そして、キョウコはそれよりもさらに遠かった。
彼女にとって、人間は動物ですらないのかもしれない。
――玩具。
気まぐれに形を変えられるもの。壊しても構わないもの。別の形へ作り直してもいいもの。
マキバは机の下で強く拳を握った。爪が掌へ食い込む。
昼間の女性の顔を思い出した。
『本当に、私たちの話を聞く気があるんですか?』
あった。
本当に、聞くつもりだった。
あの人たちは、何もしていなかった。誰かを殴っていたわけでも、建物を壊していたわけでもない。ただ座り込み、声を上げていただけだった。
普通に生きたいと訴えていた。
能力を理由に仕事を奪わないでほしい。住む場所を奪わないでほしい。危険な存在として遠ざけないでほしい。
ただ、人間として扱ってほしい。
その声を、マキバは確かに聞いていた。
あと少しだった。
もう少し時間をかければ、言葉が届いたかもしれない。警察と衝突することもなく、誰も傷つかずに終われたかもしれない。
それなのに、
――助けて。
頭の奥で声が蘇った。
――戻して。
――怖い。
マキバは目を閉じた。
聞きたくない。
もう実際には聞こえていない。それなのに、記憶の中では何度でも蘇ってくる。
忘れられない。
目を開く。
キョウコは眠っている。
トンダは、そのぬいぐるみを静かに撫でていた。
カモイは相変わらず忌々しそうに睨み、マチヤは菓子を食べながらどこか楽しそうにしている。モテギは何が正しいのかよくわからないという顔で首を傾げていた。
ナガヤマはキョウコを見つめていた。いつもの冷めた目ではない。その表情には、隠し切れない怯えがあった。
そして、ヤマナシアズミだけが何も言わずにマキバを見ていた。
スマートフォンにも触れていない。いつもの気だるさも、無関心そうな表情もなかった。
同情とは少し違う。慰めようとしているわけでもない。
ただ、同じものを見てしまった人間の目だった。
昼間に何が起きたのかを知っている。マキバが何を見て、何を聞いたのか、そのすべてを理解することはできなくても、そこにどれほどの重さがあったのかはわかっている。
二人の間には、言葉にする必要のない重たい沈黙があった。
――この場所は、やはりおかしい。
マキバは思った。
トンダも、カモイも、カマタも、キョウコも。
もちろん全員が同じではない。考え方も違えば、行動も違う。残酷さの形も、それぞれまったく違っている。
それでも、それぞれ違うやり方で、弱い特殊能力者を自分たちと同じ人間として見ていない。
では、自分はどうなのだろう。
自分だけが正しいと、胸を張って言えるのか。
心の声が聞こえる。相手の苦しみがわかる。怒りの奥にある悲しみも、口には出せない恐怖も聞くことができる。
――だから何だ?
今日は、誰一人として救えなかった。
声を聞いた。寄り添おうとした。理解しようとした。
それでも結局、一人も守れなかった。
むしろ聞こえてしまったからこそ、彼らが最後に感じた恐怖まで、自分の中に残ってしまった。
マキバは窓の外へ視線を向けた。
夏の夜が広がっている。
遠くのビルには無数の灯りが点いていた。仕事を終えた人々が駅へ向かい、電車が走り、車のヘッドライトが道路を途切れることなく流れていく。コンビニの白い看板が、夜の街の中にぼんやりと浮かんでいる。
何事もなかったように、世界は動いていた。
きっと今日、厚生労働省前で起きたことも、明日になれば何らかの言葉で整理されるのだろう。
――暴徒化した特殊能力者団体を制圧。
――現場スタッフへの襲撃に対する正当防衛。
――被害拡大を防ぐための、やむを得ない措置。
――必要な処理。
そんな整った言葉へ置き換えられていく。
あの人たちが何を訴えていたのか。何を恐れていたのか。どんな声で助けを求めていたのか。
そんなことは、きっと残らない。
マキバは強く唇を噛んだ。
声を聞くだけでは足りない。相手の気持ちを理解するだけでも足りない。
寄り添うだけでは、目の前で起きる理不尽を止められないことがある。
キョウコのような存在がいる世界では、ただ優しいだけでは、誰も守れない。
その事実が、鈍く重い石のように、マキバの胸の底へ沈んでいった。
やがて、マキバは窓から視線を戻した。
トンダのデスクの上で、キョウコのぬいぐるみは変わらず動かなかった。
星形の眼鏡。その奥には、本来なら何もない。目などないし、縫い付けられた顔の表情が変わることもない。
それなのに、マキバには、眠っているキョウコが、かすかに笑っているように見えた。




