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第2話 弱い者の声

 マキバダイスケが「特殊対策室」に入って、一カ月が経った。

 ―― 一カ月。

 普通の職場であれば、ようやくコピー機の癖を覚え、上司の機嫌の波を読めるようになり、昼食に使える店の候補が三つほどできる頃だろう。職場の人間の名前と顔が一致し、誰に何を尋ねればいいのかが、少しずつわかり始める。まだ新人ではあるが、まったくの部外者ではなくなっていく。そういう時期だ。

 だが、特殊対策室では違った。

 ここでの一カ月は、仕事を覚れるための時間ではない。

 目の前で人が壊れていく光景に慣れ、自分の感覚を少しずつ麻痺させていくには、十分すぎるほどの時間だった。


 ある日、マキバは、特殊能力者同士の喧嘩に同行した。

 現場は、雑居ビルの屋上だった。

 強い風が吹き抜ける中、自分の腕を刃物に変える男と、触れたものを錆びさせる女が、本気で殺し合っていた。屋上のフェンスは女の能力によって赤茶色に変色し、ところどころ崩れ落ちている。男の右腕は肘から先が長い刃となり、鈍い銀色の光を放っていた。

 原因は、二人が所属する能力者支援団体内での痴情のもつれだったらしい。

 もっとも、マキバがそれを知ったのは、すべてが終わった後だった。

 トンダユウイチは二人の間へ突然現れると、事情を聞くことも、武器を捨てるよう警告することもなかった。

 男が刃の腕を振り下ろそうとした瞬間、空間がわずかに歪んだ。

 次の瞬間には、男の右腕だけが消えていた。

 肘から先を失った男は、一拍遅れて絶叫した。女も、目の前で起きたことを理解した途端、喉を引き裂くような悲鳴を上げた。

 カモイヨシエは、その声に顔をしかめた。

「うるさい」

 吐き捨てるように言い、片手を軽く下げた。

 女の身体が、見えない巨大な手に叩きつけられたように屋上の床へ沈んだ。コンクリートにひびが走り、女の悲鳴が途切れる。全身を押さえつけられたまま、指一本動かせなくなっていた。

 現場は、三分で片づいた。

 マキバは給水塔の陰までふらつくように歩き、その場で吐いた。背後では、トンダが何事もなかったような声で、依頼人へ終了の連絡を入れていた。


 別の日には、特殊能力者たちで構成された反社会組織による襲撃事件に同行した。

 彼らは揃いの黒い服を着て、繁華街の真ん中で「能力者の解放」を叫んでいた。

 もっとも、彼らの起こせる爆発は、せいぜい大きな爆竹程度のものだった。路上で乾いた破裂音を響かせ、店の看板を焦がし、逃げ惑う通行人へ向かって能力を見せつける。革命を名乗るには、あまりにも小さく、みじめな暴力だった。

 それでも、一般人にとっては十分な脅威だった。

 泣き出す子ども。転倒する老人。シャッターを下ろす店員。スマートフォンを構えながら遠巻きに眺める野次馬。

 その混乱の中を、ナガヤマミナミは俯きながら歩いていった。

 顔は青ざめ、細い肩は震えていた。

「ごめんなさい」

 消え入りそうな声で、彼女は言った。

 直後、男たちの身体から、一斉に鈍い音が響いた。

 肩がねじれ、肘が反対側へ折れ曲がり、膝が人体にはあり得ない方向を向いた。見えない力に掴まれたまま、彼らは次々と路上へ崩れ落ちた。叫び声が重なり、やがて呻き声へ変わっていった。

 ナガヤマは最後まで「ごめんなさい」と繰り返していた。

 それでも、何人かは生きていた。

 折れ曲がった手足を抱え、地面の上でかすかに動いていた。

 マチヤユミは、そんな彼らを見下ろして首を傾げた。

「まだ終わってないの?」

 そして、無邪気に片手を向けた。

 白い光が視界を埋めた。

 轟音と熱風が通りを駆け抜け、マキバは反射的に顔を覆った。光が消えた時、そこに倒れていたはずの者たちは、黒い焼け跡だけを残して消えていた。

 マチヤは自分の手のひらを見つめ、不思議そうに言った。

「威力、控えめにしたんだけどなー」

 控えめで人が跡形もなく消し飛ぶのなら、本気を出した時はどうなるのか。

 マキバは、聞けなかった。

 耳の奥に残った高い音を聞きながら、焦げた路面を見つめることしかできなかった。


 さらに別の日には、能力の暴走によって街路樹を次々と巨大化させていた少年のもとへ向かった。

 歩道に並んでいた木々は、すでに建物の二階へ届くほど膨れ上がっていた。太くなった根がアスファルトを突き破り、枝が電線へ絡みついている。道路はひび割れ、停車していた車が根に持ち上げられ、傾いていた。

 その中心で、少年は泣いていた。

「止まらないんです!」

 両手で頭を抱え、何度もそう叫んでいた。

「僕がやったんです!でも、もう止められない!どうすればいいかわからないんです!」

 まだ幼さの残る顔だった。

 ――助けてほしい。

 言葉にしなくても、その声は聞こえていた。

 モテギハナは返事をしなかった。

 彼女は巨大化した木の幹をすり抜け、隆起した地面へ沈み込むように姿を消した。次の瞬間には少年の背後から現れ、その胸元へ、ためらいなく片腕を差し入れた。

 服も皮膚も骨も、彼女の腕を阻むことはなかった。

 少年の身体が大きく震えた。

 モテギは、胸の奥にある何かを探るように腕を動かした。能力の核と呼ばれるものを、直接掴み取ろうとしているらしかった。

 少年は声を上げることもできず、力を失ったようにその場へ崩れ落ちた。

 同時に、周囲の木々の成長が止まった。

 伸び続けていた枝が静まり、地面を押し上げていた根も動かなくなった。

 ――トラブルは解決した。

 後日作成された報告書には、簡潔にそう記載されていた。

 異常成長は停止。周辺の安全を確認。案件終了。

 あの少年が最後に何を思っていたのかは、どこにも書かれていなかった。

 マキバは報告書を手にしたまま、しばらく動けなかった。

 ペンを握っているはずの指先には、ほとんど感覚が残っていなかった。


 この一カ月で、マキバは二つのことを理解した。

 そのうちの一つは、事件を起こす特殊能力者の多くが、決して強者ではないということだった。

 むしろ、弱い者ほどトラブルを起こす。

 もちろん、例外はある。

 数年前、一つの都市を消滅させかけた怪物のように、あまりにも強大な能力を持つ者が制御を失い、社会全体を巻き込むこともある。ひとたび暴走すれば、軍隊や警察でさえ手に負えず、街ひとつ、国ひとつの存亡に関わる。世間が特殊能力者を恐れる理由として語るのは、たいていそのような存在だった。

 だが、日常的に発生する事件の大半は、そうした大災害とは程遠いものだった。

 手のひらから火を出せるが、せいぜいライターの代わりになる程度の者。

 物を浮かせられるものの、ペットボトル一本を持ち上げるだけで額に汗を浮かべる者。

 他人の心を読めると称しながら、拾えるのは怒りや悲しみといった曖昧な感情の断片だけという者。

 身体を硬くできるが、転んだ時に擦り傷を負いにくくなる程度の者。

 特殊ではある。だが、強くはない。

 日常生活を劇的に変えるほど便利でもなければ、戦闘や仕事に役立つほど優秀でもない。それでも、普通の人間とは明確に違っている。

 その半端さが、彼らを孤立させていた。

 一般人から見れば、特殊能力者は異物だった。

 たとえその能力が何の役にも立たなくても、何が起きるかわからない。感情が昂れば暴走するかもしれない。今は隠しているだけで、本当はもっと危険な力を持っているのかもしれない。

 そうした疑念は、職場にも、学校にも、地域にも、至るところで芽生え、彼らを少しずつ不利な立場へと追いやっていった。

 職場では重要な仕事を任されない。学校では距離を置かれる。近所では陰口を叩かれる。そして何か問題が起これば、真っ先に疑われる。

 一方、強い特殊能力者たちから見れば、彼らは取るに足りない存在だった。

 厄介ではあるが、価値はない。役に立たず、守る必要もない。

 そう判断される。

 強い特殊能力者もまた、世間から恐れられている。

 だが、恐れられるほどの力を持つ者は、簡単には排除されない。下手に刺激すれば、どれほどの被害が出るかわからないからだ。

 行政や企業は、彼らを危険人物として監視する。その一方で、利用価値のある人材として囲い込む。

 災害救助、治安維持、軍事、研究、警備。

 能力の使い道があれば、高額な報酬で雇われることもある。世間から恐怖の目を向けられながらも、同時に英雄として持ち上げられる者さえいる。

 危険物でありながら、貴重な資源でもある。

 それが、強い特殊能力者だった。

 だが、弱い特殊能力者は違う。

 役には立たない。それでも、気味が悪い。

 大した力ではなくとも、普通の人間とは違う。もしかすると危険かもしれない。何をするかわからない。

 だから、距離を置かれる。

 だから、排除される。

 だから、笑われる。

 冗談の種にされ、陰で化け物と呼ばれ、何か問題が起これば存在そのものを責められる。

 社会の中に居場所を見つけられないまま、少しずつ追い詰められていく。

 仕事を失う。家族から見放される。

 同じ境遇の者だけで集まり、自分たちを排除した社会への怒りを膨らませる。

 そして、何かの拍子に事件を起こす。

 小さな怒りが、些細な能力によって暴力へ変わる。

 その事件を鎮圧するために、トンダたちのような強い特殊能力者が呼ばれる。

 圧倒的な力で押さえつける。必要であれば、傷つける。

 それでも収まらなければ、殺す。

 社会に適応できなかった弱い能力者を、社会に必要とされる強い能力者が処理する。

 ――駆除。

 マキバは、その言葉を頭の中で何度も反芻した。

 ――駆除。

 害虫や害獣を取り除く時に使う言葉だ。

 人間に対して使う言葉ではない。使っていいはずがない。

 だが、この一カ月でマキバが見てきた現場では、彼らはまさにその言葉のとおりに処理されていた。

 訴えも、怒りも、恐怖も、助けを求める声も。

 すべてが事件という一つの名称にまとめられ、最後には「解決」という二文字で消されていた。


 第二に、マキバは職場の人間関係を理解した。

 もっとも、理解したと言っていいのかは、自分でもよくわからない。

 少なくとも、この事務所では、見た目と年齢と立場がほとんど一致していなかった。

 まず、トンダよりカモイの方が年上だった。

 それを知った時、マキバは素直に驚いた。

 トンダユウイチは、黒縁の眼鏡に整えられた髪、落ち着いた物腰をしている。言葉遣いも基本的には丁寧で、黙って書類に目を通していれば、役所か法律事務所に勤める実直な男に見えた。

 一方のカモイヨシエは小柄で、顔立ちにもどこか幼さが残っている。黙っていれば、実際の年齢よりも若く見える。

 もっとも、彼女が黙っている時間など、ほとんどなかった。

 見た目だけなら、トンダの方が年上に思える。

 だが、二人の態度を見ていると、妙に納得できるところもあった。

 カモイは、事務所の中で誰よりも偉そうだった。そして、誰に対しても遠慮がなかった。

 気に入らないことがあれば、即座に口に出す。自分の都合を曲げることはなく、注意されれば反省するより先に相手を睨む。トンダが事務所の代表であることなど、彼女にとっては何の意味もないようだった。

 そしてカモイは、朝になると当然のように耳を疑う発言をする。

「ところで、トンダさん、結婚してください」

 その日も、カモイは自分のデスクに頬杖をつきながら、いかにも今思いついたような口調でトンダに求婚した。

「嫌です」

 トンダは書類から顔も上げずに即答した。返事に、一秒もかからなかった。

 カモイは勢いよく机を叩いた。

「即答するな!」

「毎日言われていますので、こちらも準備ができています」

「準備するな!」

「今後も断るので、二度とふざけたことを言わないでください」

「ふざけんな!」

 カモイの怒鳴り声が事務所に響いた。

 しかし、誰も驚かなかった。

 ナガヤマはパソコンへ向かったまま黙々と作業を続け、マチヤは菓子を頬張りながら二人を眺めている。モテギは何かの資料を熱心に読んでいた。ヤマナシに至っては、一度もスマートフォンから顔を上げなかった。

 このやり取りを、マキバはすでに二十回以上見ていた。

 もはや、特殊対策室では朝の恒例行事になっていた。

 最初に見たのは、入社した翌日のことだった。

 トンダの左手の薬指には、銀色の指輪が嵌まっていた。それを前日に目にしていたマキバは、カモイの求婚を聞いた瞬間、思わず彼女の顔を見た。

「あの、カモイさん……」

「何?」

「トンダさんって、結婚していますよね?」

「してるわね」

「既婚者にアプローチするのは、その……あまりよくないんじゃないでしょうか」

 言いながら、マキバは自分が余計なことを口にした気がした。

 案の定、カモイは怒るでもなく、心底不思議そうな顔で首を傾げた。

「はあ?」

 それから、ごく当たり前のことを説明するように言った。

「もう死んでるからセーフよ」

「生きていますよ」

 トンダが静かに訂正した。

「死んでるようなものでしょ」

「生きています」

 声は穏やかだった。

 だが、二度目の否定には、一度目よりもわずかに硬いものが混じっていた。

 トンダはペンを置くと、自分のデスクの隅に置かれていた奇妙なぬいぐるみを、両手でそっと持ち上げた。

 それは、何の生き物を模しているのか、ひと目ではわからないぬいぐるみだった。

 丸みを帯びた胴体に、短い手足。顔には大きな星形の眼鏡が掛けられ、口元だけが妙に堂々としている。

 子ども向けの玩具に見えなくもない。

 だが、じっと眺めていると、少しずつ落ち着かない気分になった。

 可愛らしく作られているはずなのに、どこかが決定的にずれている。

 笑っているようにも見える。こちらを見透かしているようにも見える。

 可愛いというより、見てはいけないものを見てしまったような、不穏な違和感があった。

「マキバくん、紹介が遅れましたね」

 トンダはぬいぐるみを両手で支え、マキバの方へ向けた。

「僕の妻、キョウコです」

 マキバの背筋を、冷たいものが走った。

 一瞬、冗談だと思った。そうであってほしかった。

 しかし、トンダの表情は真面目だった。口元には笑みすらなく、ただ当たり前の事実を紹介している顔をしていた。

 しかも、周囲の誰一人として笑わなかった。

 カモイは忌々しげにぬいぐるみを睨みつけていた。

 マチヤは嬉しそうに手を振った。

「キョウコさん、今日もかわいいー」

 モテギは背筋を伸ばし、朝礼の挨拶でもするような大声を出した。

「おはようございます、奥様!」

 ナガヤマは無言のまま、ぬいぐるみに向かって小さく会釈した。

 誰も、この状況を異常だとは思っていないらしい。

 ヤマナシだけがスマートフォンを眺めたまま、乾いた声で言った。

「深く考えると病むよ」

 その忠告には、経験から来る奇妙な重みがあった。

 それ以来、マキバはできるだけ考えないようにしている。

 トンダの妻。

 星形の眼鏡を掛けた、奇怪なぬいぐるみ。

 名前はキョウコ。

 生きているのか。死んでいるのか。

 ぬいぐるみなのか。人間なのか。

 どうしてトンダの妻なのか。なぜ誰も疑問を抱かないのか。

 誰も説明しない。

 マキバも、怖くて尋ねられない。

 説明されないからこそ、想像だけが膨らんでいく。

 そして、想像すればするほど、余計に怖かった。


 次に、マチヤユミ。

 彼女について、マキバは当初、ただ明るくて自由奔放な人なのだと思っていた。

 だが、違った。

 明るいというより、精神の在り方そのものが幼かった。

 年齢相応の知識や言葉は持っている。仕事の内容も、説明されれば理解する。特殊能力者としての戦闘力に至っては、この事務所の中でも上位に入るらしい。

 だが、興味の向く先も、感情の動き方も、我慢のできなさも、子どもとほとんど変わらなかった。

 仕事中に机の上でおもちゃを動かして遊ぶ。

 会議中に不要になった資料で紙飛行機を折り、誰の頭に着地するかを眺めて笑う。

 緊急出動の連絡が入れば、事件の内容を確認するより先に、

「お菓子、持ってっていい?」

 と尋ねる。

 注意されれば一応は反省した顔をするが、三分も経てば忘れている。

 後輩にあたるヤマナシ、ナガヤマ、モテギは、形式上は彼女に敬語を使っていた。

 しかし、扱いは完全に子どもだった。

「マチヤさん、それに触ると爆発します」

 ある日の現場で、ナガヤマが言った。

 マチヤは、地面に落ちていた金属製の装置へ伸ばしかけた手を止めた。

「えー、ほんと?」

「本当です」

「ちょっとだけなら?」

「ちょっと触っても爆発します」

「指一本でも?」

「指一本でもです」

 マチヤはしばらく装置を見つめていた。

 興味と危険性を、彼女なりに天秤へ載せているらしい。

 やがて、素直に手を引っ込めた。

「じゃあ、触らない」

「そうしてください」

 こうした会話が、特殊対策室では日常的に交わされていた。

 そして、デリカシーも子ども並みだった。

 ある日の午後、事務所のエアコンが故障した。

 季節はまだ夏だった。窓を開けても、雑居ビルの隙間から入り込むのは、熱を含んだ湿った風ばかりだった。パソコンの排熱と人の体温が狭い室内にこもり、じっと座っているだけで額に汗が浮かんだ。

「あつーい」

 マチヤは机に頬をつけ、溶けるような声を出した。

 しばらくして上体を起こすと、ためらいなく上着を脱ぎ始めた。

 それだけなら、まだよかった。

 上着を椅子の背に放り投げると、今度はシャツのボタンへ手をかけた。

「暑いから脱ぐー」

「駄目だ、ユミ」

 トンダが即座に止めた。

 書類を読んでいたはずなのに、マチヤの指がボタンへ触れた瞬間には、すでに顔を上げていた。

 マキバは以前から気づいていたが、トンダはなぜかマチヤに対してだけ敬語を使わない。それどころか、「マチヤさん」ではなく「ユミ」と下の名前で呼んでいる。

 接し方も他のメンバーとは明らかに違った。まるで、手のかかる幼い娘を世話する父親のようだった。

 マチヤはきょとんと首を傾げる。

「え?なんで?」

「職場だからだ」

「でも暑いよ?」

「暑くても駄目だ」

「下着は着てるよ?」

「そういう問題じゃない」

 マチヤは納得できないという顔で、自分のシャツとトンダを交互に見た。

 マキバは目のやり場に困り、意味もなく壁の染みを見つめていた。

 壁には、何かをぶつけたような小さなへこみがある。今まで気づかなかったが、よく見ると、その周囲にも細かなひびが走っていた。

 今は、それを観察することに全神経を集中させるしかなかった。

 ヤマナシはスマートフォンから目を上げることもなく、冷静に言った。

「羞恥心のアップデートが未実装なんだよ、この人」

「ヤマナシちゃん、ひどーい」

「事実でしょ」

「実装されてるもん」

「じゃあボタン留めてください」

「暑いからやだ」

「未実装じゃん」

 マチヤは不満そうに頬を膨らませた。

 その隣で、トンダは深いため息をついた。

「ほら、ユミ。ボタン留めろ」

「えー」

「えー、じゃない」

 結局、マチヤは渋々、外したボタンを一つずつ留め直していった。


 次に、モテギハナ。

 彼女は常に元気だった。

 そして、常に少しずつ空回りしていた。

 朝、事務所の扉を開けると、誰よりも先に大声で挨拶する。

「皆さん、おはようございます!」

 狭い室内に声が反響し、窓ガラスがかすかに震える。

 眠そうにしていたヤマナシは顔をしかめ、ナガヤマは肩を跳ねさせる。カモイは露骨に舌打ちする。

 それでもモテギは、毎朝変わらず元気だった。

「マキバさん!」

 入所して間もない頃、彼女は真正面からマキバへ詰め寄った。

「朝は大きな声で挨拶すると、気持ちがいいですよ!」

「お、おはようございます」

「声が小さいです!」

「おはようございます……」

「もっとです!」

「おはようございます」

「いいですね!」

 モテギは満足そうに頷いた。

 マキバとしては、朝から体力の半分ほどを使わされた気分だった。

 本人は、善意の塊のような人間だった。

 悪意はない。誰かを困らせようとも、傷つけようとも思っていない。

 ただ、自分の話したいことを一方的に話す癖があり、相手の反応を確認するという工程が抜け落ちていた。

 ある昼休みには、突然、健康法について語り始めた。

「やはり健康の基本は、早寝早起きです!」

 そこから、朝日を浴びることの重要性へ進み、朝の散歩の効能へ移り、歩くなら自然の中がよいという話になった。

 二十分後には、なぜか山登りの魅力を熱弁していた。

「頂上で食べるおにぎりは、普段の三倍おいしいんですよ!」

 さらに十分後。

「ただし、熊には十分な警戒が必要です!」

 最終的には、熊に遭遇した際の心構えに着地していた。

「背中を向けて走ってはいけません!目を合わせず、落ち着いて距離を取るんです!」

 どうして健康法の話から熊に襲われた時の対処法になったのか、誰にもわからなかった。

 誰もついていけない。だが、本人は気にしない。

 むしろ全員が熱心に聞いていると思っているらしかった。

「モテギ、アンタ、絡みづらいのよ」

 以前、カモイが呆れたように言ったことがある。

「ありがとうございます!」

 モテギは元気よく頭を下げた。

「褒めてないわよ」

「ありがとうございます!」

「そこも褒めてない」

「ありがとうございます!」

「無敵か、こいつ」

 カモイは珍しく言い負かされたような顔をしていた。


 次に、ナガヤマミナミ。

 彼女は、かなりの人見知りだった。

 一カ月が経った今も、マキバとはまともな日常会話がほとんど成立していない。

 朝夕の挨拶はする。

 業務連絡も、必要最低限ならできる。

 ただし、そこから一歩でも踏み込もうとすると、ナガヤマは追い詰められた小動物のような反応を見せた。

「あの、ナガヤマさん」

 少し離れた場所から声をかけただけで、彼女の肩が大きく跳ねた。

「ひっ!」

「ごめん。驚かせるつもりは……」

「ご、ごめんなさい……」

「いや、ナガヤマさんが謝ることじゃなくて」

「すみません……」

「だから、謝らなくても大丈夫です」

「ごめんなさい……」

 会話を続けるほど謝罪が増えていく。

 マキバは、どこで切り上げればいいのかわからなかった。

 しかし、ナガヤマは単に気が小さいだけではない。

 かなりひねくれていた。

 普段は俯きがちで、声も小さい。だが、誰かが何かを言うたびに、聞こえるか聞こえないかの声で毒を吐く。

「今日の仕事、楽勝だねー」

 マチヤが言えば、

「楽勝って言う人ほど、最後に足元をすくわれる……」

 と呟く。

「あー、疲れた。豚肉食べたい」

 カモイが椅子にもたれながら言えば、

「豚が豚を食べるのか……」

 と漏らす。

「アンタ、今なんか言った?」

「何も言ってません……」

 カモイが睨むと、すぐに目を逸らす。

「マチヤさん、そこは危ないですよ!」

 モテギが大声で注意すれば、

「危ない奴が、危ない場所を指摘してる……」

 と呟く。

「ナガヤマさん、何か言いましたか?」

「何も言ってません……」

 聞かれれば否定する。だが、確実に言っている。

 ただし、トンダに対してだけは例外だった。

 ナガヤマは、トンダを崇拝していた。

 いや、崇拝という言葉でも、まだ足りないかもしれない。

 彼女のデスクには、トンダの写真が複数枚飾られていた。

 真剣な表情で書類を読むトンダ。

 窓際でコーヒーを飲むトンダ。

 廊下を歩いているトンダ。

 眼鏡を押し上げるトンダ。

 誰かと電話をしているトンダ。

 どれも本人が撮影を意識していない写真ばかりだった。

 隠し撮りとしか思えない。

 いつ、どこから、どのように撮ったのか。考えるほど不安になる角度の写真もあった。

 ナガヤマは仕事の手を止めると、時折それらを眺めていた。

 そして、口元だけを不気味に緩ませる。

「ナガヤマさん」

 ある日、マキバは耐えきれずに尋ねた。

「その写真、本人の許可は取っているんですか?」

 ナガヤマは、ゆっくりとマキバを見た。

 眼鏡の奥の目には、心底理解できないことを聞かれたような色が浮かんでいた。

「トンダさんの存在は、公共財なので……」

「公共財……」

「皆でその尊さを享受すべきです……」

「本人の肖像権は?」

「尊い……」

 ナガヤマは質問に答えず、写真に向かって両手を合わせた。

 その横顔は、祈りを捧げる信徒のように安らかだった。

 マキバは、それ以上聞くのをやめた。

 触れてはいけない領域が、この事務所には多すぎる。


 そして、ヤマナシアズミ。

 彼女は基本的に、何事にも無関心だった。

 誰に対してもそっけない。誰かが騒いでいても、揉めていても、たいていは我関せずといった顔をしている。

 事務所にいる間は、椅子へ浅く腰掛け、スマートフォンをいじっていることが多かった。

 マキバは当初、彼女がまともに仕事をしているところをほとんど見たことがなかった。

 朝もスマートフォン。昼もスマートフォン。午後もスマートフォン。

 トンダに名前を呼ばれれば、「今やる」と返事はする。

 だが、その直後に動き出すとは限らない。むしろ、そのまま何事もなかったように画面へ視線を戻すことの方が多かった。

 それなのに、不思議なことに事務所の業務は滞っていなかった。

 期限のある書類は、いつの間にか提出されている。

 請求書も処理されている。

 警察や行政機関との連絡も、大きな問題なく回っている。

 マキバは最初、こう考えていた。

 おそらく、ヤマナシは仕事をしている。

 ただ、仕事をしている姿を他人に見せないだけなのだ。

 見えないところで必要なことを片づけている。普段は怠けているように見えて、実は要領よく仕事を終わらせている。

 そういうタイプなのかもしれない。

 だが、一カ月近く一緒に働くうちに、どうやら必ずしもそうではないことが、うっすらとわかってきた。


 ある日のことだった。

「ヤマナシさん!先月の請求書をまとめたファイルって、どこにありましたっけ!?」

 モテギが事務所中に響く声で尋ねた。

 ヤマナシはスマートフォンから目を離さない。

「いや、知らんけど」

 実に素っ気ない返事だった。

 モテギは目を丸くする。

「え?でも、ヤマナシさんが格納してくれたんですよね?」

「あれ?そうだっけ?」

 ヤマナシはそこで初めて顔を上げた。

 本当に覚えていないらしい。

 少し離れた席から、ナガヤマが小さな声で答えた。

「右の棚、上から二段目。青いファイルの下ですよ」

「あっ、ありがとうございます!」

 モテギはナガヤマへ勢いよく頭を下げると、そのまま棚へ走っていった。

 ヤマナシは、自分の代わりに答えてくれたナガヤマに礼を言うこともなく、再びスマートフォンへ視線を落とした。

 そして本当に、何事もなかったように画面を指で滑らせ始めた。


 また別の日。

「ヤマナシ」

 カモイが自分のデスクから声を飛ばした。

「一昨日、私が担当した案件だけど、警察にはもう連絡した?」

 ヤマナシはスマートフォンのゲームをしながら答えた。

「いや、私はしてないです」

「はあ?」

 カモイの眉間に皺が寄った。

「じゃあ、いつ連絡するのよ?」

「え?」

 ヤマナシはようやく顔を上げた。

「私がやるんですか、それ?」

 一瞬、事務所が静かになった。

「ああ!?」

 カモイが椅子を蹴るように立ち上がった。

「お前、事務だろ!」

「ひっ!」

 怒鳴り声に驚いたヤマナシが身体を跳ねさせ、スマートフォンを取り落としかける。

 その時だった。

「はい!」

 モテギが元気よく手を挙げた。

「昨日、私が警察に連絡しました!」

「ああ、モテギがやってたのか」

 カモイは拍子抜けしたように言い、あっさり椅子へ座り直した。

「ならいいわ」

 ヤマナシも特に何か言うわけではなかった。

 スマートフォンを持ち直し、中断されたゲームを再開した。

 マキバは、その様子を横から見ながら思った。

 ――今の仕事、本来はヤマナシの担当だったのではないだろうか。


 さらに別の日。

「ヤマナシさん」

 トンダが一枚の資料を手に、静かにヤマナシを呼んだ。

「君が提出した、この資料ですが……」

「はい」

「まず、提出期限は一週間前です」

「……すみません」

「そして、誤字脱字があまりにも多い。説明も足りていませんし、文章も整理されていない。このままでは相手に内容が伝わりません」

 トンダはいつも通り落ち着いていた。声を荒らげてもいない。

 だが、付き合いの浅いマキバにもわかる程度には、苛立っていた。

「明日までに修正してください」

「すみません……」

 ヤマナシは肩を落とし、しょんぼりと謝った。

 さすがに反省したのだろう。

 マキバはそう思った。

 ヤマナシはおもむろにスマートフォンを取り出した。

 画面を開く。操作を始める。

「……」

 トンダが数秒、無言で彼女を見つめた。

「……ん?」

 ヤマナシが顔を上げる。

「どうしました?」

「いや……」

 トンダは眼鏡を押し上げた。

「何をしているんですか?」

「今やってるゲームが、イベント中で……」

「……いい度胸をしていますね」

 トンダのこめかみに、うっすらと青筋が浮かんだ。


 その頃には、マキバも認識を改めざるを得なかった。

 ヤマナシは、人目につかないところで効率よく仕事を片づけているわけではない。

 本当に、かなりの時間スマートフォンを見ているだけだった。

 もちろん、まったく仕事をしていないわけではない。

 指示された仕事には一応手をつける。

 書類も作る。連絡もする。

 ただし、遅い。そして、ミスが多い。

 期限を忘れる。資料の保管場所を忘れる。必要な連絡を忘れる。作成した文章には誤字脱字が多く、説明も抜ける。

 結果として、周囲のスタッフがヤマナシの仕事を補うことになる。

 ナガヤマが資料の場所を把握している。モテギが代わりに警察へ連絡する。カモイが抜けを見つけて怒鳴る。

 時にはマチヤですら、「ヤマナシちゃん、これまだ終わってないよー」と言いながら彼女の仕事を手伝っていた。

 マキバも、何度かヤマナシの作業を引き取ったことがある。

 それでも本人に、仕事ぶりを改善しようという切迫感はあまり見えなかった。

 注意された直後こそ落ち込む。だが、しばらくすると再びスマートフォンを開いている。

 そして、ヤマナシにはもう一つ、大きな問題があった。

 遅刻である。常習犯だった。

 マキバが特殊対策室に入ってからというもの、彼女が始業時刻までにきちんと出社している姿を、ほとんど見た記憶がない。

 十分遅れる。二十分遅れる。ひどい日は、一時間近く遅れてくる。

 それでも事務所へ入ってくる時に慌てる様子はなく、

「おはよーございます……」

 と眠そうに言いながら、自分の席へ向かう。

 さらに、身なりにもかなり無頓着だった。

 髪は寝癖のままの日が多く、肩には目立つほどフケが落ちていることがある。

 服も皺だらけで、何度も着続けているのか、襟元や袖口がくすんでいることがあった。

 化粧をしている様子もない。それ自体は別に問題ではない。

 だが、身だしなみそのものにほとんど関心がないらしく、時には近くへ行くと、マキバが思わず息を浅くしたくなるような匂いがすることさえあった。

 ――風呂に入っているのだろうか。

 さすがに本人へ聞く勇気はなかった。

 仕事は遅い。ミスも多い。遅刻する。スマートフォンばかり触っている。身だしなみにも無頓着。

 社会人として問題になりそうな要素を、すべてかき集めたような女。

 それが、ヤマナシアズミだった。

 にもかかわらず、不思議なことが一つあった。

 特殊対策室のスタッフたちは、そんなヤマナシの存在を当たり前のように受け入れていた。

 もちろん、仕事ぶりに文句は言う。

 カモイは頻繁に怒鳴る。トンダも注意する。ナガヤマやモテギが彼女の抜けを補うことも珍しくない。

 だが、誰も本気で追い出そうとはしなかった。「辞めさせろ」と言う者もいない。

 本人も、辞めるつもりはまったくなさそうだった。

 ――なぜ、ヤマナシはクビにならないのだろう。

 マキバにとって、それはかなりの疑問だった。

 単純に人材が不足しているのか。長く働いているから、今さら切りづらいのか。それとも、これほどの駄目人間ぶりを差し引いてもなお、彼女をここに置いておくべき何かがあるのか。

 マキバには、まだわからなかった。

 ただ一つ確かなのは、ヤマナシアズミという女が、見れば見るほど謎の多い人物だということだった。

 そして、マキバにとっては、彼女がこの事務所で一番話しやすい相手だった。

 ヤマナシも口は悪い。愛想もない。

 誰かが困っていても、自分から進んで手を差し伸べるような性格ではない。むしろ面倒そうな顔をして、「自分でやれば」と言いそうな人間だった。

 それでも、マキバは彼女と話している時が一番楽だった。

 たぶん、感覚が近いのだ。

 少なくともヤマナシは、この事務所で起きていることを何でも当然のものとして受け入れているわけではない。

 マチヤが職場で服を脱ごうとすれば、呆れた顔をする。

 ナガヤマがトンダの写真に向かって手を合わせれば、露骨に引く。

 モテギが朝から事務所中に響く大声で挨拶をすれば、うるさそうに耳を塞ぐ。

 トンダが奇妙なぬいぐるみを真顔で「僕の妻です」と紹介すれば、「深く考えると病むよ」と忠告する。

 その反応が、マキバには妙にありがたかった。

 この場所にいると、自分の感覚の方がおかしいのではないかと思う瞬間がある。

 人が簡単に殺される。

 ぬいぐるみが人間として扱われる。

 仕事中に服を脱ごうとする者がいる。

 上司を隠し撮りした写真を机に飾り、それを拝んでいる者までいる。

 それらを周囲の人間があまりにも当然のものとして受け入れているせいで、驚いたり戸惑ったりしている自分だけが、この場から浮いているように感じることがあった。

 だが、ヤマナシも同じように呆れ、同じように引いている。異常なものを見て、ちゃんと異常だと思っている。

 この場所で起きていることに、自分と似た違和感を覚えている人間がいる。

 それだけで、マキバにとっては大きな救いだった。


 ある日の昼下がり。

 特殊対策室の事務所には、仕事場とは思えないほど弛緩した空気が漂っていた。

 窓から差し込む鈍い日差しが、古びた床の上にぼんやりと落ちている。壁掛け時計の針が進む音と、パソコンの排熱を逃がすファンの低い唸りだけが、やけに耳についた。

 カモイは椅子に深くふんぞり返り、デスクの上へ両足を投げ出して雑誌を読んでいた。

 マチヤは机の上に小さなロボットのおもちゃを置き、歩かせている。ぜんまい仕掛けらしく、ロボットは両腕を前後に振りながら、ぎこちなく進んでは書類の束にぶつかって転んだ。そのたびに、マチヤは嬉しそうに笑って元の位置へ戻した。

 モテギは床で腕立て伏せをしていた。

「九十七!九十八!九十九!」

 無駄に大きな掛け声が、狭い室内へ響いている。

 ナガヤマは仕事をしているふりをしながら、デスクの端に飾ったトンダの写真を見つめていた。時折、誰にも聞こえない声で何かを呟いている。

 トンダだけが、いつもと変わらず書類を整理していた。

 ヤマナシは椅子へ浅く腰掛け、スマートフォンの画面を眺めている。

 そしてマキバは、自分のデスクで過去の報告書を読んでいた。

 どの報告書にも、似たような言葉が並んでいた。

 制圧。鎮圧。無力化。

 対象死亡。

 被害拡大を防止。

 必要な措置を実施。

 整然と並ぶ文字には、感情がなかった。

 誰が泣いていたのか。誰が助けを求めたのか。誰が最後まで抵抗し、誰が諦めたのか。そうしたものは、どこにも記されていない。

 ただ結果だけが、過不足なく残されている。

 マキバには、その淡々とした文章の下に、消された誰かの叫び声が埋まっているような気がした。

「マキバ」

 不意に、隣から声をかけられた。

 顔を上げると、ヤマナシがスマートフォン越しにこちらを見ていた。

「もう一カ月経ったけど、慣れた?」

 マキバは報告書から手を離し、曖昧に笑った。

「いやあ、全然……」

「まあ、そうだよね」

 ヤマナシはスマートフォンを机の上へ伏せ、頬杖をついた。

「こんなイカれた職場、慣れる方がどうかしてるけど」

 声音はいつも通りそっけなかった。

 だが、ほんの少しだけマキバを気遣っているようにも聞こえた。

「困ったことがあったら、手助けしてやらんこともないから。遠慮せず言いなよ」

「ありがとう」

 マキバは素直に礼を言った。

「ヤマナシさんって、優しい人だね」

 次の瞬間、ヤマナシの顔が一気に赤くなった。

「はあ!?」

 声が裏返った。

 頬だけではない。耳まで真っ赤になっている。

「同僚として普通の対応をしただけだよ!勘違いするな!バーカ!」

「いや、別に勘違いしたわけじゃなくて」

「うるさい!」

 ヤマナシは勢いよく顔を背け、伏せていたスマートフォンを持ち直した。

 画面へ視線を落としているが、指はまったく動いていない。

「ヤマナシちゃん、照れてるー」

 机の向こうから、マチヤがにやにやしながら言った。

「かわいー」

「うるせえ!」

「きゃー、怒ったー」

 マチヤは楽しそうにロボットを持ち上げ、ヤマナシの方へ歩かせる真似をした。

「ヤマナシちゃんに突撃ー」

「やめろ!」

「はい、静かに」

 トンダの一言で、事務所の空気が変わった。

 声を荒らげたわけではない。

 書類へ目を落としたまま、いつもと同じ穏やかな口調で言っただけだった。

 それでも、部屋の中から緩んだ空気が一瞬で消えた。

 マチヤはロボットを止めた。

 モテギは腕立て伏せの姿勢のまま顔を上げた。

 カモイは雑誌を閉じた。

 ナガヤマはトンダの写真をそっと伏せ、何事もなかったように背筋を伸ばした。

 ヤマナシも、スマートフォンを見る手を止めた。

 トンダは書類を一枚、机の中央へ置いた。

「仕事が来ました」

 全員の視線が集まる。

「暴走した特殊能力者の制圧です。場所は、千葉県松戸市にある廃工場」

「暴走系ですか」

 モテギが勢いよく立ち上がった。

 額には汗が浮かんでいたが、疲れた様子はない。

「私、行けます!」

「今回は、マキバくんに行ってもらいます」

 マキバは一瞬、トンダが何を言ったのかわからなかった。

「え?」

 間の抜けた声が漏れた。

 トンダはマキバを見た。

「一人で」

 事務所が静まり返った。

 先ほどまで響いていたモテギの掛け声も、マチヤのおもちゃが立てる機械音もない。

 ヤマナシが眉をひそめた。

「そりゃ無茶だ」

 普段の投げやりな調子ではなかった。

 低く、はっきりとした声だった。

「コイツ、弱いですよ。トンダさんもわかってるでしょ?」

「ヤマナシさん」

 トンダは彼女を軽く制し、改めてマキバへ視線を向けた。

「彼は弱くありませんよ」

 穏やかな声だった。

「だから、僕は彼をスカウトしたんです」

 その言葉には、奇妙な確信があった。

 励ましているようには聞こえない。

 すでに結論を知っている者が、事実を確認するように告げている。

 カモイが椅子にもたれ、退屈そうに言った。

「ていうか、弱けりゃ戦力外でクビよ。事務をやらせてもいいけど、そうなったらアンタがお払い箱ね、ヤマナシ」

「最悪の職場だな」

 ヤマナシは低く吐き捨てた。

 マキバは、喉の奥が詰まるのを感じた。

「僕が、一人で……ですか」

「はい」

「相手は、暴走している特殊能力者なんですよね」

「そうです」

「僕、戦闘経験なんてほとんどありません」

「知っています」

「それでも、僕が?」

「命令です」

 その瞬間、トンダの声がほんのわずかに変わった。

 表情は穏やかなままだった。口元には薄い笑みさえ浮かんでいる。言葉遣いも丁寧だった。

 だが、その奥には、拒絶を許さない冷たさがあった。

「行きなさい、マキバくん」

 マキバは膝の上で拳を握った。

 ――怖い。

 当たり前だった。

 この一カ月、彼はずっと後ろから現場を見ていた。

 いや、見ているだけでも限界だった。

 誰かが傷つけられる。誰かが殺される。

 その直前、助けを求める声が聞こえる。

 けれど、聞こえた声は、すぐに消える。

 その繰り返しだった。

 自分が前に出て、何ができるのか。

 戦えるわけではない。相手を傷つけるほどの力もない。

 それでも、断ることはできなかった。

 ここで背を向ければ、自分が何のためにこの場所へ来たのか、本当にわからなくなる気がした。

「……わかりました」

 マキバは、絞り出すように言った。

 隣でヤマナシが小さく舌打ちした。

「バカ」

 誰に向けた言葉なのかは、わからなかった。

 トンダが指を鳴らした。

 乾いた音が響く。

 瞬間、視界が裏返った。

 床の感触が消える。

 天井の蛍光灯も、机も、事務所の壁も、薄い膜の向こうへ引き延ばされるように歪んでいく。

 いつもの転移の感覚だった。

 だが、空間が切り替わる、その直前。

 ヤマナシが椅子から身を乗り出し、咄嗟にマキバの腕を掴んだ。

「えっ?」

 マキバが声を上げるより早く、景色が変わった。


 事務所の生ぬるい空気が消え、冷たい外気が頬を打った。

 頭上には、重く垂れ込めた灰色の雲が広がっていた。

 湿った風の中に、錆びた鉄と油の匂いが混じっている。

 マキバの目の前には、巨大な廃工場が建っていた。

 おそらく、かつては機械か自動車の部品を製造していたのだろう。広い敷地を囲む金網のフェンスは一部が破れ、赤く錆びた看板は塗装が剥がれ、ほとんど文字を読み取れない。

 窓ガラスはあちこちで割れていた。

 黒く口を開けた窓の奥には、光がない。

 外壁には無数の亀裂が走り、ところどころコンクリートが剥がれ落ち、内部の鉄骨が露出している。

 だが、単に長い間放置されて朽ちたのではない。

 すでに、何かによって破壊されていた。

 壁の一部は、内側から強い力を加えられたように外へ膨らんでいる。太い鉄骨はねじ曲がり、地面には巨大な爪で抉られたような深い裂け目が刻まれていた。

 割れたコンクリート片が、敷地のあちこちに散乱している。

 工場の内部から、異様な気配が放たれていた。

 目には見えない。

 それでも、そこに何かがいるとわかる。

 空気そのものが、低く震えていた。

 遠くで、巨大な金属がゆっくりと折れ曲がるような音がした。

 マキバは、腕を掴む手の感触に気づき、自分の隣を見た。

 そこに、ヤマナシが立っていた。

「……ヤマナシさん?」

「……」

 ヤマナシは答えなかった。

 マキバの腕を強く掴んだまま、正面にそびえる廃工場を睨んでいる。

 転移の直前、咄嗟にマキバへ手を伸ばしたことで、一緒にここまで飛ばされてしまったらしい。

「なんでいるの?」

 問いかけても、ヤマナシはすぐには答えなかった。

 錆びた鉄骨が軋む音が、工場の奥から響いてくる。湿った風が二人の間を吹き抜け、ヤマナシの黒い髪を揺らした。

「……アンタ」

 やがて、ヤマナシは低い声で言った。

「逃げな」

「え?」

「ここから逃げろ」

 マキバが意味を理解するより先に、彼女は続けた。

「死ぬよ」

 冗談ではなかった。

 ヤマナシの顔は青ざめていた。唇からも血の気が引き、マキバの腕を掴む指には、痛いほど力が込められている。

 普段の気だるさもない。

 照れ隠しの悪態も、何事にも興味がないような目も消えていた。

 そこにいるのは、本気で危険を感じ、本気でマキバを止めようとしている一人の人間だった。

「でも、逃げるのはまずいよ」

 マキバは困ったように工場を見た。

「仕事だし……」

「仕事より命だ」

 ヤマナシは即答した。

 迷いはなかった。

「アイツら、アンタをわざと殉職させる気だ」

「そんなこと……」

「あるよ」

 マキバの言葉を遮り、ヤマナシは吐き捨てるように言った。

「弱い能力者をいたぶって、面白がってんだ」

 その声には、はっきりとした怒りが混じっていた。

 恐怖だけではない。

 もっと以前から胸の底に溜め込んでいたものが、今になって噴き出しているようだった。

「トンダさんも、カモイさんも、マチヤさんも、モテギも、ナガヤマも、みんなアンタより強い」

 ヤマナシは工場から目を離さないまま言った。

「だから、弱い奴がどれだけ簡単に死ぬか、わかってない」

 一度、言葉を切る。

「いや、違う。わかってて、軽く見てるんだ」

「そんなふうには思わなかったけどな……」

「アンタ、お人好しすぎ」

「そうかな」

「そうだよ」

 ヤマナシは苛立ったように振り向いた。

「自分が誰からも悪く思われてないって、なんでそんな簡単に信じられるんだよ」

「そこまでは思ってないけど……」

「同じだろ」

 彼女の指に、さらに力がこもった。

「アンタの能力、私もよくわかんないけどさ。心の声みたいなものが聞こえるだけなんでしょ?」

「うん」

「だったら、戦う力じゃない」

 ヤマナシの声は容赦がなかった。

 だが、マキバを傷つけるための言葉ではない。

 現実を理解させようとしているのだ。

「相手の気持ちがわかったって、話を聞いてくれる保証なんかない。暴走してるなら、なおさらだよ。近づいた瞬間に潰されるかもしれない。話しかける暇もなく、壁の染みになるかもしれない」

 工場の中から、重い衝撃音が響いた。

 二人の足元が、かすかに揺れた。

 敷地内に転がっていた小石が跳ね、割れた窓枠から細かなガラス片が落ちる。

 マキバは、改めて工場を見た。

 黒く開いた窓。内側から膨らんだ壁。歪んだ鉄骨。

 その奥から、声が聞こえていた。

 実際に耳へ届く声ではない。

 マキバの内側へ直接流れ込んでくる、心の声だった。

 ――熱い。

 ――苦しい。

 ――やめろ。

 ――来るな。

 ――見ないでくれ。

 ――全部壊れろ。

 ――消えろ。

 ――殺してやる。

 ――助けて。

 互いに矛盾する言葉が、濁流のように頭の中へ押し寄せてくる。

 怒りと恐怖と痛みが混ざり合い、どこまでが本人の意思で、どこからが暴走した能力によるものなのか、マキバにも判別できなかった。

 ただ一つだけ、確かなことがあった。

 ――あの中にいる誰かは、ひどく苦しんでいる。

 マキバは目を伏せた。

「逃げられないよ」

「なんで?」

「あの人、苦しんでる」

「だから何?」

 ヤマナシの声が鋭くなった。

「苦しんでる奴を助けようとして、自分まで死んだら意味ないだろ」

「そうかもしれない」

「そうかもしれないじゃない。そうなんだよ」

「……でも」

 マキバは、ゆっくりと息を吸った。

 冷たい空気が喉を通り、胸の奥へ落ちていく。

 怖さが消えたわけではない。

 逃げたいという気持ちも、確かにあった。

「僕が行かなかったら、たぶんトンダさんたちが来る」

 ヤマナシの表情が固まった。

「……」

「僕が失敗したら、トンダさんたちが来るんだと思う」

 マキバは工場を見つめたまま続けた。

「そうしたら、あの人は殺される」

 ヤマナシは何も言わなかった。

 否定できないのだろう。

 これまでの現場が、何よりの証拠だった。

「僕は、この一カ月、ずっと見ているだけだった」

 マキバの声は、風に消えそうなほど静かだった。

「声が聞こえても、何もできなかった」

 屋上で腕を失った男。

 路上で関節を折られた能力者たち。

 泣きながら助けを求めていた少年。

 聞こえていた。

 彼らの恐怖も、後悔も、助けを求める声も。

 すべて聞こえていた。

「何か言わなきゃって思っても、その時にはもう終わってた。毎回、何もできなかった」

 マキバは小さく苦笑した。

「だから、とりあえずやってみるよ」

「バカ!」

 ヤマナシが叫んだ。

 工場の壁に声が反響し、灰色の空へ吸い込まれていった。

「そんな理由で死んだら、本当にただのバカだからな!」

「うん」

「うんじゃない!」

 怒鳴りながらも、ヤマナシの手は震えていた。

「死んでも知らないからな!」

「うん」

「だから、うんって言うな!」

 マキバは、自分の腕を掴んでいるヤマナシの手に、そっと触れた。

 一本ずつ指を外していく。

 ヤマナシは抵抗しなかった。

 ただ、悔しそうに唇を噛んでいた。

「ありがとう、ヤマナシさん」

 マキバは彼女の手を離した。

 そして、廃工場へ向かって歩き出した。

 一歩進むたび、地面に散らばった砂利が靴の下で音を立てた。

 工場から流れ込んでくる苦痛の声は、次第に大きくなっていく。

 背中には、ヤマナシの視線を感じていた。


 工場の入口は、原形をとどめないほど歪んでいた。

 本来なら床まで下りているはずの鋼鉄製のシャッターが、中央から大きくひしゃげている。下半分は何かに殴りつけられたように潰れ、地面との間に、人が一人どうにか通り抜けられる程度の隙間ができていた。

 その向こうには、光の届かない工場の内部が広がっている。

 マキバは一度だけ振り返った。

 少し離れた場所に、ヤマナシが立っていた。こちらへ駆け寄ろうとはしない。ただ、今にも何かを叫び出しそうな顔で、マキバを見つめている。

 マキバは小さく息を吸い、身をかがめた。

 歪んだシャッターの縁に服を引っかけないよう注意しながら、その隙間をくぐる。

 工場の内部へ足を踏み入れた瞬間、外とは違う、淀んだ空気が肌にまとわりついた。

 暗い。割れた窓から差し込む灰色の光だけが、工場内の輪郭をかろうじて浮かび上がらせていた。

 中は、ひどい有様だった。

 かつては製造ラインを構成していたと思われる大型機械が、無残に倒れている。操作盤は引き剥がされ、むき出しになった配線が床を這っていた。天井から垂れ下がった太いケーブルが、風もないのにゆっくりと揺れている。

 床には、油と雨水が混じったような黒い液体が広がっていた。天井の穴から落ちる水滴がその表面を叩くたび、鈍い波紋が広がっていく。

 瓦礫の間には、折れたパイプ、錆びついた工具、砕けたコンクリート片が散乱していた。

 どこかで、金属が擦れ合う音がした。

 空気が重い。

 湿気や埃のせいだけではない。

 目に見えない圧力が、工場全体を満たしている。息を吸うたび、肺の奥に冷たい鉄粉が積もっていくような感覚があった。

 暗がりの奥で、何かが動いた。

 金属片が床を引きずられる音。

 マキバは足を止めた。

 ――逃げたい。

 身体は正直だった。心臓は激しく脈打ち、膝はかすかに震えている。口の中が乾き、唾を飲み込むことさえ難しかった。

 それでも、声を出した。

「こんにちは」

 言った直後、自分でも場違いな挨拶だと思った。

 廃工場の暗闇に向かって、何を悠長なことを言っているのだろう。

 返事はなかった。

 代わりに、空気を裂く鋭い音が響いた。

 暗がりから一本の鉄骨が飛んできた。

「……っ!」

 マキバは反射的に横へ飛び退いた。

 鉄骨は、つい先ほどまで彼の頭があった場所を通過し、背後のコンクリート壁へ突き刺さった。

 凄まじい衝撃音が工場内に響く。

 壁が大きくひび割れ、砕けた破片が床へ降り注いだ。

 あと一瞬遅れていれば、頭ごと潰されていた。

 マキバは床へ片膝をついたまま、荒い息を吐いた。

 心臓が痛いほど鳴っている。

 ――怖い。

 今すぐ出口へ走り、ヤマナシのところへ戻りたかった。

 だが、声が聞こえた。

 耳からではない。頭の内側に、直接叩きつけられる声だった。

 ――来るな。

 ――来るな。

 ――こっちを見るな。

 ――また笑うんだろ。

 ――どうせ、気持ち悪いって言うんだろ。

 その声には、殺意よりも強い恐怖があった。

 攻撃した側ではなく、追い詰められた者の声だった。

「笑いません」

 マキバはゆっくりと立ち上がった。

 声が震えないよう、意識して息を整える。

「僕は、あなたを笑いません」

 暗がりの奥で、何かが止まった。

 揺れていたケーブルが静止し、床を転がっていたボルトの動きも止まる。

 やがて、瓦礫の積み上がった機械の陰から、一人の男が姿を現した。

 若い男だった。

 年齢は、マキバとそれほど変わらないように見える。

 紺色の作業着に似た服を着ていたが、袖や裾はあちこち破れ、油と埃で黒く汚れている。頬は痩せ、肌は病的なほど青白い。何日も眠っていないのか、目の下には濃い隈ができていた。

 両目は赤く血走っている。

 その男の周囲に、無数の金属片が浮かんでいた。

 床から引き抜かれたボルト。折れた鉄パイプ。錆びたスパナ。歯の欠けた鋸。機械から剥がれた薄い鉄板。

 ――念動力。

 おそらく、物体へ直接触れずに動かす能力なのだろう。

 しかし、ナガヤマのサイコキネシスとはまるで違っていた。

 ナガヤマの力は、目に見えない細い糸を何本も操るように正確だった。複数の対象を同時に動かしても、それぞれを意図した位置で静止させることができる。

 目の前の男の力には、その精密さがない。

 浮かんでいる金属片は絶えず震え、互いにぶつかり合っている。上昇したかと思えば急に落ち、再び跳ね上がる。男の感情が揺れるたび、その動きも激しくなった。

 制御しているというより、溢れ出す力に周囲の物が巻き込まれているようだった。

「来るな……」

 男は、喉を潰したような声で言った。

「来るなよ……」

「わかりました」

 マキバはその場で立ち止まった。

「これ以上は近づきません」

 敵意がないことを示すため、両手をゆっくりと肩の高さまで上げる。

 手には何も持っていない。

「僕はマキバダイスケです。特殊対策室から来ました」

 男の目が大きく見開かれた。

「特殊対策室……」

 その名を口にした瞬間、男の周囲に浮いていた金属片が一斉に震えた。

 何本もの工具の先端が、マキバに向けられる。

「あの殺し屋どもの仲間か」

「はい」

 誤魔化さずに答えた。

 男の顔が歪む。

「殺しに来たんだろ」

「違います」

「嘘だ!」

 金属片が数個、弾丸のように飛んできた。

 マキバは動けなかった。

 一本の細いボルトが頬をかすめる。

 鋭い痛みが走り、遅れて温かい血が頬を伝った。

 背後では、工具が床や壁にぶつかり、甲高い音を立てている。

 恐怖で喉が塞がる。

 それでも、マキバは逃げなかった。

「違います」

 もう一度、同じ言葉を口にした。

「嘘だ!」

 男は叫んだ。

「あいつらは殺す!弱いやつを、役に立たないやつを、すぐに殺す!」

「……それは」

 マキバは、反射的に否定しようとした。

 だが、言葉が出なかった。

 この一カ月、自分が見てきたものを思い出す。

 腕を失った男。

 関節を折られた能力者たち。

 光に焼かれ、跡形もなく消えた者たち。

 胸へ腕を差し込まれ、倒れた少年。

 そんなことはないとは、言えなかった。

 ここで嘘をつけば、その瞬間に、この男との会話は終わる。

「そうです」

 マキバは認めた。

 男の呼吸が荒くなる。

「やっぱり……」

「でも、僕はそうしたくありません」

「同じだろ!」

 男が吠えた。

「同じ事務所なんだろ!あいつらの仲間なんだろ!」

「同じです」

 逃げずに答えた。

「僕は、あの人たちと同じ特殊対策室の人間です」

 マキバは上げた両手を下ろさず、男を見つめた。

「でも、僕はあなたと話すために来ました」

 男の口から、乾いた音が漏れた。

 笑ったのだと気づくまで、少し時間がかかった。

 それは笑い声というより、壊れた機械の隙間から空気が抜けるような音だった。

「話して、どうなる」

「わかりません」

「わからないのに来たのか」

「はい」

「バカか、お前」

「それは、さっきも言われました」

 ヤマナシの顔が頭に浮かんだ。

 男は一瞬、言葉に詰まった。

 周囲の金属片の震えが、わずかに弱くなる。

 マキバは静かに息を吐いた。

 会話は成立している。

 攻撃はされた。

 だが、男はまだこちらの言葉を聞いている。

「名前を聞いてもいいですか」

「……」

 男は答えなかった。

「言いたくなければ、言わなくても大丈夫です」

 長い沈黙が落ちた。

 どこか遠くで、水滴が床を打つ音がした。

「……サカキ」

 男が小さく言った。

「サカキリョウ」

「サカキさん」

「馴れ馴れしく呼ぶな」

「すみません」

 マキバは素直に頭を下げた。

 サカキの周囲に浮いていた工具の一つが、少しだけ高度を下げた。

 心の声が、途切れ途切れに伝わってくる。

 ――こいつは何なんだ。

 ――どうして謝る。

 ――どうせ演技だ。油断させる気だ。

 ――でも。

 ――こいつは、まだ話を聞いている。

 マキバは、言葉を急がなかった。

 相手の中にある恐怖を刺激しないよう、慎重に問いかける。

「ここで、何があったんですか」

「関係ない」

「そうかもしれません」

 マキバは頷いた。

「でも、僕は聞きたいです」

「聞いてどうする」

「少なくとも、何も聞かないまま殺すよりは、いいと思っています」

 サカキの顔が引きつった。

「殺す……」

「はい」

「お前たちは、そうするんだよな」

「このままだと……たぶん」

 マキバは答えた。

 都合のいい希望を語っても、意味はない。

「僕がここで失敗すれば、同僚たちが来ます」

「……」

「そうなったら、あなたは殺されると思います」

 サカキの周囲に浮かんでいた金属片が、激しく揺れ始めた。

 鋸の刃が回転し、鉄パイプが互いにぶつかる。

 しかし、飛んではこなかった。

「脅しか?」

「違います」

「じゃあ、何だ?」

「現実です」

 マキバは、自分の声が震えていることに気づいた。

 隠せるほど、平静ではなかった。

 それでも言葉を続けた。

「だから、僕はあなたに投降してほしい」

「投降したら、どうなる?」

「警察に引き渡されます」

「捕まるんだろ」

「はい。壊した物や、起こした被害について、罪に問われると思います」

 サカキの視線が鋭くなる。

「でも、生きることはできます」

「生きて、どうする?」

 その言葉は、刃物より深く、マキバの胸へ突き刺さった。

 ――生きて、どうする。

 四月の夕暮れ。

 雑居ビルの屋上で、夕日を見つめていた自分も、同じようなことを考えていた。

 死にたいわけではなかった。

 ただ、生き続ける理由がわからなかった。

「わかりません」

 マキバは正直に言った。

 サカキの眉が動く。

「でも、死んだら何もできません」

「綺麗事だ」

「そうかもしれません」

「お前に何がわかる?」

 サカキの声が震え始めた。

 怒りだけではない。

 長い間、誰にも届かなかった言葉が、堰を切ったように溢れ出そうとしていた。

「俺は、ただ少し物を動かせるだけだった」

 サカキは、自分の周囲を漂う金属片を見た。

「最初は、便利だって言われた。すごいって。面白いって」

 その言葉とともに、マキバの意識へ、淡い光景が流れ込んできた。

 明確な記憶ではない。

 サカキの感情に付随した断片が、映像のような形を取っているのだ。

 幼いサカキが、教室の机の前に立っている。

 消しゴムが宙に浮く。鉛筆がくるくると回る。

 周囲の子どもたちが歓声を上げる。

 ――すごい。

 ――もう一回やって。

 ――自分もやってみたい。

 幼いサカキは、照れながら笑っていた。

「小さい頃は、みんな笑ってくれた」

 だが、成長するにつれて、その笑いは別のものへ変わっていった。

 ――気味が悪い。

 ――ズルをするな。

 ――勝手に物を動かすな。

 ――危ない。

 ――近づくな。

「でも、成長しても大したことはできなかった」

 サカキの唇が歪む。

「重い物は動かせない。細かい制御もできない。仕事で役に立つほどじゃない」

 宙に浮く工具が、不規則に震えた。

「でも、気味悪がられるには十分だった」

 サカキは笑った。

 自分を嘲るような、乾いた笑いだった。

「会社じゃ、俺が怒ったら物が飛んでくるんじゃないかって言われた」

 マキバの意識へ、別の断片が流れ込む。

 職場の休憩室。

 缶コーヒーを持った男たちが、サカキを見ながら笑っている。

 ――怒らせるなよ。

 ――工具が飛んでくるぞ。

 ――冗談だって。

 ――そんな顔するなよ。

「飲み会では、余興で能力を見せろって言われた」

 ――浮かせろよ。

 ――箸、浮かせてみろよ。

 ――できるんだろ。

「断れば、ノリが悪いって言われた」

 ――場の空気を読め。

 ――面白くない奴だな。

「見せれば、気持ち悪いって言われた」

 サカキの周囲で、工具同士が激しくぶつかった。

「工場で働いてた。ここじゃない。別の工場だ」

 低い声だった。

「俺は、普通に働きたかった」

 その一言だけが、ほかの言葉よりも静かだった。

「それだけだった」

 サカキは俯いた。

「でも、ミスがあるたび、俺のせいにされた。部品がなくなれば、お前が能力で隠したんじゃないかって」

 ――誰も見ていない隙に、動かしたんだろ。

「機械が壊れれば、お前が力を使って壊したんじゃないかって」

 ――またお前か。

 ――お前がいると気味が悪い。

「何もしてないって言っても、誰も信じなかった」

 マキバは、口を挟まなかった。

 サカキの言葉が途切れるたび、次の言葉が出てくるのを待った。

「それで、クビになった」

「……」

「そのあと、この廃工場に来た」

 サカキは周囲を見回した。

「誰もいない場所なら、誰にも迷惑をかけないと思った」

 倒れた機械。割れた窓。

 長い間、誰にも使われていない空間。

「ここで能力の練習をした。もっとちゃんと制御できれば、何か変わるかもしれないと思った」

 重い物を動かせるようになれば、仕事で役に立てるかもしれない。

 細かく操れるようになれば、気味悪がられるだけの力ではなくなるかもしれない。

 誰かに必要とされるかもしれない。

「でも、無理だった」

 サカキの顔が歪んだ。

「何も変わらなかった」

 浮いていた鉄板が大きく揺れた。

「動かそうとしても、思った方向へ行かない。止めようとしても止まらない。イライラしたら、勝手に周りの物が動く」

 工場の奥で、大きな金属音が響いた。

「物が壊れて、音を聞いた誰かが通報して、警察が来た」

 サカキの声が次第に大きくなる。

「誰にも近づくなって言った。危ないから来るなって。なのに、誰も聞かなかった」

 危険な能力者が暴れている。

 廃工場を占拠している。

 周辺住民を脅かしている。

「それで、また化け物扱いだ」

「サカキさん」

「俺は何なんだよ!」

 サカキが叫んだ。

 その声に呼応するように、周囲の金属片が一斉に跳ね上がった。

「普通にもなれない!」

 工場の柱が軋む。

「強い能力者にもなれない!」

 天井の鉄板が大きく歪んだ。

「役に立たないのに、気味悪がられるだけだ!」

 サカキの目から、涙が流れた。

 本人は、それに気づいていないようだった。

「だったら、俺は何なんだよ!」

 叫びと同時に、工場全体が震えた。

 天井に残っていた大きな鉄板が固定具から外れ、マキバの頭上へ落下する。

「……っ!」

 マキバは咄嗟に身を縮めた。

 鉄板は、彼のすぐ横へ落ちた。

 凄まじい音が響き、床が揺れる。錆と埃が舞い上がり、視界が一瞬、茶色く濁った。

 外から、ヤマナシがマキバの名前を叫んだような気がした。

 それでも、マキバは動かなかった。

「……僕も」

 マキバは、落下した鉄板の脇でゆっくりと立ち上がった。

 舞い上がった埃が喉に入り、何度か咳き込む。頬の傷から流れた血が、顎の先まで伝っていた。

 それでも、サカキから目を逸らさなかった。

「僕も、自分が何なのか、よくわかりません」

 サカキの荒い呼吸が、わずかに止まった。

「……お前が?」

「はい」

「お前には、あいつらみたいな力があるんだろ」

「ありません」

 マキバは静かに首を横へ振った。

「僕の能力は、声を聞くことです」

「声……?」

「心の声みたいなものです」

 サカキの眉がわずかに動く。

 周囲に浮かんだ金属片は、まだ不安定に震えていた。だが、先ほどまでのように、今にもマキバへ飛びかかってきそうな勢いは失われている。

「相手が口に出していないことが、少しだけ聞こえます。何もかもわかるわけではありません。考えていることを、自由に読めるわけでもないんです」

 マキバは自分の胸元へ手を当てた。

「強い感情だけが、断片になって流れ込んでくることがあります。苦しいとか、怖いとか、助けてほしいとか。言葉にならないものまで聞こえることもあります」

「……それで、俺の考えてることもわかるのか」

「全部はわかりません」

「じゃあ、何が聞こえた」

 マキバはすぐには答えなかった。

 サカキの中から流れ込んでくる感情は、あまりにも絡まり合っていた。

 怒り。恐怖。諦め。憎しみ。

 誰かを傷つけたいという衝動と、誰にも傷ついてほしくないという願い。

 消えてしまいたいという思いと、それでも誰かに見つけてほしいという声。

「苦しい、という声です」

 マキバは答えた。

「来るなと言いながら、助けてほしいとも思っている」

 サカキの顔が引きつった。

「勝手なことを言うな」

「すみません」

「謝ればいいと思ってんのか」

「思っていません」

 マキバは小さく息を吐いた。

「ただ、僕の能力はそれだけなんです」

 自嘲するように、わずかに笑う。

「便利な能力じゃありません。相手を倒せるわけでもない。攻撃を防げるわけでもない。誰かを抱えて逃げることもできません」

 トンダのように空間を移動することはできない。

 カモイのように圧倒的な力で敵を押さえつけることもできない。

 マチヤのように光で何もかも消し飛ばすことも、モテギのようにあらゆる物質をすり抜けることも、ナガヤマのように複数の物体を精密に操ることもできない。

「ただ、苦しんでいる声が聞こえるだけです」

「……」

「聞こえるのに、何もできない」

 マキバの声が、わずかに沈んだ。

「この一カ月で、たくさん聞きました」

 ――助けてほしい。

 ――見捨てないでほしい。

 ――怖い。

 ――死にたくない。

 そんな声が、何度もマキバの中へ流れ込んできた。

「でも、僕は何もできませんでした」

 目の前で誰かが傷つけられても、立ち尽くしていた。

 言葉をかけようとした時には、すでに決着がついていた。

 声は途切れ、報告書には「解決」と記された。

「僕は、聞いていただけです」

 マキバはサカキをまっすぐ見た。

「だから今日は、聞いて終わりにしたくないんです」

 サカキの目が細くなる。

「……何をする気だ」

「あなたに、生きてほしいです」

「何で?」

 問い返す声には、怒りよりも戸惑いが混じっていた。

「俺のことなんか、何も知らないだろ」

「はい」

「誰かを傷つけたかもしれない」

「確認します」

「この工場だって壊した」

「弁償しなければならないかもしれません」

「俺はまた暴走するかもしれない」

「その時は、また誰かが止める必要があります」

「簡単に言うなよ」

「簡単だとは思っていません」

「じゃあ、またお前が来るのか」

 サカキは、試すように尋ねた。

 マキバは少し考えた。

 できもしない約束をするべきではない。

 だが、逃げるような答えも言いたくなかった。

「……来られるなら」

 マキバは言った。

「来ます」

「……」

「僕が、そうしたいからです」

 それは正義でも、使命感でもなかった。

 正しいことをしているという確信もない。

 ただ、ここでサカキを見捨てたくない。

 今、目の前にいる人間に死んでほしくない。

 それだけだった。

 長い沈黙が訪れた。

 割れた窓の向こうで、風が鳴っている。

 遠くから、パトカーのサイレンが聞こえた。まだ小さいが、少しずつこちらへ近づいている。

 サカキの周囲に浮いていた金属片が、一つ、また一つと床へ落ち始めた。

 ――カラン。

 錆びたボルトが転がる。

 ――カン。

 スパナが黒い水溜まりの中へ落ち、濁った飛沫を上げる。

 折れたパイプも、鋸も、鉄板も、次々と力を失っていった。

「……投降したら」

 サカキが呟いた。

 声は、先ほどまでとは比べものにならないほど弱かった。

「殺されないのか」

「僕が保証します」

 マキバは即座に答えた。

 サカキは怪訝そうに顔を上げる。

「お前に、そんな権限があるのか」

「ありません」

「ないのかよ」

「はい」

 サカキの口元が、わずかに引きつった。

「じゃあ、保証できないだろ」

「それでも、言います」

 マキバは一歩だけ前へ進んだ。

 サカキの身体がわずかに強張ったが、攻撃はしてこなかった。

 マキバはそこで立ち止まる。

「同僚たちにも、警察にも、あなたを殺さないでほしいと言います」

「それで通るのか」

「わかりません」

「さっきから、わからないことばっかりだな」

「すみません」

 サカキの口元から、小さな笑いが漏れた。

 今度の笑いは、壊れた機械の音ではなかった。

 ほんのわずかではあるが、人間らしい温度を帯びていた。

「変な奴」

「よく言われます」

「それも言われるのか」

「最近は特に」

 マキバが答えると、サカキはしばらく彼の顔を見つめた。

 やがて、力なく天井を仰いだ。

「……疲れた」

「はい」

「もう、疲れた」

「はい」

 マキバは否定しなかった。

 頑張れとも、まだやり直せるとも言わなかった。

 ただ、その言葉を受け止めた。

「俺は……」

 サカキの喉が小さく動いた。

「死にたかったのかもしれない」

 その言葉に、マキバの胸が強く締めつけられた。

 夕暮れの屋上。冷たいフェンス。沈んでいく太陽。

 死にたいわけではない。

 ただ、消えてもいいのではないかと思っていた自分。

「でも……」

 サカキは、ゆっくりと両手を下ろした。

 最後まで宙に残っていた小さなナットが、乾いた音を立てて床へ落ちた。

「殺されたくはない」

「……はい」

「変だな」

 サカキは笑おうとした。

 だが、その前に涙が頬を伝った。

 本人は、自分が泣いていることに気づいていないようだった。

「変じゃないと思います」

 マキバは静かに言った。

 死にたいと思うことと、殺されたくないと思うことは、矛盾しているようで、きっと矛盾していない。

 生きることに疲れても、痛みが怖くなくなるわけではない。

 消えたいと思っても、誰かに消されたいとは限らない。

 サカキは顔を伏せた。

「俺、どうすればいい?」

「外に出ましょう」

 マキバは言った。

「一緒に」

 サカキはすぐには動かなかった。

 床へ落ちた工具を見つめ、崩れた機械を見つめ、最後に工場の出口へ目を向ける。

 外から差し込むわずかな光が、歪んだシャッターの隙間に細い道を作っていた。

 長い迷いの末、サカキは小さく頷いた。

 マキバは手を差し出しかけた。

 だが、途中でやめた。

 今は無理に触れるべきではないと思った。

 手を下ろし、代わりにサカキへ背を向けないよう注意しながら、少し先へ進む。

「こっちです」

 サカキは、崩れそうな足取りで歩き出した。

 何度かよろめきながら、それでもマキバの後をついてきた。


 歪んだシャッターの隙間をくぐり、廃工場の外へ出た。

 途端に、冷たい風が頬を撫でた。

 油と錆の匂いがこもった工場内に比べれば、曇天の下の空気でさえ澄んで感じられた。マキバは無意識に大きく息を吸う。張りつめていた胸が、ようやく少しだけ緩んだ。

 破れたフェンスの前に、ヤマナシが立っていた。

 腕を組んではいたものの、落ち着かない様子で何度も工場の入口を見ていたらしい。マキバの姿を認めた瞬間、その肩から目に見えて力が抜けた。

 その隣には、いつの間にかトンダがいた。

 黒縁の眼鏡に、乱れのないスーツ姿。周囲には複数の警察車両が停まり、制服姿の警察官たちが慌ただしく動き回っている。それでもトンダだけは、いつもの事務所にいる時と変わらない、穏やかな表情を浮かべていた。

 ヤマナシはマキバを見て、それから、その後ろをふらつきながら歩いてくるサカキを見た。

 目を大きく見開く。

「え?」

 マキバとサカキを何度も見比べた。

 サカキの両手には何もない。周囲に金属片も浮いていない。抵抗する様子もなく、疲れ切った顔でマキバの後ろを歩いている。

「どうしたの?」

 ヤマナシの問いには、驚きよりも困惑が強く滲んでいた。

「なんか……」

 マキバは自分でもうまく説明できず、困ったように笑った。

「話してたら、投降してくれた」

 ヤマナシは、しばらく口を開けたまま動かなかった。

「……は?」

「警察、呼んでもらえる?」

「いや、もういるけど……」

 ヤマナシは周囲の警察官を指さした。

 どうやら、マキバが工場へ入っている間に到着していたらしい。

 それでも、まだ信じられないような顔でサカキを見る。

「マジで?」

「うん」

「殴った?」

「殴ってない」

「じゃあ、能力を使った?」

「使ったというか……話しただけ」

「話しただけで?」

「うん」

 ヤマナシは呆然とマキバを見つめた。

 やがて、理解を諦めたように顔をしかめる。

「気持ち悪……」

「ひどいな」

 その時、乾いた拍手の音が響いた。

 ――ぱちぱち。

 曇り空の下、妙に間の抜けた音が敷地に広がる。

 拍手していたのはトンダだった。

「ほう、それは素晴らしい」

 彼は心から感心したような顔で言った。

「暴走中の能力者を、傷つけずに投降させましたか」

 マキバはトンダへ向き直った。

「トンダさん」

「はい」

「この人を殺さないでください」

 マキバは冗談も曖昧さも許さないつもりで、まっすぐにトンダを見た。

 トンダはわずかに目を細めた。

 それから、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。

「もちろんです」

「本当ですか」

「本当ですよ」

 トンダは静かに答えた。

「投降し、すでに抵抗する意思を失った相手を殺す理由はありません」

 マキバはなおもトンダの顔を見つめていた。

 嘘をついているようには見えない。

 もっとも、この男が本気で何を考えているのか、マキバにはまだよくわからなかった。

 サカキもまた、警戒を解いてはいなかった。

 怯えと不信を滲ませた目で、トンダを睨んでいる。

 トンダはその視線を正面から受けても、表情を変えなかった。

「サカキリョウさんですね」

「……」

「あなたの身柄は警察へ引き渡します」

 トンダは事務的な口調で告げた。

「器物損壊や、その他の被害については、今後調査されるでしょう。罪に問われる可能性もあります」

 サカキの顔がわずかに強張る。

「ですが、あなたは生きています」

 トンダはマキバへ視線を移した。

「そのことについては、マキバくんに感謝するといい」

 サカキは答えなかった。

 数人の警察官が慎重に近づいてくる。サカキは彼らの姿を見ると、反射的に身体を強張らせた。

 だが、もう何も飛ばなかった。

 警察官に促され、サカキはマキバの横を通り過ぎる。

 その瞬間、立ち止まらないまま、小さく呟いた。

「ありがとう」

 かすれた声だった。

 けれど、はっきりと聞こえた。

 心の中から流れ込んできた声ではない。

 サカキ自身が口にし、マキバの耳へ届いた言葉だった。

 マキバは何も返せなかった。

 ただ、その背中を見送った。

 警察官たちがサカキを取り囲む。一人が慎重に両腕を取り、手錠をかけた。金属の噛み合う音が、小さく響く。

 サカキは抵抗しなかった。

 俯いたまま、警察車両の方へ歩いていった。

 その姿が遠ざかってからも、ヤマナシはまだ納得できないような顔をしていた。

「本当に大丈夫だったの?」

「うん」

「本当に?」

「たぶん」

「たぶんじゃないだろ」

 ヤマナシは苛立ったようにマキバへ近づいた。

「怪我は?」

「頬を少し切ったくらい」

「どこ?」

「大丈夫だよ」

「いいから、見せな」

 有無を言わせない口調だった。

 ヤマナシはマキバの顎へ手を添え、強引に顔を横へ向けた。

 指先が頬の近くへ触れる。

 鉄片がかすめた傷には、すでに血が乾きかけていた。

 ヤマナシは眉間に深い皺を寄せる。

「血、出てるじゃん」

「少しだけだよ」

「少しでも傷は傷だろ」

 吐き捨てるように言いながら、ヤマナシは上着のポケットを探った。

 取り出したのは、小さな絆創膏だった。

「持ってるんだ」

「悪いか」

「いや、助かる」

「動くなよ」

 ヤマナシは包装を乱暴に破いた。

 しかし、傷口の周囲についた血をハンカチで拭う手つきは、思いのほか丁寧だった。

「ちょっと染みるから」

「うん」

「動くなって言ってんだろ」

「まだ動いてないよ」

「喋るな」

 ヤマナシは苛立った顔のまま、マキバの頬へ絆創膏を貼った。

 指先で端を押さえ、剥がれないことを確かめる。

「ありがとう」

「別に」

 ヤマナシはすぐに顔を背けた。わずかに耳が赤くなっている。

 その様子を、トンダは少し離れた場所から楽しそうに眺めていた。

「ヤマナシさん」

「何ですか?」

 ヤマナシは露骨に不機嫌な声で返した。

「一緒に来てよかったですね」

「何がですか」

「マキバくんの手当てもできましたし」

 ヤマナシはトンダを睨んだ。

「本当に危なかったら、どうするつもりだったんですか?」

「もちろん、僕が入りました」

 トンダは平然と答えた。

「……は?」

「マキバくんの命が危険だと判断した時点で、僕が介入するつもりでした」

「それ、最初から言ってくださいよ」

「先に言ってしまうと、マキバくんが僕を頼りにしてしまうでしょう」

 トンダは穏やかに微笑んだ。

「自分が失敗しても、最後には僕が助けてくれると思ってしまう。それでは、本人の力を十分に引き出せません」

「最低だな」

 ヤマナシは心底軽蔑したように吐き捨てた。

 トンダは、まったく気にした様子を見せなかった。

「ですが、彼なら大丈夫だと思っていました」

「何を根拠に?」

「根拠はありません」

「は?」

 ヤマナシの声が一段低くなった。

 トンダは真面目な顔で続ける。

「彼を初めて見た時、ビビッと来たんですよね」

 そして、マキバへ視線を向けた。

「こいつは凄い奴だ、と」

「直感だけで人を死地に送るな」

「僕は、意外と直感を重視するんです」

「意外じゃなくて、ただの無責任だろ」

 ヤマナシは深いため息をついた。

 言い争うだけ無駄だと悟ったらしい。

 それから、頬に絆創膏を貼ったマキバを見た。

「アンタ、本当に変なところに来ちゃったね」

 マキバは廃工場を振り返った。

 歪んだシャッター。ひび割れた壁。

 警察車両へ連れていかれるサカキの背中。

 そして、隣で不機嫌そうに立つヤマナシと、相変わらず穏やかに笑っているトンダ。

「それは、まあ……」

 マキバは苦笑した。

 否定はできなかった。


 事務所へ戻ると、全員が待っていた。

 いや、待っていたと言っていいのかは、少し疑わしい。

 カモイは椅子に深く腰掛け、優雅に足を組んでコーヒーを飲んでいた。こちらを心配していた様子は微塵もない。

 マチヤは自分の机で菓子の袋を抱え、頬を膨らませている。

 モテギは、なぜか部屋の隅でスクワットをしていた。

「百二十一!百二十二!」

 緊急任務へ送り出した同僚の帰還を待つ者の姿には、とても見えない。

 ナガヤマだけは、落ち着かない様子で何度も入口へ視線を向けていた。ただし、待っていたのはマキバではないらしい。

 トンダが事務所へ入った瞬間、彼女の目が明らかに輝いた。

「トンダさん……おかえりなさい……」

「ただいま、ナガヤマさん」

 トンダは穏やかに答えた。

 ナガヤマは、その一言だけで今日一日の目的を達成したような顔になった。頬を緩ませ、満たされたように両手を胸元で組んでいる。

 ――怖い。

 マキバはそう思ったが、口には出さなかった。

「……で?」

 カモイがコーヒーカップを机へ置き、マキバを見た。

「どうだったのよ」

「投降してもらいました」

 マキバが答えると、事務所の中が一瞬だけ静まり返った。

 モテギも、スクワットの途中で動きを止める。

「は?」

 カモイが眉をひそめた。

「投降?」

「はい」

「殺してないの?」

「殺してません」

 カモイは心底つまらなそうな顔をした。

「ぬるいわねえ」

 椅子の背にもたれ、足を組み直す。

「殺せば早いのに」

「何でもかんでも殺して解決するのは……」

 ナガヤマが小さく呟いた。

「野蛮だし、頭が悪いですよ……」

「ああ!?」

 カモイが勢いよく立ち上がった。

「ナガヤマ!アンタ、今なんつった!?」

「何も言ってません……」

「言ったでしょ!」

 二人が睨み合う横をすり抜け、マチヤが目を輝かせながらマキバへ駆け寄ってきた。

「マキバくん、すごーい!」

「いや、そんな大したことは……」

「話しただけで終わったんでしょ?」

「一応は」

「すごいじゃん!」

 マチヤは本気で感心したように何度も頷いた。

「私、話してる途中で飽きちゃうもん!」

「それは自慢することじゃないと思います」

「そうなの?」

「たぶん」

 その後ろで、モテギが胸を張った。

「やはり、私の目に狂いはありませんでしたね!」

「モテギさん、何か見抜いていたの?」

「はい!」

 モテギは迷いなく答えた。

「マキバさんは、何かをやる人だと思っていました!」

「何かって?」

「何かです!」

「ずいぶん曖昧だね」

「直感です!」

 力強く言い切った。

「この職場、直感で動く奴が多すぎるだろ……」

 ヤマナシがぼそりと呟いた。

 彼女は戻ってきてからも、まだ少し不機嫌そうだった。椅子にも座らず、腕を組んだままマキバの顔をじっと見ている。

「マキバ」

「何?」

「本当に大丈夫?」

「大丈夫だよ」

「無理してない?」

「してない」

「本当に?」

「本当に」

 マキバは少し笑った。

「ありがとう。ヤマナシさんは本当に優しいね」

 次の瞬間、ヤマナシの顔が一気に赤くなった。

「だから違うって!」

 机を勢いよく叩く。

 伏せてあったスマートフォンが、小さく跳ねた。

「普通!普通の確認!同僚が死んだら後味が悪いから聞いただけ!」

「うん」

「勘違いするな!バカ!」

「いや、勘違いはしてないけど」

「うるさい!」

 ヤマナシは顔を背けた。

 耳まで赤くなっている。

「ヤマナシちゃん、また照れてるー」

 マチヤが楽しそうに笑った。

「照れてない!」

「顔、真っ赤だよー」

「暑いだけ!」

「エアコンついてるよ?」

「うるせえ!」

 事務所が一気に騒がしくなる。

 カモイはナガヤマを追い回し、ナガヤマは机の陰へ逃げる。モテギは二人を止めようとして、なぜかさらに声を張り上げている。マチヤは面白がって笑い、ヤマナシは全員に向かって静かにしろと怒鳴っている。

 いつもの特殊対策室だった。何も変わっていないはずだった。

 それなのに、今日のマキバには、その騒がしさが少しだけ違って聞こえた。

 ――人が死ななかった。

 たったそれだけのことだった。

 だが、そのたった一つが、これまでとは決定的に違っていた。

 助けを求めていた声は、途中で途切れなかった。

 その事実が、狭く息苦しい事務所の空気を、ほんの少しだけ軽くしているように思えた。

 トンダは騒ぎの輪から離れ、自分のデスクへ戻った。

 椅子に腰掛け、机の隅に置かれていた奇怪なぬいぐるみを両手で持ち上げる。

 星形の眼鏡を掛けた、何の生き物を模しているのかわからないぬいぐるみ。

 キョウコ。

 彼の妻。

 トンダは、誰にも聞こえないほど小さな声で言った。

「やっぱり、オレの見込みは正しかったようだ」

 いつもの丁寧な口調ではなかった。

 彼は、ぬいぐるみの頭を指先でそっと撫でた。

「なあ、キョウコ?」

 ぬいぐるみは、もちろん答えなかった。

 短い手足も、星形の眼鏡も、妙に堂々とした口元も、まったく動かない。

 それでもトンダは、まるで何か返事を聞いたかのように静かに微笑んだ。

 その横顔を、マキバは偶然見てしまった。

 ぞっとするほど優しい笑みだった。

 戦場でためらいなく人を殺す男と、同じ人間が浮かべる表情とは思えなかった。

 あまりにも柔らかく、あまりにも深い愛情を含んだ顔だった。

 この人は、いったい何なのだろう。

 マキバは思った。

 圧倒的に強い者。

 弱い者を殺す者。

 誰かを導く者。

 人の命を駒のように扱う者。

 死んだ妻を、今も生きていると信じる者。

 狂っている者。

 もしかすると、そのすべてなのかもしれない。

 では、自分は何なのだろう。

 自分は、この場所で何になっていくのだろう。

 誰かの声を聞くだけの人間なのか。

 声を聞きながら、何もできずに見送る人間なのか。

 それとも、いつかトンダたちのように、誰かを殺すことを当然だと思うようになるのか。

 答えは、まだわからなかった。

 けれど、一つだけ、一カ月前とは違うことがあった。

 ――今日、声は消えなかった。

 苦しみは聞こえた。助けを求める叫びは、確かにマキバへ届いた。

 そして、その声の主は、今も生きている。

 警察に連れていかれ、これから罪を問われる。

 すべてが解決したわけではない。

 サカキの人生が、明日から急に良いものへ変わるわけでもない。

 ――それでも、生きている。

 それだけで、マキバは少しだけ息がしやすくなった。

 特殊対策室の窓の外では、夕日が沈みかけていた。

 一カ月前と同じような、嘘くさいほど綺麗な夕暮れだった。

 茜色の光が、雑居ビルの間を通り抜け、事務所の床へ細長く差し込んでいる。

 世界は、相変わらず狂っている。

 強い者は強いまま。弱い者は弱いまま。

 力のない者の声は簡単に無視され、踏み潰され、なかったものにされる。

 それでも、マキバダイスケは今日初めて、自分がこの場所にいる意味を、ほんの少しだけ見つけた気がした。

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