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第11話 もうしてる

 都市ひとつを消滅させた特殊能力者――通称「怪物」は、トンダユウイチによって退治された。

 世間には、そう発表された。

 もっとも、事件の詳細には曖昧な部分が多く残されていた。

 暴走した特殊能力者が存在したこと。その能力が極めて危険であり、放置すれば被害が周辺都市にまで拡大する可能性があったこと。特殊能力者によるトラブルへの対応を請け負う小さな事務所、「特殊対策室」が事態の収拾にあたったこと。そして最終的に、トンダユウイチとその仲間たちが「怪物」を倒し、さらなる被害を食い止めたこと。

 公にされた事件の全容は、おおむねそれだけだった。

 「怪物」がどこから現れたのか。なぜ都市ひとつを消し去るほどの力を持っていたのか。何を目的に暴走したのか。肝心な部分については、ほとんど何も明らかにされなかった。

 事件からしばらくして、記者会見が開かれた。

 会場には大勢の報道陣が詰めかけていた。白い照明の下にテレビカメラが何台も並び、その後ろでは記者たちが隙間なく席を埋めている。ざわめきと小声の会話、機材を調整する音が絶えず重なり、異様な熱気が会場を満たしていた。

 その中心に、トンダユウイチはいた。

 壇上の椅子に腰掛け、いつもの黒縁眼鏡をかけている。派手な英雄らしさはない。むしろ、大勢の人間から注目を浴びることそのものを面倒に感じているような、淡々とした表情だった。

 質疑応答が始まると、すぐに複数の手が上がった。

「『怪物』とは、どのような人物だったのでしょうか」

 ひとりの記者が尋ねた。

 会場がわずかに静まる。

 トンダはすぐには答えなかった。

 ほんの数秒だけ間を置き、記憶を探るように視線を落としてから口を開く。

「……若い女性だったように思います」

 会場が一気にざわついた。

 直後、無数のシャッター音が重なった。

「年齢は?」

「氏名は判明しているんですか?」

「身元を特定できるものは残っていないんでしょうか?」

「なぜ、そんな若い女性が都市を消滅させるほどの能力を持っていたんですか?」

 質問が次々と飛んでくる。

 トンダは眼鏡の位置を指先で直した。

 これだけの人間に囲まれていても、表情はほとんど変わらなかった。

「申し訳ありませんが、こちらも倒すことに必死でした。戦闘中に相手の素性を確認している余裕はありませんでしたので、詳しいことは覚えていません」

「会話は?」

「ほとんどしていません」

「名前を名乗ることも?」

「少なくとも、私の記憶にはありません」

 淡々と答える。

 しかし、それでは当然、納得しない者もいた。

 ――「怪物」の遺体は残っていない。

 そう説明されていたからだ。

 激しい戦闘の末、その肉体は完全に破壊され、身元確認につながるものは何ひとつ残らなかったという。指紋も、歯型もない。DNAを採取できるほどの組織すら回収できなかった。

 「怪物」がどこの誰だったのか。本当に若い女性だったのか。そもそも、実在した人間だったのか。

 それを第三者が確認できる証拠は、世間の前には一切提示されなかった。

 あまりにも不確かな話だった。

 そのため、当初からトンダの説明を疑う者は少なからずいた。

 そもそも「怪物」などという特殊能力者は、本当に存在したのか。

 都市が消滅した原因は別にあり、政府や特殊能力者に関係する機関が何か重大な事実を隠しているのではないか。

 未知の兵器の実験事故。特殊能力に関する研究施設の暴走。あるいは、国家間の秘密作戦。

 「怪物」という存在そのものが、それらを隠すために作られた架空の犯人なのではないか。

 中には、さらに突飛な説を唱える者もいた。

 都市を消したのは、実はトンダユウイチ本人ではないか。そして、自分が起こした事件を隠すために「『怪物』を倒した」という物語を作り上げたのではないか。

 あるいは、これまで数多くの特殊能力事件を解決してきたトンダが、さらに名声を得るために、存在しない「怪物」との戦いをでっち上げたのではないか。

 事件直後、インターネット上には無数の憶測が飛び交った。

『政府による特殊能力実験の失敗ではないか』

『トンダ本人が街を消した可能性は?』

『『怪物』の映像が一つもないのは不自然だ』

『あれだけの事件なのに、正体がまったくわからないなんてあり得るのか』

『全部作り話なんじゃないのか』

 匿名の書き込みが別の書き込みを呼び、それをまとめた記事が作られ、さらに動画として拡散されていく。

 動画サイトでは、自称・特殊能力研究家や元関係者を名乗る者たちが事件の「真相」を語った。現場写真を拡大し、意味のない影や光の筋にまで理由をつけて解説する者もいれば、政府の公式発表に含まれる言葉尻を拾い上げ、巨大な隠蔽工作の証拠だと主張する者もいた。

 証拠が存在しないことそのものを、証拠が消された証拠だと言い張る者まで現れた。

 話は日に日に膨らんでいった。

 何が事実で、何が想像なのか。

 それを見分けることなど、もはやほとんど不可能だった。

 一時は、トンダの発表そのものを疑う声も決して少なくなかった。

 それでも、その疑念は長くは続かなかった。

 理由の一つは、トンダユウイチという男が、それまでに積み上げてきた実績だった。

 彼はこれまでにも数多くの特殊能力事件を解決してきた。警察では対応できず、軍でさえ迂闊に手を出せなかった危険な能力者を制圧し、大規模な被害へ発展する寸前で食い止めたことも、一度や二度ではない。

 特殊能力者に多少なりとも関心のある者なら、その名を知らない方が珍しかった。

 表舞台へ積極的に出る人間ではない。それでも事件が起こるたび、関係者の証言や報道の端々に彼の名は現れた。

 危険な能力者を止める男。

 無茶な現場から生きて帰ってくる男。

 そして、国内でも指折りの力を持つ特殊能力者。

 それまで積み上げられてきたそうした評価が、「『怪物』を倒した」というあまりにも大きな話に、現実味を与えていた。

 さらに、事件ではトンダ自身も大きな代償を払ったと報じられた。彼の妻が、「怪物」との戦いに巻き込まれて命を落としたというのだ。

 その情報が広まると、世間の空気は目に見えて変わった。

 最愛の妻を失いながら、それでも戦い続けた。自らも深い傷を負いながら、「怪物」を倒し、さらなる都市消滅を食い止めた。

 悲劇の中で人々を救った英雄。

 その物語は、あまりにも理解しやすかった。

 複雑な事情を知らなくても理解できる。

 誰が悪で、誰が善なのか。

 誰が脅威で、誰が人々を守ったのか。

 ひとつの物語として整理するには、あまりにも都合よく形が整っていた。

 疑うより、信じる方が簡単だった。

 そして何より、その説明に強い説得力を与えたのは、事件の後に何も起こらなかったことだった。

 あの日を境に、「怪物」は二度と姿を現さなかった。新たな街が消えることもなかった。

 同じような能力災害が再発することもなく、世界を震撼させた正体不明の脅威は、その後ぴたりと沈黙した。まるで本当に、トンダユウイチの手によって消し去られたかのように。

 時間が経つにつれ、人々の疑念は薄れていった。

 陰謀論は残った。政府の隠蔽を疑う者も、「怪物」の実在そのものを疑う者も消えなかった。

 だが、それらは次第に一部の人間が語る話へと押しやられていった。

 世間の大半は、ひとつの結論を受け入れた。

 トンダユウイチが、「怪物」を倒した。だから事件は終わったのだ、と。

 報道もまた、その物語を強く後押しした。

『都市消滅事件、特殊能力者トンダユウイチ氏が解決』

『未曾有の能力災害を阻止』

『国内最強の能力者、被害拡大を防ぐ』

 新聞にも、ニュースサイトにも、テレビの速報にも、華々しい見出しが躍った。

 トンダの名は、それまで以上に広く知られることになった。

 ――国内最強の特殊能力者。

 ――世界を救った英雄。

 そんな呼び名まで、いつの間にか定着していった。


 だが、その華々しい見出しのどこにも、真実はなかった。

 マチヤユミは、死んだことにされた。

 トンダキョウコも、死んだことにされた。

 もっとも、キョウコについては、完全な嘘というわけではなかった。

 彼女の肉体は、確かに死んだ。

 あの戦いの中で身体を失い、二度と元には戻らなかった。

 けれど、キョウコという存在のすべてが消えたわけではない。

 肉体から切り離された彼女の思念は、星形の眼鏡をかけた奇怪なぬいぐるみに宿った。

 声もある。意識もある。記憶もある。

 以前と同じように笑い、喋り、トンダを「ダーリン」と呼ぶ。

 それでも、人間としての身体だけは、もうどこにも存在しなかった。

 一方、ユミは死んでいない。

 肉体は、確かに生きていた。

 呼吸をしている。心臓も動いている。触れれば体温もある。

 だが、それだけで「無事だった」と言える状態ではなかった。

 あの事件によって、ユミの精神は大きく傷ついていた。

 自分の力で街ひとつを消し去ってしまったこと。その中に、どれだけの人間がいたのか。

 自分の内側に、意思ひとつで抑えきれないほど巨大な力が存在していること。もし再び制御を失えば、次はどこまで消してしまうのか。

 そして、自分の暴走によって、キョウコの肉体が失われる結果を招いたこと。

 どれか一つだけでも、人ひとりの心を壊すには十分すぎる事実だった。

 だが、ユミはそのすべてを一度に背負わされた。

 罪悪感。恐怖。後悔。

 そして、自分自身への嫌悪。

 目を閉じても逃げられない。忘れようとしても、記憶の中に残り続ける。

 自分が何をしたのか知っている限り、自分自身から逃げることはできない。

 それらを抱えたまま、以前と同じ人間として生き続けることは、もう難しかった。

 あの日の記憶を。

 自分が犯したことを。

 自分の中に眠る力への恐怖を。

 そのすべてを心の中に残したままでは、ユミはこの先を生きていくことができなかった。


 ユミが「怪物」であるという事実を、この世から消さなければならなかった。

 生きていると知られれば、彼女は決して放っておかれない。

 都市ひとつを消滅させた特殊能力者。しかも、その力が完全に失われた保証もない。

 政府も、警察も、特殊能力者に関わる組織も、彼女をただの被害者として扱うことはないだろう。拘束され、隔離され、場合によっては研究対象として扱われる可能性さえあった。

 何より、世間が真実を知れば、ユミが普通の人間として生きていく道は完全に閉ざされる。

 だから、トンダとキョウコは事件の直後から動いた。

 まず必要だったのは、ユミと「怪物」を結びつける痕跡を消すことだった。

 トンダはテレポートを使い、警察や関係機関の施設へ密かに入り込んだ。

 事件現場で回収された資料。目撃者から聞き取った証言記録。防犯カメラや車載カメラに残された映像。捜査員が作成した報告書。ユミの容姿や行動に関する断片的な情報。

 「怪物」の正体へ繋がりかねないものを見つけては、一つずつ潰していった。

 ただ消せば済むものばかりではなかった。

 記録そのものが突然なくなれば、かえって誰かの疑念を招く。複数の機関で共有された情報を一斉に消せば、それ自体が不自然な痕跡になる。

 そのため、完全に消去できないものについては、別の情報と切り離した。

 時刻をずらす。人物の特徴を曖昧にする。映像と証言の対応関係を崩す。

 ひとつひとつを見れば意味のある情報でも、それらを繋ぎ合わせた時に同じ人物へ辿り着けないよう、細かな部分を意図的に食い違わせていった。

 誰かが真剣に調べても、最後には別の可能性へ行き着く。「怪物」の正体だけが、どうしても掴めない。

 そんな形へと、情報そのものを組み替えていった。

 キョウコもまた、自分に残された力を使った。

 事件の最中にユミの姿を目撃した者。

 彼女の名前を聞いた者。

 怪物になる前のユミと接触し、その後の出来事と結びつけて考えられる位置にいた者。

 そうした人間たちの記憶へ干渉した。

 すべてを奪うわけではない。

 必要な部分だけを抜き取る。顔を思い出せなくする。

 名前だけがどうしても浮かばなくなる。確かに誰かを見たはずなのに、その輪郭だけが霧の向こうへ沈んでいく。

 場合によっては、記憶そのものを消さず、別の印象と混ぜて曖昧にした。

 若い女だったのか。男だったのか。一人だったのか。そもそも、人間だったのか。

 思い返すほど自信がなくなっていくように、記憶の輪郭を崩していった。

 当然、それは簡単な作業ではなかった。

 キョウコはすでに肉体を失っている。

 以前と同じように能力を使えるわけではない。短時間、力を行使するだけでも消耗し、そのたびにぬいぐるみの身体は動かなくなった。

 それでも、彼女はやめなかった。トンダも止めなかった。

 それは救命でも、戦闘でもなかった。

 敵を倒すわけでもなければ、誰かを直接助けるわけでもない。

 一人の女を生かすために、世界の中から彼女にまつわる真実を少しずつ削り取っていく作業だった。

 記録を消す。証言を曖昧にする。記憶を書き換える。事実と事実の繋がりを断つ。

 そうして、マチヤユミという人間と、都市ひとつを消した「怪物」との間にあった道筋を、一つずつ潰していった。

 だが、事件の規模はあまりにも大きかった。

 消えたのは、街ひとつだった。

 関係者の数も、残された記録の量も、二人だけで処理できる範囲をはるかに超えている。

 どれほどトンダが自由に移動できても、どれほどキョウコが他人の記憶に干渉できても、二人だけですべての痕跡を消し去ることは不可能だった。

 だから、その隠蔽には何人かの協力者がいた。


 夜。

 特殊対策室には、四人の女が集まっていた。

 一人は、気だるそうなギャルだった。

 髪も服装も派手で、じっと立っている時でさえ身体のどこかが絶えず動いている。片足へ体重を預けたり、意味もなく指先を揺らしたり、周囲をきょろきょろ見回したりと、妙に落ち着きがない。

 口元には、人を食ったような薄笑いが張りついていた。

 いかにも軽薄で、だらしなく、何を考えているのかわからない。少し大きめの耳と、せわしない身振りを見ていると、どうしても猿を連想させる女だった。

 ただ、その腰には、そんな軽い雰囲気とは妙に不釣り合いな一本の刀が下がっている。鞘に収められているとはいえ、飾りではないことくらいは一目でわかった。

 もう一人は、対照的なほど艶やかな女だった。

 長い髪を肩から流し、身体の線がはっきり出る服を身につけている。豊かな胸元と腰の曲線は嫌でも目を引き、整った顔立ちにも、人の視線を絡め取るような色気があった。

 だが、柔らかい印象はほとんどない。

 目元には露骨な気の強さが宿り、わずかに持ち上がった口角には、他人を値踏みするような意地の悪さが滲んでいる。美しくはあるが、親しみやすさとは程遠い。

 豊満な体型もあって、どことなく牛を思わせた。

 三人目は、そこにいるだけで周囲の湿度が少し上がったような気分になる女だった。

 長い黒髪が重たげに垂れ、眼鏡の奥では、弱気そうな目がぼんやりと伏せられている。背はそれほど高くなく、服装も地味で、先の二人と並べば驚くほど目立たない。

 街ですれ違っても、数分後には顔を忘れてしまいそうなほど存在感が薄かった。

 丸みのある顔と、垂れた目元。どことなく狸を思わせる。

 見るからにおとなしく、害のなさそうな女だった。少なくとも、黙っていれば。

 そして最後の一人だけは、ほかの三人とは明らかに纏っている空気が違っていた。

 長い黒髪が、肩から背中へ静かに流れている。

 背は高く、白い肌は事務所の蛍光灯に照らされ、ひどく冷たく見えた。身にまとった黒い服には余計な装飾がなく、その簡素さが、かえって細く整った身体の輪郭を際立たせている。

 美しい女だった。

 だが、その美しさには、人を遠ざけるものがあった。

 澄み切った冬の湖面のように静かで、深い。美しいからと不用意に近づけば、そのまま指先から凍りつかされそうな冷たさがある。

 何より奇妙なのは、その面差しだった。

 どこか、トンダユウイチに似ている。

 輪郭も。鼻筋も。感情の乏しい目元も。

 真正面から見比べれば別人だとわかる。それでも、ふとした瞬間の横顔には、まるで同じ人間を別の形に作り直したような、不思議な類似があった。

 そして、四人にはもう一つ共通点があった。

 ――目。

 全員、瞳孔が大きく開いていた。

 トンダやヨシエと同じ、どこか生気の抜け落ちた、死人を思わせる目。

 四人が並んでいるだけで、夜の事務所には息苦しいほどの異様な圧が生まれていた。

 彼女たちの前に、トンダとキョウコがいる。

「ひとまず、これでユミに直接繋がるものは、だいたい処理できたと思う」

 トンダが言った。声には、隠しきれない疲労が滲んでいた。

 ここ数日、まともに眠っていない。

 テレポートを繰り返して警察や関係機関を回り、ユミへ繋がりかねない記録を一つずつ潰してきた。眼鏡の奥には薄い隈が浮かび、普段以上に顔色も悪い。

 少し離れたソファでは、ユミが眠っていた。身体を小さく丸め、静かな寝息を立てている。

 その寝顔だけを見れば、街ひとつをこの世から消した存在には到底見えなかった。

 疲れ果てて眠っている、どこにでもいそうな若い女。それだけにしか見えない。

 その隣には、ヨシエが座っていた。背中を丸め、両手を膝の上で組んでいる。

 いつものふてぶてしさは、どこにもなかった。

 怒鳴りもしない。悪態も吐かない。

 ただ暗い表情で、床の一点をじっと見つめていた。

 牛のような女が、そんなヨシエを一瞥してから、トンダへ視線を戻した。

「トンちゃん」

 甘い声だった。

 しかし、その笑みに善意だけが含まれていないことくらいは、誰にでもわかった。

「これは貸しだからね」

 トンダは露骨に嫌そうな顔をした。

「ああ、わかったよ、クソ牛。帰れ」

「助けてもらった人間の態度じゃないわね」

「頼むから帰ってくれ」

「感謝の言葉くらいないの?」

「今言っただろ。『わかった』って」

「それ、感謝じゃないでしょ」

 トンダは面倒そうに視線を逸らした。

 すると、狸を思わせる女が眼鏡を指先で押し上げた。

「トンダ氏……感謝が足りない……」

 声は弱々しかった。

 聞き逃しそうなほど小さいのに、妙に耳へまとわりつく湿った声音だった。

「せっかく危ない橋を渡ってあげたのに……人間性に重大な欠陥があると思う……」

「クソ狸にだけは言われたくない」

「ひどい……恩知らず……最低……」

 しおらしく俯いている。

 だが、本気で傷ついているようにはまったく見えなかった。むしろ、わざとトンダを苛立たせて楽しんでいるようにさえ見える。

 猿のような女が、隣でけらけら笑った。

「トンダッチ、感じ悪ー」

「うるさい。クソ猿も帰れ」

「はーい」

 返事だけは妙に素直だった。

 もちろん、反省している様子は欠片もない。

「……」

 最後の黒髪の女は、何も言わなかった。

 壁際に立ったまま、冷たい目でトンダを眺めている。

 トンダも一度だけ彼女へ視線を向けた。しかし、何も言わない。

 女も何も言わない。

 数秒間ただ互いを見ただけだった。

 言葉を交わさなくても何かが通じているようにも見えたし、単純に互いに口を開くことすら面倒に思っているだけにも見えた。

「みんな、ありがとねー!」

 そんな中、キョウコだけが場違いなほど明るい声を上げた。

 小さな身体を揺らしながら、四人に向かって短い腕を大きく振る。

「ホント助かったよー!今度なんか奢るから!」

 牛のような女が口元を緩める。

「ぬいぐるみの方が、クソ眼鏡より百倍まともね」

 そして、冷ややかな視線をトンダへ向けた。

 狸のような女も、小さく頷く。

「比較対象が底辺だから……」

 猿のような女も、またけらけら笑う。

「やーい、底辺眼鏡ー」

「黙れ、害獣ども」

 トンダが低い声で睨んだ。

 だが、女たちは気にした様子もない。むしろ満足そうだった。

 ――用は済んだ。

 そう言わんばかりに、四人はぞろぞろと出口へ向かって歩き始めた。

 猿のような女が先頭。その後ろを牛と狸が続き、最後に黒髪の女が足音もほとんど立てずについていく。

 その途中だった。

 先頭を歩いていた猿のような女が、ふと足を止めた。

 何かに気づいたように振り返る。

 視線の先には、ソファに座ったままのヨシエがいた。

「……」

 彼女は数秒だけヨシエを見つめる。

 それまで浮かべていた軽薄な笑みが、ほんの少しだけ弱まった。

「カモッチ」

 気だるい口調のまま、呼びかける。

「元気出しなよー」

「……」

 ヨシエは答えなかった。

 顔さえ上げない。膝の上で組んだ両手を見つめたまま、俯いている。

 少し前なら、「余計なお世話よ!」と怒鳴り返していただろう。猿だの何だのと罵倒し、下手をすれば重力で床へ叩きつけていたかもしれない。

 だが、今のヨシエは何も言わなかった。

 猿のような女も、それ以上は声をかけなかった。

 ほんの一瞬だけヨシエを見つめてから、再び前を向く。

 そして四人は、そのまま事務所を出ていった。

 扉が閉まる。

 騒がしかった女たちの声が消えたあと、夜の特殊対策室には、妙に重い静けさだけが残った。

 ヨシエは、その中でもまだ俯いたままだった。


 トンダとキョウコは、ユミの記憶と能力の大部分を封じることにした。

 実際にユミの精神へ干渉したのは、キョウコだった。

 それが行われたのは、彼女の思念が肉体を離れ、星形の眼鏡をかけたぬいぐるみへ移った直後のことだった。

 肉体を失ったばかりのキョウコには、もはや以前のような力は残されていなかった。人間だった頃なら容易にできたことも、今ではひどく消耗する。意識を保っているだけでも不安定な状態だった。

 それでも、キョウコは残された力を振り絞った。

 ユミの精神の奥深くへ潜り、その内側に残されたものへ慎重に触れていく。

 街ひとつを消滅させた時の記憶。

 自分自身が世間から「怪物」と呼ばれているという認識。

 能力を暴走させ、多くの人間を巻き込み、取り返しのつかない破壊を引き起こした記憶。

 そして何より、再び完全な形で目覚めれば、一つの都市どころか、さらに広い範囲を消し去りかねないほど巨大な力。

 それらすべてを、キョウコはユミの意識から遠ざけた。

 完全に消したわけではない。

 そもそも、人間の記憶や能力を痕跡も残さず消滅させることなど、おそらくキョウコにもできなかった。

 無理に壊そうとすれば、ユミという人格そのものまで失われる危険があった。

 だから、消すのではなく眠らせた。

 ユミの精神の最も深い場所へ押し込み、その上から幾重にも蓋をするように封じ込めた。

 思い出せないように。触れられないように。

 そして何より、本人さえ知らないまま、再びあの力を呼び起こしてしまわないように。

 そうして残されたのが、マチヤユミという一人の人間だった。

 もっとも、それは事件以前とまったく同じマチヤユミではなかった。

 精神は大きく幼くなっていた。

 過去の記憶の大部分を失い、自分が何者だったのかも、自分の能力がどれほど恐ろしいものだったのかも理解できなくなっている。

 巨大すぎた能力も、その根幹のほとんどが封じられた。

 本来のユミが持っていた力は、物質を壊すなどという程度のものではない。

 そこに存在しているものそのものを消し去る。

 建物も、人間も、街さえも。

 あまりにも強大で、通常の特殊能力という枠に収めることすら難しい力だった。

 その危険な領域は、キョウコによって深く眠らされた。

 表面に残ったのは、強力な光線を放つ程度の能力だけだった。

 もちろん、「程度」と呼ぶには十分すぎるほど危険ではある。

 まともに直撃すれば、人間などひとたまりもない。建物や車両であっても、出力次第では容易に破壊できる。

 一般的な特殊能力者と比較すれば、それでもなお強力な部類に入るだろう。

 だが、かつてのユミとは比べものにならなかった。

 少なくとも、一度の暴走で都市そのものを消滅させ、さらに世界を脅かしかねないほどの力ではなくなっていた。


 そしてユミは、そのまま特殊対策室のスタッフとして扱われることになった。

 もちろん、普通に採用されたわけではない。

 理由はいくつもあった。

 まず、マチヤユミという人間の身元を世間から隠すため。

 彼女が、都市ひとつを消滅させた「怪物」と同一人物だと知られるわけにはいかなかった。その事実が表に出れば、警察や政府機関だけでは済まない。被害者や遺族、報道機関、能力者を危険視する者たちまで、一斉に彼女を追うことになる。

 今のユミには、それを理解することすら難しい。

 次に、再び能力が暴走する可能性へ備えるためだった。

 キョウコによって記憶と能力の大部分を封じられたとはいえ、それが永遠に安全だという保証はない。何らかの拍子に封印が緩む可能性もあれば、本人の感情や外部からの刺激によって、眠っている力が再び表へ出る可能性もある。

 だからこそ、トンダやキョウコたちの目が届く場所に置いておく必要があった。

 そして何より、行く場所がなかった。

 過去の大半を失い、それまでの生活へ戻ることもできず、世間に本当の身元を明かすこともできない。自分が何を失ったのかさえ理解していないユミを、そのまま外へ放り出すことなどできなかった。

 監視であり、隔離でもある。

 だが同時に、それは保護でもあった。

 そうしてマチヤユミは、自分がかつて「怪物」と呼ばれた存在だったことも知らないまま、特殊対策室の一員として生きることになった。

 一方、世間で語られている物語は、まったく違うものだった。

 都市を消滅させた正体不明の特殊能力者――通称「怪物」は、トンダユウイチによって討伐された。

 特殊対策室は未曾有の能力災害へ立ち向かい、さらなる被害の拡大を食い止めた。

 それが、公に知られている事件の結末だった。

 そして、その中心にいたトンダの名は、それまでとは比較にならないほど広く知られるようになった。

 ――国内最強の特殊能力者。

 ――「怪物」を倒した英雄。

 ――都市を救った男。

 そんな言葉が、新聞やテレビ、インターネットのニュースを飾るようになった。

 以前から特殊能力者の世界では名の知られた存在だったトンダは、この事件によって一般人にまで広く認知されることになった。

 世間から見れば、わかりやすい英雄譚だった。

 恐ろしい怪物が現れた。多くの犠牲が出た。

 それでも最後には、強大な力を持つ英雄が怪物を倒し、さらなる惨劇を防いだ。

 事件には終わりがあり、勝者がいる。

 そういう物語になっていた。

 だが、特殊対策室の中に、勝者など一人もいなかった。

 少なくとも、カモイヨシエにはそう思えた。

 「怪物」は死んでいない。

 キョウコは肉体を失った。

 ユミは過去も自分自身の一部も失った。

 トンダは英雄と呼ばれながら、自らの手で妻の肉体を殺した記憶を抱えている。

 そしてヨシエ自身もまた、あの日犯した過ちから逃れることができない。

 外から見れば、すべては終わった。

 けれど彼女たちにとっては、何ひとつ綺麗には終わっていなかった。


 事件の後、ヨシエはほとんど喋らなくなった。

 それまでの彼女を知る者からすれば、異様としか言いようのない変化だった。

 カモイヨシエは、本来、静かにしていられるような女ではなかった。

 口を開けば悪態を吐く。気に入らないことがあれば、相手が誰であろうと遠慮なく怒鳴る。キョウコから「子豚ちゃん」と呼ばれれば反射的に激昂し、トンダに罵倒されれば、その倍は酷い言葉にして叩き返す。

 仕事中だろうと休憩中だろうと関係ない。

 腹が立てばその場で怒る。機嫌が悪ければ隠そうともしない。

 誰かが余計なことを言えば噛みつき、気に食わない指示を出されれば文句を言い、それでも必要な仕事はきっちりこなす。

 彼女がいる場所には、たいてい何らかの騒ぎがあった。

 声が大きい。態度も大きい。感情もわかりやすい。

 良くも悪くも、その場にいるだけで空気を動かしてしまう女だった。

 だからこそ、そのヨシエが黙り込んだことは、周囲にとってひどく不自然だった。

 キョウコの肉体が失われてからというもの、ヨシエは事務所の隅でぼんやりしている時間が増えた。

 椅子に腰を下ろし、背中を丸めたまま、床の一点を長いあいだ見つめている。

 何かを考えているようにも見える。

 けれど実際には、考えがまとまっているわけでもなかった。

 頭の中には、あの時の光景ばかりが何度も浮かんだ。

 資料を渡されれば、一応は読む。

 以前ならざっと目を通すだけで要点を拾い、気に入らない箇所があればすぐに文句をつけていた。

 今は違った。

 同じ行を何度も目で追う。

 ページをめくったところで、自分が何を読んでいたのかわからなくなる。

 しばらくしてから、文字を目でなぞっていただけで、内容がほとんど頭に入っていなかったことに気づく。

 そのたびに、ヨシエは小さく息を吐いた。

 食事の量も、目に見えて減った。

 以前なら、自分の分を食べ終えたあとに他人の菓子へまで手を伸ばしていた女だった。

 誰のものかなど気にせず袋を開け、怒られれば「置いてある方が悪い」と開き直る。

 そのヨシエが、昼食を半分以上残すようになった。

 好物が出ても箸が止まる。

 温かいうちはまだ何口か食べるが、そのうち手が止まり、気づけば料理はすっかり冷めている。

 食欲がないというより、食べることに意識を向けていられないようだった。

 そして何より深刻だったのは、現場での動きだった。

 以前のヨシエに、迷いというものはほとんどなかった。

 危険な能力者が暴れれば、重力で地面へ叩きつける。

 崩れかけた建物があれば、その一部へ強い重力をかけて押さえ込む。

 飛んできた瓦礫の軌道を変え、対象だけを重くし、場合によっては周囲一帯の重力そのものを変化させる。

 やり方は荒っぽい。力任せに見えることも多かった。

 けれど、その実、彼女の能力制御は精密だった。

 どこまで重くすれば人間が動けなくなるのか。どの程度なら骨を折らずに拘束できるのか。どちらへ力を向ければ、周囲を巻き込まずに済むのか。

 ヨシエは感覚的に理解していた。

 だからこそ、思い切りがよかった。迷わず使えるだけの自信があった。

 今は、その自信がなくなっていた。

 能力を使う直前、ほんの一瞬だけ手が止まる。

 ――本当に、この強さでいいのか。

 ――重すぎないか。

 ――方向は間違っていないか。

 ――近くに誰かいないか。

 ――味方を巻き込まないか。

 その一瞬の迷いが、以前ならあり得なかった遅れを生んだ。

 判断が遅れ、能力の発動そのものが一拍ずれる。

 慎重になりすぎるあまり、かえって出力の調整を誤ることさえあった。

 そんな時、ヨシエの顔からは瞬く間に血の気が引いた。

 ほんの些細なミスでも駄目だった。

 対象を押さえ込む位置が数十センチずれただけでも、予想より少し強く重力をかけただけでも、何も起きなかったとしても、彼女の中では同じだった。

 ――また失敗する。

 ――また判断を間違える。

 ――また誰かを巻き込む。

 ――また、自分のせいで仲間が死ぬ。

 その考えが、すぐに頭を埋め尽くす。

 だから次は、さらに慎重になる。

 慎重になればなるほど、迷いが増える。迷いが増えるほど、今度は本当に操作が乱れる。

 以前なら無意識にできていたことまで、自分で疑うようになっていた。

 恐怖は、もう考え方の問題ではなかった。

 皮膚の内側へ貼りつき、呼吸や指先の動きにまで染み込んでいる。

 自分の力を使うことそのものが、怖くなっていた。

 また、自分が間違えれば。また、自分の感情に負ければ。

 今度こそ、本当に誰かが戻ってこなくなるかもしれない。

 その恐怖だけが、ヨシエの中から離れなくなっていた。


 ヨシエがここまで変わってしまった原因は、明白だった。

 ――キョウコの死。

 より正確に言えば、キョウコの肉体が失われたこと。

 そして、そのきっかけを作ったのが自分だという事実だった。

 あの時、ヨシエはほんの一瞬、邪念に負けた。

 ユミに対する嫉妬。

 自分より強大な能力を持つ女への苛立ち。

 トンダの関心が、自分ではなくキョウコに向けられていることへの、醜い感情。

 それらを押さえきれず、ヨシエは意図的に重力操作を乱した。

 ほんの一瞬だった。ほんのわずかな悪意だった。

 誰かを本気で殺そうと綿密に計画したわけでもない。先のことまで考えていたわけでもない。ただ、その瞬間だけ、自分の中に湧き上がった黒い感情へ身を任せた。

 だが、結果は取り返しのつかないものになった。

 キョウコは巻き込まれ、肉体を失った。

 その事実だけで十分だった。

 ヨシエは、自分を許すことができなかった。

 だが、キョウコは許した。

 肉体が失われる直前、彼女は最後の意思としてトンダへ告げた。

 ――カモイちゃんのことを許して。

 トンダは、その言葉を守った。

 そしてキョウコ自身も、思念だけの存在となり、星形の眼鏡をかけたぬいぐるみへ移ってからなお、以前とほとんど変わらない態度でヨシエへ接した。

「子豚ちゃん、暗い顔してると、もっと丸く見えるよー」

 机の上から、いつもの調子でからかってくる。

 以前のヨシエなら、反射的に机を叩いていただろう。「誰が豚よ!」と怒鳴り、場合によってはキョウコを掴み上げ、そのままソファへでも放り投げていたかもしれない。

 だが、その頃のヨシエは怒らなかった。

 肩をわずかに縮め、視線を落としただけだった。

「……ごめん」

 キョウコが黙った。

 ぬいぐるみの顔は動かない。眉を下げることも、苦笑することもできない。星形の眼鏡の奥にある目も、表情らしい表情を作ることはない。

 それでも、その短い沈黙だけで、彼女が困っているのは十分に伝わった。

「えー……そこで謝るの?」

 キョウコは、わざとらしいほど明るい声を出した。

「子豚ちゃん、反応悪いー。つまんなーい」

「……ごめん」

「いや、だから謝らないでってば」

「ごめん」

「もう!」

 キョウコは机の上でぴょんぴょんと跳ねた。

「ダーリン!カモイちゃんが壊れた!」

 少し離れた机で書類を読んでいたトンダユウイチが、ゆっくり顔を上げた。

 事件の後、変わったのはヨシエだけではなかった。

 トンダもまた、以前とはどこか違っていた。

 口の悪さは変わらない。気に入らない相手には平然と毒を吐き、面倒な人間には遠慮なく帰れと言う。ヨシエを豚と呼ぶことも、そこだけ見れば以前のままだった。

 だが、感情をそのまま外へ出すことは少なくなった。

 怒りも。悲しみも。苦しみも。

 キョウコの肉体を自らの手で終わらせたあの夜から、それらをすべて胸の奥へ押し込み、その上に何事もなかったような顔を被せているようだった。

 感情が消えたわけではない。

 むしろ逆だった。

 あまりに大きすぎるものを抱えているからこそ、外へ出さなくなったのだとヨシエには思えた。

 トンダは手にしていた書類を机へ置くと、立ち上がった。そして、ヨシエの前まで歩いてくる。

「おい、豚」

 ヨシエは反応しなかった。

「いつまでそうしているつもりだ?」

「……別に」

「別に?」

「何でもないわよ」

「何でもない人間は、三日連続で昼飯を半分以上残さない」

 ヨシエが、わずかに顔を上げた。

「……見てたの?」

「見なくてもわかるよ」

「何よ、それ」

「アンタはわかりやすいんだよ」

 ヨシエは言い返さなかった。

 以前なら、それだけで一悶着あったはずだった。

 事務所に沈黙が落ちる。空調の低い駆動音だけが、妙に耳についた。

 トンダはしばらくヨシエを見下ろしていた。

 何かを言おうとして、やめる。

 それからようやく、静かに口を開いた。

「キョウコは生きてる」

 ヨシエの肩が、小さく震えた。

「……生きてないわよ」

「思念は残ってる」

「肉体は死んだ」

 トンダは黙った。

 ヨシエは俯いたまま続ける。

「あいつの身体は、もうない」

「……」

「もう、あの姿には戻れない」

 声が僅かに掠れた。

「……私のせいで」

 トンダはすぐには答えなかった。

 慰めもしない。否定もしない。

 軽々しく「アンタのせいじゃない」と言うこともなかった。

 それが、ヨシエにはかえって苦しかった。

 やがて彼女は顔を上げた。

 目が赤かった。

 泣いた跡なのか。ろくに眠れていないせいなのか。あるいは、その両方なのか。

「……責めなさいよ」

 トンダの眉が、わずかに動いた。

「キョウコに止められている」

「アンタは、それでいいの?」

「いいわけがないだろ」

 返ってきた声は静かだった。

 怒鳴ってはいない。声を荒らげてもいない。

 だが、その平坦な声の奥に押し込められた痛みが、かえってはっきりと伝わってきた。

「俺は今でも、あの時のことを思い出す」

 トンダはヨシエから目を逸らさなかった。

「アンタがわざと重力制御を乱したことも」

 ヨシエの指先が震えた。

「キョウコが巻き込まれたことも」

「……」

「俺がキョウコを殺したことも」

 その言葉だけは、僅かに重かった。

「……」

「たぶん、一生忘れない」

 ヨシエの唇が震えた。

「だったら……」

「それでも、俺はアンタを責めない」

「なんでよ!」

 突然、ヨシエが叫んだ。

 久しぶりに事務所へ響いた、彼女らしい大声だった。

 けれど、いつもの怒鳴り声とは違う。

 威勢もなければ、相手をねじ伏せようとする強さもない。

 ただ、苦しさだけが噴き出していた。

「なんで責めないのよ!」

 椅子を蹴るようにして立ち上がる。

「私が悪いのよ!私があいつを殺そうとしたの!私があんなことしなかったら、キョウコは――」

「キョウコが許したからだ」

「キョウコが許したら、それで全部終わりなの!?」

「終わりじゃない」

 トンダは即座に答えた。

 ヨシエが言葉を失う。

「……終わりじゃないよ」

 トンダは、もう一度言った。

「アンタがやったことが消えるわけでもない。キョウコの身体が戻ってくるわけでもない。俺が全部忘れられるわけでもない」

「だったら……」

「それでも、それを始まりにするしかないだろ」

 ヨシエは顔を歪めた。

「……意味わかんない」

「俺も、正直まだよくわからん」

 トンダは淡々と言った。

 格好をつけるつもりもない。何かを悟った人間のように振る舞うつもりもないらしかった。

「俺だって納得してるわけじゃない。アンタに腹が立たないわけでもない。全部忘れて、何もなかったみたいに接してるわけでもない」

「……」

「たまに殺したくなる」

「だったら殺せばいいじゃない!」

「そういう話じゃない」

「何でよ!」

「殺したところでキョウコの身体が戻るのか?」

 ヨシエが黙った。

「アンタを責め続けたら、何か元通りになるのか?」

「……」

「ならないだろ」

 トンダは一度だけ、机の上にいるキョウコへ目を向けた。

 キョウコは何も言わず、二人を見ている。

「キョウコは、アンタを許せと言った」

 トンダが続ける。

「なら、俺はそれを守る」

「……」

「それが正しいのかどうかなんて、俺にもまだわからない。でも、あいつが最後に望んだことを、俺の感情だけで無視する気はない」

 ヨシエは唇を噛んだ。

 それ以上、反論できなかった。

 トンダは少し間を置いてから言った。

「アンタが本当に罪悪感を覚えてるなら、死ぬまでそこで腐ってるんじゃなくて、ここで仕事を続けろ」

 ヨシエが僅かに眉を寄せた。

「……仕事?」

「そうだよ」

「こんな状態で?」

「だからだよ」

 トンダは言った。

「キョウコが守ろうとしたものを、アンタにも守ってほしい」

 その言葉は、思っていた以上に深く刺さった。

 ヨシエは俯き、強く唇を噛んだ。

 間違っているとは思わなかった。むしろ、正しいのだと思う。

 自分がこれから何をすべきなのか。

 何をすれば、少しでも罪を背負ったまま生きていけるのか。

 その問いに対する答えとしては、それ以上に真っ当なものはないのかもしれない。

 けれど、正しい言葉を聞いたからといって、人間がその通りに動けるとは限らない。

 罪悪感は、理屈で整理できるほど素直なものではなかった。

 自分を許せと言われて、すぐに許せるものでもない。

 明日から頑張れと言われて、翌朝には元通りになるような傷でもなかった。


 キョウコも、何度となくヨシエを励ました。

「子豚ちゃん、元気出しなよー」

「……」

「ほら、私、意外と快適だよ? ぬいぐるみボディ」

 ヨシエは俯いたまま、何も答えなかった。

 そんな反応にもめげず、キョウコはあえて明るい調子を崩さなかった。

「肩こりしないし、服買わなくていいし、食費もほとんどかからないし。雨の日だって髪型崩れないし」

「……」

「あと、たまにダーリンに抱っこしてもらえるし」

「余計なこと言うな」

 少し離れた机から、トンダが書類に目を落としたまま口を挟んだ。

「えー、照れてんの?」

「黙れ」

「この前なんか、わざわざソファまで運んでくれたじゃん」

「自力で移動できないからだろ」

「やさしー」

「事実を捻じ曲げるな」

 キョウコは楽しそうに身体を揺らした。

「ほらねー。こういう楽しみもあるんだよ」

 短い足でぴょこぴょこと机の端まで移動する。その姿だけ見れば、本人が言う通り、悲惨というより滑稽ですらあった。

「まあ、足が短いのは不便だけどね!階段とか最悪!あと、やたら眠くなる!この身体、燃費悪すぎ!」

 わざと大げさに嘆いてみせる。

 ヨシエは、それでも笑わなかった。

 キョウコの軽口が、本当に何も気にしていないから出ているわけではないことくらい、わかっていた。

 自分を安心させようとしている。キョウコ自身が失ったものを、できるだけ軽いものに見せようとしている。

 そのことがわかるからこそ、ヨシエには余計につらかった。

「……だからさ」

 キョウコの声が、ほんの少しだけ静かになった。

「そんな顔しなくても――」

「ごめん」

 キョウコの声が止まった。

 短い沈黙が落ちる。

 ぬいぐるみの顔は変わらない。眉を寄せることも、困ったように笑うこともできない。それでも、そのわずかな間だけで、キョウコが言葉に詰まったことは伝わった。

「だから謝らないでってば!」

 返ってきた声には、いつもの軽さに混じって、ほんの少しだけ本気の困惑が滲んでいた。

 ヨシエはさらに深く俯いた。

 わかっていた。謝れば謝るほど、キョウコを困らせる。

 自分がいつまでも沈んでいるせいで、傷つけられた側であるキョウコの方が、自分を慰め、気を遣い、励まそうとしている。

 本来なら逆であるべきだった。

 自分が気遣うべきなのだ。

 肉体を失ったキョウコを支えるのは、自分の方でなければならないはずだった。

 それなのに今は、自分のせいで身体を失った女から「元気を出せ」と励まされている。

 その事実が、何より苦しかった。

 わかっている。

 これ以上謝っても意味がないことも。キョウコがその言葉を望んでいないことも。

 けれど、口を開こうとすると、結局「ごめん」という言葉しか出てこなかった。

 他に何を言えばいいのかわからない。

 ありがとう、と言うのも違う気がした。

 もう大丈夫、と言えば嘘になる。

 許してほしいなどとは、とても言えなかった。そもそも自分には、そんな言葉を口にする資格すらないように思えた。

 だから、結局また謝る。

 キョウコが困る。

 その困った声を聞いて、自分はまた彼女に余計な気を遣わせたのだと思う。

 そして、そのことまで新しい罪悪感になる。

 謝れば少しは楽になれるはずなのに、実際には逆だった。

 謝るたびに罪悪感が薄れるどころか、古い罪の上へ新しい罪悪感が静かに積み重なっていく。

 ヨシエは、そこから抜け出せなくなっていた。

 キョウコはもう許している。トンダも責めようとはしない。誰からも罰せられていない。

 だからこそ、ヨシエ自身だけが、自分を罰し続けていた。

 自分を許せないまま。許されているという事実さえ、素直に受け取れないまま。

 そんな状態が、しばらく続いた。


 そして、そんな重苦しい空気を誰よりも読まなかったのが、マチヤユミだった。

 新たに特殊対策室のスタッフとして扱われるようになったユミは、以前と比べて精神的に大きく幼くなっていた。

 もっとも、事件以前の彼女をよく知る者は、今の特殊対策室にはいない。

 だから、今の言動のどこまでが元々の性格で、どこからが記憶や能力を封じられたことによる変化なのか、正確なところは誰にもわからなかった。

 もともと明るい性格だったのかもしれない。以前から少し子どもっぽいところがあったのかもしれない。あるいは、記憶を失い、精神の一部まで深く封じられた結果、そうした部分だけが強く表へ残ったのかもしれない。

 ただ少なくとも、今のユミが年齢相応の大人ではないことだけは明らかだった。

 よく笑う。気になるものを見つければ、すぐに近寄っていく。そして、少し触ればもう別のことへ興味を移す。

 菓子や玩具を欲しがり、気に入ったものがあれば素直に喜ぶ。注意されればその場ではしゅんとするものの、少し時間が経てば何事もなかったように笑っている。

 危険なものに対する距離感も曖昧だった。

 普通の人間なら本能的に身構えるような特殊能力を目にしても、ユミは恐怖より先に好奇心を示すことがある。

「それ、どうなるの?」

「触ったらどうなる?」

「もう一回やって」

 そんなことを平然と口にする。

 危険だから近づくなと言われても、その理由を十分に理解できていない。

 人が傷つく可能性や、取り返しのつかない結果というものを、頭では聞いても実感として結びつけられないようだった。

 知識も常識も、ところどころ抜け落ちている。

 知っていることと知らないことの境目がひどく歪で、誰でも知っているようなことを真顔で尋ねたかと思えば、逆に妙なことだけ覚えていることもあった。

 それでも、そこに悪意はなかった。

 誰かを困らせようとしているわけでもない。馬鹿にしているわけでもない。

 ただ、知らない。わからない。

 そして、思ったことをそのまま口にしているだけだった。

 無邪気だった。あまりにも無邪気だった。

 その無邪気さが、ヨシエには何よりつらかった。

 ヨシエは覚えている。

 あの日、何が起きたのか。誰が何を失ったのか。自分が何をしてしまったのか。

 忘れたくても忘れられず、その記憶に押し潰されそうになっている。

 なのにユミは、何も知らない顔で笑っている。

 自分がかつて街を消したことも、キョウコの肉体が失われた事件の中心にいたことも、それによって周囲の人間がどれほど傷ついたのかも、今の彼女にはほとんど残っていない。

 もちろん、それはユミ自身の責任ではない。彼女が望んで忘れたわけでもない。

 そのことをヨシエも頭では理解していた。

 それでも、すべてを覚えて苦しんでいる自分の目の前で、すべてを知らないユミが無邪気に笑っている。

 その光景だけは、どうしても素直に受け入れることができなかった。


 ある日の午後、ユミは事務所の床に座り込んでいた。

 仕事をしているわけではない。

 色とりどりの積み木を床いっぱいに広げ、形も大きさもばらばらのそれらを、ひとつずつ慎重に積み重ねている。

 そもそも、特殊能力者が引き起こす事件やトラブルを扱う事務所に、なぜ子ども向けの積み木など置いてあるのか。ヨシエは知らなかった。

 おそらくキョウコがどこからか持ち込んだのだろう。今のユミにはこういうものが必要だとか何とか言い出して、トンダに買わせた可能性もある。どちらにせよ、ヨシエにはどうでもよかった。

 彼女は自分の席で資料を開き、なるべくユミの方を見ないようにしていた。

「ヨシエさーん」

 明るい声が飛んでくる。

 ヨシエは反応しない。

「見てー」

 また声がした。

「塔できたー」

「……」

 返事はしなかった。

 資料へ目を落とし、文字を追おうとする。

 だが、同じ一文を何度読んでも意味が頭に入ってこなかった。

「ヨシエさん?」

 今度は声が少し近くなる。

「……何よ」

 仕方なく顔を上げると、ユミは床に座ったまま、こちらを見ていた。

 その傍らには、子どもの膝ほどの高さまで積み上げられた塔がある。赤、青、黄色。丸いものと四角いものが無造作に組み合わされ、見ているだけで不安になるほど傾いていた。

「見てた?」

「見てない」

「えー」

 ユミは不満そうに頬を膨らませた。

 しかし、それも長くは続かなかった。すぐに表情を緩め、けらけらと笑う。

「ヨシエさん、顔こわーい」

「……」

「ずっとしょんぼりしてるー。変なのー」

 悪意など欠片もなかった。馬鹿にしているわけでもない。

 ただ、目に映ったものを、そのまま口にしただけなのだろう。

 それがわかったからこそ、余計に腹が立った。

 ヨシエの眉が、ぴくりと動いた。

「ユミ」

 少し離れた席から、トンダが静かに声をかけた。

 低く、制止するような声音だった。

 だが、ユミにはその意味がわからなかった。

 トンダを一度振り返っただけで、再びヨシエへ顔を向ける。

「ヨシエさん、泣き虫ー?」

 その瞬間、ヨシエの中で、何かが切れた。

 ずっと胸の奥へ押し込み、見ないふりをしてきたものが、堰を切ったように噴き出した。

「……お前が」

 低い声が漏れる。

 ユミが首を傾げた。

「え?」

 ヨシエは椅子を蹴るようにして立ち上がった。

 空気が震えた。

 彼女の感情に呼応するように、周囲の重力が不安定に揺らぐ。

 机の上に置かれていたペンがひとりでに転がり出し、床へ落ちる直前、不自然な角度で軌道を変えた。紙の束が僅かに沈み込み、棚がぎしりと軋む。

「元はと言えば……お前のせいだろうが!」

 ヨシエが怒鳴った。

 次の瞬間、床に並んでいた積み木が一斉に潰れるように沈んだ。

 乾いた音を立てて崩れたのではない。

 見えない巨大な掌で真上から叩きつけられたように、いくつかの積み木が床材へ深くめり込んだ。

 ユミが目を丸くする。

「え……?」

「お前が暴走したから!」

 ヨシエは止まらなかった。止めようとも思えなかった。

「お前が街を消したから!だからキョウコがああなったんでしょ!」

 ユミの顔から笑みが消えた。

「ヨシエ……さん?」

 怯えた声だった。

 理解できていない。

 何を責められているのか。なぜ突然ヨシエが怒ったのか。何ひとつわかっていない。

 その顔を見た瞬間、ヨシエの中で燃え上がっていた感情は、収まるどころかさらに激しくなった。

 右手を上げる。

 ユミの身体を中心に、重力が急激に増していった。

 空気そのものが沈み込むような圧迫感が広がる。

 床が低く軋み、ユミの周囲に散らばっていた積み木が次々と押し潰されていく。

「ヨシエさん……?」

 ユミの表情に、ようやくはっきりとした恐怖が浮かんだ。

 そのまま力を強めれば、次に床へ押さえつけられるのはユミ自身だった。

 だが、その直前、視界が揺らいだ。

 トンダが二人の間へ転移する。

 ほとんど同時にユミの身体もその場から消え、数メートル横へ移された。

 行き場を失った強烈な重力が、誰もいない床へ叩きつけられる。

 鈍い衝撃音が響き、床材の一部が大きく陥没した。

「おい、豚」

 トンダの声は低かった。

 怒鳴ってはいない。それでも、普段の悪態とは明らかに違う冷たさがあった。

「やめろ」

「どきなさいよ!」

「やめるんだ」

「私は……!」

 ヨシエの声が震えた。

 怒りだけではない。喉の奥から無理に絞り出すような声には、今にも泣き出しそうな脆さが混じっていた。

「私は、こいつを見てると……!」

「わかってる」

「わかってない!」

「わかってる」

 トンダは、もう一度言った。

 静かな声だった。それ以上は何も言わない。

 説教もしない。責めもしない。

 ただ、その場に立っていた。

 彼の視線はヨシエではなく、その背後にいるユミへ向けられていた。

 ユミは怯えていた。

 さきほどまで楽しそうに積み上げていた積み木のひとつを、胸元へ抱きしめている。

 何が起きたのかわからないのだろう。

 なぜ自分が怒鳴られているのか。なぜヨシエがこれほどの憎しみを向けてくるのか。

 そもそも、ヨシエが口にした「街を消した」という言葉が何を意味しているのかさえ、今のユミには十分に理解できていないのかもしれない。

 彼女は覚えていない。

 自分がかつて街ひとつを消したことを。

 自分が「怪物」と呼ばれていたことを。

 その暴走の中でキョウコの肉体が失われたことを。

 何も知らない。

 その事実が、ヨシエにはたまらなく理不尽に思えた。

 自分は覚えている。嫌になるほど覚えている。

 あの日から、何度も夢に見る。

 自分の中に湧いた醜い感情。キョウコに対する嫉妬、羨望、憎しみ。

 ほんの一瞬、その感情へ身を任せ、意図的に重力制御を乱した。

 その結果、起きた惨劇。

 ――忘れたい。

 何度そう思ったかわからない。

 けれど、忘れられない。

 目を閉じれば思い出す。眠れば夢に出てくる。

 自分がやったことなのだと、何度でも突きつけられる。

 罪悪感で息が詰まりそうになるほど苦しい。

 なのに、目の前の女は何も知らない。

 キョウコを失う原因の一端になった女が、今は何ひとつ知らない顔で積み木を積んでいた。笑っていた。ヨシエを「泣き虫」などと呼んでいた。

 理不尽だった。あまりにも理不尽に思えた。

 ユミが記憶を失ったことも、彼女自身が望んで忘れたわけではないことも、記憶を封じたのがキョウコであることも、今のユミを責めたところで失われたものは何ひとつ戻ってこないことも、ヨシエは頭ではわかっていた。むしろ、わかりすぎるほどわかっていた。

 だからこそ余計につらかった。

 理性ではユミを責めるべきではないと理解している。

 だが、その理性に感情が追いついてくれない。

 自分だけが過去を覚え、自分だけが罪を抱え、自分だけがあの日から抜け出せずにいるような気がしてならなかった。

 そのどうしようもない不公平さを、ヨシエの感情だけは納得することができなかった。

「……カモイさん」

 トンダが口を開いた。

 先ほどまでの冷たい声音とは違う。今度は、いつもの落ち着いた声だった。

 ヨシエは肩を上下させながら荒い息を吐き、彼を睨みつけた。怒りはまだ消えていない。能力を止められたことへの苛立ちも、ユミへぶつけきれなかった感情も、胸の中で行き場を失ったまま渦巻いていた。

「何よ」

「アンタに、ユミの教育係を命じる」

 一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。

「……は?」

「今日から、アンタがユミの教育係だ」

 ヨシエは目を見開いた。

 聞き間違いかと思った。

 数秒前まで、自分はそのユミを重力で押し潰しかけていたのだ。

「何言ってんの?」

「言葉通りだ」

「嫌よ!」

「命令だ」

「絶対嫌!」

「アンタに必要な仕事だ」

「ふざけるな!」

 ヨシエの怒声が事務所に響いた。

 今度は重力こそ揺れなかったものの、声の勢いに押されたように、机の上にいたキョウコの小さな身体が僅かに揺れた。

「何で私が、こいつの面倒なんか見なきゃいけないのよ!」

「アンタが、今一番ユミを見ているからだ」

「憎んでるのよ!」

 ヨシエは即座に言い返した。

「今だって殺しかけたのよ!そんな奴に教育係やらせる馬鹿がどこにいるのよ!」

「それでも、アンタはユミを見てる」

「……は?」

「さっきからずっとそうだ」

 トンダの声は平坦だった。

 怒鳴り返しもしなければ、ヨシエの感情を否定もしない。

「ユミが笑えば腹を立てる。何か言えば気にする。遊んでいても目に入る。見ないようにしてるつもりでも、結局ずっと意識してる」

「だから何よ」

「憎んでるからだとしても、アンタはユミから目を逸らせてない」

「……」

「無関心な人間より、ずっといい」

「意味わかんない!」

「今はわからなくてもいい」

 トンダの判断には、わずかな迷いもなかった。

 その態度が、ヨシエにはたまらなく腹立たしかった。

 罰なのか。嫌がらせなのか。あるいは、自分への復讐なのか。

 そうであってほしいとさえ思った。

 キョウコをこんな姿にした自分への仕返しとして、一番嫌な仕事を押しつけているのだと思えた方が、まだ理解しやすい。

 だが、トンダの顔にそうした感情は見えなかった。

 怒りがないわけではないだろう。恨みが完全に消えたわけでもない。

 それでも今、彼は私情でこの命令を出しているのではない。そのことだけは、嫌でも伝わってきた。

 ヨシエは堪らず、助けを求めるようにキョウコを見た。

 机の上では、星形の眼鏡をかけたぬいぐるみが、少し困ったように身体を揺らしている。

「ダーリン、なかなかエグいことするねー」

「必要なことだ」

「まあ……そうかもねー」

「ちょっと!」

 ヨシエが叫ぶ。

「アンタも止めなさいよ、悪霊!」

「うーん……」

 キョウコはすぐには答えなかった。

 小さな身体を左右へ揺らしながら、しばらく本当に考えているようだった。

 やがて、その動きが止まる。

「カモイちゃん」

 声の調子が変わった。

 いつものふざけた軽さが消えていた。

「お願い」

 その一言で、ヨシエは黙った。

「ユミちゃんを、見てあげて」

「……」

「私がずっと見てあげられればいいんだけどさ……」

 キョウコは、自分の小さな身体へ視線を落とすように僅かに傾いた。

「ほら、今こんな身体だし。前みたいに自由に動けないし、寝てる時間も長いし。ダーリンはダーリンで、これから事件の後始末とか、外との調整とか、いろいろやらなきゃいけないし」

「だからって……」

「お願い」

 キョウコは、もう一度言った。

 ヨシエは目を逸らした。

「……何で私なのよ」

 掠れた声だった。

 先ほどまでの怒鳴り声とはまるで違っていた。

「仲間だから」

 その一言に、ヨシエの顔が強張った。

「……」

「カモイちゃんも」

 キョウコは続ける。

「ユミちゃんも、仲間だから」

 ヨシエは苦いものを飲み込んだように顔を歪めた。

 また、その言葉だった。

 ――仲間。

 ヨシエにとって、それはひどく厄介な言葉だった。

 家族という言葉にも、どこか似ている。

 好きか嫌いかだけでは割り切れない。

 気に入らなくても、腹が立っても、傷つけられても、一度そこへ入れてしまえば、簡単には見捨てられなくなる。

 むしろ逃げようとした時ほど、背中に絡みつき、どこまでも追いかけてくるような言葉だった。

 ヨシエは、そんなものなど知らなければよかったと何度も思った。

 誰にも深入りしなければ、もっと楽だった。

 嫌いな相手は嫌いなまま切り捨てればいい。

 自分を傷つける相手からは離れればいい。

 その方がずっと簡単だ。

 けれど、特殊対策室へ来てから、それができなくなっていた。

 ヨシエは断りたかった。こんな仕事はできないと言えばよかった。

 実際、今だってユミを憎んでいる。

 顔を見るだけで、胸の奥に濁った感情が湧くことがある。笑っている姿を見れば腹が立つ。自分が苦しんでいることを何も知らないのだと思えば、理不尽だと感じる。

 そんな人間が教育係など務まるはずがない。

 そう言って拒絶すれば、それで済んだはずだった。

 だが、キョウコの声を聞いてしまった。

 自分のせいで肉体を失った女が、それでもヨシエを責めず、ユミをも責めず、二人とも同じ言葉で包もうとしている。

 ――仲間だから。

 たったそれだけの理由で。

 その声を聞いてしまった後では、どうしても「嫌だ」と言い切ることができなかった。

 ヨシエは長いあいだ黙っていた。

 誰も急かさなかった。

 少し離れた場所では、ユミが不安そうにこちらを見ている。

 先ほどまで胸元に抱きしめていた積み木を、今も両手で握っていた。

 ヨシエと目が合いそうになると、怯えたように僅かに視線を伏せる。

 その姿を見て、ヨシエの胸の奥にまた複雑なものが動いた。

 怒りなのか。罪悪感なのか。憎しみなのか。

 それとも、それとは違う何かなのか。

 自分でもまだわからなかった。

 やがてヨシエは、深く俯いた。

「……勝手にしなさいよ」

 それは、とても承諾とは呼べないような声だった。

 だが、拒絶でもなかった。

 トンダは何も言わない。

 キョウコも、それ以上は茶化さなかった。

 ユミだけが、まだ事情をよく理解できないまま、ヨシエとトンダの顔を交互に見ていた。

 こうして、カモイヨシエはマチヤユミの教育係になった。


 最初の数日は、地獄だった。

「ヨシエさん、お菓子食べたい」

「仕事中よ」

「じゃあ、仕事終わったら?」

「今は資料を読む時間なの。黙って読め」

 ヨシエは机の上に広げた報告書を指先で叩いた。

 ユミは「はーい」と素直に返事をし、しぶしぶ視線を紙面へ落とした。

 それが続いたのは、三秒ほどだった。

「ねえ、ヨシエさん」

「何よ」

「資料っておいしい?」

「食べ物じゃないわよ!」

「つまんなーい」

「アンタねえ!」

 ヨシエの怒声が、事務所いっぱいに響き渡った。

 教育係になったからといって、ユミが急に扱いやすい人間へ変わるはずもない。

 何より、集中力が続かなかった。

 過去に発生した特殊能力事件の報告書を読ませれば、三行も進まないうちに視線が窓の外へ逃げていく。現場へ出る際の基礎知識を説明していても、いつの間にか紙の余白へ正体不明の動物を描いている。危険物へ不用意に近づいてはいけないと真剣に教えれば、その場では神妙な顔で頷くくせに、直後には目を輝かせて言った。

「爆発したら、すごそう」

「すごそうじゃない!死ぬのよ!」

「ヨシエさんも?」

「私もよ!」

「ユウイチさんも?」

「場合によるわよ!」

「キョウコさんは?」

「今のアイツはぬいぐるみだから知らないわよ!」

 すると、少し離れた机の上からキョウコがすかさず声を上げた。

「私も爆発はイヤだよー!」

「アンタは話に入ってくんな!」

 そんなやり取りが、一日に何度も繰り返された。

 ヨシエは毎日のように怒鳴った。

「話を聞け!」

「聞いてるよー」

「じゃあ、今何て言った?」

 ユミは少しだけ考え込んだ。

「ヨシエさんは怒ると丸い」

「誰が丸いのよ!」

 ヨシエが怒鳴る。

 ユミが笑う。

 その笑顔を見て、ヨシエはさらに腹を立てる。

「笑うな!」

「だってヨシエさん、面白いんだもん」

「私はアンタを楽しませるために怒ってんじゃないのよ!」

「じゃあ何のため?」

「教育よ!」

「教育って怒ることなの?」

「アンタが言うこと聞けば、私だって怒らないわよ!」

「じゃあ、聞くー」

「最初からそうしろ!」

 もちろん、その決意も長くは続かなかった。

 五分もすれば椅子を離れ、勝手に冷蔵庫を開けようとする。止めれば今度は机の上のキョウコへ手を伸ばし、持ち上げようとする。それも阻止すれば、今度は窓際へ行き、通りを歩く犬を見つけて「あ、犬ー」と完全に意識を奪われる。

 ヨシエは一日に何度、頭を抱えたかわからなかった。

 こんな女の教育係を自分に押しつけたトンダを、本気で恨みかけたことさえある。

 それでも、不思議なことがひとつあった。

 どれだけ怒鳴っても、ユミは翌日になると、また当たり前のようにヨシエのもとへやって来るのだ。

「ヨシエさーん」

 朝、事務所へ入ってくるなり、まっすぐこちらへ近づいてくる。

「今日は何するの?」

「……昨日教えた続きよ」

「昨日、何したっけ?」

「そこから!?」

 嫌味を言っても、怒鳴っても、時にはかなりきつい言葉で突き放しても、ユミは離れていかなかった。

 もちろん、怒鳴られた瞬間には怯えることもある。肩をすくめ、目を丸くし、少しだけ距離を取る。

 だが、それが長く続くことはなかった。

 翌日には、何事もなかったような顔で笑いながら近づいてくる。

「ヨシエさん、おはよー」

 昨日、自分を散々怒鳴りつけた人間へ向けるものとは思えないほど、屈託のない笑顔だった。

 ヨシエは最初、その態度が気味悪くて仕方がなかった。

 人間というものは、嫌われれば離れていくものだと思っていた。

 少なくとも、ヨシエのこれまでの人生ではそうだった。

 怒鳴れば怖がられる。睨めば避けられる。感情をぶつければ、そのぶんだけ相手は遠ざかる。

 それが当たり前だった。

 家族はヨシエを腫れ物のように扱った。

 学校の同級生たちは、機嫌を損ねないよう一定の距離を置いた。

 企業へ所属しようとしても、危険な能力と扱いづらい性格を理由に拒絶された。

 ヨシエ自身も、いつしかそれでいいと思うようになっていた。

 自分から離れていくなら、勝手にすればいい。

 どうせ他人など信用できない。

 どうせ最後には離れていくのなら、最初からこちらが嫌ってしまえばいい。

 期待しなければ、失望もしない。

 ずっと、そうやって生きてきた。

 なのにユミは、離れなかった。

 叱られても、次の日にはまた来る。嫌味を言われても来る。「鬱陶しいから向こうへ行け」と追い払われても、しばらくすれば何食わぬ顔でまた隣に座っている。

 それが、ヨシエには理解できなかった。

 普通なら嫌になるはずだった。怖くなって、距離を置くはずだった。もう話しかけたくないと思うはずだった。

 だが、ユミにはそういう発想そのものがないように見えた。

 もしかすると、本当に前の日に怒られたことを忘れているだけなのかもしれない。

 今のユミなら、十分にあり得た。

 記憶を封じられ、精神も幼くなっている。昨日の怒りを今日まで引きずらないだけなのかもしれない。

 それでも、ヨシエにとっては同じだった。

 理由が何であれ、何度突き放しても戻ってくる人間というものを、彼女はほとんど知らなかったからだ。

 遠ざけても来る。怒鳴っても来る。

 嫌われるような態度を取っても、それでも「ヨシエさん」と呼んで近づいてくる。

 そんな相手をどう扱えばいいのか、ヨシエにはわからなかった。

 最初は、ただ鬱陶しかった。

 次第に、困惑するようになった。

 そしてその困惑の中へ、本人ですらまだ名前をつけられない何かが、ほんの少しずつ混じり始めていた。

 ユミという存在は、ヨシエ自身が思っている以上にゆっくりと、けれど確実に、彼女の内側へ入り込んでいった。


 ある日の午後。

 ユミは机に向かい、ヨシエに言われた通り、簡単な書類を書く練習をしていた。

 特殊能力事件の現場で使う、ごく基本的な報告書だった。今のユミに複雑な内容を書かせるのはまだ難しいため、まずは現場名や発生日時、能力の種類といった決められた項目を埋めるところから教えている。

「ヨシエさん」

「今度は何よ」

「これ、どうするの?」

 ユミが用紙の一か所を鉛筆の先で指した。

 ヨシエは椅子を少し寄せ、横から覗き込む。

「そこは現場名。こっちが発生日時。で、ここには相手が使った能力の種類を書くの」

「ここ?」

「違う。そこは担当者」

「じゃあ、こっち?」

「そう。そこ」

「ふーん」

「ふーんじゃない。覚えなさい」

「はーい」

 ユミは素直に鉛筆を動かし始めた。

 もっとも、書かれた文字は相変わらずひどかった。

 枠から平然とはみ出している。文字の大きさも揃っておらず、一文字だけ妙に大きかったかと思えば、その次は潰れそうなほど小さい。まっすぐ書いているつもりなのだろうが、行そのものが少しずつ斜めへ傾いている。

 ヨシエは眉をひそめた。

「汚い字ね」

「読めるからいいじゃん」

「よくない。書類なのよ。自分だけ読めればいいものじゃないんだから、もう少し丁寧に書きなさい」

「ヨシエさんは?」

「何が?」

「字」

 唐突に言われ、ヨシエが眉を寄せる。

「私の字が何よ」

「きれいだね」

「……は?」

 思わず聞き返した。

 ユミは何でもないことのように、用紙の横に置かれたメモを指差した。

 そこには、説明のためにヨシエが書いた見本が並んでいる。

「ヨシエさん、字きれい」

「……普通よ」

「きれいだよ」

「だから、普通だって言ってるでしょ」

「でも私よりきれい」

「アンタと比べたら、大抵の人間はきれいよ」

「すごーい」

「褒めてないから」

 ヨシエが呆れて言うと、ユミは特に気にした様子もなく、再び書類へ視線を戻した。

 何文字か書いてから、また口を開く。

「私もヨシエさんみたいに書けるようになるかな」

「練習すればね」

「じゃあ練習する」

「……そうしなさい」

「はーい」

 それだけだった。

 ユミにとっては、その程度の会話だったのだろう。

 褒めたという意識すら、もしかすると大してなかったのかもしれない。ただ目の前にある文字を見て、きれいだと思った。だから、そのまま口にした。

 そして言い終われば、もう次のことを考えている。

 ユミは何事もなかったように鉛筆を動かし始めた。

 だが、ヨシエだけは、しばらく動けなかった。

 ――字がきれい。

 たった、それだけの言葉だった。

 大したことではない。誰にでも言える。

 そもそも褒め言葉と呼ぶほどのものなのかさえわからない。

 それなのに、ヨシエにはどう返せばいいのかわからなかった。

 人から褒められることに、慣れていなかった。

 もちろん、これまで一度も評価されたことがないわけではない。

 能力が強いと言われたことはある。

 重力操作の精度を評価されたこともある。

 仕事ができると言われたこともあった。

 だが、そうした言葉には大抵、その後ろに別の意味がついて回った。

 ――強いから使える。

 ――役に立つから必要だ。

 ――能力が危険だから扱いには注意しろ。

 褒められているように見えても、そこには必ず何らかの評価があった。

 能力者として優秀か。仕事上、使える人間か。味方に置いておく価値があるか。あるいは、どれほど警戒すべき危険人物なのか。

 他人から向けられる言葉には、いつも何かしらの尺度がつきまとっていた。

 ヨシエ自身も、それが普通なのだと思っていた。

 人間が誰かを褒める時には、たいてい理由がある。

 機嫌を取りたい。好かれたい。何かを頼みたい。関係を悪くしたくない。

 そうした意図が、どこかに含まれているものだと思っていた。

 だが、ユミの言葉には何もなかった。

 ヨシエの機嫌を取ろうとしたわけではない。何かを買ってほしいわけでもない。褒めたあとで頼み事をしようとしている様子もない。まして、ヨシエに好かれるために言葉を選んでいるわけでもなかった。

 ただ、きれいだと思った。だから言った。

 それだけだった。

 あまりにも単純で、あまりにも無防備だった。

 ヨシエには、その方がかえって扱いづらかった。

「……変な奴」

 気づけば、小さく呟いていた。

 ユミが顔を上げる。

「何か言った?」

「何でもないわよ。手を止めるな」

「はーい」

「あと、そこ。また枠からはみ出してる」

「ほんとだー」

「笑ってないで直せ!」

 ユミは消しゴムを手に取り、書き直し始めた。

 ヨシエはその横顔を一瞬だけ見つめてから、気づかれないうちに視線を逸らした。

 こういうことが、時々あった。

 ユミは何の気なしに言葉を投げる。

 本人は言ったことさえすぐ忘れてしまう。

 けれど、その何でもない一言を、ヨシエの方はいつまでも気にしてしまう。

 特にそこに悪意も、打算も、何の計算も含まれていない時ほど、どう受け取ればいいのかわからなくなる。

 そして、そのたびに、自分の中にあったはずのユミに対する感情が、ほんの少しずつ、以前とは違う形へ変わっていくような気がしていた。


 別の日。

 特殊対策室が能力訓練に使用している施設で、ユミは制御訓練を受けていた。

 コンクリートで囲まれた無機質な空間には、人型の標的が一定の間隔を空けて並んでいる。分厚い壁や床には、これまでの訓練でついた焦げ跡やひび、抉れたような傷がいくつも残されていた。一般人が見れば事故現場と勘違いしそうな有様だが、強力な特殊能力者が力を試す場所としては、これでも十分に頑丈な方だった。

 ヨシエは少し離れた場所に立ち、腕を組んでユミを見張っていた。

「いい?目標だけ狙いなさい。出力は抑える。いきなり全力で撃つんじゃないわよ」

「はーい」

「その返事、まったく信用できないのよね……」

 ヨシエがぼやいた、その直後だった。

 ユミの手元に白い光が集まり始める。

 最初は小さな輝きだったものが、瞬く間に強さを増していく。空気が僅かに震え、眩しさにヨシエが目を細めた。

「ちょっと、溜めすぎ――」

 言い終わるより早く、白い光線が一直線に放たれた。

 本来なら、人型標的の中央を正確に撃ち抜くはずだった。

 だが、わずかに軌道が逸れる。

 光線は標的の肩口を削り、そのまま背後の壁へ直撃した。

 轟音が訓練場に響き渡った。

 硬いコンクリートが砕け、焦げたような臭いが立ち込める。壁の一部は黒く焼け、その中央には大きく抉れた跡が残っていた。細かな破片がぱらぱらと床へ落ち、薄い煙がゆっくりと天井へ昇っていく。

「バカ!」

 ヨシエの怒声が、先ほどの轟音に負けない勢いで響いた。

「出力を考えろって言ったでしょ!そんな撃ち方して、味方まで巻き込むつもり!?」

「ごめーん」

「ごめーんじゃない!」

 ユミは怒鳴られても、そこまで堪えた様子を見せなかった。

 むしろ自分が開けた壁の穴をしげしげと眺め、なぜか少し満足そうに頷いている。

「でも、すごい穴あいたね」

「感想そこ!?」

「強かったー」

「だから強すぎるって言ってんのよ!」

 ヨシエは額を押さえた。本気で頭が痛くなってきた。

「いい?現場にいるのは敵だけじゃないの。一般人もいる。私たちだっている。今みたいなのを何も考えずに撃ったら、敵を倒す前に味方を吹き飛ばすわよ」

「うん」

「本当にわかってる?」

「わかってるよー」

「その顔がわかってないのよ。じゃあ次は?」

 ユミは指を折るように考えた。

「弱く撃つ」

「そう。それと、撃つ前に周囲を確認する」

「はーい」

「ちゃんと覚えなさいよ」

「覚えたー」

 そこでユミは、ふと何かに気づいたように首を傾げた。

「……でもさ」

「何よ」

「ヨシエさんが横にいたら、大丈夫でしょ?」

「……何でよ」

 予想もしなかった言葉だった。

 ヨシエが訝しげに眉を寄せると、ユミはごく当たり前のことを説明するような顔で答えた。

「守ってくれるから」

 ヨシエは、一瞬だけ言葉を失った。

 あまりにも自然に言われたからだ。

 冗談ではない。機嫌を取ろうとしている様子もない。褒めれば怒られずに済むと計算したわけでもなかった。

 ユミの中では、ヨシエが自分を守るということは、疑う必要すらない事実らしかった。

「……守るわけないでしょ」

「えー、守ってくれるよ」

「守らない」

「守る」

「守らない!」

「絶対守る」

「何でアンタが決めるのよ!」

 ユミは楽しそうに笑った。

 そして、少し考えたあと、もっと簡単な解決策を思いついたように言った。

「じゃあ、私がヨシエさん守るー」

「はあ?」

「ヨシエさんが危なくなったら、私がこうやってバーンってする」

 ユミは両手を前へ突き出し、先ほどの光線を撃つ真似をした。

「アンタが私を守れるわけないでしょ!」

「守れるよー」

「自分の光線すらまともに制御できない奴が偉そうに言うな!」

「じゃあ練習する」

「最初からそのための訓練でしょうが!」

 ユミはけらけらと笑った。

「何笑ってんのよ!」

「ヨシエさん、やっぱり面白い」

「殺すぞ!」

 ヨシエは怒鳴った。

 だが、怒鳴りながら、胸の奥に張りついていた重たいものが、ほんのわずかに薄くなっていることには気づかなかった。

 自分は、マチヤユミを憎んでいる。そのはずだった。

 むしろ、憎んでいなければおかしいのだと思っていた。

 キョウコの肉体が失われる原因となった女。

 街ひとつを消し去った「怪物」。

 そして、自分自身が取り返しのつかない罪を犯した、あの夜の中心にいた存在。

 だから嫌いでいる方が自然だった。

 顔を見るたびに腹を立て、恨み続けている方が筋が通る。そう思っていた。

 だが、毎日顔を合わせ、毎日世話を焼き、毎日のように怒鳴っているうちに、その感情だけでは収まらなくなっていた。

 ユミは、どうしようもなく面倒くさい。

 無邪気で、危なっかしい。集中力がなく、常識も足りず、放っておけば何をしでかすかわからない。

 子どものように菓子を欲しがり、くだらないことで笑い、人が真剣に説明している最中にどうでもいい質問を挟んでくる。

 そして時々、とんでもなく失礼だった。

 ヨシエの体型を平気でからかう。怒っている顔を見て面白いと言う。勝手に持ち物へ触る。何度注意しても同じような失敗を繰り返す。

 本当に腹が立つ女だった。

 けれど、それと同時に、ユミはヨシエを必要とした。

「ヨシエさん」

 毎日のように、その名を呼ぶ。

 わからないことがあれば、まずヨシエを探した。

 困ればヨシエのところへ来る。

 何か失敗すれば、怒られるとわかっていてもヨシエに聞く。

 不安なことがあれば、その傍に寄ってくる。

 そして今では、自分が危険な目に遭えばヨシエが守ってくれるのだと、何の疑いもなく信じている。

 ヨシエには、それがひどく不思議だった。

 これまでの人生で、誰かからこれほど無防備に頼られた記憶はほとんどない。

 強いから利用されたことならあった。優秀だから必要だと言われたこともある。その能力を警戒され、怖がられ、距離を置かれたことなら何度もあった。

 けれど、

 ――この人なら守ってくれる。

 そんなふうに、理由も条件もなく信じられた経験はなかった。

 その信頼は、ヨシエ自身が思っているよりずっと深いところへ入り込んでいった。キョウコの肉体を失ったことで空洞になった胸の奥へ、少しずつ、少しずつ。

 ヨシエはずっと、罪悪感の底に沈んでいた。

 放っておけば一日中でも、あの日のことを考えていられた。

 自分は何をしたのか。なぜ、あんなことをしてしまったのか。

 もし、あの瞬間へ戻れたなら。

 もし、嫉妬しなければ。

 もし、ほんの一瞬だけでも自分を抑えられていたなら。

 どれだけ考えても答えの出ない問いを、頭の中で何度も何度も繰り返していた。

 そこへ、ユミが遠慮なく入り込んできた。

「ヨシエさん、お腹すいた」

「ヨシエさん、これわかんない」

「ヨシエさん、暇ー」

「ヨシエさん、遊ぼー」

「ヨシエさん、キョウコちゃん寝ちゃった」

「ヨシエさん」

「ヨシエさーん」

 静かに落ち込んでいる暇すら与えてくれなかった。

 一人で考え込もうとすれば、話しかけてくる。

 ぼんやりしていれば袖を引っ張る。

 一人になりたい時に限って隣に座り、どうでもいい話を始める。

 くだらない質問をして、怒らせて、困らせて、振り回してくる。

 それは、慰めなどという上等なものではなかった。励ましですらない。

 ユミ自身、ヨシエを救おうとしていたわけではないだろう。

 ただ、ひたすら鬱陶しかった。

 だが、その鬱陶しさが、結果としてヨシエを罪悪感の中へ沈み続けることから引きずり出していた。

 気づけば、以前より声を出すようになった。怒鳴るようになった。嫌味を言うようになった。他人の言葉へ腹を立てるようになった。

 少し前までは、何を言われても俯いていた。

 でも、今は違う。

 腹が立てば腹を立てる。気に入らなければ文句を言う。

 それは、以前のヨシエなら当たり前だったことだった。

 ある日など、ユミに「丸い豚さん」と呼ばれた瞬間、反射的に椅子から立ち上がり、そのまま逃げる彼女を事務所中追いかけ回した。

「待てや!クソガキ!」

「きゃー!豚さん怒ったー!」

「誰が豚よ!」

「じゃあ、ヨシエさん!」

「呼び直しても遅い!」

「ごめんなさーい!」

「笑いながら言うな!」

 二人は机の周りをぐるぐると走り回った。

 ユミが逃げる。ヨシエが本気で追いかける。

 椅子を避け、ソファを回り込み、ユミがキョウコの置かれた机の陰へ逃げ込む。

 その様子を、キョウコは少し離れた場所から眺めていた。

 星形の眼鏡をかけたぬいぐるみの顔に表情は浮かばない。

 それでも、その声はどこか満足そうだった。

「カモイちゃん、元気出てきたねー」

 ヨシエは足を止め、肩で息をしながら振り返った。

「誰のせいで苦労してると思ってんのよ!」

「ユミちゃんのおかげ?」

「アンタとクソメガネのせいよ!」

 書類を読んでいたトンダが顔を上げた。

「俺まで入れるな」

「元はと言えば、アンタが私を教育係にしたんでしょうが!」

「事実だけど、今の話には関係ないだろ」

「あるわよ!」

 キョウコが楽しそうに身体を揺らした。

「責任転嫁できるくらい元気になった証拠だねー」

「黙れ悪霊!」

「ほらほら、いつものカモイちゃんだー」

「ブッ潰すぞ!」

 ヨシエが怒鳴る。ユミが笑う。キョウコも楽しそうに笑う。

 少し前までの特殊対策室にはなかった騒がしさだった。

 事件の直後、この場所には息が詰まるような沈黙が漂っていた。

 誰もが何かを失い、それについてどう言葉を交わせばいいのかわからなかった。

 今も、失ったものが戻ったわけではない。

 何かが解決したわけでもない。

 それでも少なくとも、ヨシエの怒鳴り声が戻っていた。

 トンダも、そんな彼女を見て、わずかに安心しているようだった。

 もちろん、それを口にすることはなかった。「元気になったな」と褒めることもない。大げさに喜ぶような人間でもない。

 ただ時折、ヨシエがユミを怒鳴りつけている時、キョウコとくだらない言い争いをしている時、トンダの視線が、ほんの少しだけ穏やかになることがあった。

 ヨシエには、それがわかった。わかってしまうからこそ、腹が立った。

 自分だけ何もかも見透かされているようで気に入らない。

 あの男の思惑通り、自分が少しずつ元に戻っていることを認めるのも癪だった。

 けれど同時に、そんな自分を見て、トンダが少しだけ安心している。

 そのことが、ほんの少しだけ嬉しくもあった。


 ある日の夕方。

 その日の特殊対策室には、久しぶりに穏やかな空気が流れていた。

 窓の外では日がゆっくりと傾き、向かいの建物の窓ガラスが淡い橙色に染まっている。昼間ほど仕事の電話も鳴らなくなり、事務所には紙をめくる音やペン先が走る音、それから時折聞こえてくるキョウコの呑気な欠伸が漂っていた。

 ユミはヨシエの隣に座り、報告書を書く練習をしていた。

 もっとも、練習と呼べる状態が続くのは、長くても五分ほどだった。

 しばらく真面目に鉛筆を動かしていたかと思えば、突然手を止める。鉛筆を机の上で転がして、その行方をぼんやり眺める。消しゴムの角を指で潰す。窓の外を鳥が横切れば、それだけで完全に意識を持っていかれる。

 そのたびに、ヨシエの眉間の皺が少しずつ深くなった。

「ちゃんと書きなさい」

「はーい」

「その『はーい』、絶対聞いてない返事でしょ」

「聞いてるよー」

 ユミはとりあえず視線だけを報告書へ戻した。

 ヨシエは疑わしそうに目を細める。

「じゃあ、次の欄には何を書くの?」

 ユミはしばらく用紙を見つめた。真剣に考えているような顔をしている。

「……好きな食べ物?」

「違う!」

 ヨシエの怒声が事務所に響いた。

「どの報告書に好きな食べ物を書く欄があるのよ!」

「親睦会とか?」

「これは現場報告書!」

「じゃあ、現場で食べたもの?」

「食い物から離れろ!」

 ユミは堪えきれないように、けらけらと笑った。

 少し前までなら、その笑い声を耳にするだけで、ヨシエの胸の奥には濁った感情が湧き上がっていた。

 何も覚えていないくせに、何も知らないくせに、どうしてそんなふうに笑えるのか。

 そんな思いが、無邪気な笑顔を見るたびに胸を刺した。

 今も腹は立つ。だが、その理由はずいぶん単純になっていた。

 ――単純に、こいつが腹立たしい。

 それだけだった。

 そのことが、ヨシエには以前よりずっと楽だった。

「笑ってないで書く!」

「はーい」

「だから、その返事!」

 ヨシエがまた怒鳴る。

 ユミは楽しそうに笑いながら鉛筆を握り直した。

 それから数行ほど書いたところで、ふと思い出したように顔を上げる。

「ねえ、ヨシエさん」

「今度は何よ」

「ユウイチさんと結婚しないの?」

 事務所の空気が、一瞬だけ止まった。

 紙をめくる音まで途切れる。

 少し離れた机で書類に目を通していたトンダが、ゆっくりと顔を上げた。

 机の上にいたキョウコも、ぴくりと身体を動かす。

 ヨシエは数秒間、そのまま固まっていた。

 だが、やがて何事もなかったように姿勢を正した。

 腕を組み、妙に堂々と胸を張る。

「もうしてる」

「してねえよ」

 間髪入れず、トンダが否定した。

「してる」

「してない」

「心の中ではしてる」

「俺の心にはない」

「私の心にあるから成立してる」

「一方的すぎるだろ」

 トンダが呆れたように眼鏡を押し上げる。

 ユミは二人を交互に見比べ、それから素直に頷いた。

「そうなんだー」

「納得するなよ」

 トンダがすぐに訂正する。

「してないからな」

「でも、ヨシエさんはしてるって言ってるよ?」

「してない」

「じゃあヨシエさん、嘘つき?」

「嘘じゃないわよ!」

 ヨシエが机を叩いた。

 ユミはますます混乱したように首を傾げる。

「じゃあ、ユウイチさんが嘘つき?」

「嘘つきなのはこの豚だ」

「黙れクソ眼鏡!」

「ほら、すぐ暴言」

「アンタが先に豚って言うからでしょうが!」

 二人のやり取りを机の上で聞いていたキョウコが、とうとう堪えきれなくなったように笑い始めた。

「カモイちゃん、相変わらず強引ー」

「アンタは黙ってろ、正妻ヅラした悪霊」

「正妻だもーん」

 キョウコは得意げに小さな身体を揺らした。

「戸籍上も気持ちの上でも正妻だよー」

「死んでるでしょ!」

「死んでも正妻!」

「意味わかんないわよ!」

「愛は肉体を超えるのだー!」

「うるさい!除霊するぞ!」

「きゃー、ダーリン助けてー!」

 キョウコは机の上をぴょんぴょんと跳ねながらトンダの方へ寄り、そのまま彼の腕へ飛びつこうとした。

 トンダは片手で軽く押し返す。

「自分で何とかしろ」

「冷たーい!」

 キョウコは大げさに後ろへ倒れ込み、ショックを受けたように机の上へ転がった。

 それを見たユミが声を上げて笑う。

 ヨシエはなおもキョウコへ悪態を吐き、キョウコは面白がって言い返す。トンダは心底面倒そうな顔をしながらも、本気で二人を止める様子はなかった。

 いつの間にか、事務所には騒がしさが戻っていた。

 そのことに、ヨシエはふと気づいた。

 自分が怒鳴っている。キョウコが笑っている。トンダが呆れた顔で口を挟んでいる。ユミは何がそんなに面白いのかもよくわかっていないくせに、楽しそうに笑っている。

 少し前までなら、考えられなかった光景だった。

 もちろん、何もかもが元通りになったわけではない。以前と同じ日々が戻ってきたわけでもない。

 キョウコの肉体は戻らない。ヨシエが犯した過ちも消えない。

 あの日の出来事は、これから先も彼女たちの中に残り続けるのだろう。

 完全に消えることなど、きっとない。

 それでも、彼らはまた、同じ場所で騒いでいた。

 互いに罵り合う。呆れる。笑う。くだらないことで本気になって怒る。

 傷が消えたわけではない。

 壊れたものを抱えたまま、どこか歪な形のまま、過ぎ去ったあの日だけを見つめ続けるのではなく、少しずつ次の日へ進み始めていた。

「ヨシエさん」

「何よ」

「報告書、ここわかんない」

「さっき教えたでしょ!」

「忘れたー」

「アンタねえ!」

 ヨシエはまた怒鳴った。

 ユミが楽しそうに笑う。

 少し離れたところで、キョウコまで笑っている。

 その声を聞きながら、ヨシエは誰にも気づかれないように、小さく息を吐いた。

 胸の奥に巣食っていたものが消えたわけではない。

 それでも以前より、ほんの少しだけ、呼吸が楽になっていた。


 そして、現在。

 秋を迎えた特殊対策室は、相変わらず騒がしかった。

 窓の外では、夏の名残を洗い流すような乾いた風が吹いている。街路樹の葉は少しずつ色を失い、夕方になれば、少し前までとは比べものにならないほど早く空が暗くなるようになった。

 季節は確実に進んでいる。

 だが、事務所の中だけは、そんな移ろいなどほとんど関係ないようだった。

 誰かが喋る。誰かが怒鳴る。誰かが余計なことを言い、そのせいでまた誰かが怒る。

 いつもの特殊対策室だった。

「ねえ、ヨシエさん」

 ユミが唐突に声を上げた。

「何よ?」

 ヨシエは、手元の報告書から目を離さないまま返事をした。

 今では、ユミが書いた報告書を確認することも、すっかり日常業務のひとつになっていた。

 誤字を直す。書き忘れた項目を指摘する。意味の通らない文章を書き直させる。そして、用紙の隅に描かれた落書きを見つけては怒鳴る。

 そんな時間が、いつの間にか当たり前になっていた。

「ユウイチさんと結婚しないの?」

 ヨシエの手が止まった。

 近くにいたマキバダイスケも、思わず顔を上げる。少し離れたところにいたカマタリョウガは、何かを察したように「ああ、出たな」と小さく呟いた。ヤマナシアズミもスマートフォンをいじったまま、ほんの少しだけ口元を緩めている。

 彼らにとっては初めて聞く話でもなかった。

「……」

 ヨシエは数秒黙った。

 それから、昔とまったく同じように腕を組む。

 そして妙に堂々と、胸を張った。

「もうしてる」

「してねえよ」

 間髪入れず、トンダが否定した。

「してる」

「してない」

「実質的にはしてる」

「実質も形式もしてない」

「心の中ではしてるのよ」

「俺の心にはない」

「私の心にあるからいいのよ」

「よくねえよ」

 トンダは呆れたように眼鏡を押し上げた。

 もはや反論することそのものに疲れているような顔だった。

 ユミは二人を交互に見たあと、納得したように頷く。

「そっかー」

「納得するな」

 トンダが少し疲れた声で言った。

「でも、ヨシエさんが結婚してるって」

「してない」

「じゃあヨシエさん、嘘つき?」

「嘘じゃないわよ!」

 ヨシエが即座に怒鳴る。

 ユミは首を傾げた。

「じゃあ、ユウイチさんが嘘つき?」

「嘘つきなのは、この豚だ」

「黙れクソ眼鏡!」

「ほら、すぐ暴言」

「アンタが先に豚って言うからでしょうが!」

 いつものような応酬が始まった、その時だった。

 トンダのデスクの上にいたキョウコが、ぴょん、と小さく跳ねた。

「ねえ、子豚ちゃん」

「誰が子豚よ!」

「ダーリンと本当に結婚したいなら、結婚していいよ」

 その一言で、事務所の空気が止まった。

 ヨシエが固まる。

 マキバも、ヤマナシも、カマタも、揃ってキョウコへ目を向けた。

 つい先ほどまで自分の仕事をしていた者たちまで、何となく手を止めて会話へ意識を向けている。

 冗談にしては、少しだけ聞き流しづらい言葉だった。

 トンダだけが、ほんの僅かに目を伏せた。

「……おい、キョウコ」

「だってさー」

 キョウコは、あくまでいつもの軽い調子を崩さなかった。

「私、今ぬいぐるみだし。戸籍上どういう扱いになってるのかも正直よくわかんないし。それにカモイちゃん、ずーっとダーリンのこと好きじゃん」

 星形の眼鏡をかけた顔を、ヨシエの方へ向ける。

「だから別にいいよ。結婚しても」

「……何言ってんのよ」

 ヨシエの声が低くなった。

 怒っているようにも聞こえた。だが、それだけではなかった。

 いつものようにすぐ怒鳴り返さず、キョウコの真意を探るように見つめている。

「本気?」

「うん」

「本当に?」

「本当に」

 キョウコは、ぬいぐるみの短い両腕をいっぱいに広げた。

「カモイちゃんがダーリンと結婚したら、私が正妻で、カモイちゃんが第二夫人ね!」

「ふざけてるじゃない!」

「半分ね」

「半分は本気なのが余計に腹立つわ!」

 ヨシエが怒鳴る。

 キョウコは楽しそうに身体を揺らした。

 だが、その次の瞬間、ヨシエは不意に静かになった。

「……」

 目の前にいるキョウコを見つめる。

 星形の眼鏡をかけた、奇妙なぬいぐるみ。

 短い手足。柔らかな布でできた小さな身体。

 以前の面影など、外見にはほとんど残っていない。

 それでもヨシエの目には、時折、あの日までのキョウコの姿が重なって見えることがあった。

 鮮やかな赤い髪。人目を引くほど整った顔立ち。誰にでも馴れ馴れしく、底抜けに明るく、どこまで本気なのかわからない軽口ばかり叩いていた女。

 それでいて、誰よりも強かった女。

 自分が嫉妬した相手。憎んだ相手。殺そうとした相手。

 その結果、肉体を失わせてしまった相手。

 そして、そんな自分を、それでも許した相手。

 しばらくして、ヨシエはゆっくり口を開いた。

「……嫌よ」

「えー?」

 キョウコが露骨に不満そうな声を出す。

「せっかく正妻が許可してるのにー」

「それが嫌だって言ってんのよ」

「何でー?」

「アンタに譲られるみたいでムカつくの」

「めんどくさー」

「うるさい」

 ヨシエは腕を組んだ。

 それから、少しだけ顎を上げる。

 ひどく彼女らしい、不遜で負けず嫌いな姿勢だった。

「私はね」

 真正面からキョウコを見る。

「アンタに、本当に勝ってから結婚するの」

 事務所が、再び静かになった。

 だが、今度の沈黙は先ほどとは少し違っていた。

 キョウコも一瞬だけ、身体の動きを止める。

「……勝つって?」

「全部よ」

「全部?」

「そう」

 ヨシエは迷わなかった。

「能力も。仕事も。女としても。全部」

「……」

 キョウコは少し黙った。

 それから、くすくすと笑う。

「子豚ちゃんらしいねー」

「その呼び方やめろ」

「でもさ……」

 そこで、キョウコの声がほんの少しだけ柔らかくなった。

「私に勝つの、大変だよ?」

「知ってるわよ」

「私、めちゃくちゃ強いし」

「知ってる」

「美人だし」

「自分で言うな」

「頭もいいし」

「そこまで言う?」

「しかも、死んでもしぶとい」

「そこは本当に迷惑」

「ひどーい」

 キョウコは楽しそうに笑った。

 それから、ほんの僅かな間を置いて言う。

「……でも、応援してるよ」

 ヨシエは、一瞬だけ言葉に詰まった。

「……何よ、それ」

 キョウコの声は明るかった。

 昔から変わらない。どんなことでも最後には冗談にしてしまうような、軽い声。

 だがヨシエにはわかった。

 今の言葉だけは、冗談ではなかった。

「だってさ」

 キョウコは続ける。

「カモイちゃんが私に勝とうとしてる間は、元気でしょ?」

「……」

「怒って、喧嘩して、偉そうなこと言って、ダーリンにまとわりついて」

「最後の余計でしょ」

「そういうカモイちゃんの方がいいもん」

 キョウコは、けらけらと笑った。

「だから、ずっと元気でいなよ」

 ヨシエはすぐには答えなかった。

 視線を逸らす。胸の奥に、じんわりと熱いものが広がっていく。

 以前なら、そんな感情を覚えたこと自体に苛立っていただろう。

 今だって、素直に受け取るのは癪だった。まして、感謝など口にする気にもなれない。

「……言われなくても元気よ」

「ならよし!」

 キョウコが元気よく跳ねた。

 その時、それまで黙って話を聞いていたトンダが、静かに口を開いた。

「……ちなみに、俺の意思はどこにあるんだ?」

「ないわよ」

 ヨシエが即答した。

「あるわけないじゃん」

 キョウコも当然のように続ける。

 トンダは二人を見比べた。

「なぜ?」

「アンタは賞品よ」

「ダーリンは景品だから」

「人権は?」

「ない」

「ないよー」

「お前ら、ひどいな」

 トンダは珍しく、本当に少しだけ困った顔をした。

 それを見ていたユミが、楽しそうに笑う。

「ユウイチさん、大人気だねー」

「困ってるんだよ」

「よかったね!」

「よくねえよ」

 その少し離れた場所から、ナガヤマミナミがぼそりと呟いた。

「……地獄の三角関係」

 一瞬の間があった。

 それから、事務所に笑いが広がる。

「誰が地獄よ!」

 ヨシエだけが怒鳴った。

 ナガヤマは何事もなかったように視線を逸らす。

 ヨシエは、ふん、と大きく鼻を鳴らすと、自分の席へ戻った。

 キョウコはトンダのデスクの上で、満足そうに小さな身体を揺らしている。

 トンダはそんな二人を見ながら、困ったように眉を下げていた。

 けれど、その表情はどこか穏やかだった。


 マキバダイスケは、その光景を少し離れたところから静かに眺めていた。

 カモイが怒鳴り、キョウコが笑い、トンダが呆れたような顔をしている。

 傍から見れば、ただ騒がしいだけの光景だった。

 けれど、今のマキバには、以前とまったく同じようには見えなかった。

 ――やはり、この場所はおかしい。

 改めて、そう思う。

 特殊対策室は、決して優しい人間ばかりが集まった場所ではない。むしろ、一般的な意味で善良とは言い難い者の方が多いのかもしれない。

 倫理観のどこかが欠けている者もいる。

 自分たちの側にいない人間に対しては、驚くほど冷酷になれる。

 能力の弱い者を平然と見下す者もいる。役に立たないと判断すれば、救う価値すらないような態度を取る者さえいる。

 正義を掲げているわけでもない。誰もが平等に救われるべきだなどという、美しい理想を信じているわけでもない。

 少なくとも、世間が想像するような正義の味方ではなかった。

 それでも、一度自分たちの内側へ入れた相手に対してだけは、彼らは異様なほど執着した。

 死にかければ助ける。壊れれば拾い上げる。

 間違えれば容赦なく罵倒し、時には本気で傷つけ合う。それでも、簡単には見捨てない。

 許せないことがあっても、憎むことがあっても、関係そのものを断ち切ることだけは、なかなかしない。

 むしろ、一度仲間だと認めた相手ほど、逃がそうとしないようにさえ見えた。

 外にいる者には、残酷なほど冷たい。

 内側へ入った者には、息苦しいほど深く執着する。

 それを救いと呼んでいいのか、マキバにはまだわからなかった。

 もしかすると、地獄に近いのかもしれない。

 守られる代わりに、簡単には逃げられない。切り捨てられない代わりに、こちらからも簡単には切り離せなくなる。

 救いと地獄が、まるで同じ輪郭をしている。

 そんな奇妙な場所だった。

 マキバは、そのことを少しずつ理解し始めていた。

 そして、理解しているにもかかわらず、いや、理解してしまったからこそなのかもしれない。自分自身もまた、いつの間にか特殊対策室の内側へ深く入り込みつつある。そんな感覚が、確かにあった。

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