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第10話 最後の命令

 廃遊園地の夜は、異様なほど静かだった。

 錆びついた観覧車は動きを止めたまま、夜空に巨大な黒い輪を描いている。かつては子どもたちの歓声を乗せて回っていたはずのゴンドラも、今は暗闇の中で息を潜めるように静止していた。メリーゴーラウンドでは、塗装の剥げた馬たちが虚ろな目を並べ、誰もいない園内を見つめている。売店の屋根は半ば崩れ落ち、壁に残された古いポスターは端から破れ、夜風が吹くたびに乾いた音を立ててめくれた。

 月明かりに照らされた遊具のあちこちには赤茶色の錆が浮き、剥落した塗装の白い下地が、古い骨のように闇の中へ浮かび上がっている。

 人の気配はなかった。

 聞こえるのは、風に押された金属が時折ぎい、と低く軋む音だけだった。

 そんな廃園の奥、朽ちかけたメリーゴーラウンドの回転台に、マチヤユミは座り込んでいた。

 中央の太い支柱へ背を預けるようにして、膝をわずかに抱えている。明るい色の髪に、派手な服装。まだ幼さの残る顔立ちは、色を失った遊具と暗い夜の中ではひどく場違いに見えた。

 腕の中には、星形の眼鏡をかけた奇妙なぬいぐるみがいる。

 ユミはそれを、誰にも奪われまいとするように胸へ押しつけ、両腕に力を込めていた。

 身体が、小刻みに震えている。

 この女が、街ひとつを消した。

 特殊対策室が受けた依頼は、行方をくらませた危険な特殊能力者の捜索と始末だった。残された被害だけを見れば、躊躇する理由などないはずだった。大勢の人間が暮らしていた街を、建物も道路も、その中にいた人間までもまとめて消し去った能力者なのだ。

 けれど、実際に目の前にしてみれば、とても怪物には見えなかった。

 怯え、震え、一体のぬいぐるみに必死に縋りついている。

 恐ろしい力を持った能力者というより、帰る場所も頼る相手も見失い、誰にも見つけてもらえないまま取り残された子どものようだった。

「来ないで」

 ユミが言った。

 喉の奥で掠れた、今にも夜の静けさへ溶けてしまいそうな声だった。

「お願い……来ないで」

 ヨシエは、その言葉を聞き終えるより早く重力場を展開していた。

 考えるより先に、身体が反応していた。

 ユミが動けば、即座に足元へ重力を集中させる。能力を使う素振りを見せれば、その場へ押さえ込む。必要とあれば、身体ごと回転台へ叩き伏せる。

 いつでも動けるよう身構えながら、それでもヨシエは一歩も踏み込めなかった。

 ――近づいてはいけない。

 理屈ではなかった。

 特殊能力者として数多くの危険な現場を経験してきた本能が、そう警告している。

 ユミの周囲だけ、何かがおかしい。

 空気が揺れているわけではない。異常な熱があるわけでも、目に見える光が漂っているわけでもない。それなのに、彼女の周囲だけが、世界から薄く切り離されているように感じられた。

 ひび割れた回転台。その背後に並ぶ色褪せた馬。地面へ淡く落ちている月明かり。

 目に映るものすべての輪郭が、ユミへ近づくほど僅かに曖昧になっている。

 確かにそこに存在しているはずなのに、次に瞬きをした時には消えていても不思議ではない。

 ユミの恐怖に呼応するように、彼女を取り巻く現実そのものが少しずつ剥がれ落ちようとしていた。

 まるで、世界の方が彼女を恐れ、触れられることを拒んでいるかのようだった。

「ユミちゃん」

 キョウコが静かに名前を呼んだ。

 いつものふざけた調子はなかった。

 赤毛の天然パーマが夜風に揺れている。眼鏡の奥の瞳にも笑みはなく、ただ真っ直ぐにユミを見ていた。

 ヨシエは、その横顔を見つめた。

 胸の奥が、妙にざわつく。

 キョウコは本気だった。本気で、この女を止めようとしている。

 殺すためではない。危険だから排除するためでもない。まして、手に負えない存在として見捨てるためでもなかった。

 街ひとつを消した力が、どれほど危険なのか。

 下手に刺激すれば、自分たちも同じように消されるかもしれない。

 そのすべてを理解したうえで、それでも正面からユミと向き合おうとしている。

「大丈夫」

 キョウコは穏やかな声で言い、一歩だけ前へ出た。

 ユミの肩がびくりと跳ねる。

 ぬいぐるみを抱く腕に、さらに力がこもった。

 それでもキョウコは立ち止まらなかった。ただし、無闇に距離を詰めることもせず、ユミの反応を窺いながらゆっくり進む。

「私は見てるよ」

「……嘘」

 ユミはすぐに首を振った。

「みんな嘘をつく。みんな私を見てくれない」

「ユミちゃん」

「私がいなくても平気なんだよ。私が何も言わなかったら、誰も気づかない。ずっと黙ってたら、誰も私のことなんか見ない」

 ユミの指が、ぬいぐるみの身体へ食い込む。

「私が何か壊さないと、誰もこっちを見てくれない」

 言葉を重ねるたび、掠れていた声に熱がこもっていく。

 それと呼応するように、ユミの周囲の景色がかすかに揺らいだ。

「そんなことないよ」

「あるよ!」

 ユミが勢いよく立ち上がった。

 抱きしめていたぬいぐるみを胸元へ押しつけたまま、その叫び声が誰もいない廃遊園地の静寂を鋭く引き裂く。

 その瞬間だった。

 メリーゴーラウンドの一角が、ふっと欠けた。

 音はしなかった。

 爆発もない。閃光も、衝撃もない。

 何かが砕け散る気配さえなかった。

 ただ、一頭の馬が消えていた。

 つい先ほどまで確かにそこにあったはずの支柱も、鞍も、色褪せた馬の身体も、すべてが跡形もなく失われている。

 破片ひとつ落ちていない。

 壊されたのではなかった。燃やされたのでも、粉々に砕かれたのでもない。

 そこにあったものが失われたというより、その存在自体を最初からなかったことにされたようだった。

 並んでいた馬の中に、ぽっかりと一頭分だけ不自然な空白が生まれている。

 つい数秒前までそこに何かがあったという記憶だけを残して、現実の側から、その部分だけが静かに抜け落ちていた。

 ヨシエの背筋を、冷たいものが駆け抜けた。

「……冗談じゃないわよ」

 思わず、掠れた声が漏れる。

 これが、街ひとつを消した力。

 報告書を読み、現場に残された異様な空白を目にして、頭では理解していたつもりだった。だが、今こうして目の前で起きたことを見て、ようやくその意味を実感した。

 重力で押し潰す。吹き飛ばす。地面へ叩きつける。そんな次元の話ではない。

 ユミの能力は、そこに存在しているものを壊すのではなく、存在そのものを消してしまう。

 ヨシエの重力操作は、対象がそこにあることを前提としている。人間も、建物も、瓦礫も、すべて質量を持って存在しているからこそ、その身体や物体へ重力を与え、押さえ込み、動きを封じることができる。

 だが、その存在自体を奪われたら、重くする対象さえ残らない。そこに何もなければ、重力をかけることすらできない。

 相性が悪いなどという言葉で片づけられる問題ではなかった。

 自分の能力では、この女の力に正面から太刀打ちできない。

 認めたくはなかった。

 これまで、自分の重力操作が通用しない相手などほとんどいなかった。どれほど身体能力が高くても、どれほど頑丈でも、地面へ縫いつけてしまえばいい。建物ごと押し潰すことだってできる。

 だが、マチヤユミは違う。

 目の前に残された、一頭分だけ不自然に抜け落ちた空白を見れば、認めざるを得なかった。

「……キョウコ」

 背後から、トンダユウイチの低い声が飛んだ。

「無理に近づくな」

「ダーリンこそ、いきなり殺さないでね」

 キョウコは振り返らなかった。その視線は、まっすぐユミへ向けられたままだ。

「状況次第だ」

「うん。だから、その状況を変える」

 声には、いつもの軽さがほんの少しだけ戻っていた。

 けれど、表情は変わらない。ふざけてもいない。笑ってもいない。

 ただ、ユミだけを見ている。

「……ユミちゃん」

 キョウコは少しだけ腰を落とした。

 怯えた子どもへ目線を合わせるような、ごく自然な仕草だった。急に近づくことはせず、ユミとの間に十分な距離を残したまま、ゆっくりと言葉を続ける。

「そのぬいぐるみ、大事なんだよね」

 ユミの腕に、再び力がこもった。

「この子は見てくれる」

「うん」

「私を見てくれる。私がいなくならないように、ずっと見てくれる」

 ユミはぬいぐるみの星形の眼鏡へ、一瞬だけ目を落とした。

 それを見つめる表情は、何かに縋っているというより、そこにしか自分の居場所がないと信じ切っている人間のものだった。

「そっか」

 キョウコは、それだけ答えた。

 否定しなかった。

 そんなものに頼るなとも言わない。たかがぬいぐるみだと笑うこともしなかった。

「だから、取らないで」

 ユミが怯えたように言う。再び奪われることを恐れているような声だった。

「取らないよ」

 キョウコはゆっくりと両手を上げた。何も持っていないことを見せるように、手のひらをユミへ向ける。

「ほら、何もしない」

 ユミは警戒したまま、キョウコの手を見る。

「でも、私にも見せてほしいな」

「嫌」

 即答だった。

 キョウコは気を悪くした様子もなく、ぬいぐるみへ目を向ける。

「可愛いじゃん。その星形の眼鏡」

 ユミは一瞬、きょとんとした。予想していなかった言葉だったのだろう。

「……変だって言われた」

「変だけど可愛いよ」

「変なのに?」

「変だから」

 キョウコは、そこでほんの少しだけ笑った。

 からかうような笑みではない。相手の機嫌を取るために作った表情でもなかった。

 本当にそう思っているのだと、言葉より先に伝わってくるような、柔らかな笑みだった。

 ユミの瞳が揺れた。

「……変だから、可愛いの?」

「そうそう。普通の眼鏡だったら、こんなに目立たないじゃん」

 キョウコはぬいぐるみを見ながら言う。

「星形って、なんか特別っぽくていいよね」

 ユミは何も答えなかった。

 けれど、ぬいぐるみを胸へ押しつけていた腕から、ほんの僅かに力が抜けた。

 それと同時に、ユミの周囲で薄れかけていた景色にも変化が起きる。

 ぼやけていたメリーゴーラウンドの支柱が輪郭を取り戻し、夜の闇へ溶けかけていた馬たちの姿が再びはっきりと浮かび上がった。足元へ落ちる月明かりも、先ほどまでの曖昧さを失い、ひび割れた回転台の上へ淡い銀色を広げている。

 世界が、少しだけ元へ戻った。

 ヨシエは息を呑んだ。

 ――効いている。

 重力で押さえ込んだわけではない。

 キョウコも、自分の能力でユミの力を封じたわけではなかった。

 ただ話しているだけだ。

 ぬいぐるみを褒めて、ユミの言葉を否定せず、彼女が恐れているものに少しずつ触れている。

 それだけなのに、荒れかけていた力が確かに弱まっている。

 キョウコの言葉は、ユミの中へ届いていた。

 世界を消せるほど危険な力を持った女の、その奥にいる一人の人間へ。

 しかし、そのわずかな安堵は、長くは続かなかった。

 遠くから、かすかにサイレンの音が聞こえてきた。

 最初は夜風に紛れ、耳を澄まさなければ気づかないほど小さかった。それが少しずつ大きくなり、静まり返った廃遊園地の奥まで届くようになる。

 ひとつではない。重なって聞こえる音からして、複数の警察車両がこちらへ向かっている。

 その音を耳にした瞬間、ユミの表情が凍りついた。

 ほんの少し緩みかけていた身体が再び強張り、腕の中のぬいぐるみを力いっぱい胸へ抱き寄せる。指先が布地へ食い込むほどだった。

「……来た」

「大丈夫。私たちが――」

「殺しに来た」

 キョウコの言葉を遮るように、ユミが呟いた。

 その声には、先ほどまでとは違う、切迫した恐怖が滲んでいた。

「違うよ」

「殺しに来た!」

 絶叫と同時に、空間が弾けた。

 衝撃音はなかった。爆風も、閃光も起こらない。

 それなのに、世界の一部が唐突に欠落した。

 近くにあったベンチが消えた。続いて、古びた売店の壁が半分ほど失われる。錆びついた街灯が根元から消え、メリーゴーラウンドの屋根の一部も、巨大な刃で切り取られたように跡形もなく消失した。

 さらに、地面まで消えていく。

 だが、穴が開いたという表現では足りなかった。

 本来そこにあったはずの土もコンクリートも、その痕跡さえ残っていない。破片が飛び散ることもなければ、粉塵が舞うこともない。崩壊する音さえ聞こえなかった。

 そこに何かが存在していたという事実そのものが、世界から切り取られていく。

 ユミを中心として、現実が虫食いのように欠け始めていた。

「おい、豚!」

 トンダの怒声が飛んだ。

「抑えろ!」

「言われなくても!」

 ヨシエは両足を踏ん張り、全力で能力を展開した。

 ユミを中心に、周囲へ重力を集中させる。

 消滅そのものを重力で押し潰せるはずがない。重力が作用するためには、そもそも対象が存在していなければならない。存在そのものを奪うユミの力とは、根本から噛み合っていなかった。

 それでも、何もしないわけにはいかない。

 ヨシエはまだ残っている地面や遊具へ強烈な重力をかけ、消滅が広がっていく空間そのものを押さえ込もうとした。

 固定する。そこにあるものを、そこへ縫い止める。消えていこうとする現実に対し、力ずくで「まだここにある」と主張するように。

 地面が低く唸り、足元から無数の亀裂が四方へ走った。

「ぐっ……!」

 額から汗が噴き出した。

 重い。あまりにも重い。

 大型車両を地面へ押しつける時とも、建物を重力で支える時ともまるで違った。普段なら自分の意思に素直に従う重力が、今は底の見えない何かへ吸い込まれていくようで、どれだけ力を注ぎ込んでも手応えが薄い。

 物を押さえているのではない。崩れ落ちようとしている世界そのものを、両腕だけで必死に支えているような感覚だった。

「出力上げすぎるな!」

 トンダの声が飛ぶ。

「わかってるわよ!」

 反射的に怒鳴り返したものの、実際には何もわかっていなかった。

 どこまで力を出せばいいのか。

 どの程度なら、ユミの能力へ干渉できるのか。

 逆に、どこまで踏み込めば、自分の作り出した重力場そのものまで消滅に呑まれるのか。

 まともな前例などあるはずもない。手応えすら曖昧だった。

 それでも、止めるしかない。

 ヨシエは奥歯を噛みしめ、さらに出力を高めた。

 その脇で、トンダの姿が掻き消えた。

 次の瞬間には、ユミの背後へ回り込んでいる。

 一気に距離を詰め、取り押さえようとしたのだろう。

 だが、あと一歩というところで、トンダの身体が反射的に止まった。

 右腕の袖口が消えていた。

 千切れたのではない。布地の一部だけが、そこに存在していたことを否定されたように失われている。

 さらに、その下の皮膚まで浅く抉れていた。

 赤い血が宙へ散る。だが、その血の一部さえユミの周囲に広がる歪みへ触れた途端、空中から忽然と消えた。

 トンダは即座に後方へ転移した。

「……接近は危険だな」

「当たり前でしょ!」

 ヨシエは重力場を維持したまま叫んだ。

「街ひとつ消した化け物よ!」

「化け物じゃない」

 キョウコが言った。

 鋭い声だった。

 ヨシエが顔を向ける。

 キョウコはいつの間にか、ユミの正面へ回り込んでいた。

 ユミを中心として広がる白い歪みが、押し寄せる波のように彼女へ迫っている。

 それでもキョウコは逃げなかった。

 右手を軽く持ち上げる。

「ここは消えない」

 ただ、それだけだった。

 次の瞬間、キョウコの周囲だけが奇妙なほど鮮明になった。

 ひび割れた地面。剥げ落ちた塗装。風に舞う細かな砂埃。月光を受けた赤毛の一本一本。

 そこに存在するすべてが、世界へ深く根を張ったように確かな輪郭を取り戻していく。

 迫っていた消滅の波が、その境界へ激突した。

 空間そのものが大きく歪む。

 目には見えない壁へ激流がぶつかったかのように、白い揺らぎがキョウコを避けて左右へ押し分けられた。

 ヨシエは奥歯を強く噛んだ。

 ――やはり、違う。

 自分は額から汗を流し、全身の力を振り絞って、ようやく消滅の広がりをわずかに鈍らせている。

 それなのにキョウコは、たった一言で、その場所だけ現実の法則を塗り替えてしまった。

 同じ特殊能力者であるはずなのに、立っている場所が違う。

 羨ましい。悔しい。

 そして、怖い。

 どうして、この女ばかり。

 自分が必死になっても届かない場所へ、キョウコは何でもない顔で立っている。

 胸の奥で、押し込めていた感情が濁流のように渦巻いた。

「ユミちゃん!」

 キョウコが声を張った。

「そのぬいぐるみ、こっちに投げて!」

「嫌!」

 ユミは激しく首を振り、ぬいぐるみを胸へ押し込んだ。

「それを媒介にして、あなたの力を抑える!」

「取るんでしょ!」

「取らない!ちゃんと返すから!」

「嘘!」

「嘘じゃない!」

 ユミの声が震える。

 疑いと恐怖と混乱が高まるにつれ、周囲の空間も激しさを増していった。

 キョウコが固定していた領域へ、白い亀裂のような歪みが走る。

 空間そのものに細かなひびが入ったように見えた。

 キョウコの眉がわずかに寄る。

 ヨシエは、その変化を見逃さなかった。

 ――余裕がない。

 これまで、どれだけ異常な状況でも飄々としていたキョウコが、初めて明確に苦しそうな表情を見せている。

 トンダが舌打ちした。

「キョウコ、無理するな!」

「無理しないと無理!」

「ふざけるな!」

「ふざけてないよ!」

 キョウコは笑わなかった。

 そのことが、ヨシエには妙に恐ろしく感じられた。

 いつものキョウコなら、どれほど危険な現場でもくだらない冗談を言う。相手をからかい、トンダを茶化し、こちらが腹を立てるほど軽い態度のまま、何でもないことのように現実を書き換えてしまう。

 そんな女が、今は笑う余裕すら失っていた。

 トンダとキョウコ。

 あの二人ですら、苦戦している。

 それほどまでに、マチヤユミの力は常軌を逸していた。

 ヨシエは息を荒らしながら、崩れかける地面へ重力をかけ続けた。

 今の自分にできるのは、それだけだった。

 二人がユミを止めるまで、消滅に呑まれかけている足場を辛うじてこの世界へ繋ぎ止めておく。

 ただそれだけのことに、全身の力を使い果たしかけていた。

「豚!」

 再びトンダの声が飛んだ。

「右側の消滅波を抑えろ!キョウコが近づく隙を作る!」

「わかってる!」

 ヨシエは身体を捻り、ユミの右側へ意識を集中させた。

 消滅の波そのものを、重力で止めることはできない。存在を押さえ込む力と、存在そのものを奪う力では性質が違いすぎる。

 ならば、消滅が広がろうとする空間を少しでも安定させるしかない。

 ヨシエは地面へ強烈な重力をかけた。残っている街灯、半壊した売店の柱、散らばった遊具の残骸。その一つ一つを、空間へ打ち込む杭のように固定していく。

 そこにあるものを、何としてでもそこへ留める。

 理屈など、とうに破綻していた。重力で消滅を止めるなど、後から説明を求められても答えられる気がしない。それでも、今は理屈などどうでもよかった。

 必要なのは、ほんの数秒。

 キョウコがユミへ届くだけの隙を作れれば、それでいい。

「う……っ!」

 頭の奥を締めつけられるような痛みが走った。

 視界の端が滲み、足元が僅かに揺れる。鼻の奥に鉄臭さを感じたが、確かめる余裕などない。

 それでもヨシエは歯を食いしばり、力を込め続けた。

 地面が低く軋む。右側へ広がっていた白い揺らぎが、ほんの僅かに勢いを失った。

 一瞬だけ。だが、それで十分だった。

「今!」

 トンダの声が響いた。

 キョウコが走る。自ら固定していた安全な領域から飛び出し、白く歪む空間のわずかな隙間へ身体を滑り込ませた。

「……!」

 ユミが目を見開く。

 キョウコは迷わない。

 消滅の波がすぐ脇を掠める中、一気に距離を詰める。

 右手を伸ばした。

 その指先が、ユミの胸に抱かれた星形眼鏡のぬいぐるみへ届きかける。

 あと少し。本当に、指一本分ほどの距離だった。

 その瞬間。

 ヨシエの胸の奥に、ひどく静かな考えが浮かんだ。

 ――今だ。

 ぞっとするほど自然に。

 激しい憎悪が湧き上がったわけではない。殺してやると叫びたくなったわけでもない。

 むしろ逆だった。ずっと胸の底へ沈めていた何かが、ここしかないという瞬間を見つけ、静かに顔を出しただけのようだった。

 このまま、ほんの少しだけ力を緩めればいい。

 右側へ集中させている重力を、僅かに弱める。

 ほんの一瞬。誰にも気づかれない程度でいい。

 そうすれば、押さえ込まれていた消滅の波が戻る。

 その先には、キョウコがいる。

 巻き込まれる。消えるかもしれない。

 キョウコが。トンダの妻が。

 自分より美しくて、自分より強くて、何でもできて、どれほど危険な場所でも余裕を失わず、誰からも頼られて、自分が欲しかったものを最初から当然のように持っている女。

 そして何より、トンダに愛されている女。

 自分がどれほど望んでも手に入らなかった場所に、何の疑いもなく立っている女。

 いつも自分を子豚と呼び、腹立たしいほど無邪気に笑っている女。

 その女が、消える。

 ――そうなれば。

 その先に何があるのかまで、ヨシエは考えなかった。

 トンダが自分を見るようになるのか。自分がキョウコの代わりになれるのか。

 そんな保証など、どこにもない。

 ただ、その一瞬だけ、

 ――キョウコがいなくなればいい。

 そう思った。

 ほんの一瞬だった。

 けれど、その考えが自分の中に生まれたことだけは、どうやっても誤魔化せなかった。

 そして何より恐ろしいのは、その次だった。

 ヨシエは迷わなかった。

 自分でも信じられないほど自然に、右側へ向けていた重力制御を僅かに乱した。

 本当に、ほんの少しだけ。誰が見ても、戦闘中に起きた操作ミスとしか思わない程度に。

 これほど不安定な能力同士がぶつかり合っている状況だ。出力が一瞬ぶれるくらい、何も不自然ではない。

 あとで責められても言い訳できる。

 ――限界だった。

 ――制御しきれなかった。

 ――仕方がなかった。

 ――事故だった。

 そう言えばいい。

 誰にも、ヨシエの胸の中までは見えない。

 ――でも。

 ヨシエ自身だけは知っていた。

 これは事故ではない。失敗でもない。

 自分の意思でやった。自分で、緩めた。

 その瞬間、辛うじて押さえ込まれていた白い消滅の波が、堰を切ったように跳ね上がった。

 キョウコの足元から、地面が消える。踏み出そうとしていた足が支えを失い、その身体が僅かに傾いた。

 キョウコが振り返る暇さえなかった。

 次の瞬間。

 解き放たれた白い歪みが一気に押し寄せ、その身体を呑み込んだ。

「キョウコ!」

 トンダの絶叫が、静まり返った廃遊園地を引き裂いた。

 その声を聞いた瞬間、ヨシエは指一本動かせなくなった。

 白く歪んだ消滅の波が、キョウコの身体を呑み込んでいく。月明かりを受けて鮮やかに見えていた赤毛が霞み、眼鏡の輪郭が崩れ、ぬいぐるみへ伸ばしていた手も白い揺らぎの中へ溶けていった。

 身体そのものが壊れているのではない。

 存在が、現実から剥ぎ取られていく。肩が、胸元が、足が、次々と輪郭を失い、次の瞬間にはキョウコの姿そのものが見えなくなった。

 あまりにも一瞬だった。悲鳴すら聞こえなかった。

 つい先ほどまでそこにいた人間が、何の前触れもなく世界から削り取られたようだった。

「……」

 ヨシエは息をすることさえ忘れていた。

 自分で望んだことだった。ほんの一瞬とはいえ、キョウコが消えればいいと思った。

 なのに、実際にその姿が消えてしまった瞬間、胸の奥へ押し寄せてきたのは喜びでも安堵でもなかった。

 ただ、凍りつくような恐怖だった。

 トンダの顔が変わった。

 ヨシエはこれまで、彼があんな表情をするところを見たことがなかった。

 いつもの冷静さもなければ、他人を小馬鹿にするような余裕もない。危険な相手を前にしても崩れなかった表情が、見る影もなく歪んでいる。

 怒り。恐怖。そして、絶望。

 押し殺す暇さえなかった感情が一度に噴き出し、人間の顔を内側から壊していた。

「……殺す」

 低い声だった。

 怒鳴ったわけではない。むしろ、あまりにも静かだったからこそ、その一言には凄まじい殺意があった。

 トンダの周囲で、空間が軋み始める。

 景色の輪郭が僅かにずれ、背後にある遊具が水面越しに見るように歪んだ。降り注ぐ月明かりさえ、彼の周囲だけ不自然に曲がっている。

 能力が漏れている。

 いつものように制御して使っているのではない。感情に引きずられた力が、抑制も加減も失ったまま現実へ染み出していた。

 ユミが怯えた目でトンダを見た。

「いや……」

 消え入りそうな声だった。

 けれど、今のトンダには届いていない。

 一歩、踏み出す。

 ただそれだけで、彼の姿が消えた。

 次の瞬間には、ユミの真横にいる。消滅の余波が残る危険な領域を、能力で強引に抜けたのだ。

 その代償はすぐに現れた。

 トンダの頬から皮膚の一部が削れ、肩口の肉が浅く消える。右腕にも白い欠損が走り、鮮血が宙へ散った。

 それでも止まらない。痛みに顔を歪めることさえなかった。

 伸ばされた右手が、真っ直ぐユミの首元へ向かう。

 ――殺す。

 ヨシエには、はっきりとわかった。

 脅しているのではない。取り押さえるつもりでもない。

 トンダは、本気でマチヤユミを殺そうとしている。

 依頼された危険人物だからではない。これ以上の被害を防ぐためでもない。

 キョウコを消されたからだ。最愛の妻を奪われたと思った、その怒りだけで。

 完全な私情だった。

 ユミの顔から血の気が引いた。

「いや……やだ……」

 身体が激しく震え始める。

 その恐怖に呼応するように、周囲の空間が再び白く揺らいだ。メリーゴーラウンドの支柱の輪郭が霞み、足元の地面にも不安定な歪みが広がっていく。

 ――まずい。

 ヨシエにはわかった。

 このままトンダが殺意を向け続ければ、ユミはさらに怯える。恐怖が膨らめば、能力も暴れる。先ほど以上の消滅が起きるかもしれない。ここだけでは済まない可能性さえある。

 ――止めなければ。

 そう思った。

 トンダを止めなければ。

 声を出せばいい。やめろと叫べばいい。

 それだけなのに、口が動かなかった。喉の奥が凍りついたように固まり、息だけが浅く漏れる。

 ――私のせいだ。

 頭の中に、その言葉が浮かんだ。

 自分が力を緩めた。

 偶然ではない。失敗でもない。

 自分の意思で、わざとやった。

 キョウコが消滅の波に巻き込まれるかもしれないとわかっていて、それでも重力制御を乱した。

 ――あの女なんて、いなくなればいい。

 ほんの一瞬でも、確かにそう願った。

 そして、本当に消えた。

 その結果が、目の前にある。

 トンダをあんな顔にしたのも。怯えていたユミをさらに追い詰めたのも。この状況を作ったのも。

 全部、自分だ。

 ヨシエの指先が震えた。冷たい汗が背中を伝っていく。

 今さらになって、自分がやったことの重さが身体の内側へ沈んでくる。

 嫉妬に任せて、ほんの一瞬だけ力を抜いた。

 たったそれだけだった。

 けれど、その一瞬で、取り返しのつかないものを壊したかもしれない。

 叫ばなければいけない。今すぐ止めなければ。

 ――やめろ!

 頭の中では、何度も叫んでいた。

 それでも、その声は喉の奥へ貼りついたまま、一音たりとも外へ出てこなかった。

 その時だった。

「……ダーリン」

 声がした。小さく、弱々しい声だった。

 けれど、聞き間違えるはずがない。

 トンダの手が止まった。ユミの首元へ伸びかけていた指が、その場でぴたりと固まる。

 ヨシエも息を呑み、白く揺らぐ空間へ目を向けた。

 消滅の残滓が、薄い霧のように漂っている。

 その向こうから、人影がゆっくりと現れた。

 ――キョウコだった。

 ヨシエの胸が大きく跳ねた。

 生きている。消えていなかった。

 そう理解した瞬間、膝から力が抜けそうになった。

 けれど、次の瞬間には、その安堵さえ凍りついた。

 キョウコの姿は、先ほどまでとはまるで違っていた。

 左腕は、肘から先がない。切断されたのではなかった。血が流れているわけでも、骨や肉が露出しているわけでもない。腕そのものが、途中から存在していなかった。

 右脚も、膝から下の輪郭が不安定に揺らいでいる。完全に失われたわけではない。だが、そこにあるはずの形が時折透け、白い歪みの中へ溶けかけては、かろうじて戻る。

 身体と現実との境界そのものが曖昧になっているようだった。

 赤毛の一部も消えていた。

 片側の眼鏡も失われている。残ったレンズの向こうから覗く瞳には、さすがにいつもの余裕はなかった。

 顔色は青ざめ、呼吸も浅い。

 それでも、キョウコは立っていた。

 残された右腕には、あの星形の眼鏡をかけたぬいぐるみをしっかりと抱えている。

「キョウコ……!」

 トンダの声が震えた。

 先ほどまでユミへ向けられていた殺気が、一瞬で崩れた。

 安堵なのか。恐怖なのか。怒りなのか。それとも、そのすべてなのか。

 トンダ自身にも、もう区別できていないのかもしれなかった。

「怒っちゃダメ」

 キョウコが笑った。

 いつものような、周囲をからかう明るい笑顔ではない。顔色は悪く、唇にもほとんど血の気がない。

 それでも、トンダを安心させるためなのか、懸命に口元を持ち上げていた。

「その子、怖かっただけだから」

「でも……」

「ダメ」

 今度は、少しだけ強い声だった。掠れてはいたが、意思だけははっきりしている。

 キョウコはトンダを真っ直ぐ見た。

「ダーリン。ダメ」

 しばらく、二人の視線がぶつかった。

 トンダの手は、まだユミの首元へ届く位置にある。

 指先が僅かに震えていた。

 その顔には、今すぐユミを殺してしまいたいという怒りが、まだ確かに残っている。

 キョウコが生きていたからといって、それまでの殺意が簡単に消えるわけではない。

「……」

 トンダは歯を食いしばった。頬の筋肉が強張る。

 数秒の沈黙の後、伸ばしていた手をゆっくりと下ろした。

 彼の周囲を歪ませていた空間も、少しずつ元の形へ戻っていく。

 キョウコは、それを見届けるとユミへ向き直った。

「……ユミちゃん」

 呼びかけられても、ユミは答えなかった。

 ただ呆然とキョウコを見つめている。

 自分が消しかけた人間。身体の一部を失い、今にも崩れそうになっている人間。

 その人間が、自分を殺そうとしたトンダを止め、今もなお自分を庇っている。

 ユミには、理解できないのだろう。その顔には、恐怖と困惑が入り混じっていた。

 キョウコは、そんなユミへ弱々しく笑いかけた。

「ごめんね」

 声は穏やかだった。

「怖かったね」

 その一言で、ユミの表情が崩れた。張りつめていたものが、一気に切れたようだった。

 大きな瞳から涙が溢れ、頬を伝って次々に落ちていく。

「私……」

 唇が震えた。

「私、消しちゃった……」

 声も震えていた。

「みんな……消しちゃった……」

「うん」

 キョウコは否定しなかった。慰めるために嘘をつくこともしなかった。

「消したくなかった」

「うん」

「本当は……消したくなかったの……」

 ユミの肩が大きく震える。

 両手が力なく下がり、先ほどまで必死にぬいぐるみを抱いていた腕も、今は何かを求めるように宙を彷徨っていた。

「ごめんなさい……」

 嗚咽が混じる。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 何度も。何度も。同じ言葉を繰り返す。

 誰に向けて謝っているのかは、もうユミ自身にもわかっていないのかもしれなかった。

 消してしまった街の人々へなのか。身体を失いかけたキョウコへなのか。それとも、すべてを壊してしまった自分自身へなのか。

 キョウコは何も責めなかった。

 正しいとも言わない。許すとも言わない。

 ただ、泣き続けるユミの前へ立っていた。

「今は寝よう」

 静かな声だった。

 残った右手を伸ばす。

 その腕には、ユミが命綱のように抱きしめていたぬいぐるみが収まっている。

 キョウコは、そのまま指先でユミの額へそっと触れた。

 ユミは逃げなかった。もう逃げる力すら残っていないようだった。

「……おやすみ」

 キョウコが囁いた。

 その瞬間だった。

 ユミを中心に荒れ狂っていた力が、糸を切られたように途絶えた。

 白く広がっていた消滅の波が、ぴたりと止まる。

 空間を覆っていた不自然な揺らぎが薄れ、歪んでいた月明かりが本来の形を取り戻していく。

 輪郭を失いかけていた遊具も、軋んでいた地面も、それ以上消えることはなかった。

 静寂が、少しずつ戻ってくる。

 ユミの身体から力が抜けた。

 瞼が落ちる。

 膝が折れ、そのまま地面へ崩れ落ちた。

 キョウコが支える余力はなく、身体は力なく横たわる。

 意識を失っていた。

 誰も、すぐには動かなかった。

 トンダも、ヨシエも、ただ、その場に立ち尽くしている。

 遠くでは、今も警察車両のサイレンが鳴っていた。

 音は先ほどより近い。

 それでも、つい数分前まで世界そのものが崩れかけていたこの場所には、ようやく本当の静けさが戻っていた。

 トンダは、そこでようやく我に返ったように身体を動かし、よろめくキョウコのもとへ駆け寄った。

「キョウコ!」

「ダーリン……」

 呼びかけに応え、キョウコは薄く笑った。

「ちょっと無茶した」

「ちょっとじゃない!」

 トンダの声は、普段の彼からは想像もつかないほど荒れていた。怒っているというより、目の前の現実をどう受け止めればいいのかわからず、感情の行き場を失っているようだった。

 少し離れた場所で、ヨシエはその光景を呆然と見つめていた。

 キョウコは生きている。消えていなかった。

 その事実をようやく実感した瞬間、胸の奥を締めつけていたものが一気にほどけた。

 ――よかった。本当によかった。

 理屈などなかった。ただ心の底から、そう思った。

 けれど、安堵が大きければ大きいほど、ほんの少し前に自分がしたことのおぞましさも鮮明になっていった。

 ――私は、何をした?

 嫉妬に任せて、仲間を殺そうとした。

 恋敵だから。自分より美しいから。自分より強いから。そして、自分が欲しかった男に愛されているから。

 たったそれだけの理由で、この女が消えてしまえばいいと思った。

 その事実が、遅れて腹の底へ落ちてくる。

 吐き気が込み上げた。

 ヨシエは耐えきれず、その場に膝をついた。張りつめていた重力場が解け、それまで強烈な力で押さえ込まれていた地面が低く軋む。能力だけではない。全身を辛うじて支えていた力まで、同時に抜け落ちてしまったようだった。

「キョウコ……」

 トンダは倒れかけたキョウコの身体を両腕で抱き支えていた。

 だが、その腕の中にいる彼女は、明らかにおかしかった。

 失われた左腕は戻らない。肘から先には何もなく、切断面すら存在していない。曖昧になった右脚も、本来の輪郭を取り戻す気配がなかった。

 それどころか、残っている身体まで少しずつ不安定になり始めていた。

 頬の輪郭が一瞬ぼやけたかと思えば、次には元へ戻る。赤毛の先端が月明かりの中で透け、肩から胸元にかけての線が、映像の乱れでも起きたように僅かにずれる。

 肉体が傷ついているというだけではなかった。

 キョウコという存在そのものが、この世界の中で形を保てなくなりつつある。

「……おい」

 トンダが低く呟いた。声が震えていた。

「何だ、これは」

「戻るために、ちょっと能力使いすぎた」

 キョウコは、いつものように軽く言おうとした。

 だが、うまくいかなかった。

 声は掠れ、言葉の終わりには苦しそうな息が混じる。立っているだけでも精一杯なのか、トンダに預けた身体にはほとんど力が入っていなかった。

「消された自分を、無理やりもう一回作ったの。それから、ユミちゃんの暴走も止めて、周りまで消えないように固定して……」

 そこで一度、呼吸を整えるように息を吸った。

「うん、さすがに使いすぎたね」

「ふざけるな」

 キョウコを支えるトンダの手に力が入った。

「すぐ治せ」

「治せない」

「治せ」

「ダーリン」

「今すぐ元に戻せ」

 ほとんど命令だった。

 いつものトンダなら、無理なものを無理だと言われれば、どれほど腹を立てても状況を受け入れ、次の手段を考えるはずだった。

 だが、今は違う。

 現実を認めることそのものを拒んでいる。声の底には、隠そうとしても隠しきれない怯えが滲んでいた。

 キョウコは、そんなトンダをしばらく黙って見つめていた。

 やがて、無理に作っていた笑みが消えた。

「私……もう持たない」

 静かな声だった。

 トンダの顔から表情が消えた。

「……何を言ってる」

「肉体だけじゃない。精神の方も崩れ始めてる。能力の制御も……たぶん、もう無理」

「黙れ」

「このままだと暴走する」

「黙れ!」

 怒鳴り声が、夜の廃遊園地に響き渡った。

 その声に震わされたように、どこかで錆びた金属がびりびりと鳴った。

 キョウコは驚かなかった。怒りもしなかった。

 ただ、ほんの少しだけ悲しそうに笑った。

「私が暴走したら、ユミちゃんどころじゃないよ」

「俺が止める」

「止められない」

「止める」

 トンダは間髪を入れず言った。

「何があっても、俺が止める」

「ダーリンでも無理」

「黙れと言ってる!」

 今度の声は、ほとんど悲鳴だった。

 ヨシエは地面へ膝をついたまま、そのやり取りを見ていることしかできなかった。

 ――私のせいだ。

 その言葉が、頭の中から離れない。

 自分があの時、力を緩めなければ。一瞬の嫉妬に身を任せなければ。

 キョウコは消滅の波に呑まれなかった。消された自分自身を、無理やり能力でもう一度作り直す必要もなかった。ここまで力を使い果たすこともなかった。こんなふうに、存在そのものが崩れていくこともなかった。

 そして何より、トンダがこんな顔をすることもなかった。

 いつもなら何が起きても冷静で、誰に対しても傲慢なくらい強気な男が、今は目の前の女を失う恐怖に怯え、現実を受け入れることすらできずにいる。

 その姿を見ているだけで、ヨシエの胸は押し潰されそうになった。

 全部、自分が招いたことだった。

「……ダーリン」

 キョウコが静かに呼んだ。

「お願い」

「何だ?」

 トンダは答えた。けれど、その声には、これから何を言われるのかをすでに察しているような怯えが滲んでいた。

「私を殺して」

 その言葉は、あまりにも静かに夜の廃遊園地へ落ちた。一瞬、風まで止まったように思えた。

 トンダは何も言わなかった。

 キョウコを抱き支える腕も、浅く繰り返していた呼吸も、その瞬間だけすべて止まったようだった。ただ目の前にいる妻を見つめ、今聞いた言葉を理解することそのものを拒んでいる。

「……嫌だ」

 やがて、掠れた声が漏れた。

「絶対に嫌だ」

「私が暴走したら、ここだけじゃ済まないよ」

「どうにかする」

「できない」

「俺がどうにかする!」

 トンダが声を荒らげた。

「ダーリン」

「絶対に何とかする!だから黙ってろ!」

 その時だった。

 キョウコの身体が大きく揺らいだ。

 足元のひび割れた舗装路から、突如として色とりどりの花が咲き始める。赤、黄、青、紫。季節も種類も何もかも無視した鮮やかな花々が、荒れ果てた廃遊園地には似つかわしくない勢いで地面を覆っていった。

 だが、その光景も数秒と続かなかった。

 咲き乱れていた花々が形を失い、どろりと溶ける。それらは光を吸い込むような黒い液体へ変わり、舗装路の上を不自然に広がっていく。

 次の瞬間には、その黒さすら消えた。

 地面そのものが、ガラスのように透き通り始める。

 本来その下にあるはずの土も、基礎も、埋設された配管も見えない。ただ、奥行きのない透明な空間だけが広がっていた。

 現実が、次々と別のものへ書き換えられている。キョウコ自身の意思とは無関係に。

 能力が、本格的に暴走を始めていた。

「……ほらね」

 キョウコが苦笑した。けれど、その笑みにはもう力がなかった。

「自分でも、今何を思ったのかわかんない」

「キョウコ……」

「早くしないと、ダーリンも、カモイちゃんも、ユミちゃんも巻き込むよ」

 その言葉を聞いた瞬間、ヨシエの中で何かが崩れた。

「私が……」

 掠れた声が、喉から漏れた。

 トンダとキョウコが、同時に彼女を見る。

 ヨシエは震える膝へ無理やり力を入れ、地面に手をつきながら立ち上がった。身体はもう能力の酷使で限界に近かったが、それ以上に、胸の奥へ沈んだ罪悪感が重かった。

「私がやる」

「……豚?」

 トンダの声が低くなる。

 ヨシエは唇を震わせながら、キョウコを見た。

「私が……キョウコに、とどめを刺す」

「何を言ってる」

「違うの」

 ヨシエは激しく首を振った。

 頬を涙が伝っていた。

 いつから泣いていたのか、自分でもわからない。気づけば視界は滲み、頬も顎も涙で濡れていた。

「私のせいなの」

「何がだ」

 トンダの声が変わった。

 ヨシエは一瞬、言葉に詰まった。

 ここで黙っていればいい。誰にもわからない。自分の重力制御が乱れた理由など、誰にも証明できない。

 それでも、もう黙っていることはできなかった。

「さっき……私、わざとミスした」

 トンダの表情が消えた。

 怒りも、悲しみも、その一瞬だけすべてが抜け落ちた。

 キョウコは何も言わない。

「キョウコが巻き込まれればいいって思った」

 一度口にすると、もう止められなかった。

「消えればいいって思った。だから……重力を緩めた」

 喉の奥が焼けるように痛んだ。

 それでも、ヨシエは続けた。

「ほんの少しだけなら、事故に見えると思った。あんな状況だったし、戦ってる最中なんだから、誰にもわからないって……」

 言葉にするたび、自分の醜さが形を持って目の前へ積み上がっていくようだった。

 吐きそうだった。この場から逃げ出したかった。

 それでも、自分だけ逃げることは許されない。

「私がやったの」

 ヨシエは涙を拭おうともせずに言った。

「だから、私が責任を取る。私が殺す。私が終わらせる。私が……」

「ダメ」

 キョウコが遮った。

 ヨシエは顔を上げた。

「……何でよ」

「ダメだから」

「何でよ!」

 声が裏返った。

「私がやったのよ!」

「知ってる」

 ヨシエの呼吸が止まった。

「……え?」

 何を言われたのか、理解するまでに時間がかかった。

 キョウコは、静かにヨシエを見ている。

「知ってるよ」

 その声は、不思議なほど穏やかだった。

「……知ってたの?」

「うん」

 ヨシエの顔から血の気が引いた。

 キョウコは知っていたのだ。

 あの瞬間、自分が力を緩めたことを。事故ではなかったことを。自分が消えればいいと願われ、その願いのまま実際に能力を緩められたことを。

 知ったうえで、今まで何も言わなかった。

「だったら……!」

「でも、ダメ」

「何で!?」

 ヨシエにはわからなかった。理解できなかった。

「子豚ちゃんに、そんなことさせない」

 ヨシエの唇が震えた。

 怒ってほしかった。憎んでほしかった。最低だと罵ってほしかった。殺そうとした自分を許すなと、突き放してほしかった。

 その方が、ずっと楽だった。

「恨んでよ!」

 ヨシエの叫びが夜空へ響いた。

「怒りなさいよ!私を殺せばいいでしょ!アンタならできるでしょ!」

「やだ」

 あまりにもあっさりした答えだった。

「何でよ!」

「私の仲間だから」

 ヨシエは言葉を失った。

 何を言われたのか、今度こそすぐには理解できなかった。

「……は?」

「嫌いだけど、仲間」

 キョウコは弱々しく笑った。

「ムカつくし、面倒くさいし、性格悪いし、最悪だけど。それでも仲間」

「何よ、それ……」

 ヨシエの声が掠れる。

「だから、最後の仕事まで押しつけたりしない」

「仲間なんて……」

 膝から、また力が抜けそうになった。

 ヨシエは必死に踏みとどまった。

「私はアンタを殺そうとしたのよ」

「うん」

「本気で、消えればいいと思ったの!」

「うん」

 キョウコは否定しなかった。慰めるために、そんなことはなかったとも言わなかった。

 ヨシエの罪を、そのまま認めていた。

 だからこそ、耐えられなかった。

「だったら仲間じゃない!」

 ヨシエは泣きながら叫んだ。

「そんな奴、仲間なわけないでしょ!」

 キョウコはしばらく黙っていた。

 やがて、僅かに首を傾ける。

「それを決めるのは、私」

 静かな声だった。けれど、迷いはなかった。

 ヨシエは何も返せなかった。

 赦してほしいと願っていたはずなのに。

 いざ赦されてしまえば、その優しさの方が罰よりもずっと重かった。

 やがてキョウコはヨシエから視線を外し、トンダを見た。

「……ダーリン」

 トンダは何も答えなかった。

 顔は硬く強張り、唇は固く閉ざされている。ただ、キョウコを見つめる瞳だけが、抑えきれない感情を映して激しく揺れていた。

「最後の命令」

 キョウコは静かに言った。

「カモイちゃんのことを許して」

「……」

「この子、最悪だけど、仲間だから」

「キョウコ……」

 ヨシエの声が震えた。

 そんなことを頼んでほしくなかった。

 許してほしいなどとは、もう思えなかった。むしろトンダに憎まれ、責められた方が当然だった。それなのにキョウコは、自分が消えかけているこの瞬間にまで、ヨシエのことを気にかけている。

 キョウコはもう一度トンダを見つめた。

「それから……」

 残された右手をゆっくりと持ち上げる。

 指先が、トンダの頬へ触れた。

 けれど、その手さえもう完全な形を保てていなかった。細い指の輪郭が月明かりの中で薄く透け、時折ちらつくように消えかける。確かに頬へ触れているはずなのに、その温もりまで少しずつ遠ざかっているようだった。

「私を楽にして」

 トンダの呼吸が止まった。

「お願い」

「……嫌だ」

「ダーリン」

「嫌だ」

 トンダは首を振った。

 いつもの彼なら、感情より先に状況を見て、必要な判断を下す。どれほど残酷な選択でも、やるべきだと決めれば迷わない。

 けれど、今だけは違った。

「嫌だ」

 理由も理屈もなかった。

 ただ、その言葉しか出てこない。子どものような拒絶だった。

 キョウコはそんなトンダを見つめ、かすかに口元を緩めた。

「やるって決めたら、どんなに辛くてもやり切るところが好き」

 トンダの瞳が揺れる。

「私、そういうダーリンが好きなんだよ」

 それは、慰めるために作った言葉ではなかった。

 ずっとそう思っていたのだとわかるほど、キョウコの声は穏やかだった。

 トンダの頬を、一筋の涙が伝った。

 ヨシエは息を呑んだ。

 初めて見た。トンダユウイチが泣くところを。

 あれほど強く、どんな危険な現場でも動じず、誰かが死に瀕していても冷静に判断し続けてきた男が、今はただ一人の人間として、愛する女を失うことに耐えられず泣いていた。

「だから、やって」

 キョウコの声は、もうほとんど消えかけていた。呼吸するたび、身体の輪郭がわずかに揺らぐ。

「私を、世界を壊す怪物にしないで」

 その言葉のあと、長い沈黙が落ちた。

 トンダはキョウコを抱いていた。

 ヨシエは少し離れた場所で膝をつき、涙を流しながら二人を見ている。気を失ったユミは、月明かりの下で静かに横たわっていた。

 遠くでは警察車両のサイレンが鳴り続けている。先ほどより、ずっと近い。

 それでも、この場所だけが世界から切り離されてしまったように静かだった。

 時間だけが流れていく。

 その間にも、キョウコの身体は少しずつ崩れていた。

 頬の輪郭が透ける。赤毛の先端が消え、肩の線がぼやける。トンダの胸元へ置かれた指先も、今にも夜の中へ溶けてしまいそうだった。

 残された時間が目に見える形で失われていく。

 それでもトンダは、何も言わなかった。

 答えを出せずにいるのではない。

 出さなければならない答えを、受け入れられずにいるのだとヨシエにはわかった。

 ――けれど、やがて。

 トンダはゆっくりと顔を上げた。

 その表情からは、何もかもが抜け落ちていた。

 怒りも、悲しみも、迷いも消えている。

 残っているのは、決断だけだった。

 キョウコが好きだと言った男の顔だった。

 やると決めたら、どれほど辛くても最後までやり切る男。

 トンダはキョウコの身体を、そっと胸元へ引き寄せた。

 壊れかけた身体を傷つけないように。

 それでも、もう二度と離したくないという思いを込めるように。

「愛してる」

 それだけだった。

 短い言葉だった。

 何年一緒にいたのか。どれほどの時間を二人で過ごしたのか。ヨシエには知らないことも多い。

 けれど、トンダにはそれ以上の言葉など必要ないのだろうと思った。

 キョウコは笑った。

 今にも消えてしまいそうな、弱々しい笑顔だった。

 それでも、どこか幸せそうだった。

「私も」

 そして、次の瞬間。

 トンダが能力を使った。

 大きな変化はなかった。閃光も、轟音もない。

 ただ、キョウコの胸の奥にある一点だけが、空間から僅かにずらされた。

 ――心臓。

 生命を繋いでいる、その場所だけを。

 ほんの僅かに。けれど、決定的に。

 キョウコの身体が、びくりと震えた。

 トンダの服に触れていた指先から、ゆっくりと力が抜ける。

 何かを言おうとしたのか、唇がほんの少し動いた。

 けれど、声にはならなかった。

 そのまま、キョウコの身体は静かにトンダの腕の中へ預けられた。

 ほとんど同時に、周囲で暴走しかけていた能力が止まった。

 現実を侵食していた異変が、潮が引くように消えていく。

 季節外れの花々へ変わりかけていた地面が元のひび割れた舗装路へ戻り、光を吸い込む黒い液体も跡形もなく消えていく。透明になりかけていた空間にも再び夜の闇と月明かりが満ち、歪んでいた遊具の輪郭が少しずつ本来の形を取り戻した。

 世界が、元へ戻っていく。

 キョウコの命と引き換えに。

 荒れ果てた廃遊園地を覆っていた異常は静まり、周囲の現実は、ようやく安定した。

 トンダは、腕の中のキョウコを抱いたまま動かなかった。

 何も言わない。名前を呼ぶことも、頬に触れることもなかった。ただ、すべての力を失った妻の身体を胸元へ抱き寄せ、荒れ果てた廃遊園地の真ん中に立ち尽くしている。

 先ほどまで暴走していた現実は、もう静まっていた。

 足元にはひび割れた舗装路が戻り、月明かりも本来の形で地面を照らしている。遠くでは、半ば消えた遊具が夜風を受け、かすかな軋みを上げていた。

 世界は何事もなかったように元の姿へ戻りつつある。

 けれど、トンダの腕の中にいるキョウコだけは戻らなかった。

 ヨシエは、その光景を見続けることができなかった。

 とうとう膝から力が抜け、その場に泣き崩れる。

 もう声を殺すことさえできなかった。

 喉が痛むほど泣いた。息を吸おうとするたびに胸が引きつり、嗚咽が漏れる。それでも涙は次から次へと溢れ、止めることができなかった。

 嫉妬した。憎んだ。消えてしまえばいいと思った。

 ほんの一瞬、自分の欲望のために、この女がいなくなればいいと願った。

 そして、本当に失った。

 自分の罪を知りながら、許すと言った女を。

 自分を殺そうとした人間に向かって、それでも仲間だと言った女を。

 何者でもなく、自分の力を持て余していたヨシエを、最初に特殊対策室へ迎え入れてくれた女を。

 もう取り返しがつかない。

 謝ったところで、何も戻らない。許してほしいと縋る相手すら、もういない。

「……っ」

 ヨシエは地面へ手をつき、俯いた。

 涙が舗装路へ落ち、小さな黒い染みを作っていく。

 ――私が殺した。

 最後に手を下したのはトンダだったとしても、その状況を作ったのは自分だ。

 その事実だけは、どれだけ泣いても消えてくれなかった。

 一方で、トンダは泣いていなかった。

 先ほどまで頬を伝っていた涙も、もう止まっている。泣き止んだというより、涙を流すことさえできなくなったように見えた。

 ただキョウコの身体を抱きしめている。

 強くもなく、弱くもなく。そこにまだ彼女がいることを確かめ続けるように。

 トンダは顔を上げることもせず、何も言わなかった。

 その目は、妻の身体を見ているようで、どこも見ていない。

 消えかけた廃遊園地の中央で、時間だけが取り残されたようだった。

 ヨシエの嗚咽だけが、静かな夜の中に響いていた。

 その時だった。

「いやー」

 あまりにも場違いな声がした。

「死ぬかと思った」

 トンダとヨシエが、ほとんど同時に顔を上げた。

 声は、トンダの腕の中からではない。

 少し離れた場所。気を失ったマチヤユミのそばに転がっている、星形の眼鏡をかけたぬいぐるみから聞こえていた。

「……は?」

 ヨシエは、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま固まった。

 トンダも目を見開いている。

 次の瞬間、ぬいぐるみがぴょこんと跳ねた。

 ユミがずっと大切そうに抱えていた、奇妙なぬいぐるみ。先ほどキョウコがユミから受け取り、その能力を抑えるための媒介にしたものだった。

 それがもう一度小さく跳ね、短い手足をばたつかせる。何度か横へ転がりかけながら、どうにか自力で身体を起こした。

 ふらふらと左右に揺れながら、星形の眼鏡をこちらへ向ける。

「ダーリン、泣き顔レアじゃーん」

 間違いない。キョウコの声だった。

「写真撮りたいけど、手が短い!」

 誰も反応できなかった。

 つい先ほどまでヨシエの嗚咽が響いていた廃遊園地に、今度は別の意味での沈黙が落ちる。

 トンダの唇が、ようやく僅かに動いた。

「……キョウコ?」

 声はひどく掠れていた。

「はいはーい!」

 ぬいぐるみが短い片手を上げる。

「みんな大好き、トンダキョウコちゃんでーす!」

 ヨシエは口を開けたまま、その小さな姿を見つめていた。

 頭が理解を拒んでいる。

 目の前には、確かに死んだキョウコの肉体がある。

 なのに、そこから数メートル離れたぬいぐるみが、どう聞いても本人としか思えない声で喋っている。

「何……」

 ようやく声が出た。

「何なのよ、それ……」

「いやー、最後の最後で、思念だけこっちに逃がせたっぽい」

 キョウコは、自分の新しい身体を確かめるように短い腕を見下ろした。

 右へ傾く。慌てて左へ戻す。今度はその勢いで反対側へ倒れそうになる。

 どうやら、この身体の扱いにはまだ慣れていないらしい。

「肉体は死んじゃったけど、意識は残った。ラッキー!」

「ラッキーじゃないわよ!」

 ヨシエは泣きながら怒鳴った。

 胸の中で、悲しみと安堵と怒りが一度に爆発した。

「アンタ……アンタ……!」

「子豚ちゃん、泣きすぎー」

「うるさい!」

 ヨシエはぬいぐるみを掴もうと手を伸ばした。

 だが、指が震えている。

 涙で視界も滲み、距離さえまともに測れない。伸ばした手はぬいぐるみの横を虚しく掠めた。

「アンタのせいで……私……!」

 その先が言葉にならなかった。

 死んだと思った。

 自分のせいで殺したと思った。

 もう二度と声を聞けないと思った。

 赦されたことさえ、永遠に背負っていくしかないと思った。

 それなのに、当の本人は目の前で「ラッキー」などと言っている。

 キョウコは少しだけ黙った。

「うん」

 その声から、ふざけた調子が僅かに薄れた。

「ごめんね」

「謝るな!」

「じゃあ謝らない」

「謝りなさいよ!」

「どっち!?」

 間髪を入れず返ってきた。

 あまりにも、いつもの二人だった。

 だからこそ、ヨシエの胸がまた強く痛んだ。

 何も変わっていないように思える。

 けれど、本当は何もかも変わってしまった。

 つい先ほどまで笑い、歩き、自分の足でユミへ近づき、トンダの頬へ手を伸ばしていたキョウコの肉体は、確かに死んでいる。

 もう起き上がることはない。もう自分の腕で誰かを抱きしめることもできない。

 それでも、声は同じだった。

 話し方も。人を腹立たせる軽薄な調子も。自分を子豚と呼んで笑うところまで、何一つ変わっていない。

 失ったのか。戻ってきたのか。

 ヨシエには、もうわからなかった。

「……」

 トンダはしばらく呆然としていた。

 やがて、腕の中に抱いているキョウコの肉体へゆっくりと目を落とす。

 その表情が、ほんの一瞬だけ歪んだ。

 それから膝をつき、まるで眠っている人間を起こさないように、彼女の身体をそっと地面へ横たえた。

 赤毛が、月明かりを受けた舗装路へ静かに広がる。

 トンダはその顔を見つめた。

 ほんの数秒だった。けれど、その短い時間が妙に長く感じられた。

 そして立ち上がると、ぬいぐるみの前へ歩いていく。

 しゃがみ込み、両手でその小さな身体を拾い上げた。

「キョウコ」

「ダーリン」

 ぬいぐるみのキョウコは、いつもの明るい声で答えた。

「ちょっとコンパクトになっちゃった」

「……」

 トンダは何も言わなかった。

 そのまま、小さなぬいぐるみを胸へ抱き寄せる。

 強く。あまりにも強く。

「苦しい苦しい!綿出る!ダーリン、綿出るって!」

「……」

「ダーリン?」

 そこでキョウコも黙った。

 トンダの肩が、小さく震えていた。

 声はない。嗚咽も漏らさない。

 ただ、ぬいぐるみを胸に抱いたまま、涙だけが次々と頬を伝って落ちていく。

 ヨシエはそれを見た途端、また泣いた。

 今度の涙が安堵によるものなのか、悲しみによるものなのか、自分でもわからなかった。

 きっと、どちらもだった。

 その夜、トンダキョウコは死んだ。

 そして、死ななかった。

 肉体は失われた。

 もう以前のように、自分の足で歩くことはできない。自分の腕でトンダへ抱きつくことも、その頬へ手を伸ばすこともできない。

 それでも、彼女の思念は残った。

 星形の眼鏡をかけた奇妙なぬいぐるみに宿り、声を発し、笑い、冗談を言い、悪態をつく。

 姿は変わった。存在のあり方も変わった。

 それでもそこには、紛れもなくトンダキョウコがいた。

 トンダの腕の中で、ぬいぐるみのキョウコが小さく身じろぎした。

「ねえ、ダーリン」

「……何だ?」

 トンダの声は、まだ震えていた。

「私、これから寝てる時間、増えるかも」

「……そうか」

「この身体に移ったせいかな。起きてるだけでも、結構疲れる」

「わかった」

「だから、ずっと寝てても捨てないでね」

「捨てるわけないだろ」

 即答だった。

「よかった」

 キョウコは少し間を置いた。

「でも、起きたらちゃんと構ってね」

「もちろんだ」

「いっぱい話してね」

「ああ」

「子豚ちゃんも」

「誰が子豚よ!」

 ヨシエは涙を流したまま怒鳴った。

「アンタ、こんな時までそれ言うの!?」

「だって、子豚ちゃんは子豚ちゃんじゃーん」

「ぶっ殺すぞ!」

「さっき殺しかけたばっかじゃん」

「……っ!」

 ヨシエの顔が凍る。

「冗談冗談!」

「アンタねえ……!」

 怒鳴りながらも、ヨシエの声はまだ泣いていた。

 キョウコが、けらけらと笑う。いつもの笑い声だった。

 トンダは何も言わず、ただ腕の中の小さなぬいぐるみを抱いていた。

 遠くから聞こえていた警察車両のサイレンは、少しずつ大きくなっている。

 廃遊園地の入口の向こうでは、木々や壊れたゲートの隙間を縫うように、赤と青の回転灯の光がちらつき始めていた。

 それでも三人は、しばらくその場を動かなかった。

 周囲を見渡せば、惨状はそのまま残っている。

 遊具の多くは消え、メリーゴーラウンドも大きく欠けている。地面のところどころには、現実そのものを切り取られたような不自然な空白が残っていた。

 少し離れた場所では、マチヤユミが静かに眠っている。

 そして、その近くには、もう二度と目を覚まさないキョウコの肉体が横たわっていた。

 誰も勝ってはいなかった。

 何もかもが元通りになったわけでもない。

 失われたものは、確かにあった。

 ヨシエの罪が消えたわけではない。

 トンダの傷も、キョウコが失ったものも、ユミが消してしまったものも、なかったことにはならない。

 誰一人として、完全に救われたわけではなかった。

 それでも、彼らはまだそこにいた。

 ひとつの肉体が失われた。

 ひとつの思念が、奇妙なぬいぐるみに宿った。

 ひとつの罪が、消えることのないまま赦された。

 そして、ただの職場だったはずの特殊対策室は、また少しだけ、歪で、面倒で、それでも切り離すことのできない家族のようなものへ近づいた。

 そんな夜だった。

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