第1話 ようこそ、特殊対策室へ
四月の夕暮れは、どこか嘘くさい。
まだ冬の名残を引きずった風の中に、春という言葉だけが先走るような、浮ついた熱が混じっている。
駅前の通りには、真新しいスーツに着られた若者たちが歩いていた。慣れない革靴でぎこちなく足を運ぶ者。立ち止まるたびに、鞄の中の名刺入れを確かめる者。大学生らしき集団は、これから始まる生活に何の疑いも抱いていないような声で笑い合っている。
店先には新生活を祝う色鮮やかな広告が並び、街路樹にはまだ頼りない若葉が芽吹いていた。行き交う人々は皆、年度のはじまりという見えない力に背中を押され、昨日までとは違う自分になったような顔をしている。
世界は、何事もなかったかのように更新されていた。
だが、雑居ビルの屋上に立つ青年、マキバダイスケにとって、それは自分とは関係のない季節だった。
錆の浮いたフェンスの向こうで、夕日がゆっくりと傾いている。赤みを帯びた光が無数の窓ガラスに反射し、灰色の街を薄い炎のように染めていた。遠くに並ぶビルの輪郭は霞み、空の端では、青と橙色が溶け合いながら夜へと沈みかけている。
屋上には、古びた給水塔と、使われなくなった室外機がいくつか置かれていた。風が吹くたび、どこかの看板がかすかに軋む。足元のコンクリートには細い亀裂が走り、その隙間から名も知らない雑草が生えていた。
マキバは、その景色をただ眺めていた。
水晶のように透き通った瞳に、夕焼けが映り込んでいる。
澄みきった、あまりにも美しい目だった。しかし、その奥には、夕日の色も熱も届いていなかった。
美しいものを美しいと感じる心は、まだ残っている。
空が赤いことも、雲の縁が金色に光っていることも、街が普段より少しだけ穏やかに見えることもわかる。綺麗だと思う。できることなら、もう少し眺めていたいとも思う。
けれど、その美しさが、自分をこの世界へ引き止める理由になるかと問われれば、答えは曖昧だった。
死にたい、というほど強い言葉ではない。
そこまで切実ではなく、そこまで劇的でもない。
ただ、自分がここから消えてしまっても、それほど困る者はいないのではないか。
明日の朝、自分が目を覚まさなくても、世界は今までと変わらず動き続けるのではないか。
そんな考えが、夕暮れの風のように、形を持たないまま何度も頭の中を通り過ぎていく。
地上からは、車の走る音が聞こえた。信号が変わるたび、エンジン音が重なり合う。誰かが笑っている。店先の呼び込みの声や、自転車のベルの音も聞こえる。
ビルの隙間を縫うように、夕方の街の匂いが上がってきた。排気ガス。油の焦げる匂い。どこかの飲食店から漂う出汁の香り。人々が今日という一日を終え、また明日へ向かうための匂いだった。
人間は、どうしてあんなに当然のように生きていられるのだろう。
どうして明日が来ることを疑わず、次の予定を立てられるのだろう。
マキバはフェンスへ歩み寄った。
そして、細い指を金網にかける。
指先に、冷たい金属の感触が伝わった。春になったとはいえ、日陰にあった鉄は冬のような冷たさを残している。掌に力を入れると、フェンスがわずかに軋んだ。
その時だった。
「君、僕の事務所に入りませんか?」
穏やかな男の声がした。
マキバは顔を上げた。
目の前に、男がいた。
つい先ほどまで、そこには誰もいなかった。
屋上へ続く扉が開く音もなかった。階段を上ってくる足音も、靴底がコンクリートを踏む音もなかった。風の流れが乱れた気配すらない。
それなのに男は、フェンスの外側に立っていた。
まるで、最初からそこにいたかのように。
年齢は三十代前後程度だろうか。黒縁の眼鏡をかけ、きちんと整えられた髪に、皺のないスーツ。姿勢はよく、口元には人当たりのよさそうな笑みが浮かんでいる。
街で見かければ、役所の職員か、法律事務所に勤める実直な会社員に見えただろう。少なくとも、人を驚かせるような要素はどこにもない。
ただし、何の前触れもなく屋上に現れたという一点を除けば。
マキバは、男の姿を見つめた。
驚きはした。だが、悲鳴を上げるほどではなかった。
男が歩いてここまで来たのではないことは、すぐに理解できた。
空間を飛び越えたのだ。
二つの場所を隔てる距離そのものを無視し、ほんの一瞬で、この屋上へ移動してきた。
そんな異様な男から唐突に誘われれば、普通は困惑する。相手の素性や目的を問い、警戒するのが当然だろう。
だが、マキバは違った。
「ハイ」
迷うことなく即答した。
男の穏やかな笑顔が、初めてわずかに崩れた。
「……えっ?」
「入ります」
「いや、待ってください」
男は困惑したように片手を上げた。
「何の前触れもなく現れた知らない男が、わけのわからない誘いをしているんですよ。普通、もう少し警戒しませんか?」
「警戒した方がいい相手なら、もう遅いと思ったので」
男は、眼鏡の奥で一度瞬きをした。
「……なるほど」
確かにその通りだ、とでも言いたげに小さく頷いた。
「それに……」
マキバはフェンスから手を離した。
冷えた指先を下ろし、夕日から男へと視線を移す。
「そうすべきだと思いました」
「そうすべき?」
「ハイ」
理由を問われても、うまく説明できる気はしなかった。
男の誘いに魅力を感じたわけではない。事務所が何をする場所なのかも聞いていない。給料も、勤務条件も、仕事内容も知らない。
それでも、この男についていくべきだと思った。
理屈ではない。
目の前に一本だけ差し出された道を、考えるより先に選んでしまった。その選択が正しいのだと、心のどこかが静かに告げていた。
男は、しばらくマキバを見つめていた。
人当たりのよい笑みは消えていない。だが、その視線だけがわずかに変わっていた。
観察するような目だった。
値踏みというほど露骨でも、下品でもない。外見や能力を評価しているのではなく、言葉の裏側に隠れたものまで測ろうとしているような視線だった。
マキバは、その目を黙って見返した。
「……面白いですね」
やがて男は、再び穏やかに笑った。
「僕はトンダユウイチといいます。小さな事務所をやっています」
「トンダユウイチ……」
マキバは、その名を確かめるように繰り返した。
男――トンダユウイチは、わずかに首を傾げる。
「ん?僕のことを知っているんですか?」
「……ええと、まあ、いちおう」
「おや」
トンダは、わざとらしく眉を上げた。
「有名人でしたか、僕は」
「国内最強の特殊能力者……ですよね」
マキバは淡々と答えた。
「特殊能力者による犯罪や暴走事件を、何件も解決してきた人。数年前には、一つの都市を消滅させかけた特殊能力者を止めた」
「止めた、というより、殺したんですけどね」
トンダユウイチは、天気の話でもするように言った。
その口調にも表情にも、罪悪感らしきものは浮かんでいなかった。
「まあ、そのあたりは報道だと綺麗に処理されます。殺したと言うより、止めたと言った方が聞こえはいい。世の中、言葉の選び方一つで、受ける印象がずいぶん変わりますから」
マキバは何も答えなかった。
トンダユウイチ。
特殊能力者という存在が一般社会に認知されて以来、彼の名を知らない者は少ない。
人間の中に、ある日突然、通常の物理法則から外れた力を持つ者たちが現れた。
何もない空間から火を生み出す者。
手を触れずに物を浮かせる者。
壁や地面をすり抜ける者。
他人の心を読む者。
離れた空間を一瞬で移動する者。
その力がなぜ生まれたのか、何によって人間に宿るのか、明確な答えは出ていない。
世界は最初、彼らを奇跡と呼んだ。
人類の可能性。新たな進化。神から与えられた力。そんな希望に満ちた言葉が、新聞やテレビを飾った。
次に、脅威と呼んだ。
一人の人間が銃火器を上回る力を持ち、街を焼き、建物を壊し、何十人もの命を奪う事件が起きた。特殊能力者を恐れる声が広がり、彼らを隔離すべきだと主張する者も現れた。
そして最後に、管理対象と呼んだ。
能力の登録制度が作られた。監視するための組織が設立された。危険性や有用性によって人間を分類する仕組みが整えられ、特殊能力者は社会に受け入れられると同時に、社会の中へ囲い込まれていった。
強い特殊能力者は畏怖され、利用され、ときには英雄として祭り上げられる。
国家に協力し、人々を救い、派手な戦果を挙げれば、その名は賞賛とともに語られる。
一方で、弱い特殊能力者は気味悪がられた。
役に立たない力。ただ人と違うだけの力。本人にも制御できない力。その存在を理由に職場や学校から追い出され、住む場所を失う者もいた。
力があるから恐れられるのではない。
使い道のある力だけが評価され、使い道のない力は異物として排除される。
そんなねじれた社会の中で、トンダユウイチは、圧倒的な力を持つ側の象徴だった。
「僕の事務所は『特殊対策室』といいます」
トンダは、自分の名刺でも差し出すような気軽さで言った。
「特殊能力者によるトラブルの解決を、専門に請け負っています」
「民間の対能力者処理機関、ですよね」
「処理という言い方は物騒ですね」
トンダは苦笑し、軽く肩をすくめた。
「まあ、間違ってはいませんが……」
特殊対策室。
国や警察が表立って対応しづらい特殊能力者の事件を、金銭と引き換えに解決する民間組織。
暴走した能力者の制圧。犯罪者の捕縛。危険人物の監視。場合によっては、対象の殺害。
善悪ではなく依頼によって動く、特殊能力者専門の処理屋。
マキバが知っているのは、その程度だった。
「ちょうどスタッフを探していたんです」
トンダは続けた。
「今、女性しかいないので、男性が入ってくれると助かりますよ」
「それは……力仕事とかですか?」
「いえ」
トンダは、どこまでも爽やかな笑顔で答えた。
「空気の問題です」
マキバは少し考えた。
しかし、どういう意味なのかは、よくわからなかった。
「では、行きましょうか」
「どこへ?」
「事務所です。このビルの三階ですよ」
トンダは、まるで近所へ散歩にでも誘うように言った。
「君がここにいたのも、何かの縁でしょう」
マキバは屋上の扉へ視線を向けた。
ここから三階までなら、階段を下りればすぐだ。そう考え、扉へ向かおうとする。
だが、トンダはその場で片手を上げた。
そして、指を軽く鳴らした。
乾いた音が、夕暮れの屋上に響く。
その瞬間、マキバの視界が裏返った。
上下も左右もわからなくなるような、奇妙な感覚だった。
足元のコンクリートが消える。
夕焼けも、フェンスも、屋上を吹き抜けていた風も、何の余韻も残さず途切れた。
身体が落ちたわけでも、持ち上がったわけでもない。移動したという感覚すらない。ただ、世界だけが一瞬で別のものに置き換わった。
次の瞬間、マキバは古びた事務所の前に立っていた。
目の前には、くすんだ色の扉がある。
その中央に、白いプレートがかかっていた。
『特殊対策室』
黒い文字は少し掠れており、端には細かな傷がついている。
思っていたより、ずっと地味だった。
国家機関のような厳重な警備設備もなければ、最新機器の並ぶ研究施設でもない。
幅の狭い廊下。湿気を吸って変色した壁。ところどころ剥がれかけた壁紙。天井の蛍光灯は白く瞬き、低い機械音を立てている。
窓はなく、空気には古い建物特有の、埃と湿気が混じった匂いが漂っていた。
国内最強の特殊能力者が構える事務所とは思えない。
どこにでもある雑居ビルの、どこにでもありそうな一室だった。
トンダは何のためらいもなく、事務所のドアを開けた。
蝶番が、かすかに軋んだ音を立てる。
「みなさん、新人です」
世間話でも始めるような気軽な声だった。
室内にいた五人の女性が、一斉に顔を上げた。
視線が、マキバへ集中する。
好奇心。警戒。無関心。値踏み。それぞれ種類は違うはずなのに、同時に向けられると、目に見えない圧力となって身体へ押し寄せてきた。
マキバは反射的に一歩後ろへ下がりそうになり、どうにか踏みとどまった。
事務所は、外から見た印象に違わず古びていた。
窓際には書類の積まれた机が並び、壁際の棚には分厚いファイルが無造作に押し込まれている。古いエアコンが低い音を立て、室内には紙と埃、それに誰かが飲んでいる缶コーヒーの匂いが混じっていた。
国内最強の特殊能力者が率いる組織の本拠地というよりは、経営状態の怪しい小さな事務所に見える。
「……ええと、マキバダイスケです。よろしくお願いします」
マキバは、わずかに声を硬くしながら自己紹介した。
誰もすぐには返事をしなかった。
最初に目に入ったのは、部屋の中央に陣取っている、小柄でふくよかな女性だった。
椅子の背もたれに深く身体を預け、太い腕を胸の前で組んでいる。短く整えられた髪。吊り上がった目。眉間には、普段からそこに刻まれているらしい深い皺があった。
マキバを見上げる顔には、歓迎の色がまるでない。
可愛げというものを人生のかなり早い段階で捨て、そのまま拾い直すことなく生きてきたような、堂々たるふてぶてしさがあった。
「なんか軟弱そうねー」
第一声がそれだった。
声には遠慮も配慮もなく、目の前に置かれた商品の品質を確認するような響きがある。
「アハハ!ヨシエさん、いきなり失礼すぎー!」
その隣で、ギャル風の女性が明るく笑った。
派手な色に染められた髪。耳元で揺れる大きなピアス。着崩した服装と、悪戯っぽく上がった口元。見た目だけなら、仕事より遊びを優先していそうな軽さがある。
だが、笑顔の奥には妙な圧があった。
気さくに見えるのに、どこまで近づいてよいのかわからない。無防備に見せかけて、決して隙を見せていないような、不思議な雰囲気だった。
「マキバくん、よろしくー!」
女性は、昔からの知り合いにでもするように手を振った。
さらに奥の机から、ボーイッシュな女性が勢いよく立ち上がった。
椅子が床を擦り、大きな音を立てる。
「モテギハナと言います!よろしくお願いします!」
声が大きかった。
狭い室内の空気が震え、机の上に置かれていたペンがかすかに転がったように見えた。
短い髪に、健康的な肌。姿勢は必要以上によく、引き締まった身体つきからは、じっと座って事務仕事をするより、身体を動かす方が性に合っていることが伝わってくる。
「声がでかい……」
窓際から、低く沈んだ声が聞こえた。
そこにいたのは、ひどく痩せた女性だった。
細い首。骨ばった肩。顔の半分を隠すほど長い前髪。その隙間から覗く目は落ち着きなく揺れ、何かに怯えているようにも、すべてを疑っているようにも見えた。
マキバを警戒しているのか。
それとも、この事務所を含めた世界そのものを警戒しているのか。
短く見ただけでは判断がつかなかった。
そして、もう一人。
部屋の隅に置かれた机で、小柄な女性が頬杖をついていた。
眼鏡の奥の視線は、手元のスマートフォンへ向けられている。画面の中では、色鮮やかな光が激しく明滅し、華美な衣装を着たキャラクターが敵を攻撃していた。
女性の指は忙しなく画面を叩き続けている。
マキバの方を見る気配は、まったくない。
――仕事中にゲームをしていてよいのだろうか。
入室して一分も経たないうちに、マキバはこの職場の根本に関わる疑問を抱いた。
「紹介しますね」
トンダは、室内に漂う微妙な空気などまるで気にしていない様子で言った。
まず、小柄でふくよかな女性へ手を向ける。
「こちらがカモイヨシエさんです。事務所の立ち上げ当時からいる最古参ですね」
「『お局』って言いたいなら、はっきり言いなさいよ」
カモイが低い声で言った。
「言ってませんよ」
「顔が言ってんのよ」
「それは気のせいです」
トンダは穏やかな笑顔を崩さず、まともに取り合わなかった。
カモイの眉間の皺が、一段深くなる。
続いて、トンダはギャル風の女性を示した。
「そして、マチヤユミさん」
「よろしくねー、マキバくん!」
マチヤは椅子の背もたれから身を乗り出し、楽しそうに笑った。
「困ったことがあったら、何でも聞いてね!答えられるかは別だけど」
「そこは答えてあげてください」
トンダが言う。
「無理なものは無理でしょ」
マチヤは悪びれることなく首を傾げた。
――おそらく、答えられない可能性の方が高い。
マキバは、何となくそう思った。
「では、こちらがモテギハナさん」
トンダは、ボーイッシュな女性へ手を向けた。
「はい!」
モテギは再び大声で返事をした。
「全力でサポートします!」
背筋をぴんと伸ばし、なぜか右手を額へ添えて敬礼する。
その表情は真剣そのものだった。
どうやら、冗談でやっているわけではないらしい。
「声量を半分にしてください」
窓際の痩せた女性が、またぼそりと言った。
「申し訳ありません!」
「だから、声がでかい……」
女性はうんざりしたように顔を伏せた。
トンダは、今度は彼女へ手を向ける。
「そして、こちらがナガヤマミナミさんです」
「あ……どうも……」
陰気そうな女性、ナガヤマは、長い前髪の向こうで視線を泳がせた。
一瞬だけマキバと目が合ったが、すぐに逸らされる。
彼女は椅子に座ったまま、申し訳程度に小さく頭を下げた。
「よろしくお願いします」
マキバも頭を下げる。
「……はい」
返ってきた声は、エアコンの音にかき消されそうなほど小さかった。
「……最後に」
トンダは、スマートフォンを操作し続けている女性を見た。
「ヤマナシアズミさんです。うちでは唯一の事務担当ですね」
「……」
ヤマナシは、ゲーム画面から目を離さなかった。
画面から放たれる派手な光が、絶え間なく鳴る効果音とともに、彼女の眼鏡へ反射している。
「ヤマナシさん」
「聞いてます」
「新人さんですよ」
「へー……」
関心の薄い返事だった。
「挨拶をしてください」
「よろしくお願いしまーす」
その声には、感情というものがほとんど含まれていなかった。
ゲーム内の台詞を読み上げる方が、まだ抑揚がありそうだった。
マキバは思わず苦笑しそうになり、どうにか口元を引き締めた。
この事務所は、何かがおかしい。
トンダユウイチという、国内最強と呼ばれる特殊能力者が率いる対能力者専門機関。
その名前から、マキバはもっと殺伐とした場所を想像していた。
武器や機材が整然と並び、屈強な能力者たちが緊張した顔で指示を待っている。そんな組織を、ぼんやりと想像していたのだ。
実態は、古びた雑居ビルの一室。
そして、互いに協調する気があるのかさえ疑わしい、癖の強すぎる女性たちの集まりだった。
「よろしくお願いします……」
マキバは改めて頭を下げた。
五人から返ってきた反応は、笑顔、無言、敬礼、会釈、スマートフォンの効果音だった。
顔を上げたマキバは、隣にいるトンダへ恐る恐る尋ねた。
「それで、僕はどうすれば……」
「ちょうどいい依頼があります」
トンダは、あまりにも自然な調子で言った。
「ビルに立てこもったテロ集団を何とかしてほしい、という案件です」
室内の空気は、何一つ変わらなかった。
カモイは腕を組んだまま。
マチヤは机の上にあった菓子の袋へ手を伸ばし、モテギは意欲に満ちた顔で拳を握っている。ナガヤマは憂鬱そうに俯き、ヤマナシはゲームを続けている。
その場で固まったのは、マキバだけだった。
「え?」
思わず、間の抜けた声が出た。
「見学に行きましょう」
トンダは言った。
近所の工場でも案内するような口調だった。
「いや、見学って……。テロ集団が立てこもっているんですよね?」
「そうですね」
「急いで出動した方がいいのでは?」
「大丈夫です。すぐに行けますから」
トンダは軽く指を動かした。
その仕草を見て、マキバは先ほど屋上からここへ移動した時の感覚を思い出す。
この男にとって、距離はほとんど意味を持たないのだ。
「せっかくですし、今日はみんなで行きましょう」
「いってらっしゃーい」
ヤマナシがスマートフォンを見たまま、空いている方の手を振った。
「君もですよ」
「え?」
ヤマナシが初めて画面から顔を上げた。
その瞬間、トンダが指を鳴らした。
乾いた音が室内に響く。
マキバの視界が、再び裏返った。
床を踏んでいた感触が消える。
蛍光灯の白い光も、古びたエアコンの音も、紙と埃の匂いも、一瞬にして途切れた。
胃のあたりが、ふわりと浮く。
自分の身体だけを残し、周囲の世界がすべて剥がれ落ちていくような、不安定な感覚だった。
次の瞬間、足元に硬いアスファルトの感触が戻った。
マキバは、夜の街に立っていた。
すぐそばには、トンダ、カモイ、マチヤ、モテギ、ナガヤマがいる。そして少し遅れて状況を理解したらしいヤマナシが、スマートフォンを握ったまま呆然と立ち尽くしていた。
いつの間にか日は沈み、空は黒に近い濃紺へと変わっている。
目の前には、何台もの警察車両が停まっていた。
赤色灯が絶え間なく明滅し、その光が周囲の建物や人々の顔を、血の色のように染めている。道路には規制線が張られ、その向こうでは警察官や特殊部隊らしき者たちが慌ただしく行き交っていた。
さらに離れた場所には、報道陣と野次馬が群がっている。
肩に大きなカメラを担ぐ者。マイクを握り、現場の状況を伝える者。規制線の向こうを少しでもよく見ようと、首を伸ばす者。
怒号と無線の声が重なり合い、空気には何かが焦げたような臭いが漂っていた。
現場の中心に建っているのは、十階建てほどのオフィスビルだった。
周囲の建物と比べて、特別目立つ外観ではない。だが、上層階の窓はいくつか割れ、鋭いガラス片が窓枠に残っていた。
そのうちの一つから、細い黒煙が夜空へ流れ出している。
割れた窓の奥は暗く、内部の様子はまったく見えなかった。
「はあ?私も?」
隣から、心底嫌そうなヤマナシの声が聞こえた。
彼女の手には、先ほどまで遊んでいたスマートフォンが握られている。画面には、戦闘の途中で停止したゲームが表示されたままだった。
「事務なのに?」
「せっかくですから、君も見学しなさい」
トンダは、警察車両の赤い光を浴びながら、爽やかに言った。
周囲を包む緊迫した空気と、その穏やかな笑顔は、まるで噛み合っていなかった。
「マキバくんとヤマナシさんは、僕たちの後ろにいてください」
「私は帰ってもいいですか」
「だめです」
「せめて、ゲームを保存させてください」
「後にしてください」
「最悪の職場だ……」
ヤマナシは、心の底からうんざりしたような声を漏らした。
制服姿の警察官が、規制線の向こうからトンダへ駆け寄ってきた。
年齢は四十代ほど。額には汗が浮かび、片手には無線機を握っている。トンダたちを待っていたのだろう。安堵と焦燥が入り混じった顔で、息を切らしながら口を開いた。
「トンダさん、現在、犯人グループは上層階を占拠しています。人質の正確な人数は確認できていませんが――」
トンダは軽く片手を上げ、説明を遮った。
「状況は把握しています」
「しかし、人質が――」
「大丈夫です。すぐに終わります」
穏やかな声だった。
落ち着かせようとしているというより、本当に何の問題もないと思っている者の声だった。
警察官の顔が、わずかに引きつる。何か言い返そうと唇を動かしたが、結局、言葉にはならなかった。
マキバは、赤色灯の向こうにそびえるビルを見上げた。
割れた窓から流れ出した煙が、夜の空へ細く溶けている。上層階の暗闇には、ときおり人影らしきものが動いた。内部に人質がいるのだと思うと、胸の奥が落ち着かなかった。
「あの……相手は、どんな人たちなんですか?」
トンダたちは、すでに正面玄関へ向かって歩き始めていた。
マキバも慌ててその後を追う。
「社会に不満を持つ、特殊能力者の集まりです」
トンダは前を向いたまま答えた。
「我々のように強い特殊能力者は、世間から畏怖されます。恐れられ、警戒され、利用される。都合のよいときには英雄として持ち上げられることもある」
ビルの正面には、爆発によって吹き飛ばされたらしいガラス扉の破片が散らばっていた。
靴底で踏むたび、硬く乾いた音が鳴る。
「ですが、弱い特殊能力者は違う。普通の人間からは気味悪がられ、強い特殊能力者からは役立たずと見下される」
「……弱いだけで?」
「人は、自分と違うものを嫌います。そして、違うものに価値がなければ、なおさら容赦がない」
トンダの口調は淡々としていた。
「力を持っているのに、力として認められない。異物として扱われるのに、脅威としてさえ見てもらえない。そうした人たちが行き場を失い、互いの不満だけを共有するようになると――たまに、爆発します」
「要するに、負け犬の寄せ集めでしょ」
カモイが鼻で笑った。
「こんなところで騒いでないで、さっさと掃除しましょ」
マキバは、その言葉に小さく眉を動かした。
――掃除。
人間に向ける言葉ではない。
しかし、誰もカモイを咎めなかった。トンダも、マチヤも、モテギも、ナガヤマも、その言葉を聞き慣れているような顔をしていた。
「では、行きます」
トンダを先頭に、特殊対策室の面々は正面玄関からビルへ入った。
警戒する様子も、突入前の打ち合わせもない。
相手の人数や配置を確認することもなく、武器を構えることすらない。ただ、近所の店へ昼食を買いに行くような足取りで、暗いロビーへ踏み込んでいく。
中の照明は、半分ほど消えていた。
残った蛍光灯が不規則に明滅し、ひび割れた床を青白く照らしている。ガラス片がいたるところに散らばり、壁には火炎を叩きつけたような黒い焦げ跡が残っていた。
天井のスピーカーからは、避難を促す警報音が繰り返し流れている。
焦げた建材と煙の匂いが鼻を刺した。
その奥――階段へ続く暗がりから、怒鳴り声が聞こえた。
「来たぞ!」
「撃て!撃てえ!」
直後、複数の光が闇を裂いた。
火球。
薄く湾曲した空気の刃。
床から剥がれ、弾丸のように飛来するコンクリート片。
青白い電撃に似た光。
いくつもの特殊能力が、ほとんど同時にトンダたちへ放たれた。
マキバは反射的に身をすくめ、腕で顔をかばった。
だが、衝撃は来なかった。
火球も、空気の刃も、無数の破片も、トンダへ届く直前で不自然に軌道を変えた。彼の身体だけを避けるように空間を滑り、背後の壁や床へ激突する。
爆音とともに火花が散った。
次の瞬間、攻撃を放った男たちの身体から、一斉に力が抜けた。
何が起きたのか、マキバには理解できなかった。
ただ、男たちが倒れた。
膝から崩れ、そのまま床へ転がっていく。
悲鳴はなかった。
頭部と胴体は、すでにつながっていなかった。
切断面から遅れて血が噴き出し、薄暗い階段と壁を赤く染めた。
トンダは何事も起こらなかったかのように、その傍らを歩いていく。
「空間を少しずらしました」
背後のマキバへ説明するように、静かに言う。
「首の部分だけを、身体が存在する空間から外したんです。見栄えはしませんが、時間もかかりませんし、確実です」
マキバの口の中が乾いた。
あまりにも簡単だった。
人間の命を奪ったというより、机の上の不要な書類を脇へ避けたようにしか見えなかった。
「次、私ね」
カモイがトンダの横を通り過ぎ、前へ出た。
階段の上から、さらに数人の男たちが飛び出してくる。
そのうちの一人が床へ両手をついた。
直後、ロビー全体が大きく揺れた。
床が傾いたわけではない。重力の向きそのものが、横へ倒れたのだ。
マキバの身体が激しくよろめき、壁へ引き寄せられる。ヤマナシが小さく舌打ちしながら、近くの柱へしがみついた。
「重力系?」
カモイは、傾いた世界の中で平然と立っていた。
むしろ、退屈そうに男を見上げる。
「薄いわね」
カモイが指をわずかに動かした。
空気が沈んだ。
次の瞬間、階段にいた男たちの身体が、すさまじい勢いで床へ叩きつけられた。
重い衝撃音が響き、階段の一部がひび割れる。
男たちは見えない巨人の掌で押さえつけられたように、床へめり込んでいた。骨が軋む鈍い音と、押し殺した呻き声が重なる。
立ち上がるどころか、指一本動かすこともできない。
「重力操作はね……」
カモイは、苦しむ男たちを見下ろした。
「こう使うのよ」
その声には、教え諭すような響きすらあった。
廊下の奥で、人影が動いた。
ナガヤマが、怯えたような顔のまま片手を上げる。
「あ、あの……すみません……」
誰に謝っているのかわからない。
彼女の周囲で、空気が水面のように歪んだ。
廊下の奥に潜んでいたテロリストたちが、見えない糸に引き上げられたように宙へ浮かぶ。
男たちは必死に手足を動かした。だが、身体は自分の意思から切り離されたように動かない。
腕が、ゆっくりと背中側へ捻られていく。
関節が本来曲がらない方向へ押し込まれ、手にしていた銃や刃物が床へ落ちた。
「やめ……やめろ……!」
「ごめんなさい……」
ナガヤマは目を伏せた。
その直後、男たちの身体が勢いよく壁へ叩きつけられた。
一度。二度。
最後に大きな音を立てて床へ落ち、それきり動かなくなった。
「ナガヤマちゃん、相変わらず陰湿ー」
マチヤが楽しそうに笑う。
「うるさい……」
ナガヤマは、消え入りそうな声で返した。
その間に、モテギはすでに走り出していた。
正面の壁に向かって、速度を緩めることなく突進していく。
「危な――」
マキバが声を上げる。
しかし、モテギの身体は壁に激突しなかった。
水面へ沈むように、何の抵抗もなくコンクリートの中へ消えていった。
数秒後、壁の向こう側から悲鳴が聞こえた。
短い叫び。
何かが倒れる音。
肉を強く打つような、湿った音。
やがてモテギは、入っていった場所とは少し離れた壁から、何事もなかったように姿を現した。
表情は、入っていく前と変わらず明るい。
だが、両手と前腕は、肘のあたりまで赤黒い血で濡れていた。
「お仕事完了です!」
モテギは元気よく報告した。
「な、何をしたんですか……?」
マキバの声は震えていた。
「いろいろです!」
モテギは爽やかに答えた。
その笑顔には、悪意も残酷さもない。
だからこそ、マキバはそれ以上尋ねることができなかった。
圧倒的だった。
特殊対策室の面々は強い。
だが、単に強いという言葉では足りなかった。
戦闘という土俵において、彼女たちは相手を対等な敵として扱っていない。
テロリストたちは、彼女たちにとって倒すべき強敵ではなかった。
邪魔なもの。取り除くべき障害。
依頼を完了するための処理対象にすぎない。
マキバの胸の奥へ、冷たく重たいものが沈んでいった。
「何も……殺さなくても……」
自分でも聞き取れないほど、小さな声だった。
しかし、隣で柱にもたれていたヤマナシには聞こえたらしい。
「あー、無理無理」
ヤマナシはスマートフォンを片手に、気のない声で言った。
「あの人たち、一般人とか弱い特殊能力者のこと、人間だと思ってないから」
「そんな……」
「強いやつにとって、弱いやつは人間じゃないんだよ。面倒な動物か、壊れやすい道具みたいなもん」
ヤマナシは、血に濡れた床を見ても表情を変えなかった。
「私も弱いし、いつ殺されるかわかんないよ。アンタも見るからに弱そうだし、気をつけな」
冗談めかした口調ではなかった。
長くこの場所にいた者だけが持つ、諦めきった声だった。
その時、マキバの頭の中へ、いくつもの声が流れ込んできた。
――助けて。
――違う。
――俺たちは、こんなことがしたかったんじゃない。
――誰も聞いてくれなかった。
――会社を追い出された。
――学校で化け物と呼ばれた。
――強いやつらには笑われた。
――普通の人間には怖がられた。
――何もできないくせに、気持ち悪いと言われた。
――力があるなら役に立てと言われた。
――役に立たないなら、黙っていろと言われた。
――誰かに見てほしかった。
――誰かに、自分たちも人間なのだと言ってほしかった。
声は耳から聞こえたのではない。
もっと近い場所。
頭蓋骨の内側へ直接流し込まれるように、苦痛と感情の断片がマキバの中へ押し寄せてきた。
怒り。
恐怖。
屈辱。
寂しさ。
諦めきれない願い。
彼らは確かに怒っていた。
暴力を振るい、人質を取り、社会へ刃を向けた。
だが、その心の奥底にあるものは、純粋な殺意ではなかった。
長い時間をかけて積み重なった絶望と孤独。
誰かに存在を認めてほしいという、あまりにも切実な飢えだった。
マキバは息を呑んだ。
――まだ生きている。まだ、話せる者がいる。
「待ってください!」
気づけば、叫んでいた。
「この人たち、ちゃんと話を聞けば――」
「ユミ、頼む」
トンダの声が、マキバの言葉を遮った。
「はーい!」
マチヤが明るく返事をし、両手を前へ突き出す。
その瞬間、ロビー全体が白く染まった。
――光。
目を閉じても瞼を貫くほど、強烈な光だった。
熱と衝撃が膨れ上がり、周囲の空気を押し潰す。床に散らばっていたガラス片が一斉に浮き上がり、光の中で細かくきらめいた。
マキバは何もできなかった。
ヤマナシに腕を強く引かれ、二人で柱の陰へ倒れ込む。
直後、轟音がビル全体を揺らした。
床が跳ね、天井から粉塵が降り注ぐ。
耳の奥で高い音が鳴り続け、しばらく何も聞こえなくなった。
数秒後。
少しずつ、世界に色が戻ってきた。
廊下の奥は、黒く焼け焦げていた。
壁も、床も、天井も、熱に舐められたように変色している。空気には焦げた肉の匂いが混じり、薄い煙がゆっくりと漂っていた。
先ほどまで聞こえていたテロリストたちの声は、もうどこにもなかった。
「ちょっと、ユミ!」
カモイが怒鳴った。
「危ないでしょ!こっちまで巻き込む気!?」
「ごめーん、ヨシエさーん!」
マチヤは笑顔で両手を合わせた。
悪びれた様子はまるでない。
「でも終わったし、よくない?」
「よくない!」
モテギも、血に濡れた両手を下げたまま真面目な顔で頷いた。
「マチヤさん、味方を巻き込むのは良くないと思います!」
「モテギちゃんに正論言われると、なんか腹立つー」
「なぜですか!」
ナガヤマが、煙の向こうでぼそりと呟いた。
「バカ同士の会話……」
床には死体が転がっている。
壁には血が飛び散り、焼けた廊下から煙が立ち上っている。
鼻を覆いたくなるような臭気と、消えかけた呻き声が満ちている。
現場は、地獄そのものだった。
それなのに、特殊対策室の面々だけは、いつもと何一つ変わらない調子で言葉を交わしていた。
マキバは、すぐには立ち上がれなかった。
柱の陰に倒れ込んだ姿勢のまま、両手を床についている。立とうとしても膝に力が入らない。耳の奥では、先ほどの轟音がまだ細く鳴り続けていた。
焼けた空気が喉にまとわりつく。
焦げた壁。砕けたガラス。床に横たわる、人だったもの。
少し前まで彼らの内側にあった声だけが、今もマキバの頭の中に残っていた。
「あの人たち……苦しかっただけです」
ようやく出た声は、ひどくかすれていた。
誰に向けて言ったのか、自分でもわからなかった。それでも、口にせずにはいられなかった。
「誰かを傷つけたいわけじゃなかった。本当は、こんなことをしたかったわけじゃないんです」
マキバは床へ落としていた視線を上げた。
「ちゃんと話を聞いてあげれば、投降した人もいたかもしれません。全員は無理だったとしても……少なくとも、殺さずに済んだ人はいたはずです」
トンダが足を止め、振り返った。
その顔に怒りはなかった。
反論されたことへの不快感も、理想論を口にする新人への嘲りもない。
ただ、珍しいものを見つけたような、静かな興味が眼鏡の奥に浮かんでいた。
「……君は、『声』を聴く力を持っているようですね」
マキバは答えなかった。
否定も肯定もできず、唇を閉ざす。
トンダはそれを肯定と受け取ったらしい。小さく頷き、何かを確かめるようにマキバを見た。
「なるほど……」
穏やかな声だった。
「だから、僕の誘いにも迷わず答えたのかもしれない。君は僕の心を読んだわけではないでしょうが、自分がどうすべきなのか、どこかで何かを聴き取っていた」
「僕は……」
言葉が続かなかった。
屋上でトンダの誘いを受けた時、考えるより先に返事をしていた。
あれが能力によるものだったのか。それとも、消えてしまう以外の道を、心のどこかで求めていたのか。
今のマキバには、まだ区別がつかなかった。
「君の意見も、正しいと思います」
トンダはあっさりと言った。
マキバは顔を上げた。
「話を聞けば、投降した者もいたでしょう。説得によって武器を捨てた者もいたかもしれない。結果として、救えた命があった可能性は否定しません」
「だったら……」
「ですが、それには時間がかかる」
トンダの声は、あまりにも静かだった。
冷酷さを誇示するでもなく、こちらを言い負かそうとするでもない。ただ、当たり前の事実を並べるような口調だった。
「時間をかければ、人質が殺される可能性が上がります。突入を待つ警察官に犠牲が出るかもしれない。犯人たちが追い詰められ、自暴自棄になれば、ビルそのものを破壊する可能性もある」
「でも、だからといって……」
マキバは声を絞り出した。
「殺す必要までは、なかったんじゃないですか」
「殺す方が楽だもんねー」
マチヤが、悪びれた様子もなく言った。
マキバは思わず彼女を見る。
マチヤは、黒く焼けた廊下の前で、いつもと変わらない笑みを浮かべていた。
挑発しているのではない。残酷なことを言って相手を傷つけようとしているのでもない。
本当に、ただ効率について話しているだけだった。
「捕まえた後って面倒じゃん。暴れないようにして、運んで、警察に渡して、また逃げないように見張って。でも殺しちゃえば、もう何もしないし」
その無邪気さに、マキバはかえって言葉を失った。
「お仕事はスピード感が大事ですよ、マキバさん!」
モテギが血に濡れた両手を下げたまま、力強く言った。
「迅速、確実、再発防止です!」
「再発防止って……」
「死んだ人は、二度と同じ事件を起こしません!」
モテギは真剣だった。
そこには皮肉も冗談もない。彼女なりに正しい仕事の進め方を説明しているつもりなのだろう。
カモイは腕を組み、床に座り込んだままのマキバを睨みつけた。
「努力すれば、強くなれる可能性だってあったのよ」
吐き捨てるような声だった。
「それを最初から諦めて、いつまでもウジウジ悩んで、社会を逆恨みして、最後には立てこもり?人質まで取っておいて、自分たちは被害者だって?」
カモイは鼻を鳴らした。
「どうしようもない連中よ。生かしておく必要なんてないわ」
「ヨシエさん、口悪すぎー」
マチヤがけらけらと笑う。
「性格が悪いです!」
モテギも勢いよく同意した。
「害悪デブ……」
ナガヤマが、誰にも聞こえないような声で呟いた。
だが、カモイにははっきり聞こえたらしい。
「貴様ら!」
彼女は勢いよく振り返った。
「先輩に向かって、何だその言い草は!?特にナガヤマ!アンタ、今、一番言っちゃいけないこと言ったでしょ!」
「事実を言っただけです……」
ナガヤマは視線を逸らしたまま、小さく答えた。
「事実でも言っていいことと悪いことがあんのよ!」
「自覚はあるんですね……」
「ああ!?」
マキバは、ただ絶句していた。
人が死んだ直後だった。
しかも、彼らを殺したのは、目の前で言い争っているこの人たちだ。
それなのに、特殊対策室の面々は、昼休みにくだらないことで口喧嘩をする同僚のように言葉を交わしている。
自分たちの足元にあるものが死体であることなど、忘れているようにさえ見えた。
――異常だ。
そう思った。
だが、同時に理解してしまった。
おそらく、この異常さこそが社会から求められているのだ。
強い特殊能力者が、弱い特殊能力者を処理する。
一般人が安心して暮らせるように。
秩序を乱す者を、二度と問題を起こせない形で排除するために。
迷わず、ためらわず、速く、確実に。
苦しみの理由も、そこへ至るまでの事情も、最後に何を訴えようとしていたのかも聞かずに。
声を聞かなければ、処理は簡単になる。
人間だと思わなければ、殺すことも難しくない。
マキバの胸の奥で、先ほど流れ込んできた声の残響が揺れていた。
――助けて。
――見てほしかった。
――ただ、自分たちも人間なのだと言ってほしかった。
あれほど切実だった声は、もうどこにも届かない。
声を発していた者たちは死に、焼け焦げた廊下には、煙だけが漂っている。
ヤマナシが、マキバの隣へ歩み寄った。
彼女はスマートフォンの画面を消し、上着のポケットへしまう。それから焼け焦げた廊下を一瞥した。
「ね?」
感情の乏しい声だった。
「この人たちに倫理とか説いても無駄だから」
諦めているようにも、忠告しているようにも聞こえた。
マキバは床に手をつき、ゆっくりと身体を起こした。膝はまだ震えていた。
「……ヤマナシさんは」
自分でも、なぜそんなことを聞いたのかわからなかった。
「どうして……ここにいるんですか」
ヤマナシは少しだけ目を細めた。
予想していなかった質問だったのかもしれない。
彼女は数秒考えた後、何でもないことのように答えた。
「給料」
「……」
「事務職としては、そこそこいいから」
あまりにも現実的な答えだった。
ヤマナシはそこで一度言葉を切り、廊下の先にいるトンダたちを見た。
「あと、強い人の近くにいた方が、殺されにくいから」
乾いた声だった。
彼女にとって、それは冗談ではない。
弱い特殊能力者として生きる上で、自分なりに考え抜いた生存戦略なのだろう。
怪物から離れて逃げ続けるより、怪物のすぐそばに身を置いた方が安全な場合もある。
それは矛盾しているようで、この世界ではひどく合理的だった。
ヤマナシがマキバを見る。
初めて、まともに目が合った。
長い間スマートフォンへ向けられていた目は、思っていたよりも冷静で、そして疲れていた。
「アンタは?」
「僕は……」
マキバは答えられなかった。
ほんの少し前まで、雑居ビルの屋上に立っていた。
夕日に染まる街を眺めながら、自分は消えてしまってもよいのではないかと考えていた。
そこへトンダが現れた。
差し出された手を取るように、その誘いを受けた。
そして今、自分はここにいる。
血と煙と焦げた臭いに満ちた、死のすぐそばに立っている。
自分はあの屋上から、さらに死へ近づいたのだろうか。
それとも、遠ざかったのだろうか。
生きる理由に近づいたのか、それとも死ぬ場所を変えただけなのか。
まだ、わからない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
この事務所には、声を聞く者がいない。
強い者たちは、弱い者の声を聞く必要を感じていない。
弱い者たちは、誰かに聞いてもらう前に、邪魔な存在として消されていく。
ならば、自分がここにいる意味があるとすれば。
この力に、何か一つでも意味があるとすれば。
それは、たぶん――。
マキバは拳を握った。
掌へ爪が食い込む。
その手は震えていた。
恐怖のためなのか。目の前の者たちへの怒りなのか。
あるいは、自分にも何かができるかもしれないという、頼りない衝動のためなのか。
自分でも、まだわからなかった。
ヤマナシは、そんなマキバの横顔を見ていた。
やがて、ほんの少しだけ口元を緩める。
歓迎の笑みではなかった。
同情でも、励ましでもない。
この世界がどれほど不条理で、どれほど面倒な場所なのかを、少しだけ先に知っている者の乾いた笑みだった。
「ようこそ」
ヤマナシアズミは言った。
「『特殊対策室』へ」




