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第3話 動物愛護

 サカキリョウの事件以降、マキバダイスケは特殊対策室の中で、奇妙な立場を得た。

 最初の彼は、ただの新人にすぎなかった。

 水晶のように透き通った瞳を持つ、どこか頼りなげな青年。身体つきは細く、立ち姿にも戦い慣れた者の鋭さはない。声を荒らげることもなければ、相手を威圧するような態度を取ることもない。特殊能力者の犯罪や暴走を力ずくで処理する特殊対策室において、彼はあまりにも場違いに見えた。

 トンダユウイチがどこからか拾ってきた、用途不明の新入り。

 当初、周囲から向けられていた認識は、その程度のものだった。

 カモイヨシエからは、顔を見るなり「軟弱そう」と吐き捨てられた。ヤマナシアズミからは、忠告とも皮肉ともつかない調子で「弱そうだから気をつけな」と言われた。

 その評価を、マキバ自身も否定できなかった。

 自分には、トンダのように空間を飛び越える力もなければ、カモイのように圧倒的な重力で敵をねじ伏せる力もない。誰かを殴り倒した経験さえ、ほとんどなかった。

 自分が何かを変えられる人間だとは、思っていなかった。

 ただ、他人の心の声が聞こえる。それだけだった。

 だが、あの廃工場で、暴走した特殊能力者サカキリョウを一切傷つけることなく投降させてから、特殊対策室の中に流れる空気が少しずつ変わり始めた。

 変化は、はっきりと口に出されるようなものではなかった。

 誰かがマキバを褒めたわけではない。正式な役職が与えられたわけでもない。カモイの態度が急に優しくなったわけでもなければ、ヤマナシが素直に認めたわけでもなかった。

 それでも、新たな依頼が入るたび、トンダはマキバへ目を向けるようになった。

 特殊能力者同士の喧嘩。能力を使った立てこもり。社会への不満を抑えきれず、力を暴発させた弱い能力者たち。

 以前の特殊対策室ならば、十中八九、力で制圧し、場合によっては殺して終わらせていたであろう案件だった。

 事情を聞くより先に無力化する。被害が広がる可能性があるなら、危険の芽ごと摘み取る。それが、この事務所にとって最も確実で、最も手っ取り早い解決方法だった。

 そうした現場に、マキバは同行するようになった。

 そして、殺さなかった。

 まず、相手の心の声を聞いた。

 口から吐き出される罵声ではない。その奥で震えている、本人さえうまく言葉にできない声。行き場のない怒り。誰かに見捨てられることへの恐怖。積み重なった孤独。何度訴えても聞き流され、やがて訴えることすら諦めた記憶。

 表面では他人を傷つけようとしていても、その心の奥では、自分が傷つけられた瞬間に立ち尽くしたままの者もいた。

 マキバは、そこに触れた。

 そして、自分が聞いたものを、相手にも理解できる言葉へと変えて返した。

「怒っているんですね」

「怖かったんですね」

「誰にも聞いてもらえなかったんですね」

「殺されたいわけじゃないんですよね」

 特別な言葉ではなかった。

 難しい理屈でもなければ、心を操る呪文でもない。言われたところで、現実の問題が解決するわけでもない。

 それでも、その言葉を一度も誰かから向けられたことのない者がいた。

 マキバは戦わなかった。

 相手を押さえつけなかった。力の差を見せつけて屈服させることもしなかった。正論を並べ、間違っているのはお前だとねじ伏せることもしなかった。

 ただ、聞いた。

 聞こえてしまった声から、逃げなかった。

 そして、それを言葉にした。

 それだけで、張り詰めていた顔を歪ませ、子どものように泣き崩れる者がいた。全身から力が抜け、膝からその場に崩れ落ちる者がいた。握り締めていた刃物を取り落とし、乾いた音を響かせる者がいた。

 怒りに呼応して燃え上がっていた炎が揺らぎ、暴風のように荒れ狂っていた念動力が静まっていく。本人にも制御できなくなっていた能力の出力が、呼吸を取り戻すように、少しずつ弱まっていくこともあった。

 もちろん、すべてが簡単に終わったわけではない。

 心の声を聞いたからといって、必ず言葉が届くとは限らなかった。長い間積み重なった憎しみが、たった数分の対話で消えるはずもない。理解されたところで、もう後戻りしたくないと考える者もいた。

 マキバは、何度も危険な目に遭った。

 火を操る男と向き合った時には、目の前で炎が膨れ上がり、伸ばした腕を焼かれかけた。皮膚を刺す熱に思わず身体が竦んでも、それでも彼は相手から目を逸らさなかった。

 自分の周囲だけを真空状態にする女と対峙した時には、突然、肺から空気を奪われた。息を吸おうとしても何も入ってこない。喉がひきつり、視界の端が暗くなっていく中で、それでも途切れ途切れに言葉を投げかけた。

 離れた場所から成り行きを見守っていたトンダが、いつでも空間を飛び越えられるよう身構え、介入寸前までいったことも一度ではなかった。

 それでも、マキバは殺さなかった。

 殺さないというだけではない。相手を傷つけることすら、可能な限り避けた。

 自分が傷つく危険よりも、目の前の人間が二度と声を上げられなくなることを恐れているかのように。

 その徹底ぶりは、人を殺すことが解決手段の一つとして当然に存在する特殊対策室の中で、あまりにも異質だった。


 真夏を迎えるころには、マキバダイスケの名前は、特殊能力者を取り巻く業界の中で少しずつ知られるようになっていた。

 最初に噂が広がったのは、現場で特殊能力者犯罪に対応する警察関係者の間だった。

「あの特殊対策室に、相手を殺さずに解決するやつがいるらしい」

「特殊対策室って、あのトンダユウイチのところだろ?」

「しかも新人だって話だ」

「相手の心を読む能力らしいぞ」

 はじめのうちは、どれも半信半疑の噂話だった。

 特殊対策室といえば、危険な能力者を圧倒的な力で制圧することで知られている。相手が投降するのを待つより、被害が広がる前に動けなくする。必要なら殺す。その冷酷さと確実さによって、多くの事件を短時間で終わらせてきた組織である。

 そんな場所に、暴走した能力者と対話し、傷つけることなく投降させる青年がいる。

 それは、業界の常識から考えれば、にわかには信じがたい話だった。

 だが、同じような報告が複数の現場から上がるにつれ、噂はしだいに具体性を帯びていった。

 やがて、能力者の人権保護や社会復帰を支援する団体の間でも、マキバの存在が話題に上るようになった。

 危険な能力者を一律に排除するのではなく、対話によって暴走を止めることはできないのか。犯罪を起こした者であっても、その背景に差別や孤立、生活の困窮があるならば、社会はどこまで救済すべきなのか。

 それまで理念として語られることはあっても、現実の現場ではほとんど実行されてこなかった問題だった。

 さらに、特殊能力者をめぐる犯罪や制度を扱う専門誌が、片隅に小さな記事を載せた。

 記事の扱いは小さかった。だが、その内容を読んだ関係者が別の場所で話題にし、話題を聞いた記者がさらに取材を始めた。

 そうして噂は、業界の内側だけでは収まらなくなった。

 ついには、民放の昼の情報番組がマキバの活動を取り上げた。

『殺さない制圧は可能か?特殊能力者トラブル解決の新しい形』

 画面の下には、赤や黄色の派手な文字で作られた見出しが表示されていた。その横では、事件現場を再現した安っぽい映像が流れている。顔を黒く塗り潰された能力者役の男が暴れ、次の場面では、同じく顔の見えない青年が両手を広げて話しかけていた。

 特殊対策室の事務所にある古いテレビから、妙に明るい効果音が流れた。

 画面の中では、スーツを着たコメンテーターたちが、深刻そうな表情を作っていた。

『いやあ、非常に興味深いですよね。これまで能力者犯罪に対しては、被害の拡大を防ぐためにも即時制圧が必要だとされてきました。しかし、力で押さえ込む前に、対話を試みるという選択肢もあるのではないでしょうか』

 隣に座っていた別のコメンテーターが、慎重そうに眉を寄せた。

『ただ、現場の安全性をどう担保するのかという問題はありますよね。対話している間に能力が暴走し、一般市民や対応に当たる職員が被害を受ける可能性もある』

『そうですね。理想としては理解できますが、被害者が出てからでは遅いですから』

『犯罪者の事情を聞くことと、犯罪行為を許すことは別問題ですしね』

 誰も現場を見たわけではない。

 マキバが何を聞き、何を恐れ、どのような思いで能力者と向き合ったのかも知らない。それでも彼らは、すべてを理解しているような顔で言葉を並べていた。

 マキバは事務所のソファに浅く腰掛け、その番組を眺めていた。

 落ち着かなかった。

 自分についての話が、何度も画面の中から聞こえてくる。

 名前は公開されず、顔写真も使われていなかったが、番組では「特殊対策室に所属する若手能力者」として紹介されていた。所属先も年齢も能力の概要も出ている。伏せ字にした意味があるのか疑わしいほど、どう考えてもマキバのことだった。

 自分とは関係のない誰かについて話しているようにも思える。だが、その誰かの経歴は、間違いなく自分のものだった。

 マチヤユミはテレビのすぐ前に座り込み、楽しそうに手を叩いた。

「マキバくん、すっかり有名人だねー」

「いや、そんな……」

 マキバは曖昧に笑った。

 嬉しいというより、逃げ出したいような気持ちだった。背中にじっとりと汗が滲む。事務所には冷房が効いているはずなのに、首筋だけが妙に熱かった。

 モテギハナは、自分のことを褒められたかのように胸を張った。

「これも、私の教育の賜物ですね!」

「僕、モテギさんに教育されたことあったっけ?」

 マキバが首を傾げると、モテギは待っていましたとばかりに人差し指を立てた。

「はい!挨拶の声量について、厳しく指導しました!」

「そこだけだね」

「基礎は大事です!」

 モテギは満足そうに鼻を鳴らし、さらに胸を反らした。

 テレビの中では、マキバの活動を称賛する街頭インタビューが流れていた。

『殺さないで済むなら、その方がいいと思います』

『心を読む人なら、犯罪を起こす前に止められるんじゃないですか?』

『ちょっと怖いですけど、すごい能力ですよね』

 その横で、ナガヤマミナミは一人だけテレビを見ず、いつものように暗い顔でスマートフォンを操作していた。

「まあ、ネットでは偽善者だとか、犯罪者の味方だとか、散々叩かれてますけどね……」

「おい、ナガヤマ」

 ヤマナシアズミが机に突っ伏したまま、低い声を出した。

「見なくていいものを、わざわざ本人に見せるな」

「でも、世間からどう見られているかを把握することは重要ですし……」

「人間の悪意を摂取して、何が楽しいんだよ?」

 ナガヤマはスマートフォンから目を離さず、ぼそぼそと答えた。

「他人の悪意を見ると、少し安心するタイプなので……」

「最悪の趣味だな」

 ヤマナシは顔も上げずに吐き捨てた。

 ナガヤマは気にする様子もなく、スマートフォンの画面をマキバの方へ向けた。

「見ますか?」

「いや、いい」

 マキバは反射的に顔を逸らした。

 だが、画面に並んでいた文字のいくつかは、嫌でも目に入った。

『犯罪者に寄り添うとか気持ち悪い』

『被害者の気持ちを考えろよ』

『社会のゴミを生かしてどうする』

『その偽善のせいで誰かが死んだら、責任取れるの?』

『特殊能力者は全員、管理施設に入れろ』

『弱い能力者ほど鬱陶しい』

 短い言葉だった。

 誰が書いたのかもわからない。どこで暮らし、何を経験し、どんな顔で画面を見ているのかもわからない人間の言葉。

 それでも、その一つ一つには、はっきりとした敵意があった。

 マキバは目を伏せた。

 わかってはいた。

 自分のやり方を、誰もが正しいと思ってくれるわけではない。

 マキバが助けた者の中には、実際に他人を傷つけた者もいる。能力を暴走させ、建物を壊した者もいる。武器を持って立てこもり、何の関係もない一般人を恐怖に陥れた者もいた。

 その被害を受けた側に、加害者を許せないという感情が生まれるのは当然だった。

 事情があったからといって、傷つけられた事実が消えるわけではない。

 孤独だったから。差別されたから。誰にも話を聞いてもらえなかったから。

 そうした理由を知ったところで、壊されたものが元に戻るわけでも、負った傷がなくなるわけでもない。

 だから、批判されること自体は理解できた。

 それでも、画面に並ぶ言葉の端々から滲み出しているものは、単なる被害者への共感だけではなかった。

 犯罪を犯した者への怒り。特殊能力者への恐怖。弱い者への苛立ち。社会の役に立たない人間は消えてしまえばいいという、冷たく乾いた憎悪。

 そこに書き込まれた言葉は、マキバがこれまで現場で聞いてきた心の声と、どこか似ていた。

 理解されなかった者が、別の誰かを理解することを拒む。

 傷つけられた者が、自分より弱い者を傷つける。

 誰かを排除すれば、自分だけは安全な側にいられると信じようとする。

 マキバは何も言わず、膝の上で指を組んだ。

 胸の奥に、冷たい水を流し込まれたような感覚が残っていた。

「私も、そいつらと同意見よ」

 カモイヨシエが、湯気の立つコーヒーカップを片手に言った。

 声は平坦だった。挑発するつもりすらないらしい。ただ、自分にとっては疑う余地のない事実を口にしただけ、という調子だった。

「あんな害虫ども、生かしておいたところで何の得もないわ」

 事務所の空気が、わずかに硬くなった。

 先ほどまでテレビから流れていた軽薄な効果音も、モテギの大声も、急に遠ざかったように感じられた。

 だが、カモイは周囲の反応など気にも留めなかった。カップの縁に口をつけ、一口飲んでから続ける。

「能力者としても半端。人間としても半端。まともに社会へ適応することもできず、追い詰められたら癇癪を起こして暴れるだけ」

 吐き捨てるような言葉だった。

「そんなもの、殺した方が早いでしょ。手間もかからないし、後腐れもないわ」

「じゃあ、害虫に事務をやらせるなよ」

 ヤマナシアズミが、スマートフォンの画面を眺めたまま、ぼそりと言った。

 カモイの眉が動いた。

「はあ?」

 ヤマナシは顔を上げなかった。

 親指で画面を滑らせながら、何でもない独り言のように続ける。ただし、その口元には、ほんのわずかに挑発的な笑みが浮かんでいた。

「私も、カモイさんの基準じゃ弱い能力者なんでしょ」

 ヤマナシの特殊能力は、危機察知だった。とはいえ、強力なものではない。

 未来が正確に見えるわけではない。誰がどう傷つくかを言い当てられるわけでもない。ただ、何となく嫌な予感がする。

 危ない方向がわかる。この道はやめた方がいい。この人には近づかない方がいい。この選択肢は危ない。

 そんな曖昧な感覚が、人より少し鋭いだけだった。ほぼ一般人に近かった。

 だから、戦闘ではほとんど役に立たない。特殊対策室の中では、事務員としての仕事を主に任されていた。

「害虫に分類されるなら、書類処理なんかさせない方がいいんじゃないですか? 重要な情報でも食い荒らすかもしれないし」

「ヤマナシ……」

 カモイの声が、低く沈んだ。

 手にしていたカップが、机の上に静かに置かれる。

「何だ、その反抗的な態度は?」

 その目が細くなった。

「今、この場で駆除してやろうか?」

 次の瞬間、室内の空気が重くなった。

 実際に空気そのものが変質したわけではない。だが、カモイを中心として、見えない圧力が床へ向かって広がっていく。机の上の紙がわずかに沈み、古い椅子が低く軋んだ。

 重力が濃くなった。

 そう錯覚するほどの圧迫感だった。

 ヤマナシは顔色を変えなかった。スマートフォンを持った姿勢も崩さない。

 しかし、マキバには聞こえていた。

 ――怖い。

 ――逃げたい。

 ――でも、ここで引きたくない。

 普段の乱暴な口調の奥で、ヤマナシの心がほんの少し震えていた。強がりで蓋をされた恐怖が、薄い氷の下を流れる水のように揺れている。

「カモイさん、よしなさい」

 トンダユウイチが、静かに言った。

 声を荒らげたわけではなかった。

 椅子から立ち上がることも、能力を使う素振りを見せることもなかった。ただ名前を呼び、短く制止した。

 それだけで、室内を満たしていた重さが消えた。

 机が軋む音も止まり、誰もが無意識に止めていた息を吐いた。

「……冗談よ」

 カモイは舌打ちし、椅子の背もたれへ深く身体を預けた。

 トンダはリモコンを取り、テレビの電源を切った。

 画面が一瞬で暗くなる。そこに、事務所の中にいる者たちの姿がぼんやりと映り込んだ。先ほどまで人道や安全性について熱心に語っていたコメンテーターたちは消え、代わりに、古びた室内と沈黙だけが残った。

 エアコンの送風音が、やけに大きく聞こえた。

「……まあ、確かに」

 トンダは暗くなったテレビから視線を外し、淡々と言った。

「世間からの評価は、建前上は上がりました」

「建前上?」

 マキバが聞き返した。

「はい」

 トンダは自分の椅子に腰を下ろし、机の上で指を組んだ。

「メディアも、行政関係者も、表向きには君のやり方を評価します。殺さない制圧。対話による解決。人道的な対応。新しい時代の特殊能力者対策」

 一つずつ、宣伝文句を読み上げるように並べる。

「そういう言葉は、とても響きがいい。口にしているだけで、自分たちが進歩的で、思慮深く、弱者にも配慮しているように見えますからね」

 その語り口は穏やかだった。

 だが、言葉の奥には乾いた皮肉があった。

「しかし、顧客からの評価は下がったようです」

「顧客?」

「依頼主ですよ」

 トンダは答えた。

「警察、自治体、企業、民間団体。表に出るものもあれば、表には出せない依頼もある。特殊対策室の仕事は、そうした相手からの依頼で成り立っています」

「評価が下がったんですか?」

「ある得意先からの依頼が、完全に途絶えました」

 トンダの声に、焦りや怒りはなかった。

 長く付き合いのあった相手との取引が切れたというのに、天気の話でもするような口調だった。その平静さが、かえって話の冷たさを際立たせていた。

「彼らは、『対象を殺せ』などという直接的な依頼はしませんでした」

 トンダは眼鏡を押し上げた。

「当然です。そんなことを明言すれば、記録に残ります。後で問題になった時に、責任を問われる可能性もある」

 そこで、わずかに口元を歪める。

「ですが、依頼の目的が何だったのかは、わかります」

「……つまり」

 マキバは慎重に言葉を選んだ。

「相手を生かしたまま解決するのが、不満だったということですか?」

「そういうことでしょう」

 トンダは否定しなかった。

「危険な能力者が再び社会へ戻る。支援を受ける。場合によっては、普通の生活へ戻るかもしれない」

 指を組んだまま、静かに続ける。

「それを望まない人間もいるということです」

 カモイが鼻で笑った。

「どいつもこいつも、口じゃ綺麗事ばっかり言ってるけどね」

 足を組み直し、吐き捨てる。

「本音じゃ、特殊能力者なんて全員死んでほしいと思ってるのよ」

「全員……ですか」

 マキバは静かに尋ねた。

「強い能力者も?」

「強い能力者は別よ」

 カモイは即答した。

「使えるから」

 あまりにも迷いのない答えだった。

 マキバは、その言葉を一度胸の内で反芻した。

「……それは、死んでほしくないんじゃなくて」

 ゆっくりと言う。

「利用価値があるから、生かしているだけですよね」

「だから何?」

 カモイの視線が、マキバを鋭く射抜いた。

「それが世の中よ」

 声には、怒りというより諦めに近い響きがあった。

「利用価値があるものは残す。役に立たないものは捨てる。危険なら、処分する」

 机の上に置かれたコーヒーは、もう湯気を立てていなかった。

「人間も、特殊能力者も、組織も、国も、結局は同じ。アンタがどれだけ綺麗事を言ったところで、社会はそうやって回ってるのよ」

 マキバは答えなかった。

 カモイの言葉を否定する材料が、すぐには見つからなかった。

 役に立つ者が守られ、役に立たないと判断された者が切り捨てられる。それは、ここへ来てから何度も目にしてきた現実だった。

 強い能力者は恐れられながらも、必要とされる。

 弱い能力者は恐れられるだけで、必要とはされない。

 だが、現実に行われていることと、それが正しいことは、同じではない。

 マキバは少しだけ俯き、やがて顔を上げた。

「死ぬかどうかを決めるのは、本人です」

 声は大きくなかった。それでも、室内にはっきりと響いた。

「外野が勝手に決めていいことじゃない」

 その瞬間、マチヤユミが何かに気づいたように「あっ」と声を上げた。

「カマタくんと同じこと言ってるー!」

 明るい声が、張り詰めていた事務所の空気を不意に破った。

 マキバは、初めて耳にする名前に反応してマチヤへ顔を向けた。

「カマタ……?」

 誰のことだろうか。

 マキバが特殊対策室へ入ってから、その名を聞いた記憶はない。依頼人にも、これまで現場で会った特殊能力者にも、該当する人物はいなかった。

 トンダが、わずかに目を細めた。

「カマタリョウガ」

 その名前がトンダの口から発せられた瞬間、事務所の空気がほんの少しだけ変わったように感じられた。

 誰かが息を呑んだわけではない。露骨に表情を曇らせた者もいない。だが、それまで思い思いに過ごしていた全員の意識が、一瞬だけその名前へ向いた。

 懐かしさだけではない。苦々しさや、気まずさや、簡単には言葉にできない感情が、室内のあちこちで小さく揺れた。

「君が入る少し前まで、ここにいたスタッフです」

 トンダは淡々と説明した。

「スタッフ……」

 マキバは聞き返した。

「男性ですか?」

 自分が入った時、トンダは「今は女性しかいないから、男性が入ってくれると助かる」と言っていた。つまり、その少し前までは、自分以外にも男性スタッフがいたことになる。

 カモイが頬杖をつき、面倒そうに口を開いた。

「アイツも、いちいち面倒くさい奴だったわね」

「アンタほどじゃないよ……」

 ナガヤマが、スマートフォンを見たまま小声で呟いた。

 声量は小さかったが、静かになった室内では十分すぎるほど聞こえた。

「聞こえてるぞ、ナガヤマ!」

 カモイの怒声が飛ぶ。

 ナガヤマは肩をわずかにすくめたが、謝りはしなかった。視線も画面から上げない。

 マキバは二人のやり取りを眺めながらも、意識の半分を先ほどの名前に残していた。

 ――カマタリョウガ。

 カモイが面倒だと評し、マチヤが今でも親しげに「カマタくん」と呼ぶ人物。

 いったい、どのような人間だったのだろう。

 トンダは自分のデスクへ手を伸ばし、その上に置かれていたぬいぐるみを持ち上げた。

 星形の眼鏡をかけた、奇怪な姿のぬいぐるみ。

 ――キョウコ。

 トンダが妻として接している存在だった。

「……カマタくんは優秀でした」

 トンダは、ぬいぐるみの頭を指先でゆっくりと撫でながら言った。

 その手つきはひどく優しかった。

「能力の使い方も巧みでしたし、状況判断も早かった。キョウコのお気に入りでもありました」

 ぬいぐるみに目を落としたまま、口元にかすかな笑みを浮かべる。

「辞めてしまったのは、本当に残念ですね」

 残念だという言葉とは裏腹に、トンダの声から感情を読み取ることは難しかった。

 惜しんでいるのか。怒っているのか。

 それとも、もう終わったこととして受け入れているのか。

 マキバにはわからなかった。

 彼は、トンダの手の中にあるキョウコを見つめた。

 ぬいぐるみは何も言わない。

 瞬きもしない。呼吸もしない。星形の眼鏡の奥にある作り物の目は、ただ正面を向いている。

 どう見ても、普通のぬいぐるみにしか見えなかった。

 それなのに、この部屋にいる誰もが、キョウコを単なる物として扱ってはいない。

 トンダは妻として話しかける。マチヤは親しい相手のように接する。カモイやヤマナシも、その存在を当然のように受け入れている。

 まるで、本当にそこに一人の人間がいるかのように。

 あるいは、そこに人間がいると思わなければ、この場所では何かが壊れてしまうかのように。

 マキバの背筋の奥を、小さな寒気が這い上がった。

 心の声は、聞こえない。ぬいぐるみなのだから、当然なのかもしれない。

 だが、誰かの妻だというのなら、その沈黙はあまりにも深かった。

 マキバは視線を下げた。

 そして、もう一つの名前を頭の中で繰り返す。

 ――カマタリョウガ。

 自分が来る直前まで、この場所にいた男性スタッフ。

 マキバと同じ言葉を口にし、そして、すでに特殊対策室を去った人物。

 その名前は、妙に重い響きを残して、マキバの記憶に刻まれた。


 昼休み。

 マキバは一人で事務所を出ると、近くの通りにあるカフェへ入った。

 真夏の街は、外へ一歩出るだけで容赦なく体力を奪ってくる。

 頭上から降り注ぐ日差しは白く、肌を刺すように強い。熱を蓄えたアスファルトからは陽炎が立ち上り、遠くの景色をかすかに歪ませていた。道行く人々は日傘の下へ身を縮め、わずかな日陰を選ぶように足早に歩いている。ビルのガラスに反射した光が、別の方向からも鋭く目を射た。

 事務所から数分歩いただけなのに、マキバの額には汗が浮かんでいた。ワイシャツの背中にも、じっとりと湿った感触が広がっている。

 カフェの扉が開いた瞬間、冷房の冷たい風が火照った身体を包んだ。

 外の熱気から急に切り離され、マキバは小さく息を吐いた。

 店内は、近隣のオフィスで働いているらしい会社員たちで混み合っていた。ネクタイを緩めた男性たち。社員証を首から下げた女性たち。ノートパソコンを開いたまま、急いでサンドイッチを口へ運んでいる者もいる。

 途切れることのない話し声。食器が触れ合う乾いた音。コーヒーマシンが蒸気を吐き出す音。焙煎された豆の香りに、焼いたパンや温められたスープの匂いが混じっていた。

 どこにでもある、平日の昼休みだった。

 マキバは窓際の二人掛けの席に座り、サンドイッチとスープのランチセットを注文した。

 運ばれてきた冷たい水を一口飲む。乾いていた喉を冷水が通り過ぎ、ようやく少しだけ身体の熱が引いた。

 グラスをテーブルへ戻した時だった。

 斜め向かいの席に座っていた二人の女性客が、こちらを見ていることに気づいた。

 二人とも、近くの会社に勤めているらしい服装だった。一人は淡い色のブラウスを着ており、もう一人は紺色のカーディガンを肩に掛けている。テーブルにはパスタの皿とアイスコーヒーが置かれていた。

 マキバと視線が合うと、二人はほとんど同時に顔を逸らした。

 だが、しばらくすると、またちらりとこちらを見る。

 片方が小声で何かを囁き、もう片方がわずかに眉を寄せる。口元を手で隠しながら、短く言葉を交わしていた。

 周囲のざわめきに紛れ、会話の内容までは聞き取れなかった。

 もちろん、意識を向ければ、言葉とは別のものを拾うことはできる。

 彼女たちの心へ耳を澄ませれば、何を考えているのか、断片くらいは聞こえるかもしれない。

 だが、マキバは聞かないようにした。

 相手が自分に何かを隠しているからといって、勝手に心の中まで覗いてよいわけではない。能力を持っていることと、それを使ってよいことは別だった。

 それでも、二人の表情と、こちらへ向けられる視線だけで、感情の輪郭はおおよそわかった。

 好意的なものではない。

 不安。警戒。嫌悪。好奇心。そして、ほんの少しの恐怖。

 胸の奥が落ち着かなくなる。

 テレビやインターネットを通じて、マキバのことを知ったのだろうか。

 殺さずに能力者を制圧する男。犯罪者の心に寄り添う特殊能力者。被害者を無視した偽善者。

 先ほど目にした言葉が、次々に頭の中へ蘇った。

 だが、メディアには自分の顔も、実名も公開されていないはずだった。所属先や能力の概要は報じられていたが、街中で見ただけの人間に、すぐ本人だとわかるほどの情報ではない。

 単に、見慣れない水晶のような瞳が気になっただけかもしれない。服装がおかしかったのかもしれない。

 あるいは、そもそも自分のことなど話していないのかもしれなかった。

 ――考えすぎだ。

 そう思おうとした。

 けれど、一度意識してしまうと、店内にあるすべての視線が自分へ向けられているように感じられた。

 笑い声が聞こえるたび、自分が笑われているのではないかと思う。誰かが声を潜めれば、自分について話しているような気がする。

 ――偽善者。

 ――犯罪者の味方。

 ――役に立たない能力者を生かす男。

 実際には誰も口にしていないはずの言葉が、目に見えない小さな虫の群れのように、頭の周囲を飛び回っている。

 マキバは窓の外へ視線を逃がした。

 ガラスの向こうでは、真夏の日差しの中を人々が行き交っていた。信号が変わり、日傘の群れがゆっくりと横断歩道を渡っていく。

 やがて、マキバはテーブルへ視線を落とした。

 考えるのをやめようとしても、別のことが頭から離れなかった。

 ――カマタリョウガ。

 自分が特殊対策室へ入る少し前まで、そこで働いていたという男性スタッフ。

 聞いた話だけで判断するなら、カマタは自分やヤマナシと、どこか似た感覚を持っていたように思えた。

 弱い特殊能力者を、役に立たないという理由だけで殺すことに疑問を抱いていた。

 本人が死を望んでいないのなら、その生死を周囲が勝手に決めるべきではない。

 おそらく、そういうことを言っていたのだろう。

 マチヤが即座に「同じことを言っている」と気づいたほどなのだから、カマタは一度だけではなく、何度も同じ主張をしていたのかもしれない。

 だとすれば、カマタは特殊対策室の中で、どのように扱われていたのだろう。

 自分と同じように浮いていたのか。

 何度もカモイと衝突したのか。

 それとも、最初から誰にも理解されなかったのか。

 ただ、事務所の面々の反応を見る限り、円満に辞めたとは思えなかった。

 カモイは、面倒くさい奴だったと言った。

 その言い方には、苛立ちだけでなく、思い出したくないものを無理に軽く扱おうとする響きがあった。

 トンダは、優秀だった、辞めてしまって残念だと語った。

 だが、その穏やかな態度の奥に何があるのか、マキバには読み取れなかった。

 ヤマナシは、何も言わなかった。

 ただ、カマタの名前が出た瞬間、ほんのわずかに顔を曇らせた。すぐに普段の不機嫌そうな表情へ戻ったが、あれは無関心な人間の反応ではなかった。

 ナガヤマも、カモイをからかうような言葉を口にしただけで、カマタ本人については何も語ろうとしなかった。

 誰もがカマタを知っている。けれど、誰も積極的には話したがらない。

 その沈黙が、かえってマキバの意識に引っかかった。

 聞けば、誰かは答えてくれるかもしれない。

 マチヤなら、悪気なく何もかも話してしまう可能性もある。ヤマナシに尋ねれば、嫌そうな顔をしながらも、いくらかは教えてくれるかもしれない。

 それでも、マキバは聞けなかった。

 カマタについて知ることは、単に辞めたスタッフの経歴を知ることではないような気がした。

 これまで見ないようにしてきた特殊対策室の過去。

 トンダやカモイたちが隠しているもの。

 この事務所が、人を殺すことを当然としてきた理由。

 そこへ触れれば、この場所の嫌な部分を、今よりさらに深く知ることになる。

 そして、一度知ってしまえば、もう知らなかった頃には戻れない。

 マキバは冷たい水の入ったグラスへ手を伸ばした。

 表面についた水滴が、指先を濡らす。

 グラスの中の氷は、冷房の効いた店内でも少しずつ溶け、時折、小さな音を立てて形を崩していた。

「マキバダイスケだな」

 不意に、すぐ隣から声がした。

 マキバは肩を揺らし、顔を上げた。

 いつの間に座ったのだろう。

 隣の二人掛けの席に、見知らぬ青年が腰を下ろしていた。

 細身で、背が高い。黒を基調としたパンク風の服装に、金属製の鋭いアクセサリーをいくつも身につけている。耳には複数のピアスが並び、無造作に立ち上げられた髪は、整えているのか乱れているのかわからない絶妙な形をしていた。

 切れ長の目は鋭く、黙っているだけでも周囲を威圧するような雰囲気がある。

 街ですれ違っただけなら、マキバもなるべく目を合わせないようにしたかもしれない。

 だが、不思議と嫌な感じはしなかった。

 近寄りがたい外見の奥に、わずかな温かさがある。綺麗に整えられた優しさではない。何度も傷つき、ささくれ立ち、形を崩しながら、それでも捨てきれずに残っているようなもの。

 ――荒れた優しさ。

 そんな言葉が、マキバの頭に浮かんだ。

 そして、ほとんど直感だけで尋ねた。

「……カマタリョウガさんですか?」

 青年は片方の眉を持ち上げた。

「オレを知ってるのか?」

「いや、直接会ったことはないんですけど、なんとなく……」

「なんとなくで人を特定するのかよ」

 青年は呆れたように言い、口元だけで薄く笑った。

「変な野郎だな」

 そう言って、背もたれに身体を預ける。

「正解だ。カマタリョウガ」

 マキバは反射的に姿勢を正した。

 つい先ほどまで頭の中で考えていた人物が、何の前触れもなく目の前に現れた。

 偶然とは思えなかった。

「僕に、何か用ですか?」

「用ってほどでもねえよ」

 カマタは長い脚を組んだ。

 動作には気取ったところがなく、だが妙に様になっている。

「あの殺戮集団に、アンタみたいな人間が入ったって聞いてな」

「殺戮集団……」

「違うか?」

 即座には否定できなかった。

 特殊対策室に入ってからの数カ月間、マキバはあまりにも多くの死を見てきた。

 トンダが危険な能力者をためらいなく殺すところも、カモイが怒りに任せて相手を押し潰すところも見た。ナガヤマやモテギが、殺すことを当然の手段として選ぶ場面にも立ち会った。

 彼らにも、それぞれの理屈はある。

 だが、それだけで「殺戮集団ではない」と言い切れるほど、マキバは彼らを理解していなかった。

 黙り込んだマキバを見て、カマタは鼻を鳴らした。

「否定しねえんだな」

「……簡単には、できないです」

「そうか……」

 カマタはわずかに目を細めた。

 その反応を確かめるような目だった。

「あの……」

「何だ?」

「どうして特殊対策室を辞めたんですか?」

 カマタの視線が鋭くなった。

「待て」

「え?」

「質問するのはオレだ」

「あ、すみません」

 マキバは素直に頭を下げた。

 カマタは呆れたように息を吐き、それから少しだけ身を乗り出した。

「それ、本当に聞きたいか?」

「辞めた理由ですか?」

「ああ」

 先ほどまで浮かんでいた薄い笑みが、カマタの口元から消えた。

「聞いたら、たぶんアンタも辞めたくなるぞ」

 静かな声だった。

 脅しているわけでも、大げさに不安を煽っているわけでもない。

 ただ、自分が知っている事実をそのまま伝えているような口調だった。

 だからこそ、その言葉には妙な重みがあった。

 ――辞めたくなる。

 マキバの頭に、先ほどまで考えていたことが蘇った。

 特殊対策室の嫌な部分を、今より深く知ることになる。

 一度知ってしまえば、知らなかった頃には戻れない。

 カマタは、マキバの迷いを見透かすようにじっと見ていた。

 マキバは視線を落とし、短く息を吐いた。

「……何を聞きたいんですか?」

「その前に確認だ」

 カマタは人差し指を一本立てた。

「お前、特殊対策室の誰とタメだ?」

「ええと、ヤマナシさんです」

「なら、オレともタメだ」

「そうなんですか」

「ああ、だから敬語はやめろ」

「え、でも……」

「敬語は距離を作る」

 カマタは真顔で言った。

「距離を作られるとイラつく」

「はあ……」

 理屈としては、わかるような、わからないような話だった。

 カマタはさらにもう一本、指を立てた。

「……ただし」

「まだ何かあるんですか?」

「カマタと呼び捨てにするな」

「はい」

「今、敬語使ったな」

「あ……うん」

「下の名前で呼ぶのもやめろ」

「わかった」

「カマタくんと呼べ」

 マキバは一度、瞬きをした。

「……カマタくん」

「よし」

 カマタは満足そうに頷いた。

 ――面倒くさい人だ。

 マキバが心の中でそう思った直後、カマタがじろりとこちらを見た。

「今、面倒くさいって思っただろ」

「えっ」

「顔に出てる」

「ごめん」

「別にいい。自覚はある」

 ――自覚はあるのか。

 マキバがそう思うと、カマタは再び目を細めた。

「今度は、自覚あるんだって思っただろ」

「それも顔に出てた?」

「出てた」

「そんなにわかりやすいかな、僕」

「少なくとも、オレにはわかる」

 カマタはそう言ってから、テーブルの端に置かれていたメニューを手に取った。

「それと、もう一つ」

「今度は何?」

「オレもランチセットを頼む。話はそれからだ」

 メニューを開き、料理の写真を真剣な顔で眺める。

「ちょっと待ってろ」

 そう言うと、カマタは片手を上げて店員を呼んだ。

「ランチセットを一つ」

「かしこまりました」

 注文を受けた店員が伝票へ書き込もうとした、その時だった。

「ただし、トーストは焼きすぎないでくれ」

 店員のペンが止まった。

「表面に軽く色がつく程度でいい。焦げ目はいらない。耳も固くしないでくれ」

「はい」

「バターは一か所に固めず、全体に均一に塗る。端まできちんと」

「はい……」

「サラダのドレッシングは別添え。最初からかけると葉がしなる」

「かしこまりました」

「卵は半熟寄り。ただし白身は完全に固める。黄身だけ柔らかく」

「はい」

「コーヒーは食後じゃなくて先に。氷は少なめ。薄くなるからな」

 店員は一瞬だけ固まった。

 しかし、すぐに営業用の笑顔を取り戻す。

「……かしこまりました」

 最後まで注文を書き留め、一礼して立ち去っていった。

 マキバは、その後ろ姿を見送った。

 ――かなり面倒くさい人だ。

「今、かなり面倒くさいって思っただろ」

 カマタが言った。

 マキバは諦めて頷いた。

「顔に出てる?」

「出てる」

「ごめん」

「いい。これは譲れない」

 カマタは真剣な顔で言い、テーブルの水を一口飲んだ。


 ランチセットが運ばれてくるまでの間、カマタは途切れることなく特殊対策室の話を振ってきた。

「カモイさんは相変わらずか?」

「相変わらずっていうのが、どの状態を指すのかわからないけど……たぶん相変わらず」

「毎日トンダさんに求婚してるか?」

「してる」

「最悪だな」

「本人は純愛だって言ってる」

「もっと最悪だな」

 カマタは肩を揺らし、小さく鼻で笑った。

 その笑い方には呆れが滲んでいたが、どこか懐かしむような響きも混じっていた。

「ヤマナシは元気か?」

「元気……なのかな。基本、いつもスマホをいじってる」

「それは元気だ」

「そうなんだ」

「あいつはスマホをいじる気力がなくなったら終わりだ」

「基準が独特だね」

「いや、あれは本当にそうなんだよ」

 カマタは真顔で頷いた。

「ヤマナシは落ち込むと黙る。でも、スマホだけは絶対に触る。それすらしなくなったら、本気でヤバい」

「詳しいんだね」

「長い付き合いだったからな」

 その一言だけで話を切り上げ、カマタは次の質問へ移った。

「景気はどうだ?」

「景気?」

「依頼だよ。ちゃんと来てるか?」

「うん。それなりには。でも、最近は僕のやり方のせいで、得意先からの依頼が途絶えたって聞いた」

「だろうな」

 カマタは驚きもせず、当然のことのように頷いた。

 まるで最初からそうなると知っていたような反応だった。

「マチヤさんは?」

「おもちゃで遊んでる」

「変わってねえな」

「この前、暑いからって服を脱ごうとして止められてた」

「変わってねえな」

「昔から?」

「あの人は永遠の五歳児だ」

 あまりにも迷いのない言い方に、マキバは思わず吹き出した。

「モテギは?」

「元気」

「それ以外の情報がねえんだよな、アイツ」

「わかる」

「何食っても元気。寝ても元気。怒られても元気」

「確かに」

「たぶん百年後も元気だ」

「それはさすがに無理じゃない?」

「いや、アイツならある」

 二人は小さく笑った。

 初対面とは思えないほど、会話は妙に自然だった。

「ナガヤマは?」

「トンダさんの写真をデスクに飾ってる」

「アイツも相変わらずだな」

 カマタは額に手を当て、深いため息をついた。

「昔からそういうところだけは一途なんだよ」

「だけって」

「それ以外も一途だけどな」

 そう言って苦笑する。

 話題は次々と変わった。

 誰が最近どんな失敗をしたのか。事務所の冷蔵庫は相変わらず散らかっているのか。どれも他愛のない内容だった。

 それなのに、マキバは次第に違和感を覚え始めていた。

 カマタの質問は、一見すると近況確認にしか見えない。

 だが、よく考えると妙だった。

 誰かに電話一本かければ済むようなことばかり聞いてくる。

 本当に知りたいのは、答えそのものではない。

 マキバはそう気づいた。

 カマタは、自分の返答を見ている。

 誰を自然に庇うのか。誰の話になると口ごもるのか。誰を恐れているのか。

 何を不自然だと思っているのか。

 特殊対策室という場所を、今のマキバがどう見ているのか。

 それを、一つ一つ確かめているのだ。

 やがて、店員がカマタのランチセットを運んできた。

「お待たせしました」

 皿がテーブルへ置かれる。

 カマタは礼を言うと、まずトーストを手に取った。

 一口だけ噛み、ゆっくり咀嚼する。

 そして、眉間に深い皺を寄せた。

「あんま美味くねえな」

 開口一番、それだった。

 もっとも、そのわりには手は止まらない。

 サラダを口へ運び、続けて卵を食べ、トーストをあっという間に平らげる。コーヒーを飲み干す頃には、運ばれてきてからまだ五分も経っていなかった。

 細かな注文をつけた人間とは思えないほど、食べる速度だけは異様に速い。

 マキバは思わず苦笑した。

「特にトーストがダメだ」

 カマタはナプキンで口元を拭きながら、不満そうに言った。

「あんなに注文したのに」

「注文が細かすぎて、逆に難しかったんじゃないかな」

「料理人なら対応しろ」

「ここ、カフェだよ」

「なら最初からトーストなんて出すな」

 理不尽だった。

 しかも本人は至って真面目な顔をしている。

 マキバは笑いをこらえながら、水を一口飲んだ。

 グラスの氷が、小さく音を立てる。

「……結局、カマタくんは何が知りたいの?」

 その一言で、空気が変わった。

 それまで軽口を叩いていたカマタが、静かに黙る。

 テーブルの上へ視線を落とし、数秒だけ何かを考えていた。

 やがて、ゆっくりと顔を上げる。

「お前は……」

 さっきまでの砕けた表情は消えていた。

 鋭い目が、まっすぐマキバを射抜く。

「トンダさんたちを、どう思う?」

 マキバは言葉に詰まった。

 予想していた質問ではあった。

 だが、実際に聞かれると、簡単には答えられない。

「変な擁護はいらねえぞ」

 カマタは静かに言った。

「正直に話せ」

 店内のざわめきが、急に遠くなった気がした。

 周囲では相変わらず食器が鳴り、人々が昼食を楽しんでいる。

 それなのに、このテーブルだけが別の空間へ切り離されたようだった。

 マキバはゆっくりと息を吸った。

 頭の中へ、特殊対策室の面々の顔が一人ずつ浮かんでくる。

 トンダユウイチ。カモイヨシエ。マチヤユミ。ヤマナシアズミ。モテギハナ。ナガヤマミナミ。

 事務所にいる時の彼らは、どこか滑稽だった。

 くだらないことで笑い、子どものような喧嘩をし、呆れるほど自由気ままに振る舞う。

 カモイは何かにつけては怒鳴り散らし、マチヤはお菓子を食べながら机へ寝転び、モテギは無意味に大声を出し、ヤマナシはつまらなそうにスマートフォンを眺め、ナガヤマは陰気な顔で毒を吐きながらも何だかんだ皆と同じ部屋にいる。

 奇妙だが、不思議と居心地の悪くない時間もあった。

 一緒にいれば、笑ってしまうこともある。

 ――だが。

 現場へ出れば、その空気は一変する。

 目の前で暴走した能力者を、人間ではなく危険物として扱う。

 弱い能力者が泣こうが、命乞いをしようが、必要だと判断すれば躊躇なく殺す。

 そこには迷いも、葛藤もない。

 日常の彼らと、現場の彼ら。

 その二つは、同じ人間とは思えないほど大きく隔たっていた。

 マキバは、その断絶をどう受け止めればいいのか、まだ答えを見つけられずにいた。

「うーん……」

 マキバはすぐには答えず、言葉を探すようにゆっくりと声を出した。

「悪い人たちではないと思う」

 カマタは何も挟まず、黙って続きを待っている。

「少なくとも、普段一緒にいる時はそう感じる。変なところは多いけど、誰かを助けることもあるし、仲間を見捨てるような人たちでもない」

 そこで一度、言葉を切った。

「ただ、人間に対する価値観には、大きな隔たりを感じる」

「具体的には?」

「あの人たちは、弱い特殊能力者を殺すことに、ほとんど抵抗がない」

 マキバは慎重に言葉を選びながら続けた。

「危険だから排除する。役に立たないから切り捨てる。そういう判断が、あまりにも自然なんだ」

 脳裏に、これまでの現場が浮かんだ。

 命乞いをする者。泣きながら助けを求める者。自分でも能力を制御できず、怯えていた者。

 それでも彼らは、必要だと判断すれば、ためらわず殺した。

「まるで、ゴキブリを殺すみたいな感覚で」

 マキバは低く言った。

「そこに、どうしても違和感がある」

「……だろうな」

 カマタは小さく頷いた。

「ただ、ゴキブリは少し違う」

「違う?」

「ああ」

 カマタは空になった皿の縁を、指先で軽く叩いた。

「お前、たとえば街中でチンパンジーが暴れてたら、どうする?」

「チンパンジー?」

「そうだ」

 カマタは淡々と続けた。

「力が強い。人間より身体能力が高い。興奮していて、誰かを襲うかもしれない。多少の意思疎通はできても、こっちの言葉を完全には理解しない。放っておけば被害が出る」

「それは……止める必要があると思う」

「場合によっては、殺しても仕方ないと思うだろ?」

 マキバは答えに詰まった。

 反射的には否定したかった。

 だが、実際に人命が危険に晒されているなら、捕獲が間に合わず、殺処分という判断が下されることもあるだろう。

 安全な場所から、絶対に殺すなと言い切るのは簡単だ。

 けれど、目の前で誰かが襲われている時に、同じことを言えるかはわからない。

「それは……まあ、他に方法がなければ」

「その感覚だ」

 カマタは言った。

「あいつらにとって、弱い能力者は虫じゃない」

 そこで少し間を置く。

「……動物だ」

「動物?」

「害虫じゃなくて、害獣に近い」

 カマタは椅子の背もたれへ身体を預けた。

「何もしていないなら、わざわざ殺すのは可哀想だ。大人しくしているなら放っておけばいい。多少は保護してやってもいい」

 だが、と声を低くする。

「一度でも人間に危害を加えたら話は別だ。危険な動物が街へ下りてきて、人を襲った。それなら駆除されても仕方ない。そういう価値観だ」

「……」

 マキバは黙った。

 妙に腑に落ちてしまった。

 カモイの言葉は、いつも露骨だった。

 害虫。負け犬。駆除対象。

 彼女は敵意も嫌悪も、隠そうとしない。

 だが、トンダは違う。

 彼は怒りに任せて殺すわけではない。憎んでいるからでも、楽しんでいるからでもない。

 被害を防ぐため、社会の秩序を守るため、必要な処理として殺している。

 そこにあるのは、虫を見つけて反射的に踏み潰す嫌悪ではない。

 人里へ下りてきた危険な獣を、管理者の立場から処分する感覚なのかもしれない。

「ニュアンス、わかるか?」

「……なんとなく」

「そして……」

 カマタは親指で自分の胸を示した。

「オレは動物愛護派だ」

 マキバは少し間を置いた。

「それが……辞めた理由?」

「大枠ではな」

「なるほど……」

 マキバはゆっくり頷いた。

 カマタも、自分と同じように、弱い能力者を簡単に殺すことへ疑問を抱いていた。

 それは確かだった。

 だが同時に、別の違和感も胸に残った。

 ――動物愛護派。

 その言葉だ。

 カマタは弱い能力者を救おうとしている。殺されるべきではないと思っている。

 けれど、その前提として、彼らを動物にたとえている。

 トンダたちが危険な害獣として扱うのに対し、カマタは保護すべき動物として扱う。

 敵ではない。だが、対等な人間でもない。

 その考え方の中には、救おうとする優しさと同時に、線を引くような冷たさがあった。

「何だ、その顔?」

 カマタが言った。

「納得してねえ顔だな」

「いや……」

「嘘つけ」

 マキバは困ったように笑った。

「カマタくんは、弱い能力者を助けたいんだよね」

「ああ」

「でも、動物として見てる」

 カマタはわずかに目を細めた。

「人間として扱うべきだって?」

「そう思う」

「なら、お前は偉いな」

 その言葉に、皮肉はなかった。

 むしろ、少し疲れているように聞こえた。

「オレは、そこまで綺麗にはなれなかった」

「……」

「弱い能力者が傷ついてるのはわかる。差別されて、追い詰められて、誰にも理解されなかったやつも多い」

 カマタはテーブルに置かれた水のグラスへ目を落とした。

「でも、傷ついてるからって、何をしても許されるわけじゃねえ」

 グラスの表面を伝った水滴が、テーブルへ小さな染みを作っていた。

「あいつらは怒ってる。歪んでる。自分より弱いやつを傷つけることもある。誰かを恨むだけじゃなく、平気で巻き込む。可哀想なだけの存在じゃねえ」

 カマタの声には、実際に何度もそういう人間と向き合ってきた者の重さがあった。

「全部を人間の言葉として受け止めて、全部理解しようとしたら、こっちが壊れる」

 マキバは何も言えなかった。

「だからオレは、そう考えることにした」

 カマタはゆっくりと続ける。

「危険な動物だ。でも、殺さずに済むなら殺さない」

 指を一本立てる。

「暴れるなら檻に入れろ」

 もう一本。

「傷ついてるなら保護しろ」

 さらに一本。

「危険なら距離を取れ」

 そして、立てていた指を握り込んだ。

「それでいい。無理にわかり合おうとしなくても、生かすことはできる」

「それは……」

 マキバは少し迷った。

「冷たいか?」

「少し」

「だろうな」

 カマタは自嘲するように笑った。

「でも、あいつらよりはマシだ」

 その言い方に、マキバはまた小さな引っかかりを覚えた。

 ――あいつらよりはマシ。

 それは、自分の正しさを誇るための言葉には聞こえなかった。

 もっと切実なものだった。

 他人を完全に理解できない自分を許すため。

 救いきれない者から目を逸らさずにいるため。

 そして、自分まで壊れてしまわないため。

 カマタがどうにか守っている、最低限の逃げ道。

 マキバには、そう聞こえた。

「オレが辞めた理由を詳しく知りたいなら、あいつらに聞けばいいさ」

 カマタはそう言って、椅子を後ろへ引いた。

 床を擦る小さな音が、二人の間に落ちる。

「まあ、あんまり気分のいい話じゃねえからな。誰も積極的には話したがらないと思うけど」

「カマタくんは、話してくれないの?」

「質問するのはオレだって、最初に言っただろ」

 カマタは当然のように言い、立ち上がった。

 細身の身体がすっと伸びる。座っている時にも背が高いとは思っていたが、立つとさらに長身が際立った。

「……ああ、でも」

 そのまま帰るのかと思ったところで、カマタが何かを思い出したように足を止めた。

「キョウコさんなら、喜んで話してくれるかもしれねえな」

 マキバの思考が止まった。

「……キョウコさん?」

「ああ」

「ぬいぐるみの?」

 確認するように尋ねると、カマタは何を当たり前のことを聞いているのかという顔で頷いた。

「あの人、おしゃべり好きだからな。特に、他人が嫌がるような話になると止まらねえ」

「は?」

 声が出た。

 ほとんど反射だった。

 キョウコは、ぬいぐるみのはずだった。

 少なくとも、マキバが特殊対策室へ入ってから一度も、彼女が喋るところを見たことはない。

 動くところも。笑うところも。こちらを見るところさえも。

 いつもトンダのデスクの上に置かれている。

 星形の眼鏡をかけた、妙に存在感だけはある奇怪なぬいぐるみ。

 トンダが時々手に取り、妻に触れるような仕草で頭を撫でる。

 マチヤも、カモイも、ヤマナシも、モテギも、ナガヤマも、誰一人としてそれを奇妙だとは言わない。

 皆が、そこに一人の人間がいるかのように扱っている。

 マキバはこれまで、それを特殊対策室特有の悪趣味な冗談か、あるいは全員で共有している奇妙な暗黙の了解なのだと思おうとしていた。

 ――深く考えない方がいい。

 そう自分に言い聞かせていた。

 だが、特殊対策室をすでに辞めたカマタまで、キョウコを同じように扱っている。

 それだけではない。彼は今、はっきりと言った。

 ――おしゃべりが好きだ。

 まるで、キョウコが実際に言葉を発する存在であるかのように。

「キョウコさんって……」

 マキバは慎重に尋ねた。

「喋るの?」

 カマタは、心底不思議そうな顔をした。

「お前、聞いたことねえの?」

「ない」

「一度も?」

「一度も」

「マジかよ」

「マジ」

 カマタはしばらくマキバの顔を見つめた。冗談を言っているのか確かめているようだった。

 やがて、本当に知らないのだと理解したらしい。

「へえ……」

 顎へ軽く手を当て、何かを考える。

 そして、口元に意地の悪い笑みを浮かべた。

「それはそれで面白いな」

「何が?」

「まあ、そのうちわかる」

 カマタは小さく笑った。

 ポケットに両手を突っ込み、今度こそ帰ろうとする。

 だが、数歩進んだところで、また振り返った。

「そうだ」

「今度は何?」

「オレがお前に会ったこと、誰にも言うなよ」

「え?」

 突然の要求に、マキバは眉を寄せた。

「なんで?」

「面倒になるから」

「誰に知られると?」

「全員」

 あまりにも即答だった。

「ただし、ヤマナシには話していい」

「なんでヤマナシさんだけ?」

「さあな」

「理由あるでしょ」

「あるかもしれねえし、ないかもしれねえ」

「どっちなの」

「自分で考えろ」

 カマタは楽しそうに笑った。

 最後まで面倒な人だった。

「じゃあな、マキバダイスケ」

「うん。また――」

 言い終わるより早かった。

 カマタの輪郭が、わずかに揺らいだ。

 空間そのものが、一瞬だけ水面のように歪む。

 次の瞬間、彼の姿は消えていた。

「……え?」

 マキバは目を見開いた。

 そこにはもう誰もいない。

 さっきまでカマタが座っていた椅子だけが、少し引かれた状態で残っている。

 ――テレポート。

 そう考えるのが自然だった。

 トンダの能力と同じ種類なのだろうか。それとも、似ているだけで原理はまったく違うのか。

 消える瞬間の感覚は、トンダが使う転移とはどこか違った気もする。

 だが、マキバには判断できなかった。

 ただ、一つ。

 非常にはっきりとわかることがあった。

 テーブルの上。そこには、カマタが食べ終えたランチセットの皿が残されている。

 トーストのパンくず。空になったコーヒーカップ。使い終えたナプキン。

 そして、その横には伝票が置かれていた。

 マキバは何気なく手に取った。

 二人分の金額が印字されている。

 しばらく黙って見つめた。

「……」

 もう一度、カマタが消えた場所を見る。

 当然、戻ってくる気配はない。

 カマタは金を払っていなかった。

 マキバは深く息を吐いた。

「……面倒くさい人だ」

 誰もいなくなった椅子へ向かって、小さく呟いた。


 昼休みの後。

 マキバはそのまま事務所へ戻らず、ビルの脇を抜けて裏手へ回った。

 そこは従業員用の搬入口があるだけの、細く狭いスペースだった。両側を古びた壁に挟まれ、昼間だというのに日差しはほとんど届かない。コンクリートの地面には薄い油染みが残り、壁際には使われなくなった台車や段ボールが雑然と寄せられている。

 いくつもの室外機が低く唸り、熱を含んだ風を断続的に吐き出していた。

 表通りを走る車の音や、人々の話し声は建物に遮られ、ここまで来るとひどく遠い。

 誰かに聞かれたくない話をするには、ちょうどいい場所だった。

 マキバはスマートフォンを取り出し、ヤマナシへ短いメッセージを送った。

『少し話せる?ビルの裏にいる』

 送信して数秒で既読がついた。

 返事はない。

 だが、一分もしないうちに裏口の扉が開き、ヤマナシアズミが姿を現した。

 片手にはいつものスマートフォン。もう片方の手で面倒そうに前髪をかき上げながら、こちらへ歩いてくる。

「何?」

「ごめん。急に呼び出して」

「別にいいけど」

 ヤマナシは壁際まで来ると、そのまま背中を預けた。

「中にいたって、カモイさんとマチヤさんがうるさいだけだし」

 そして、スマートフォンの画面を消す。

「……で?」

 マキバはすぐには口を開かなかった。

 カマタは言った。

 ――会ったことを誰にも話すなと言った。

 ――ただし、ヤマナシには話してもいい。

 その理由はわからない。

 だが、あえて名前を挙げた以上、何か意味があるはずだった。

「昼休みに……」

 マキバはゆっくりと言った。

「カマタくんに会った」

 ヤマナシの表情が変わった。

 普段の気だるそうな無関心が、一瞬で消える。

 目がわずかに見開かれた。

 驚き。警戒。そして、そのさらに奥に、ごく薄い安堵。

 その感情が一瞬だけ浮かび、すぐに押し隠された。

「アイツ……」

 ヤマナシは小さく息を吐いた。

「生きてたのか」

「生きてたのか、って」

「あっ……」

 自分の言葉に気づいたように、ヤマナシは視線を逸らした。

「いや、別に死んだって聞いたわけじゃないけどさ」

「じゃあ、なんで?」

「急に消えたから」

「消えた?」

「うん」

「辞めたんじゃなくて?」

「書類上は退職」

 ヤマナシの声が低くなる。

 少し間を置いてから、言った。

「実態は、逃げた」

 マキバは息を呑んだ。

 ――逃げた。

 その言葉には、普通の退職とはまるで違う響きがあった。

 仕事が嫌になった。人間関係が合わなかった。条件のいい職場へ移った。

 そういう話ではない。

 何かから、本当に逃げた。

 そんな響きだった。

「カマタくん、僕に会ったことは誰にも話すなって言ってた」

「は?」

「でも、ヤマナシさんには話していいって」

「何それ?」

 ヤマナシが露骨に顔をしかめる。

「なんで私だけ?」

「僕も聞いたけど、教えてくれなかった」

「アイツらしいな」

 不機嫌そうに言いながら、髪を乱暴にかく。

「理由、何だと思う?」

「さあ?」

 ヤマナシは少し考えた。

「まあ……アイツも、私たちと似たような感覚だからじゃない?」

「似たような感覚?」

「ここの連中、だいたいおかしいじゃん」

 ヤマナシは、ごく自然に言った。

「弱いやつを、弱いってだけで下に見る。能力が使えなければ価値がないみたいな扱いするし、人を殺すことにも慣れきってる」

 自分が勤めている場所の話とは思えないほど、容赦がない。

「カマタは、そこに馴染めなかった」

 ヤマナシは続ける。

「私も馴染めてない。アンタもそう」

 そこでマキバを見る。

「だからじゃない?」

 マキバは、昼休みにカマタが言った言葉を思い出した。

 ――動物愛護派。

 確かに、カマタは弱い特殊能力者を殺すことに反対していた。

 その点では、ヤマナシや自分と近い。

 けれど、同じではない。

 弱い能力者を対等な人間として見る自分。

 保護すべき危険な動物として見るカマタ。

 そこには、確かな差があった。

 だが、そのことを今ヤマナシへ言う気にはなれなかった。

 言葉にすれば、まるで彼女の認識を否定してしまうような気がした。

 あるいは、カマタが生きていたことに、ほんの少し安堵しているヤマナシの気持ちへ、水を差すような気もした。

「カマタくんは、なんで辞めたの?」

 マキバは尋ねた。

 ヤマナシの顔が、はっきりと曇った。

 今度は隠そうともしなかった。

「その件は……」

 言葉を濁し、足元へ視線を落とす。

「なんていうか……」

 珍しく歯切れが悪い。

「暗黙のタブーみたいになってるから、あんまり話したくないんだけどさ」

「無理にとは言わないよ」

「そういう言い方やめて」

「え?」

「そう言われると、逆に言わなきゃいけない気になるから」

「ごめん」

「謝るなよ」

 ヤマナシは大きくため息をついた。

 その瞬間、室外機から吐き出された熱風が二人の間を通り抜けた。ただでさえ蒸し暑い裏路地の空気が、一瞬さらに熱を帯びる。

 ヤマナシはしばらく黙っていた。

 やがて、諦めたように口を開いた。

「……アイツ、トンダさんのやり方が気に入らなかったんだよ」

「やり方?」

「有無を言わさず殺す方針」

 マキバは黙った。

「最初は、アンタと同じだった」

 ヤマナシは壁に背中を預けたまま、遠くを見るような目をした。

「殺さなくてもいい相手はいる。話せばわかるやつもいる。危険だからってだけで殺すのは違う」

「うん」

「ずっと言ってた。でも、トンダさんは変わらなかった」

 ヤマナシの声が、少しずつ低くなる。

「現場ではいつも最短で終わらせる。リスクがあるなら殺す。相手の事情は後回し」

 言葉が重く落ちていく。

「話を聞く時間があるなら、その前に無力化する。無力化が面倒なら殺す。それが一番被害が少ないって」

 マキバは何も言えなかった。

 自分が入る前の特殊対策室。

 そこにカマタがいて、今の自分と同じように、何度も止めようとしていた。

 それでも、何も変わらなかった。

 カマタが何を見てきたのか。

 何を言って、何を拒絶されて、そして、どこまで追い詰められたのか。

 少しだけ想像できた。

「それで、カマタくんは?」

「ついにブチ切れた」

 ヤマナシは壁からゆっくりと背中を離した。

 表情が硬い。

 ふざける気配は完全に消えていた。

「トンダさんを……」

 言いかけて、止まる。

「トンダさんを?」

 マキバが促した。

 その瞬間だった。

「殺そうとしたんですよ」

 背後から、穏やかな声がした。

 マキバは勢いよく振り返った。

 心臓が、一瞬本当に止まったような気がした。

 そこに、トンダユウイチが立っていた。

 いつものスーツ姿。整った髪。黒縁の眼鏡。

 口元には、いつもの穏やかな微笑み。

 足音は聞こえなかった。裏口が開く音もしていない。

 気配すら、なかった。

 ただ突然、そこにいた。

 ――テレポート。

 ヤマナシの顔が露骨に引きつった。

「トンダさん……」

「すみません」

 トンダは申し訳なさそうに笑った。

「立ち聞きするつもりはなかったんですが……」

 ヤマナシが目を細める。

「絶対嘘ですよね」

「はい」

 トンダはあっさり認めた。

「気になったので、聞いていました」

「最悪だ……」

 ヤマナシが小さく呟く。

 マキバは言葉を失ったままだった。

 トンダはそんな二人を気にする様子もなく、まるで世間話の続きを引き取るように言った。

「カマタくんは、僕を殺そうとしたんです」

 穏やかな口調だった。

 その内容だけが、異様だった。

 真夏のビル裏。室外機が熱風を吐き続けている。

 遠くでは車のクラクションが鳴り、どこかで蝉の声も聞こえる。

 汗が背中を伝っている。

 なのに、トンダの声だけが、周囲の熱気から切り離されたように妙に澄んで聞こえた。

「なかなか本気でしたよ」

 トンダは微笑んだ。

 その笑顔からは、怒りも恨みも読み取れない。

 むしろ、少し懐かしい出来事でも思い返しているようだった。

「……まあ」

 眼鏡の奥の目が、わずかに細くなる。

「失敗しましたけどね」

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